水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
マッチポンプ

マッチポンプと言う言葉があります。
私が大学在学中の事なので、おぼろげながらの記憶なんですが、
郵政省かなんかで、さる問題が勃発し、
この対応をした議員さんが、実は、問題を引き起こした本人だったんですね。
この時、流行語のように、マッチポンプと言う言葉が使われました。
これは、マッチで火をつけて、炎が大きくなり、
それを消そうと、消防ポンプで水をかける、という事の略語です。


たまにですが、消防署のお職員が、放火犯だった、なんてことがありますね。
で、実際、火事の現場に駆けつけて消火活動をする、と言うわけですが、
自分で火をつけておいて、火を消す、と言うまさにマッチポンプそのものです。
要するに、
問題を作り出した本人が、問題解決をしようとしている、という意味です。


で、このニュアンスに近いことがあります。
カジノ法案とかが成立しました。
まあ、法的にこの国にカジノを作ることを認めよう、というわけです。
私は正直、反対ですね。
だって、公営ギャンブルと言われるものは、
うんざりするほどあるじゃないですか。
競輪競馬、競艇にオートレース、それに宝くじ、博打と言えば、パチンコもそう。
基本的に、なんだかんだと公共体の財政を潤すものです。
で、さらにカジノですから。
住むには十分すぎる広さの家に、一部屋建て増しをするようなものです。
で、この法案の審議の時に、ギャンブル依存症の人間を増やすことになる、
と言う反対意見が強く出されました。
法案を通したい与党は、

では、といって、ギャンブル依存症の対策を法制化する、と言い始めたんですね。
取り敢えずはそんな条件をちらつかせながら、
まずは国会を通してしまいました。


まさにこれって、火をつけておいて火を消そうという、マッチポンプの構造なんです。
だって、火を付けなければ消す必要はないんですから、
まさにマッチポンプでしょ。


これに似たものがまだまだあります。
それは、受動喫煙についてです。
これは誰かがと言うのではなく、自分自身に対するマッチポンプなんですね。
世界中の医学会で、喫煙の害が認められています。
かつてアメリカでたばこの害に関することが社会問題となり、
たばこ会社が社会に与えた悪影響を、賠償すべきだ、
と言う裁判が展開されたのです。
この裁判では、
そのディメリットを受け止めるのは本人だから、
そこは嗜好の領域として、たばこを悪玉として、

つるし上げるのはいかがなものか、と言う、
いわゆる、嗜好の問題として、規制できない、とされたんですね。
しかし、この原告団は、医学会での様々なデータを客観的に示して、
喫煙による健康被害と、そのための治療費を数値化しました。
そしてこれを社会が保険の中で対応している部分を算出し、
これを損害額として、たばこ会社の賠償を求めたのです。

たばこ会社が勝手に販売するために、健康被害が増大し、

社会はその治療の負担をこれだけしている、と言うわけです。
裁判では、さすがに、この論法に勝てず、

たばこ会社は膨大な賠償金を払うことになりました。
これはある州での裁判でしたが、この勝訴をきっかけに、
アメリカ中の州で裁判が起こされ、すべてに原告が勝ったんです。


で、その後、受動喫煙の害がデータ−化されて、
単に自分だけの問題じゃない、と言う段階に入ったわけです。
たばこが健康被害を引き起こす、と言うのは、もはや、明確な事実なんです。
かつて、地球は回っている、と言う地動説が、当初、否定されましたが、
地動説は、いまさらですが、否定する人はいないでしょ。
きっと、このたばこの健康被害と言うのは、
覆すことのできない事実なんですね。
この自動にしろ、受動にしろ、たばこの害は、いつか当然のことになるはずです。

たばこを吸う、と言ういわば、微量ながらの毒を体に入れて、
その積年の結果として、健康を害し、今度は治療のための薬を飲む。
これって、マッチポンプでしょ。
火を消す前に、火を点けなければいいのですから。

 

自民党の、たばこ依存症の議員たちが、厚労省の受動喫煙対策の法案に
なぜか、ぐずぐずと反対しています。
理由は、単に自分が吸いたいためでしょ。
このような、理不尽な集団に対して、ある団体が声を挙げました。

 

受動喫煙対策の強化を求めて東京大学の教授やアスリートらが、
厚生労働省を支持する声明を発表しました。
東京大学の渋谷健司教授らが会見し、
3月に厚労省が公表した「飲食店の屋内を原則禁煙にする」案を
支持する声明を出したのです。


よく、飲食店の売り上げ減少が懸念される、と言われます。
いかにも、飲食店に不利な法令になりそうだ、と言われていますが、
私は飲食業の代表として、あえて、逆だと思っています。
むしろ、すべての店を禁煙にすれば客足は変化しない、と思っています。
だって他の店と同等の条件なんですから、今までと変わらないでしょ。

つまり、なまじ特例を認めるより、
同等の立場になれば、従来通りの公平な競争の原則として
コントロールできるはずです。
ここは、冷静に判断すべきです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
織姫と彦星

昨日、七夕の話が出たついでに、天の川の話です。

 

天の川伝説と言うのは、いろいろありますが、
大体、出所は中国です。

織物の名手と言われていた織女の結婚相手を探していた天帝(星空を支配する神)が、

働き者の牛飼いの牽牛・彦星のことを知り
娘と結婚してくれないか?と頼みます。
牽牛は恐縮しながらもその話を引き受け、2人は夫婦となりました。
しかし、2人は結婚すると真面目に働くどころか
天の川のほとりでおしゃべりばかりをしています。
これに業を煮やした天帝は、牽牛を元いた天の川の西に戻し、
2人を離ればなれにしてしまいました。
牽牛と会えなくなった織女は毎日を泣いて暮らしました。
そして牽牛も寂しさにあまり家に閉じこもって、
牛の世話をしなくなってしまいました。
それを見た天帝は
2人が以前のようにきちんと働いてくれるなら、
年に一度だけ会うのを許そう、と言い、
それを聞いた2人は前よりも増して一生懸命働くようになりました。


