水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
神大ガンバレ、東海大ガンバレ

お正月の2日、3日と言えば、やはり、箱根駅伝でしょうか。
7時50分、スタート寸前の中継からテレビで見ていました。
今年は、我が平塚にある、神奈川大学、東海大学の二校が
下馬評としては、上位に食い込みそう、という事でしたので、
特に楽しみにしていました。


ですから、テレビにかじりついています。
とは言え、時に、淡々とレースが展開される時もあったりで、
順位の変動もほとんどなさそうな時は、ちょっとばかり、画面から離れます。

以前は沿道まで出かけて旗を振ったものでした。
出身校が早稲田なので、先ずは早稲田の応援なんですが、
併せて、神奈川大学、東海大学の応援もこれまた力を入れています。
考えてみれば、この両校が、箱根で相応の力を発揮するというのは、
平塚にとっても、誇りになる事でしょ。


で、なんとなく感じるんですが、
平塚市と言うか、平塚市民と言うか、このまち全体として、
この両校の応援を、熱狂的にしている、という感じがしないんですね。
どこか冷めているような気がするんです。

地理的に平塚の西北部にあるということなんでしょうか。

この二つの大学が平塚市にある、と言うことの親近感をあまり持っていないように感じるんですね。

市内の目立つところに、頑張れ神大、頑張れ東海大ぐらいの幟があってもいいでしょ。
平塚中継所には、市長をはじめ、市のお歴々が顔を出すとか。
まちを挙げて応援する体制と言うのがちょっと欠けていますよね。

 

昔々の話ですが、1990年サーフ90の時に、
平塚の浜にボードウォークを設置し、これに関わるいくつかのイベントを展開しました。
サーフ90終了後も、施設を残して、さらにその後、管理棟を建て、
ただの砂浜を、市民が有意義に楽しめるようにと、運営を充実させたんですね。


で、この時、ビーチバレーのコートがいくつかあって、
これをもとに、瀬戸山・川合の両氏が中心となって、PVC(Point volleyball Community)
と言う団体を発足させました。
これは、日本にビーチバレーを普及しようという事で設立されたものです。
つまり、平塚の浜で、ビーチバレーのコートがあって、
この活用をしようという思惑もあって、専門の団体が結成され、
ビーチバレーが恒常的に行われるようになったのです。
これは日本で最初の施設です。


そして、その4年後、1996年、アトランタのオリンピックに、
ビーチバレーの女子チーム2、男子チーム1の3チームが出場しましたが、
そのほとんどの選手が、平塚をフランチャイズにして活動していた選手でした。
つまりです、ビーチバレー発祥の地でもあり、
最初のオリンピックには、平塚のビーチパークでトレーニングを積んだ選手が活躍したのです。
言ってみれば、ビーチパークのメッカ的な立場だったわけでしょ。
確かに平塚市は後援もしましたが、
行政の後援と言うのは、時に名目的なものに終わることが多く、
この場合もそれに近かったような気がします。
せっかく宝物が生まれたというのに、
雑な扱いをした、と私は感じました。


今や、他の湘南のまちに、ビーチバレーの中心は移ってしまったようです。
なんとなくですが、
このまちは、何を大事にしなければいけないのか、
という事の優先順位がヅレているんじゃないか、と感じるんですね。

 

さて、ちょうど時間になりましたので、テレビに戻って、
平塚中継所の様子を見てきました。
東洋、青山、早稲田、神大、と言った順位。
思いのほか、東海大が、遅れましたね。
ま、とはいえまだ道半ば。
この後どんなドラマがあるのでしょうか。
そして、今年はどんな山の神が登場するのでしょうか。
楽しみです。


改めて、神大がんばれ、東海大がんばれ、です。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 11:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
KEIRINグランプリ

以前、ガールズ競輪のPRポスターに
顔より太もも、と言うキャッチコピーを巡って、
いいの悪いのと言う賛否が戦わされ、
これに併せて、このブログで競輪にまつわる話を書いたら、
これまた、ミニ炎上し、あれこれ、競輪ファンからの誹謗が書き込まれました。
その大元は、私が、年間で、1億円程度の一般会計に繰り入れなのに、
観覧席改修(本年完成)に20億あまりかけるという事は、
すべての純益を投入しても20年間は、収益ゼロになるではないか、
と言う事を書いたんです。

競輪存廃とか、はそういう論点ではなく、

一般的な企業としてはそのような投資の決断はしない、という意味ですね。
すると、反論として、年間では、4〜5億円が計上されている、と。
ある方が書き込んで、お前の計算は何を根拠にしているんだ、とおしかりを受けたんですね。
これは、私も説明が不十分でしたが、
実態はこうです。
平常の年は、ほぼ一億ちょっとが収益金になります。
で、平常でない年と言うのがあるんですが、
これは競輪グランプリなど、要はG1と言われている、
高額賞金を争って、超一流選手が出場する、特別な競輪が開催されると、
全国から投票できますので、そこそこの売り上げを確保できるんですね。
特に、KEIRINグランプリなどが開催された年は、
一気に売り上げを伸ばし、その年の収益は4億円とか5億円とかになるんです。
ですから、そのクレーマー氏は、この数字を見て、
おかしいと言ったのだと思いますが、まあ、なんてことない
私の説明不足とその方の勘違い、という事ですね。

 

その競輪グランプリが、今日28日から開催されます。
KEIRINグランプリと言うのは、その年の勝者を決めるファイナルレースで、
さまざまな分野でグランプリが行われます。
ちなみに、うちのかみさんが駅の通路に貼られていたポスターを見て、
例の、天然ボケをかました発言をしました。
ポスターには、KEIRINグランプリ、と書いてあって、
これをなぜかKIRINグランプリと読んだんですね。
言われてみればEが1文字ないだけ。
で、言うに事欠いて、KIRINがサッカー以外にも進出してきたんだ、ですって、と。

