水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
コロナが早く退散しますように

私が、物心ついた時には、紅谷町にある料亭の住居部分で寝起きしていました。
ですから、七夕祭りが始まった時から、ずうっと眺めてきましたし、
後に製作にかかわるようになったのです。
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子供のころは、お祭りと言えば、非日常のことのわけで、
子供にしてみれば、とても楽しい期間だったわけです。
正にお正月なんかよりはるかに魅力的なイベントでした。
もちろん飾りを鑑賞することもさることながら、それに付随して出展する露天商も
これまた魅力的な存在だったわけですね。
綿あめやりんご飴、焼きそばやお好み焼き。
金魚すくいやヨーヨー釣り、中にはひよこの販売など、
子供の気を引くような露店がずらりと並んでいて、
正に子供天国だったので、七夕期間中は、家を一歩出ればそこが、七夕ランドなわけで、
こんな充実した5日間はなかったと思います。
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で、長じて、父の命で高校のころ七夕飾りを作るようになったんですね。
最初のころは作り方そのものもよくわかりませんでしたし、
デザインと言っても、粗雑なものでした。
やがて、回を追うごとに工夫がなされ、それなりに様になっていったのですが、

3〜4年たったある時、七夕飾りコンクールにエントリーすることにしたのです。

正直、紅谷街(そのころの名称です)では飾りがまばらで、
七夕祭りと言えば、東海道筋(今のスターモール)が中心でした。
飾りも、規模、デザインのセンスと言い、比較できないくらいの差があったと思います。
ヘビー級のボクサーとフライ級のボクサーが同じリングに乗るようなものです。
でも、まあこれも経験とエントリーしたのです。
当時、確か佳作という評価ランクがあったのですが、この佳作に入選しました。
入選といったって最低ランクの位置です。
でもまあ、遠い七夕飾りの世界に、ちょっとばかり近づくことができたわけです。
以来、どうせならもう少し高みを目指そうと、年々工夫を凝らし、
入選は標準的位置になってから、
だったら、さらに上の準特選を目指してみようと思ったんですね。
で、これもなんとか行けるようになりました。
そのころは特選が2席、準特選が5席ありました。
今は、特選2席、準特選2席です。
で、この準特選には常連になれたのですが、
そのころに、特選を狙うという考えはありませんでした。
ざっくばらんな話、製作手間はともかく、材料費を見積もると、
準特選で、30〜50万円くらい。
特選を狙うなら、100万円は必要だろう、と思われたのです。
ちょっとそこまでの予算を組み切れなかったので、
準特選で良しとしたのですね。
まあ、当時で、200本ぐらいのエントリーですから、
ベスト5ぐらいというのは、まあまあの位置でしょ。
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で、舟平があったところを再開発にかけることになって、
七夕祭りから撤退をしたのです。
この空白期がおよそ10年。
たまたま再開発で建設したマンションに引っ越してきたので、
むくむくと七夕製作の虫が頭をもたげてきたんですね。
再開の当初は、紅谷町の子供会の作品でした。
で、これが、街角広場での掲出が物足りなくなり、
パールロードに場所変え。
で、さらに昨年は、飲食店有志により資金集めをし、
七夕竹飾りコンクールの本選に参戦したのです。
まあ、おかげさまで、準特選。
昔取った杵柄とはこのことですね。
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この空白期を除き、七夕飾り製作にかかわったのが、およそ50年間。
最初のころは無我夢中で作りつづけてきたのですが、
ふと考えると、この七夕まつりとは何ぞや、と考えるようになったんですね。
まあ、自分なりの考えですが、そもそもの始まりは、
焼け野原だった平塚の町を復興させ、市の内外に、
平塚商業ここにありと宣言すべく、平塚商業のシンボル的イベントとして始まったわけです。
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私は商業イベントという位置づけにずうっとコンプレックスを持ち続けていました。
でもたとえ、商業イベントであれ、歳月を重ね、文化としての要素を醸成してゆけば、
いつか、商業イベントから文化に脱皮する時が来るはずだ、と思っていたのです。
そうこうするうちに、七夕から離れることになってしまったのですが、
この空白の10年間で、なんとも不愉快な決定がされたんですね。
それが、開催日の決定を、7月初旬の日曜日を軸に、3日間の開催とする、ということなんです。
つまり、暦のめぐり方では、7月7日が含まれなくなる日程の年が出てくるんですね。
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どう考えても、七夕まつりは7月7日でしょ。
これは五節句の一つですから、中国から平安期に伝わってきた
正に伝統にお行事です。
もうこれは、日本の文化の一つなんです。
でも、平塚では、集客を前提として、7日より日曜日を選択したんですね。
つまり、文化的な要因をかなぐり捨てても、
儲け主義の商業祭としての位置づけを優先させたということです。
このことを聞いた時、本当に情けない思いがしました。
要は金勘定なのか、と。
いいかえれば、こういう決定をした祭りの実行委員会、市の幹部連中の中に、
文化を理解できる心がなかったと言うことでしょ。
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ですから、今年、もし七夕が開催されていたら、7月3・4.5日になっていたんですね。
7月7日は外れていたんです。
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今年このコロナ騒ぎで、湘南ひらつか七夕まつりは中止になりました。
とはいえ、七夕様という、古来の五節句に行事は、コロナとは関係ないでしょ。
むしろ、願掛け、という祭りの性格からして、
せめて子供たちに、短冊に願い事を書いてもらおう、ということになり、
中心街の若手を中心に、七夕様はやめません、という趣旨のイベントが企画されたのです。
断っておきますが商業イベントではないので、集客は目指していません。
ただただ、子供達の純粋な夢を文字に書いてもらおう、という企画です。
いまのところ、短冊の枚数は3万枚。
これを7月になったら、紅谷町のまちかど広場に掲出しようということです。
そのモニュメント的星の製作を私が担当しました。
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当然ですがこの飾りは、7月7日までは掲出します。
だって、七夕様は、コロナとは関係ないでしょ。
コロナ早く退散しますように、というのも、立派な願い事ですからね。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 12:19 | comments(0) | - | - | - |
中原街道

