水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
おにぎり

最近おにぎりが脚光を浴びてきているようです。

その専門店まで開店したり、

コンビニの棚に置いてあるおにぎりの種類が増えてきたり、

何よりも高級なおにぎりが登場するようになりました。

所詮おにぎりというのはいわば軽食のひとつ。

そもそもが、小腹が空いた時に頬張るといった感じの雑な扱いを受けてきたものです。

.

歴史的な経緯で言えば、携帯食として日本の食文化の中では

主要な位置づけを持っていました。

何より、源平の頃から発生した節武士の戦場における食料としては、

この上なく重宝なものだったのです。

腹が減っては戦ができぬと言うように、戦場では、なくてはならぬ食料でした。

少し時代が下って戦国時代の頃は、兵糧としての重要な役割を持っていました。

戦が始まると兵士が集められます。

地域地域のまとめ役の親分がいて、基本的には普段農業に携わっていた人たちですが、

いざ合戦の時は声がかけられ招集されます。

で、土地の親分から徴兵令が出され、兵が集まってくるのですが、

この頃、一つの約束ごと、決まりごとがあって、徴兵を受けたものは、

その日と翌日、二日間に関しては自前で食料を用意するということになっていました。

これはきっと戦闘が始まる、まあいえば城に集まったりすることにから始まるのですが、

食料供給班がなかなか充分に稼働して

分配できないといったようなことがあったんでしょうね。

何しろ場合によっては万単位の兵士たちがいるわけですから、

それは大変な作業だったと思うのです。

.

そこでとりあえず2日間は自前の食料でしのいでくれと、依頼というか、

命令があったのだと思います。

で、3日目から殿様から配られた米が手元に回ってきます。

この時一人当たり一日6号の米というのが基準だったようで、

この米は、親分のもとに頭数分届けられたはずで、その先は、チームとして、調理班が、

炊き上げ、これを配ったのだと思います。

兵士一人一人が腰から飯盒のようなものを下げて、

その辺の枯れ枝を集めて飯を炊くなんてことは、とてもじゃないけど非合理的ですから。

で、この炊き上がった飯を粗熱が取れたところで塩でも振って、

握り飯にして何かの袋にでも入れて戦場で動き回ったのではないでしょうか。

時に炊いた飯を干し、糒(ほしいい)として布袋に詰め、腰から下げて、

戦闘のさなかでも、時々それを食べていたようです。

ま、いずれにしても、握り飯は当時の重要な食料でした。

.

さて、そんな馴染み深いおにぎりではありますが、

ここに来てのおにぎりブームはまさに再認識ということの延長で

おにぎりの美味しさが認められたのではないかと思うのです。

おにぎりの美味しさは言うまでもありませんが、

それは米の美味しさです。

このおいしい白飯とそこにわずかながら包み込まれたおかず

たらことかしゃけとか昆布の佃煮だとか、

そういったものとのバランスが取れて、評価が高まってきているわけです。

.

このおにぎりは私は美味しくて当然だと思っています。

一つは米の持つ力ですね。

例えば明治の中ごろから日本の食卓の上にカレーが登場しますが、

これが広まった背景にはライスカレーという食べ方があったからです。

つまりカレーのルーと具材、それにライスのもつ淡白ながら旨味のある米の味が

ミックスされて、また一段と旨味を増すような食べ物なのです。

カレーを食べる人がご飯だけ食べてまたカレーだけ食べてというのは、

見たことがありません。

だいたいご飯にカレーを混ぜて食べています。

このご飯に混ぜて食べると言う事によって新しく発生する味覚が、

なかなかのものなんです。

.

うな重なんかでもそうです。

ご飯の上に乗った蒲焼を食べ、タレのかかったご飯を食べ、

というふうにもし別々に食べると、

これはせっかくうな重が持つ旨味を半減した食べ方になってしまいます。

私流に言う、正しいうな重の食べ方は、蒲焼を箸で小さめに切り、

それに合う量の白飯と一緒に口の中で混ぜ合わせながら噛むというのが

美味しさをダイナミックに味わう方法なんです。

ですからうな重を食べるときは、箸で食べるよりもスプーンで食べたほうがおいしいです。.

.

ともかくこんな風に米というのは何かと一緒に混ぜ合わせて食べる、

ということによって二つの食材のコンビネーションの結果が、

より優れたものになるということになるんです。

まあ、これが正しい食べ方だと思ってください。

その意味で、おにぎりというのは最初から混ぜ合わせて食べるような構造になっています。

ですからその美味しさが再認識されたわけですが、

しごく当然の流れではないかと私は思っています。

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よく人生最後の食事を何にするかという質問がありますが、

中には豪華な食べ物を人生最後の食事にしたいという人もいます。

A5ランクの神戸のステーキを食いたいとか、

伊勢海老の刺身を食いたいとか、

ウニイクラがたっぷり乗った海鮮丼を食べたいとか、

まあ、色々ありますが、

私はパリッと焼かれた有明かなんかのノリで包み、

ふっくら炊きあがった白飯、中には鮭がいいかしら、

そんなおにぎりを人生最後の食事にできたらと思います。

まあもっともしっかりと意識があって物を食べれる状態というのが前提ですけど。

| 水嶋かずあき | グルメ | 14:53 | comments(0) | - | - | - |
民族性とは、進化の結果のこと

ダーウィンの進化論は、
ガラパゴス諸島に住んでいたフィンチと言う鳥の観察によって、
その構想が築き上げられた、と言われています。
これは、島が変わるとそこに住むフィンチの形態が変化していたのを見て、
ダーウィンはある仮説を立てます。
そして、島ごとの違いはあるものの、
これは、元になる種は同じだったのではないか、と。
島のそれぞれの微妙な環境の違いが、鳥に変化を与え、
結果として、今見られる個体の違いにつながっていったのだろう、と。
要は、生物は、環境に適応しようと少しずつ変化し、
時間が経ってみると、積み重ねてきた変化が際立つようになり、

