水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
売れる商品を作ってないんじゃないの

商売が繁盛する要因は、いくつかあります。
〇流に乗っている事
▲灰好肇僖侫ーマンスのいい商品を作り、または扱っている事
お客様を大事にする事

もちろんこれ以外にも、あれこれ細かく言えばありますが、
ざっと大きくはこんなところでしょ。


1の、時流に乗るというのは、かつてあまり重きを置かれませんでしたが、
昨今の社会情勢の激しい展開では、
その時の、いわば波に乗るというのが大きな要素になっていると思うんです。
食べ物屋の話になるんですが、
かつては、「のれん」なんてことが幾分か商売繁盛の要素になっていました。
その昔、うちのお店で調理師をしてたものが独立することになったのです。
当時、我が店では資金的にもあまり余裕が無く、資金面での支援ができませんでした。
そこで、彼の業績を何とか評価したいと考え、我が店名を名乗ることを薦めたのです。
いきなり何とかという店を開店させるより、少しは知られていた店名を名乗る方が、
幾分かのアドバンテージが得られるだろう、と考えたからです。
まあ、その時代ですから、それなりの効果はありました。
いわば「のれん分け」と言うやつです。
しかし、昨今では、この、のれんの効用と言うのはほとんどなくなってしまいました。

むしろ、新しい店名だと、どんな店だろう、と興味を持たれるようで、
新規開店でも、それなりのPRをすれば、開店当初でも
十分にお客さんがやってくるのです。


時流と言うのは、むしろ、その時の流行ものだとかを巧みにとらえることです。
スマホをはじめ、情報化が進んできたとなれば、ホームページ程度ではなく、
しっかりとした、即時的な情報がやり取りできるようなシステムを持つことでしょうね。
カードの支払いが、簡単にできるようにするなんて言うのも、時流の一つでしょうね。
実際の話ですが、私らの飲食業では、何か連絡をしようと思っても、
FAXのない店はかなりありますし、パソコンで、メールで書類添付ができない、なんて店はざらなんです。
したがって、スマホすら持っていない店主が結構いるので、
このご時世生き残れるのか、なんて心配をしてしまいます。
まあ、しょせん店主が高齢化し、否応なしに現役引退となったら、
お店を閉めるまでのことです、と、結構あっけらかんとしているので、
何とかしたほうがいいですよ、と言いつつも、仕方ないか、で諦めてしまうんですね。
正に、時流放棄です。

 

2のコストパフォーマンスですが、
これは、当然ですが、安くていい商品がいい。
安かろう悪かろうでは意味がない。
3年前にある大型家具店で、ダイニング用のイスを2脚買いました。
まあ、わが家用なんで気張ることもないか、と、比較的安いランクのものを買ったんです。
で、ここに来て、その椅子のビニールレザーの張物が、もろけてきて、
表面がぱらぱらと禿げはじめたのです。
まあ、擦れて取れるだけならともかく、尻について、歩き回るところに
その破片が落ちるんですね。
点々とゴミとして。
3年持たないの?と思うでしょ。
こんなイス聞いたことない。
私は、家具作りが趣味なんですが、自分で作ったイスの方がよほどしっかりしています。
そこで、クレームの電話を入れたのですが、
まあ、保証期間1年が過ぎているので、どうしようもない、というわけです。
ちょっとばかりその対応に腹が立ちましたね。
つまり、一年以上たったら、うちの商品は保証しませんと言う事でしょ。
非常識な使い方ならともかく、普通にイスとして使ったんですけどね。
まあ、どう考えても「お値段以上・・・」なんて代物じゃねえ、と思いました。
確かに安い価格の椅子でしたが、安かろう悪かろう、と言うのも店の言い分ではないでしょ。
じゃあせめて、5年10年持つようなものを作り、相応の値段をつけることが大事でしょ。

基本はやはり品質ですね。


食い物屋で言えば、味です。
先日、さる仲間と忘年会で、新橋の中華料理屋さんで会食をしました。
8人ほど集まり、一室仕切られた小部屋で、丸テーブルを囲んだんです。
すでに、テーブルセットがしてあって、しゃれた金色のナイフォークとか、
箸置きとか、ナプキンもしゃれたおり方をしてあって、高級感漂っていたのです。
何しろ会費1万円ですから、庶民にしてみれば、わくわくの中華料理を期待するでしょ。
でも、食べ終わって印象に残っているのは、金色のナイフォークで、
しかも、それを使う料理は一品も出てもこなかったんです。
私はいつか使う料理が出てくるだろうと思っていたんですが、
結局箸で終わりました。
正直、料理に関する満足は半額以下でしたね。
大体、仕事が仕事ですから、出てくる料理はかなり詳細まで、記憶に残るのですが、
あんなに印象の薄い料理は初めてでした。
つまり、舌が少しも感動しなかったんですね。

 

で、三番目のお客を大事にしているかどうかです。
まあ、最近は標準的なマニュアルが浸透しているんでしょうから、
そこそこに客扱いが向上してきましたが、
まだまだ、これがサービス業でとる態度か、と言うところがあります。
特に、行政の窓口で、時々感じることがありますね。
まあ、以前からみれば、相当に改善されてきましたが。

 

これらのさまざまな要素で、客はお店や商品を選択するものです。
この原則を外れて、売れない原因を探っても解決はできません。

 

トランプ大統領が、アメリカの車が売れない、と大騒ぎをして、関税をかけるとか言ってますが、
アメリカの車が商品として魅力ないからでしょ。
関税なんて手段ではなく、
すぐれた商品を生み出すための支援を、国としてすべきでしょ。
なんか大きな勘違いをしていると思うんですけどね。

 

| 水嶋かずあき | グルメ | 11:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
いつの間にかリングサイド

私の自慢話の一つですが、今から45年前のことです。
まだまだ、世間ではそろばんから電卓に移り、手書きがブルーの感熱紙でのコピーの時代でした。
子どもの頃の太陽写真(と言ってもわからないか)の延長のようなコピー機のことです。
そう言えば、設計図面と言うと、このブルーの感熱紙が基本でしたね。
白い紙にコピーされるようになったのは、なぜかこの分野だけ少し遅れていた気がします。


ま、それはさておき、何世代か前の頃に、コンピューター時代が来る、と感じ、
突然とビジネスコンピューターの導入をしました。
いやいや、たかだか小さなうなぎ屋にしてみれば、とてつもない投資でした。
そもそもが、ビジネスコンピュータ―と言ってもそういう代物があった