この平塚には、ほとんど痕跡が残っていないのですが、
中原街道という道が、通っていました。
これは、江戸時代になって、東西の主要街道として東海道が整備されますが、
それまで、江戸の脇街道として、中原街道が重要な役割を果たしていました。
この街道は、江戸城の虎ノ門から、ほぼ一直線で中原御殿まで通っている道で、
その道筋は、江戸城前を出立すると、今の品川を通り、洗足、丸子で多摩川を渡り、
川崎の中原区、用田、寒川を経て田村の渡しを渡ります。
そして、中原御殿まで、ほぼ一直線の道筋でした。
その総延長60キロメートル。
この道筋は、今でも残っているところが多いのですが、
平塚に入ると、区画整備のためか、ほとんど残っていません。
とくに御殿近くは、かぎ型に曲がる道が多く、区画整理とともに、まっすぐな道に変わってゆき、
往時の面影はほとんど残っていません。
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そのころの地図で比較してみると、
東海道は日本橋を起点として、横浜に入り込み、藤沢あたりから海沿いに近づきますが、
これを弓とみなすなら、弦のような位置づけで中原街道があったわけです。

ちなみに、日本橋から平塚の宿までおよそ63キロ、虎ノ門から中原御殿まで60キロです。

まあ直線的ですからその分距離も短かったのですが、
家康が西に向かう時は、この中原街道が多用されたようです。
東海道が整備されたものの、海からの攻撃には弱いと判断されていたようですね。
家康の用心深さが表れています。
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生活道路的な位置づけが強く、東海道はしばしば大名行列などが通るので、
庶民からは嫌われていたようです。
むしろ江戸に届ける物資の主要な輸送路として利用されたいたようで、
平塚の中原から、成瀬酢という酢が、江戸城に献上されていたのですが、

これもこの中原街道を通りました。
したがって当時はお酢街道などと呼ばれていたようです。
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この成瀬酢というのは、家康が中原御殿に滞在しているとき、
時の代官の成瀬何某が、この地でおいしい酢を作るものがいます一度ご賞味ください、と
食事の時に供したところ、家康はこの酢の味をえらく褒めて、以後城まで献上するように、と命じます。
酢の製造者は、御殿の近隣に住む佐藤何某という人なんですが、
取り計らったのが成瀬何某だったので、成瀬酢と言われるようになったそうです。
これは大きな土甕に入れられ、運搬したのですが、

この土甕の一つが、平塚市博物館に展示されています。
結構大きなもので、見た目ですが、楽に一斗は入るものと思われます。
かつて、お酢街道と呼ばれた背景は、中原の佐藤さんが作ったお酢がその大本なんです。
考えてみればなかなかのことですよね。
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この佐藤さんちの近くに、中原街道一里塚跡と言う銘板が建てられていますが、
ということは、ここは基点から一里目にあたる、と考えるべきでしょ。
では、本来の中原街道のゼロメートル地点はどこか、ということなんですが、
諸説ある中で、どうも大磯の化粧坂辺りらしい、ということです。
ちなみに、そうだとすると、化粧坂から、ほぼ4キロ弱なので、まあ、一里ということかな、と思えますね。
すると、虎ノ門から化粧坂まで一直線になるので、その街道に沿って、中原御殿があったということになります。
まあ、当時としては、中原の俺んちの門の前から江戸の城の門の前までの専用道路だ、

ぐらいの感覚があったんでしょうね。
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ともかく間違いないことですが、中原街道の中原というのは平塚の地名で、
これから採られたものです。
江戸五街道という街道の整備が家康によって行われました。
今でいう新幹線の整備みたいなものです。
五つの街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道なんですが、
街道名としては、広範囲の地域地名が冠せられます。
しかし、これはまだまだ一つの集落に過ぎなかった中原が、
その街道名になったということは、実にすごいことなんですね。
そもそもが、この街道は相州街道とか、江戸間道、小杉道、お酢街道

中にはこやし街道などと呼ばれていましたが、
その中にあって結局、伝え残ったのが中原街道です。

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この中原街道は、いまだに多くの地域にその原型が残っていますが、
川崎では、区の名前として、中原区というのがあります。
ここに中原街道が通っていた、というのが命名の根拠だそうです。
つまり、中原区の大本は平塚の中原、ということなんですね。
この川崎の中原ですが、明治のころ周辺の村落が合併して新しい村を形成します。
この時、新村名が中原村で、中原街道沿いの村落であったというのが大きな理由です。
その後、さらに近隣の合併が進み、中原町と命名しますが、
一度これは消えたものの、川崎の区政が敷かれたため、中原区として復活します。
まあ、だからなんだということですが、これは平塚の中原が起点になっているわけですね

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こうしてみると、とかく東海道という表街道が平塚の南部を通っているため、

そちらに視点が行きがちですが、歴史的な位置づけとしては、中原街道も意味を持っていたんです。

田村の渡しも、中原街道の渡し場所だったわけですから、

もう一度、少し北に視点を移して、このまちを眺めてみましょう。

 