 

とまあ、ボケはともかく、
まずは、ガールズグランプリが28日に開催されます。
かつて、貌より太ももとか言ってましたが、なかなか美形の女性も多く、
それはそれなりにおじ様たちの目を楽しませてくれそうですね。


さらに、翌29日は、ヤンググランプリと言って、
若手の選手によって競われます。
まあ、サッカーで言う、オリンピックのように、アンダー23歳みたいなものです。
これはこれで、覇気にあふれる若い力のぶつかり合いがおもしろそうです。


で、いよいよ30日はメインのグランプリ。
この一年で賞金ランキングが高く、G1レースの覇者たちが揃います。
G1と言うのは、最上級の特別競輪で、その下にG2と言うランクがあります。
G1としては全日本選抜、日本選手権、高松宮記念杯、オールスター、

鄂凌堂η廖競輪祭などが開催され、その集大成としてKEIRINグランプリが開催されるのです。
ですから、競輪ファンにとっては、まさに待望のレースで、
この一年の締めくくりで、外せば来年に期待をし、当てればいい年だったというんでしょうね。
ま、ざっと胴元は売り上げの25%を確保し、その残りを配当金として戻すのですから、
売り上げが上がれば上がるほど、収益は確保できるわけです。

平塚市にとっても、ほくほくですね。


今の競輪ファンはとてつもなく高齢化が進み、
標準的な競輪ファン像と言うのは、

年金が主な収入源で、その中から千円札一枚を握りしめ、ちびちびと車券を買い、
当たれば、その先のレースまでいますが、掏ってしまえば、それでお帰り、
という事のようです。
正直、万車券など夢また夢の話で、大体が100円が、4〜500円。
ちょっと配当がよくったって、2000円、3000円になるという世界です。
ま、ささやかな夢を見る時なんですね。

 

その昔は、競輪による経済の恩恵が大きく、全盛期は、人であふれかえっていましたね。
競輪開催日は、はねると道が混んで、ミニ渋滞になるんですね。
ですから、そのことを念頭に置いて、その時間帯の移動をしたものです。
ま、今はそんな片鱗すら見かけないですね。
したがって、競輪場内で飲食売店の売り上げも、当時は、なかなかのもので、
その昔は、半年期限の売店権利を争うように得ようとしたものです。
何しろ、半年の売り上げ収益から、車一台買えたなんてことがあったくらいです。
ま、それから見ると、現在はさみしい限りです。

 

でも、このグランプリ、久々の賑わいになるはずで、
大いに楽しみですね。
ささやかな夢を見るとしましょう。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
第2回平塚まちゼミ

「まちゼミ」と言う企画が実施されました。
今回は第2回、正式には平塚まちゼミ、と言います。
これは、商店の方々が、従来のお店とお客、と言う関係を少し超えて、
商店が持っているノウハウや、先端の情報など、
気軽な距離感の中で、お客様に伝え、新たな関わり方を模索しよう、と言う企画です。
今回は、10月16日から11月24日まで、全46講座が開催されました。
基本的には、これを告知したリストから、
興味ある講座を選択し、個店に申し込むという形になります。
各講座、せいぜい5〜6人が定員で、
人気がある講座は、期間中2回、3回と開催されます。
先生は、ほぼその店のご主人。

これまでに培った様々な奥義のようなものを惜しむことなく伝えようということです。

 

湘南ケーブルネットワークのSCNクラブでは、

クラブの月次番組として取り上げ、その製作を私が担当しました。
取材した限り、

したがって、いくつかの講座の取材をしたのですが、その数8講座。
そもそも、番組枠は30分と言う限定があります。
数多く紹介したいのですが、多すぎると、
カタログをペラペラめくるような感じになってしまうので、
いくつかの分野のバランスを取りながら、絞り込み、
それでも8講座となってしまいました。


番組としては、始めにこの企画を持ち込んだ飯尾紀彦さんにインタビュー、
閉めに商店街連合会会長の常盤卓嗣さんのコメントなど戴きましたので、
単純に1講座の紹介が、3分前後となってしまいました。
ま、こう言う構成もありかなと思います。
この番組は、ケーブルチャンネルの2チャンネルで
「市民TV」という枠で、一日2回、1日から月末まで放映されます。
機会がありましたら是非ともご覧ください。

 

で、この取材で、いくつか思うことがありました。
そもそもが、平塚商業の低迷が叫ばれて久しくなります。
私がパールロードの商店街の理事長を仰せつかっていたころには、
すでに、平塚商業の凋落が言われていました。
もともとが、平塚は太平洋戦争で、中心街区が焼夷弾攻撃にさらされ、
焼き尽くされたのです。
昔の新宿を中心に、見渡す限り焼け野原だったそうです。
しかし、戦後になって、戦争の被災都市として、平塚は、他都市に比較して優先的に、

さまざまな復興政策を受けることになりました。
競輪場の認可はその一つです。
それ以外にも、焼けてしまったんですから、ここから大胆な区画整理が行われ、
現在の基礎となる道路整備が行われました。
併せて、東海道筋を中心に商店が復興し、
復興の景気に支えられ、中心街では、活気のある商業が展開され、
平塚商業が大いに栄えたのです。
時に、西は熱海、東は三浦半島から買い物客がやってきた、と言われています。


しかし、他都市の整備も徐々に進んで、
何より消費活動を支える商業はそれぞれのまちで充実し始め、
徐々に、平塚まで行かなくとも、消費材を購入できる、
という体制が、他都市に整っていったのです。
ここらから平塚商業は陰りを見せ始めました。
さまざまな活性化案が出され、商店街の活動も自主的に展開されてきたのですが、
ただの一度も、この低落傾向を止めることができなかったのです。


