水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
昔の人は鳥インフルの怖さを知っていた

街なかで生活しているものにとっては、
農業系の出来事は縁遠い感じがしますが、
よくよく考えれば、食材の生産をしているわけですから、
まさに他人ごとではないんですね。


青森と新潟で鳥インフルエンザが発生しました。
望遠レンズでとらえた青森のアヒルの処分しているところがテレビで写りましたが、
なんとも、凄惨なシーンでしたね。
フランス鴨のうち、4羽にその兆候があった、と言うことで、
殺処分が行われたのですが、全部で4702羽。

大半のアヒルが、なんでもないのに巻き添えを食らって、
殺されてしまったんです。
いや、もともと殺されて食べられるわけですから、
まあ、仕方ない、と言えばそうでしょうが、なんとなく可哀そうな気がしました。


新潟ではニワトリが鳥インフルにかかって、これまた大量に殺処分を受けました。
なんでも55万羽と言うことです。
クリスマスシーズンは、大量に鳥を食べますから、
生産者のにとっては、往復びんたを食らったようなものでしょうね。
いや、その経済的な損失もさることながら、精神的なダメージは、
かなりのものだろうと思います。


この鳥インフルエンザ、と言うのは、しばしば発生していて、
かつて、宮崎県で、大々的に感染した鳥が同じように殺処分されました。
鳥インフルエンザは、
ニワトリ、ウズラ、アヒル、七面鳥などの家禽かきんがかかりやすい
インフルエンザウイルスによる感染症で、ヒトのインフルエンザとは区別されています。
鳥インフルエンザウイルスは、鳥に対する病原性の強さから
高病原性と低病原性に分類され、
ヒトへの感染例が確認されているものは、何種類かのうちわずかです。

しかし、高病原性の物の中では、

鳥の体液や排泄物に汚染されたものを食べてしまったり、
生肉を摂食することで起こりますし、
発症後の致死率は60%、と言うことですから、なかなか恐ろしいウィルスです。


で、時たま思い出したように発生するのは、
どうも渡り鳥が媒介しているらしい、と言われています。
逆に言えば、渡り鳥がどこか別なところで感染し、
そのまま日本に飛来して、その飛来地から周辺の野生の鳥に伝染し、
その伝染した野鳥が家禽の小屋に入り込み、アヒルやニワトリに伝染した、
と言う経路のようです。
現に、青森の場合、小屋の基礎部分に小鳥なら出入りできるくらいのひび割れがあって、
ここから出入りした小鳥系の鳥から感染したんだろう、ということでした。
野生の小鳥にしてみれば、小屋の中には十分なエサがあるわけですから、

そのおこぼれを食べようと、侵入してくるわけです。
で、このアヒル小屋は、近くに沼があって、しばしばカモ類が飛んできて羽根を休めるのだそうで、
そこから伝染したんだろう、と推測されているようです。
ともかく、外から侵入されないような小屋の構造が必要なわけですね。

で、この大元になるどこかから飛んできた野鳥なんですが、
鳥にしてみれば、国境はないわけで、
暖かくなったらシベリアの原野で営巣し、子育てをする。
寒くなったら、日本にやってきて冬を過ごす、と言うことですから、
空を飛んでくる鳥の管理まではできないわけです。


ところが、この感染ルートと、鳥インフルエンザの恐ろしさを
日本人は古くから知っていたようなんですね。
それが、日本各地に伝わっている、七草粥を仕込む時に
歌う歌があって、今はほとんど伝承されていませんが、
このことを警戒している歌詞なんです。


ちなみにそのうちの一つ。
「七草なずな 唐土の鳥が 日本の国に 渡らぬ先に 合わせてバタバタ ・・・」
このバタバタと言うところは地方によって変わりますが、始めの所はほぼ共通しています。
要は、よその国、そのころは中国大陸と言うことだったんでしょうね。
この中国大陸から鳥が飛んでくる。
時にろくでもないことが起きる。
だから日本にやってくる前に、七草粥を食べて、無病息災を祈りましょう、
といった意味です。
この解釈はほぼ間違いないはずです。


今よりはずっと衛生管理などが不十分な時代に、
渡り鳥が運んでくる鳥インフルエンザウィルスによって、
時に人間が発病する、しかも場合によっては死亡率60%ですから。
いや、今の時代の60%ですから、
医療能力が低い昔なら、感染したらほとんど死亡していたかもしれません。
そういう恐ろしい病気を唐土の鳥が運んでくるんだ、と言う認識があったんでしょうね。
ともかく調べたところ、ほぼ日本全国で歌い継がれた歌のようです。
バタバタと言うのは、七草を棒のようなもので軽くたたいたんですね。
その時の作業の時に歌われた歌のようです。
昔の人の知恵った大したもんですね。

 

| 水嶋かずあき | 環境 | 15:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
また一つ、公営博打場

飲む・打つ・買う
最近はこんなことを正々と言うと、非難されそうですが、
そもそも男と言うものは、このような性癖がある、と言うことでしょうね。
この時代、それが甲斐性とは言いませんが、
目を三角にして非難することでもないだろう、と。
飲む打つ買うが男の甲斐性だったころは、まあ、いい時代だったのでしょうか。
男尊女卑の名残だったのでしょうか。


言うまでもありませんが、飲むは、酒を飲むですね。
飲酒文化は、人間社会ののどこでも発展してきましたから、
まあ、程々を前提に、ストレス解消とか、憂さ晴らし以外にも、
コミュニケーションの円滑化、など意味のある文化だと思うのです。
打つ、となると、これは博打(ばくち)の打つですが、
かつて丁半博打が中心だったころから見れば、
世の中こんなに博打場があるのか、と言うほどあるでしょ。
パチンコ、競輪、競馬、競艇、ボートレースにオートレース。
宝くじだって立派な博打でしょ。