こうして、一年にたった一度だけ会える日の7月7日に

会うことができるようになった、と言うのです。
物語によっては、瓜をタテに切ってはいけないというのに、
タテに切って、その切り口から水がとうとうと流れだし、
天の川になったとか、まさに様々な説があります。
ま、ともかく、この二人をそれぞれ星になぞらえ、
織姫をベガ、彦星をアルタイル、としています。


この年に一度の出会いを七夕祭りとしてきましたが、
その大本は、五節句の一つ七夕(しちせき)の節供です。
五節句には、それぞれ花が模してあります。
三月は桃ですし、五月はあやめ、
で、七月、七夕の花はなでしこなんですね。
平塚の市花と同じなんです。

 

で、この天の川ですが、
ご存知、銀河系の星々で構成されています。
宇宙には、星の固まりとしての銀河がたくさんあって、
その数、1700億の銀河(星の集団)だそうです。
言い換えれば、私たちが所属するのが太陽系、
太陽系が所属するのが天の川銀河系、
で、この天の川銀河は宇宙の中で、1700億分の1の存在なんです。
1700億って、誰が勘定したんでしょうね。
夜空を見上げて、二、四、六、八、とう、と勘定してたら、
一生かかっても勘定しきれないでしょ。
何より首が疲れちゃう。


で、その一つの銀河の星の数ですが、これまた、
少ない所で、1000万個、多い所で100兆個の
星が所属しているんですっって。
大企業と零細企業の労働者数より、格差がありますね。
そしてわれらが銀河、通称天の川銀河と名乗っているので、
いわば天の川組とでもいうわれらの仲間の星は
2000億個から4000億の間ぐらいだそうです。
まあせめて同じ組なんですから、
そこのところはもう少し正確にしてほしいですよね。
とはいえ、ともかくでかいんです。


どのぐらいかと言うと、
天の川銀河の端から端までを、東京名古屋間とします。
東京駅のホームを出て、ひかりなら約2時間。
で、太陽系の端から端までの距離は、東京駅のホームを出て、
4辰阿蕕い僚蠅冒蠹します。
つまり発射して、1秒ぐらいで太陽系は突っ切ってしまって、
後、銀河系のはじまでゆくのに、2時間かかるという事です。
太陽系と言ってもそこそこでかいでしょ。
で、それがへみたいな大きさなんですね。
しかもですよ、
この天の川銀河と同様の銀河星団はこの宇宙に、

1700億グループあるというんですから、

地球の地面の上に、国境線とか引いて、
この島はうちのものだとか、国境を超えたら拘束するとか、
線そのものを引き直してみたりとか、
まあ小さい小さい。


今時なかなか天の川は見えずらくなってしまいましたが、
せめて、七夕ぐらい、夜空を見上げて、
宇宙の大きさ、それに引き換えわが身の小さいこと、
など、じっくりかみしめてみるのも悪くないでしょ。


にしても、町中に
見るより聴くより踊るもの、という、都はるみの耳なじみの歌が流れるんですね。
ま、年に一度のことです。
楽しく迎えましょ。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
そろそろ七夕飾りの準備です

五月もあとわずか。


昔話になりますが、紅谷町で店をやっていたころは、
この時期には、七夕の準備を始めたものです。

七夕の準備は、当然ですが、まず何を作るか、と言うテーマを決め、
大雑把なイメージを確定してゆくところから始まります。
いわば、原案と言うか素案と言うか、本当にざっとしたものです。
この、原案を、実際形にするには、どんな素材を使い、どんなふうに組み立てるか。
想定通り、見栄えがいいか、雨風に耐えられるか、
強度は大丈夫か、などの点でチェックします。
もちろんこれには経験が必要です。

そういえば、失敗の連続で、何回か吊りものを落としたことがありますから。


幸いなことに、私を物を作ることが大好きなので、
基本的に自分ですべてを組み立ててゆきました。
ですから、そこそこの大工道具、電動工具は持っていました。
これらの機械を駆使して、素材を組み立ててゆくのです。
で、七夕のデザインンは、紙に書いて、全体のバランスや
素材の検討をするのですが、ある程度固まってきたら、
実際そのような素材が手に入るかどうか、
この類のものを売っているところに出かけてゆきます。
おもに、浅草橋当たりの装飾品の専門店を軒並み覗いたものでした。
そして、予算との付け合せをしながら、素材集めをします。
実際、行ってみたらお目当てのものが無かったり、
代替えのもので我慢したり、
思いのほか、高いものしかなくて、断念したりと、
それなりに、問題に突き当たるのですが、
まあ、そこは経験ですから、何とかします。


で、基本は角材で骨格をくみ上げます。
七夕製作のなかで、いくつかの技術的な節目がありましたが、
その一つは、ビスの発達ですね。
要は、木ねじです。
その昔、建築現場と言うと、トンカチでくぎを打ち込む音が、近くに響き渡って、
ああ、家を建てているんだな、と分かったものですが、
最近は、機械のモーター音にこれがとってかわりましたね。
ですから、私たちが最初に購入した大工道具は、
電動ドライバーです。
私の様な素人でも、今まで、10個近いドライバーを買っては壊し、
又はなくしたりしましたが、いずれにしても主要な道具の一つでした。
このビスで骨格を組み立てられるようになって、
著しく強度が得られるようになったのです。

もう一つ、ちょっと間違えても、ビスだとやり直しがきくんですね。
ですから、木ねじを使うようになって、

えらく仕事がはかどるようになったのです。


それともう一つの革新的なことですが、カラーコピーの汎用性が広がったことです。

七夕飾りの基本は、装飾で囲い込むという事なんですが、
これに結構費用がかかるんです。
それが、カラーコピーをラミネートで保護し、
骨組みに貼りこむと、結構安上がりにある一定面積が飾れます。
ともかく、コストの面で、えらく進歩したんです。