やがて、大型ショッピングセンターの時代に入ります。
これらの状況により、さらに、商店街の足元がぐらついてきたのです。

ま、そうは簡単に状況の転換はできないかもしれませんが、
このまま放置すればまさにシャッター街に変貌してしまうかもしれません。
今がギリギリのところなんです。


ですから、このまちゼミは、ある意味、9回2死での最後のチャンスかもしれません。
現在は40店舗ほどの参加ですが、それぞれ、お客様への新たなアプローチを模索しました。

取材しながらセミナーの様子もしっかりと見てきましたが、
思いのほか、皆さんリラックスして、ゼミを受けていたのです。
この取材を通じて、ゼミで講師をした店主たちの感想を求めれば、
間違いなく、新しい関係がお客さんとの中に生まれた、と言うのです。
そして、商店街としての新たな商店同士のコミュニケーションも芽生えてきた、と。


私が感じたのは、この企画で最も効果があったことは、
各店で、何を講座内容にするのか、と考えたことにあると思います。
それまでは、何とかお客さんを繋ぎとめたい、どうしたらいいのか、と考えつつも、

どちらかと言えば、まだまだ消極的だったと思うんです。
それが、今回は、何かをお客様に伝えなければいけないわけです。
で、考える。
このことが、あ客様のニーズを探り当てようとする行為につながってきた、と思うんですね。
商業の基本は、お客様のニーズにどこまで忠実に応えるか、なんです。
ある意味商業の原点である、そこに戻ってきたという事は、
もしかするとこの企画が、

商業の新たな方向性を探り出すターニングポイントになるのではないかと感じました。


来月の市民TVをご覧ください。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
スターライトフェスティバル

平塚中心街で、歳末のイベントとして、
スターライトフェスティバルが開催されますが、
その点灯式が今週末に行われます。
このスターライトフェスティバルの提唱と言うか、仕掛けと言うか、
言いだしっぺは実は私なんです。

 

25年前のことです。
当時の商店街では、歳末商戦と銘打って、
各商店で、福引券を発行し、これを商店街の一角に設置された抽選所で、
例の抽選機を回して、赤だの黄色だのと言う色玉を出して、
相応の商品をもらう、と言う抽選会方式を実施していました。
俗にいう、ガラポンと言うやつです。
抽選機をガラガラ回して、玉をポンと出す、と言うところからそういわれていました。
例えば、500円のお買い上げごとに、抽選券一枚を発行し、
この発行枚数に従って商店はいくらかの負担をします。
これに商店街のイベント用の予算を足し算して、
はずれから特等までの商品をそろえ、運営の費用をねん出します。
つまり、原則、各商店の抽選券の枚数に応じた協力がなければ成り立たないシステムだったんで、

ここに大きな問題がありました。
まずは、各店の抽選券の発券条件が揃わないんです。
商店街の中には、一杯200円(当時)のコーヒーを売っている喫茶店があったり、
一台何十万円かのピアノを売っているお店があったりで、
価格に応じた発券をすると、全然出せないところもあったり、
とてつもない枚数を出さざるを得ないお店があったり、とばらつくんです。
お店によっては、全く協力してくれないお店もあるんですね。
で、この方式による足並みが揃わない状況は、
どんな方式を考えても解消できなかったんです。
当時、私はパールロード商店街の理事長を仰せつかっていました。
で、商店街活動をいかにすべきか、と悩んでいたのですが、
この、俗にいうガラポンと言うやり方に違和感を感じていたんです。
一番引っかかっていたところは、歳末「謝恩」セール、という表現です。
謝恩と言いながら、要はさらに買い物をさせよう、と。
しかも、買ってくれた分だけ抽選券で賞品獲得のチャンスを渡す、

と言うやり方のどこに謝恩と言うことが含まれるのか。
謝恩と言いながら、要はさらなる消費を進めようとする魂胆が見え見えじゃないか。
もっと、本来の謝恩という事が出来ないか、と言うように考えたんですね。


まあ、当然ですが、この考え方は、商店主にはなかなか理解してもらえませんでした。
で、こう言う風に言って彼らを説得したんです。
私達商店街の役員は、商店が繫栄するための活動をしています。
だからと言って、お客様を各店で買い物するような具体的な働き掛けはできません。
だってそうでしょ。
うなぎ屋の親父が、道行く人に、コーヒー飲んで行ってくださいとか、
ピアノ一台いかがですか、なんてセールスはできないでしょ。
第一、いくら商店街の役員と言えど、そこまで個店の売り上げに直接かかわることはできない。

しかし、商店街全体としての繁栄の責任はある。
そこで、このように理解してくれ、と。
商店街としての役割は、先ずは、商店街に多くの人に来てもらうような仕掛けをする。
そこにやってきた人をお客にするかどうかは、個展の努力によるものだろう、と。
つまり、商店は客を欲しがるわけです。
でも商店街と言う集団は、客を提供することは難しい。
そこで、商店街としては、人を集める、これを客にするという事は個店がする。
と、人と客を分離して考えたんですね。


で、提案したのが、歳末謝恩抽選会ではなく、スターライトフェスティバルだったんです。
これは歳末にイルミネーションをきれいに飾ることで、
それを見に来てもらおう、と。
つまり人を集める、と言うイベントを開催することにしたんです。
何も直接的な消費を前提にしなくてもいいじゃないか、という事ですね。
私達は七夕祭りを経験しています。
中空にものを飾る技術はある。
しかも電気装飾は前提ですから、電気の扱いも慣れている。
夏が七夕という星まつりなら、
冬はスターライトと言うイベントもありじゃないか。
このまちを星のイベントのまちにしよう、と訴えたのです。
で、なんだかんだとこの主張を理解してくれて、実施することになりました。