と言うことさえ知らないだろうと思うのですが、

ざっと説明すると、
ちょっと大きめの事務机ぐらいの大きさのものに、フロッピーディスクのドライブ部分が組み込まれ、
天板部分には、キーボードが組み込まれているんです。
今だったらちょっとしたノートパソコンの機能の、何千分の1程度のものが、

事務机サイズのものに組み込まれているんです。
キーボードとモニター、プリンター、そしていわゆる電子計算機部分が収納されているんです。

容積だけ比較してもノートサイズが事務机サイズです。
文字は、24ドット×24ドット、ギザギザ文字でした。

でも、これを駆使すれば有効なデータが得られるはず、と、積極的な活用をしてきました。
しかし、技術の革新は著しく、5年もしないうちに、そのビジネスコンピューターは、
時代遅れの機械になってしまったのです。
当時の大卒の初任給2年分ぐらいの価格だったように思います。

 

ま、それからは、あれよあれよと技術革新は進み、スマホと言う携帯電話の方が、
ビジネスコンピューターより処理能力が高いという事ですから、
もう何をかいわんや、と言うくらいの進化ですね。

ついついこのあいだまで、目に見える範囲で飛んでいた鳥が、
いまや、雲の上にまで上がってしまって、
全然見ることができない。
いろいろ聞いても、頭がついていけない。

 

いやはや、とんでもない時代がきたもんだ、と思っています。
45年前のビジネスコンピューターの導入など、
単なる昔話にすぎなくなったわけです。
ほとんど博物館入りに近い状態でしょ。

 

こんなじじいにも、

どうも進化したとはいえ、決して望ましくない流れになっている、と漠然と感じるんです。
例えば、米中の貿易戦争と言われている、新たな衝突を見ていると、
何時の間にか、私達、つまり日本人は観客になっている、と感じるんですね。

 

例えばの話です。
ヘビー級の世界タイトルをかけたボクシングの戦いが、リングの上で展開されている。
青のコーナーはアメリカ、赤のコーナーは中国。
この間まで、世界ランクの上位で、ブイブイと肩で風を切っていた日本は、
今は静かに観客席でリングを見上げている。
果たして、アメリカが勝つのか、中国が世界を制するのか、と
固唾を飲んで見守っているわけです。

ま、中国はそれほど急激に力を付けてきたということですね。
今から20年前に中国に行ったときは、ある観光地の公衆便所では、
男女の区別なく、構造としては、ただコンクリートで溝ができているだけで、
左右の足場をまたぎ、そこをまたいで用を足していましたものね。
女性といえど、誰はばかること無く、尻をまくっているんです。
考えられないでしょ。


そんな国がいまや第5世代移動通信の主導権を握ろうとしているんです。

中国は鋭いストレートを打ち出してくる。
アメリカは、かろうじてダッキングしながらそれを避ける、という展開でしょ。
少なくとも、おそらく今後の通信界を制するのは中国になると思われます。
中米の戦いは、明らかに中国の優勢でしょ。


そうなると、すべての情報は中国が握ります。
怖いのは、覇権的な国家目標達成のために活用するに決まってますから。
残念ながら日本はその成り行きを見守るだけです。
観客席で。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
国名による国状

私たちの国の名前は、なんと言いますか、と、ばかばかしい質問ですが、これには、誰でも答えられます。
一応、一般的な主張としては、紀元前660年と言いますから、
今から、2678年前のことになります。
とは言え、2678年前にどれほど正確な記録が残されていたのか、と言うのは大いに疑問でしょ。
かといって、そうじゃないという反論も、これまたあまり意味がない。
そこで、この国は、少なくとも2678年ぐらい続いている、世界でもまれな歴史を持った国だ、
と言うことは言えると思うんですね。


では、かつてこの国を何と名乗ってきたのか、ですが、
これまたあれこれ説があるんですが、ぼやっとしていますが、ヤマト王権成立当たりが、
国家的な形態の胎動期です。
これは、4世紀から6世紀ごろにかけてのことです。
いわゆる大和朝廷の時代です。
ですから、国家らしい形態がこのころから、となると、紀元前660年は、
1000年以上前の事ですから、ほんとにその頃に建国されたのか、と誰でも疑問を感じるでしょ。
つまり何が証拠なんだ、というわけです。

したがってこの国の名前の歴史そのものがあいまいになるのですが、国の名前と言うのは、
外国等とのやり取りの中で必要になるもので、外交上なんと名乗るか、
またなんと呼ばれるか、と言う事が国名の存在理由の一つだったのです。
ですから、特に昔は、改めて国の中では、わたしたちの国の名前は、

みたいな呼称の統一と言うのは意識されてこなかったんですね。


実は驚くことですが、現在の日本でもなおかつ、
この国はなんという名前か、ということが、法的には規定されていないんですね。
例えばある種の集団では、企業などもそうですが、定款とか規約とかがあって、
その第1章では、組織名を明記して、何々と称する、と、必ず書くでしょ。
でも、この国の場合、日本国憲法と表記はしてあるものの、

この国を日本国と称する、なんで条項はないんですね。
ですから、その後の法文でも、自国を指す言葉としては、

「日本」「日本国」あるいは「本邦」などが使われていて、
統一されていないんです。

つまり、なんと名乗ろうと勝手なんですね。
これって、結構いい加減と言ううか、大雑把なところがある国だということです。

 

で、ヤマト王権以来、さまざまな呼称が用いられ、

特に中国との外交的なやり取りでは、わずかながら変化してゆきます。
倭の国、と言われたり、ヤマトと言ったりですね。
で、その後、日本と名称が頻繁に出てくるようになり、日本と言う国名が定着してゆきます。


そして明治憲法では、その表記に大日本帝国憲法と書かれます。
これでも正式に、大日本帝国、とする法文はなかったんですね。
つまり、憲法の書類的な表題に過ぎなかったわけです。
この時、なんて表記するんだ、ともめたそうです。
で、天皇陛下による統治を前提としていましたので、皇国と言う概念があったのですが、
まあ、その頃の諸外国の国名を参考にして、帝国、とすることにし、
大を付けようと言う提案がありました。
多少の反対があったようです。
いかにもそれじゃあ不遜すぎる。
自分を名乗るのに大はないだろうと。
結構謙虚でしょ。
しかし、伊藤博文が、大を付けろと一言。
で、大日本帝国憲法となり、国名は明記していなかったにもかかわらず、
我が国は、大日本帝国である、となったのですね。

 