まあ、様々な素材を組み合わせて、さまざまな形を作り出して、
作り物を吊るすという事が、ひらつか流の七夕飾りになったんですね。
七夕製作の現場から身を引いて、10年以上になりますか。
で、昨年から、やはり寝た子が目を覚ましたというのか、
七夕を作ってみたいと思うようになったんですね。


そこで、マンションの子供会のお母さんに相談して、
紅谷町自治会の子供会で、紅谷町のまちかど広場に、七夕飾りを掲出しよう、
と働きかえたのですが、
有難いことに二つ返事で協力してくれることになりました。
そこで、併せて、シニア会の方々にも協力を要請、

これまた二つ返事で、力を貸してくれることになり、
マンションの集会室で、10日ほどかけて、作り上げたのです。
今年も、6月になったら、同様に飾りの製作を始めます。
まちかど広場に掲出しますが、きっと周りの子供らしい素朴な飾りと違って、
妙に、つくりもの的な飾りがあったら、
それはわたしたちの作品だ、と思ってください。
6月の17日には、まちかど広場に掲出します。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 17:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
地球の輪

このマンションに引っ越してきて2年とちょっと経ちます。
いとこも、2人住んでいたりとか、
昔からの知り合いが、何人かいたりとか、
何より、理事会とか、こども会、シニア会など、
マンションでの活動で知り合った人が多く、
2年ちょっとの割に、やたらと知り合いが増えて、
松風町時代にはなかった、コミュニティ意識を実感しています。

 

顔見知りになると、結構、日常的な話も多くなって、
その中で、時に、ゴミの話が出ます。
マンションの管理システムにもよるのでしょうが、
おそらくどのマンションも、ゴミ集積室のようなものがあって、
そこに分別したゴミを持ち込む、と言うやり方だと思うのです。
いくつか棚にゴミ種類が書いてあって、それに従って、ゴミを捨てるわけです。
おおむね、忠実に、住民は分類に従って、ゴミを捨てています。
時に、毛布を丸めて縛っただけで出す人がいたりすると、
これは、回収できません、なんて紙が管理人に貼られることもあります。
悪意はないにしても、微妙にルールが理解されていないことがあるんですね。

ゴミの出し方ひとつも、あれこれルールがあって、これを守らなくちゃいけない。

 

マンションの良さの一つに、
いつでもどんな種類のゴミでも、捨てることができるという事があります。
松風町時代は、ゴミ収集一覧表のようなものがあって、
今日は金曜日だから、燃えないゴミの日、とか、
ともかく、いつ何が捨てられるのか、という事を熟知していないと、
次の週まで、手元に置いておかなくてはいけない羽目になります。
いつでもどんなごみでも捨てることができる、
と言うのは、実に快適な条件ですね。


プラスチックごみ、と言うのが、体積として大量にたまりますね。
軽いんですが、がさばることおびただしい。
どうしてこんなにプラスチックごみが出るんだろう、と思うんですが、
食品のほとんどがプラスチック製のパッケージで包装をされているので、
2〜3日で、ちょっと大きめのスーパーの手提げ袋一杯になってしまいます。
でも蔭さまで、マンションでは年中捨てられるので、

手元は結構すっきりしているんですね。
有難いことです。


ガラスの破片など海岸の漂着物で、波と砂に洗われて、
角の取れたものを使って、アート作品を作っている方と知り合い、
先日のすさ美会展にも出品していただいたのですが、
ある程度の作品を作りおいて、小さな規模の作品展を個展として開催した時、
そこに使われたシーグラス(と言うんだそうです)を、
どのぐらい期間をかけて集めたのか、と聞いたら、
10年ですって。
で、当初興味をもって、海岸で収集を始めたころは、
一度行くと、バケツ半分ぐらいは集められたとか。
最近は、ほんのひと塊しかない、昔から見ると随分と減ってきた、と言うんですね。
つまりは、海岸がきれいになりつつある、という事でもあるようです。

 

ところが、これと裏腹に、

海洋に漂うゴミをNASAが宇宙空間から観察しているんですんが、

この映像では、ともかく世界中の海と言う海にゴミが浮遊しているんですね。

海流に乗ってそれぞれのエリアで独特の動きをするのですが、
どうであれ、ゴミがまとまるか、拡散するかで、ゴミの量が減るわけではない。
この人間の捨てたごみで、海洋生物がかなりの被害を受けているようで、

彼らにしてみれば、全くいい迷惑です。

確かに、いらないから捨てるんですが、

多少なりとも、もっと意識を高めて、責任のある捨て方が必要になります。


宇宙にも、宇宙ゴミと言われるものが、無数に飛び回っているのだそうです。
ロケットの打ち上げコストが低減されてゆくのに併せて、

宇宙ビジネスが注目され、様々なプロジェクトが動き始めているようです。
ちなみに、北朝鮮のミサイルは話が別です。
そんな中、懸念されているのが宇宙ごみの問題です。


宇宙ごみとは寿命の尽きた人工衛星やロケットの残骸など

宇宙に漂う部品、破片などで、

このゴミは、秒速7〜8キロメートルの高速で地球を回っています。
10センチ未満のゴミは数十万個、10センチ以上のゴミは、1万8000個。
これらは年々急増してるのだそうです。
すでに人類が打ち上げた人工衛星は、全世界で7千個を超えるそうです。
当然寿命が尽きたり、破損したりで、この宇宙ごみは増え続けるわけです。
特に2007年に中国が宇宙空間で衛星破壊の実験をし、それにより、
このゴミは増大したのだそうです。
本当に、世間の迷惑を顧みない国なんですね。
実際、このことは宇宙空間では時にゴミと衛星が衝突するという事故が頻発しているようで、