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 09:59 | comments(0) | - | - | - |
家康が平塚に残したもの
来月のSCNクラブによる、市民クラブTV枠の番組制作に私は携わっています。
番組タイトルは「平塚と家康の縁」ということで、
かの征夷大将軍徳川家康公が何かと平塚に縁があって、
その史跡を中心に、番組を構成しようという企画です。
ちなみに放映は、ケーブルテレビ2チャンネル、期間は7月1日から31日まで。
時間は朝8時半、夕方5時半の2回。
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まずはこの類のテーマは下調べから始まります。
ですから、コロナ自粛期間中はなんだかんだと家康自身のこと、
また、戦国時代のそれぞれの武将の様々な動きを調べていました。
しかし、どうも歴史ものは、不正確な記録しか残っていなくて、
時に、ウソかホントか、と疑念の残る文書も出てくるわけです。
でもまあ、何百年とそれなりに歴史研究家が、あらん限りの資料を基に、
分析・解説をしているので、それを駆け出しの素人が、あれこれ言うのは遠慮すべきである、
ということは十分に承知しています。
ですが、基本的には「諸説あり」ということが前提です。
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そして、番組構成にあたって、博物館の学芸員である早田旅人さんにご指導いただきました。
旅人(旅人)なんて素敵な名前でしょ。
さすがに、きちんと整理されていて、家康と平塚の縁というのがよく分かりました。
したがって、これからの話はその受け売りだと思ってください。
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まず筆頭に挙げるべき縁は、中原御殿ですね。
私は、平塚生まれの平塚育ちなんですが、中原御殿がかつて家康が鷹狩の際の休憩所的な目的で、
造営したもの、と理解していました。
ですから分かったような顔をして、まあ、一種の別荘ですよね、とか言っていたのです。
しかし、どうもこれは大間違いでした。
小田原攻めが一段落すると、早速に秀吉から領地変えを命ぜられます。
それまでの、三河・駿府など東海地方105万石から、関東一円の江戸への移封(いほう)です。
秀吉は、関東は240万石だ、ぐらいのことは言ったそうです。
石高そのものでは、かなりの増収になるのですが、
何しろし住み慣れた故郷を捨てなければいけない。
でも、少しは増碌になる、と思ってうんと言ったんでしょうね。
まあ、面白い話で、当時の年貢は五分五分だったのだそうです。
お百姓の取り分五で、年貢として上納する分が、五分。
ところが関東は六分四分だったんですね。
100入る予定が2割少なくなる。
まあ、仕方ないですね、そういう仕来たりだったようです。
ともかく、そういう事情で江戸城を居城にすることになったのですが、
まだまだ戦乱の状態は、終結したわけではありません。
ですから、関東一円と言えば広いですし、
何より領地の西の小田原から江戸まで、中間に外敵から防御する砦一つなかったんですね。
そこで、以前に鷹狩にも来たことのある平塚の中原に白羽の矢を立て、
味方によっては一つの砦、平城を作ることにしたのです。
ですから、御殿の敷地の周囲には10メートルほどの堀が張り巡らせてあったそうです。
もうこうなると完全に戦略的意味を持つんですね。
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考えてみれば、様々な変遷の中で、ちょっとした理由で、味方は敵になり、
いつどんな状態で寝首を掻れるかもしれない。
戦国時代という、過酷な生き残りをかけた争いに勝ち残ってきたわけですから、
見た目平穏な情勢であったにしても、いつどんな変化があるか分からない。
ちょっとした油断で命を落としてきた武将を数多く見てきたはずです。
ですから、相当に用心深かったはずです。
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中原選択の理由は、きっとこの鷹狩で何回か来たことがある、
という土地へのなじみがあったんでしょうね。
たまたま、前年、金目川が氾濫し辺り一帯が大水に浸かったこともあって、
少し高台に建物を構えようということで、周囲より高かった中原が選ばれたようです。
また、脇街道としてですが、江戸城の虎ノ門から、一直線の街道が整備されていた、
というのも、選択の理由だったようです。
そして何より、富士の雄姿が見えたということです。
家康は幼少のころから、今の静岡で、暮らしてきましたから、
富士山はまさに精神的なランドマークだったろうと思うのです。
ですから、どうせなら富士がよく見えるということは望ましい条件だったんですね。
ちなみに、中原御殿から富士山頂までは50キロの距離。
今は建物が邪魔してその姿は見えませんが、
当時はまあまあの大きさで見えたはずです。
ですから、ちょっとしたやすらぎの時を得ることができたはずですし、
その意味では別荘と言ってもよかったんでしょうね。
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正に多目的御殿です。
軍事的な要塞の機能、鷹狩の休憩所的機能、
さらに江戸と駿府、また京など遠出でするときの宿泊の機能、のんびりできる別荘など、
正に、中原御殿は家康にとって、有用な拠点の一つだったわけです。
家康は、この御殿が海から丸見えである、という理由で、周囲にお林を作りました。
まずは御殿を囲む松林です。
これは目隠し的な意味と、戦略的に侵入をしずらくするためのものと言われています。
で、そのほか、中原から東、さらに南に、多くの松林を植林したのだそうです。
その面積は(正確に分かりませんが)少なくとも今の総合公園はその跡地の一角である、
といういことですので、なかなかの面積だったようです。
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家康との縁で、私たちはまさに昭和の城とも言うべき総合公園を利用しているわけですが、
中原周辺に行われた街づくり的ないわゆる土地の整備事業は、
正に先見の明があり、今の時代にもその影響があるということは、
なかなかの有益な史実ではないですか。
これは続編ありです。
| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 15:56 | comments(1) | - | - | - |
お米を支給するぞ

以前、と言っても10年ほど前ですが、時の平塚市長が、
その年の年度予算編成が終わり、記者会見をしました。
で、その時のコメントが、とても良い予算編成ができました、と言ったんです。
よい予算編成とはどういうことなのか、と思って、その予算案をチェックしてみたんですが、
どこが素晴らしいのか、その理由が見いだせなかったんですね。
で、彼らが言う良い予算編成というのは、収支が整ったということなんです。
つまり、地方行政の予算って、基本的にまず支出ありきなんですね。
もちろん、厳しい財政ですから、各所から上がってくる予算要求は
ばっさばっさと切り捨てられると思うんですが、
ま、それでも基本は支出ありきなんです。

