水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
デブになるメカニズム

昨日のブログで、タピオカを食べすぎると、(いや、飲みすぎると)デブになる、と書きました。


そう言えば、デブってどこからきた言葉なのか、と。
で、語源を調べたのですが、納得できるような説に出会えませんでした。
その中でも、まあこれかも、と言うのは、
double chin ダブルチン と言う英語で、
日本語で言えば二重あご、まあ太っているということです。
で、日本でのデブと言う言葉は、明治以降の言葉だそうです。
しかし、江戸の頃にすでに「でっぷり」という言葉があったようで、
これは漢字交じりに書くと、出っ張りが音として変化したのではないか、と。
でっぱり→でっぷり→デブ、ということです。
ま、どうでもいいことですが、いずれにしてもいささかあいまい。
しかし明確なのは、太った人をやや蔑む表現であるわけですね。

 

そこで、デブ連から、反攻がありました。
ちょっとその言い方はないでしょ、とばかり、
ぽっちゃり、という言葉に変えてきています。
これって比較的デブの女性が、自分のことをいくらかオブラートにくるんで、
ぽっちゃり、とかポチャとか表現します。
まちがって、太った男が、自分のことをポチャなんて言ったら、
運転席の窓ガラスを開けられ、ぼこぼこに殴られてしまいそうです。

 

その昔は、デブは経済的に裕福であったり、社会的に高位の立場にいたりと、

まあ、痩せている人から見れば、羨ましい存在だったようですね。

少なくとも、現代ほど、デブは軽蔑されていなかったようです。

ま、今では、軽蔑までされなくとも、デブであることが賞賛されるということもない、と思っています。

ただし、ごく一部のタレントを除いてですが。

私はデブを売り物にしているタレントを好きになれません。

基本は不摂生が表れていると思うからです。

 

ではどうしてデブになってしまうのでしょうか。
ま、これは生物としての基本的なメカニズムの一つで、
飢えに対する耐性を獲得するようになっているんですね。
要は食べれるときに食べておく、そして食料が枯渇した時に、

体内に溜め込んだエネルギ―で、食糧不足になった時をしのぐ、というわけです。

 

飢=食糧不足、に対する対応は、生物種によって異なります。
例えば、リスやクマなど、冬眠するという方法で無駄なエネルギーを使わない、と言う方法があります。
また、うなぎなどの場合、餌を十分に取れなくなると、体の中で非常警報が発令され、
すべての細胞が、非常時体制に切り替わり、餌を十分に取れなくても、飢餓に対する態勢がぐんと向上します。
時に、半年ぐらいは餌が無くても生きてゆけます。


ただ、普通の生物の場合、非常時が前提ですから、

コンスタントにエネルギーが貯蓄できるときは貯蓄するということになります。
したがって、現代の人間の場合、飢えを経験しませんので、

食べる時に意識的なコントロールをしないと、
食べ過ぎ→肥満、ということになってしまうんですね。

 

これは、いたって簡単な図式で、「摂取カロリー量」−「代謝量&排泄量」で表され、
答えがプラスだと太る、ゼロだと現状維持、マイナスだと痩せる、ということです。
カロリー量と言うのが、理解しにくいので、私はもっとわかりやすい計算式を使います。
それは、「飲食物の総重量」−「代謝量&排泄量」です。
代謝と言うのはいわば車が走るのに必要なガソリンのエネルギー量のことで、
ぼーっと生きていても、細胞が生きていますから、なんだかんだとエネルギーを消費します。
単純に言えば、運動すればそれなりに消費するわけです。
また、脳みそで使う分もあるので、とても複雑な要因を計算しなくてゃいけません。
また、カロリーと言うのは、脂肪分とか炭水化物とか、物によってカロリー数が変わるので、
これまた複雑な計算が必要になります。
そこで、私は、単純に摂取した飲食物の総重量を基準にしてみました。
だってこれなら、体重計ですぐに分かるでしょ。
この理屈は、500gの食料を摂取したら、体重は、500g増えます。
それ以上でもそれ以下でもありません。
で、代謝と排泄は計りにくいので、単純に、体重計の結果が、たいしゃとはいせつによるものだ、と考えます。
体重70圓凌佑両豺隋△修瞭食べた食料の総重量が1圓箸靴泙后
翌朝、体重を計ったら、70.1圓世辰燭箸靴泙后
つまり、100gが体に残ったわけですね。
カロリーはどう影響するのか、ですが、単純に、排泄されやすい、汗とか小便とかはともかく、
消費しにくい、つまりいつまでも体に残るものと、さっさと消費されたり、排泄されたりするものがあるんですね。
これは、複数日の流れで考える必要があり。
即座に亡くなるエネルギーと、日持ちの良いエネルギー源があるからです。
ですから、単純に体重計での数字をめどに、食を控えたり、もとに戻したりすれば、
体重コントロールができるようになります。

 

いずれにしても、人間の体は、普通に食べていると、太るようにできています。
これは仕方ないんですね。
そう言う生理的な仕組みになっているからです。
でも、理性的に考えれば、飢えに対する警戒は必要ないでしょ。
ですから、むしろ、人間の理性として、そこそこの体重コントロールはしなくてはいけないんです。

 

この後、食糧難の時代が来るはずです。
でもいつ来るか分からない状況に備えるのも大変でしょ。
ですから、先ずは、いま、無駄な食料を消化しないということですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
第三次タピオカブーム

タピオカがブームだそうです。
紅谷町にも、タピオカ専門店が登場し、開店時には行列ができるほどでしたが、
夏休みで学生がまちに出てこないのか、最近は閑古鳥が鳴いているという様変わり。