個体差に現れてくると言う事に気がついたのです。
.
これは、すべての生物種に言えることで、そ

の環境の変化と言うのは、違いとは言い切れないほどのわずかなことでも、

地域の個性の差が大きく表れてきます。
例えば、コンゴ川流域に暮らすチンパンジーですが、
たまたまこの川を挟んで分れて棲息するようになった
チンパンジーにとっては亜種ともいえる近縁種に、ボノボと言う種がいます。
ちょっと見は、ほとんど変わらないのですが、
生物学的には別種として区分されています。
チンパンジーは、雄主導の群れを構成していますし、その分粗暴な行動をとります。
時に、共食いまですることもあるくらいです。
一方、ボノボは、メス主導の群れを構成し、
穏やかな性質を持ち、ほとんど争いのない生活をしています。
この二つの種は、一つの川を挟んで西と東に分かれて暮らし、
川が広く大きいので、渡ることができず、
そのまま個別に進化した結果、違う種となるまでの進化をし、
存在するようになったわけです。
.
さて、われらが人類ですが、
およそ20万年前にアフリカの東で発生し、何万年かアフリカ大陸内を右往左往し、
10万年ほど前に、アフリカ大陸を出ると、世界の各地に散らばってゆきます。
まずは、中東を経て、西北に向かいヨーロッパを中心に暮らしの拠点を構えた者たち。
また、マンモスを追いながら、西北を目指し者たち。
また、インドを経由し、アジアに散っていった者たち。
さらには北から、アメリカ大陸に渡り、次にそこから南下し、
北アメリカ、南アメリカに生息域を広げた者たち、などなど。
ほぼ1万5千年前までに、地球のありとあらゆるところに進出します。
北の凍てつく大地に根を下ろしたものもいますし、
南の赤道直下の灼熱の地を選んだものもいて、
まさにそれぞれの環境は、天と地ほどの違いがあったのです。
.
そこで、世代を繋ぎながら、何万年と地域の環境になじみながら暮らしてゆけば、
当然ですが、土地柄ともいうべき資質がDNAとして固定化されてゆきます。
ガラパゴスのフィンチのようにです。
見た目も変わってきますし、性格も異なる。
穏やかな気質の者たちもいれば、争いごとの絶えない連中もいる。
それを、民族としても気質の固定化することもあったわけです。
自立心の強い気質と、自立心の弱い気質では、当然生き方が変わってきます。
これは、まさに民族的な差と言えばそれまでなんですが、
たまたま、そういう歴史を作り上げ、その中から生まれた差異であるという事です。
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例えば、中国も朝鮮も日本も、おそらく世界から見れば、
同じ地域の同じ気質を持つアジア人とみなされるでしょ。
私たちアジア人から見れば、
イギリス人もフランス人もドイツ人もその違いが見た眼で分からないようなものです。
しかし、中国も朝鮮も日本も、どこか微妙に気質の違いがあるでしょ。
中国人の大声での会話だとか、公共性の欠如は、
ちょっとDNAとして刷り込まれているだけの問題だろうか、
と感じるほど違和感があります。
朝鮮人の恨みの強さ、感情の表現など、日本人とは異なる、と感じます。
ほぼ同じ地域なのに、この違いは、
まさに島ごとに異なる進化をしたフィンチのごときです。
.
NHKのロシアの近代史のようなドキュメンタリーを見ました。
私たち日本人にとって、ここ100年ぐらいの中で、
あの国は驚くほど多くの国民を殺害してきました。
要因は、何回か繰り返された政治体制の変化の中で、
反対の位置にいるものの粛清とか、
近隣諸国との戦争の前線に、命と言う価値観もないまま多くの国民を戦場に送り出し、
死をも平然と受け止めてきたという、民族が持つ残忍さを感じました。
このような素地が前提で、この国を眺めてみると、
私たち日本人には不思議でならない、プーチン支持の8割越えと言う現象が、
わずかながら理解できるような気がします。
正にとっかえひっかえ、専横的な立場のものが登場し、
権力を肥大化させてゆく。
それによって、国民は彼らのなすがままにされても、余り疑問を持たない。
そして唯々諾々と強権の指導者を選択してゆく。
彼らには、自由より価値のあるものがあるのですね。
それがロシアのDNAなのです。
そう思うと、あの大統領選挙の結果が、さほど不思議と感じなくなります。
.
ま、結論は日本人でよかった、という事でしょうか。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 00:39 | comments(0) | - | - | - |
針千本飲ます