さて、このいい加減な命名が、のちの悲劇を引き起こします。
つまり、帝国と言う概念にうつつを抜かして、
領土拡大を国是に一つと勘違いするんですね。
皇国だったら、そう考えたかどうか微妙です。
しかし、当時の諸外国の中では帝国と名乗る国が多かったのですが、
その国々のほとんどが植民地政策を掲げ、アフリカやアジアを支配下におさめ、
国力充実を計っていったのです。
つまり、帝国と言う概念には、他地域を支配し、拡大された国土を持つ国、という解釈があったのです。
正に侵略を是とした考え方ですね。
で、ヨーロッパ諸国は、アフリカ、アジア、南米など、次々と植民地化していったので、
じゃあ、日本だって、そうしようか、となり、

まずは、アジアの国々に対して植民地化してゆこうじゃないか、と。
何より、大日本帝国だから、というわけですね。


もっともそんな露骨な考えを表したわけではありませんが、
一応テーマとしては、大東亜共栄圏と言うものを作り上げよう、と考えたようです。
まあ、アジアはアジア人の手で、協調してともに栄えてゆこう、というわけです。

そして、朝鮮半島を併合しました。
まあ、吸収合併のようなものですが、実態は植民地化でしょ。
要は力での制圧に近いものですから。
その後さらに調子に乗って、満州に手を出し、さらには、中国に侵略してゆくわけです。
軍隊を送り込むんですから、これは間違いなく暴力による制圧を目指したわけでしょ。

ですから、これらの大日本帝国の名のもとに行われた帝国主義の実践において、
該当する国々に、それなりの圧力を加え、時に、死者をもだしてきたという事実は、
事実として認めるべきです。
まあ、大いに反省し、まさに恥ずべきこと受け止めるべきです。


周りがそうだから、と、日清、日露に勝った経験で、国際社会をなめてかかっていたんですね。

大日本帝国、と言う国名による歴史的な汚点でした。


そこで、心入れ替え、日本国憲法と、殊勝な表題に取りかえたわけです。


ちなみに英国は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国が正式名称です。
great、と自ら名乗っているんですね。
大英帝国と言う概念の名残りでしょうか。
さすがにこの時代、帝国と名乗る国は一つもありません。
日本をはじめ、そんなこと言っていた国は無くなったんですね。

 

何故か、お隣の韓国だけが、大韓民国、と大の字を付けて、国威を示しています。
もうこの国だけなんですけどね。
大とか形容詞を付けて、肩をいからして国名を名乗っている国は。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 12:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
日本の恥

人間は、まちがいなく集団で生活する社会的な動物です。

例えば、トラは、単独行動をとり、原則、集団での生活はしません。
一方、ライオンは集団で生活をし、単独で行動するのは、ごくまれな状況においてだけです。
それぞれにメリットディメリットがあるのですが、
長い年月の中で、そういう行動をとった方が子孫を残せたから、という結果のみが、現在につながっているのです。
トラは、集団で行動すると、集団全体を賄う餌を確保できなかったんでしょうね。
そこで、やむをえず、単独でも生き延びられる技を身に付け、それを特化させてきたわけです。
逆に、ライオンは、集団で行動したほうが餌を確保しやすかったのです。
そこで、そういう技を身に付けてゆく。


おおよそですが、単独型と集団型では、集団型の方が有利です。
ただ集団型は、一種の社会を構成するわけですから、集団内でのしきたりのようなものがあって、
これを受け入れないと、集団としての維持ができなくなる。

したがって、しきたりを破るものの存在は、集団自体の存亡にかかわるので、

厳しい対応をするわけです。

そして、コミュニケーションが重要なカギになるので、

個として、その能力を取得しないと、集団内でのポジションを得られなくなります。

これは、チンパンジーやボノボ、ニホンザルなどの集団行動を観察すると、
種によって多少の違いはあるものの、集団を維持することと、

個が集団に受け入れられるシステムは、ほぼ共通しているようです。

 

二足直立歩行するサルとして、5〜600万年前に、類人猿から分かれたのが、

私達の遠い先祖ですから、私達は、そもそも集団的な行動をする種だったわけです。

人類としての種は、様々な紆余曲折を経て、まさに栄枯盛衰を繰り返し、
絶滅したものもあれば、生きながらえた種もいます。
で、地球上で最後に残った人類は、私達ホモサピエンスとネアンデルタール人でした。
それぞれ、集団行動をしながら種としてはある程度栄ていたのですが、
あるころからネアンデルタール人の集団は、絶滅に向かいます。
が、なぜ絶滅したのか、と言う研究では、

その要因のキーワードに、コミュニケーション能力において、
ホモサピエンスが勝っていた、という報告があります。
食料を確保するのに、ホモサピエンスが勝っていて、

その能力が劣っていたネアンデルタール人は、環境の変化についてゆけなかった、と言うわけです。

これは、集団的行動を効果的に取ることにより、
生存競争に打ち勝ったのではないか、と言うんです。


つまり、コミュニケ―ションと言うのは、生存に関わる重要な能力なんですね。

このコミュニケーションの本質は、個と個、個と集団の相互の意志を確認するためのもので、
これにより、個は集団の中でのポジションを得る、

つまり、存在を認められると言う事になります。
トラではないので、単独行動では、生きてゆけない構造をすでに人間社会は築き上げてきたわけです。

と言うことはです。

反集団的、つまり反社会的な行動をとる個は、集団内で存在しずらいか、
存在を許されない、と言うことになります。

 

そこで、私達は、集団の中で生活できるようなさまざまな、有形無形の能力を身に着けてゆくわけです。
具体的は比率は分かりませんが、おそらくそのほとんどは、後天的に身に着けるもので、
その能力は、初期には、親から伝えられ、 学校や家庭での教育によって、培われてゆきます。
要するに教育、という概念です。

 

ま、およそありとあらゆる能力を習得してゆくんですが、
言葉がまずその重要な役割をします。
さらに、礼儀作法、エチケット、ルールなどの集団内での受け入れてもらえる作法を身に付けます。
併せて、相互に敬意を持ちあえるための価値観を植え付けられてゆきます。
教育勅語に出てくる、長幼の序の概念も、ある種の教育です。
目上の人を敬え、ということは、敬うことによる集団内への受け入れがされてゆく、と言う事でしょ。

 

自我と言うか、自己主張と言うか、これは生物体の個体が持っているDNAです。
これは、有能さ、特異性によって、認めてもらえる、と言う潜在的な欲求が表面化するものです。
もっとも、どのレベルの能力か、ということ端が判断するのですが、