博打文化満開です。
それだけにギャンブル好きは、結構多くて、身の回りでも、そこそこいます。
彼らを見ていると、もう、これは本能的な嗜好ではないか、と思うんですね。


そして、買うですけど、これは男が女を買う、と言うことです。
人類最古の職業とまで言われるほど、男にとって、
女性をものにするのは、本能そのものですから、
これが、金で何とかしようという領域に入ってくると、
まさに男の独壇場なのでしょうね。


とはいえ、パチンコ屋さんで女性客は珍しくもなく、
女性をターゲットにしたホストクラブなんてところがあったり、
居酒屋などでは、女性だけのグループがおだ挙げていたりします。
もはや、飲む打つ買うは、男だけの特権ではなくなりました。
つまり、そのどれもが、男女共用の世界になってきたわけで、
マーケットとしては、それなりにおいしい所なわけです。
そこに目を付けたのか、IR法案なるものが取りざたされています。
まあ、どう見ても強行採決としか思えないような審議の仕方で、
衆議院は突破しました。
当然のことながら、賛成派と反対派に分かれます。


私は、反対派です。
いくつかの理由があります。
賭博心を満たすには、驚くほど多様な機会に満ちているじゃないですか。
IRとか、総合型リゾートとか言って、
見た目を衣にくるんで本心を隠していますが、
リゾート的要素は、何もここで抱合せることもないくらい、
日本では十分な機会があり、それこそ、所得に応じた楽しみ方ができるはずです。
ですから、無理にカジノと、リゾートを抱き合わせる必要はないでしょ。
真の狙いのカジノだけにしたら、批判にさらされる、と思っているんでしょうね。

 

もう一つはだれが運営するのか、でしょ。
ともかく巨万の富を得られそうでしょ。
そこで、運営のノウハウなどから、アメリカの大手が乗り込んでくるのでしょうね。
先日、世界に先駆け、いち早くトランプ次期大統領と会談を、
安倍首相がしましたが、もしかすると、あの席で、
僕のお友達が、早く日本でカジノをやりたいと言ってるんだ、とか言われて、
IR法案の成立を急いだのかもしれません。
何しろ、今回のアメリカ大統領選挙で、トランプ氏の資金提供をした大口の企業に、
カジノ経営のお友達がいた、と言うことですから。
ありうることでしょ。


そして、ここが肝心なところです。
世の中に、様々な企業があり、生存の基本になる食料を主体とした衣食住の供給をしたり、
人間の生活の利便性に寄与したり、文化向上に寄与したり、要は、幸せに暮らす条件を整えるために、
様々な企業活動が展開されています。
つまり、企業とは、人の幸せに寄与することが第一義です。
にも関わらず、博打産業が人に幸せに寄与しているとは言えない。
だって間違いなく、寺銭をかすめとるのが、儲けの構造なんですから。


ちなみにパチンコの還元率(払い込んだ金額に対しての戻り率)は85%、とまあまあ。
競輪、競馬の類は、74.8%、およそ4分の3は戻ります。
宝くじは、45.7%ですから、半分以上取られてしまうのです。
言い換えれば、人間の欲望を狙って、半分以上金を巻き上げるシステムが、宝くじです。
外れると運が悪い、と言ってますが、もともと当たらないようにできているのです。
宝くじを買うことそのものが、運が悪い選択をしているということです。


さて、問題のカジノの還元率ですが、アメリカなどでは90%を超えるのだそうです。
競輪、競馬などより良心的、と言うことでしょ。
でもです、これはどうも表面的なことらしい。
そもそも、今回のカジノ法案でも、きっと細則で縛りがあると思うのですが、
還元率を定め、カジノからその報告を受け、規定以上に儲けた場合は、
資格取り消し、などの処置が待っているはずです。
とはいえ、自主申告なはずなので、中身はどうにでもなる。
そこがちょっと怖いと思いませんか。
ま、いずれにしても、幸せを提供する産業でないことは確かですから。

まあ、見様によっては、

この国は、国を挙げて、国民を不幸の道に導こうとしている、と思うんです。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:21 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
ぽつぽつやる月

12月となると、最終の月と言うことで、
いつもの月とは異なることが行われます。


大きく、4つあって、一つは大掃除。
これは、もはや隠居の身ですから、掃除に時間をかけることは何の問題もないので、
大みそかまでの間に、ぽつぽつと進めてゆけばいい。
いまは、洗剤など、えらく発達していますから、うまく選択すれば、
結構楽ちんに汚れが落ちるものです。
要は、いかに計画的にやるか、で、
スケジュール表を作ればいいんですね。
まあ、年も年なんで、無理のないよう内容に、と言うことです。


で、次は年賀状。
最近は、ほとんどが、プリンターで住所を打ち出されたものが多く、
賀状の準備をし始めると、
今年こそ住所録を作って、楽になってしまおう、と思うのですが、
微妙にこのことに抵抗感があって、これもまた、
ぽつぽつと書き溜めてゆけば、
住所と氏名ぐらいは、筆ペンで書こうか、と思うのです。


その昔、最大時は、700枚もの年賀状を書いていました。
もちろん全部手書きです。
ですから、月半ばから、一日何枚、と決めて、書き溜めてゆくのです。
たくさん書くと、やはり、手が早くなって、
手が早くなると、やはり字が汚くなるのです。
一時間ぐらい続けると、飽きますし、疲れる。
集中力もなくなって、どうしても雑になるでしょ。
ですから、一回の時間を決めるんですね。