子供の頃のによく言っていた言葉が「嘘ついたら針千本飲ます」っていう言葉です。なにしろ針を千本ものですから
これはとてつもない過酷な刑罰です。
ですから嘘というのはこのような重い罪であるということですね。
 .
もし私は嘘を言ったことがありません、などと言ったら、
もうそれが嘘ですよね。
人は、嘘の質にもよりますし、その頻度にもよりますが、
微妙に嘘を言うことがあります。
昔、子供の頃、友達がせんみつというあだ名で呼ばれていました。
これはいうことが1000の中で三つぐらいしか本当のこと言わない、
という意味でいわばいい加減なことを始終言うとかの
代名詞のようなもんですね。
まあでもこのせんみつ君はちょっと話がオーバーなだけ
といえばそれだけのことです。
せんみつくんは、ある意味場を盛り立てようと、
妙なサービス精神があったのではないか、と思うんですね。
ですから、ただ嘘つきと非難してしまうのは
ちょっと見当違いなのかもしれません。
.
しかしですね、
先日の政治倫理審査会のテレビ中継を結構長々と見たのですが、
世耕議員の、弁明から始まって質疑に対する答えを聞く限り、
なんとなくこの人ちゃんとしていたのじゃないかと感じさせてしまう
なかなかの弁舌ぶりでしたね。
冷静に考えればそんなわけないという矛盾があちらこちらにあって、
結果的に責任逃れをに終始していたという印象です。
大半の人がこのように感じたようで、
いかにも清廉潔白のごとく振舞っていましたが、
結果として嘘つきという事が明々白々だったでしょ。
間違いなく嘘以外の何物でもないでしょ。
でないと矛盾が解きほぐせませんから。
今回の政倫審のやり取りを聞いて、
シラを切るというか、嘘を言うというか、
色々な表現を取りながらも結果として責任逃れをしているわけです。
.
話が変わります。
例えばその辺の一般の人がものを盗んでしまった、
また、嘘をついて金品を巻き上げる詐欺をはたらいてしまった、
なんて言う犯罪を犯したとします。
結果として警察に捕まり取調べを受けます。
で、この時に警察官は犯行の様子を細々と確認をして行きます。
そこで、記憶にありませんと答えたら、罪にならないのでしょうか。
目の前に物証を並べた上でも、知らぬ存ぜぬを通す。
この場合罪に問われないのでしょうか。
.
あの政倫審に、犯人を落とす達人がいて、この名物デカがやってきて
様々な角度で責め立てたら、もしかすると、
本当のことを言うかもしれないですね。
しかし、通り一遍のやり取りの中では、
知らぬ存ぜぬで逃げ切ってしまうかもしれません。
嘘と分かっていてもそう言う以上、
しかたがないと半分分かった上で質問してるんじゃないか
という気がするくらい、なんとも生ぬるい追求ですね。
一般の人が犯罪の容疑をかけられ厳しい取調べを受ければ
どこかで心折れて自白をするということは充分あるわけです。
でも政治家並みの屈強な精神を持って、
身の保全のために何があっても口を割らない、としても
記憶にありませんぐらいのこと言ってれば、
本当に罪に問われずにすむのでしょうか。
あのように公の場で質問をされ、
その答えが、どう見ても嘘じゃないかと思うことでも
顔色一つ変えずに、胸を張って質問に答えて様を見ていると
これってもしかしたら、
政治家の資質の一つなのかもしれないと勘違いしてしまいそう。
面の皮が厚いというか、良心のかけらもなく
平然と白を切り通すこの精神は、なかなか大したもんです。
でも結果としてそんな鉄面皮の人間を国会議事堂に送り込んだのは
私たち国民なんですね。
なんかどこかで民主主義のシステムが
ずれてるような気がしてなりません。
ロシアほど酷くないにしても、日本の国はどこかで
もう一度、真の民主主義が機能するような
きちんとした議員の選出方法を考えなきゃいけないでしょうね。
何かというと選挙という手段が最優先していますが、
どこかで微妙に本来のものになっていないような気がするんです。
よくよく考えると日本のそういう国民による審判もどう考えても
それほどのレベルじゃないなという気がします。
残念ですね。
民主主義というのは私たちの生き様そのものだったと
自負をしてきたのですが、
もしかするとそうじゃないのかもしれません。
.
毎日新聞は、全国世論調査を実施し、
自民党派閥の政治資金パーティー・裏金事件を巡り、
衆参両院で開かれた政治倫理審査会に出席した派閥幹部らが
十分に説明したと思うか尋ねたところ、
「十分に説明したとは思わない」が89%
「十分に説明したと思う」(5%)を大きく上回った、とのこと。
いつまで続くこのぬかるみの道、ですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 23:21 | comments(0) | - | - | - |
ラーメン3000円

先日のブログで8000円の海鮮丼について
ネットで炎上しているということを伝えました。
私は自分の考え方が少し偏っているのかなとも思いますが
子供の頃、空腹が満たせれば大満足という食事情に育った人間として、
どうしても価格の高い食事に抵抗があるのです。
求める人がいるからいいじゃないか、というのもありだと思いますが、
やはり、安くておいしいものを提供するというのは、
飲食業にとってのとても大きなテーマだと思うのです。

.
いい値だろうと、高い材料を求め、
その分高い値段をもらえばいい、というのは腕に技術がないと私は思います。
アワビだ、トロだ、いくらだ、ウニだと、超豪華な食材を載せた海鮮丼だとして、
板前がやることは、切って載せるだけ。
この海鮮丼を作るのに、何の技術もないでしょ。
品物を見る目はあるのかもしれませんが、
それは漁師が獲って、仲買が運んでくるだけの話。
ある素材を美味しくしてあげるのが、
調理の精神であり、腕だと思うんですね。
これをただ素材の高さとか、店舗のしつらえなどの中から、
価格を高く上げていくというのは、
どこか、食材を冒涜しているような気がしてなりません。
.
なぜか似たようなネタがネットに掲載されました。
方や8000円の海鮮丼でしたが、今回は3000円のラーメンということです。
会津喜多方ラーメンが3000円という価格で
超豪華なラーメンを売り出したことに賛否が寄せられているのです。
何が正しくて間違いかなどというのはこの場合問題ではありません。
3000円出しても食べるという人がいるのと、
3000円は高すぎるじゃないかと言う人がいる、それだけのことです。
反対する人は食べなきゃいいだけの話だし、
食べてみたいと思う人は3000円払えばいいだけのことです。
この賛否の中で、あるお笑いタレントが、
食べてもいないのに、高いと言って非難するな、と言ってましたが、
旨いまずいとか、値にあっているかなどの議論じゃないのです。
私のように、食べていませんが、3000円と言う価格に
なじめない、という事を考える人がいるはずで、
旨いまずいの話ではないのです。
私は食べません。
.
以前、20代の半ばごろほんの数年ラーメン屋をやったことがありました。
あるボーリング場のテナントに入ったのですが、このボーリング場が倒産し廃業。
一緒になってうちのラーメン屋もこけてしまいました。
きわめて短い期間だったのですが、一応ラーメン屋のおやじをやったことがあるわけです。
ラーメンというものはそもそも大衆の食べ物だと思うんですね。
あのどんぶりの中に油の浮いた醤油のタレが入って、茹でられた麺が入れられて
上のトッピングにはチャーシュー・メンマ・ナルト・ほうれん草の茹でたものなど
いろいろ見た目の彩りを考え、口の中の変化を考え、
トッピングを載せて、最後に刻んだネギを入れる、
これがパターンです。
やりようによってでしょうが、そんなに原価のかかるものじゃありません。
ですから今でも本気になってこのレベルのラーメンを売ろうと思ったら、
500円前後の売値でなんとかなるでしょうね。
ですから、近頃その辺のラーメン屋さんで850円だとか900円、
時に1000円を超えるラーメンを売ってるのを見ると、
ちょっと高いなあと、正直言って思います。
おやじさんが調理し、かみさんに手伝ってもらいながらやってるラーメン屋さんは
こんなに高くはありません。
なぜ900円、1000円のラーメンが登場するのかというと
チェーン店として運営企業そのもの経費が乗り、
スタッフの人件費がのってくるからですね。
ですから、会津喜多方の3000円のラーメンというのは、
ちょっと度が過ぎるでしょう。
ちなみにネットで伝えられているその内容というのは、
スープは豚ベースのあっさりしょうゆ味にシジミのダシなど混ぜてある。
そして大きな会津牛のチャーシュー、ワンタンのトッピングに、
別添えの小鉢には会津牛のそぼろや地元産の春菊のおひたしなどが添えられる。
また、ラーメン丼と箸は会津地方の伝統工芸、会津塗りの漆器が使われる。
さらに、付けてある会津塗の箸がもらえるのだそうです。
.
ここで提供されるサービスと内容については、
おそらく最上のものなのだと思います。
何しろ箸まで付いてくるっていうんですから。
でも、いくら会津塗の箸だろうと、欲しけりゃ別に買えばいい話でしょ。
むしろ、ラーメンについてきた割り箸を、
歯で噛んでパキッと割って食べるのも、
ラーメンの楽しむルーチンの一つだと思うんですね。
.
ま、それにしても、ラーメンと言うものは、おいしいもの。
一日一食でもいいと思うのですが、
なんとなく、太りそうな気がして、ついつい敬遠してしまうんです。