先ずは、それなりのアピールをするというのは、
きっと本能的なものではないか、と私は考えています。
さ、そこでです。

この個のアピール、時に自己主張による存在感を表すということは、
十分な状況判断力を持っていないと、大半が失敗をし、かえって、マイナスの結果になりかねない。

 

最近テレビで見たんですが、
韓国でファーストフードのお店で、客が店員に買ったものを投げつけた、と言うシーンがありました。
併せて、中国で、70代女性と80代女性がイスを投げ合って

けんかしているというシーンがありました。
ちょっと日本ではなかなか見ない光景ですが、
これらは、自己主張の表現方法の一つです。
まあ、失敗例なんですが。

 

そこで、集団内で身に着けるべきことの重要な要素の一つが
「はじ」の概念です。
日本では、この感覚が優れていると思うんですが、
その概念をしっかりと持っていることで、
不用に大騒ぎをするというようなことはないと思うんです。
世間体と言うか、社会性と言うか、いすれにしても恥という感情が、

穏やかなコミュニケーションンを作り出しているんですね。

 

先日入管法が改正されましたが、そこで新たに、日本に働きに来ている外国の人たちが、
不当な扱いを受けたり、嘘か本当か、不慮の事故やら時に死亡に至るケースも多く、

これは、幸せを求めて日本にやってきたのに、
その意にそぐわなかったという事でしょ、

 

これは日本のはじですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
天災・人災

漫才のコンビは、その昔、対になるような芸名を付けていました。

古いところで、コロンビア、トップ・ライト、星セント, 星ルイス

オール阪神・巨人、青空千夜、青空一夜、今いくよ、今くるよ、ビートたけし、ビートきよしなどなど。

でも、天災、人災なんて名前を付けたら、先ず売れないでしょうね。

縁起でもない、とか言われて。
 

さて、私は平塚八幡宮で、わずかな期間でしたが、総代を務めさせていただきました。
神社と氏子さんたちの中間的な立場で、神社の諸行事に率先して参加し、
神社の運営に、手助けをし、それなりの意見を言う、と言う役割でしょうか。
毎月1日と15日に神前に参拝をします。
二礼二拍手一礼の所作を繰り返し行うので、新参の総代は、基本的な所作を学びます。
まあ、見様見真似と言いますが、ある程度は身に付くものです。

一番の違いは、礼の角度でしょうか。
30度、45度、90度と場面場面でお辞儀の角度が変わります。
ただ深々とお辞儀をすればいい、というもんでもないんですね。
で、月に2度は、神前に参拝し、その都度祝詞を聞くわけですが、
八幡様では、総代は、共に祝詞を合唱することになっています。
書いてあるものを読み上げるのですが、ただ聞くだけとは大違いで、
内容の理解の仕方が、深くなってゆくんですね。
で、祝詞の内容は、おおよそですが、災いがありませんように、とお願いします。
この災いとは、人によって微妙に異なるのですが、
まあ、一言で言えば「いやなこと」です。
これが大きくなったり、連続したりすると、きっとストレスがたまって、

体調でも崩すかもしれない、と言うたぐいのことです。

ですから、災いとは、きわめて身近に存在してるんです。
というか、潜在的なものもあって、ある時突然表面に出てくる。
まさに、ヘルペスのようなものです。

 

今年の漢字が発表されました。
「災」だそうです。
その昔は、五穀豊穣、無病息災、家内安全など、神前で願ったり、
土地土地で風習化され、一種の祭りごととして、地域全体で、祈ったりしてきました。
基本は、豊かな実りを得られますように、というのと、
災いが降りかかることが無いように、ということの2大願望の成就がテーマです。
ちなみに、ハロウィンの起源は、紀元前2世紀半ばの中央ヨーロッパの古代クルド人の風習の一つで、
五穀豊穣、無病息災を願ったものと言われています。
仮装をして、ちゃらちゃらと渋谷に出向いて大騒ぎをすることとは、全くと言っていいほど縁がないことです。

 

さて、こう考えると、古今東西、人々は災いがないことをひたすら願っていたことが分かります。
主には、天災でしょうね。
今年の災いのイメージの底辺にあったものは、大坂の北部地震、北海道の胆振東部地震、
7月西日本豪雨、さらには大型台風の連続での襲来、夏の猛暑、と、
自然の驚異に振り回されてきました。

 

ですから、「災」と言うイメージなのでしょうが、
忘れてはいけないのが、相変わらず人災が多いということです。

 

人災には、二種類のものがあります。
一つは、うっかりミスとか、認識の甘さとかが原因で、災害を引き起こしてしまうもの。
火事がいい例ですね。
自動車事故なんかもそのうちでしょうか。
もう一つは、悪意が根底にあって、悲劇を引き起こすものです。
高千穂の一家惨殺事件など、人の悪意が一家を大きな災いに巻き込んでしまったわけですね。
あおり運転で、両親が亡くなった高速道路上での事故がありましたが、
これなんか、典型的な悪意が作り出した災いの一つです。

 

まあ、考えてみると、これに近いことは年がら年中起きているような気がするんですが、
それだけに災いを避けるようにと、月二回も祈るんでしょうね。

人災で最もひどいことが、凡たる能力で、為政を進める政治家による災いです。
国民をすっかり巻き込んでのことですから、しっかりしたかじ取りが必要でしょ。
冷静に考えれば、1941年12月の真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争も、
人災の一つでしょ。
最悪の人災です。
誰かの判断ミスで、300万人を超える国民が命を失ったんですから、
伊勢湾台風とか、関東大震災とか、東日本大震災と下で失われた人命をはるかに超える規模の災害です。
こう考えると、自然災害である天災より、人災の方がはるかに恐ろしいことですね。

 

「今年の漢字」は、国民からの応募で決められるきわめて民主的は選択手段で決められます。
高輪ゲートウェイとは大違い。
19万を超える応募から2万秒余りを獲得したのが、災いだそうです。
まさに国民の実感なんでしょうね。
今年はこうだったね、という、マイナスのイメージがあるときは、
来年は何とかもう少しよくなればいい、と願う、そういう意味もある今年の一字の漢字です。

 

その意味で、来年は、まさに災いの少ない年であることを祈念します。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
おならの話

私は、ブログを書き出す前に、当然ですが、文全体の構成を考えます。
まあざっとですが。
その前段階で、基本として何がテーマかを決ます。
そして、ある種のネタ探しとして、ネットをあれこれチェックするのです。
時事ものもあれば、政局がらみのものもあれば、時に、哲学的な啓発を受けるものもあります。
ま、いずれにしても、アンテナに引っかかったものと言うことです。
したがって、潜在的には、かなりの数の潜在的なテーマの卵を抱えていて、
外部からの刺激で、初めて孵化するんですね。

