水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
ネットよお前もか

私は、新聞を読むのが苦手なんです。
でも、時に、ふと新聞をとろうと思い立ちます。
で、契約します。

一応、三日目ぐらいまでは読むのですが、そのあと読まなくなってしまうんですね。
正に三日坊主なんです。
で、かみさんが、ただ積み上げられてゆく新聞の束を見て、
解約の電話を入れます。
勝手に解約するな、と文句を言うと、だって、読まないじゃない、と一言。
しばらくすると、と言っても一年以上の間があって、また読みたくなって契約します。
で、読まなくなって解約。
こんなことを3回もくりかえすと、さすが、新聞は縁遠いものになってしまったんですね。

 

したがって、私の朝は、ネットの検索です。

私のモニターには、yahooとmsnのアイコンがあって、二つの検索が可能になっています。
一つだけだと、偏っていたらいやだな、と思うので、せめて、この二つは閲覧します。
微妙に構成が違っているのですが、およそ8割はほぼ同じ内容のものが載っています。

そこで思うのですが、記事として掲載するんですから、誰か編集長的な人がいて、その人の意志のもと、
これは載せる、これは載せないという判断をするんでしょうね。
ま、新聞と同じことです。


右寄りの読売、左寄りの朝日みたいなもんです。
会社のオーナーの志向性、それによる人事としてそういう意向の編集長の選任。
その編集長による判断で紙面は構成されてゆくわけでしょ。
ですから、なんだかんだ公器を自認しつつも、結果としては色がついてしまう。
確かに国民を色分けしたら、左好みの人もいれば右好みの人もいます。
で、悪く言えばそれぞれにおもねりを持って記事を掲載している、ということになります。
ま、これはジャーナリズム的には、いささか問題があると思うのですが、

最後の最後はどのような論調を選択するのかは国民ですから、
偏りを、我が主張として、是とするなら、いつか新聞は見捨てられてしまうと思うのです。

よく、だから複数紙とってひかくしながらよまないといけないんだ、みたいなことを言う人がいますが、

本来的にジャーナリズムとしては、1紙でもしっかり機能している、

ということでなくてはいけないでしょ。

 

ま、ともかく、このような傾向は、ネットの世界でも存在していて、
様々に並んで表示されているタイトルなど見ていて、ネットの検索でも偏りがあるな、と感じるんです。
本来、公器としての検索エンジンであるべきなんでしょうが、
ある意味、ジャーナリスト的立場での主張という事なんでしょうか。

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ま、ところどころに広告と称する項目が掲載されているのは、問題ではないんですが、
どうしてこの記事を乗せているのか、ということを最近感じるようになりました。
つまり、yahooにしろmsnにしろ、同じ感覚を受けるんですね。
ちなみに、今朝のyahooです。
トップページの下に、全部で212の項目、記事が掲載されています。
当然ですが、そのないようは多岐にわたっています。

ある意味では右左混在しているんですね。
まあ、編集長としては、バランスを取っているつもりなんでしょうが、

時にこのバランスがくずれ、いかにも見え見えの編集と感じることがあるんです。

今朝の実態です。

この212項目のうち、なんと「麒麟が来る」に関する記事が30項目です。
たかだかテレビの番組に関しするレポートが30項目ですよ。
全体の15%。
多すぎませんか。
さらにその並べ方です。
どう考えてもはじめの方がインパクトがありますよね。
相撲の番付表みたいなものです。
横綱・大関からはじまって、幕内、十両と続きますが、
212項目並ぶうち、トップに近いほど目に付けてもらいたいわけでしょ。

つまりこの並べ順も併せて編集の意図です。
そこで、上位30項目を見てみると、なんと10項目が麒麟が来るなんです。
テレビの一番組に関わる話題としてはくどすぎますよね。

したがって、どれもほぼ似たり寄ったり。
まあこれは完全にNHKの番宣のお先棒を担いでいるとしか思えないんですね。
新聞と違って、うちの記事を閲覧するのは、ただなんだぞ、とでも言いたいのでしょうか。
ここまで露骨に偏ると、信頼をスポイルすることになりかねないでしょ。


新聞、ネット、さまざまな用法を伝える手段に対して、心から信頼できるものが少ないというのは、
正に民主主義崩壊の予兆か、と思わざるを得ません。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 07:17 | comments(0) | - | - | - |
坊主憎けりゃ袈裟まで

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
解説するまでもないのですが、
坊主が憎くなると、その坊主が身に着けている袈裟までも憎くなるということ。
つまり、憎いという対象はこじつけであっても広がってしまうもの、ということです。
類例に、親が憎けりゃ子供も憎い、というのがあります。
袈裟はともかく、子供にしちゃあいい迷惑ですよね。
ま、感情としては、恨みが根底にあって、正常な判断ができ無くなっていることを表します。

 

私達の暮らしの中で、さしたる根拠もないまま、マイナスの感情を持つ、と言うことはよくあることです。
きっかけとか、その感情の根底にあるものとか、整然と筋道だって分析できないものなんですが、
このことは、虫が好かない、とか表現されますが、
怖いのは、この悪感情を他から注込まれることです。

 

以前、平塚の農業主体の地域であるイベントをやったことがありました。
その時、地元の人たち何人かに参画してもらったのですが、
ポイントとなる場所があって、そこを借りられないか、という話になったんです。
すると、その時参画していた地元の人たちが、そりゃ無理だ、というんですね。
様子をよく聞いてみると、どうも近隣との人間関係が険悪らしい。
そもそもの原因は、曽祖父の代の時に、実に些細な理由で周囲と仲たがいをしたそうです。
で、以来、その家は、どんなことがあっても挨拶もしなきゃ、口も利かない。
これをその家に家訓のように伝承してきたんですね。
ひいじいちゃんのの頃のことを、子孫に言い伝えてきたわけです。
まあ、恨みの伝承とでも言いましょうか、これを教育するんです。

 