油絵を描くときも同じように、一回の上限時間を決めます。
でないと、余計な筆を入れてしまうんですね。
多少の修正は効きますが、やはり、狙い通りすっきりとした仕上がりにならないことがあるんです。
これも集中力があるうちに、筆を休ませる、と言うことが必要なんです。
まさに、書も絵も似たり寄ったりの理由で、連続してやらないほうがいい、と私は思っています。

ぽつぽつやるのがこつ、ということでしょうか。


三つ目の12月の特性は、言うまでもなく忘年会。
それこそ元気なころは、あちらこちらの忘年会に全出席、みたいなところがあって、
二日に一回ぐらいのペースでしたが、
さすがに、日常の活動そのものが、スローペースになっているので、
いいとこ、週、1〜2回程度でしょうか。
これも、好むと好まざるとにかかわらず、ぽつぽつとやっています。
そもそもが忘年会そのものが最近は少なくなりましたよね。
会社関係などでも、開かなくなったところもあるとか。
時代は少しずつ変化してきていて、どちらかと言うと、
人間関係を薄くしてしまう傾向の変化が出てきていると思うんです。
酒を飲むということが人間関係を濃くするとは思いませんが、
でも、薄めないための意味を持っていると思うんですね。


さて、4番目のことですが、
それはおせち料理です。
私が料理を作ることが好き、と言うこともありますが、
おせち料理を、時間の限りかけて作る、と言うことに、ここ数年挑戦しています。
もともとは、舟平の頃に、商売としておせち料理を手掛けていました。
で、その中から、一組を自家用に回していたのですが、
商売をやめてから、ついでに回す、と言うこともできなくなり、
結局、作る、と言うことになったのです。
商売の頃は、数量が多いですから、たとえば金団などでも、
大きな缶詰に入った薩摩芋のペーストを使って、
練りを入れ、色を出すなど、多少の加工はしますが、
大本は、既製品を使っていたのです。


自作となると、どうせなら手作りしたい、と、
極力、自家製に切り替えたのです。
伊達巻なんかも、やってみればそれはおいしいものが作れるんですね。
こうして、なんだかんだと30品目ぐらいをお重に詰めるのですが、
30品目の中で、唯一、既製品を買ってくるのが、
蒲鉾です。
言い換えればそれ以外は全部、食材としての原料から作り上げるということですね。
いや、実に楽しい作業です。
現在、10組のお重を作っているので、
やはり一気にと言うのは難しいんですね。
ですから、これとて、様子を見ながら、ぽつぽつと仕込んでゆきます。
特に食材ですから、傷んでしまわないように、
手順とタイミングは、かなり細かい計画表に則って進めます。


確かに、12月は、やはりいつもとは違う空気が漂い、
気のせいか浮き足立ったことになりがちですが、
計画さえきちんと立てれば、
すべて、ぽつぽつとやれることばかりなんですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
宇宙人の姿かたち

ネットサーフィンをしていると、時々、地球外生命体とか、UFOなどの森に
迷い込むことがあります。
で、嫌いじゃないので、あれこれ探索をするのですが、
こう言うのって、恐怖より、ロマンを感じてしまうでしょ。
映画などでも、しばしば地球制服を目論む、エイリアンなどが、
超ハイテクの武器で、地球人を殺戮したりするシーンがあるので、
人間にとって、いかにも単なるSFで終わらせられない感覚があるのかもしれません。
さて、とはいうものの、その可能性はあるのか、ないのか。
ここが問題なわけです。


ともかく宇宙は、時間が経つにしたがって、とてつもなく広い所だ、
と言うことが分かってきました。
ちなみに、太陽系の直径は、およそ15兆キロメートル。
ったってぴんと来ませんでしょ。およそ1・5光年。
光の速度で進んだとして、1年と半年掛かる、と言うことです。
この太陽系が所属する銀河、天の川銀河などと言われていますが、
この大きさが、10光年。
1,000,000,000,000,000,000kmです。
なんだかよくわからないけど、凄い距離でしょ。
太陽系直系の33万倍あります。

私たちが子どものころ、宇宙は、この銀河で終わると思っていたんですね。

ところが、観測機器が発達し、宇宙の構成が分かり始めました。
で、さらに、この宇宙の大きさなんですが、分かった観測可能な範囲で、
およそ930億光年。
まあ、ここはおまけしてざっと100億光年と言うことです。
地球が生まれて、46億年。
そして消滅するであろうと言われているのが
50億年後ですから、
今、光速の乗り物に乗って出かけたとして、宇宙の果てにたどり着くのは、

地球が宇宙の真ん中にあったとして、
ちょうど地球が、太陽の大爆発で、それに飲み込まれてしまっているころのことです。
まあ、考えても、さらにピンとこない話でしょ。


ですから、この宇宙の中には、まさに無数の星があるわけで、
様々な環境と、それぞれの星の成り立ちを想定すれば、
地球と同じように生物が発生し、
それが進化を遂げて、知的生命体が存在している、
と言うことが、考えられる、と言うことです。


ただ生命を維持するための条件があって、
そこのところをどのように辻褄を合わせた想定をするか、です。
生命活動をするということは、エネルギーが必要です。
つまり動くための材料です。
で、おそらくそのエネルギーは、外部から取り入れるはずなので、
その取り込んだエネルギー源と、何らかの物質を合成又は化学反応させて、