今日のテーマもその一つ。


たまたま、ネットをうろついていたら、おならに関する文章に出会いました。
つまり、こう書き出したということは、おならに関する卵を温めていた、ということですね。
ま、テーマがテーマですから、孵化させるタイミングと言うのがそうは巡ってくるものではありません。
でも、今日は、その外的刺激があったので、取り上げてみようと思ったわけです。

外的刺激は、フリーライター 宮崎智之さんによる
「オナラの礼儀作法、思わずしたとき・されたときのベストな対応」と言う文です。

 

さて、おならに関する思い出(と言うか?)は誰にもあると思うんですね。
まあ、大体が苦い経験です。
そもそも人間なんですから、クソションベンをしない人はいないし、おならもしない人はいない。
もしかすると、多い人、少ない人の差はあるかもしれませんが。
量もそうですし、臭さ加減もいろいろ変化があって、
ひどくくさい時は、やはり健康上微妙によくない時なんでしょうね。
これは、体質もあると思うんですが、量に関して、何らかの測定方法があるわけじゃありませんし、
病院に行って、私の屁量を測定して下さい、なんて人もいないし、病院でもそんなことしない。
大体、臭いものなので、おならでいい人間関係が築けたなんて話は聞いたことがありません。

 

でも、唯一、おならを歓迎する瞬間があるのですね。
ある種の消化器系の手術の後、おならが出ると、回復への第一歩ということで、
放った本人も、医師、看護師の方々も喜んでくれるので、これは罪悪感はありません。
よかったですね、ぐらいのことを言いてもらえますしね。
まあ、唯一、おならが褒められるのは、この時ぐらいでしょうか。

 

以前、読んだことがある笑い話。
ところはアメリカ、時は西部開拓の頃。
駅馬車に乗り合わせた品のいい紳士と従者。
向かいにはこれまた品のいいお嬢様とその母親らしき二人連れ。
ごとごとと揺られて、何時間も続く駅場車の旅。
ふとした瞬間に、そのお嬢様がぷっとおならをしてしまったんですね。
狭い駅馬車ですから、音は聞かれてしまっています。
お嬢さんはしまったと思い、自分の右腕に唇をつけ軽く息を吐きました。
腕はそれでぷっと音を立てたんですね。
まあ、さっきの音はこういう風に出したんだ、というわけです。
前に座っていた紳士は、お嬢様にこう言います。
音はそれでいいのですが、匂いはどうしますか、と。

 

同じく駅馬車の話です。
登場人物は紳士と従者、そして、中年の奥方二人連れの4人です。
しばらく駅馬車が進むと、揺れのせいもあったのだと思うのですが、
奥方の一人が、盛大な音でおならをします。
もう隠しようがない。
奥方はあわてて、すいません、私は月に一度だけなんですが、

こう言う生理現象が起きるんです、としどろもどろに言い訳をします。
紳士は、まあ、確かに誰にでもあることですから、気になされないで下さい、ととりなします。
と、また続けて、大きな音でおならをしてしまいます。
紳士は、穏やかに笑みを浮かべて、これは来月分ですかね、と。

 

まあ、こんな話はともかく、私の失敗談です。
湘南電車に乗った時です。
かなり込んでいて座ることができませんでした。

そこからはなんとなく勘で、早めに降りそうな人に目星をつけてその近くを陣取ります。
もし、つぎで降りればその席は自分が座るぞ、ということです。
目星をつけたのは、4人ボックスの通路側に座っている中年のご婦人でした。
背もたれ、ひじ掛けに寄りかかるように、通路に向って立っていたのですが、
その時、屁意を催したのです。
そう言えば、尿意とか便意という言葉はありますが、屁意なんて言葉はありませんね。
ま、意味は分かるでしょ。
で、催したものですから、力を抜いてそおっと放出したのです。
要するにすかしっぺですね。
で、その直後とてつもない悪臭が漂ってきたのです。
思いもよらぬレベルのものでした。
相当体調が悪いんだな、とか勝手なことを考えていたのですが、
まだ到着駅のはるか前なのにも拘わらず、席に座っていたご婦人が立ち上がり、
隣の車両に移動してしまったんです。
いや、きっと耐えられない臭さだったんでしょうね。
もちろん、私ですなんて名乗るわけもありません。

せっかく座っていたのに、その場を離れざるを得ないほどの悪臭だったわけです。
申し訳ない気持ちもありましたが、かといって、私が悪うございました、とも言えないでしょ。


私は空いた席に座ることができましたが、何とも気まずい気持ちを感じながらも、
座れたラッキーも味わっていました。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
若者言葉

今時の若いもんは、などと書きだすこと自体、老化現象の一つだ、
という自覚は十分に持っています。
でも、やはり黙っているわけにはいかない、と言うのが本当のところ。
それは、話し言葉のことです。

 

日本語は、おそらく世界の各国の言語の中で、
もっとも激しく変化する国語の一つだと思います。
もちろん、私は言語学者でも無いので、確たる裏づけはないのですが。

大学時代、比較演劇論と言う授業がありました。
それは、似たような演劇形態の中で、国や文化や言語などの違いから、
二つの演劇形態を比較検討するという授業です。
で、印象に残ったもので、近松門左衛門とシェークピアを比較する、

と言う授業内容があったんですね。
どちらも、日本、イギリスを代表する優れた劇作家です。
この授業の中で先生がこんなことを言いました。
今、君たちは、近松を読もうとしても、訳語なしで、読めないだろう、と。
まあ、確かに、江戸中期の歌舞伎狂言の作品を、およそ300年前のものとはいえ、

古典の領域に入っているので、普通には判読できません。

 

で、シェークスピアは、およそ400年前に活躍した人。
ざっと、100年の差があります。
この400年前に書かれた原作を、イギリスの人は、オリジナルで読めるのだそうです。
日本人は300年前の作品は、オリジナルでは読めない。
これは英語と日本語の変化度の差によるんですね。
つまり、日本語は変化が激しい。
300年経ったら、それは今の人の言葉ではなくなってしまうんですね。


実は昔から、日本語は、変化し続けてきたようです。
ですから、言語に関しては、そういう文化を持っているので、
時代時代で、どんどんと新しい言葉が登場し、変化し、継承され、
さらに時間の経過で変化する、という、極めて代謝の激しい文化を持っているんですね。

