水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
どうなる七夕祭り

七夕祭りが、かつての飾りの豪華さ、
多くの見物客による賑わいを失いつつあります。
平塚という町にとって、
七夕祭りの存在意義、その価値の大きさは、言うまでもありません。
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市民にこの街のいいところはどんなところですか、
というとアンケートにをすると、多くの人は七夕祭りを挙げます。
夏に行われる全国各地の様々な祭りの中にあって
7月の初旬、平塚で開催される七夕祭りは
夏まつりのオープニングと言ってもいいほどの位置づけを持ってきました。
しかし、この祭りも最近はいささか陰りを持つようになりました。
まず、本数が減ってきました。
問題は年々先細りしてきているということです。

さらには、一本一本の飾りの内容がさみしくなってきました。
豪華絢爛という印象が薄れてきたのは、かれこれ20年ぐらい前からです。
かつて滝口カバン店が素晴らしい竹飾りを掲出していました。
追っかけ平田人形店も、これに負けじとなかなかの飾りを掲出していました。
川万さんも一時は特選の常連でしたが、
ある時を境にふと掲出をやめてしまいました。
そして片野屋さんもこれに劣らぬ飾りを掲出していました。

梅屋さんもそうです。
それぞれ七夕の歴史の中で特選とか準特選を競い合うような
素晴らしい飾りを出していたお店が、
次々と様々な理由で掲出を辞めていってしまいました。
一言で言えばこれは商業の衰退とともに
七夕祭りも衰退して行っていると言って構わないと思います。
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そもそもが昭和26年に第一回の七夕祭りが開催されて以来、
このイベントは、東海道筋の商店が商人の心意気の中で開催し、
競い合うように飾りに工夫し、豪華さを作り出して言ったのです。
つまり商業の隆盛のよって祭りを盛り上げてきたのです。
しかし、商店も代が変わったり、時代が変わったりしながら、
時代時代の景気の流れに流されて、
お店を閉じるところもあれば、新たに店舗を構えようとするが
代わりの商店に移り変わってゆきます。
そこに商業活動しようと入ってくる人たちの多くは、
地元と関係のない人たち多く、
祭りが持つ基本になる郷土愛とか、コミュニティ意識の希薄な人も混じります。
たがって、七夕飾りを出そうなんて気概に乏しいというのが現状ですね。
ですから、平塚商業の衰えと時を同じうしつつ、
七夕祭りも衰えを見せてきたのです。
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最近は行政も何とかしようとばかり、対応をしてはいるものの、
笛吹けど踊らずに近いような状態が続いてます。
ここ数年で、さらに大きな転機を迎えるではないかと、
私は思っています。
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一つは七夕祭りの基本はやはり竹飾りなんですから、
豪華で絢爛で優雅な飾りを掲出することが重要だと思うのですけれども、
ここのところが、主として市民飾りと言って
市民のグループ・団体によってつくられた飾りを掲出することに移りつつあります。
当然のことですが、彼らは、充分な資金を持っていません。
それとボランティアで作り上げますので、

製作に充分な時間をかけることができません。
そんなことから、どうしてもこじんまりとした飾りになってしまいます。
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ここのところ打破しようと五年前に肉バル・マルコのオーナーである中川さんが
かつての豪華な飾りをもう一度掲出できないだろうか、と動き始めました。
この話を聞いて、私はそれに呼応して、製作することを手伝おうと申し出ました。
おかげさまでこのグループを平塚市飲食店有志の会と称して
各店から協賛金を拠出していただき、これを基礎に、
飾りの製作をしています。
おかげさまで掲出第1回目が準特選。
第2回目が特選、第3回目は準特選と言う結果を得ることができました。
そして、今年は特選を狙った製作を手掛け始めています。
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これは極めて特殊な例ですが、ある程度人が集まって、
ある程度の資金を用意できれば、そこそこの飾りはできる、
と言う例の一つです。
ただ、最終的に大きな問題が一つあります。
それは七夕を作る技術と言うものがあるのかどうか、という事です。
これが、このまちの中で、システム的に行われてきませんでした。
普通は、竹に下がっている飾りを見上げるだけで、
その奥の事情までは考えないと思うのですが、
あの空中に下げる技術、風や雨にも耐える素材と作り方、
ただのデザインではなく、下から見上げることを前提にしたデザイン、
軽くしかし丈夫に作る素材の使い方など、
かなりの経験がないといけないんですね。
つまり、単に美的センスだけの問題ではありません。
力学的な知識や、作り方まで考えると、まさに総合の技術知識が必要になります。
この技術知識の伝承はきちんと行われていません。
それにはかつて、各商店で繋げてきた流れがない現状では、
トータルな視点で、製作技術の育成をシステムとして構築すべきです。
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問題は日本が背負っている高齢化の問題をこの町でも同じように抱えているのです。
七夕の製作もこの流れの中にあります。
市民飾りを一昨年まで指導していた根岸さんも年齢を理由に第一線から身を引きました。
片野さんは七夕政策担当者の方が、高齢りリタイアーされたそうです。
かくいう、私もこの年80ですが、
今、作っている飾りをのレベルを落とすことなく
あと何年作れるのか正直自信がありません。
つまり高齢によってこういうある種の限定された技術知識というのは
失われていくのです。