このようなことは確かにないわけではない。
でも、このことを国ぐるみでやるとなると、いささか常軌を逸していませんかね。

この類のニュースを読みました。

「米紙ニューヨーク・タイムズは、韓国に駐在する日系人のハリス米大使が口ひげを生やしていることに関し、
日本の統治時代に朝鮮総督の多くが口ひげを生やしていたのを想起させるとして韓国で批判が出ていると伝えた。」
これって韓国人のたぐいまれな感性ですね。
そういえば、日本の統治時代ということが原点ですよね。
これは1930年にはじまった韓国併合ということで、終戦までこの状態が続きます。
まあこれに関しては、韓国側の感情には様々なものがあることは理解できますが、
もしこのころの日本の朝鮮総督が髭を生やしていたとしても、
その風貌が、悪感情に結び付くという原体験を持っている人は、少なくとも80歳を過ぎているはずでしょ。
つまり、現在の韓国民の大半が、そんな経験はないはずなんです。
ということは、正に教育なんですね。
未経験者にあたかも経験したような感情を注ぎ込んできた結果なんです。

トランプ政権が日系人のハリス氏を駐韓大使に据えたことに対し、
韓国人の多くが「民族の誇りを傷つけられたと感じた」と。
「ハリス氏の母親が日本人だというだけでも、彼を嫌う理由としては十分だ」

とする発言も多くあったそうです。
正に、坊主憎けりゃ袈裟も憎いわけでしょ。
つまり、何の根拠も説明できないようなただの感情でものを言ってるわけです。
こういうことを言う人には、はっきり言って、理性や知性のかけらも感じないですね。


さらに、「これに対しハリス氏は16日、ソウルで外国記者団に、
日系人であるという人種背景で現地メディアから批判されている」と苦言を呈し、
さらに、ひげをそる予定はないとも付け加えた、そうです。

人の容姿、風貌にケチをつけるのは、

人間として最もレベルが低い発言である、と、私は以前から思ってきました。
ハゲとか、チビとか、デブとか、着ているものが趣味悪いとか、しょうがないことでしょ。
誰だって、好きでなったわけじゃない。
確かに髭は剃れば無くなりますが、これだってまさに、その人の自由でしょ。
現に、韓国の時代ドラマを見ていると、往時の高官は殆ど髭を生やしている。
極端な話、男は髭、という文化は、全世界的なものでしょ。
この流れの中で、感情としての体験すら持っていない人たちが、
統治時代の総督の風貌を思い起こさせる、というんでしょ。

韓国民の悪い感情が表れてしまいましたね。

 

私はしばしば考えるのです。

日本の国に原爆が2発投下され、広島・長崎併せて、およそ20万人が命を落としました。
感覚的には、空から降ってきた爆弾で命を落とした、ということなんですが、
これが地上の兵士によって、一般市民が命を落としたとしたら、正に大虐殺でしょ。
それでも日本人は、それを日本人的な感情の始末の仕方で、
プラスに転化し、以降のアメリカと協調的に国づくりを進めてきました。
要は前向きだったわけでしょ。
これには日本人の、水に流す、という性向が働いているんです。


韓国では恨みという性向が強いようです。
これはいくら積み重ねても前向きにはならない。

正直、ハリス大使に対する髭問題も、ごく一部の人のことではないか、と思うのですが、
国の風潮として、こう言う言論を表に出してくるというのは、
いかにもガバナンス力が希薄になりつつある、ということではないでしょうか。
ごく普通の感情の国民だって相当存在しています。
自分たちに悪感情のとばっちりが来ないように、

これらの人も、もう少し動く必要があるんじゃないでしょうか。
改めてですが、日韓の関係がこのままでいいかどうかは自明の理でしょ。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:43 | comments(0) | - | - | - |
オゲの大冒険

私の友人で「オゲ」と呼ばれている男がいました。
彼は、時々このブログを読んでいるそうで、この文を読んだら、
何らかの反応をしてくるかもしれません。

まあ、彼は私の周辺にいる人物としては、飛びぬけて変った男で、
よくいえば、豪胆、見様によっては夢想家で、常人の感覚では
推し量れぬような行動をするんですね。
暫く、我が店で調理師として仕事をしていましたが、
独立して市内で店を構え、さらに暫くすると、UAE・アブダビのホテルに、
出店することになります。
海外に単独で店を構えるという発想と、実際行動してしまう、というだけで、
十分驚きだったのですが、その後の行動が輪をかけて驚きの連続だったんですね。

彼が、時々日本に帰ってくると、その都度海外での経験談を聞かせてもらうのですが、
まるで、インディジョーンズの冒険談のような内容ばかりでした。
私のような肝っ玉の小さい男では、さっさと日本に帰国したくなるような出来事ばかり。
詳しくはスペースがないので、いずれ本人の了解がとれたら、

そのエピソードのいくつかを紹介したいと思っています。

 

今回の話は、おそらく彼の中でももっともドラマティックな出来事の一つです。

話を聞いた当時は、詳細を覚えていたのですが、いくらかボケもあって、
あいまいなところはご勘弁ください。
オゲはレストランの経営をしばらく続けていたのですが、その後、いろいろあって、
店舗を手放し、その頃は、海外でもブローカー的な仕事をしていたようです。

海外の商品を仕入れて、日本で売ったり、逆に日本のものを海外で売ったりしていたのだと思うのですが、
その時は、東南アジアのある国で、経済活動を進めていました。
どこだかの町に一室を借り、そこを根城に動いていたようです。

 

単身ですので、身の回りのことを面倒見てくれる秘書兼任のような人を雇ったそうです。
たぶん、そこそこ現地の給料も安いので、専任の人ひとり雇うくらい何てことなかったんでしょうね。
で、まだ若い男性が雇われました。
話しのイメージでは、小柄な男ではなかったか、と思います。
初めはごく普通に下働きを有能にこなしてくれるので、
それなりの信頼を寄せていたようです。

 