ですから、今時の若者言葉に年寄りが違和感を感じるのは仕方ない状況なんです。
つまりそういう現象を繰り返してきたわけです。


私達だって、若いころは流行言葉を得意げに使い、
年寄りから眉を顰(ひそ)められてきたわけです。
石原裕次郎が、いかすぜ、とか言えば、みんないかすという言葉を使いました。
時に流行語大賞があれば、いかすが大賞を取っていたかもしれませんね。
ま、ともかくそういう文化の国なんだから、言葉の変化にあれこれ言うのは、
ちょっと抵抗があるんですが、それが、いささか引っかかり始めると、
これは年よりの癖なのか、どうも不快に感じてしまうんです。

 

先日、大学生が4人ほど乗った車が、あおり運転の被害を受け、
さんざ迷走しながら、博多署に逃げ込むという出来事がありました。
この一部始終が動画で録画されていて、これがテレビで流れたのです。
ガラス越しに追いかけてくるところや、真横で並走する所やら、
信号で止まるや、近づいてきて、窓をこんこん叩く音やら、
まあ、ともかくすっかりとその様子が録画されていたわけです。
で、気になったのが、車中でこの若者たちが、あれこれ言うんですが、
その大半が、やばい、やばい、やばいの連呼なんですね。
いやパニックなのはわかりますが、様々な状況が、ぜんぶ、やばい、なんです。
この4人組は大学生とのこと。
その程度のボキャブラリーなの、と。
10数分の中で、4人が口々にやばいの連発なんです。
いや、相当やばかったんでしょうが、
いささかその動揺ぶりより、単純な言葉の連発に驚いてしまいました。

 

やばいと言うのは、そもそもが大坂の言葉で「やば」が形容詞化したものだそうです。
さらに元をたどれば、盗人・香具師(やし)などの隠語だったそうです。
ま、意味としては、身に危険が迫るさま。
不都合が予想されるとか、凄い、という単純な形容とかですが、
問題は、肯定的な意味まで含まれるようになったことですね。
ラーメンをすすってそのうまさに、やばいですね、とか言う。
こうなると、ものすごい、と言う最上級の形容詞にもなるんですね。
やばいは、状況の悪さを表現するんであって、否定的な言葉です。
でも、やばいうまさとなると肯定。
ここがちょっと年寄りには理解しがたいんですね。
最近の若者言葉の特徴としては、肯定、否定の使い分けが混とんとしてきていて、
雰囲気をよく読まないと、どちらかわからない、ということがあります。

 

例えば、会合でも終わって、食事に誘ったとします。
飯でも食いに行こうか、と。
すると、大丈夫です、と答えます。
と、これは腹が空いていないので、食べなくても大丈夫なのかな、と思いますでしょ。
食事をしようと言う誘いに対する否定です。
また、一方で、一緒に食べに行っても大丈夫です、とも取れる。
これは肯定でしょ。
で、じじいとしては再確認をするんです。
一緒に行くのか、行かないのか、と。
 
それとよく聞くのが、めっちゃ、という言葉です。
元は大坂言葉で、これがテレビなどで関西系の芸人さんたちが多用するので、
広まったようなんですが、
大本は、滅茶苦茶がそのオリジナル。
その前半部分を取って、めちゃが単独で言われるようなったんですね。
ちょっと前まで、とてもすごいという意味の「超」という言葉がはやっていましたが、
ともかく、最上級の状況を表現するのに、
超とか、めっちゃ、とかを使うんですね。

これはボキャブラリーの不足でしょ。
そう言う形容詞で何かと表現を済ませるという事なんですから。

ま、見様によっては日本の言語的な文化を、

今の若者も守っていくれている、ということになるんでしょうか。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
丸腰

我が家では、テレビのよくサスペンス物のドラマをよく見ます。
科捜研の女とか、相棒とか、そこそこの女優さんが主役の事件解決型のドラマなどです。
併せて、ケーブルテレビでは、アメリカの刑事もののドラマもよく見ます。
要は、両方とも、事件が発生して、それをいかに解決してゆくか、というストーリーです。
ちょっとしたスリリングな場面と、謎解きの妙などがうまく組み込まれた、ほぼ1時間の物語です。


で、日米を比較すると、歴然とした違いがあります。

まず日本ですが、殺人が行われるその方法なんですが、私の感覚的判断によるランキング。
1位、包丁で腹を刺す。
2位、石とか花瓶とか、鉄パイプで、後頭部を殴る。
3位、階段、または屋上から突き落とす。
4位、押し倒したら打ち所が悪く、それが死因となる。
5位、のどを締め、窒息死させる。
ごくまれに、毒を盛って殺す。
といったところでしょうか。

 

アメリカのドラマでの殺人の方法。
同じく、感覚的判断によります。
1位、ピストルで射殺する。
2、3,4位が無くて、
5位、ナイフで刺す。
これは包丁ではありません。


ともかく圧倒的に、ピストルが登場します。

そこで、犯人逮捕のためにどういう行動をとるか、と言う比較をすると、
日本の場合、ごく数人で、犯人宅に乗りこみ、抵抗すれば力ずくで抑え込む。
アメリカの場合、何人かで、犯人宅に乗りこむけど、
この時、当然のように銃を構え、幾分か身を低くしながら、一列になって家の中を進む。
途中、部屋ごとに分かれ、捜索をし、誰もいないと、クリアーと声を掛け合う。
で、犯人がいた場合、当然のようにピストルの撃ち合いになる。
したがって、犯人の50%はその場で射殺される。
おおよその感覚ですが、犯人がピストルを持っていない確率は極めて低いですね。
ですので、この場合、犯人は生きたまま確保される確率が高いのです。

 

ま、どうでもいい分析ですが、
少なくとも、日本の事件ものでは、警察が犯人宅に入ってゆくときに、
ピストルを構えながら入る、という場面は100%ありません。

ここなんですね。
悪い奴は、どこでもいるんですね。
で、これを何とかしようと、警察が動く。
でも、アメリカじゃあピストル無しでの捜索活動はありえないんです。
だって、相手がピストルを持っているからです。
逆に、犯人がピストルを持っていなければ、撃ち合いにはなりません。

 

話は変わります。
あの安倍さんが、再選された時、意気揚々と宣言したのが、
今度こそ、憲法を改定する、と言いましたが、
最近、ここらがトーンダウンしたようです。
おそらく、議会内での3分の2の読みがばらけてきたんでしょうね。
まあ、そういう戦略的な事はともかくです。
これほど何度も何度も憲法改正を提起しているということは、法規的な整合性で言ったら、
どこか微妙な違和感があるわけでしょ。
だから、すっきりさせたい、と。