宇宙環境が汚染されているということは、

地上からはなかなか分かりづらいのですが、
それなりの問題になっているようです。


呑気な見方をすれば、チリも積もれば山となるわけですから、
これらがどんどん増えて、いつか、地球も土星と同じように
輪ができるかもしれませんね。


ま、マンションでも、海でも、宇宙空間でも、

どこであれ、ゴミの問題は、どこかできちんとルール作りが必要ですね、

| 水嶋かずあき | 環境 | 10:29 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
8年目の裁判員裁判

私の父は、そもそもが、はんこ屋の出身ですから、
書も小さいころからたしなみ、と言うか、稽古されたので、かなりの達筆でした。
亡くなって、改めて遺品の整理をしていた時に、
立派な掛け軸が出てきて、それに父の書がしたためられていて、
その品のある書体をほれぼれと眺めたものです。
で、書いた年齢が添えられていて、それには十八歳とありましたので、
若くしてなかなかの腕前だったんだ、と感心し、
その軸は、形見として大事に保管しています。


父は、印章によくつかわれる篆書や隷書についても、詳しく、
ある時、なぜかこんなことを私に言いました。
「政治の政と言う字は、あれは隷書などの起こりでは、
正しいというヘンと支えるというツクリで構成されているんだ」と。
前後にはそこに至る話がなく、とても唐突に、その話題に触れたのです。
それだけによく覚えていたのです。

 

以来、父の言ったことですので、私もその説は信じているのですが、
世間では、正しいというヘンと文と言うツクリに解釈されています。
そして、政治の政はまつりごとと解釈されています。
敬虔な祈りを込めて、自然の脅威から身を守り、
生かされていることの感謝とか、食料を確保できるようにとか、
異民族の侵略から身を守るとか、
多様ながら、素朴な祈りを込めて、祀りごとが行われてきましたが、
これを司るのが「政」だ、と言う説です。
そうかもしれませんが、私は正しいに支えるという解釈が好きです。


その昔、まだまだ素朴な社会構造だったころ、
人々に脅威を与えたものは、河川の氾濫でした。
特に、この国はお米の国ですから、水田で耕作をします。
これは河川の水が絶体的に必要なので、
なんだかんだと水辺に集落を設けます。
したがって、しばしば氾濫によって、命や財産を失ってしまうのです。
治水と言うのは、まさに当時の最優先の政治的課題でした。
そして、その昔から、人は欲望に支配されていますから、
何かと権利や所有を巡って、争いが起きます。
いわばこれらのトラブルを裁くのも、支配者の仕事でした。
つまり一種の裁判です。
正しきを支える、と言う仕事です。
政治とは、正しきを支えるという事と、治水を進めるという、
この二つの仕事を全うすることが、求められていたのです。
治水工事と裁判です。

 

アメリカの国が、いささか危うく感じるのは、
裁判制度にまで、行政のトップが口出しをしている事です。
時に、最高裁の長官とか、判事とか、司法のトップについての任命権があるため、
しばしば罷免したりしていますが、
どんな国であっても司法の自立性が失われたら、
その国の民度は間違いなく低下します。
正義、とか真実とか、人を内側から支えているものが危うくなるからです。


その意味で、国を支える重要なセクションが司法で、
ここが機能する事は、社会全体の健全さにつながります。

 

今から8年前、日本の司法に様々な弱点が見え始め、
まずは、裁判員裁判と言う制度を採り入れました。
そもそもは、裁判官と言う、司法のプロとはいえ、
その人の価値観、人生観、国家観など、最終的には、
この個人の考えが判決に幾分か影響を与えるので、
要するに社会の物差しとずれが生ずるんじゃないか、
と言う不安があったのだと思います。
法文のきっちりした解釈はできるし、
優秀な判断を示していると思われる判例も十分にある。
しかし、法で人を裁くという恐れ多い仕事に、
ちょっとでも疑念が生まれれば、これは、とてつもないストレスになると思うのです。
そこで、一般市民はどう思うのか、

という、市民感情を参考にしよう、という事だったんですね。

 

ところが、いくつかそれはそれなりに問題が出てきました。

まずは、裁判員裁判で市民裁判員が下した一審判決を、
プロの裁判官のみで審理する控訴審判決で破棄する割合、破棄率が高まっているのだそうです。
だって、一般市民のみんなで考えてみて、と言いながら、
やっぱ素人はそう思うのか、と、別の判断をするんです。
俺達プロだから、と。
じゃあ何のための市民裁判員制度なのか、でしょ。


市民の判断を否定するなら、最初から、今まで通りやってればいいじゃないか、と。
昨年の控訴審で、376人中、49人の一審判決が破棄されたのだそうです。
裁判員制度が始まった年から比較すると、その比率は、8・4ポイント上昇したました。
これって、何か問題があるという事でしょ。
最高裁の司法統計によると、
裁判員裁判の控訴審での破棄率は、しばらくの間1桁台を推移しますが、
2014年に11・3%、15年には14・2%にまで上昇。
一方、一審が通常裁判の控訴審判決では、11〜15年の破棄率は9%台で推移するなど、
裁判員裁判より低い数字ですが、それでも、およそ1割は、判断の違いが出てきます。
いや、乱暴な言い方ですが、この1割のブレと言うのは、
要は、どっちでもいいんでしょ。
極端、有罪が無罪になり、無罪が有罪になる。
正反対の考えが裁判と言う名の元に示される。
つまり、約1割の裁判は、よくわかんない、という事です。
これはプロが判断して、そういうことです。


テレビの行列の出来る法律相談所でも、判断が真っ二つに分かれますもんね。
要は、その人の人間観が影響するのでしょ。
だからこそ、正しきを支える、という視点に集中すべきなんです。
市民感情を取り入れるのは結構なことですが、

理性と感情による判断を、どのようにバランスを取るのか、
ここが、司法の最も悩ましい所です。

 