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岩手の黒石で蘇民祭という伝統的な行事が行われてきました。
この寒いさなか裸になって川の水を浴びたり、
さまざまな一連の展開があるのですが、
この蘇民祭は千年続いたという極めて伝統的な行事なんですが、
今年で終わるそうです。
最大の理由は高齢化による担い手がいなくなってきたということです。
これに類する地域に残されてきたさまざまな行事は、
高齢化ということが主な理由で衰退しくして行くだろうと考えられます。
七夕祭りもそのうちの一つになるのではないかと憂いております。
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平塚と言う町が七夕祭りの将来について
選択べきことは二つ。
何とか、継承しようと本気になって対応するか、
あきらめて、いずれ終了するときが来る、と投げ出すか、
の二者択一です。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 14:32 | comments(0) | - | - | - |
まず、動くこと

何が正しくて何が間違っているかは、結果が出ない限り分かりません。
だから、とりあえず、何かしてみると言うことも大事です。
その何かとは、
もちろんその時の最も優れているだろう、と思われる選択です。
しかし、往々にしてあまり良い結果は出ないものです。
極端な話、その行動が、何の役にも立たなかったということさえあります。
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で、やらなきゃよかった、という反省も確かにありますが
それでも、このことは間違いだった、という結果を得るのですから
それなりの前進なのではないか、と考えるべきでしょ。
例えば、1000通りのアプローチが考えられたとします。
で、その一つを実行した。
結果は、大失敗。
しかし、だめだということが分かったのですから、
選択肢は999に絞られたわけです。
これって、間違いなく一歩前進でしょ。
これを世間では試行錯誤と言います。
試行錯誤とは、正解を見つけるためのプロセスであって、
無駄な努力のことではありません。
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よく研究室に閉じこもって、何やら実験を繰り返している研究者がいますが、
5年も10年も、このような試行錯誤を繰り返しているんですね。
肝心なことは、行動に出る前に、頭の中で試行錯誤を繰り返し、
結果として、動かないことがあるとしたら、
試行錯誤の思考部分さえ無駄になるということなんですね。
やってなんぼ、というのが正しい選択だと思います。
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さて、平塚の七夕祭りが、豪華さがなくなった、
イベントそのものがつまらない、という批判を浴びて5年、10年かが過ぎました。
つまらなくしている原因ははっきりしているのですが、
この祭りをつまらなくしている元凶を誰もが共通して指摘しているのに、
誰も動こうとしない。
おかしいでしょ。
問題解決のための行動も、もしかするとさしたる効果を得られないかもしれない。
と言っても、そんなマイナスの結果を想定することは何の足しにもならない。
たとえ、これが無為な行動になろうとも、
何もしないよりはましだろうと、試行錯誤を覚悟したうえで、
行動に移すことじゃないのか、と私は思ったのです。
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前にもこのブログに書きましたが、
七夕祭りを楽しくするための行動を起こすことにしました。
正直、年も年ですし、何人かのサポートしてくれる人たちもいますが、
ある行動を起こすということは、体力的につらい年代です。
逆に、やらずしてあの世に向かうことになったとしたら、
それはそれでいい死にざまを得られないだろうと。
ま、決して大げさな表現ではなく、人生最後に、やらねばならぬことをやる、
といったところです。
最後のご奉仕としては、この街が好きで、七夕が好きな私の
わがままかもしれません。
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この行動は一人でも多くの人に関心を持ってもらいたいので、
参加をオープンにしています。
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目的ははっきりしています。
七夕まつりは昨年、110万人の観光客が来街したといわれています。
110万人ですよ。
問題は、この町は110万人に対して、
どんなおもてなしをしたというのか、でしょ。
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平塚最大のイベント七夕祭りの内容がもっと充実し、
楽しいエベントに仕立て上げることです。
詳細はできるだけこのブログで明らかにしてゆきます。
今後の成り行きをぜひとも関心を持って見守ってください。

 

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:22 | comments(0) | - | - | - |
ノスタルジーでは解決できない