エネルギーに転嫁します。
人間で言えば、動植物の持つエネルギーを取り入れ、
酸素によってエネルギーとしての熱を取り出します。
つまり、人間の個々の細胞が、取り込んだエネルギーと、
酸素によって活動できるシステムを持ち込んでいなければ、
私たちは死んでしまいますので、
食料と酸素は必須の条件になります。
宇宙人たちも、動くんですから、何らかのAと言う物質とBと言う物質が必要なはずです。


よく、霊的な存在物をあれこれ指摘する人がいますが、
現われようと、消えようと、霊と言えど動くんですから、エネルギーが必要です。
一体何をエネルギー源にしているかでしょ。
人の見えないところで、こっそりカップヌードルを食べている、とか、
何か、エネルギー補給の裏付けが必要なんですね。
そこが解明されない限り、霊は存在しませんし、

結論として、霊を感じる人の主観的な現象にすぎない、と、なるでしょ。


宇宙人もこれと同じことです。
動くためのエネルギーの補給システムがどうなっているのか、
実に興味深いじゃないですか。
つまり、何を食べているか、でしょ。
それとも、植物みたいに、光のようなものをエネルギー源にして、
体内でエネルギーを製造するシステムを持っているとか。
とすれば、あとは大気の原子組成の問題でしょ。


そこで、あれこれ可能性を考えても、
目と耳と、胴と手と足がある、と言う前提も妙でしょ。
ナメクジのような形態かもしれません。
生殖も、雌雄同体で、単純な細胞分裂によるものかもしれません。
ともかく、人間は、想像力が乏しいですから、
自分たちに似せようとする癖がありますね。


何より、神様と言うのは、人間と同形の形態として理解しようとしています。
苦し紛れに、神は神自分に似せて人間を作った、とまで言っているのですから。
ともかく人間型の存在として理解しようとするんです。
ま、といっても、宇宙人も、神も、いたとして、
人間と同形のわけがない、と思うのです。

だからこそ、かなり自由な創造ができるわけで、
そこが何ともロマンなんですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
カレンダーの季節です

この時期になりますと、来年のカレンダーが出回ってきます。
カレンダーと言うのは、生活の必需品ですから、
どの家でも、複数のものが、どこかにかかっています。
居間に、トイレに、自分の部屋に、と言う具合です。
会社でも、オフィスには、必ずかかっています。
で、どういうわけか、暮れになると、どこからともなくカレンダーが集まってきて、
改めて手配しなくても、何とかなってしまうんですね。
きっと、日本中に、この時期になると、カレンダーがあふれかえっているんでしょうね。


カレンダーにもいくつかのパターンがあって、
写真や絵などが配置されているもの、
また、ぶっきらぼうですが、そんな装飾的なものはなく、
ひたすら予定が書き込めるようなスペースが欄として並んでいて、
カレンダーと言うより、予定表のようなものなど、
実に様々です。


そんな具合に、きわめて多様なカレンダーが出回ってくるのですが、
どこかのオフィスだって、いくつもいくつも取引先から届けられるので、
一つ二つ選んだら、あとは社員に持って帰っていいよ、となるでしょ。
ですから折角そこそこの費用を負担して制作しても、
あまり有効に使ってもらえないことが多いのですね。
で、カレンダーって配ったところで、
このように効率が悪いということに気付いたある会社が工夫をしたのです。
そしたら、圧倒的に、使ってもらえる確率が増えたのだそうです。
一体どんな工夫だったと思いますか。
先を読む前に、ちょっと考えてみてください。
でも、多分、外れていると思います。


さて正解です。
普通、第一ページは1月からでしょ。
そこが付け目だったんです。
それはですね、ある時、11月から始まるカレンダーを作って、
10月になって配ったんですね。
もらった方は、えっ?と言う感じだったんですが、
まあ、あと2か月で取り換えるんだったら、今のうちに、といって、
大半の会社のオフィスが、そのカレンダーに架け替えてくれたのだそうです。
ところがこのカレンダー、11月から始まって、10月で終わってしまいます。
したがって、翌年も翌年も、否応なしに11月始まりのカレンダーを書けるしかないわけで、

そんなカレンダーはよそではないですから、

結局その最初に配った会社の物を書けざるを得ない、、
と言う状態になってしまったんだそうで、
この会社のカレンダーは、いつまでもかけ続けられる、と言うことでした。


以前、舟平でまだおせち料理を販売しているころ、
このおせちに付けるおまけ的なものとして、
和風カレンダーと言うものを製作していました。
このカレンダーの基本的な考えは、柱にぶら下げるもの、と言うことにしたので、
ひたすら縦長で、幅で7〜8センチ、長さが40センチちょっと。
和風ですから、文字は江戸文字で、上から下にかけて、
日にちが並んでいます。
日にちの次は、曜日、曜日の次は六曜が並んでいます。
さらにその後ろにはちょっとしたメモが書き込めるようになっています。
六曜は、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六っつで、
今はほとんど気にしない、と言うか、あまり意味がなくなりつつある概念になってしまいました。
我が友人が、なぜか六曜を気にするタイプで、
何か予定を決める時、その日は赤口ですね、とか、大安ですね、とかいうんですね。
それを聞いたほかの連中は、だからなんだ、と言う感じになっています。
もはや、日本の文化、その日の行動の吉凶を占う、と言う意味での
素朴なある種の宗教心などは、消滅しつつあるようです。
で、この和風カレンダー、印刷するんですが、
その原稿作りを、パソコンで行っていて、
毎年、11月半ばには、日にちと曜日、六曜を打ち込んで、私が原稿作りをしていました。
まあ、今では懐かしい思いで見たいのものですね。