で、ある日のことです。
事務所に戻ってみると、机の上に置いてあったセカンドバッグがない。
ま、大したものを入れてなかったそうですが、無ければないなりに様々な支障が出てくる。
当然ですが家探しをしたそうです。
で、その秘書代わりの男性を探したんですが彼も不在。
これは奴が盗んで、とんずらをしたに違いないと、ぴんときたそうです。
彼の住まいは承知していたので、車でそこを尋ねてゆきました。
家には年取った母親がいて、家に入ると、その男の名前を言って、帰ってこなかったか、と。
バッグがなくなった、と事情を説明。
母親は、事の重大さに気づき、大慌てで息子は戻ってきていない、
さらに、そんなことする子じゃない、と言いながら動揺していたそうです。
オゲは、らちが明かないので、家を出て、さらに心当たりのところへ向かったんです。
で、あちらこちら数時間ほど探し回っても見つからない。
手を尽くしたものの、先も見えないので、とりあえず事務所に戻ってきました。
と、そこに地元の警察官が何人かやってきて、
その秘書の家に行ったかどうかの確認をしたんだそうです。
オゲは行ったので、行ったというと、なぜか突然体を拘束されてしまいます。
一体どういうことなんだ、と言うと、
警察官は、さっきお前が行った家の母親が、死んでいたんだ、と。
オゲは驚きます。
だって、ちょっと前までバッグ盗難のことでやりとりしたばかりだったからです。
ともかく警察までしょっぴかれて、そこで受けた説明では、
オゲが家を出た後、家人が部屋に入ると母親が倒れていた。
で、確かめると息が切れている。
きっとさっき来たあの男が殺したに違いない、ということで警察に届けが出る。
で、それを受けた警察が、逮捕にやって来た、というわけです。

日本だったら、遺体解剖でその死因が特定できますが、
どうもその国では、そんなことしないらしい。
いわゆる状況の判断で、最後に一緒にいた男が殺した、ということになってしまったようなんです。
正に冤罪、濡れ衣です。

 

オゲの言うことには、脳梗塞かなんかだったんじゃないか、と。

私はこの話を聞き、念のため、失礼とは思いましたが、
首を絞めたとかしていないのか、と確認しました。
オゲは豪気で大胆不敵なところがありますが、
根はとても心優しいところがあって、いわゆるそんなことはできないんですね。
私は彼の無罪の主張を心から信じました。

 

で、ともかく十分な検証もなく、彼は拘置されます。
何日過ぎても事態は進展しません。
時々、訳の分からないものがやってきて、いくらいくら出せば、
国外脱出に手を貸す、とか言ってくるのだそうです。
この話は絶対乗ってはいけない、と彼は思います。
要はそういう国なんだ、と。
話に乗れば墓穴を掘ることになる。
彼は辛抱強く、チャンスを待ちます。
で、ある時、チャンスがあって、こそこそと飛行機に乗り込み、日本の戻ってくるのです。

 

なんとなくなんですが、ゴーンの脱出劇の話を聞いた時、この話を思い出しました。

オゲは、相変わらず、東南アジアや、ヨーロッパの国に出かけて行っては、
訳の分からないものを買付をしたりしているようです。
でも、いったんは殺人犯として捉えられたその国には、絶対に入らない、と言ってました。

再逮捕の可能性があるからです。

ですからゴーンもどんなことがあっても日本には戻ってこないでしょうね。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 14:43 | comments(0) | - | - | - |
犯罪者の人権

テレビの画面で、様々な事件についてニュースなどで、

護送中の犯人や、現場検証に立ち会う容疑者や、時に現行犯的な事件の生々しい様子や、
まあ、様々な怪しい人物が登場しますが、
何故か、顔を判別できないような、ぼかしが入っていることがあるでしょ。
昔はもざいく、今ぼかし、ですね。
個人情報とか肖像権とか、時に人権的な配慮だと思うのですが、
少なくとも、警察にしょっ引かれて、連れてゆかれるものは、それなりの理由があるわけでしょ。
でも、時に顔にぼかしが入っている。

これは単なる人権という問題なのでしょうか。


中には、何の配慮なのか、顔はまともに映しているのに、

手錠を掛けられていると思うのですが、その手錠と思われるところにぼかしを入れる。
一体何が基準なのか、と思うんですね。
もし人権とかを優先して考慮しているなら、顔はぼかしでも手錠はありでしょ。
それが逆になっていることがあります。
この辺の取り扱い方が、いまいち整然としていないように思うんですね。

これはマスコミの考えが、と言うことです。

 

肖像等に関しては、何かクレームが来た時に、逃げ延びることができるために、
ぼかしを入れる。
クレームに、法的な要因も含めて、対処できそうもない、と考えると、

安全圏にいたいので、ぼかしをいれる、というような気がするんです。

例えばです。
ある有名人の生い立ちかなんかを映像化するとします。
すると、2〜30年ぐらい前の学生時代の集合写真かなんかが出てくる。
と、ご本人の周りの人が、ぼかしが入っていたりするんですね。
よく分からないのですが、その該当者にこう言う番組であなたが映っている写真を出しますが、
顔出しOKでしょうか、とか聞くんでしょうかね。
何も、なんの悪いことでもないわけで、そんなことまで神経使わなくちゃいけないんでしょうか。

 

実は、私もSCNクラブの作品で、担当月の時に番組制作責任者として

カメラをかついで行って撮影をします。
一般的な集合体を取るときは、一応、趣旨を説明し、顔出しNOの方はいますか、と聞きます。
で、手を挙げてもらって、その人には寄らないようにしたり、時に後ろ姿で処理したりするんです。
でも、私達が撮影する対象は、大体、胸を張って世の為と活動している人が圧倒的に多いのです。
だって、ごろつきの生態を追う、なんて番組は作りませんから。
そういう場合があったとしたら、顔出しするなよ、と言われるでしょ。


私の経験で、なぜか、顔出しNOの人っているんですね。
時に、これって、最近の風潮として、私のプライバシーは私が守る、

ぐらいの意識があるのかな、と勘繰ってしまうんですね。

 

肖像権とか、個人情報とか、個にまつわる様々な権利に敏感すぎやしませんか。
もしかすると、逆に、私たち高齢の世代は、そういう観念が薄いのかもしれません。
オレオレサギに多くのお年寄りが騙されてしまっていますが、
単に、年を取ってのボケとかではなく、悪意に対するガードが甘いのかもしれません。

 