で、特に福祉系の予算が増大しつつある頃のことだったので、

そこを織り込んで何とかしなくちゃいけない。 
支出が見えてくると、次は、この支出額に合わせられる収入を想定します。

見込み収入の不足分は、普通は支出を削減しますでしょ。

民間の団体、民間の企業など、すべて、正直な会計システムで動いているところは、
そうするはずです。
ところが行政は、不足分は、市債発行という手を使うんですね。
つまり、足りないところは借りてくる、というやつです。
そして、ここに収支のバランスをとるわけです。
で、このことをいい予算編成ができた、とコメントしたわけですね。
ついでに書き添えますが、市債とは国債とは異なり、単純に借金のことです。
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まあ、以来、市の財政は、さほど改善されている、という認識はありません。
そのころ1800億ぐらいの借金があったのですが、
当然、元本の返済と、利息の支払いがあるわけで、四苦八苦のやりくりが続いていることは想像できます。
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さて、そんな勘繰りのような財政への予断が前提ですが、
このコロナで様々な補償関係の支出がここでせざるを得なくなったようです。
その総額12億円だそうです。
いやいや、人口26万人、納税者20万を切るような地域での話です。
1人当たり5千円近くばらまこうというわけです。
もちろん、平均すればの話で、補償すべき対象はそれぞれ絞り込まれています。
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その1 売り上げが半減した小規模事業者には、30万円を上限とした2カ月分の家賃相当額を補助するものです。
その対象は、1500事業所分・4億5000万円の予算を確保したとのこと。
もっとも、上限30万ですが、小規模事業者の賃借料は、ほとんどが月15万に行かないところが多いので、
まあこれを満額使うことはないでしょ。
その2 子育て世代の支援策として、ひとり親世帯、すでに児童扶養手当を受給している人対象に、
3万円の特別給付金を支給するそうです。
これは対象が1800世帯ということで、分かっているので、管理しやすいですね。
その3 5月連休明けから9月まで保育園と小学校の給食費を無償とする、ということで、
予算額は保育園と小学校合計で2億6730万円。
その4 医療体制の整備では、平塚市民病院の感染症対策に1億円を投じるのだそうです。
ウイルスを殺菌する紫外線照射システムを初めて導入し、人工呼吸器など高度医療機器を充足させるため。
その5 今回落ち込みが激しかった飲食業者へのサポートとして、

クラウドファウンディング立ち上げと管理の費用を500万円負担。
などなど、トータル43項目の事業を進めているそうです。
で、ここで、さらに新たな追加。
なんと、新型コロナウイルスで生活に影響が出た世帯に、米3kgを配布することになった、というんですね。
先着順に200世帯分です。
なんか終戦直後の救済策みたいですけど、正直、米3キロというのは、それなりにありがたい援助ですね。
ただ、先着ということと、何を基準に生活に影響が出たと判定するのか。
お金でなく物ですから、振り込みというわけにはいかない。
どこかへ誰かが取りに行くのだと思うのですが、これってちょっと厄介ですよね。
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ことほど左様に、ものをあげる、お金を上げるというのは、
微妙に問題が起きがちです。
そして微妙なところでトラブル。
不思議なもので、もらえることが確定していない時は、
それはまだ自分のものではないでしょ。
でももらえることが確定すると、自分のものです。
で、自分のものになったとたん所有権が発生したと思うんですね。
そこで、所有権的権利が発生したと勘違いする。
宝くじを買って、一等の賞金は自分のものだ、と勘違いする。
抽選の結果外れる。
すると、なんか面白くないんですね。
自分の権利が奪われたように思うんです。
そんな感情が絡むから、ちょっとしたミスでもあろうものなら、
ひどくもめるんですね。
ですから、ものを上げるまたは、お金を上げるというのは、慎重に考えなきゃいけない。
特にその資格に認定と渡すタイミングですね。
実際、今回の国の持続化資金については、いささか不快な感じを持ちました。
まずは、当初配られた資料にはないものを提出しなければいけない、ということ。
まして諸証明書をPDFで添付せよというんですね。
そんなことやったことない。
いや四苦八苦しました。
でもまあ、そこそこの支援金が得られそうなんでそこは我慢と頑張りましたが、
心の中では、不満たらたらでした。
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だいたい、国民一人当たり10万円というのは本当に必要だったんでしょうか。
そもそもがコロナで自粛を強いられ、それによって生活被害を受けたということが前提でしょ。
まあ平たく言えば、いろいろとお困りでしょ、というお金ですよね。
で、案の定、ある調査によると、その10万円の使途が明らかになってきました。
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政府が国民に一律現金10万円を給付する「特別定額給付金」の使途予定です。
その使い道は「食品、飲料品」「貯金」「食事」がベスト3です。
「食品、飲料品」で30.8%、次いで「貯金」で27.5%、「食事」で24.1%となった、そうです。
だって、特に貯金って、今生活に困っている、という人の答えではないでしょ。
つまりある意味お金が死蔵されてしまうことです。
コロナ後の経済対策の最重点は、経済の活況でしょ。
いろいろと使ってもらい、それによって、金周りがよくなり、活況に結び付く、
という経済の循環のはずです。
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だから私は消費税の一時的であれ、%を下げるとか、場合によっては、0%にするとか
いう方が何より平等ではないか、と考えたんですね。
で、消費税については、なぜか議論されませんでした。
なんかこんなことでも政治家のセンスを疑いますね。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 13:09 | comments(0) | - | - | - |
バラのまち・平塚

先日、マンションの非常階段上りをしているときに、
同じ階の住人の人とすれ違ったんです。
むむ、と思って、何しているんですかと聞いたら、
運動不足解消で、廊下や階段を使って、歩き回っています、というんです。
私もそうなんです、と。