ま、それにしても、何をいまさら、という感じのブームなんですが、
かつて何回かブームの波があったそうです。


その第1次は1990年代前半、ココナッツミルクに入ったタピオカでブーム。
いま、いろいろ抹茶とか出てきていますが、このココナツミルクと言うのが、

ま、おそらく王道の飲み方ですね。

 

私が初めてタピオカを食べた(飲んだではなく)のが、20代前半。
今から、かれこれ50年前。
中華料理のコースで、デザートとして出てきたものでした。
まあ、当時は(今もそうですが)中華料理のデザートと言えば杏仁豆腐が定番。
で、時にこのタピオカミルクが出てくることがあるんですね。
時に、杏仁豆腐だと、またか、みたいなところがあったんですが、
その意味で、タピオカはとても新鮮な感覚になったものです。
ですから、時に杏仁豆腐かタピオカミルクかと言う選択になると、

無条件でタピオカを選んでいました。
しかし、いったいあの丸いぶつぶつはなんだろう、と疑問に思っていましたが、

まあそこまで、これと言った追求はしていませんでした。
ちなみにこのころは小鉢に入っていて、スプーンですくって食べたものです。

 

第2次ブームは、2008年ごろにはじまった台湾ブームのころ。
白いミルクに入っている黒い粒粒をストローで吸い上げ、
ぐにょぐにょしたものを嚙んだり飲み込んだりして、食べる。
なんとなく、ミルクを口に入れる量と、タピオカの量とのバランスを取らないと、
最後に、無味なタピオカばかり吸いこむことになるし、

その逆だと、結局ミルクを飲むだけになる、という、
多少なり計画的な食べ方が必要ですね。

 

で、今が、第三次と言うこと。

 

そもそもこのタピオカは、キャッサバと言ういも類のでんぷん質を練って丸めたもの。
キャッサバは、里芋の親せきで、南方ではごく普通に栽培されています。
実は、このキャッサバは有毒植物で、その皮には毒性があって、ここは剥きとり、
残りの身の部分を、茹でたり、水にさらしたりして食用にします。

あの黒いのは、キャラメルなどで着色しているそうです。
もともとは白いものですね。
で、実は、このキャッサバ、ハワイなどでも主食に近い食べ方をされていて、
実においしいものだそうです。
で、ついつい食べ過ぎて太ってしまう。

 

以前ハワイに行った時に、失礼ながら、小錦風の太った方が多くて、びっくりしましたが、
聞くところによると、キャッサバの食べすぎなんだそうです。
実はキャッサバ、かなりカロリーが高く、ジャガイモのほぼ2倍。
よく売れれているタピオカミルクなどは、Mサイズ一杯で、およそ400キロカロリー。
ラーメン一杯とか、生ビール中ジョッキー3杯分のカロリーに当たるのだとか。
おいしいおいしいで、太らないように気を付けてください。

 

先日第三次ブームにあやかって、自作タピオカミルクを作りました。
一つは、乾燥の小粒のタピオカ。
何分か茹でて、水にさらし、冷やしたところで、ココナツミルク、砂糖、牛乳の混合したものに投入。
まあ、普通のタピオカミルクがいたって簡単にできます。
正直、デザートとしてはあっさりしすぎていたので、
二度目は、これに練乳を混ぜてみました。
タピオカの無味な風味を、コクのあるミルクで、うまい具合のハーモニーとなり、これは正解でした。
冷凍のタピオカも売っています。
これは熱湯で30秒ほどで戻して、簡単に使うことができます。

改めて、専門店とかで買うこともないほど手軽に作れます。
ただし、高カロリーなので、ほどほどにしないと、デブになりますよ。
あの小錦風の。

 

旨い旨いがデブの元。

| 水嶋かずあき | グルメ | 16:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
NHK概論

かつて、早稲田大学の文学部の演劇専修と言う所に在籍していた時、

他の科にはないような授業が一杯あって、

放送概論とか、比較演劇論とかまあ、能とか歌舞伎の研究とか、特殊な科目があったんですね。

でも、さすがに、NHK概論なんてものはありませんでした。

 

若いころ、まだ今ほどテレビのチャンネルの選択権も少なく、
NHKから始まって、日テレ、TBS、フジなどの民放がちらほらあるだけ。
今は、これにBS・ケーブルテレビ、中には、有料系も含めれば、うんざりするほど番組枠が広がっています。
囲碁将棋だとか、釣りだとか、ゴルフなど、専門性も特化してきています。

その選択肢の狭いころでも、
それでもNHKはほとんど見ませんでした。
まあこれが若さと言えばそうなんでしょうが、
あの、妙に低いトーンの、ねちっとした番組構成が、肌に合わなかったのです。
それに引き換え、明るくて、キャピキャピしてはいるものの、軽快なテンポの民放系の番組は、
それなりに気に入っていたんですね。

 

それが不思議ですね。
年齢を重ねるほど、NHKの比率が高くなってきたんです。
民放の、あのキャピキャピ度が鼻についてきたんですね。
特にゴールデンで展開されるバラエティ番組の軽薄な展開は、
ちょっとうんざりすることがあります。
これだったら、どんよりした空気をまとっていようと、NHKの方がましかな、と。

民放からNHKに比重が移った理由と言うのは、

先ず年齢が高くなり思考が変わってきた、と言うこと。

NHKの構成が、幾分、アカ抜けてきたこと。

そして、年のせいか、CM時間に耐えられなくなってきたんですね。

ただのせっかちなのか、よくわからないのですが、

あのCMで流れのある番組内容が、中断されるのがとても嫌なんですね。

 