個人という領域の守りが固いというのはやむを得ぬ世情だとは思うのですが、
単に世相が世知辛いだけではなく、

人間としてのおおらかさが、いくらか欠けてきてるんじゃないか、とも思います。
ま、そこをついてくるような極悪人が登場してきているのだと思いますが。

私は、時に、刑法で定めた量刑の軽重にアンバランスさを感じることがあるんです。
全般に、軽すぎると思っていますが、善良な心に付け入る悪意は、強く罰すべきでしょ。


前にも書きましたが、
犯罪を犯すのは、その意志があるからですよね。
殺人とか、傷害というのは、時に、心情的に不安定な状況ということが考えられます。
つまり基本的に計画性がないこともある。
行き当たりばったりの感情の所産ではないか、と思うんですが、
詐欺とかは、間違いなく行き当たりばったりの感情の所産ではないでしょ。
用意周到な計画性を持っている。
つまり、犯罪をすることを意志として持っているということです。


このようなことを手掛けることが割に合わない、という軽量が必要でしょ。
つまり冷静に罪とその罰を秤にかける瞬間があるということです。
そして割りに合わなければ、やはり、犯行前に躊躇があると思うんですね。

 

昔見た映画のシーンで、ならず者の一団が、銀行強盗を計画するんです。
錠前を空ける技術がある言われている者のところに行き、仲間にならないか、と誘います。
するとそいつが、分け前はどのくらいか、と聞くんですね。
まあ報酬を確認したわけです。
すると、いくらぐらりだな、とリーダーが数字を言います。
と、その男は、割に合わない、と断るんですね。
つまり犯罪には当然リスクがあります。

つまり法の制裁を受ける可能性ということです。
で、得られる報酬とリスクのバランスを考えるわけでしょ。
この映画では、割が合わない、と誘われた奴は考えた、と言うことです。

つまり犯罪と言うのは、割が合わない量刑が必要だという事です。

 

今時の考えとしては、あまりにも、犯罪者の人権を尊重しすぎていませんか。
顔も出して、世間に恥をさらして、何とみっともない事なのか、という状況を作ることも、
犯罪を抑制する重要なことです。
だまされて、過酷な老後を送るものと、悪意を持って人の良心に付け込む悪人と、

どっちを大事にするんだ、と思うんですね。

 

以前知人が交差点で、もらい事故を起こしたんです。
ひどい状況で、骨折や裂傷など、2か月近く療養が必要だったのですが、
この時のぶつけた相手が、外国籍の人だったんですね。
で、保険のやり取りや、治療代、車の修理代などの交渉のため、
相手の氏名住所など確認に警察に行ったら、
個人情報を守るために教えられない、と断られたのです。
あれこれやり取りしている間に、ご本人は国に逃げ帰ってしまったんですね。

 

この国は、この国の善良な国民を大事にしていないな、と感じました。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:23 | comments(0) | - | - | - |
at your own risk

よくテレビ番組で、衝撃映像とかいって、よくぞこんなシーンを撮影したものだ、
というびっくり映像の特集をすることがありますね。
道路での仰天事故シーンなどは、ドライブレコーダーが普及してきていますから、
とんでもないシーンが映り込む可能性は大いにあります。
さらに、いまや、道という道は防犯カメラが四六時中映像を記録していますから、

これまた特別なシーンも撮影可能ですよね。
また、さらにスマホが動画撮影可能ですから、通りがかりの人がカメラを向ければ、
衝撃的シーンの撮影は可能です。
よくよく考えてみると、いつの間にこうなったのか、

というほど、さまざまなシーンが記録される時代になったわけです。

 

最近このような状況が気になり、
道を歩くときはどこにカメラがあるのだろうか、と見上げながら探すと、
結構あちらこちらに仕込んであるものです。
今時ですと、多く人の集まるところのエレベーターには、

防犯カメラが必ず設置されていますでしょ。
正に総監視社会ですね。
あまり気にせず暮らしていますが、もしかすると、

えらく窮屈な時代が迫ってきているのかもしれない、とも思えます。
だって、人の行動をあれこれチェックしているわけですからね。

 

マエフリが長くなりましたが、この、衝撃映像で、よく出てくるシーンが、
中国発のシーン。
2種類ありまして、突然道路に穴が開いて、中に人が落ちるというやつ。
この類の映像は、あまりピントが合っていません。
というか画素数が荒いんでしょうね。
ややぼやけている。
ですから、人の服装とか表情など、良く分からないのですが、
道に穴が開いて人が落ちるシーンが出てくると、まずは、中国だろうと推察します。
外れたことはありませんね。
中国には、何故かそういう道が多いらしい。
急成長を遂げた経済で不十分な技術で道づくりをした結果なんでしょうね。

 

次によく出てくるシーンは、何階か高い階のベランダに子供がぶら下がって、
これを救出しようという動画です。
建物の間に挟まったり、マンホールに落ちたり、

中国の子どもは何かとその類の事故に遭遇しやすいようです。
まあ、大体この類の事故は、下で大人たちが布団やなんかを広げて、
落ちてきた子供を受け止めようとしているシーンが映されます。
ほぼ、100%ぐらい子どもは助かるんですがね。
で、なぜかこの類も、中国が多い。

 

なぜこんなシーンが頭に浮かんだのか、というと、
例の、中東のさる武装勢力囚われたジャーナリストの安田純平さんが、
国を相手取って「パスポートを支給しない」ことに対する訴えを起こしたそうです。
ま、本人が欲しいと言ってるんだから、発給すれば、という意見の方もいるでしょうし、
彼の過去の履歴を見ても分かる通り、何かとトラブルを抱え込むことが多い、
結果として日本政府としても、面倒に巻き込まれたくないから、

発給を渋るのもよく分かる、という意見など、さまざまです。

大原則は、at your own riskということですね。
自分自身の危険負担において、ということです。
なんかあっても知らないよ、と。
これを前提にして、その先何かあったら自分でそのriskは背負ってもらいましょう、ということです。

そもそも日本の社会には、このat your own riskという概念が希薄ですね。
何かというと、手を差し伸べ、危険に状態にならないようにする。
時に強制する。

 

話は少し変わりますが、秦野出身の我が高校時代の友人で、事業家として大成したものがいます。
いわば大会社の創業オーナーです。
で、彼が、反骨精神が旺盛と言えばそれまでなんですが、
車の運転で、シートベルトを締めないんですね。
で、不着用ということで、一斉検問などに引っかかり、赤紙をもらう。