 

ちょうどその第一年度の11月、

たまたまヨーロッパのいくつかの国の商業視察するたびの一団に参加し、

ドイツ、イギリス、オランダなどの商店街を見て歩いたんですね。
どこもクリスマス用の街頭装飾を飾り付けている最中でした。
とても参考になったんです。
で、これらからデザインを起こし、実に多様なイルミネーションを作りだしました。
その初日、私の母が見にやってきて、とても素晴らしくきれいだ、

と絶賛してくれたことが、ことのほかうれしかったんです。
まずは、このスターライトフェスティバルは大成功でした。


しかし、25年もたつと、その初心は失われ、

義理で飾り付けたイルミネーションが、

ちらちら点いているだけの淋しいものになってしまいました。
もう何年も同じものが飾られています。

 

しかし、私の中には、かつての心意気がまだ残っているんですね。
今住んでいるマンションの玄関周りをイルミネーションで飾りました。
もし、街なかに夕方以降出てきたら、ちょっと回り込んで、
リーデンタワーのイルミネーションを見てください。
その心意気を感じてもらえると思います。
かつては商店街に少しでも多くの人が来てくれたら、と言うのがテーマでした。
でも今は、
マンションに暮らす多くの子供たちが喜んでくれたら、と言うのがテーマです。

一足お先に、我がマンションは点灯式を済ませました。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 06:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
紅谷パールロード

私がまだ20代後半の頃です。
父の起こしたうなぎやを継承しようと、紅谷町の店で仕事をはじめ、
何年か経った頃のことです。
当時の紅谷パールロードは、紅谷街と言うアーチが何本か建てられていて、
商店会の名前も、紅谷会と名乗っていました。
このころは、決まりきったような歳末謝恩抽選会と称して、
福引券を発行し、道の一角にテントを張った抽選所をもうけ、
ガラガラ回す抽選機で出てきた玉の色で、一等とか、はずれとかの
抽選をやる程度の商店街活動だったのです。


その頃、商店街を構成していた店舗は、およそ45店舗前後。
そのうち、15店舗ぐらいは次の世代の人が、後継ぎ的に仕事をしていて、
それらの若者が次第に集まるようになり、結果として、青年部を設立したのです。
私は当然のようにこれに参画しました。
青年部ができると、親会(本会のこと)は、商店街活動の事業部門を
青年部に委託するようになったのです。
まあ、若いものに任せてみよう、と考えたのだと思います。
ここで、紅谷会も一挙に革新的な動きをするようになりました。
まず手掛けたのが、商店会名変更です。
紅谷会は実にオーソドックスな名称ですが、
やはりちょっと古臭い。
時代は変わっているのだから、今風な名称にしよう、という事になったのです。
ま、おそらく親会の世代の人たちからはこのような発想は出てこなかったと思のです。
何しろ、昭和40年代後半のことですから。


で、その名称を公募しました。
確か、そこそこの景品を付けたと思うのですが、
かなりの応募があり、それも、多様な案が出されたのです。
私は、今でも、こちらでもよかったかな、という案があったのですが、
それは、ベニヤード、という案でした。
ま、しかしこう言うものは、多数決が原則。
過半数の支持を得たのが、紅谷パールロードでした。
で、通りの名称は紅谷パールロード、商店街名は紅谷パールロード商店街で決定。
正直、どうしてパールなのか、よく分かりませんが、語呂がいい、
と言う至って、主観的な理由で、決められたのです。
だって、パールなんて、なんの縁もゆかりもないものでしょ。

商店街名では、その後、スターモールがモール化工事と併せて、
名称を変更しましたが、
これは七夕のメインの通りなんですから、
スターモールで納得できますよね。
パールロードの名称変更に自分で関わっていて妙な話ですが、
まあ、付けちゃったから仕方ないか、という感じですね。

 

その後、このパールをイメージしたものに、入り口・出口のアーチ、
途中の街路灯など、新たに作り直したのです。
白く丸いカバーを多用し、パールらしさを強調したものです。

当時の青年部の活動は目覚ましく、様々な事業を積極的に展開したのです。
特に、マンネリ化していた歳末大売り出しはずいぶんと工夫をこらしたものになり、
正にあの手この手の形態をとりました。
これを試行錯誤、と言うんでしょうね。
しかし、いろいろ試しても、どんぴしゃの企画を実施することはできませんでした。
一番の理由は、45店舗のお店で、非協力店がいくつかあったことです。
企画に参加しないならともかく、商店街の会費すら支払い拒否です。
例えば、これらのお店は、組織全体の動きに反抗的ですから、
商店街の活動自体にクレームをつけてくるんですね。
例えば、街角で、ちょっとしたコンサートでもしようものなら、
うるさい!ですから。
45店舗のうち、積極的に協調してくるのは、いいとこ15店舗、
言えば受け入れてくれる、とはいえ極めて消極的なのが15店舗。
残り15店舗のうち、うんでもなくすんでもないのが、7〜8店舗。
そして、さらにその残りは、むしろ反逆的なのです。

組織が組織活動をする時、自律的会員が、非自律的会員の分を
カバーしなくてはいけないわけです。
ここにエネルギーがそがれてしまうんですね。
商店街でそのような現象が出るのは、その構成の仕方に原因があるのです。
例えば、ある組織が立ち上げられ、会員を募ったとします。
これはその組織に参加するかどうかは、自身で決めることです。
その組織に参画すること自体が目的行動ですから、主体的な人の集合体になります。
ところが、たまたま路面が一緒のところで商売をしている、