破棄率が高いと言うことは、
一審との考えの違いが表れたとともに、
司法制度として、より正しい結論を出した結果の廃棄率、という事かもしれません。

| 水嶋かずあき | - | 11:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
明るい老後

我がマンションは、105世帯が住んでいます。
ご多分に漏れず、高齢化の波がひたひたと押し寄せていて、
この間まで元気に自転車に乗っていたご婦人が、
両手に杖で散歩している姿を見ると、明日は我が身かな、と
今の健康に動ける体に感謝です。


高齢のご夫婦が、手をつないで、近くに買い物などに出かける姿を見かけると、
転んでは危ないからなのか、仲がいいのか、どっちだろうか、と。
ま、いずれにしても、ほほえましい風景ですね。


で、夕方になると犬の散歩と言うのは、日常的なことなんですが、
なぜか連れている犬自身が老犬で、
多分犬が先に逝くのでしょうが、その瞬間の淋しさを想像すると、
今、と言う時のありがたさが、ひとしお感じられると思うのです。


つまりです、様々な日々の過ごし方の中から、
漠然とですが、定年後の方々の姿が浮かび上がってくるわけで、
私自身あと2年で、後期高齢者ですから、
他人事ではないんです。
いずれ誰だって年を取るわけですから、
なるべくどのような老後を過ごしたいのか、という想定と言うか、計画を、

きちんと作り上げておくことが重要だと思います。
で、一番避ける避けるべきことは、

退職後、これと言ってやることがない、と言う状態でしょうね。
趣味として、絵を描いたり、書をしたためたり、園芸にいそしんだり、
とちょっとしたアクセントが必要でしょ。
出来れば、週に2、3回、何らかのスケジュールがあって、

そこでの時間を有効に過ごすことがいいと思うんですね。
出来れば、ボランティア活動でしょう。
今まで、おかげさまで生きてこられたのですから、
これからは、報恩の実践です。少しは世の中のためになることを、
純粋な善意としてやることは大事なことでしょ。

今まで、やたらと借りが多かったはずなので、

せめて命あるうちに、お返しをしておこう、という事です。


一番は、今までの職業的な履歴が活用できることでしょうか。
とはいえ、なかなかそうもいかないでしょうね。
世の中には様々なテーマの社会的活動をしている団体、グループがあります。
南口の市民活動センターに行けば、

とてつもない数の団体が登録してあります。

探せば、きっと何かの団体に出会うはずです。
その中で、最も関心のあることを、進めている団体の門戸をたたく、
と言うのは意義ある挑戦です。
多分、これまでの履歴で、気位が高くなっているでしょうが、
ここは、人生の最終章ですから、新たな気持ちで、
雑巾がけから入る、という心構えで、
新しい世界に飛び込むことも、いいことです。

 

定年男性が陥る「三悪行」と言うのがあるそうです。
一つは、毎日の晩酌が昼間から始まり、
飲酒を繰り返しアルコール依存になる、という事。
次に、小遣い稼ぎのつもりで始めたギャンブル、
特にパチンコなどにのめり込むという事もあるそうです。
そして、三つ目ですが、
飲み屋の若い娘にやさしい言葉をかけられて日参する、
と言うとんでもない勘違いをするんですね。

 

昔の、男の三悪行、と言われた“飲む・打つ・買う”の高齢者版です。
まあ、つまり、いくつになっても男って懲りない生き物なんですね。
これらは、心身の健康に良くないばかりか、
なけなしの年金をつぎ込むので生活が破綻し、
熟年離婚の原因にもなる困った問題です。
つまり「三悪行」は夫婦関係にも悪影響を及ぼすわけです。

 

この基本的な精神構造は、
まあだいたい、60なにがしになれば、そこそこの立場を与えられて、
役職や肩書の一つはついているものです。
時にあるグループのトップにいるという事だって珍しくない。
現役時代に管理職をしていたから、
簡単な仕事はばからしくてできない、などとか、
ちやほやされた最後の職歴が余韻に残っていて、
定年退職後はだれもちやほやしてくれない。
かみさんはかみさんで、一日うろうろしている亭主がうっとうしい。
だから、思いのほか大事にされない。
故に、プライドの高い男性は要注意なんです。


そこでついつい三悪行に走る。
よしんば、三悪行に陥ることがなくても、
そんな亭主が自宅に籠もって妻に生活のすべてを依存しだすと、
妻の体調が崩れる“亭主在宅症候群”の原因にもなる。
やがて老老介護の世界に入ってゆくわけです。

 

いや、本来心構えひとつで、明るい老後が待っているはずです。
ホント、心構えひとつなんです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
家事手伝い

そう言えば、私たちが若いころ、独身の女性の何割かは、

家事見習い、と言う、立場の人たちがいました。

学校を卒業したからと言って、就職するわけでもなく、

家にいて、母親の手元で、家事を見習う、と言うことです。

炊事・洗濯・掃除など、いわゆる家事をしっかりと出来るようにと、家事見習いをし、

中には、お茶やお花まで習得するという、正に主婦養成講座みたいなことを各家庭が行い、

そうして嫁に出したものです。

ま、いいか悪いかと言うことではありません。

そうだった、と言う事実の紹介です。

 

さて、今年も、夏休みに中学生自分で作るお弁当コンテスト、

という長い名前のイベントが開催されます。
このイベントのきっかけは、

平塚市の学校給食課の人と中学校の昼食時のことを話していた時に、
実は、1クラスに1人ぐらいなんですが、

お弁当を持っていない子がいるんです、という事を聞いたのです。
中学生と言えば食べ盛りでしょ。
私も、人生の中で、最も食べた時代でしたから、
お昼を食べない、いや、食べれない、という事がどれほどつらいことか、
と言うのは想像に難くないですよね。
しかもみんなが食べている中で、配られる牛乳を一本飲むだけなんです。
正直みじめでしょ。
母親が作ってくれなかったのか、昼食を買うお金をもらえなかったのか、
そこのところは分かりませんが、
間違いなく、中学生と言う未熟な精神では、
耐え難いことだと思うのです。