よく、過去に学べ、とか、歴史から学べとか、
人間の所業について、これからの見通しとして、
過去にその学ぶべき事柄を見出そうとします。
確かに、人の本質は、時間の経過で早々変化するものではなく、
所業の性(さが)は持って生まれたもので、何万年、何千年と
変わることなく引き継いでいるものです。
これは、いくら文明が発達しようと、科学が進化しようと、
人としての生き方が変わってしまうものではないと思うのです。
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自分自身の個人として生き方で、
過去の出来事や経験が、今、または未来の展望として、
確かに影響してはいますが、生き様を大きく変えるようなことというのは、
そうそう経験することはなく、原則的には、個性として現れるだけのことで、
見方によっては、単なるノスタルジーに過ぎない、と感じるのです。
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実際、反省としてですが、このブログには、ほとんどの内容が、
昔経験したことがエピソードとして書かれます。
これは、実際経験したことが理解を求めるうえで、大きな説得力につながると考えてのことです。
ですから、30年前のことですが、とか、昔こんなことがありました、とか前置きして、
その時の経験談を披露するのです。
見方によっては、これはたとえ話の一つですね。
確かに80年も生きてくると、それなりの経験をしますし、
間違いなくそのような経験が、いまの、また未来に対する選択として、
重要な視点の一つにはなっていますので、
ないがしろにはできません。
ま、これはおそらく年寄りの一つの傾向かもしれません。
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先日、七夕を楽しくする市民の会という組織を作り、その活動を始めることにしました。
私も年も年だし、これからそうは多くのことに関われないだろう、と考え、
何となくさびれつつある七夕の再興を手掛けてみようと思ったのです。
いわば、人生最後のご奉仕、とでもいえるでしょうか。
この七夕がつまらない、という点について、実に多くの人から指摘されていて、
つまらなくなったという漠然とした感覚から、
それらの具体的な要素に整理することが必要だろうと思ったのです。
実際、今までもこの問題はしばしば語られてきました。
しかし、それらの問題は、誰もが感じつつも、その対応について、実際具体的な解決案や、
行動に移すための活動を手掛けようとはしてきませんでした。
つまりこのままでは、問題は解決できないだろうと、私は考えたのです。
そこで、それらの問題を一つ一つ拾い上げ、その対応を考えてゆく、
と言うような目的を持って、組織的な動きをしてみたい、と思ったわけです。
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先日、この意を受けていただいた人たちによって、
第一回の準備の会合が持たれました。
参加いただいた方々は、16名。
まあ数としては少数ですが、これからこの数は増えてゆくだろうと考えています。
そして、会合の中で語られたことは、
具体的に今まで言われてきたような、かつての七夕から見ると
いささか力落ちした現状に対しての事柄です。
で、よくよく聞いてゆくと、それらの発言の根底には、
かつて、自分たちが経験したにぎやかできらびやかな七夕の経験だったのです。
しかも、共通していた視点というのが、子供のころの経験です。
実際、私も小学生時代の七夕祭りというものが強烈に原点として持っていて、
ついついあの頃の経験した七夕のワクワク感を基準にものを考えてしまうのですね。
しかし、時代は進み、状況は変化し、同じ環境で祭りを開催することは困難です。
ですから時の流れに合わせたありかたを考える必要があるのですが、
出席者の意見を聞きながら、問題のとらえ方を間違えてはいけない、と思いました。
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それは、私たちが比較対象としているのは子供のころの経験で、
その復活とか、延長とかとは異なるものだ、ということです。
今は今なんですね。
つまり、多くの人の考えが子供のころの経験をもとにしているということです。
ですからこのころの事象を前提にしがちですがそれは違う、と。
視点としてとらえるのは、「子供のころの経験」ということなんではないか、と考えたのです。
つまり、今の子供たちに、今の七夕祭りの楽しさを経験させることなんじゃないか、
ということです。
時代は変わっているのですから、七夕の伝統としての位置づけは維持しつつ、
やはり令和の七夕の在り方を考えるべきだろう、と。
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年を取るととかく過去の出来事や経験を基準にしてしまいがちですが、
年を取ったものの役割は、次なる世代に何を提供できるか
なんだと思うのです。
その観点で、七夕祭りの再興ができたらいいな、と、
人生最後の挑戦をしてみたいと考えています。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:24 | comments(0) | - | - | - |
建物の高さが都会の証拠

50代半ばまでは、本当に全国各地を飛び回っていました。
極端な年は、新幹線はもとより、国内線空港の8割ぐらいまで、利用をしたものです。
そして、活動の中心は東京ですから、平塚から一時間余りの東京は、
ほぼ、うちの庭、と言う感じでした。
元々大学が東京だったし、数年間は、沼袋に住んでいたので、
東京は肌の合う町だったのです。
つまり東京は特別な町ではなかったのです。
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60代から70代にかけて、さっぱり外に出ることがなくなりました。
他県の町もそうですし、東京と言えど、年に数回。
つまり、ここ20年ほどで、出不精の田舎者になってしまったんですね。
あたかも、東京で暮らしていたものが、平塚に移住して来たようなものです。
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で、先日、わが友人がプロデュースしたソロミュージカル(演者がひとり)を観に行ったのです。
元々、私は早稲田に在学していたころ、友人とバンドを組み、チャラチャラした学生生活を送っていました。
で、ある時、文学部に部室があるミュージカル研究会と言うクラブに所属することになり、
ミュージカルの公演を目指す、と言う学生生活にはまり込んだのです。
私たちの後に、メンバーだったのが、タレントのラサール石井さんで、
彼は、神奈川県知事の黒岩さんと同期でした。
また、作詞家の山川啓介君は、私と同期で、
時間よ止まれ、聖女たちのララバイ、ふれあい、太陽がくれた季節、などを作詞しました。
まあまあ、そこそこに人材を輩出したクラブだったのですが、
今回、ソロミュージカルをプロヂュースしたと言うのは、バンドの仲間で、クラブの仲間でもあった沢木くんです。
まあ、学生時代から、舞台や音楽方面を志していたので、
いつまでたっても、この世界から足が抜けないようなんですね。
でも、言い換えれば、人生のあるところで出会ったものが、ライフワークになっているという事で、
こんなしあわせな人生はないだろう、と、うらやましくもあります。
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で、このステージをみて、驚いたことが一つ。
1時間半ほどのネタなんですが、その名の通り、ソロミュージカルですから、
ステージには一人しか登場しません。
この間、歌ったり、芝居をしたりと、一人でこなすのです。
なかなかできることではないでしょう。
長セリフと言う言葉がありますが、一つのステージが全部自分のセリフなんですから、
記憶力の弱い私なんぞ、最初の1分で尻まくって退場でしょうね。
歌もうまいし、芝居もしっかりしていて、結構、楽しめる内容でした。
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で、久しぶりの観劇でしたが、終わればさっさと家路に着きます。
車窓から眺める東京の街並みを見ながら、
これから帰りつく平塚のことを思い浮かべました。
あらためてなんですが、ビルの高さが違うでしょ。
東京のビルは何でこんなに高いんだ、と再認識。
平塚とは圧倒的に違う。
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今いるマンションは、22階建てですが、他のものは、
高くて14階ぐらい。
今建てられているマンションは、10階から14階ぐらい。
それも林立と言うわけでもなく、ぱらぱら、と。
あの、新橋、品川あたりの重圧感のある高層のビルを見ると、
やはり、平塚は田舎だ、と認識します。
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平塚市は、むきになって北部を開発しましたが、既存の市街地の開発が遅れてしまいました。
結果として、平塚はいまだに田舎の町に過ぎないのですね。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 11:06 | comments(0) | - | - | - |
二度と行かない