と言う関係で商店街を構成するわけですから、

それぞれのお店は、商売をする、という事が第一義で、
商店街の活動は、二義的なものになってしまいます。
つまり、商店街の活動に参画したいから商店を出したのではないという事ですね。
これは、PTAに参加したいから、子供を学校に入れたわけではなく、
子どもが学校に入っているから、PTAに参加している、という構造と同じです。


こう言う場合、どうしてもその人の価値観が、活動への関与程度を決めてしまいます。
そもそもが社会性が高い人は、積極的ですが、利己性が強い人は、非協力的になるのです。

 

パールロードはその後世代交代が進み、
青年部の連中が本会の中核をなすようになり、
昭和60年に、商店街のモール化、という大事業を展開するのです。
冷静に見れば、商店街は共存共栄を原則としています。
お互いの店がお客様を開発し、そのお客様が、ついでに隣で買い物をする、
と言う共存共栄です。
そのためには、ただお店が軒を連ねている、と言うだけでは、

トータルにお客様を呼び込むことはできません。
各店の協調のもと、施設の整備をし、足を向けてもらえるような企画をし、
商店街そのものが作り出す空気を、一緒に共有するという事が必要です。


ま、それにしても今の紅谷パールロードは、
中央資本の支店が多くなりましたね。
きっと店長さんが仕切っているんでしょうね。
何かというと、本社に聞いてみます観たいな、

現場でのスピード感のある事業展開はもう、

昔の話になっているんじゃないか、という感じがします。

このまちも、随分と様変わりしました。

 

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
なぜ、9月1日じゃないんだ

ちょっとタイミングとしては、ずれていますが、
七夕祭りについてです。


私は、以前から、ひらつか七夕祭りの日程の決め方に疑問を持っていました。
七夕祭り実行委員会の内規のようなものを読んだわけではないので、
今までの日程の決め方から推測するしかないのですが、
どうもこうなっているらしい。
7月第一土日を含む三日間。
したがって、そこに7日が来れば、7月7日の七夕の前後、という事になりますが、
ずれてしまうと、7日が日程に入らないのです。
つまり、7月7日が、金曜か土曜か日曜なら、
三日間の中に7日を含みますが、そうでないと、8日、9日、10日みたいな
期間になってしまうんですね。


確率から言って、7日を含めた七夕期間は、7年間で3年しかない、という事です。
確率57・2%で、七夕の日である7日を含んでいない日程になる、という事になります。


そもそも七夕祭りは、五節句の一つとして7月7日に、
平安の時代から、伝統的に行われてきた行事です。

五節句は、3月3日とか、5月5日とか、奇数(陽数)の重なる日に行われています。

これが中国から伝わり、日本の宮廷で始められ、やがて、江戸のころには庶民の間に広まりました。

正に、文化の象徴ともいえることです。
それが、たまたま、平塚では、商業祭りとして取り入れられ、
そこそこに発展してきたのですが、
やはり基本は基本として、7月7日はその本命の日ですから、
この日程を取り入れるのは、伝承されてきた文化に対する敬意だと思うのです。

 

私は、いかにも近代的な七夕まつりの竹飾りを40年近く手掛けてきましたが、
そのたびに、いささか誇張された竹飾りを作りながら、

でも、いつか積み重ねれば、これはこれで文化として継承されてゆくはずだ、と願ってきました。

文化として認められる、と言うことは大きな目標だったんですね。
ところが、7〜8年前でしょうか。
突然と、7の日が外れてしまったんですね。
正直とてつもない違和感を感じました。
大みそかにおせちを食ってしまうようなものだろ、と。
一年の無病息災を祈り、家族の平安を願いつつ食べるのがおせち料理です。
そこには素朴な感謝と祈りがあるからこそ、年の初めに食べる意味があるのです。
それが、七夕祭りで、様々な祈願を成就せんと開かれる行事にも関わらず、
本来の伝統としての7月7日を外すんですから、
七夕祭りとは名ばかりの商業祭りに後戻りしてしまったんですね。


たかだか開催日ぐらいのことで大げさな、と思うかもしれませんが、
私は文化とか、日常的な慣習化したものにはそれなりの意義が存在すると思っています。
そこがないがしろにされたら、これは単なる時代の流れ、などと言い訳をすべきではない。
本質を理解できない、浅はかなご都合主義、と言うべきことではないかと思うのです。

 

さて、話しはガラッと変わります。
9月1日は関東大震災の起きた日です。
従来、この日を中心に、平塚でも防災訓練など、様々なテーマで、防災活動が行われてきました。
ところがです、今年の平塚市の総合防災訓練は、8月19日でした。

私は今までこの防災訓練に、何度も参加してきましたが、
こんなに、本来の9月1日とずれがある日程は初めてです。
一体何を考えているんだ、と思いました。


確かに、防災訓練は何時してもいいはずです。
1月だろうと、5月だろうと、できれば何度もした方がいいくらいです。
でも、今まで、9月1日を中心に展開してきたのには、それなりに訳があるからでしょ。
その日、その時というのは意味があります。
それは、まさに慰霊の時なんです。

8月19日では、何か違和感があるでしょ。


平塚では、あの関東大震災で、476人の方々が亡くなったんです。
これって、一大事でしょ。
市民合同慰霊祭を単独で開催してもいいくらいの大きな犠牲を出してしまったんです。
90年以上過ぎれば、そういう意識は薄くなるのは分かりますかけど、
逆に、だからこそ、しっかり心に残すという意味でも、
これは9月1日、せめてその前後に防災訓練をし、

被災されて失われたあなた方の命を無駄にはしませんという事と、
その霊を弔うべきではないでしょうか。


私達の、子、孫の代へ、伝えるべき先人の苦い経験だと思うのです。

主催担当者ご都合と、流れる月日が、

こういう物事の本質を失うのは、淋しいことです。

 