そんな同情心のようなものもあったのですが、
お弁当はお母さんの作ってくれるもの、と思い込んでいる限り、
この問題の解決の糸口はない、と考えたのですね。
そこで、学校給食課の方と企画を練って、
中学生自分で作るお弁当コンテスト、というものを始めたわけです。
地産地消の食材を活用することから、
郷土愛のようなものを育むきっかけになればいい、とか、
食育的な効用として、食べることの意義を認識してもらえればいい、とか、
いくつかの意図はありましたが、一番の狙いは、
家事の一端を担う、という事でした。


家族の絆とか言えば格好いいのですが、
逆にそんな格式ばった表現ではなく、
一緒に暮らしているんだから、家のことを手伝う、と言うのは当たり前で、

そのことの中から、家族間の協調性を育む、という意図を
私としては強く意識していました。

 

なんとなくなんですが、
私たちが子どもの頃って、何かと家事を担っていたと思うのです。
風呂焚き、今と違って、釜に薪をくべて沸かしていましたから。
また、井戸くみ、水道はありましたが、
少なくとも我が家は井戸が併設されていて、
タンクに汲み上げるんですが、この時はポンプを上げ下げするんですね。
かなりの重労働でした。
あと、ゴミの廃棄もそうでしたね。
今ほどしっかりと行政がごみの収集をしてくれなかったですから、
庭先に穴を掘って、ゴミを埋めたものです。
こんなのは、子どもの仕事でした。
まあ、それこそ、家事と言うあらゆる類の作業に、多かれ少なかれ、手伝わされたものです。
家事の手伝いと言えば、当時の同級生たちは、弟や妹の面倒見たり、
買い物や掃除の手伝いしたり、と、普通にそうしていましたね。
まあ、そういう時代だったのかもしれません。
よく、おばあちゃんや、母親の肩たたきをしたものです。
少なくとも、私は自分の子供に、
肩たたきをしてもらった、と言う印象深い経験はありません。
ですから、私の概念としては、今どきの子供は、
家事について協調的でない、と捉えていました。


これは、家族との協調のことですから、
社会の最小単位である家庭での教育に偏りが出れば、
当然、社会に出ても協調性の欠落は表れてしまうだろう、と思っていたのです。
よく、家庭のしつけ、とか言いますが、何をどのように体験させるかでしょ。
口でがみがみ言ったて、うるさい親で終わってしまう。
せめて、家の中のことを手伝わせる、という事で、
家族のきずなは強まってゆくのではないか、と思うんですね。


洗剤などを作っている花王のさるレポートに、
1980年代に調査したデータと、四半世紀経った時のデータの比較が載っていました。
それによりますと、1980年代を、昔、と表現すると、
昔は、トイレ掃除、洗濯、食事の用意など、おおよそ8割が母親がやっていてのが、
今は、5割ぐらいになってきています。
つまり、子どもたちが手伝い始めたわけです。
いい傾向でしょ。
特に、食事時の手伝い、食後の食器片付け、茶碗や箸を並べる、
テーブルをふく、ご飯をよそう、などは、おおむね5割以上の子らが、
是非したほうがいい、と考えていて、まあした方がいい、と合計すると、

9割から8割が食事時の手伝いに関しては肯定的なんです。
これは昔のデータと比較して、すべての項目で、今が上回っているのです。
ただ、たった一つ、簡単な料理を作る、という事に関しては、2割そこそこ。
ここはもっともっと積極的になってほしいですね。


何でもそうですが、されているうちはなかなかありがたみがわからないものです。
しかし立場を変えて、する側になった時、されることのありがたみを感じ、

心から感謝の気持ちが生まれてくるものです。
生活そのものに、感性豊かな子どもを育てる、という意味でも、
もっと積極的に家事を担わせることが、

家庭教育の要、と考えるようになるべきですね。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
またぞろ

またぞろ、と、こう言う場合表現します。


加計学園で、安倍首相がらみで、ありえない許可が下りたとか。
まあ、テレビのワイド番組では、かなり時間を取って報道しているので、
詳細はお分かりと思いますが、
またぞろ、安倍夫人もいっちょ嚙みしているそうです。

まあおっざぱな構図は、森友と同じで、
総理のご意向、いや正確にはご威光によって、
担当部署が忖度したことに起因して、

格別の取り計らいが行われ、

その結果、他との不公平が生じた、という事でしょ。

 

そもそも「忖度」というのは、人間社会ではごく普通にあることです。
つまり、人間関係には、不等式と言うものがあって、
時に、社長と社員、先生と生徒、先輩に後輩、師匠に弟子などなど、
何らかの経験とか、見識とかに敬意を持つべきものがあったり、
金銭的、またはそれに類する様々な利益を与えられる方と得る方との、
関係などで、優劣がある人間関係ですね。


これらの不等式の中では、ごく普通に、忖度が行われます。
特に要求などしなくても、まあ、一種のサービスと言うか、
気持ちと言うか、その人間関係を形に表すわけです。
人間関係の不等式が無く、等式の友人関係でも、
友情を示すものとして、忖度をすることで、
円滑な人間関係が維持できる事も多いので、
このような行為は行われるものです。


我が店で言えば、
お得意さんに、一品、小鉢物程度はサービスするなんて、ごく普通のことでしょ。

先輩から、電話がかかってきて、

どこそこで飲んでいるんだけど、ちょっと顔出ししろ、
とか言われれば、はいはい、とはせ参じます。
逆に、商店街など、顔見知りの所で、私が買い物をすると、
なんかの要求をした覚えはありませんが、
必ず、消費税分はおまけしてくれるお店があります。

まあ、極端な話、この世は、忖度によって、
穏やかな人間関係ができている、と言ってもいいくらい、
人間関係を円滑にする大事な手法の一つだと思います。

 