私は得意げに、これから頂上の22階まで上る予定です、と。

前にも書きましたが、全部で363段。
登り終わると、肺の中の空気をこれでもかと、出し入れすような状態になります。
まあ、普段だったらめったにやらないことですね。
ちっとは、運動不足解消になっているかな、と勝手に納得しています。
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人それぞれにこんな風に少しは動いているようですが、
この時期ですから、やはり野外を散策するなんてのが、いいんじゃないでしょうか。
昨日なんかは、Tシャツでちょうどいいくらいの気候でした。
風がいささか強く吹いていましたが、木々の緑も鮮やかで、
道端の花壇も色とりどりの花が咲いていて、
運動不足解消と、いささか疲れた心に潤いを取り戻すには、絶好の季節です。
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一昨日から、6月に放映予定のSCNの市民クラブTV枠の作品撮影に動いています。
これは、「バラのまち、平塚」というタイトルで、この町とバラの花の関係を
美しいバラの花の映像を背景に、ひも解いてゆこうという作品です。
したがって、いくつかのバラの名所めぐりをしてきました。
ちなみにご紹介します。
.
近場では、駅南口のロータリーの広場ですね。
ベンチも設置されていて、色とりどりの花、そして今満開のバラ、
中央には人魚の像があって噴水も流れています。
なかなかのシチュエーションです。
ぜひ、5分でも10分でも時間を作ってベンチに腰掛けてみてください。
花も、たっぷりの肥料とていねいな手入れもあって、見事な咲きっぷりです。
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市役所に出かけて行くついでがあったら、南、西側の花壇を訪れてください。
ノックアウトという品種が色とりどりに咲いています。
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八幡山洋館ですが、ここにも花壇が整備されています。
何より洋館というシチュエーションにバラの花がとてもマッチするんですね。
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パイロットの工場のフェンスで咲いているバラの花は圧巻です。
1950年、工場創設と同時に植栽されたそうで、もう70年の歴史があります。
何より、400メートルに及ぶ景観は圧巻です。
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総合公園ですが、ここには、2か所の花壇があります。
ステージ南側の花壇と、北側の花壇の2か所。
北側の花壇は、平塚の花卉生産者の組織で、バラ部会というのがあって、
この方々が、総合公園建設に際して、植栽したものだそうです。
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馬入のホテルサンライフガーデンにも、rose gardenという庭があって、
テーブルセットが配置され、柔らかな日差しを浴びて、薫風を胸いっぱい吸い込んで、
心身ともにリフレッシュできる、素敵な場所です。
どなたも自由の入ることができます。
ちょっと足を延ばしてお出かけになってはいかがですか。
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この取材をしていて、改めの発見したのですが、駅北口のロータリーにも
バラがいっぱい咲いています。
まあ、花壇と言えば花壇なのですが、道路ふちに植えられている街路樹の一種なんですね。
同じく、駅前の交差点の横にもバラの花。
市役所の南東の位置の交差点もバラの花。
また、美術館前の歩道にもバラの花、ということで、
よくよく見てみると、まさにこの町には、バラの見どころ満載なんですね。
.
バラの専門家にも取材をしました。
そもそも平塚にバラが登場したのは、1960年代に、温室での花卉農業として、
ばらに注目したのだそうです。
で、当時の青年たちが、一致団結して、バラの花づくりに邁進し、
1970年代に入ると、バラの生産高日本一、という偉業を成し遂げます。
まあ、この日本一はその後も維持している訳でもないのですが、
これがきっかけで、あちらこちらでバラの花を咲かせるようになったのだそうです。
ま、間違いなく、平塚はバラのまちなんですね。
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バラの世界でもさまざまな品種が開発され、
その都度命名されるのですが、皇室の女性の方々の名前を付けることも多いそうです。
中には、総理夫人の、あきえ、と命名したばらもあるそうです。
私がどんな花なんですか、聞いたら、
まあごく普通のバラで、そもそも人気がないですね、とそっけない。
そんなもんなんですかね。
こんなところにも世相が反映されているようです。
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ま、ともかく、どうせ散歩するなら、ばらめぐりをしたらどうでしょう。
今とちょうど真っ盛りです。
近くの花壇で、コロナ騒動から逃れて、
やすらぎのひと時を過ごされることをお薦めします。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:33 | comments(0) | - | - | - |
台風一過

昨夜は、3時頃までは何が起きるか、と起きていました。
時々バルコニーに置いてある植木鉢などの様子と、メダカの水槽の様子などを見ていたのですが、
これと言ったこともなく、3時頃には風も収まったので就寝。
朝起きて、かみさんと、何故かこのまちは台風が来るとか、

大雨が降るとか、雪が積もりそうだとか、
気象上の出来事に関しては、ほぼ何も起きないね、と話していたんです。
まあ、いわゆる気候温暖平穏なところなんですね。
ありがたい話です。

 

今まで知り合った人で、
平塚に居を構えていて、何十年か経ち、この街での生活の経験が長い人ほど
このまちは気候温暖でいい所だ、と言っているんですね。
特に、よそのまちに生まれ、そこの町の学校に行き、そこで生活していたのですが、
縁あって平塚の人と結婚し、この街で暮らすことになった、と言うご婦人方は、
ほぼ口をそろえて、このことを平塚の良さ、として挙げます

 

今まで何度となく、市民生活のチェックとして、
平塚市民に対して、このまちのよさをどのように評価しているか、ということをアンケート調査し、
そのデータ−を公表していますが、
それによりますと、ほぼベスト4は、次のような項目です。
1位、気候温暖で災害も少ない。
2位、海山川に恵まれ、近くに自然を感じるところが多い。
3位、東京、横浜に近く、都市的な利便性に優れている。
4位、箱根や熱海、江の島、鎌倉など、観光地が近い。
第5位は、道幅が広く、都市基盤が整備されている、とか、
七夕祭りなど、イベントが多く開催されている、などがあげられ、
その時の回答群、選択肢によって多少変わるのですが、
ベスト4は、いつもこの回答群で占められています。

 

まあ、無難と言えば無難な内容ですし、その地域に住んで生活するうえでは、
ほどほどに望ましい環境になっている、と思うんです。
しかし、冷静にこれらベスト4の利点をチェックしてみると、

実はいくつか問題が浮かび上がってきます。

 

まず、気候温暖ですが、いわば地理的な位置づけです。
例えば、積雪についてです。
東海道線に乗って移動をしてみればよく分かりますが、
西から小田原・二宮・大磯の景色を見ていると、
雪が積もっている。
で、平塚に入ると、雪がない。
今度は、東京に向かって馬入の鉄橋を渡るとぼちぼちと雪景色になる、なんてことがよくあります。
平塚だけ積もっていない。
今回のような台風の被害も、先ずほとんどない。
地形のせいなのか、よく分かりませんが、

結果論的に、先ずは気候温暖、と言っていいのだとは思います。

しかし、この地形は一方で、関東大震災の震源地が、相模トラフ沿いであったことを考えると、
地震の巣窟が、目の前にあるという地形になります。
まあ、いつかしっぺ返しのようなことが起きなければ、と思うんですね。