さて、こんな前歴があったせいか、私は、自分用のカレンダーを作って使っています。
予定を書き込める部分が大きくとってあって、
このカレンダーがすべてのスケジュール管理のもとになっています。
確かに、カレンダーの中には、予定書き込み型のものもありますが、
それでも間に合わないほど、空白を必要としているのです。
ですから、どうしてもオリジナルになってしまうんです。
わたしに限って、その年の印刷されたカレンダーは必要ないのですが、
それでも、家の居間に掛かっていた前年のカレンダーなどは有効に使っています。
それは、裏側を使って、名刺をプリントアウトしているのです。
これを名刺サイズに裁断して、使っています。
名刺を渡すと怪訝な顔をされる方もいて、
言い訳がましく、小さ目に不要紙使用と書いています。
一年経って再活用、と言うことですね。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
食品ロス対策

食品ロスの問題が時々取り上げられています。
しかし、実態的な数値は、何が本当かよくわからないのです。
農水省の発表するデータも、かなり荒いもので、
一国の責任ある省庁が、こんな雑なデータでいいのか、と疑問に思ってしまいます。


たとえば、日本の食品廃棄食品の総量は、1713万トンだそうです。
で、その内訳は、と言うと、
事業系廃棄物が641万トン、家庭系の廃棄物が1072万トン。

一万単位の数字で表現されています。

で、問題はその先。
そこからさらに推計として、廃棄のうち食品ロス、とされる重量は、
事業系で、300〜400万トン、家庭系で200〜400万トン、とのこと。
いや、上限下限の数値が事業系で100万トン、家庭系で200万トンも誤差があるんです。

しかも単位は100万トン。

なんとなく説得力がないでしょ。
いかにも大雑把過ぎませんか。


こんなデータをもとに、食品ロスをなくしましょう、なんて、いくらアピールしても、
何が根拠なんだ、と問われた時に、明確に答えられないでしょう。
まあ、大雑把には、結構無駄にしているな、と言うことは分かりますけど。


問題は、食品ロスが、過度の食品安全の裏返しの問題である、と言うことです。
食品衛生に関しては、日本の国は、極端に進歩しました。
食品事故で死亡する人の数は、終戦直後の1848人をピークに、
年々減少傾向にあり、2009年、その翌年は、ゼロと言う記録を持っています。
2014年は2人で、しかも一人は自分で釣ってきたフグを食べて死亡、
もう一人は、山で採ってきた毒茸を食べて死亡、と言うことで、
通常、細菌性の食中毒での死亡事故は、先ず少なくなってきたんです。
何度もこのブログで書きましたが、あの文化的に進歩しているアメリカでさえ、
年間の食品衛生事故による死者は、5000人を前後しているというのが現状なのです。
これは、日本人の性分として、食品安全の意識にたいして高い文化を持ってたからです。


そもそも、刺身と言う生魚を食べるということ自体、相当にレベルが高い、
と考えていいと思うのです。
これはむかしむかし、少なくとも江戸の頃のことですが、
いま私たちが、調理するのに使っているマナイタがありますが、
そのころは、マナイタとソナイタ、の二種類を使い分けていました。
マナと言うのは、魚の意味です。
そな、と言うのは、疎菜の意味です。
魚の処理の板と野菜の処理の板を分けていたのです。
なかなかの知恵でしょ。
なぜか今では、マナイタと言う呼称しか残っていませんが、
ご家庭によっては、裏表を、魚処理用と野菜処理用に使い分けているところもあるようですね。


ま、ともかく、そのような文化を育んできたわけで、
その意識の上に、さらに、流通段階での進化があり、冷蔵、冷凍保存の改善があり、
ますます、食品の安全は高められて来ました。
鳥インフルエンザが発生したらしいとなれば、半径10キロ以内の養鶏場の鳥は殺処分されます。
なんだかもったいないような気がしますが、これも食品安全のためなんですね。


しかし、この食品安全の意識が、そのまま、食品ロスにつながっていると思うのです。
まだ大丈夫なのに、安全係数を大きく掛けて、廃棄してしまう、
こんな行為が積み重なって、年間で、500万〜800万トンの
まだ食べられる食材が廃棄されているのです。


食品安全は、もはや社会的なシステムで機能するようになってきました。
特に、食品に表示されている、消費期限なるもので、安全な期限を示していますが、
私は、文言として、消費期限ではなく、参考消費期限、とすべきだと思っています。
企業は、これらの表示を逆手にとって、消費者からのクレームやトラブルの責任を負うのが嫌ですから、
安全圏としての日にちの設定をします。
どう考えても大丈夫、と言うのが2か月だとしたら、標記には1か月、と書くのです。
私達消費者が、品物を買う時に、同じような商品でも、消費期限が2か月のものと、
1か月のものとの差を、あまり認識していません。
考えようによっては、2か月のものの方が、一か月のものよりも、商品価値は高い、と言っていいでしょ。
しまし、実際には、ほとんどそういう価値の評価はしません。

売れ行きに関係なかったら、企業は安全策を優先します。
したがって、ただひたすら企業側の安全のために、消費期限を短くしているのです。
これによって、消費者は印刷された数字で判断をしてしまうんですね。


時に、食品庫の奥にしまわれたまま、うっかり食べそこなってしまうことがあります。
でも、数字で判断するのではなく、先ず開封して、舌で判断すべきです。
舌は、味覚を感知する機能を持っていますから、
多くの場合、うまいまずいの判断器官と思っていますが、
実は、食べていいかどうかを判断する器官なんです。
まだまだ原始的な生物だったころ、手に入れたエサが、
食べてもいいかどうかを判断するために、舌の機能は与えられたんですね。
合わせて、栄養的な観点でも、適切な食材かどうかをチェックしてきたわけです。
これらが、結果的にうまい、と言うことにつながるんですね。
私達が備えている、この機能をもっと活用すべきです。
目で読み取る数字ではなく、舌で感じ取る感覚で、
食べれるかどうかを判断しましょう。