忖度は、そもそも、世間では、いい使われ方をしているのですが、
気を付けないと、不公平感につながります。
レジで、支払いに並んでいた他のお客さんがいた場合、
水嶋さん、おまけしておきました、なんて、他に聞こえるように言わないでしょ。
他のお客さんは、差別された、と感じてしまいますよね。
そこは阿吽の呼吸、忖度する方も、忖度される方も、
微妙な優越感を他に感じさせない、と言うのが、ルールだと思うのです。

 

だからこそ、官民の間での忖度はいささか注意すべきですね。
なぜなら、官民の関係は、許認可と助成等のお金の問題が、
必ずからむからです。
ですから、森友にしろ、加計にしろ、
他と比較して、ないがしろにされたところにとっては、
この不公平感は、何ともしがたいでしょ。
面白くない。
おそらく、微妙に法的にどうなのか、という事は難しいような気がしますが、
本来公平であるべき行政の基本がくずれた、という事では、

とてつもない不信感を、一般的には持たれてしまうでしょうね。


またぞろ、という事は、これはどうも安倍家の癖なのかもしれませんね。
国会での答弁のごとく、
私は頼まれたことはありません、と安倍首相は言ってますが、
加計さんとは旧知の間柄。

学生時代からの付き合いとなれば、それは親友の一人でしょ。
特に言葉になくったって、近況を知れば、忖度のもとは作れるでしょ。

 

つまりここで大事なことは、一国の首相なんですから、

忖度される立場だ、という事を肝に銘じることです。


李下に冠を正さず、という言葉があります。
瓜田に靴を納(い)れず、と言もわれています。
疑わしきことはするな、という事ですね。
こんな単純なことを行動規範に取り入れられないとしたら、
あの首相はもしかしたら、人がいいだけなのかもしれません。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
それでも吸う

先日、わが友と禁煙について話をしました。
彼は、40代の初めまでかなりのヘビースモーカーで、
ピースの両切りを日に30本吸っていたそうです。
で、子どもも生まれ、幼稚園に入る年頃になったのもあり、
世間ではたばこと健康、副流煙の危険度が明らかになってきたのもあって、
禁煙を決意したのだそうです。
そもそもピースの両切りは、喫煙者としても、

かなりマニアックと言っていいでしょうね。
私が学生の頃、友人で、ピーカン(ピースの缶入り50本のたばこ)専門のものがいて、

普通、当時で言えばハイライトとか、ホープなど、
フィルターのついたものが主流でしたが、
こいつは、いつでもピーカンを持って歩いているんですね。
で、夏なんか、上下薄着ですから、ポケットに入らない。
なもんで、片手にピーカンをもって歩いているんです。
ノートを持っていなくてもピーカンは持っている。
このピーカンは、丸い缶で、ふたにちょっとしたカッターがついていて、
最初にあけるときは、このカッターの刃を中蓋に当てて、
一周回して薄いアルミ箔の中蓋を切り取るんです。
この瞬間が薫り高く、周りに友人たちがいるときは、
みんな一本おすそ分けをいただく、と言うのが当時の習慣でした。


ま、そんな昔話はともかく、
ピースと言うのは、それほどヘビーな印象があるんですね。
そのピースを1日30本吸っていたんですから、
いくら子供のためとはいえ、禁煙に踏み切るのは、かなりつらいことだったそうです。
最初のうちは、禁煙と言いつつ、
なんだかんだと、日に2〜3本は吸っていたそうですが、
これをゼロにするのがたいへんだった、と。
そして、ゼロにするのに、3年かかったそうです。

私も喫煙者だったので、よく分かるんですが、

禁煙方法は人それぞれ異なるものの、

共通していることもあり、禁煙中の葛藤は多かれ少なかれあるものなんです。

こんな苦労をするなら、
最初から喫わなければよかった、と言う後悔ですね。
たばこがないと人生がないわけじゃないですもんね。


禁煙のきっかけはともかく、
禁煙するということは、喫わない時間がず〜とつづく、だけのことなんです。
だって、寝ている時間が8時間あれば、8時間は喫わないのですから。
寝ている間に、ヤニ切れ(当時のはやりの言葉です)になったからと言って、
睡眠中に死んだやつはいないんですから。
まあ、物は考えようという事でしょうか。

 

それにしてもたばこ依存症の人って結構いるもので、
現在喫煙率は下がってきてゃいるものの、
たばこへの依存性は、レベルが上がっていると思うんです。
例えば、依存レベル1から10まであるとして、
やめるというのは、ほぼ、1とか2の人はやめやすいでしょ。
現状でもなおかつやめることができない人は、
レベル9とか10なんでしょうね。

だからちょっとやそっとでは、ああだこうだ言いながら、
喫煙を続けているんです。


先日のこと、50代後半の人で、仕事もなく、ぶらぶらしている人がいて、
まあ、おせっかいな話ですが、その人に何か職を見つけられないか、と、
まずは会ってみて話をしたんです。
で、本人の話ですが、肺気腫があって、十分な呼吸ができない。
まあ、浅目の呼吸になってしまうので、酸素が十分確保できないんだそうです。
だから、体を使う仕事に向いていない。
階段なんかでも、2階に上がると、一休みするようだ、と言うんですね。
これは、肺に異常を感じて医者に行って、診断されたのが肺気腫。
医者に即座にたばこをやめるように、と言われたそうです。
彼はヘビースモーカーだったんですね。
人生の半分を、たばこを吸ったことによって失ったようなもんです。
結局、要は、仕事ができる体ではない、という事で、
新たな職を見つけることはできませんでした。

 

厚労省と、主に自民党の議員さんと、禁煙についての立法でもめているようです。
議員さんとしては、喫煙者の擁護のつもりなんでしょうが、
ここまで、医学的にタバコの害が立証されているんですから、
個人の嗜好の延長を擁護することもないんじゃないかと思うんですね。
この喫煙を擁護する議員さん自身が愛煙家なんじゃないか、と思っています。