私の二女夫婦が辻堂でレストランをやっています。
で、2〜3か月前の話なんですが、その店の常連さんで
たまたま3家族の人が、平塚の七夕祭りに行ってきた、
と、その時の感想をそれぞれ報告したのです。
この3組の家族の感想が、こぞって同じだったと言うんですね。
で、なんて言ったかと言うと、
二度と行かない、と言う酷評だったのです。
まあ、理由はいろいろあるでしょうが、少なくとも、平塚にとっては、
まちの看板イベントじゃないですか。
平塚から七夕を取ったら、何が残る、ぐらいの大きなテーマの一大行事ですよね。
その七夕祭りにやってきた人が、二度と行かない、というほどひどい内容だったわけです。
.
この話を聞いたとき、私は大きなショックを受けました。
私にとっては七夕祭りには、今まで深くかかわってきましたし、
何より、我が愛する平塚の顔だ、と言う思いがあったので
ことさら、そのショックは大きかったのです。
美人で誉れ高い妹が、面と向かって、ブスとののしられた時の兄貴の気持ちです。
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酷評を受けたことに、いくつか、思い当たることもあります。
一つは、飾り以外に関して、ほとんど何もなかったという事です。
言い換えれば、飾りだけの七夕祭り、と言う感じを受けたそうです。
その肝心な、飾りも、いまいち勢いがなく、しょぼい飾りが、
かろうじて数合わせのように並んでいただけで、
見るべきものもなく、物足りなかった、という事のようでした。
また、飾り以外にも、いくつか問題があって、
警察や保健所があれこれ規制を前面に出して、祭りの持つわくわく感を
ことごとくこそぎ落としてしまったことが大きな理由です。
その家族は、飲むものも飲まず、食べるものも食べず、
歩き回って体を休めるところもなかった、とぼやいていたそうです。
まさに、その通りでした。
もっとも、それ以外にも、不十分なところも多かったと思います。
それは、平塚と言うまちから、見物客に対するお持てなし感を感じられなかったという事です。
これって重要なことじゃないですか。
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そこで、この問題を受けて、なんとか改善できないだろうか、と考えたのです。
で、何人かの友人に、この問題に取り組んでみようと相談しました。
皆、このことはその通りだ、と賛同してくれたなのです。
とはいえ、何の組織もなく、金もない。
ただ何とかしなきゃ、という問題意識しかないので、
まずは、身の丈にあった組織化と展開方法を考えよう、という事になりました。
正直に言えば、ゆっくりでいいから、コツコツと一つ一つの問題に対処し、
一つ一ついい方向に向けてゆく、という事です。
現在、30項目ほどのテーマが出されました。
とてつもない規模のものもあれば、何人かがその気になれば、実現可能なものまで、
いろいろありますが、
まあ、来年の七夕には、そのうちの一つ二つが形になればいいかな、
と言った緩い流れを想定しています。
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ともかく、動かなくっちゃ始まらないのです。
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私も年ですから、それほどぱりぱり動けるわけではないのですが、
人生最後の一仕事と思って頑張ってみます。
ご協力、ご理解のほどお願いします。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 05:18 | comments(0) | - | - | - |
七夕音頭