どこもかしこも、3000円のラーメンだったら、

当然、食べるのを躊躇します。

メタボ防止にはいい話なんですけど。

| 水嶋かずあき | グルメ | 07:46 | comments(0) | - | - | - |
職業柄

職業柄という言葉があります。
これはさまざまな職業がありますが、それぞれの職業上のノウハウだとか
商品だとかサービスなどを提供することの上で
その人そのものが求められるある種の能力、人格というものが、
どうしても必要になってくるはずです。
そこで少しずつ必要な物、求められるものを身に着けていく、
これが結果として職業柄と言われるものなのではないかと思うのです。
.
それこそ、この反対の言葉で言うなら
医者の不養生、紺屋の白袴といったような言葉もありますが、
職業というものが、その職業を選択したその瞬間から、
いやおうなしに、その世界における規制、あるべき姿というものを、
身につけなくてはいけないということです。
.
私の友人で教師を選択したものがいました。
彼と仕事の合間にたまに合って、酒などを酌み交わしていると
水嶋はいいな、自由でいいな、
例えば飲んだくれよと飲み屋の女性をからかおうと、
誰も厳しい目では見ないと思う。
でも俺は教師という職業から、やはり踏み外してはならない何かがいつもあって
その枠の中で生きて行くんだ、と。
確かに望んで得た職業ではあるけど、
いささか窮屈なので、たまにはこうした息抜きが必要なんだ、
といっていました。
その言葉の端々から、
いろいろなものを我慢しているという雰囲気があったんですね。
でも彼自分の職業に誇りを持っていたので、
とはいうものの正しい生き方というものを心がけていたような気がします。
教室で教える教科を先生として教える以外にも、
人としての生き方を後ろ姿で示さなければならないという自覚が
強かったのだと思います。
その想いのもと時にストレスがたまると、
私を呼び出しては一杯やるということになるんですね。
.
職業を選択した途端何らかの制約というものが生まれてきます。
飲食業を選択するということは、人にとっての優しさを
自分の中に精一杯培っていくということが前提になります。
時々つっけんどんで偉そうなことを言う食べもの家のおやじがいますが、
あれは間違いですね。
人に喜んでもらおうという職業なんですから、
その基本的な部分で、その人間は優しくなきゃいけない。
表面的な職業観で言うならば衛生観念が強くて、
身奇麗で、几帳面でなきゃいけない、なんてこともあるかもしれません。
さまざまな職業があってその職業で身を立てるわけですから、
なんでもかんでも自由であるというわけにはいかない。
.
今朝のテレビのワイド番組である議員が、
後援者に高級なクッキーをプレゼントしたということが取り上げられていました。
聞いてみると様々な事情があったようなので、
ただ単に公職選挙法違反と目くじらを立てるには厳しすぎるかなとは思います。
こういう自民党系の不祥事、
例えば女性議員がパリの研修旅行でエッフェル塔の前で手を頭の上にとがらせて
記念撮影をした例のエッフェルねーさんの問題でも、
こういう場面で再度表面に出てくるわけです。
そのどれも些細なことですよね。
誰だってあの憧れのパリ旅行をしたらそれは気が高揚するでしょうし、
ちょっとばかり気が緩んでそんな風なおどけた記念撮影をするかもしれません。
いつもお世話になっていて会食をしても割り勘をさせてくれないという鷹揚な後援者が
いたとしたら、たまには何かお返しをしなきゃと思うでしょ。
どれもこれも些細なことです海。
しかし、国会議員というのも職業と考えれば、
その職に着いた途端に
その辺のおじさんはちょっと違うモラルのレベルを維持しなきゃならないはずです。
こと言葉遣いも、人との接し方も、時間の使いかたも含めて、
さすがと言われるような生きざまを見せる必要があると思うんです。
いやそんなこと言ったっていろいろストレスも溜まるしさ、
と言うんだったらその職業を選択しなきゃいいんです。
しかし、さまざまな理由で国会議員という職を選択し、
そのことについて多くの国民が承認してくれたわけですから、
その瞬間にいろいろと制約を受け、
いろいろと我慢しなきゃいけないことが出てくるというのは、
大前提になるんじゃないでしょうか。
申し訳ないけど一般国民と同じレベルで見てはいけないと私は思います。
それだけの報酬を国からもいただいてますし、
それだけの責任を負っているわけですから、
ちょっとなんかあってとやかく言われるというのは、
これはそうならないようにするという神経の使いかたを求められるということですね。
.
職業柄という言葉のとうり、
政治家としての道を歩むのであったらば、
自己規制をしっかりする能力が求められるということです。
法律云々の前に一人の人間としてしっかりした人格を養うことが、
職業柄という言葉の意味だと思います。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:03 | comments(0) | - | - | - |
国会議員が多すぎる