ま、ともかくNHKの、とてもスポンサーがつかないだろうという内容の番組が気に入っているんですね。


で、改めて総括してみました。
ただしこれは一般論ですので、例外、むしろその方が多い、があることが前提です。
まず、テレビから得るものは何か、です。
一つは知識です。
ほう、そうかと改めての認識することって多いですね。
ま、テレビでかしこくなる、というやつです。
もう一つは、情緒です。
単純に笑ったり、感動したり、大げさに言えば心潤うような効果です。
で、最後に、人生観に寄与するものです。
人はなんだかんだと目に見えない努力として、人生観を構築してゆきます。
これははかばかしい成果など得られるものではなく、
10年たって、ほんの一歩前進したか、と言う程度のものなんですが、

それでも、人はいかに生きるべきか、ということを、ひそかに模索しつつ生きているんです。
このことがややこしいことは、何が正解だかよく分からないということと、

得られる成果が計ることができない、ということです。

 

で、テレビで得られるものの中で、この人生観の構築なんですが、

この効果は、民放よりNHKの方が圧倒的に多いような気がするんです。
きっと人それぞれに共感する部分は、異なるのだと思いますが、

じっくりとか見知れる価値があることが多いですね。

逆に民法系の番組からは、このような学びは少ないように感じます。

 

同じように、ぼおーとテレビを見ているなら、

NHKの方がましかな、と思うことがあります。

まあ何時の間にか嫌っていたNHKのファンになってきました。
いやちょっと過剰に表現しただけです。


いまだにかみさんと、NHKの受信料て払うのが癪になるとか、ならないとか、とか言い合うんですが、
かみさんは、これだけの番組を見れるんだから、払うべきだ、といってます。
もちろん受信料は払っています。

 

N国の党首は、払わない、と断言していますが、少なくとも現在の法律では支払い義務があるわけですね。
国会議員が、最高裁が判断した現制度に違反するのは、おかしいでしょ。
まあ、マツコともめてみたり、崎陽軒の不買運動を提唱したり、
これが国のかじ取りをする人なの、と疑問ですよね。
しかも、戦争発言の丸山議員まで仲間に入れたとなると、ある種のポピュリズム的なテロでしょ。
見識・方向性ゼロですもんね。

 

ま、これも現政権のふがいなさにより発生した現象なんでしょうね。

 

すいませんテーマから的が外れました。

| 水嶋かずあき | - | 11:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
靖国神社の位置づけ

国賓としてアメリカを訪れた方が、アーリントン国立墓地で、
献花をする様子などが映像で流れることがあります。
ダダ広い墓地に整然と墓標が建っていて、
日本の墓地とはいささか趣が異なるようですが、
この墓地では、無宗教を含め、一切の宗教の区別が無く、
キリスト教はもちろんのこと、イスラム教、ユダヤ教の他に、
仏教や日本の新宗教である天理教、金光教、創価学会などの宗派まであるのだそうです。
正に寛容の場ですね。


南北戦争から始まって、第一次、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などの犠牲者、
9.11のテロの犠牲者も、建国、発展の支えとなった、という理由で、
ここに埋葬されているそうです。


その始まりは、1864年のこと。
以来、アメリカ国民の敬虔な祈りの場として、特別なものとして存在してきました。

強いて比較すると、このアーリントン国立墓地に当たるのが靖国神社です。
創建は、明治天皇の発議によるとされていて、
日本国の発展維持に貢献されたとする、いわば戦没者の英霊を祀る所です。


古くは、戊辰戦争の犠牲者から始まり、西南戦争、日清日露の大戦、
さらに太平洋戦争の犠牲者など、全246万体が慰霊されています。

創建の時期も1860年代と近く、
アーリントンと、靖国神社の意図、目的もほぼ同じです。

いわば、祖国のために命を賭した英霊を祭るという意味では同じですね。


しかし、アーリントンの場合、多くの外国の貴賓が公式に参拝するのに、
なぜか、日本の靖国神社は、それが見受けられません。
ともすると、自国の総理大臣が参拝するとすると、とてつもなく大きな雑音が聞こえてきます。

この原因はたった一つ。


1978年、宮司に就任した故松平永芳が、就任直後A級戦犯合祀を強引に進めた結果、
その年の10月に、実現します。

これは実に微妙な問題で、人によってはA級戦犯の人たちは、

国家の発展どころか、国民を不幸な経験をさせた張本人たち、
と言う解釈をする人が多いのです。

 

日本の太平洋戦争に関する思いは、様々ですが、
それでも、そのような道の選択をした責任ある人たちと、
それに巻き込まれ、BC級で命令のもとに行動したことも死刑の判決を受けた1000人の人たちとの違い。
まして、南方の島で戦死し、原爆の被曝で命を失った人たちは同列ではないだろう、という意見は、
私はもっともだと思うのです。

 

なぜ、どんな理由で松平永芳さんがその区別ができなかったのか、分りませんし、
またその決定を、何の反対もなく、神社として、実行したのか、それが理解できないのです。
冷静に考えれば、正に玉石混淆、十把一絡げ状態でしょ。
口惜しくも、戦地の露と消えた兵隊さんへの哀悼の気持ちを、

同じレベルでA級戦犯として裁かれた人々へ
同じように持てと言われても、それなりの違和感を感じるでしょ。

 