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:11 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
さらなる進化を

今日は七夕最終日。

おかげさまで、天候にも恵まれたようです。
漠然とですが、七夕の人出が、今まで多いように感じます。

街中を、久しぶりに、人が多く、歩きにくい、と感じました。


一時のさびれかかった飾りが、少なくとも数の上では、いくらか回復傾向にある、

というのも、人出の多さに影響しているのでしょうか。

 

ま、確かに数の上ではそれなりの規模を維持してきましたが、
正直、飾りの質の面では、まだまだだと思うんですね。

 

梅屋さんが、今の東横インの南側の棟のあたりにあったころの話です。
ざっと60年ほど前のことです。
たまたま梅やさんでの買い物があって、
親に連れられて、店に入ったんです。
すると客待ちの間の手間仕事と言う風に、
店員さんが数名固まって久寿玉の花を折っていたんです。
で私たちのほうを見ると、いらっしゃいませ、と近寄ってきました。
母は、あら、そういえばそろそろたなばたね、と、
今迄花を折っていた人たちと、会話をしていました。

そんなお店の風景を見て、

七夕祭り、と言うイベントももうすぐだなと思い起こしたものです。
そう、そんな風に、それぞれの商店では、店員さんたちが、
間を見ては、花を折り、拡げ、それをかごに付けて、
久寿玉を作ったものです。
なんだかんだと七夕飾りの基本は、久寿玉と吹き流しです。
クス花と言うのは、それはそれは手間のかかるものです。
4、5枚の色紙を重ねて、山谷に折り、それをまん中で針金で止めて、
一枚づつ広げるのです。
直径90センチほどの籠に、これが4〜500個は付けるようなんです。
ですから、見た目から見ると、どれほどの手間のかかっている事か。
のちに、紙はいわゆるビニールに変わり、機械で折った花まで売られるようになりましたが、

それでも久寿玉1個作る手間と言うのはかなりのものでした。

その、久寿玉と吹き流しの基本構成だったものが、
あるころから、平塚では独自のデザインが用いられるようになったのです。
それは、木枠を作り、その中を飾りたててゆき、木枠の下に久寿玉を付ける、
という形式です。
つまり、手で折って拡げていた仕事以外に、大工仕事が足されるようになったのです。
いわば箱モノの作りものです。

これによって飾りは巨大化し、
中にはモーターで動かしたり、電飾をしたりと、
ひらつか流の飾りの形態が出来上がっていったのです。

しかし、これは確かに省力的でしたし、コストも安くできるようになったのですが、

一方で、定番と言うか、定型というか、あまり変化がない形態になってしまったんですね。
まあ、ひと事で言えば、工夫がないと言ったらいいでしょうか。
まるで、神社の境内に並ぶ雪洞のようなものです。
形態、見た目の形がほぼ同じで、行燈の中身の絵だけが異なる、と言った感じでしょうか。


現に、パールロードの飾りも、基本形みたいなものがあって、

多少は目先を変えていますが、大工仕事中心という感じは否めないでしょ。
まあ、形態的に同じようなものが並んでいるんですね。

プラザの駐車場6階でも、時に同じ形態のものが作られ、

絵柄だけ変えている、と言ったものが多く見受けられました。

 

仙台では、伝統的な和紙を使用し、原則久寿玉と吹き流しの
オーソドックな飾りです。
でも、それなりの風格があって、同一形態とはいえ、
それは千差万別のデザイン性で、見ごたえのあるものにしています。
まあ、その意味では平塚の飾りも、同一の形態ではあるんですが、妙に風格に欠ける。

少し工夫がほしいな、と思うのです。


この先、きっと、形態的に工夫を凝らすところが出てくるはずです。
その時が、真に市民飾りの時代の幕開けかもしれません。
何より、製作技術が、きっとグループ内で、継承されてゆくと思います。
大いに期待するころですね。

 

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 09:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
華やかな竹飾りとその裏側

昨日は、7月7日、七夕本来の日、という事もあってか、
たくさんの人出があったようです。
夕方、私も町を歩きましたが、久しぶりに初日の割には
観光客が多かったと思いました。

 

SCNクラブの8月作品は、七夕市民飾りをテーマにしました。
さまざまな市民グループの、

その製作過程をカメラで追いかけ、飾りを吊り上げるまでをストーリーにまとめたのです。
そんないきさつで、前日の6日、8時過ぎからスターモールに陣取り、
吊り上げのシーンを撮ろうと撮影チャンスを狙っていたのですが、
改めて、七夕祭りも様変わりしたな、と思いました。
というのも、6日午後9時には、スターモールが全面通行止めになり、
竹飾りを一斉に吊り上げるのです。
100本を超える竹飾りの製作に関わった人たちが集まって、
主に、市民プラザのある駐車場の6階に置いてあった飾りを、
ぞろぞろと運び出すのです。
その人たちが、所定の竹の下で準備を始め、
交通規制が始まる9時には、一斉に引き揚げが開始されるんですね。


それはそれなりに、見事なものです。
あれだけでも立派なイベントですね。
で、わあわあ言いながら、一つづつ吊るされ、

飾り終わると、念のため電気を通して照明の具合を見る。
暗闇の中で、一つ一つの飾りに照明がつくと、

それはそれなりになかなか見栄えのする景色になるんですね。


で、この時思ったんですが67年目を迎え、
七夕もやっと市民の祭りになった、と思いました。


そもそもが、焼け野原となった今の中心街にぽつぽつと商店が立ち始め、

やがて商店街を形成するまでになると、

夏のお中元商戦に絡めて何かイベントを開催しようという事になったのです。
最初は、復興祭というめいしょうで、

まさに戦後の復興を元気づけるような意図があったのだと思います。
ちょうど、田植えも終わって、一息ついた在の農業者が、
ぞろぞろとやってきて、思いのほか盛況だったのです。