あの若手の女性大臣のしどろもどろの国会答弁を聞いていると
よくこの人が大臣に任命されたものだ、と驚きます。
逆にあんなにたくさん議員がいるのに、
どうしてこんな選択がなされたのかと疑問に思いますよね。
.
現在の国会は衆参合わせて713人という多数の議員によって構成されています。
今回の派閥の問題も含め、
なんとたくさんの議員が存在しているのかとふと疑問に感じます。
.
ちなみに地方の議会では、状況に応じてその定員数が変化してゆきます。
ほぼ傾向としては数が少なくなってきています。
あくまでも全国平均の数ですが、
5万人未満の市区町村では、平均約17人。
また5万人以上20万人未満の市区町村では、平均約20人となっています。
平塚市の場合26万人の人口ですから、これより多く26人となっていて、
1万人に一人という感じですね。
地方では財政上の問題もあるのだと思いますが、
極端な話、選挙のたびにその定数が少なくなってきているような気がします。
これはある意味大人数でなくても、ある程度の判断ができるということの
実体験的なものが基礎にあって定員を減らしてきているのではないかと思います。
.
しかし、国会はこのような考え方をが反映されていないように感じます。
何しろ選挙のあり方、選挙区のあり方や形態、そして議員の数については
自らの首を絞めるような判断を国会議員がするわけがないですから、
財政がどうであれ、さまざまな要因も無視されて、
議員数を減らそうなどという動きは出てきていません。
ちなみに衆議院議員465名、参議院議員248名、
そして、それぞれが選挙区と比例生徒の比率があって、
1.5対1の比率で、比例制の議員数が抑えられています。
そもそも比例選出による議員というのは、
基本的に選挙が不得手な人がいて、
これらの人でも有能な人材であったら議員として国政に寄与してもらおう
と言う意図があったはずです。
ですから、選挙区で負けたから回り込むというのは、
読みが浅いというか、保険をかけているというか、
いささかせこいやり方ですね。
選挙に強いということと人間としての有能さは必ずしも一致するものではありません。
どうみてもあの厳しい選挙戦には勝てそうもないけど、
優れた知識、経験を持っているし、
見識が豊かであると言った人が国の政治を支えていくということは
人材活用という意味でもとても大事なことです。
しかし、こういう人が選挙に勝てるとは限りません。
したがって政党としては、
そのような人を比例制で議員にするというシステムなわけですから
これはこれでその本来の意図が生かされたら
素晴らしい選挙システムと言えると思います。
まあ、しかし実態はご存知のように、
本戦で負けた人が敗者復活のように上がってくる場合も
かなり多く見受けられるわけです。
残念なことですね。
.
さて、ここで言いたいことは713人もの議員が必要なのかどうかと言うことです。
私はさまざまな組織で様々な活動を進めてきました。
大体の場合、実行委員会のようなものがあって、
その場でしっかりと議論を戦わせながら、
より優れた方向を見出すというのが組織の会議のあり方です。
しかし、冷静に考えてみるとその席に出席していながら結果として
会議時間を通しても一言も発言しないという人が居るものです。
これはおかしな話で、情報を共有するという意味では、
出席も意味がありますが、そこで出される結論にその人の意見が反映されないとしたら
極端な言い方をすれば必要のない存在とも言えます。
ひとりひとりの意見を充分に引き出しながら中身を煮詰めていくというには
どう考えても最大30名、理想は15名から20名ぐらいでしょうか。
これより少ないと、逆に意見の幅が狭くなってしまいます。
そう考えると国会の本会議などをテレビ中継で見ると、
あの何百人かが席に座って議論をしているとはとても思えないでしょ。
要は、それまでに踏まえたステップを前提に
決議決定をする場であると捉えなくてはいけません。
したがって本来的な議論というのは委員会などがあって
そこで行われているということが前提です。
が、さまざまな委員会のテレビ中継を見ても
議員同士の議論が行われているとはとても思えない。
議長がいて発言者がいて、そこで質疑応答があって、
みたいないわば一つのしきたりの中で行われている議論のように思えます。
もっとフリーディスカッションのように感じたものを発言して、
それに対する反論が行われるといったような丁丁発止ろ議論の中から
より優れた結論を導き出すというのが本来の民主主義ではないかと思うのです。
その意味ではっきり言って713人の国会議員は必要ないとわたくしは思います。
地方が人数を削減しているにも関わらず、
地方行政が劣化したという話は聞いたことがありません。
しかし、国会はたくさんの議員がいますが、
国会の運営は劣化していると国民は感じているわけです。
一人ひとりの人間の個性、存在意義といったものを大事にするのが
民主主義です。
その意味で713人は多すぎないでしょうか。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:25 | comments(0) | - | - | - |
八十歳、老害