現に、昭和天皇は、この合祀に反対だったようです。
合祀後、ただの一度も靖国にお参りをしていません。
沖縄に、また激戦があった東南アジアの国々に、
戦没者慰霊の旅を続けてこられた方です。
深い反省の念を持っていながら、靖国にだけは足を向けませんでした。
靖国神社創建150周年にあたって、

神社としては、天皇の参拝をお願いしたそうですが、
断られたそうです。

 

神社の持つ意義、その創建はおじいちゃん曾じいちゃんに当たる明治天皇です。
にも関わらず、ということを考えると、なぜ合祀だったのか、
普通に考えれば、間違えた選択だったとしか思えません。

 

メディアの対応も含め、靖国参拝はトラブルのもとになります。
ですから、玉ぐし料の奉納と言う手で、安倍さんは済ませていますが、
参拝よりたちが悪いでしょ。

知り合いの葬儀に、都合でいけないから、香典を友達に頼んで届けてもらう、と言う手口ですよね。
これって、手抜きでしょ。
なんか、英霊に対する誠意を感じませんね。
行けば行くでとやかく言われるんで、ま、行ったとみなしてください、ということでしょうか。

 

それより、どうして、分祀に踏み切れないんでしょうね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 13:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
屁理屈擁護論

野球でも、サッカーでも、ボクシングでも、
要は、一対一の対戦で、勝ち負けを付けるスポーツの試合を見に行った人は理解できると思いますが、
応援するチーム、または個人が、負けてしまうと、
かなり、精神的に落ち込みます。
ま、その逆は、意気軒昂となり、正に気分爽快になるんですが。

私なんかは、ベルマーレが勝つと、その一週間は気分が上向きになりますね。

もちろん、その逆もあるのですが、

 

例えば、友人とベルマーレのホームゲームを観戦に行き、
負けた試合の後、球場から街なかまでの15分とか20分、歩いている間、
会話は、いまいち弾みません。
なんとなく、ネガティブな空気が支配するんですね。
その逆、スカッとした勝ち方をすると、
会話は弾むんです。
現金なもんです。
勝てばうれしい負ければ悔しい、と単純な反応をだれもがすると思うんです。

で、この負けて悔しいとか、意気消沈とかを繰り返すと、
私の場合、試合を見に行く気分がそがれるんですね。
つまり楽しみでなくなるわけです。
だって、見る試合見る試合負けて、いやな気分になると、
モチベーションが下がり、どうしようかと逡巡しているときは、
観に行かない、となるでしょ。
で、結局、私は直接、球場で観るということをしなくなってしまったのです。
まあ、意気地なしです。

 

多分、こういう経験をした人は多いと思います。
ですから、チームの戦績が良ければ、観客は増えるんですね。

ベルマーレはプロのスポーツ集団です。
観客の支払う観戦料で、食べていけるわけです。
観客をいかに満足させるか、と言うサービス業なんです。
ですから、勝ち、というよろこび、快感を提供することが

プロのスポーツチームの唯一無二の商品なんですね。

 

さて、その総責任者は、監督です。
試合運びがよかったとか、見ごたえのあるシーンが多かったとか、
まあもし負け試合なら言いわけみたいなことも、
基本的には、本来でない。
ともかく、なんであれ勝つことなんです。
どんなバタバタした試合だろうと、それがラッキーな要素での決着であろうと、
勝利を得ることに勝るパフォーマンスはないんですね。

したがって、勝つための総責任者として、監督は相応の指導をしなくてはいけない。

 

その方法論が論じられているのだと思うのですが、
勝利を厳しい訓練により得るという方法論は間違えてないと思うんです。
ま、厳しさの基準があいまいと言えばあいまいなんですが、
そもそも、そういう世界に入ってきているんですから、
いくら厳しかろうと、精神的なダメージで吐うと、
そう言う厳しさ前提の世界でしょ。
ですから何を言われたとかなんかで、チームを離れるなんて、
もともとこの世界を甘く見ていた2流選手の諸行じゃないですか。

それより、チームに残れる能力ではなかった、と考えるべきでしょうね。

 

たとえがぶっ飛びますが、
例えば、ボクシングの世界では、訓練、試合を問わず、殴られるんですね。
こいつが、外部に、殴られるんです、と、パワハラだと訴えたら、
バカじゃないの、殴り合う世界に入ったんでしょ、と笑われるでしょ。

プロの、パフォーマンスで食べてゆく世界で、
しかも勝利至上主義に世界で、
求められるパフォーマンスを発揮できないとしたら、
脱落するしかないでしょ。

 

指導者としては、なんとか能力を発揮させようとするでしょ。
あの手この手で。
でも、本人の能力がそこに届かなければ、これは脱落するしかない。

私は、敗者の言い分を聞けば、パワハラになると思いますが、
一方で勝者もテームの中には多くいるわけですよね。
この現実をしっかりと見るべきだ、と思います。

 

何やら調査委員会を設置して、この監督のパワハラ問題を精査すると言ってますが、
勝者の言い分も、十分に耳を傾けるべきだと思います。
この委員会には、
負けて尻尾巻いた敗者の言い分をまとめて結論を出さない見識を期待したいですね。

 

| 水嶋かずあき | ベルマーレ | 10:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
風化が進む戦争体験

あすは終戦記念日です。
ポツダム宣言受諾により、敗戦を受け入れ、それを国として公表した日です。
3年8か月にわたる太平洋戦争が終結を迎えた日です。


いくら国が始めた戦争とは言え、負けたんですから、

国民には、それはそれなりの屈辱感と寂寥感があったとは思いますが、
一方で、戦地にあっては、過酷な戦闘に巻き込まれ、いつ死ぬかという生存の不安が付きまとい、
本土にあっては、空襲におびえ、物資、食料が不足する中、悲惨な日々を送っていた国民にしてみれば、
解放の日になったはずです。