で、これの回を重ねてゆくのですが、その祭りの中核として、
七夕飾りを掲出する、と言うことになり、
年々その数は増えて、規模も拡大して行き、
昭和30年代に入ると、近郷近在から人がやってくるようになりました。
まさに平塚商業の絶頂期を迎えるのです。
当時、人口が10万ちょっと。
にもかかわらず、商圏人口50万といわれ、
西は熱海、沼津から、遠くは三浦からも買い物客がやってきた、という時代です。
これらの商業の隆盛とたなばた祭りは連動するようにその規模を拡大してゆきました。
したがって、まちがいなく、七夕祭りは、商業イベントだったのです。
商人達は、そろばん勘定をすることなく、豪華な飾りを作ることを競い合いました。

 

しかしこう言う傾向は長く続かず、
昭和50年代に入ると、飾りを出さなくなる商店が出てきたのです。
出したからと言って客が増えるわけでもないし、というのが言い分です。
隣近所のお店が出した飾りで、十分、客足は確保できているので、
その意味では、何もしなくったて、

七夕景気のおこぼれにあずかれる、というわけです。
ま、情けないと言えば情けないのですが、
懐勘定をすれば、飾りの製作にはそこそこの費用が出るので、
飾りを掲出しなければ、その費用は出さずに済む、という事です。
こう言う根性では、祭りはできませんよね。
しかし現実にそうだったんです。


そこで、最盛期は空が見えなくなるほど、とまで言われた竹飾りの数も年々減って、

いささかまばらになってきたんですね。
そこで、様々な対策が取られたのですが、
七夕飾りを作る、という一種の技術はそうは簡単に広まりませんでした。
ところが、市民飾りの会が作られ、
プラザ駐車場の6階を開放し、多少の材料の提供と
技術的な指導をした結果、徐々にこの市民飾りの団体が増えてきたのです。
今や、スターモールの飾りの半分以上が、商店以外で作ったものになってしまいました。
いや、大したもんです。

 

この市民飾りを中心的に推進してきたのは、
根岸さんと、渡辺豪さん。

ほぼ2か月毎日のように6階に詰めて、
市民グループの製作のお手伝いをしうています。
一見華やかな七夕飾りも
その裏側には、こうした人たちの見えない努力があるんです。


そんなことを感じながら、
どうか今年の七夕飾りを楽しんでください。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
復活!七福甘味めぐり

平塚の大学生たちで、ボランティア活動を展開し、
さらには、大人たちの手で、就職活動の支援をしようと、
2012年に平塚青春塾と言う名称のグループが組織されました。


当時は活発に活動を開始したのですが、
年を経るにしたがって、メンバーが入れ替わり、
ま、これは当たり前のことなんですが、
さらには、就職環境が劇的に改善されたため、
当初の目的を喪失してしまったのです。

とともに、メンバーも減り、活動のテンションも低下してきました。


で、2014年、まだ活発だったころのことです。
ある会議の中で、友達が七夕にやってきても、
買って帰るおみやげがない、と言っていた、と。
そこで、だったら、七夕みやげを創作してみよう、という事になり、
あれこれ議論した結果、当時活動していた七福神めぐりにかぶせて、
七福神が祀ってある7つの寺社に併せて、

甘味を7つ詰め合わせたものはどうか、という事になったんです。
そもそもが、寺院も神社も、何かと人寄せがあったりして、
その時は、どこか、出入りの菓子屋さんから、

商品を取り寄せたりしていますでしょ。
つまり、あるお寺とある和菓子屋さんとは、それなりのつながりがあるはずだ、と。

そこで、七福神の名称を冠に付けて、
たとえば、恵比寿もなかとか、大黒どら焼きとか、

その類をなるべくかぶらないようにバランスよく7品を取りそろえて、

ひと箱に詰めてみよう、と。
まああとはこじつけなんですが、
七夕の七と七福神の七をつながりにして、
七夕みやげ・七福甘味めぐり、という事で売り出すことにしたのです。


学生さんが集まって、皆で箱詰めをし、街頭に立って売ったのです。
なんだかんだと500を超える七夕みやげを売ることができました。
で、翌年、2年目、これまた学生さんと一緒に準備し、販売したのですが、
前年ほど売れず、いささか四苦八苦したものです。
そうこうするうち、学生さんの数が、減って、
箱詰めやら、販売やらのめどが立たなくなってしまい、
この七福甘味めぐりは継続できなくなってしまったんですね。


そこで、私は、観光協会に働きかけ、
観光ボランティアと言う組織があって、
そこの方々が私たちが継承してもよい、と言ってくれたので、
この企画を継承してもらいたい、とお願いに行ったんです。
となぜか、検討した結果引き受けられない、という回答でした。
まあ、疑るようですが、どこでどのように検討したのか、
よく分からなかったんですね。
私は観光協会の理事なんですが、そんな話は聞きもしなかったんです。
まあ、失礼な憶測かもしれませんが、事務局レベルで、面倒な企画だから、
断る、という事になったんじゃないか、と思っています。


ところが、観光ボランティアの人たちが、
田中洋子さんを中心に、再度、七福甘味めぐりを販売してみよう、

と立ち上がってくれて、今年の七夕に復活することになったのです。

正に、捨てる神あれば拾う神ありです。
数からいったら、それほどのものは期待できませんが、
こう言う事って、小さな努力の積み重ねでしょ。
学生さんたちが一生懸命考えた。
そのことを、7つの製菓店が理解してくれて、
販売価格より、幾分か値引きして納品してくれた。
それを、スターモールの商店や、名産品の販売コーナーの一角に並べてもらって、
販売をした。
さらに、途絶えていた企画を復活してくれた。
などなど、見様によっては何てことないことの積み重ねが大事なんですね。
そういう思いとか、無償の汗が、一つの形を作り上げてゆくのだと思うのです。