実態は、まあ、憲法改定議論と言うより、自衛隊認知方法の議論です。

少なくとも、自衛隊は国民に十分なほど認知されてきました。
およそ50年前、自衛隊などけしからん、平和憲法の精神を汚すものだ、
とまで言われて、国民の間では悪い印象を持つ人もいました。
その比率24%、つまり4人に1人が否定的だったわけです。
これが、ここにきて、なんと4%まで、下がってきました。
一方、良い印象を持っていた人は多く、50年ほど前は58%に過ぎなかったのに、
最近では、93%まで上昇してきたのです。
好感度がバリバリに向上してきました。


ところが、象徴的なデータがあります。
2015年のことです。
例の集団的自衛権が国会で容認された時です。
悪い印象と評価してきた人が、6%に上昇しました。
単純に1.5倍です。
逆に、良い印象を持ってきた人も89%に減少しました。

これは、軍隊と言えど交戦権が認められてこなかったことで、
ある種、平和維持活動をする組織、と言う認識があったかのです。
ところが、集団的自衛権を容認したことで、衣の下の鎧が垣間見えてしまったんですね。
そこで、敏感に反応した人たちがいたわけです。

 

何より露骨なデータがあります。
内閣府による世論調査なんですが、
「身近な人が自衛隊員になることの賛否」を聞いたところ、
「賛成」の人の割合が、この集団的自衛権の容認をした時期をまたいで、
72.5%から、62.4%に減少したのです。
まあ言いようによっては、我が子、我が兄弟を戦場に送り出すことになる、
という解釈をした人が多くなって、10%もの減少につながったんでしょうね。
災害時などの活躍として、親和性を持って受け入れられてきた自衛隊も、
戦争と言う場面が具体的になると、やっぱまずいんじゃないの、となるわけです。
正直な心でしょ。

災害時で被災者を助ける、と言う高貴な精神には協調できても、
理由はともかく、弾が飛び交い、時に殺されるか殺すか、と言う争いの場に、
身内を送り込むのは当然、躊躇するでしょ。

 

国防の必要性はだれもが認めるでしょ。
でも、それが状況次第で、他国への進出が可能だとしたら、
これは話が違うだろう、となりませんか。

 

安倍さんは、憲法改定にこだわる理由は、戦争をしたいのでしょうか。
国際関係での義理があって、そういうふりをする必要があるんでしょうか。
どうもここのところの本心が分からない。

ピストルが無ければ、撃ち殺されることはないでしょ。
でも憲法を改正して、ピストルを持てる、つまり攻撃性を強化する、
という方向を目指しているような気がします。


丸腰国家でもいいじゃないですか。
これ以上、軍隊化を増大させることもないじゃないですか。

憲法改定の本心は、きっと明かすことがないんでしょうね。
最近の政治は増々密室性と独善性が強くなってきました。
おおらかな議論なんて望むべくもないでしょうね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
俺のものでもあり人のものでもある

私が住んでいるマンションなんですが、
築15年と言うことで、大規模修繕を実施しました。
この大規模修繕を進める委員会を組織し、
今までのいきさつから、私がその委員長を受けることになったのです。
22階建てのタワーマンションですから、
何かと、その工事費も高額で、足を出さないかとひやひやしていたんですね。
一応、工事額プラス、予備費として工事額の10%を計上してあったので、
総体的には予算内に収まると思っていましたが、

出来れば、工事費は工事費内で収めたいと考えていました。
 

で、7月七夕終了直後から工事が始まり
進捗状態はまあまあで、おそらく年内で、工事は終了する予定です。
私の部屋は、4工区に当たり、最後の順番になったのですが、
昨日、目の前にあった足場が解体され、数か月ぶりに紅谷町の景色が展望できるようになりました。
いや、ほんと、久しぶりの窓に広がる景色です。
とは言え、ビルがごちゃごちゃ広がるという、味気ない景色なんですが。

 

で、この大規模修繕と言うことを経験して、いくつかの疑問が出てきました。
まず、巷間言われている12年インターバル説です。
12年経ったら、大規模修繕をする必要がある、という説です。
私はそういう法律でもあるのかと思って、いろいろ確認したのですが、
どうも、そういう説があるだけで、何の根拠もないということが分かりました。
つまり壊れてもいないのに、修繕するという事なんですね。


修繕とは、こわれているからする、と言うのと、
壊れないためにする、という2種類の考えがあるのですが、
素人には、壊れていないのにする、という感覚が理解できないんです。
例えば、うちのマンションは、駐車場が機械式なので、
いささかややこしいメカニズムで運用されています。
ですから、ちょっとしたことで、センサーが不調だとか、ああだこうだと
定期点検とか、修理が入るのですが、
ここにきて、コンピューターで制御するため、その耐用年数が来ているから、
取り換える、ということになったのですね。
で、何が根拠で耐用年数を決めているのか、という疑問に関しては
専門業者ですら具体的な根拠を示すことができないんです。

 

大規模修繕も同じで、なぜ12年なのか、という具体的な根拠はありませんでした。
そこで、私は、12年をできる限り引き延ばす作戦に出たのです。
マンションの管理会社も工事系の建築会社も、延ばすのはまずい、という積極的な意見は出しませんでした。
つまりそれぞれ担当の部署においても、そういえばなぜ12年なのか、という感じだったんですね。
単純な計算です。
たとえば、1億2千万円の工事費で、12年目に大規模修繕をしたとします。
すると、1年で1000万円積み立てなくてはいけません。
これを15年で工事をしたとすると、年に800万円積み立てなくてはいけません。
年間で、200万円少なくて済みます。
これは、無視できない数字でしょ。

たった3年伸ばしただけです。
工事費は、マンションの住民の懐から拠出され、積み立ててゆくものです。
ですから、あるものだから、いい、という考えはおかしい。
1円でも安く出来るような努力をすべきだ、と思うんですね。
そこで、まずは、単純に期間を12年から15年に引き延ばしたのです。
3年間延ばして、この間に何か不都合はあったか、とか、老朽化が進んだのか、
何てことは微塵も起こりませんでした。
せめて、3年前に手を付けていればこうはならなかったのに、なんてことは起きないんです。

 