それも度重なるわけです。

彼の主義主張なんですから。

彼の主張は、シートベルトを着けずに死んだとしたら、それは俺の自己責任ではないか、と。
おれの生き死にに口を出さないでもらいたい、と言うんですね。
で、頑としてシートベルトを付けない。
余りにこれが累積したもので、ついに罰則としてボランティア活動を命じられたのです。
そんな制度があるんですね。
まあ、一種の懲罰でしょう。
運動部での練習中に、ちょっとしたミスがあって、うさぎ跳びでグランド一周、みたいな話です。
ちょっと照れくさかったけど、まあやれというんで、横断歩道に立って、歩行者の誘導の旗振りをしたそうです。
この社会では、おれの命はおれのものだからどうなろうと勝手な話じゃないか、
というのは、通用しないんですね。


つまりat your own riskということ自体が許されない。
いいか悪いか、親切なのか大きなお世話なのかは分かりません。
国が発給をしないでいるというのは、なんだかんだ、彼が拘束されている間、

それなりに対応に批判があったり、実際身代金は払わなかったようですが、
ま、それなりに気をもまなくちゃいけない。
そんな余計なことは勘弁してくれ、という事なんでしょうね。

 

中東の核武装勢力の間では、日本国は人質に対する身代金を払わない国、という認識があるどうです。
ま、ともかく、問題が発生すれば相応の体制を取らなければいけないでしょ。

まあ社会正義というか、人間愛に満ちた行動であっても、
ちょっと勘弁してください、と言いうのが本音だと思うんです。

 

その様子が、ちょうど、ビルの窓の手すりにつかまって、落ちるかもしれないという子どもの下で、
布団を抱えてうろうろしている大人達としての、国の在り方のように思えたんですね。
安田さんが、ビルの手すりにつかまって落ちそうになる、という状況が来ないという保証がないですもんね。

 

私だったら、at your own riskという言葉を添えて、パスポートを発給すると思いますが、
結構薄情な対応になると思います。
その意味では、彼は前歴があるわけです。
なぜ出さないのか、に担当官は、

一度や二度ではないでしょ、と愚痴交じりに言いそうですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 12:47 | comments(0) | - | - | - |
一つの民族

麻生財務大臣の「長きにわたって一つの民族」という発言が、物議を醸しています。
ま、確かに現状では、アイヌの問題が絡み、2000年間一つの民族とは言い難いですが、
目くじら立てるほどではないんじゃないか、と感じます。
正確には、「今や一つの民族」とすれば、何の問題もなかった。
 

そもそもの民俗学的な見地では、日本では、大和民族と、琉球民族とアイヌ民族に分かれていました。
更なるベースで言うと、アジアモンゴロイドというグループの中のことです。
さらに、さらに、さかのぼれば、人類の祖たるホモサピエンスの一部がアフリカを出て、
一方は、西に向かうグループはヨーロッパに、また、南に向かうグループはインドを経て、東南アジアに散ってゆきます。
さらに、主要食糧であったマンモスを追っていったと言われている、北に向かうグループもいました。

 

で、時は石器時代から縄文時代にかけて、日本民族のベースとなったご先祖が日本列島に住みつきます。
その後、弥生時代でも、多くの人が渡来してきます。
最近のDNAの研究によって、日本人のご先祖がいろいろと分かってきましたが、
それによれば、アフリカを出た三つのグループのすべてのDNAが混在しているのだそうです。
地球上の民族としても、かなり珍しい現象なんだとか。

アフリカを出たご先祖たちはそれぞれのコースを選択しましたが、
結果として日本列島の上で再集結したということです。

 

ここからは、なんとなくのど素人の推測です。
まずは、南方から北上し日本列島にたどり着いた一族がいます。
沖縄には、彼らの一部がそのまま残りました。

琉球民族の租です
で、本隊は本土をめざし、上陸。
それなりに居住区域を広げてゆきます。
ここに、狩猟民族系のシベリアから下りてきた一族が本土に上陸します。
先住民を力で追いやり、自分たちの居住区としてなわばりを確保します。
追いやられた一族はやむを得ず、北に向かい、北海道を居住区とします。

アイヌ民族の祖です。

 

かつて、日本の国内では、琉球民族という分類が認識されていましたが、
明治政府により、日本国に統合されます。
このことは琉球処分と言われ、強権的な処置でした。
これにより450年続いた琉球王国は断絶します。
間違いなく、この時点で二つの民族が統合されたのです。

 

そして、アイヌ民族に関しては、昨年5月施行の「アイヌ民族支援法」で分かるように
先住民族として認識されてきました。
ですから厳密に言えば、確かに、日本は一つの民族ではないのです。


おそらく、世界中のどんな国も、何らかの複合的な民族の寄り合い所帯になっているはずです。
冷静な観点としては、日本の中央が、南の琉球を支配し、北の蝦夷の地を支配してきた歴史が背景になるのです。
ある種の侵略と言っても過言ではないと思うんですね。
でも、今は違います。
一つの国家の構成員ですから、
麻生氏も、「今は、一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族で」と
言っていたらセーフだったんですね。

 

そもそもが、2000年間一糸乱れず、一つの民族が継続されてゆく、なんて考えられないでしょ。
内輪での争いなどは頻発していますもんね。

武田節の中の一節です。
例の、人は生垣人は城、の二番ですね。
「祖霊ましますこの山河、敵に踏ませてなるものか」という歌詞があります。
もっともこれは昭和に作られた歌謡曲なんですが、
この歌詞にも表れているように、日本の国内であっても、

あちらこちらが敵味方で争っていたわけでしょ。
武田の領地では、ここを侵略するものは、敵として戦う、という歌です。
でも、現在では、山梨によその県の者が入ってきたからと、排除されない。
時間の経過とともに、皆同じ日本人じゃないか、といった意識が育まれてきました。
時というものはそう言うものです。

かつて、反目し合っていた民族も、時とともに、穏かな関係に変わり、
やがてONE TEAMに育ってゆくんですね。

ですからくどいようですが、
今は、同じ民族として、ということになるんですね。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:32 | comments(0) | - | - | - |
もともとみんなのもの