 

無条件降伏と言うと、いかにも、10対0の一方的比率の、
弁解の余地が全くないという状況での敗戦、と言う感じに捉われますが、
あのポツダム宣言をよく読めば、
降伏において無条件、つまり有無を言わせずという状態を突き付けられたのは、
時の政権であり、時の軍部なのです。
欧米諸国は、軍部・政権と国民を分けて考えていました。

 

たとえて言えば、今韓国が、NOアベ、YESJAPANと言ってるようなものです。
国と国民は本来一体ですが、時に指導者層の暴走に巻き込まれてしまうことがあるので、
ある国の姿勢と言うのは、注意深くチェックしなくては、なかなか本来の実態を把握できないんですね。
ポツダム宣言ではそのことが顕著に表現されていて、
この戦争を終結させることは、政権・軍部の暴走を阻止することだ、という考えが随所に読み取れます。
つまり国民には罪はない、ということです。

 

そして、戦後処理として、戦犯の裁判が行われました。
いわゆるA級戦犯とBC級戦犯の裁判です。
基本的な概念としては、A・B・Cとその罪の重さが軽くなって行くと考えがちですが、
むしろ、ABCの区別が別の概念分類で、
A級は、平和に対する罪で訴追された者で、
B級は、通例の戦争犯罪
C級は、人道に対する罪という風に分類されています。
とはいえ、やはり罪の重さから言えば微妙にABCの序列があるようですね。

 

A級戦犯容疑者として、100人余りが逮捕され、うち28人が極東裁判に起訴されました。
で、絞首刑7名、終身禁錮刑 16名、禁錮20年1名、禁錮7年1名の判決が下されました。
BC級ではおよそ5700人が裁判にかけられ、およそ1000名が死刑判決を受け、実行されました。
つまり、A級でも死刑を免れた人もいれば、BC級でも死刑になった人もいるので、
単純に罪の重さのクラス分けではないということです。

 

年配の方はご記憶だと思いますが、
テレビドラマで、私は貝になりたい、と言う作品がありました。
フランキー堺さんが主演。
終戦後、バラックのような建物で、床屋をやっている主人公のところに、
突然ジープで憲兵がやってきます。
そして逮捕され、裁判にかけられます。
容疑は捕虜の虐待。
ランク分けで言えばC級戦犯と言うことです。
で、この捕虜虐待と言うのが、妙な話で、捕虜に牛蒡を食べさせた、と言う事なんですね。
その捕虜の申告では、木の根を食べさせられた、と。
ドラマの主人公の言い分は、捕虜が痩せてしまったからせめての栄養補給としてごぼうを食べさせたんだ、と。
まあ食文化観の違いです。
とは言え裁判ではそのことが理解されず、主人公は死刑の判決を受けます。
なんと理不尽な裁判なのか、正義や真理はどこにあるのか、と言う事なんですが、
いよいよ、死刑執行の直前、主人公はもう人間として生きているのは嫌だ、
そして、また生まれ変わることができたとしても、人間には生まれ変わりたくない。
そう、深い海の底で静かに生きる貝がいい。
私は貝になりたい。
と言うわけす。

C級であっても死刑になったのです。


理不尽な裁判への批判より、
そう言う空気を作り出す戦争と言うものへの批判がテーマのドラマでした。

 

なんか、そういう戦争への批判、反省、懺悔と言ったものが、やはり風化してきましたね。
核兵器廃絶条約を批准しなかった日本政府の姿勢は、
やはり大いなる違和感を感じます。
おそらく、まだ原爆の悲惨さを傷として痛みが残っていた、30年前、50年前だったら、
日本は先頭に立って批准したいたんじゃないか、と思うんです。

現政権の愚鈍さの現れです。

 

終戦記念日に、風化させない平和を希求する心、
これをしっかりと持つことが大事です。
命を落とした310万人の御霊の為にも。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 13:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
再び寛容について

先日の広島における平和祈念式典で、松井広島市長が、
そのあいさつの中で、ガンジーの言葉を引用した、と言うことを
私のブログで紹介しました。
どんな言葉だったのかと正確に言うと、
「不寛容は、それ自体が暴力の一形態であり、
真の民主主義精神の成長にとって障害となる。」という言葉の引用です。

以来、私は寛容と言う言葉についていろいろと考えました。
結論を言えば、すべての人間が寛容の心を持った時に、
(可能不可能はさておいてです)
この地球の上に、真に平和が実現するのだろう、ということですね。


南アフリカ大統領だったマンデラさんも、要は寛容の精神を説いていました。
いま、国を代表して、ぎゃんぎゃんと相手をののしる事が流行っているようですが、
彼らに、ガンジーさんやマンデラさんの爪の垢を煎じて飲ませたら、
地球の上に穏やかな時間を瞬間的にでも取り戻せるるのではないか、と思います。

人に様々な歴史があるように、国にも民族にもさまざまな歴史があり、
若いころぐれていた人が、大人になって見違えるほどの人格者になった、
と言ったような国自体の変遷だって有ります。
部族間で、際限ない殺戮が繰り返されていたアフリカのある国が、
優れたリーダーを輩出したおかげで、
見違えるような民主的で先進的な国に変貌させた、なんて例だってあります。
南米の国で、一触即発の状態にあった隣国同士で、
それぞれの首相、大統領の奥方が話し合い、