 

で、第2位の自然環境ですが、そうは言うものの、少しづつ、この環境は壊れてきていて、
比較しても仕方ないでしょうが、私達の青春時代とは、大きく変化してきています。
田園地帯と思っていところは、いつの間にか家が立ち並び、
いわゆる緑の少ない景色になってしまいました。
確かに西に富士を仰ぎ、北に大山の峰々を眺めることはできますが、
ちょっとわが町の自然と言うには遠すぎるでしょ。


第3位の東京・横浜へのアクセスですが、これはまさにちょうどいい距離ですよね。
横浜30分ちょっと、東京1時間。
まあそこには、日本の大都市のさまざまな機能が供えられているんですから、
これは間違いなく利便性として、適当な距離ではないかと思うんです。
また、これらの地域とは、通勤圏内なわけで、職場、と言う位置もちょうどいい距離だと思うんです。

 

で、第4位です。

これは若干、主観的な趣味がらみのことなんですが、
確かに、そこそこの距離で、気分を変えて休日を過ごす、なんていうのには、向いているでしょ。

 

さ、そこで、何が問題なのか、と言うと、
1位、2位は、地理的な特性や自然環境の良さです。
これは、大自然の贈り物でしょ。
3位、4位はよそのまちの条件ですよね。
つまり、1位から4位までは、私達平塚市民の努力の成果、なんてことは一つもないのです。
ちょっと、さみしい気がしませんか。

 

他から与えられたものがこのまちの住みやすさベスト4だとすると、
う〜〜ん、平塚の人間は今まで何していたんだ、とか感じませんか。

とは言え、まあ恵まれた地理的環境について、ありがたいことだ、と感じるなら、
それは悪いことではありませんよね。

 

台風一過、青空を見ながら、改めて、いいまちだな、と感じています。

 

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 12:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
洪水と言う天災

1608年、金目川流域一帯が洪水の被害にあいます。
その出水の量は、所によっては軒先まで水に浸かるというありさまで、
多くの農家が甚大な被害をこうむりました。

で、その様子を耳にした徳川家康が、勅命を下し、
水除の堤を築堤することになります。


金目川の道路沿いにそのことを銘記した案内板が立っています。
それによると、延長318間、572メートルにわたる規模で、
大堤とも、また家康公の一言で作られたということもあって、
御所様堤ともいわれてきました。

 

なんで家康公が、この平塚の片田舎の出来事に肩入れしたのか、と言うと、
1596年に、今の中原2丁目あたりに、中原御殿と呼ばれる建物が建てられました。
鷹狩が大好きだった家康公が、しばしばこの地に訪れ、鷹狩を楽しんだんですね。
まあ地形と言い、獲物の数と言い、それなりのいい狩場だったんでしょう。
初めのころは、豊田の清雲寺を休憩場所としていたのですが、
ある時、どうせならちゃんとした御所を構えようということで、
中原の地を選び、そこを鷹狩の拠点としたのですね。
ですから、このあたりには、しばしば訪れていて、それなりの親近感を持っていたのだと思います。

 

そこで1608年に金目川の洪水の惨状を知り、
より強固な堤防を作ることにしたわけです。

 

その頃の国や地域を統治する政治の大きな責務として、
二つの具体的な分野があって、
一つは「政」のまつりごと。
かなり広範囲の管理分野があるんですが、とくにお祭りを仕切る、なんてことではありません。
この政と言う概念は、主に司法的な観念が強く、民のもめごとを裁く、ということがありました。
もちろん、今でいう立法的な行為もあって、租税の徴収や、地域経済の振興やら、様々なことを管理しました。
で、その中でも特に大きな事業は、
政治の「治」に当たるもので、これは治水を意味します。
当然ですが、人々は農耕を主体の生活をしていましたので、
川の流域に田圃を開拓し、その周辺で暮らします。
いわば、水害危険地帯で暮らしているわけです。
ですから、社会的事業としては、堤防を築き、庶民の安全を確保し、

併せて、コメと言う生産物を確保する、
という大きな目的があったのです。

 

ですから、政治家としては、堤防を築き、安全を確保することは大きな使命の一つだったわけです。
ラッキーなことに、平塚びいきだった家康公のおかげで、
かなりしっかりとした堤防が築かれたのでした。

とは言え、その後たびたび決壊します。

 

1808年の大雨で、鈴川や金目川が氾濫し、大水が出ます。
この時の流れ込んだ水が低地にたまり、現在の達上池が誕生します。
洪水の水が引いた後も、窪地に残った水が池を構成し、当初は三つほどあったようですが、
その後埋め立てられ、今の達上池一つになりました。

いわば、もし出水すれば、水は低きに流れるのですから、1808年の水害が再現されれば、
あのあたり一帯は水没します。
現に平塚市の作成した洪水ハザードマップでは3メートルから5メートルのエリアに、
市民病院があります。
達上池のほとりに立っているんですものね。
ま、そんなことが起き無ければ、と思いますが、こればっかりは大自然の営み。
万一を考え、相当な対応をしておくべきでしょうね。
下限の3メートルの浸水があったとすると、少なくとも1階は水没。
かなりの医療能力が失われるはずです。
浸水ブロック板程度では対応できないでしょ。

 

洪水対策としていくつか問題があります。
一つはその情報をいかに的確に早目に伝えるかです。
よく、大雨洪水注意報などは発令されると、
どこそこに避難せよ、と言った自治会あたりの連絡があるそうですが、
過去の避難に対しては、二つの問題がありました。
一つは、出水する時は一挙に出水し、非難のタイミングを失う、ということです。
そこで、垂直非難と言う概念が言われるようになしました。
今までは水平避難です。
道路を通って、近くの小学校などに避難する、と言う対応ですね。
ところがその途中が安全とは言えない。
だったら、そのまま家の二階、屋根に避難する垂直非難も考えるべきだ、と言うのです。
ま、これも経験からの対応法ですね。

 