とびとびの七夕の話です。
.
私が小学校に上がるとき、それまで住んでいた代官町の借家から、
紅谷町に引っ越してきました。
父が、祖母が経営していた一平と言う料亭を本格的に手伝うことになったため、
敷地の裏のあった住居部分に引っ越したわけです。
ですから、私は70年ちょっと前に紅谷町の住民になったのでした。
小学校は崇善小学校に通いました。
.
七夕祭りが始まったのがその頃。
いわば物心ついたときには、目の前で七夕まつりが開催されていたのです。
まあこういう事って当然ですが、徐々に積み重ね、その規模を拡大してゆくものです。
今や、関東でも著名な七夕祭りになっていますが、
はじめっからそれほどの規模で開催されていませんでした。
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わたしは、物心ついて、と言いましたが、七夕に関して言えば、
我が父の動きから得る情報のほうが圧倒的に多く、
その記憶の方が鮮明です。
もちろん飾りに関してもいくつか印象的な作品が記憶に残っていますが、
子供のころの七夕について言えば、父がそれに取り組む姿でした。
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仙台に商店街の人や商工会議所の人たちと出かけて行ったことなど、
何故か子供の私に事細かに報告するんですね。
さらにその初期のころ、いくつかの歌が作られました。
例えば、平塚恋しや、と言う歌が作られ、それなりに広まったものです。
この歌は、永田とよ子さんが歌い、 西条八十さんが作詞。
作曲は 上原げんとさんで、当時の歌謡界の大御所によるものです。
子供ながらこの歌の歌詞が好きでした。
歌の物語としては、かつての恋人だった女性が、
うわさで、結婚したと聞いた。
七夕祭りの時に、見物客の混じって、見知らぬ男の人と歩いている姿を見かけた、
と、やや切ない情景の歌詞です。
「君は人妻、七夕竹の町を見知らぬ人と行く…」
まあ、子どもながらにませていたのか、切ない歌詞だな、と感じたものです。
この歌を作るため西城八十さんが平塚にお越しになり、
その時の接待を父がしていたのを記憶しています。
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七夕と言えば、都はるみさんの見るより聞くより踊るもの、で耳にタコができている
ほど、期間中に聞きますが、これは、
1970年に製作されました。
七夕20周年という事の記念企画によるものです。
作詞は石本美由起さん、作曲は市川昭介さんです。
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先日たまたまYOUTUBEで、都はるみ引退コンサートなる番組を見ていた時に、
そういえば都はるみさんの現在はと調べたら御年74歳。
1970年の時のものですから、声も張りがあって、音頭むきの節回しがなかなかでしょ。
でもふと、考えれば、もう50年も昔の話ですよね。
言い換えれば、50年も前の作品を使いまわしているわけで、
昨年の70回の記念に何か新しい企画は出なかったのか、と思ったのです。
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竹飾りと言い、七夕音頭と言い、50何年間か、何の進歩もなかったんじゃないか。
むしろ、飾りは退化している。
あの草創期の平塚商人の情熱とか、心意気は取り戻すことはできないのかもしれませんが、
せめて、少しは何とかしようという気概は、持つべきでしょ。
なんだか、こんな主張さえ、虚しく終わりそうな気がしますね。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 22:26 | comments(0) | - | - | - |
七夕と露天商

とびとびになっていますが、再三になりますが、七夕がテーマです。
今回のテーマは露天商。
ちなみにお店としての「ろてん」は露店と書きますが、
そこで商売する人は露天商と書きます。
何故かは知りません。
.
さて、その昔、平塚の七夕祭りは、5日間。
東京近郊での大きなイベントですから、人出も多い。
夏祭りシーズンの幕あけですから、気合も入っています。
当然ここで荒稼ぎをしようと、露天商も集まってくる。
ほぼ祭りの会場の領域には、露天商がびっしりと張り付く。
我が店があったパールロードは、駅から最初の路地ですから、
もっとも人通りが多い。
したがって、パールロードに出店するというのは、露天商としては願ってもないことなんですね。
つまり出店希望者の激戦区なわけです。
梅屋さんの前あたりから、露天商の格として、
横綱、大関、関脇、小結、前頭、と言ったところがずらっと並んでいるところ、
と思ってください。
でもこの世界にもしきたりがあって、勝手にいいところを占有できない。
それは「しょば」を仕切るのは、地元の露天商の親分。
で、そこには仁義を切って、良好な関係の下、商売の場を提供してもらう、という事で、
スムーズな運営がされていました。
ですから、七夕数日前には、エントリーした他の地方から来た露天商が塊になって、
先ずはショバワリのチョークの確認をするわけです。
恐らく、1間幅ぐらいの感覚で、チョークで線を引き、例えば、ワタアメ、とか書く。
で当日ここには、綿あめ屋さんが店を出す、という事です。
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わが舟平の前は、露天商の一等地ですから、
きっとそれなりの経緯があって出店者が決められるのだと思いますが、
毎年同じ顔触れの人たちがやってくるのです。
私たちも、昼ちょっとすぎると幾分か客足も少なくなってゆとりが出てくる。
すると、店の前の露店の人と話し込んだりする機会もあるんですね。
そのうちの一軒にカルメ焼きのお店がありました。
まあ今時見かけませんが、金魚すくいにりんご飴、綿あめにカルメ焼き、なんてところは
ごく普通にどこにでもあったものです。
で、うちの前のカルメ焼き担当のお兄ちゃんなんですが、カルメ焼きの職人としてはちょっと未熟。
5個に1個はうまく膨らまない。
で、お兄ちゃんは、じっと見ていると失敗しそうなときは前もって、
首をかしげるんですね。
で、案の定失敗する。
まだやっと二十歳そこそこの若い人でした。
もちろんそちらの筋の方ですが、人当たりは優しい。
5日も顔を合わせるのですから、私はそのカルメ焼きのお兄ちゃんとすっかり仲良くなったんですね。
こちらが暇なときは、台に座って焼かせてもらったりしたもんです。
何年かは、その時限りの交流があったのですが、
ある年のこと、カルメ焼きのいつもの兄ちゃんの顔が見えない。
新顔の兄ちゃんに、今年はあいつどうしたんだ、と聞いたら、
何やら不始末をしてムショに入っているんだ、とさらっと言うんですね。
まあ、そういう世界です。
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このころの露天商はびっしりと張り付いて、テントを建てると店舗、歩道、露店、車道、露店、歩道、店舗
という具合に7つの筋ができるのです。
見物客は車道を歩く。
したがって店舗はテントの陰に隠れて、商売がしずらい。
そこで毎年のように、露天商の規制を商店街は申し出ているのですが、
ただの一度も改善の様子が見えない。
あれはどこかである力が働いて、現状維持を前提に改善できなかったのでしょうか。
それとも、商人の言うことなんかいちいち取り上げていられない、という事だったのでしょうか。
いずれにしても、昭和60年パールロードのモール化まで、
全くこの露天商の問題は手を付けられなかったんですね。
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まあ正直私たちが掲出し成り立っている七夕祭りなのに、
よそから当然やってきて、おいしいところだけ持ってゆく露天商のふるまいには、
多くの平塚商人は、不快に思っていたのです。
何より、祭りが終わった後の町の汚れていること。
焼そばやお好み焼きの残材を放り投げてゆき、
その腐敗臭が1週間ぐらい取れないなど、
地元商店にしてみれば、何一ついいことなかったわけです。
.
今回のように、出典範囲が規制され、しっかりとコントロールされると、
さすがに、従来のような、無法地帯のような残骸はありません。
私は、飾りの安全確認もあって、毎朝、早く街中を巡回したのですが、
なんとゴミ一つ落ちていない。
実にきれいで、整然とし、臭いもない状態でした。
.
心無しか露店のない祭りもいささかさみしい気もしますが、
何十年と行政とやりあって、露天商規制を直訴していた立場としては、
これはこれでありなんじゃないか、と今年の成果を評価しています。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:15 | comments(0) | - | - | - |
もっと先の七夕祭り