おそらく孔子自身の経験的な言葉だと思うのですが、
人生の節目節目にその年代のもたらすもたらすべき目標のようなもの
人としての在り方のようなものを論語の中で言葉にしてきました。
で、ご存知と思いますが、ざっと振り返ってみます。
.
15歳で志学、としています。
わが身を思うなら、その基礎に学ぶ姿勢が必要だ、
ということなんでしょうね。
まず様々な知識を身につけなさいと言う言葉です。
.
30歳で而立。
これは自立のことで、要はしっかりした経済基盤を確立し、
わが身を養うようになっていくということでしょう。
自分の行動が自分自身の生活を支えてゆくということを
自立と考えたのだと思います。
.
そして40歳は不惑です。
私は40になるときに、40になったら不惑の年だから
色々な迷いごとから解放される、
そういうものの考え方が身についているのではないかと
妙な期待をしたことがありました。
しかし実際は何一つ迷いからは解放されないんですね。
で、私はわが心の師である境野先生に不惑というけど、
なんか惑いっぱなしのような気がするんですよね、と言ったら
これを惑わずと捉えるのではなくて、
惑うまい、と考えればいいのだと言われました。
人生のさまざまな要素の中で時に誘惑に近いような
心揺さぶられるような出来事が目の前に生じますが、
それに応じることなく、惑うまいという、
しっかりした信念が必要だと言うことなんですね。
.
そして50歳。
五十にして天命を知る、と言われていますが、
私は、天明と知るではないかと考えています。
これは50年も生きてきたのだから、
その生き様というのはただ成り行きで選択してきたわけではない。
とすると、これはそのように生きて行くということ、
生き様そのものを天の命によるものではないかと、
まさに人生そのものを一つの宿命として
受け止めていく意味を持ったことではないかという気がします。
50年こうやって生きてきたのだからこの先も命があるのだったら
そのように生きていこうという一つの視点が
知天命ではないかと思うんですね。
.
で、60になると耳従、じじゅん、耳に従うと書きます。
耳から入ってくるさまざまな情報にとやかく自分の考えを挟むことなく
まずは聞いてみる。
ついつい60年も生きてくると自分の主張というものが存在しますが、
その前にまず聞いてみると言うその素直さ、
人を受け入れるという心の容量がこの耳順じゃないかと思います。
.
そして、70になると従心と言って、心に従うという意味の言葉を
孔子は言っています。
これは、もうそこそこに人生を積み重ねてきたのだから、
心の思うまま、感ずるものにしたがって生きていたとしても
大きな間違いはないだろうという意味です。
目の前のさまざまな現象さまざまな出来事を
素直に受け入れつつ、自分自身の行動を取っても
それは世の規範から、はみ出たものにはならないということですね。
.
そして、80代。
私も80代に突入しました。
で、孔子は80代を何と言ったのだろうと、改めて調べてみたのですが、
何も言ってないのです。
もっとも、孔子は74歳で亡くなりました。
したがって80代を経験していないんですね。
ですから耳順だとか従心だとかまでは言葉に表現できたとしても
80代は何の表現もない。
.
まあ当たり前の事ですで、もし孔子が80代を全うしていたとして、
一体何と言うだろうかと考えてみたんです。
勝手な想像ですけれども、老害といったのではないか、と。
80歳になりますと、それは自分はいくら元気だと思っていても
体力も落ちてきていますし、脳の働きもぼやけてきている。
にもかかわらず俺が俺がの意識の中でしゃしゃり出てきて
何かを言ったり、何かをしたりするというのは、
それはただ害にしかならないのではないか、と。
.
私がまだ40代の頃、よく仲間とこの町の将来について
語り合ったものですま。
さに幕末の頃の勤王の志士のようなものかもしれませんね。
そして、その会話の中に必ず出てくるのは老害という言葉でした。
当時70後半から80代のもう隠居してもいいんじゃないか、と思うような人たちが
結構、権力の中心にいて、その人達の言動が、
私たちの世代にとってみれば、何かズレを感じるようなものがあったのです。
.
しかし、自分がその年になってみるとよくわかりますが
世の中の流れにもうついていけない。
しかし自分は自分なりの経験があるからこの経験をもとに
若造が何を言ってるんだとばかり、存在感を示す、
という意識が根底の中に少しはあるものなんです。
実際、私はこんな思いを最近何回かするようになりました。
で、このままいるとまさに次なる世代のためになるようなことはなく、
ただただ、老害となってしまうんじゃないだろうかと思ったんですね。
これはどんな優れた人でもいやおうなしにそういうものになると思うのです。
.
政治家の中にもいるじゃないですか。
80を過ぎても大御所のような顔をして、
国会議事堂をうろうろしてる人たちが。
見ようによってはただの老害ですよね。
もし孔子が80代を生きていたとしたら、
そんなふうな視点で老害と表現し、
必要以上に出しゃばることを戒めたんじゃないかという気がします。
そこで私も老害を認識しながら
これから少し身を引いた位置にいようかと思っています。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 14:39 | comments(0) | - | - | - |
うまいけど高いってありか