これが、食品ロスを減らす最良の進め方です。

| 水嶋かずあき | グルメ | 10:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
わが身は我が身で守りなさい、ですって。

災害の記録と言うのは、一種の古傷の跡のことなんです。
昔、ここでこんな災害が発生した、と言う大地に刻まれた証拠、みたいなもんです。


ですから、地震などについては、古文書を調べるところから始まります。
寺などに残されている、伝来の古文書などから、
その地域で、どのような災害が発生し、村人たちにどのような犠牲が出たか、
などの記述から、災害の規模などを推定してゆくのです。
水害なども、同じように、様々記述から、過去の出来事を知り、
現在の対応に生かしてゆく、と言うわけです。


そもそもが、大地には、造成されてきた経緯があって、
その特性から、地震が起きたり、洪水が発生したりするのですから、
いわば前科を熟知し、その再発の際、極力被害を減少させよう、と言うのが防災の原則になります。


たとえば、金目川は、その河床が高いことで知られています。
このことは、利点として、
水を分配しやすいので、その周辺は水田が発達し、
現に、県下で有数の稲作地帯になっています。
ちなみに最近開発された「はるみ」と言う新品種のコメが栽培されるようになりましたが、

先日、あさつゆ広場で購入し、炊いて食べてみたのですが、
これがなかなかの美味で、新潟産のコシヒカリあたりと比べて、
そん色がない、と言えますね。

お薦めです。


さて、話を戻して、

金目川の河床の高さは、利点がある一方、逆に、しばしば氾濫を招き、
江戸の頃の記録からも、10年に一度は洪水を起こしていたようです。
今の土屋橋あたりから、東雲橋あたりまで大きく蛇行を繰り返しながら、
弓状に曲がっていたため、大雨が降ると氾濫をしたようで、
文禄4年の大洪水を契機に、南金目あたりの土手の強化工事をしたようで、
そのいきさつが、家康公からの特命と言うことで、大堤と呼ばれるともに、
「御所様堤」とも言われているそうです。

つまり、あのあたりの金目川は、前科者なのです。

 

歴史的な経緯はともかく、
と言うことは、また水害が発生しない、と言う保証はなく、
このブログでもしばしば指摘してるように、
渋田川、鈴川、金目川の合流地点は、十分に警戒が必要になります。


遅まきながら国交省からこんな指令が出されました。
「過去に起きた水害の被害状況をもとに簡易的な浸水想定を作成し、
市町村などと共有するよう都道府県に促す」と言うことなんです。
これは、煩雑な手続きを取ることなく、
市町村が住民を避難させるための判断材料を増やす、と言うことなんですね。


水害時に、市町村が避難情報を出す目安などとなる水位には、
切迫度が低い順に「水防団待機水位」「氾濫注意水位」「避難判断水位」「氾濫危険水位」とあります。

余計なことですが、このような言葉が並んでも、一般的には、めったに聞かない言葉ですので、

ピンとこないでしょ。

ですからそれぞれに番号込の呼称にすべきではないでしょうか。

例えばです、「1水防団待機水位」「2氾濫注意水位」「3避難判断水位」「4氾濫危険水位」

と言ったようにです。

言葉がピンと来なくても、数字で、何となく切迫度が分かるでしょ。

工夫がほしいですね。

 

さて、避難判断水位は避難準備情報、氾濫危険水位は避難勧告などの目安となるものです。
これを、自治体自身で判断できるような目安を作ろう、と言う事です。
現在の気象情報から、予想雨量が知らされるわけですから、
ある一定地域にどのぐらいの雨が降るのかは、予測できるわけです。
たとえば、蓑毛あたりを中心とした山に、ある雨量が予測できたとします。
すると、分水嶺の内側の面積から、ある時間の中でどのぐらいの水量が
大地に降り注ぐのか、は分かります。
で、このうち、初期的にその地域の地面の総面積が吸収する水量を計算し、
降り始めから、30分すると、もはや大地は吸収できない、とします。
するとあとは、オーバーフローするわけですから、
これらの水量が川に流れ込む、と言うことになります。
一方、川には排水機能もあるわけですから、これを引き算します。
すると、そこにどのくらいの水量が流れるのかは、計算できますでしょ。
それが、土手の容量を超えたら、決壊、氾濫、となるけです。


基礎的なデータさえ用意できれば、それこそ瞬時に安全か危険かの判断ができるはずです。
もちろん、現場でのデータから、修正は必要でしょうが、
自治体単位でこのぐらいの危機管理システムを持っていても不思議ではないでしょ。
まあ、今更ながら、国交省はこのことを発令したわけです。
わが身は我が身で守りなさい、と。
これは正論ですね。

| 水嶋かずあき | 環境 | 10:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
再度チャンスだ、朝弁慶

今までも、何回かこのブログでご紹介してきましたが、
高砂部屋の朝弁慶についてです。
9月の秋場所、大幅に負け越して、幕下に陥落。
この九州場所に再十両をかけて、奮起したものの、4勝3敗で勝ち越しましたものの、

幕下、西3枚目という番付の位置から、十両は無理だろうと思います。
先々場所、せめてあと一勝していれば、先場所の位置ももう少し上だったと思いますし、
そうなれば、先場所の成績でも幕下と言うこともなかった。
また、先場所、もう一勝していれば、幕下への陥落はなかった。
今場所、あと一勝していれば、十両の可能性が大きかった、
などなど、たらればの話ですが、わずかあと一勝を、
ここ三場所でしていれば、関取でいられたんですね。