昨日のブログで、今年の七夕祭りについて言及しました。
主に、竹飾りの在り方についてです。
竹飾りに関して言うなら、飾りのデザイン性より、
むしろ、誰が、どのように作っているのか、という事も考慮すべきなんですね。
.
大雑把に言うと、70数年前に、七夕祭りが始まったころは、
商工祭り的な意味合いが強く、太平洋戦争で、市街地の8割近くが焦土と化すような
大きな打撃を受けたまちとして、その復興を進めてゆく上での一里塚的な意味合いがありました。
ですから、七夕祭りの前身として、第1回は復興祭と命名されたのです。
で、すぐさまこの動きを受けて、当時の商工会議所が主体となって、
仙台への視察を含め、この復興祭をより発展させるために、と
七夕祭りへの衣替えを進めたのです。
この動きに中心街の商店が呼応し、七夕祭りが開催されるようになったのです。
.
つまり、当たり前のことですが、
竹飾りを掲出することで成り立った祭りであるという事が、七夕祭り原則です。
平塚が近隣都市に先駆け、商業地として、発展を遂げると、
これと相まって、七夕祭りも拡大してゆきます。
したがって、竹飾りは東海道(当時の呼称)の路面店が製作し、
自分の店の前に掲出、その優美さを競い合ったのです。
関わってみると分かりますが、来年はもっといいものを作ろう、と言う思いが生まれるものです。
そこで、年々回を重ねるごとに飾りは巨大化し、各店舗も競い合い、
まさに星が見えなくなるとまで言われるほどに
竹飾りが夜空いっぱいに掲出されるようになっていったのです。
.
一方、商業と言うのは時勢に大きく影響されます。
隆盛の時もあれば、やむなく縮小、撤退するときもあります。
したがって、売り上げも多く、商店として勢いがあるときは、
年に一度の七夕祭りにも力を入れられますが、
売り上げが低迷すると、そこにかかる経費が負担になってきます。
このような時世の流れの中で、1軒、2軒と不掲出の店が出てくるようになります。
このような祭りとしての勢いを失い始めたころは、
自店の前に飾りを出さなくても、客は来る、と言う認識になります。
だったら無理に経費を使って飾りを掲出することもないだろう、と考え始めるんですね。
これは、じわじわと周囲の商店に広がってゆきます。
当然のように不掲出のお店が多くなるほど歯抜けの状態になってゆくんですね。
.
このような衰退の状態になり始めたのが、昭和50年代になってからです。
およそ30年で、拡大を続けてきた竹飾りは、小休止の状態になります。
このころ、特選常連店で言えば、滝口カバン、平田人形店、川万、などが名を連ねていました。
特選3席の中に割って入るのは至難のことでした。
しかし、この御三家も徐々に撤退し、伝統的な重厚感のある飾りが消えてしまったのです。
で、やがて流れはさらに悪くなります。
7月開催の平塚の七夕ですが、この飾りを買い取り
地元の商業祭りとして開催する七夕祭りの飾りとして、再掲出するというのが、
当時の流れでした。
多く飾りが8月開催の町に引き取られていったものです。
ちなみに、平塚の七夕飾りは、終わると仙台に引き取られる、と言う話を
かなりの人が信じているようですが、
これは100%あり得ない話です。
飾りの移動する先は、わらびとか、茂原とかの主に関東近隣の町です。
この嫁入り先の町の七夕祭りが同じように衰退しつつあり、
ま、商店街が衰退してきているという事なんですが、
これに合わせて、引き取り先が少なくなっていったんです。
.
実はこの引き取りの価格が、材料費の半分ぐらいの金額だったのですが、
これが厳しくなってきました。
ある意味の収入源が途絶えたわけですね。
製作側としては、厳しい状況になりつつあったわけです。
.
あわせて、スターモール、パールロードでもお店をたたむところが増えてきました。
そして代替わりをし、新たな商店、飲食店が開店します。
このほとんどが、東京資本なのですね。
はっきり言って、平塚で稼ごうという事です。
ですから平塚への郷土愛なんてかけらもない。
七夕祭りに協力するという事は、決して積極的ではないのです。
.
したがって、現況では、かつて商人が支えてきた七夕祭りだったものが、
その半分以下のエネルギーしかない、ということになってしまったのです。
残念ながら、商店以外のところの力がなければ、
七夕祭りは継続できなくなってきた、と言うわけです。
.
今年の出品で特選、準特選、入賞、準入賞など受賞した
店舗を見ると、受賞39作品のうち、17作品に過ぎません。
なんと5割を切っているのです。
かつて路面の商店が競い合って飾りを出してきたことなど、
遠い昔ばなしになってしまいました。
.
変わりに登場したのが、各種団体です。
特選、準特選の4席のうち、半分の2作品は、各種団体の作品です。
流れは変わりました。
こう言う流れを受け、更なる先取りをした七夕祭りに、鋭意舵を切らないと、
このイベントの先はないものと思います。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 09:35 | comments(0) | - | - | - |
来年の七夕竹飾り