地球が一つの独立した星となったのが46億年前。
で、その後、当初抱え込んでいた熱が放出され、

冷めて固まった表面は地殻を形成します。

一方、有り余るほどのH2Oが、熱で蒸発する、雨となって地上に降り注ぐ、と、
これを繰り返し、海を形成します。

つまり地球は海と陸に分かれます。

海には、雨とともに流れ込んできた多くの元素がさらに複雑にまじりあって、
生命体を生み出します。
生命誕生のストーリーはいまだ説が定まっていませんが、
まあ、そこはなんとなくそうなったで、次に行きます。
で、昨日も書きましたが、単細胞から始まって、原始生命が、それなりに発達してゆきます。
地殻は、まだ固まりきれないマントル層の上で、流動的に動き、
いわゆる陸地を漂流させます。
もっとも現在の形の陸地も、1000万年とか、1億年とかの単位では、
相当に様相を変えているはずです。
もしかすると、かつてのパンゲラ大陸のような超大陸を再形成する可能性すらあるはずです。
もっともその頃には人類は絶滅しているんじゃないか、と思うんですが。

 

ま、ともかく、太陽のエネルギーやら、様々な元素の働きやら、宇宙を動かす重力や、電磁気力等、
地球の環境に大きく影響する様々な力の拮抗の中で、地球は何度も何度もその姿を変えてきました。
そもそもの始まりは、マグマオーシャンと言われ、熱い溶岩が地球の表面を覆ってました。
やがて、水が地表を覆い、ほとんどが海だったころもあります。
また、太陽の黒点活動の影響とか、いろいろ推測されていますが、
大氷河期がやってきて、全球結氷という、氷で覆われた時もありました。
様々な変化の中で、生命は時に環境に応じて対応し、
次なる地球環境に適応できた種が繁栄するという生命の進化を成し遂げてきたのです。
ちなみに、陸上に生命が這い上がってきたのは、4億年前と言われていますから、
ずいぶん長い間、海中でも生活が続いていたわけです。

 

さて、それが海中であれ、陸上であれ、生物は環境に応じて生き残り作戦を展開し、
その作戦に勝ったものが次なる生命を引き継ぐ権利を得てきたのです。
まあ、まちがいなく、生存競争が行われてきたのですが、
その中でも人類は独り勝ちに近い成果を得ました。

 

まずは、とりあえず地球を平定した人類ですが、
今度は、人類の中での生存競争が始まりました。
そして、地球上のさまざまなものを所有しはじめます。
分かりやすく言えば、陸地は、原則誰かのもの、ということになっています。
権利としての所有者がいるわけです。
まあ時に国だったり、企業だったり、個人だったりしますが、
必ず誰かのものになっています。

ある土地が欲しいという人が、その土地の所有者に金を払って自分のものにします。
ごく普通のことでしょ。
でもその、もともとの所有者というのは、なぜその土地の所有者たりえたのでしょうか。
それはある人から権利を受けたからです。
ではその権利を持っていた人は、という風にと、その先、先へ辿ってゆくと、
何千年前かはわかりませんが、誰も権利を持っていなかった時があったはずです。

 

よく昔の西部劇で見たのですが、広大な土地に入植してきた人を新たな所有者にしようと、

一か所に集め、あるルールに従って、一斉にスタート地点を走りだし、

目指すところに旗を立て、ここの土地は自分のものだ、と主張すると、その土地の所有者になれる、
それが公的に認められる、という、ウソかホントか、

とんでもないシステムで土地の所有者を決める、というシーンを見たことがあります。
つまり、その競争が始まる前は、誰のものでもなかったんでしょ。

 

さて、このように土地が誰のものでもなかった時代は、
要はみんなのものだったんですね。
その土地で棲んでいる獣を狩るのも、森の中で実っている果実や木の実を採集するのも、
誰の土地というわけではないですから、誰がどうしようと勝手な話だったわけでしょ。
そう、みんなのものだからです。

 

海を回遊する魚も、基本的にはみんなのものです。
地中から湧き出てくる石油も基本はみんなのものです。
いうならば、誰もが吸っている酸素もみんなのものです。
誰かが独占的に権利を持つことは不可能です。
しかし、人類が生存できるためのさまざまな要素が、

いつの間にか、誰かのものに変わってきました。
一体何の権利でその所有を主張出来るんでしょうね。
所有を認めた権限そのものも、考えてみれば誰なのか、となりませんか。、

ともかく、すべてのものが、誰のものでもなかった時代があったわけです。
色々考えてみれば、この所有権というものが、人間の醜さにつながり、
あらゆる争いの原点になっているとは思いませんか。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:57 | comments(0) | - | - | - |
動物の本質

いまさらですが、私達は動物です。


この地球上には、およそ3種類の生物がいます。
一つは、菌類です。
次が植物です。
三つ目が動物です。
もっとも、この菌類という分類がややこしくて、
菌界、原生生物界の真核生物とか、細菌類やラン藻類は原核生物とか、
まあ正直、そのへんは素人は関わらない方がいい、というくらい混乱しているんです。

麻薬の取引に、ジュラルミンのケースの1万円と5千円札の束が入っていて、
その隅に、ちょっとたりなかったから、と言って、1円玉や5円玉、10円玉が混じっているようなもんです。
いやこれはごく普通の庶民の感覚です。
ですから、生物種を5グループにしようと8グループ説が登場しようと、
要は、5円玉、1円玉の世界じゃないか、と私は思うんですね。


で、話を戻しますが、要は菌類と、植物、動物の大雑把に三種類が生物である、と。

そこで私達は動物です、ということは、先ずは植物との比較になります。
この地球上に生命が発生したのは、38億年前とも言われています。
初めはごく原始的な生命体でした。
いわゆる単細胞です。
細胞膜に囲われた中に一つの核を持つという生命体の基本みたいな形態です。
で、これが、どこでどのようにして作り出されたのか、コラーゲンという物質を生成します。
そう、例の膝の痛い人に効くとコマーシャルでPRされているコラーゲンです。
このコラーゲンの生成が生物に画期的な状況を作り出します。
それまで単細胞だった生命体を繋ぎとめることができるようになったんです。
まあ、逆に言えば、今の私達は、このコラーゲンが無かったら存在しないということですね。
何しろ単純に人間の体は複数細胞というには多すぎるほどの細胞で構成されていますから。
ちなみのその数37兆個ですって。
実は最近まで、人間の細胞はの数は60兆個と言われていました。
で、近代科学の最先端機器によって測定したら、どうも37兆個らしいと。
正直60兆個だろうと37兆個だろうと、私達ど素人はどうやってそれを確かめるんだ、となるでしょ。
かつて60兆個説を信じていた人が、