話に聞くと、関取(十両以上)かどうかで、天と地ほどの差があるんだそうです。
それも極端に、待遇が違うんですね。
だから、そこは奮起すべきでしょ。
今場所、高砂部屋ただ1人の関取で、西十両9枚目の朝赤龍の成績が
4勝11敗となりました。
十両最下位まであと5枚、仮に千秋楽に勝っていれば、
十両にとどまる可能性があったのですが、もはや絶望的な状況となり、
来年1月の初場所での幕下陥落が確実な状況。
朝弁慶ともども幕下での番付になりそうで、
高砂部屋としては、初場所では関取不在となりそうなんですね。


高砂部屋は、明治11年の部屋創設から、関取を輩出し続けてきた名門の部屋です。
なんだかんだと、あまたある相撲部屋の中で、
唯一、関取を絶やしたことのない部屋だったのですが、
ここで、その伝統が途切れてしまいそうなんです。


高砂部屋は、ずいぶんと昔から、平塚市との縁が深かったんです。

あの横綱、朝青龍がまだ、とりてきのころからの話です。
毎年、夏合宿を総合公園で行っていて、
そのために、平塚では、高砂部屋のファンが多いんですね。
まして、ここで、平塚出身の関取誕生と言うことで、
何かと盛り上がっていたんですが、
結果として、新規まき直し、の状態になりました。


私は、9月のSCNクラブの番組で、朝弁慶関を取り上げ、
何かと取材をしたんですが、
その中で、朝稽古を取材がてら見に行きました。
何人かの親方が、稽古中の力士に、
あれこれ指導をしているんですが、
正直、そんなもんでいいのか、と思いました。
いまどきのスポーツ科学の概念を全くと言っていいほど
取り入れていないと思うんですね。
まあ、相撲ってこんなもんだ、で終わっているような気がするんです。


九州場所の千秋楽、テレビ中継で、解説者の方々が、
この一年を振り返るみたいな話をしていて、
年間最多勝を稀勢の里が獲得し、
これについて、一度も優勝がないというのは、何が足りないのか、
と言ったことに触れたんです。
すると、解説していたお二人がの意見が一致しました。
それは、もっとしこを踏まなきゃいけない、と言うんですね。
しこを踏むことが非科学的だとは思いません。
でも、それ以外の効率的な訓練方法もあるんじゃないか、と。
私は何人かの元関取と知り合いましたが、
彼らに共通していたのは、怪我が要因となって、負けが込み、
番付を落とし、その結果引退、と言うことになったんですね。
よく、日の出の勢いで、番付を上げてくる力士がいますが、
しばらくすると、幕内の下位を低迷している、
と言うことがよくあります。
これは、様々な要因があるのでしょうが、
大半は、怪我をしたために、力を発揮できない、と言うことのようです。


相撲取りの最大の敵は怪我です。
ですから、怪我をしないための、また怪我をさせないための何らかの訓練と、
ルールを作る必要があるんじゃないでしょうか。
そうすると、迫力がなくなる、とか反論されそうですが、
怪我が当たり前の世界って、それもおかしな話でしょ。


ま、ともかく、来場所は、きっと幕下筆頭になると思いますので、
朝弁慶さんには、どうか踏ん張って再度関取を目指してもらいたいものです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
クロージングコストに20兆円

確か、福島原発の事故の後に脱原発の機運が高まった時、
政府や、電力会社の言い分として、
電力コストが前面に出ていました。
原子力発電はコストが安い、と。
他の電力に対しては、コストの一覧表かなんかを提示して、
これだけの違いがある、とグラフなんか見せていましたね。

だから、原子力発電は意義があるんだ、とアピールしていました。
言い換えれば、他の電源になった場合、
その発電コストが電気代として転化されるぞ、と、国民を
納得させるためのロジックを展開し、
原発再開に対する正当性を主張してきました。


これは、正確な算出方法ではなかったのだはないか、と思うのです。
つまり、これらは、イニシャルとランニングコストの比較に過ぎなかったわけでしょ。
そもそもコストと言うのは、始まりにかかる設備投資的なコストと、
原料費、メンテナンス費など、運用してゆくためのコストと、

そして、終了するためのコストがかかるんです。


飲食店で言えば、出店する時に設備を整えますから、
開店までに、内装費や、ガス水道電気の工事費、調度、家具、調理器材の購入費、
募集のための費用や宣伝のための費用もすべて含まれます。
で、いざ開店して日々の営業を進めると、
いわばランニングコストがかかってくるわけです。
家賃や、人件費や、仕入れなど、のコストです。

ま、うまくいけば、いくばくかの利益があります。
で、諸般の事情で、店舗を閉鎖することになると、
今度は、内装をスケルトン(借りた時の状態)にもどす、と言う工事費がかかります。
多くの場合、ここまでを想定しないものです。
でも、これは企業活動も有限の命がある、と考えれば、
クロージングコストと言うものを想定し、
その準備をしておくべきなんです。
そこで、原発の場合、その他の施設の場合も
クロージングコストをランニングコストに割入れる必要があります。
そのうえで、初めて、トータルにコストが算出できるわけです。
で、どうも、電力コストの比較表には、
このクロージングコストが含まれていなかったように思うんですね。


改めて、ここに来て、福島原発のしりぬぐい費用が再計算されました。
で、なんと、総額で20兆円です。
その内訳は、賠償が約8兆円、除染が4兆〜5兆円程度、
廃炉も従来の2兆円が数兆円規模で拡大する公算が大きい、と言うのです。
これは昨年度消費税の総税収額が17兆円余りですから、
これを優に超えた費用が掛かるということです。