ネットで8000円という海鮮丼が提供されているということについて
梅沢富美男とホリエモンがバトルをしているそうです。
梅沢富美男がテレビの番組で取材したこのお店に
8000円という高額な海鮮丼があることを知り、
これについて批判的な発言もしたそうです。
そして、最後に二度とないとまで言ったとか。
で、これを受けてホリエモンがそれなりの価値のあるはずのものだから
ケチなことを言わずに金を払えばいいんだ、とネットで反論。
.
まず、ざっとこの2人に対する私の人物的な評価をすると、
梅沢富美男さんですが、夢芝居か何かで一挙にテレビに露出するようになり、
女形で妖艶な踊りを見せていた時には、
これが男なのかと思うほど美しさを感じました。
その後ただの親父の風体でテレビに出るようになり、
好き勝手なことを言う開放的なキャラですが、
わたくしは彼が下積み時代にしっかりと味わってきた
人生というものがさまざまな言葉の中に滲み出ているといつも感心していました。
要は苦労人としての生き様を感じたわけです。
.
さて、一方ホリエモンですが、IT関連の仕事の中から急成長して
世に知られるようになりましたが、
多分はめられたのだと思いますけれども、
一応臭い飯を食うことになってしまいました。
私は状況はどうであれ前科者であるということについては
そのレッテルを外して見たことは一度もありません。
で、その後不死鳥のように蘇り、さまざまな分野での活動をし始めました。
そして本来の能力なんでしょうが、理にかなったというか、
感心するような視点で物事を解析しています。
ですから、彼の評価というのは、高いものを持っています。
.
で、ここにきて苦労人であった梅沢さんと
ある意味成り上がり者に過ぎなかったホリエモンの差が
明確に表れる論戦が始まったわけです。
私は生まれが戦中ですから、もの心ついたときは
焼け野原のド真ん中にぽつんとたった我が家で暮らし、
そして食糧事情は悪く、何しろお腹いっぱいになればいいという時代に
幼少期を過ごしました。
ですから今でも食べるものをとても大切にしますし、
まずは腹いっぱいになるということが体に染み付いて
うまいのまずいの、いいの悪いのと言うのは二の次になっています。
そんなことですから、自分は飲食店をやりながら、
なるべくリーズナブルな価格でお客さんに楽しんでもらいたい
という身に染みついた考え方があって、
ある意味ではどうもケチくさい視点で、食べ物を見たような気がします。
.
ですから例えば銀座のそこそこの名前のすし屋に行って、
いや、うまかったね、と絶賛している人がいますが
いくらかかったのかと聞けばやっぱり2万3万のお金を払っている。
一食ですよ。
一緒食べるのにそんな金が必要なのかと私は思います。
そもそもが、人という動物が命を支えてゆくのに、
2万も3万も食べるものに金をつぎ込むということは
その人間の価値としてどうなのか、と私は思っています。
.
そこで今回の論争の元なんですが
梅沢さんが8000円もする海鮮丼なんておかしいとクレームをつけて、
二度と食うかみたいなこと言ったのですが、
私はよくわかります。
苦労人として若い時から劇団員を養わねばならないという立場の中で
時に自分の腹を満たすよりも周りの腹を満たすことを優先したに違いありません。
よく赤貧洗うが如しというような貧しい家庭の物語の一つに
食事の時に子供にお腹をいっぱいにさせるものの
自分は食べたふりして終わらせるというお母さんの話が出てきます。
このような環境の中で育ったとしたら
食べられるということ自体がとてもありがたいことだという
感謝の気持ちを持ちながら食べ物に接すると思うんですね。
.
しかし、なぜかたまたま稼ぎが良くなって
一食の食費に財布の中身を気にすることなく使うようになれた 
身分の人たちにとってみれば、
粗末な食べ物を軽蔑するようになるのかもしれません。
反動として超豪華な高級な食事を自分の稼ぎから考えて
当然のものであると思うようになってしまったのかもしれません。
私は金持ちの外国人がやってきてその8000円の海鮮丼を
美味しいと言って食べたこのことについては
それは一つの事実ですから否定はしませんが、
飲食業者の一人として8000もの値をつけて物を売るという
神経が分からない。
確かに良い食材を使ってるんでしょう。
そしてそれなりの儲けも考えなきゃいけないから
8000円という丼物の値段としては異常な値段になってしまうのかもしれませんが、
それを売ってみようと思う神経が、
私は飲食業者として受け入れられません。
.
ご存じでしょうか。
日本にはまだまだその日暮らしの人たちがたくさんいるんです。
ちなみに生活保護を受けている世帯数は165万世帯余りです。
一世帯1.5から2人としておよそ300万人近くの人が
一日数百円の食費でその日を過ごしているんです。
この人たちにとってみて8000円という金額はもしかすると

半月分ぐらいの食品になるかもしれないこのことをやはり知っておくことがとても大事です。
こうして、今食べたいものを食べることができる、
多少値が高くても食べることができるという立場になっていたとしたら
それはそれで自分の能力でそこまでたどり着いたのですから
傍もとやかく言うことではないかもしれませんが
どこか心の隅に一食食べることのありがたさというものを
噛み締めながら食事をして頂ければいいかなと思います。
いただきます、ごちそうさまのことばは食事の前後にする
単なるセレモニーではありません。
今日このように命をつなげていることができるというのは
食べ物のおかげなんです。
食材の命の代償なんだから、高ければいい、うまいければいいと、
俺はこんなに高いもの食ってもなんてこと無いんだ、
なんて言う傲慢な心を養うために
食材は命を捨てるわけじゃないんです。