37兆個といわれて、がっかりした、何てこと聞いたことないですもんね。

 

ま、ともかく、生物は1から始まって、その細胞数を徐々に増やし、

少なくとも兆単位の細胞数の塊になってきたわけです。

で、シアノバクテリアなどに続いて、植物が発生します。
これは、光合成によってエネルギーを造りだすシステムを取り入れる生物です。
大地の様々な元素と太陽の光と、CO2によるものです。
で、生物には生存のためのエネルギーが必要です。
そこで、実に横暴なシステムを持って、エネルギーを確保しようとする生物が登場します。
それは、自らエネルギーを生産することなく、植物の作ったエネルギーを取り入れようというわけです。
つまり、光合成のシステムを持たず、ひとが作ったエネルギーを奪ってしまおうと言う生物です。
そのためには、動かない植物のところへ、こちらから奪うために行かなくてはいけないので、
自らが動く、ということをします。
これが動物の根本的なシステムです。
つまり私達を含め動物は、植物の作り出したエネルギーを奪うため、
動くことができるようになった生物種ということですね。
そうなんです、動物の大原則は動くということです。


さらにこの動物は進化する過程で、動物そのものをエネルギー源にする生物種を作り出します。

肉食動物ですね。
まあ、いずれ他の作ったエネルギーを収奪して生きてゆくわけです。
人間はその意味で、他の生産物を収奪することが本分でもあるんですね。
本能というか、そうでなければ生きられない動物なんです。
まあ、それじゃあ情けないだろ、というのが、近代における人間性の見直しなんでしょうね。

しかし、厳然と収奪をする生物であることは間違いないのです。

 

で、併せて、この動物が植物のところに出かけてゆく、また、他の動物を狩りするということを含め、
行動できることこそ動物の本来なんですね。
それは、ある場所に移動したい、という意志を持つわけです。


昨日、孫たちが遊びに来ました。
見ていると、もうしっかり歩き始めた9番目の孫の行動を見ていると、
何らかの興味を持ったところに向かって歩いてゆきます。
人間の原則的な欲求なんですね。
ですから、かれらは、いわゆる社会的しつけなど関係ないことで、
目指すものに向かって動く、ということが実に重要なので、

親から規制されると、原始的な反抗をします。
泣いたり叫んだり、いわゆる駄々をこねるんですね。
これは世間体を考えると、静かにしなさい、やってはダメです、とか、
親の価値観を押し付けて、しつけをしますが、
本能レベルで言ったら、動物としての欲求なんですから、
えらく不快のことなんですね。

 

そう、動物に必要なのは、自由な行動なんです。

私達は動物です。
ですから、自由こそ最も大事な条件なんですね。

 

台湾の選挙の結果は、自由への束縛が危機感になっていると思うんです。
まあ、現地では民主主義という言葉で、現政権の勝利の要因を表現していましたが、
要は、自由を奪わないでくれ、という事でしょ。

そう、私達は動物なんですから。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:46 | comments(0) | - | - | - |
エンジのジャージが躍動しました

昨日は、大学、高校のそれぞれのラグビー日本一を決める決勝戦が開催されました。
私は、早稲田・明治の大学ラグビーの決勝をテレビで観戦したのです。

 

ワールドカップを見てきたので、おかげさまで、少々ルールが理解できるようになり、
ラグビーという縁遠い競技も、かなり身近なものになってきました。
ですから、今までどうしてここでゲームがストップするんだろう、とか、
何が違反行為なんだろうとか、分からなかったものですから、
なんんとなく、要はちんぷんかんぷんの知識でしたから、
あまり見る気になれなかったんですね。
というか見なかった。
それが激変ですね。

 

ワールドカップでは、正直、念願のベスト8とか言っていて、
そのことがどれほどすごいことなのか、それ自体理解できていなかったのです。
で、結果として、その目標は達成したわけですが、
どこか心の中で、優勝したわけでもないのに、という冷めた思いがありました。
だって、しょせん、いいとこ8番目にすぎないんだろう、と。
ま、それにしても日本中が沸きに沸いて、その後テレビには、この時のヒーローたちが、頻繁に顔を出し、
暮れの紅白、M−1や、各局の正月番組では、またか、というほど出演していたでしょ。
間違いなく、ワンランク国民からの認識度が上がりましたね。

 

だからその影響もあったと思うんですが、
今までだったら、きっとチャンネルを回していなかったと思うんですが、
今回の大学選手権では、しっかりと観戦したわけです。

まあ当然ながら我が母校の応援をしていたのですが、
前半、面白いように得点を重ね、明治はゼロ点で折り返し。
後半はそうはいくまい、と思いましたが、まあ、勝ちは勝ちだろうと。
つまらぬ素人の予想は当たって、後半に入ると、
怒涛のごとき反撃にあい、早稲田は、正に崖っぷちまで追い込まれます。
しかしギリギリのところで、踏みこたえ、トライで押し返す。
また押し込まれる。
で、押し返す、という実にスリリングなゲーム展開でした。
年の初めに面白いゲームを見てしまい、

もしかしたらこれは年間最優秀ゲームになるんじゃないか、
という感じでしたね。

 

ゲーム後半、フィールドに足が吊ったり負傷したりした選手が、倒れていましたが、
なんと、その選手のところにチームから医療班的な存在の人たちが入って手当をする。
つまり、ゲーム中のフィールドに選手とレフリー以外の人がいるんですね。
普通のスポーツでは、ありえない事でしょ。
一度レフリーが試合を止めて、それらの人を招き入れると言うことはあったとしても、
なんとなく、暗黙のことなんでしょうか、トコトコ歩いて入ってくる。
いやこれは驚きでしたね。

 