台風に関わらず、気圧の配置によっては
線状降水帯などと言うものが、グダグダと雨を降らし続けたり、
ゲリラ豪雨などで、集中的に雨が降ったり、
まあ、あれこれ奇怪なことが、異常気象とともに発生します。

その分経験は豊かになってゆくのでしょうが、
相変わらず、自然が暴れると、人間がそれに巻き込まれますね。

 

せめて、自分の住んでいるところに関しては、洪水ハザードマップぐらいはよく見て、
万一に備える必要がありますね。

 

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 10:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
第69回七夕飾りコンクールのご報告

まずは、七夕飾りコンクールのご報告。


以前に、ブログでも公表してきましたけど、
今回の作品は、準特選をねらう、と。
特選を狙うと言いきれなかったのは、製作スタッフが足りないと判断したからです。
まあ、ほぼ一人で奮闘するにして、できる時間はこんなとこ、と。
逆算すれば、製作にかけられる時間が見当付くわけです。
経験的に、そのような状況ではこの辺が限界だろう、と言うのが、準特選です。

逆に、ここなら狙えるかも、と。


でも、なんだかんだと市内に4〜500本ほど飾りが掲出されるようで、
中心街のメイン、パールロードとスターモールの本数は、多分、100本ぐらい。
これらが、コンクールにエントリーしているわけです。
で、特選が2席。
準特選が2席。

つまり準特選と言うのは、ベスト4に入らないといけないわけです。


で、おかげさまで、昼の部夜の部ともに準特選!!!!
やったーでしょ。


実は、早々と準特選を狙う、と豪語してしまったわけです。
これは事前取材のホームジャーナルでも、準特選を狙っている、と書かれたんですね。
つまり、周知の事実として、準特選狙い作品である、と。
もしはずれたら、立つ瀬無いな、と、きわきわで弱気になって、
デザイン等にも、いささか後悔をし始めたのです。
まあ、こうすればよかった、ああすればよかったというのは、
どんなことでもあることです。


特に、前夜あちらこちらで、飾りが引き上げられて、本番さながらに飾られてくると、
ちらちらライバルたちを見ながら、準特選ですら無理かもしれない、

と思ってしまうんですね。
ですから、もう、発表が気になって気になって。

 

今日昼ちょっと前に、共同製作所であるプラザ駐車場ビルの6階に、
後片付けに行ってきました。
一人でぽつぽつと片づけていたら、
共同製作所のスタッフの方が、スマホで、市で発表した入選者の情報を見せてくれたのです。
で、特選の欄、片野屋さん、梅屋さん、準特選の欄、平信さん、そしてうち、平塚市飲食店組合有志会。
いやあ、ぎりぎり4位で準特選受賞。
そして、この順位で、夜景の部も表彰を得て、ガッツ!!
公言通り、昼夜準特選となりました。
いやあ、うれしいことこの上ないことです。

有言実行と言うわけで、鼻高々です。

正直、うれしさより、ほっとしたところ、と言ったところでしょうか。

何しろ50店舗の方々の信頼により動き始めたプロジェクトです。

協力依頼の文章にも、準特選狙いは明言していましたから。

 

で、もう習性なんでしょうか、
来年の構想に入っています。
たまたまなんですが、シャドーボックスと言う絵画の技法があるのを知り、
これを七夕飾りに使えないか、と。
鬼が大笑いしそうな来年の話ですが。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 17:45 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
七夕飾り製作レポート

どうでもいい、と言えばどうでもいい話なんです。
もっとも、このブログ自体がどうでもいい話なんですが。
で、今日のブログは、特別どうでもいい話です。

例の七夕製作にかかわる話です。


感覚的には、正に佳境に入った、と言うところです。
すでにお伝えしましたが、
今年は、2作製作しています。
一つは、飲食店有志の会で、豪華絢爛の飾りを掲出しようと、
仲間の協賛をいただきながら、製作費を捻出しているもので、
目標としては、昼夜ともに準特選です。
テーマは、春秋の令花

で、もう一つは、ここ数年継続的に行っているのですが、
紅谷町自治会の、シニア会と子ども会の協力による竹飾り。
テーマは、歌い継ぎたい日本の童謡。
これは、いわゆる、市民飾りとしてのエントリーなんですが、
昨年は、全市の部、昼と夜景ともども入選したのです。
そこで、今年も、と虎視眈々と入賞狙いで製作しています。

やはりコンクールに出す以上、それ相応の評価を知りたいですから、
目標としては、せめて入賞と言う事なんです。

 

で、この二作を製作しているんですが、ここにきて、
準特狙いの豪華な飾りの方が、目途が付きました。
今日は、最後に残った作業で、
御所車の車輪をモーターで回す、と言う作業です。
平面を回す経験は今までもやってきたので、要領は分かっています。
ですから、御所車の中の花の籠は、難無く回ったんです。
ところが、車輪となると、車軸を回転させるわけで、
モーターからベルトで、伝動しなくてはいけないわけです。
これが初めての経験なので、どうやって良いのか、正に試行錯誤。


モーターとその先端のプーリー、そしてベルトまでは用意できたのですが、
モーターの回転を、どうやって車軸に伝えるのか、
まずはベルトの張など考慮して、木工で、車軸の軸受けを作りました。
で、とりあえず電気を通したのですが、ウンもなければスンでもない。
要は車輪が重すぎて、木の丸棒の表面をゴムのベルトが滑ってしまうんですね。
で、彫刻刀で、木の丸棒の表面にギヤを彫りこんだんです。
ある程度の、ベルトの噛みが必要だろう、と言いうことです。
でもダメなんですね。
彫刻刀の溝程度では、滑ってしまう。


さて、どうするか。
いろいろ考えたのですが、これと言った対応策を思いつかない。
ゴムのベルトは、5ミリピッチで、ぎざぎざの溝がついているので、
これとうまく連動すれば、何とか回るはずなんです。
さて、さて、と、下手な考え休むに似たり、のごとく、無為に時間が過ぎます。
で、最悪、回らない車輪でもいいか、と。
いや正に最悪の場合です。