このまま行けば自分達の愛する子どもを戦場に送り込むことになる、と、
危機感を共有し、それぞれのご亭主に働きかけ、衝突を回避させたばかりでなく、
軍隊を放棄させるなど、この地球の国にとっての理想的な状況を作り上げた国もあります。
要はリーダーが何を考えるかです。


北のカリアゲ君とか、アメリカのトランプ君とか、南のムン君とか、
もしかすると日本のアベ君とか、もっともっと寛容の心を持てたら、
隣国とのぎくしゃくした状態にはならなかったでしょうね。

さほど、寛容の精神と言うのは大事なことです。

 

私達は、寛容と言うと、
「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。
また、そのさま。」とあるような解釈をしています。
ま、いいじゃない、と受け流すことも含め、人間相互の穏やかな関係を保とうとすることです。
そもそも人は、普通に、寛容と言う状況を得るための努力をしていると思うんです。

 

この寛容と言う概念は、現在の解釈とは全く別次元で生まれたものだったのです。
元来は、異端や異教を許すという宗教上の態度についていわれたのですね。
そもそも宗教の原点は実は寛容にあるんですね。
人は多かれ少なかれ欠点を持ちます。
その欠点とは、人と人の融和の障害になるものです。
ですから、宗教では、寛容を目指すということこそ、本来の宗旨になるものなのです。


そしてこの寛容の精神は、

やがて少数意見や反対意見の表明を許すか、否かという言論の自由の問題に転化します。
正に、表現の不自由展での議論のようなものです。
そしてその概念が推敲されてゆき、ついには民主主義の基本原理の一つとなるのです。


ガンジーさんが語り、マンデラさんが訴えたことは、何より寛容と言う人の心の温かさこそ、
民主主義の根幹ではないか、という認識ですね。

フランスの18世紀の哲学者、ボルテールは
「君のいうことには反対であるが,君がそれをいう権利は死んでも守ろうと思う」と語り、
これは寛容の精神をよく示した言葉として引用されます。
しかし、寛容にも限界があるはずです。
寛容が成立する条件として、理性、良心、真理への信念に基いたものへのことであって、
民主主義を破壊しようとする言動に適用するのはまちがいである、ということです。
ここを間違えると、ワイマール共和国のような悲劇を招いてしまいます。
まさに、自由を侵害する力まで自由として認めるのか、ということですね。
正しいとされる想念から外れたものまで、寛容を当てはめるのは危険だ、ということです。
とは言え、またその線引きが難しいのですが。

 

大体、国民が不寛容に陥って、周辺の国などとの間で、不寛容な動きが生まれてきたら、
まあまあ皆さん、ここは寛容の精神を取り戻し、もう少し穏やかな心を持ってください、と
国民を指導するのが、指導者の役割でしょ。
なぜなら、私達のようなちっぽけで、心の狭い人間より、国、国民を指差し導びく役割があるのが、
国会議員であり、各大臣であり、首相なわけでしょ。
多くの人の代表ですから、私達より、ずっと大人(たいじん)と言う事でしょ。
大きな器を備えている、と言ったらいいでしょうか。
ですから、国民がちまちましたことで右往左往しているなら、
安定と平穏に導く役務があると言うことです。
不寛容の空気を、寛容に切り替えさせるのが、リーダーの使命の一つではないかと思うんです。
ま、現状では、正直、立場が逆になってますけどね。

細かい経緯とか理屈はさておいて、あとちょっとだけお互いが寛容になることで、
どれほど過ごしやすい環境になるのか、ということを考えるべきでしょうね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:45 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
ガンバーレ・ベルマーレ!!

昨夜は、Jリーグのホームページの試合の速報を見ながら、
ベルマーレ対ジュビロの、試合をチェック。
1点先行されたか、とか、そのあと3点取って、まあ勝ち点は確保、とか思っていたんです。
これで、一応中位までいけたな、とか、順位表を見て、少しは心穏やかになっていたんです。

 

で、今朝のネットを見てびっくり。
一体どうした、という感じでしょ。
ベルマーレのチョウ・キジュ監督がパワハラ疑惑ですって。
その記事によれば、今季途中交代の可能性があるとか。

私は、チョウ監督のファンに1人だったので、もしそうならショック大きいですよね。

 

3年ほど前、シーズン直前に、ナパサのこの人と60分で対談したことがありました。
その印象は、一言で言えば熱血漢。
そして独自のサッカー観を持っているんです。
この説得力と言うのがすごい。
様々な角度で話題が展開されましたが、

ただひたすら、この監督なら何とかなりそう、という印象でした。
以来、もしチョウ監督が何らかの要因で、ベルマーレを去ることになったら、
誰がこのチームの指揮をするのか、と余計な心配をしていたんです。
ま、いつかその日はやって来るにしろ、

それまでに、チームとしての基礎力をしっかり培っておくべきだ、と思ったんですね。
正直、現在では、まだまだ不十分。
J1に残るのが精いっぱいじゃないですか。

 

遠藤航にしろ、永木亮太にしろ、手塩にかけて育て上げても、
結局チームとしての財政基盤が弱いので、簡単に他のチームに引き抜かれてしまう。
となると大幅な戦力ダウンをする。
ま、これにへこたれず、次なる選手の育成をする。
こんなことの繰り返しでしょ。
そもそもサッカーチームはそんな世界なんですね。
その選手の能力と報酬のバランスが取れなくなると、移動する。
能力向上なら、報酬の高いチームに行く。
能力ダウンなら、1ランクしたのチームに行く、と言うのが鉄則。
そもそも新陳代謝の激しい世界ですから、数年で主力が入れ替わるなんてざらな話です。

 