| 水嶋かずあき | グルメ | 10:53 | comments(0) | - | - | - |
徒然なるままに

徒然(つれづれ)とは、やるべき事がなくて、
手持ち無沙汰なさまなことだそうです。
平安のやんごとなきご婦人は、待っていてもやってこない殿御を思って、
時間つぶしをしているさまなどが、徒然と言ったそうです。
現代で、年を取って、ご隠居に近い時間の過ごし方をしている
私たちも、暇つぶしのネタ探しをしているのは、
徒然なんでしょうね。
.
そういえば、と思いついたように
吉田兼好の徒然草の一部を読み返してみました。
まあ今更ですが、枕草子、方丈記と並んで日本三大随筆と
言われるだけの中身がありますね。
そこで気になったのが徒然草という言葉の意味です。
これが、やるべきことがなくて手持ち無沙汰な様なので。
言いたい事を書いてみようか、ということの意味のようです。
まあ、もちろんそれなりに繊細な言葉が使われていますが、
気持ちとしては世間の様々な動きを、
多少皮肉ってみるところがあり、
その視点の絶妙なところは、爽快な感じさえします。
.
さて、改めて吉田兼好という人の履歴なんですが、
19歳で後二条天皇の即位に伴い、
六位蔵人に任じられる、とありますので、
それなりに将来を期待されていたのではないか、とも思えます。
そして後二条天皇の下で仕事をするようになりますが、
何年かして、後二条天皇が崩御されると、
おそらく、居所が悪くなったのではないか、と言う気がします。
しばらくして、兼好は出家し、職を退きます。
なんと30歳そこそこのことです。
言葉変えれば、若いご隠居と言えるのでしょう。
少なくとも私たちのイメージの隠居という概念では
若すぎますよね。
人生これからこれからじゃないかと思うんですが、
何を思っての出家なのか、色いろ詮索する研究者はいますが、
これといった確証は得られていないようですね。
まあ、そういうもんでしょ。
出家と言っても、食っていかなきゃいけないわけで、
厚生年金があるわけじゃないし、
かと言って金の生る木が庭先に生えているわけでもないし、
よほど実家がしっかりしていたんでしょうね。
.
下司の勘繰りですが、経済的な背景がどこかにあるんでしょうかね。
そして、歌人としてもそれなりに才能を発揮した人ですから
文章を作るのにも長けていて、
結果として三大随筆とまで言われた徒然草を書くことになったわけです。
最初の一部を書き上げたのが、30を迎えたばかりのことです。
そも割には、妙に年配者を想像させる文でしょ。
これは兼好のそもそもの才がなせる業なんですね。
.
私たちの歳になると
何か新しいことをしようなんて言う時間的な展望はできませんし
まあ、とりあえず目の前の手遊びに近いような時間つぶしの
ネタを探し回ってうろうろとするわけです。
幸いかなわたくしは人生の大半をかけて
ボランティアの活動をしてきましたので
その延長で暇つぶしというのは失礼ですが、
退屈をしたりやることがなくなってみたいな
よくあるご隠居さんの年齢になった人の
時間の使いかたということはありません。
.
その意味で、兼好は
若くして出家し、いわゆる生産性の伴うような仕事を
してきたわけではありませんが
30そこそこで世の中の現場から離れたものの、
ほぼ生涯をかけて徒然草を描き続けてきたということは、
どこかにそのことに没頭する為の時間の作り方というのを考えた上での
出家だったのかもしれません。
それにしても延々と年をとっても書き続け、
その間、さまざまな視点で世の中を見極めた認識力というのは
非常に優れていると思います。
おそらく自分の内側にある種の文才があると感じていたのかもしれませんね。
そしてその才能を生かすための身の振り方だったと考えれば
年が30そこそこであったということも納得できるような気がします。
ある意味その年で自分の将来を見据えて
その道を歩んだということはものすごい決断だったわけですね。
まあ間違いなく優れた文筆家であり、
何よりも秀でた哲学者だったと思います。
.
高校の頃にちらっと習っただけのことですが
改めてこの年になってその言わんとするところは
汲み取れるようになっているはずだという経験を認識しながら
もう1度目を通してみたいと思っています。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 19:33 | comments(0) | - | - | - |
のど元過ぎれば熱さ忘れる

人の価値観は、ある程度の共通しているのだそうです。
また、感情や情緒などもある程度共通していると考えられています。
確かに、そりの合わない人もいますし、
虫の好かない人も世の中にはいます。
かと思えば一目で気に入ってしまう相性のいい人もいます。
しかし、多かれ少なかれさまざまな要素で、
人は構成されていて、そのどこかに同調することが
距離を作ったり、距離を縮めたりということになるのじゃないでしょうか。
中国で昔から性善説、性悪説というものが議論されました。
けれども、やはり基本は性善なるものだろうということが
ベースになっているはずで、そうでないと、社会の構成が崩壊します。
ぎくしゃくした世の中なんて嫌ですものね。
したがって、人には善意があるということが前提になります。
誰もが人とは仲良くしたいと思っています。
ですから、人が幸せであることを肯定的に考えることも
普通にあることです。
しかし、一方で私利私欲を捨て去ることができず、
これが膨らむと野心になったり、
横柄な人柄につながってしまうことがあります。
こういったことを前提に考えても、人は実にさまざまなものなんですが
このさまざまなものをしっかりと把握して、
人との接点を作っていく人たちがいます。
これが基本的にはリーダーと目される人たちのことです。
会社で言えば社長であり取締役であり部長であり、
世の中一般で言えば政治家であり、
さまざまな組織のリーダーということになります。
この、人に共通する考え方、思いというものをたくみに使ったものが
あの占いです。
さまざまな占いが今までも登場し、消えていきましたが
その大半はある一定の法則に従った判断の仕方をするために
この占いは当たっていると思うんですね。
例えばこの辺ではあまり見かけませんが、
街頭に易者の人が小さなテーブルを前にして座っている風景を見かけたものです。
迷える子羊が一歩進み出て、手のひらを出して、生年月日とか名前とか
いくつかを伝え、自分の人生の指針を言ってもらえると期待します。
そして易者は、概ねその人の自分自身が
不運だった不幸だったと思うことをさりげなく触れ、
あなたは自分がなしたことに対する見返りが充分でないと思っている、
と言います。
誰もが私はこれだけやったのに、その報いが少ない、
という不満を持っているのだそうです。
だからこのことを言葉にして伝えると、
この易者は当たる、と思うんですね。
.
さて人の特性としてさまざまなものがありますが、
それらを概略で捉えて言葉の中にちりばめて行く人たちがいます。
主に政治家の先生方はこれが得意です。
人心を把握すると言いつつ一定の概念を当てはめてゆくわけです。
その言葉に多くの人は信頼を置き、
この国を任せられる度量を持っていると思い、判断し、投票するわけです。
.
しかし、国会での質疑等を見ていて、
人格的な厚み、幅、重厚さを持った政治家のなんと少ないことでしょうか。
薄っぺらな理屈のやり取りの中で、
相手をへこませば自分の力量があると勘違いしているようです。
本質的な議論よりも表面的な言葉のやり取りの方が
どうも目立つのが昨今の国会です。
.
人間とは、幸せとは、国家とは、民主主義とは、などの
人が生きる拠り所となる考え方に対しての議論が
なされたのを見たことがありません。
いつもいつも方法論のやり取りと相手方のミスに対するツッコミ、
そしてそのツッコミに対して曖昧模糊とした回答で
時間を過ごしているような気がします。
この先生方の特徴は、
人の噂もし75日、喉元過ぎれば熱さ忘れる、
といった人間の特性を前提にして議論をしているような気がします。
思い出してください。
モリもカケも、サクラもすべて消化不良だったにもかかわらず、
いつの間にか表舞台から消え去ってしまい、
今となっては誰も口にしなくなりました。
喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうんです。
人の噂も75日なんです。
私たちも情けないといえば情けないけど、
この人間の弱点を周知している政治家も
情けない能力で、職務をこなそうとしているわけですね。
.
この泥沼から、いつになった抜けだせるのでしょうか。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 16:58 | comments(0) | - | - | - |
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