時々、投稿日に穴をあけてしまっていますが、申し訳なく思っています。
言い訳と思ってお許しいただきその経緯を書きます。
基本は、これはもちろん私の責任ではあるのですが、
操作上のミスなのか、理由が判然としないのですが、
時々、打ち込んだはずの文章が消えてしまうことがあるのですね。
その対策としては、一気に打ち込み、アップすればよいのでしょうが、
やはり年なのか、暑さのせいなのか、途中まで書き込むと、一休みしてしまうのです。
そこで、冷たいものでも飲もうと居間に行き、ついでにテレビなど見て、
小一時間して戻ってきて、さてと、と画面を開けると、さっきまで書いていたものがない。
ど、どうした、とあちらこちら探すのですが、その見付け方が分からない。
あきらめて始めからやり直すか、と思うのですが、
なんか消えてしまったろうそくに火をつけるようなもので、どうもぱっとしないんですね。
特に、ほぼ完了に近い状態で、文章が消えると、あきらめてしまいます。
そこで、投稿としては穴が開くわけです。
.
7月14日の投稿は空白になっています。
これは、昨日、ちゃんと打ち込み、サイトの手続きに従って、
アップしたのですが、朝になって開けてみると空白になっていたんです。
あそこまでやって、投稿の再確認までして、なぜ載っていないんだ、といささか、がっくりですよね。
きっと私の操作のどこかに問題があって、14日は空白。
ならばと、再挑戦することにしました。
テーマは七夕祭りの総括です。
.
今年の七夕は、多くの反省をしました。
一つは、私の七夕製作には、約20年近いブランクがあったこと。
そのため、じわじわと進化していた飾りの主に技術面について、空白があったこと。
たとえば、2019年が復活の年だったのですが、
この作品で使った電球が白熱球だったのです。
提灯の中に入れるものなどです。
で、その容量が大きすぎると電気工事の人から言われました。
来年はLEDをつかってください、と。
そうか、進化しているんだな、と。
で、今年です。
飾りをロープで引き上げるのですが、私は従来の通り、ワイヤーとワイヤークリップで止めたのです。
ところがクリップの締めが甘く、掲揚後外れて、飾りが傾いてしまいました。
落下しなかったのがさいわいです。
このようなことを防ぐには、
「玉掛」と言ってワイヤーの先を最初から止めてあるものを使用すれば丈夫だから安全だ、
と聞かされました。
間違いなく、様々な点で進化しているのです。
.
今年の飾りで最も大きな進化は、
特選を取った「七夕飾り空いっぱいプロジェクト」のチームの作品です。
昨年、私たちの作品は、製作場所の都合で、
前半を紅谷町の鶯ビル3階、後半の組み立てをラザビル6階の駐車場で行いました。
で、プラザの会場では、30近い製作チームが共同で場所を使っているのですが、
休憩時間などに、他チームの仕事を見て回るのです。
で、その中で空いっぱいのチームが製作をしていて、その作品を見たとき、
こいつらには勝てないかもしれない、と感じたんですね。
これは何と言ったらいいのか、彼らは従来の飾りにない全く新しい感性を持ち込んできたのです。
チームの主力は、聞くところによると、美術系の学生さんたちだとか。
いや、センスの良さにただただ驚いたものです。
幸いかな、昨年は私たちは特選を得て、とりあえずは面目を保ったのですが、
これは、競い合うという前提で考えると強力なライバルが登場してきた、とおもったのです。
.
で、今年です。
彼らはついに、特選と言うレベルになりました。
残念ながら、いくつかのミスがあった私たちの作品は、準特選。
彼らの後塵を拝したのです。
私は改めて彼らの作品をじっくりと見たのですが、
なんか時代が変わる、と言う実感をしました。
まず、七夕飾りの定番のクス花を一つも使っていないのです。
恐らく、七夕飾りを作ろうという人の頭に、クス花を使わない、と言う考えはないでしょうね。
おせちに伊達巻とかまぼこを入れないようなものです。
でも彼らは、(きっと)あえてクス花を排除したのだと思います。
しかもそれ以上の優雅な球体を作り上げたのですね。
.
私は以前から強く思っていましたが、
七夕飾りの基本はデザインである、という信念を持っています。
いくら大きな飾りであろうと、モーターで中を回そうと、電飾で飾り立てようと、
デザインが優雅で、美しければ、それ相応の見栄えがするのです。
そして残念なことに、このデザインそのものが、やっつけ仕事と言うか、
取ってつけた形に終わっているのが大半です。
.
私たちのプロジェクト「湘南ひらつか飲食店有志の会」がそもそも動き出したのは、
肉バルマルコの中川さんが、
失われつつある、平塚の七夕祭りの豪華な竹飾りを復活しよう、と
周囲に呼びかけたことがきっかけです。
確かに、平塚の七夕は、年々、その豪華さは失われつつありました。
そこで、では豪華な飾りを作ろうと稼働することにしたのが、2019年。
途中、コロナの中断が入り、私たちプロジェクトとしては今年が3年目。
最初に準特選、次に特選、今年は準特選と、まあまあメダル圏内にはいたものの、
これでいいのか、と言う反省をしていたのですが、問題解決のヒントを、
私は空いっぱいのチームから教わりました。
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前々から、平塚の飾りは何かが足りない、と思っていたのですが、
空いっぱいのチームが示した方向の先に、その答えがあるのではないか、
と感じています。
.
2024年の竹飾りは、そのあたりの反省を大いに生かした上の作品にしたいと思っています。
空いっぱいチームのさらなる精進を期待するとともに、
われら飲食店有志の会の動きにもぜひともご期待ください。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:20 | comments(0) | - | - | - |
七夕こそ情緒を大切に