したがって、チームとしての軸は、スタッフが作り出さなければいけない。
もちろんその中心は監督です。
その意味で、チョウ監督がベルマーレで果たした役割は大きいですね。
チョウ監督あってのベルマーレと言っても過言でないくらい。

 

さて、またまたマスコミがよだれをたらしそうなパワハラですって。
そもそも、セクハラにしろパワハラにしろ、時に明確な基準もないし、
これらの事案で、被害者と言うのが存在するわけですが、
加害者と被害者の関係にもよりけりでしょ。
精神的に弱な連中が、これはパワハラだと騒げば、世間は取り上げる。
なにこの程度、プロのスポーツ集団なんだから、普通だろ、と言えばそれまで。
実にデリケートな判断が求められるはずです。

 

だいいち、誰がそんなこと言いだしたんでしょうね。

外からは見ることができない世界ですから、推測で見当をつけるしかないのですが、
まあ、何だってこんなややこしい問題が持ちあがったんでしょうね。

正直、これでしばらくベルマーレは、サブマリン状態でしょ。
リーダーの能力がチームに与える影響は大きいはずです。
失礼ながら、神戸が、金に飽かせてタレントを集めていますが、
これと言った戦績に、結び付いていないでしょ。
おそらく、タレントを活用する能力のあるリーダー不在なんでしょうね。

 

サッカーチームはなんだかんだとチームワークで勝負するもの。
チームワークとは、その心の在り方でいくらでも変化するわけです。

そこを作り上げるのが監督の仕事ですものね。
私には、チョウ監督を超えるリーダーが、
そこそこのタイミングで登場するとは考えられません。

まあ、今、会社がやるべきことは、
正確な状況判断と、過剰なマスコミの情報垂れ流しのコントロールです。

 

ガンバーレ・ベルマーレ。

 

| 水嶋かずあき | ベルマーレ | 13:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ろうそくで照らせる未来

極力、中立的な視点を持ち続けたいとは思っているんですが、
最近の韓国のさまざまなニュースを読む限り、
常軌を逸している、という印象を持ちます。


日韓のメディアが、本当に真実を伝えていたとしましょう。
でも、逆に伝えていない真実もあるんじゃないか、と勘繰るほど、異常な感じなんですね。
日本がイラつくようなことだけではなく、反対の事象だってあるのではないか。
表面的には、そうなのかもしれませんが、メディアの誇張なのか。
メディアにあおられていないか、と言う警戒心すら生まれてきます。

 

そもそも物事には、プラスもあれなマイナスもある。
陰も陽も含まれる。
ですから、おそらく、陰としての真実を伝えたとしても、反対側の動きだってあるはずで、
過激な側面だけでなく、寛容の側面はゼロではないはずだ、と思うのです。
逆にそれ勘ぐってしまうほど、反日の動きのニュースは過激的過ぎます。

 

韓国の現状は、正に、坊主憎ければ袈裟まで、の類です。
ニュースキャスターがテレビの画面で、私の使っているボールペンは日本製ではない、
なんてコメントは行き過ぎでしょ。
不買運動と言うのは今までも時に現れたものです。
これは、政治的な効果を拡大するために民間の支持を得ようという目論みです。
つまり、国民も参加して、政府の意図を表現してもらいたい、と思ったら、
不買運動を提唱し、これを拡散するわけです。


特に、韓国のような国民性では、ポピュリズムに染まっているので、
簡単にこの類のことに同調しがちです。
行政体の備品までも日本製を排除するという動きが出てきたとか。
また、一挙に、訪日の機会を減らしているようですし、
最悪な感情としては、民間での交流事業を次々と中止していることです。

 

日本側からの見方かもしれませんが、
そう言う反日的行為で何が得られるんでしょうね。
逆に彼らが納得できる成果とは何なんでしょうね。
交流を中止し、日本製品を買わない、で、日本はとんでもない、と騒ぐ。
百歩譲って、日本はとんでもないことをしてるとしましょう。
じゃあ、日本は、何でそういう行動をとったのか、でしょ。

先日韓国政府筋からの見解で、交渉を打診しても反応がない、と非難していましたが、
例の、1965年の条約に盛り込まれていた第三者協議の提案を無視したのは韓国でしょ。
つまり交渉しようというチャンスを無視していて、今度は自分の主張を押し出す。
何だかとらえどころがないですね。
文さんも退官後、不幸な道を歩まなければ、と心配になるくらい、
見当違いのかじを取りつづけています。

 

一番の勘違いは、北との一体化を目指す政治姿勢です。
私は、現状の北の体制とは融和しないと思いますし、
かの国の抱え込んでいる負の資産は、

南が抱え込んで消化できるようなものではないのではないか、
と思っています。


かつて、東西のドイツが一体化することになり、
話が決まり、いざ東側の実態を精査してみたら、
とんでもない負債が多く、これを西が抱え込むことになったわけです。
そのせいで、ほぼ、10年、ドイツの経済は停滞しました。
ぼろぼろの弟を抱え込んだ兄貴が、歯を食いしばって頑張った。
でも、10年かかったわけです。

 

南と北の経済格差は、ドイツの西と東の格差の数倍とも言われています。
まあ、民族意識が高い所ですから、そんな苦労は厭いません、

と言うならそれはそれで美しい話ですが、
ドイツですら10年ですから、それ以上の経済停滞を覚悟すべきでしょ。
それに耐えられるかどうか。
冷静な試算が必要でしょ。
私は正直、南北の一体化は、非現実的な夢だと思いますね。