いや、愛煙家、などと言うのはもうやめましょう。

喫煙依存症の方々、と言いましょうか。

 

こんな記事が載っていました、
「 厚労省の研究班によると、

たばこを吸わず、受動喫煙が原因の肺がん患者は、年間で1万1,000人、

虚血性心疾患が10万1,000人、

脳卒中が13万人と推計される。
関連の医療費は、あわせて推計で、年間3,200億円にのぼるという。
 研究班の五十嵐 中東京大学准教授は、

「喫煙者も非喫煙者も、お金と健康の面で、

どちらも負担が生じていることを考えてほしい」とコメントしている。」

 

正直、たばこを吸う大義は何もない、と思いますが。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
マナーは食文化の成り立ちによる

食文化、という言葉があるように、
食べることの文化は、それぞれの地域で、長い時間をかけて積み重ね、
ある一定のレベル昇華されてきました。
フランス料理、中華料理、日本料理など、それは、それなりの根拠を持ちます。
ですから、他の食文化について、とやっくいう事もなく、
要は、おいしく、感謝の気持ちを持って食べることができれば、
それはそれとして結構なことだと思うのです。

おとといの、カレーライスと目玉焼きについては、
こう言った大前提を超えた解釈をして、
あたかも、マナーがあるごとき表現をしていたので、
ちょっとばかり不満に思って、書き込んだわけです。

 

さて、その続きです。
単純に、西洋料理に関することと、日本料理でのことと比較してみます。
まず単純に、箸とナイフとフォークの大きな違いがあります。
確かに、洋食の席、時にコースなどの、宴席や、結婚披露宴などでは、
前提としては、ナイフォークのセットが置いてありますが、
通常、箸のほうがよければ、箸と言えば、会場では用意してくれるものです。
それは、ここは日本だからです。
食文化の観点で見れば、そのことを押し付けるものではない、
という考えがあるからです。

 

私は、学生の頃、なんだかんだと、2食ほどを学食で食べていました。
当時、Aランチが55円、Bランチが75円でした。
今の10分の1ぐらいでしょうか。
で、そのような頻度ですから、チャンスだと思ったんです。
それは、ナイフ・フォークの使い方を身に付けてしまおう、という事です。
学食には、箸の横にないフォークが置いてありましたので、
どちらを使ってもよかったんですね。
それまでは箸オンリーだったわけですから、
ナイフォークを使うという事は、ごくまれなことで、
ぶきっちょな使い方をしていたんです。
これから、ナイフォークを使う機会は増えてくるだろう、と。
どうせなら、ナイフフォークを使いこなせるようになりたい、と思ったんです。
で、学食では、ナイフフォークを使うという事を決めたんです。


当然ですが、始めは食べにくいと感じましたが、
まあ、さほどの技でもないので、数か月でそこそこ使いこなせるようになりました。
でも、人によってかもしれませんが、
ナイフフォークが苦手、と言う人はいます。
私たちはこの国で生まれて、この国で成長し、この国の食べ物と、
料理を、この国の食習慣として身に付けてきました。
だから、ナイフフォークが苦手で当たり前なんです。
とはいえ原則としては、知っておいたほうがいいこともあります。
洋食のテーブルでは、ナイフやフォークが何種類も並べられていて、
さてどれから使うのか、と迷うこともありますが、

原則として、外側から使うのがルールとされています。

それは、料理に応じて使い分けるという事で、
肉料理の時は、肉料理用の、また魚料理の時は、魚料理用の形状の違うナイフフォークを使い分けるので、

料理の出る順に外側から使うように、というルールが作られてきました。
また、料理の出し入れは、左側からサービスされますし、
食器を引くための、食べ終わりの合図として、ナイフとフォークを皿の上にそろえておくなど、

食事をする空間での条件によって、決め事はありますが、
客と店、料理の出し方などによって、その方が安全だから、という事で、

このようなことが決められてきたわけです。


逆に日本料理は日本料理のマナーがあるとか言われることもありますが、
私はそれほどのものではない、と思っています。
最近話題になった、麺類の食べ方で、
音を立てて食べるのは品がない、と言う人がいますが、
うどんそばの類は、日本古来の食文化の一つですし、
すすり上げて食べるという食べ方で、音が出て当たり前。

ためしに音を立てずに食べると、味わい方としては、1ランク落ちた食味になります。
ですから、麺類はむしろ音を立てて食べるもの、とも言えます。
これは間違っても、否定するものではない、と思います。


食器も文化の違いをよく表しています。
洋食の場合、ほぼ丸い皿で出されますが、
日本料理の場合、丸だの四角だの様々な形状の器になっています。
洋食では、食器を持つという事が原則ありません。
食器を持って食べるのはマナー違反だ、と言う人がいますが、
そもそもは洋食では、両手がナイフォークでふさがっているからで、
皿を持ちたくても持てないわけです。
箸の場合なら、右に箸を持っていれば左手が空いているので、
食器を持って食べます。

先ず日本人なら、100%、手に持って食べます。
逆に、ごはん茶碗をテーブルに置いたまま食べることはしませんよね。

絵にならないでしょ。

食べにくいですし、途中落とすかもしれません。
ですから、食器や橋など、食事の形態に応じて、
食べ方も決まってくるわけで、
食器をもって食べる事がみっともないことではないのです。


ある時、食器をもって口に当てて食べるのはおかしい、と言う人がいたんですが、

じゃあ、最後に出てくるコーヒーは、スプーンで掬って飲むんですか、
と反論したら、答えることができませんでした。
要は、食べることにルールとかマナーを当てはめようとすること自体、
このような様々な食文化が入り混じった食卓に、要求することではない、
という事です。
先日と同じ結論ですが、
おいしく食べること、
食材、作ったくれた人絵の感謝をもって味わうこと、
これがマナー^と言えばマナーです。

| 水嶋かずあき | グルメ | 12:07 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
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