スターモールを車で走っていたら、目の前を鳶さんのトラックが走っていました。
荷台の後方の枠板が下がっていて、積んであるものが丸見えなんです。
と言っても、荷物は丸太。
七夕のやぐらを組む材料ですね。
で、気になったのは、その丸太が、すっかり枯れ果てている古木で、
根元の部分は割れが入っているような状態。
.
かつて、丸太は建築現場の足場を支えるなど、それなりの需要があったのだと思います。
しかし、今時ですから、大体は鉄の単管とか言われるものに切り替わっていて、
丸太を今更、建築現場では使うわけもないですね。
でも、七夕と言うとどこぞの倉庫から引っ張り出すのか丸太が登場します。
でこれをアーケードに背負わせて竹飾りの足場を組み上げるのですが、
確かに、丸太の周りを紅白の布を巻き付けるなど、それなりの情緒はあるのですが、
強度などの安全性から言ったら、単管には及ばない。
まして、使いまわして何十年と言った感じの丸太では、
その安全性で言ったら単管の足元にも及ばないでしょ。
情緒などいってる場合じゃないはずです。
もろそうな丸太は、そろそろ引退でしょ。
半面、単管の足場も増えてきました。
とはいえ、丸太はまだまだ健在なんですね。
.
なんとなくですが、ここへの切り替えができない理由というのがあるらしく、
そういう感覚が、七夕祭りを衰退に追いやっているのではないでしょうか。
正直、飾りの本数はともかく、それぞれの豪華さには欠けるようで、
飾りの内容も、マンネリになっているのではないか、と感じます。
七夕の開催時間も、最終8時とか最終日は7時とか、
全般に及び腰の状態です。
噂によると、警察が開催時間を早めようという意向だそうです。
何より、なんかあったらその責任を取るのが嫌なんでしょうね。
きわめてネガティブな姿勢です。
祭りを盛り上げようとか、観客はなにを喜ぶのか、とかの配慮はゼロです。
要は、つまらなかろうと安全が第一なんですね。
というか、そこに労力を掛けたくない。
きっと、七夕期間の警らに、特別手当などが発生し、人件費的な出費も避けたいところなんでしょうね。
まあ、それぞれ事情はあるにしても、この町最大のイベントなんですから、
みんなで盛り上げようという空気が必要でしょ。
.
話は変わりますが、飾りについてもいささか及び腰なんです。
かざりには、くすだまや吹き流しが付きますが、この吹き流しの長さに制限があり、
地上2・5メートル以上でなければだめ、というのです。
確かに観客がテープを結んだり、引っ張って取ろうとしたり、
まあ遊びの場ですから、その辺が浮ついているのだろうと思うのですが、
せっかく作ったものを壊すわけで、観客のモラルはどうなのか、と言う現状があります。
で、ちょっとでもこの高さより低いと、裾を切りなさい、という指示が来ます。
これがしつこいくらい言ってくるんですね。
飾りによっては、吹き流しが寸詰まりなので、ちんちくりんなものになってしまうんですね。
でもそんなことお構いなし。
ともかく切れ、という命令。
昨年は一度切ったのですがまだ長いとかで、二度切りました。
やはり不格好になってしまいます。
今年はそこは想定にして、短めの吹き流しにしました。
.
正岡子規の俳句に、
うれしさや たなばた竹の 中を行く
という句があります。
きっと七夕飾りの吹き流しをかき分けながら、歩いてゆく、という情景でしょう。
顔に吹き流しが当たり、進むと、また吹き流しが顔に当たる。
こうして得も言われぬ楽しさを感じたのだと思います。
ただ見るだけでなく、体に触れる、という事の親近感を
七夕飾りに見出したという事だと思うのです。
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何でも規制規制では情緒はどこかに行ってしまいますね。
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今年の竹飾りは4月末から手掛け始めました。
どうやら先も見えてきて、あと半日ぐらいの作業で完成です。
まあ、せめてかつての豪華さを競っていたひらつかの七夕祭りに
花を添えようと、二か月余りの汗も、ゴール寸前です。
何とか七夕の持つべき情緒を表現できれば、と考えて製作に携わってきました。
長くて短い日々でしたね。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 23:32 | comments(0) | - | - | - |
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