着手寸前に、出てきたデータが、タイル部分は、3%の取り換えが必要、と言う事でした。
これは壁面をあるサンプリングをし、打診し、その結果を数値化したものです。
打診と言うのは、小さな金づちのようなもので、タイル面をたたき、
その音で浮いている、着いているを確認するのです。
その数が3%が浮いていると言う事でした。
そこで、旧来のものと同じ色合いにするため、試し焼き、と言うのをします。
数種類の色合いのものを焼いてみて、最も近いものを選びます。
そこで、何千枚だか、何万枚だかの事前発注をします。
で、もし、工事期間中に実際やってみて、足りなくなったとすると、
追加注文をするのですが、これはタイミングが悪いと、焼き上がりに時間がかかるので、
工事期間の延長になりかねない。
ですから、この3%については、
私はやたらと気を使い、年中足りそうかどうか確認をしたのです。

 

で、ふと気が付いたのですが、大規模修繕を着手するうえで、
3%と言う数字は多いのか少ないのか。
もし少ないとしたら、着手が早すぎた、ということになるでしょ。
15年ではなく、18年だったかもしれない。
となると、せこい話ですが、年の積み立てが、666万円で済むのです。
そう言うことを考え始めると、3%と言うことで着手する根拠が、ないことに気が付いたんですね。

これは、専門の誰に聞いても答えられないんです。


要は、建築業の中で、12年インターバルは勝手に一人歩きした数字で、
確かに20年説より、需要は増えるわけですから、
都合のいいところだったんですね。
現に、近隣のマンションでは、20年でやっているというところがありました。
だからと言って、崩れたりはしない。

きっとどこのマンションも、大規模修繕用に積み立てをしていると思うのですが、
不思議なことに、習慣的に月いくら、と支払っていると、これが当たり前になってしまうんですね。
そう言いうもんだ、と。
これがもし、修繕が発生するたびにその費用を集金すると、きっとあれこれ文句がでると思うんです。
なぜ直さなきゃいけないのか、と。

実は、この声の方が正しい。
なぜなら、積立金から支払うというのは、感覚的にもう人の金になっているんですね。
税金と同じです。

どう使われようが、それは、もう人の金なんですね。
だから、あまり違和感を持たない。

でも、都度、その金額を支払え、と言われたら、そこそこ抵抗が生まれるはずです。

 

マンションと言うのは、自分のものでもあり、人のものでもあるんですね。
ですから公的な感覚がないと、実はいくらでも無駄な金を支払ってしまう、と言う事なんです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ケツを拭くのは誰だ

日本と言う国は、衆議院、参議院の二院制による国会での決議により、右にも左にも舵を切ります。
言うまでもないことですが、国会議員の判断にゆだねた国家運営をしているということです。

 

で、一夜明け、改めて各テレビの朝のワイドでは、
入管法と、水道民営化の議決がなされた、という報道がありました。
常識では考えられない時間帯での可決です。
ま、尻に火がついたように、法案成立を急いだわけですね。
野党各党が、安倍政権に迫ってあれこれ質問し、
議論をけしかけましたが、例によって、与党は問答無用とばかり、
数に傘を着て法案を成立させました。

政治にど素人の私たちでも、伝えられる内容を聞けば、

いかにもずさんな提案であった、と言うことは明らかでしたね。


特に、外国人労働者の悲惨な実態がいくつか明らかになり、
日本での就業期間に、悲惨な死を迎えた人が60人余りいたとか。
命の問題にもかかわらず、その重要性を、総理大臣をはじめ、
与党側の関係者は、あまり感じていなかったようです。
結構、薄情な神経の持ち主だな、という印象を受けました。

また、野党の調査では、外国人労働者の平均賃金は、

400円台。

なにこれ、子どもの駄賃じゃないだろ、って感じでしょ。

いくらなんでも、このご時世に、かつてアフリカから

アメリカに連れ来られた黒人たちが、

綿畑で労働させられたに近い感覚じゃない。

奴隷じゃないだろ、と言いたくなりますよね。

なんか日本人もいざとなると、さもしい根性を丸出しにするんですね。

いや残念。


これらのデータを法務省が隠していた、と言うんですから、
行政府は、国民のための組織とは言えないでしょ。
どこだかからの圧力を形にする、いわば政権の忠犬ハチ公ですよね。
何しろ、法案の未熟さは、驚くほど雑なので、
提案した法務省もそれは感じているようで、
政令で細部を煮詰めてゆく、と言うんです。


今年の忘年会は、中華でも食べたいね、と大方が言ってるのに、
忘年会の開催は決定したものの、もしかしたら、イタリアンになったとしても、
誰も文句が言えないようなものです。
第一、政令の原案を作成し、それを了承するのは、
国会と言う、国民の信任を付託したところではないでしょ。
どう考えたって、官僚主体で細部を煮詰め、
ああするな、こうしろ、と細部にわたって指示、指導するんです。
これって、いつあんたに指導する権限を渡したのか、と言う事でしょ。

 

そして、同じように、十分な議論もないまま、水道民営化が可決されました。
これも、将来にわたって、水道料金が値上がりするんじゃないか、と言う不安があって、
かなり心配されていました。
ま、これは、公共的な機能として、かかるものはかかるわけで、
水道管が老朽化している、という現状では、そのコストを負担するのは当然でしょ。
ただ、負担額が、使う相手によって多少の増加、軽減をするようにし、
生活ギリギリの人を巻き込むのはよくないと思うんです。


電気料とか、水道料とかを滞納すると、ある限度の期間が来ると、
電気は止められるは、水道は止められるは、と、

まあこれも仕方ないことなんですが、そういう処置を取られます。
こう言う時でも、電気は早々に止められてしまいますが、

水道は、ぎりぎりまで期間延長をしてくれるそうです。
つまり、水は、生きるうえでの必要最低限のものだからです。
言い換えれば、命の源泉を、民間にゆだねて大丈夫なのか、という議論をもっとすべきでしたね。
そこのところの、判断基準をきっちりとロックしておくべきでしょ。
経営の簡素化の中には、時にそういう重要な判断があと回しにされる可能性がないわけではない。
当然市民の中には、不安を感じる人が出てくるでしょ。

 

まあ、今回の決議について、一言で言えば、「拙速」そのものです。
なぜ急いだのか。
それは、議員さんたちが、師走は地元で過ごしたいからです。
票をしっかりまとめている諸団体が、忘年会、新年会と、

年末年始にかけて開催され、議員さんは、来賓として顔を出し、

票固めをしたいところでしょうから、
ここは地元に張り付いていたい。


まあ、これはゲスの勘繰りでしょうか。
あの急ぎぶりはそんなことを想像させます。
そんな自分のご都合で、法律を決めて行っていいのでしょうかね。

 

入管法も、水道民営化も、国で決めて、地方で対処するものでしょ。

ケツを拭くのは地方行政体ですからね。
まあ、お気楽な判断ですよ。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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