ま、それにしても、肉弾相打つとはよく言ったもので、
芝生の上の格闘技でしょ。
集団プロレスみたいなところがありますよね。
だから体を壊すのは当たり前みたいな感じですね。

ついついサッカーと比較しつつ見てしまうんですが、
サッカーだと、接触があって、倒されると、驚くほど痛がって、

やられた感を演出しているような気がするんです。
ペナリティエリアで守備側に接触されて、

ことさら大げさに倒れ込むとシミュレーションと言って、
倒された方が反則になることがあります。
これは、サッカーの文化なのかもしれませんが、
やられた感を作り出すのがしばしば普通に行われるので、

いかにも過剰なものは罰しようという事でしょ。

つまり、サッカーはそういう土壌の上に成り立っているわけです。


そのサッカーの持つ土壌と、ラグビーの持つ土壌をついつい比較してしまうんですね。
その意味で、サッカーはいささか女々しい、と。
反対に、ラグビーは雄々しい、と。
まあそれぞれ反論を受けそうですが、私の好みとしては、
過剰な被害者ぶりのアピールはやはり女々しいと感じるんですね。

まあ、と言っても、接触原則禁止のサッカーと、
接触前提のラグビーの違うところを比較するのも、おかしいとは思います。
そこは十分に考慮したうえでも、
やはりラグビーの雄々しさは、

他の競技に比べて頭一つぬきんでているんじゃないか、という気がします。

 

ま、何より久々の優勝、我が母校の後輩を称えたいと思います。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:58 | comments(0) | - | - | - |
あと4000日

新年が明けて、最初の4日間、あっという間に過ぎました。
で、なんとなくスケジュールらしいことと言えば、
3日の日に開催した「水嶋家新春の集い」でしょうか。
私のDNAを引き継ぐ孫10人と、5人娘と、そのご亭主5人。
で、我がかみさんと私、かみさんの父上、計23人が出席義務者、というか対象者。
5女が出産後、退院したばかりなので、新生児とともに欠席。
で、2人分欠員があったのですが、それでも、20人余りが会食をするって、結構なイベントなんですね。
料理の準備やら、あれこれ、結構疲労困憊となりました。

 

で、次の5日から8日までの4日間、これもあっという間に過ぎた4日間だったのですが、
この間であったスケジュールは唯一、ラスカ5階のホールで7日の日に開催された、
商工会議所主催の新年賀詞交換会。
ま、一応、平塚市飲食業組合連合会の代表として出席しました。
毎年のことなんで、ざわざわと出席した人の中で顔見知りの人にあいさつする程度。
テーブルの上の料理もほとんど手を付けず、飲み物もビールをグラスに2杯ほど。

 

で、次の4日間の中でのスケジュールは、東京ガスの社員の方と
ひらつな祭出展のお願いのための打ち合わせをしたぐらい。
まあ、明日は同居の義父が96歳の誕生日(実際は10日)となるので、
そのお祝いをせめてケーキぐらいは準備しようかという程度のこじんまりした誕生会。
私の実父は、96歳で逝去しましたが、この時は、ほとんど介護状態。
傍で見ていて、いささかあちこちガタがきていたな、と思ったくらいでしたが、
この義父は、全く異常なし。
いまだ、昼間、マンションの目の前のパチンコ屋に出かけてゆくんですね。
何が驚くかっていうと、ともかく薬を飲んだことがない。
同居して6年ほどになり、いささか衰えてはきたものの、この間、
入れ歯を直すと言って、歯医者に掛かったのが唯一。
ともかく1粒なりとも薬を飲まないんですね。
つまり医者にかかっていない、ということです。

いや、その長生きぶりは目標にしたいくらいです。

 

で、なぜ、4日ごとの区切りで、この年の始まりを見ているのか、というと、
昨年、飲食店の組合員の仲間を対象に老後セミナーというのを開催したのです。
狙いは、老後の生活を迎えるにあたって、しっかりと計画を立てることが望ましい、と。
その第一歩となるのが、余命の認識です。
ですから、そのセミナーでは、開催の挨拶の次に行うのは、平均余命表(厚生労働省で公開しているもの)
によって、自分の寿命はあとどのぐらいか、ということを知ることなんですね。
もちろん平均ですから、その余命が保証されるものではありませんし、
逆に、それを超えて生きることは十分にありうることなんです。
でも、まあ、1億2千6百万人の生命動向ですから、
当たらざるとも遠からずなんですね。
よく分からない自分の将来の命の時間について、

客観的に判断すると言ったら、他によりどころになるデータはないんです。


そこで、先ずは人のことはともかく、自分自身の余命は、というと、
およそ11年から12年。
で、考えたんですが、ざっと4000日です。
さらに、風呂に入りながら、いつも思うのは、一日の過ぎる時間の速さです。
これといったこともしないまま、ただ食べて、テレビ見て、パソコンのキーボード叩いて、
一日2〜3の電話のやり取りをして、あとはごろごろ寝て過ごすわけです。
実際、仕事の現役のころとは異なり、
何しようと勝手な時間ということもあり、
放っておくとこれと言って何もしないまま一日が終わるんですね。
ま、気が楽と言えば気が楽ですが、充実感に乏しいと言えば乏しい。
実感として、1日を過ごすという妙な空白感を感じているんですね。
で、このあっという間の一日が4日続いたとします。
これまた、同じくあっという間なんですね。
改めて、4日単位の時間の過ぎ方を振り返っても、一日より4倍長い時間という実感がないんです。
4倍になってもあっというまだ、と。
ということは、これが十倍位になって、40日もきっと同じじゃないか、と。
もう、これといった歴然とした展開がある日々にはならないだろう、と考えたんですね。
ということは、400日も同じじゃないか。
さらに、4000日も同じだろう、と。
いやもっと悪いことに、日々過ごす快適さ、というのは、
老化とともに、障害が増えてくるだろうな、と考えると、
よほど、心構えとして、意味ある時間の過ごし方を考えなくちゃ、いけない、と思うんですね。

 

まあ、自分のことをかまうのはもう十分だ、と。
出来れば、少しは人を支える側に回っての4×1000回の日々にすべきではないか、
というのが、新年を迎えての思いです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 14:11 | comments(1) | - | - | - |
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