さらに、一番大事なことですが、
そういうものを、じゃあ買ってみようか、という、
諸費者側の理解と協力が必要なんです。


平塚の銘菓店7店のそれぞれの甘味を
味わうというのもなかなかでしょ。
物は試しで結構ですから、ぜひお買い上げ下さい。

ちなみに銘菓7個詰め合わせで、1500円。

販売場所は、市民プラザ内です。

 

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
七夕の経済波及効果

1971年のことです。
ある事情で、返還前の沖縄で、
返還を見据えた沖縄経済の振興会議と言った内容の会議に
出席することになりました。
開催地は那覇です。
実質的に返還は1972年の5月15日でしたから、
ほぼその一年前のことでした。
当時は、返還は確定しておらず、少なくとも公表されていなかったので、
返還になった場合、どうするのか、と言ったことで、
日本の経済界の人たちと
現地沖縄の政財界の人たちと会議を持ったわけです。


その時、会議全般を通じ、沖縄が抱えているいくつかの問題点が浮き彫りになり、
その解決と、経済振興がいくつか相反する条件になっている、
と気づいたのです。
例えば、立地的に絶えず水不足が指摘されていて、
工業系のある種の産業では、水がないと成立しないものもあるわけで、
物理的な立地条件で、すでに工業化、という将来像は

あまり期待できなくなっていましたし、
農業と言っても、当時は主にサトウキビの栽培が主流で、
その実態から言うと、本土での買い上げ額が、

相場よりもはるかに高い金額が設定されていて、
かなりの保護が手厚く行われていたわけです。
この障壁を取り除いたら、沖縄の農業が打撃をこうむるんじゃないか、とか、
そもそも基地に占められている面積分の生産性が、

足かせになっているという前提があったり、
ビールにしてもオリオンビールが独占的に製造販売していたのですが、

日本の酒税の関係で整合性を合わせた時、生き残れるのか、とか、
まあ、ありとあらゆる分野での問題が噴出していました。


3日間ほどの会議でしたが、私は勝手ながら、
沖縄の可能性のある経済の切り口は観光しかないのでは、というのが結論を出しました。
今から、45年前の話です。
で、結果的には、観光がかなりの稼ぎ頭になっているのが現状です。
しかし、45年前の観光と言う概念は、
まだまだ、神社、仏閣、景観地に温泉と言った程度で、
観光で立地するという概念はほとんどありませんでした。
現代、観光は地域経済の大きなポイントになってきていますが、
当時は、観光でどうやって沖縄県民が飯が食えるのか、
という意見もちらほら出ていたんですね。


日本としては、観光立国といった経済面を打ち出し、
特に外国からの観光客の呼び込みに必死になっています。
2016年は、過去最高の2千400万人の海外からの
訪日客数となりました。
前年対比22%という驚異的な伸びです。
これらの現象から、地方でも観光経済の見直しが盛んになって来ましたが、
先手を打って、様々な趣向を凝らし、
ときに特定の国への売り込みを図るなど、
積極的な姿勢が見受けられるようになり、
現実的に、観光での地域経済が伸張しているというのは、
枚挙にいとまがないほどです。


さて、我が平塚ですが、これが淋しい限りなんですね。
観光協会と言うのがありますが、残念ながら、
積極的な政策を打つこともなく、
淡々と従来から繰り返されてきている「観光的行事」をするにとどまっているんです。

市に商業観光課と言うセクションもあるのですが、これまた然り。
訪日観光客がそこまで押し寄せてきているというのに、
これと言った手を打てないでいるんです。


ちなみに、観光と言うのは、

他の地域の人々が、その地に観光のために落とす経済によって、成立している経済活動のことです。
つまり、金を落としてもらえない行為は観光というべきではない、と思うんです。
そもそもが観光で落ちる金の種類は、
仝鯆漫Π榮鞍 ∧産土産物購入費 G甸僉入館、施設利用費
ぐ食費 ソ蒜馮 の5つです。
これらをトータルして、地域の観光産業は成り立つわけで、
すでに観光資源があるところは、これらの収入が明らかに地域経済を潤しているんですね。
観光と言うと、風光明媚とか、歴史的建築物だとか、
なんか特殊な条件が必要と考えがちですが、
東京の築地なんかは、そのどちらもないのに、観光客が押し寄せています。
ですから、人為的に、意図的に観光資源を成立させることはできるわけで、

観光行政というのはそのことを意図しなくてはいけないのです。


イベントなんかも重要な観光資源です。
平塚の場合、我がまち最大の七夕祭りが毎年開催されていますが、
このことですら、まだまだ未熟な運営でしかない、と思っています。
何より、この七夕祭りの経済波及効果がどれほどのものか、

という具体的な数字を聞いたことがないんですね。
おかしいと思いませんか。
全市を挙げて、時に市民生活の不自由さを我慢しつつ、

では、いったい七夕の経済波及効果はどのぐらい私たちのまちを潤してくれたのか、
という事が分かっていないんですね。
で、これは当然なんですが、この類のイベントの経済波及効果の算出方法は、
人出が基礎になります。
どこから何人やってきたのか、がベースなのに、
観光客数のカウントが、まるででたらめなんですね。
これじゃあ、経済波及効果などといった数字の出しようがない。
67歳を迎える伝統行事なんですから、
このあたりのことは、きちんとすべきじゃないでしょうか。

 

 

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 11:11 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
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