ろうそくで照らし出される将来は、

それほど明るいものではない、と思うべきでしょ。

| 水嶋かずあき | - | 09:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
酸素のおかげでしょ

私の身のまわりでもタバコを吸う人は結構います。
ところが不思議なことに、同世代とか、やや年齢の近い人の中には、
逆にタバコを吸う人は殆どいません。
理由は分かりません。
年を取るとともに、たばこを吸い続けると言う勇気が無くなってくるのでしょうか。
あれ程のヘビィスモーカーだった人が、次に会った時に、吸ってない。
で、どうしたと聞くと、ほとんどの人が、あっけないほど簡単に、やめたんだと言うんですね。
やめる時に未練はなかったのか、と聞くと、未練無し。
なんとなく、やめちまおうと思って、その日から吸ってない、とか。
実は、禁煙というのは、そうかもしれない。

そんな大そうに覚悟したり、構えたりするものじゃなさそうです。


私の場合もそうでした。
止めちまうか、と思った瞬間から吸ってないですから。

大体、歯ぎしりしながら、未練たらたら状態でタバコを止めようとすると、
心の中に葛藤が生まれてくる。
止めた方がいいのは分かっているんだけど、やめられないという意志の弱さ。
で、ねじ伏せるように、喫煙願望を抑え込もうとする。
でも吸いたい願望が大きくなり、心の中で戦い始める。
それそのものがストレスなわけです。
こんなストレスを抱え込むなら、まだ吸っていた方が精神的にも、肉体的にも
ましなんじゃないか、と思い始める。
どこかの医師が、やめるというストレスの方が体によくない、なんてことを言っている記事を読むと、
我が意を得たりとばかり、禁煙の意志が崩壊してゆく。


で、結局また吸い始め、短期間ながらの禁煙は、元の木阿弥になってしまう。
そこに残されたものは、意志が弱い、という現実を受け入れざるを得ないということです。
つまりマイナスの経験となって、心を一回り小さくしてしまうんですね。
たかだかタバコで、と思うかもしれませんが、禁煙に失敗すると、
間違いなく、人生の展望において、一歩後退します。


だって、そんなことですらできなかった人間と言う事なんですから。

 

私も喫煙期が長く、何度も禁煙に挑戦しました。
3〜4回はチャレンジしたと思います。
当然ですがそのたびに挫折するわけです。
なぜなら禁煙を繰り返したからこそ3〜4回なわけで、
もし一回で禁煙していたら、3とか4とかはないわけでしょ。
で、最終的に禁煙を成し遂げたのは、ある思いを持ったからです。
実に底レベルな理屈なんですが、
それは、たばこを止めている人間は、文化的である、ということです。
そう、私は文化的でありたい、そこそこのインテリジェンスを維持したい、

と言う願望があったものですから、
喫煙はそれに反する、と思ったんですね。
正に、ばかばかしいほどの屁理屈ですが、これが最後の切り札になったんです。

 

真に禁煙に踏み切れない人が、電子タバコに移行し、
ブラックよりグレーの方がまだましじゃないか、と思っているんだと思いますが、
やはり、電子タバコとは言え、それを吸うっていうことは低レベルな行為だと思うんですね。
だいいち、電子タバコが安全とか、それによる副流煙が無害である、なんて結論は得ていないでしょ。
むしろ煙草に依存する精神の弱さは相変わらずなわけで、
依存と言う精神の崩壊については、麻薬と変わらないわけでしょ。

 

電子タバコについても、次々と問題が発生してきていますね。
米食品医薬品局(FDA)は

現在、電子タバコの使用が原因で発生した127件の発作の原因を調査中なんだそうです。
確率だとか、症状のレベルだとか、具体的なダメージだとかについては、

明確なパターンは発見できていないそうです。
実態は、研究者にとっても、

電子タバコの長期的使用と健康被害の関連をまだ解明できていない段階です。
白かもしれないし、黒かもしれない。
で、白だったらとやかく言われることはないだろう、とでもいいそうですが、
本当にそれだけのことなんでしょうか。

 

私は、市内の北口駅前ロータリーの一角、また、まちかど広場の一角に喫煙コーナーがあり、
愛煙家が集まってきて、ぷかぷかやってるのを見るたびに、

みっともない絵柄だと感じているんです。
いい親父が、若い女が、たばこを吸っている様子は、絵にはならないでしょ。

 

そういう見た目以上に、大切な視点があります。
今から6500万年前、白亜紀がとじられた例の隕石衝突による大量絶滅が起きましたが、
この時恐竜が絶滅。
しかしすでに哺乳類の先祖は発生していて、極悪の環境を乗り越え、

生き残り、今日の基礎を作りました。
あの恐竜が絶滅し、ネズミサイズの小さな私たちの先祖が生き残った要因について、
多くの学者が、肉体的構造に違いがあったと、断定しているんです。
その差なんですが、哺乳類は横隔膜を備えていたと言うことです。
隕石が衝突し、ものすごい粉じんが大気中に舞う。
太陽の光が遮られ、多くの植物が死滅する。
酸素供給源の植物の死滅で、大気中の酸素濃度が低くなる。
ですから、酸素を取り込める能力が優れていた哺乳類に有利に働いたわけです。。
そこの差が、生き延びることの分岐点になったというんです。
つまり肺機能が恐竜たちより勝っていたということです。

 

私達は大変優れた肺機能を持っている生物です。
その機能を阻害しているのがたばこでしょ。

酸素を取り入れるための肉体的機能を雑に扱えば、まあろくなことはないでしょ。

生命活動の根幹が、酸素を取り込むことです。
生きてこれたベースですものね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 16:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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