で、どうするのか、ですが、
普通の企業ならとっくに倒産ですが、
電力と言う生活、経済の根幹の事業ですから、
つぶすわけにはいかない。
そこで、まあ、やむを得ず、廃炉も含め、そこにかかったお金は、あちらこちらの口座からかき集め
何とかしよう、と言うわけです。
で、当然ですが、その一つが電気代へ跳ね返り、それを私達が負担するわけです。
その他の口座も、結局は税金を始め、私たちの懐から出てゆくお金であることは変わりないのです。
でもまあ、その費用もまかなえたとしましょう。
しかし、どう考えたって、生産性のあることへの資金の使い方ではないでしょ。
つまり、あの事故が無ければ、20兆円、別のことに使えたわけです。
年金の運用もいくらか楽になったでしょうし、
待機児童の問題も解消したかもしれない。
ともかく、安全で快適な暮らしを支える有効な使い方ができたはずなんです。


それが、社会的に有効な使い方以外の所にお金が流れざるを得ない。
見様によっては、どぶにお金を捨てたようなものです。

実にばかばかしいことでしょ。
こんなひどい経験をしながらも、まだその可能性のある原発を再稼働させよう、と、
なぜそういう力が働くんでしょうね。
よしんば、そこそこ安全に運転できたとします。
でも、そのクロージングの日はいつか来るわけで、
その時はその時の世代がコストを負担する、と言うことなんでしょうね。
これまた、負の遺産をこどもたちに押しつける、と言うことになりませんか。
のど元過ぎると熱さ忘れる、と言いますが、
まだ、過ぎたわけではないでしょ。

| 水嶋かずあき | 環境 | 09:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
優先席

電車の中で、優先席に座っている若者と、
その席を譲ってもらいたい、と言うお年寄りと口論になり、
これを映した動画がYou Tubeに投稿されて、
あれこれ議論を引き起こしているようです。

もちろん、それぞれの感覚で、それぞれに軍配を上げているのですが、
こんな明確な状況はないでしょ。

お年寄りが横柄だ、という批判があったようですが、

問題はそれ以前にあるわけです。

これは、優先席と言う制度を取り入れて、
しかもその制度の電車に乗っているんだから、
無条件で若者は席を譲るべきです。
そもそも、若者は座ってっはいけないと思うんですね。
なぜなら、座っている人を立たせる、と言う行為自体が、
いくら年寄りに権利があると言っても
いささか、憚れることだからです。
だって、立って譲ってくれた人に、どうもありがとう、
とかの言葉をかけるべきでしょ。
その余分なことをさせるということへの配慮ですよね。

 

そもそも電車内は、すべて優先席なんです。
それが、協調、融和の日本人の精神だったはずです。


私は、最近は殆ど電車にも乗らなくなった事もあり、
このような経験はないのですが、
立ったまま乗り続けるのは、いささか辛くなってきたので、
いくばくかの贅沢をさせてもらっているのですが、
グリーンで移動することが、多くなりました。
ですから、冒頭のような状況になることもないのですが、
わが身に置き換えてみると、いささかこの若者の横柄さにあきれてしまいます。


私がまだ若かったころは、優先席などなく、
お年寄りが乗ってきたら、ごく普通に、自分なりの判断で、

(何歳ぐらいか、とか、体力的につらそうだとか、)
席を譲ったものです。
優先席と言う制度を作らなければならなくなった、

ということそのものが、モラルの低下の証拠でしょ。
つまり、譲るべき若者のモラルの低下、と言うことです。

 

同年輩の我が友人が、実はショックだった、と言うことがありました。
それは、電車に乗った時、若者に席を譲られたことがあった、と言うのです。
おれも、とうとう席を譲れらる年になっちまったよ、と嘆いておりました。


その昔、見た目高齢のおばさまが、年の割には派手目なファッションだったのですが、
電車に乗ってきた時に、若い女性が、すっと立って席を譲ろうとしました。
すると、そのおばさまは、
いいのよそのまま座ってらして、
私はこれから遊びに行くの、あなたはこれからお仕事でしょ、
だから、しっかり働くためにも、座ったままで、エネルギーを大事にしてね。
ですって。
いやあ、見上げたもんだと。
いまどきの言葉なら、神対応でしょ。
譲ったお嬢さんを傷つける事なく、好意の申し出を断るなんて、
なかなかのものです。
今自分がその該当する年になって、そんな対応ができるか、いささか心もとないことです。


この先はあるジョーク。


満員に近い電車の優先席に、若い女性が座っていました。
見た目、健康そうな感じの方。
するとその前に、杖を突いたお年寄りが進み出て、
お嬢さん、出来れば、席を譲ってほしいのだが、と申し出ます。
ご存知の通り、優先席には、シールが貼ってあって、
杖を突いた年寄り、怪我をしている人、幼子を抱いたママ、
それに、妊娠中の女性、の絵が描かれていて、
この人たち優先席です、と明記されています。
どういう状態の人に優先権があるのか、と言うことが
一目瞭然のシールです。
で、お年寄りは、そのシールとその女性を見比べながら、
どう見ても怪我している様子はない、
赤ん坊を抱いているわけでもない、
ましてや見た目は20代のはつらつとした女性。
そこで立ち入るようだけど、あなたはどのようなことで、
ここに座っているのか、と、聞きただします。
すると、その女性は一言、恥ずかしげにこう答えます。
実は・・・さっき妊娠したんです、と。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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