で、ふと目に入ったのが、のれんと言うかすだれ。
竹のひごを糸で編み込んだ、いわゆる御簾ともいうべきものです。
これは、他の部分の装飾に使ったのですが、
端がいくらか余っていたのです。
そのすだれの切り端を見ていて、これが使えないか、と。
物差しを当ててみると、ひごのピッチが5ミリ。
これはいけるかもしれないと、編み糸の部分をボンドでほつれないように止めて、
ボイドがある程度固まったところで、この小さなすだれを車軸にまいてみました。
両端は針金で頑丈に巻きつけて止め、まあよほどのことが無い限り、
外れると言う事はないだろうと思うんですね。
まあでも、祈る思いです。


で、すべての工作を終えて、いよいよ通電。
モーターがゆっくり回ると、なんと車輪も回り始めました。
成功です。
でも、やはり、なんかの拍子に止まってしまうかもしれません。
だって、竹のひごがギヤなんですから。
まずは、せめて三日間だけでも動いてもらいたいと願っています。

 

この文章、多分よく理解できないと思います。
何がどういう形なのか、それをどうしようとしたのか。
さらには、竹ひごのすだれってなんなのか、とか。
まあ、分からなくて当然です。

 

でも分からなくても動くということは分かるはず。
是非とも、5・6・7の三日間のいつか、紅谷パールロードに来てみて、
ご覧ください。
運が良ければ、車輪が回るところをご覧いただけるはずです。
場所は、パールロードの中央に交差点がありますが、
そこに掲出予定です。
まだ先の話ですが、よろしくお願いします。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
七夕竹飾り製作レポート

今年の七夕は、久しぶりに大作を一つ、そして4年目となる自治会の作品を一つと、
計2本を製作中です。
ちょっとした都合もあって、予定を前倒しにして、早めに取りかかったのですが、
少しづつスケジュールがずれ込み、いつの間にか、予定通りに戻ってしまいました。

 

大作と言うのは、代官町の肉バル・マルコのオーナー中川さんが提唱し、
みんなで力を合わせて、豪華な飾りを掲出しようという運動を始めたのです。
前々から、私も飲食店のパワーを結集して、一つ飾りを出せないものか、
と考えていたので、この話には二つ返事で呼応したのです。
中川さんの構想では、市内飲食店250店舗から協賛金を集め、
その資金で、特選を狙う、というものです。
まあ、目標は高い方がいいのですが、現実とのすり合わせも大事。
で、先ずは250店舗を口説くのも大変なので、一挙に50店舗まで目標を下げ、
その代わり、特選ではなく準特選にしよう、と、
まずは実現をすることを優先したのです。

 

で、製作は私が全面的に担当することにしました。
企画からデザイン、設計から始まり、資材調達、下ごしらえ、組み立て、と、
実に数十段階の作業を丁寧に展開したのです。
本当に久しぶりに七夕づくりに没頭しました。

 

そもそもが高校2年の時に、父から、舟平の七夕飾りを作ってみてくれ、
と依頼され、手探り状態で作ってみたのです。
まあそれはちんけな飾りでした。
何しろ、子どものころから七夕は見慣れた祭りでしたが、
しょせん見る側の視点でしか見ていなくて、
いざ、作る側になってみると、全く見当はずれなデザインと製作方法だったのです。
単純に言えば、小さな飾りだったんです。

 

そこで反省をして、次は大きな飾りを作ろう、とやたらサイズの大きなものに挑戦したのですが、
正に木偶の棒のような、ただ大きいだけ。
そうかテーマがないことがデザインのねりこみにつながらなかったんだ、と、再び反省。
とは言え経験不足は数回の製作では、補えるわけもなく、
5,6回目辺りから、やっと手ごたえを感じ始めたのです。
確か、6回目で、はじめて準入選をもらえました。

賞は、特選、準特選、入選、準入選の4段階、

つまり最下位です。
準入選とは言え、受賞したのですから、意欲は盛り上がり、
来年は、と、早めに構想を練るようになったのです。
と言うことは、七夕祭りの最中に、他の店の飾りを見に行き、
参考にするんですね。

いらい、飾りを吊ったら、すぐに頭の中笑い年どうしようか、と切り返るんですね。
ま、そうこうしているうちに入選なら定席のようになってきたのです。
で、さらに踏ん張ってみると、今度は準特選がとれるようになり、
まぐれだったと思いますが、過去、2度ほど特選を取ったことがあります。
ですから、なんだかんだ、40年とチョット、七夕作りの経験を持っていたのです。
そして、紅谷町のお店の閉店とともに、七夕づくりの歴史は閉ざされたのです。

 

しかし、根は嫌いではないので、

4年前、紅谷町子ども会による七夕飾りの掲出を手掛けることになりました。
でも、かつての癖が出て、どう見ても子供が作った飾りではないんですね。
そこで、3年目に、どうせならパールロードに飾ってみたいと思い、
七夕を創る会やら、市の商業観光、パールロード商店街、紅谷町自治会のシニア会、子ども会など、
多大なる協力を得て、子どもも飾りではなく、市民飾りとして掲出したのです。
もう、こうなると、昔の癖がそのまま出てしまい、サイズと言い、デザインと言い、
往年の作風が反映された飾りになったのです。
そしたら、全市のコンクールで、昼の部、夜景の部とも入選。
じじいになって、七夕男が帰ってまいりました。

 

さてそこで、今年は準特選狙いの大作です。
昔取った杵柄なんではありますが、やはり、毎年違うデザインですから、
作り方がその都度変わるんですね。
今年のテーマは、春秋の令花。
左右に、春の令花、秋の令花、まん中に花車、と言うデザインです。
花車は、御所車を変形させたもので、要は御所車そのものなんですが、
中に花かごがゆっくり回っているんです。
そして、車輪もゆっくり回るんですね。
このモーターの取り付けを、今日一日かけてやってきました。
平面で回すのは今までもやってきたのですが、車輪のようにタテに回すのは初めて。
ベルトを駆動して、車軸を回転させるのですが、
いやその構造のややこしいこと。
でもまあ何とかやり遂げました。

 

一段落したので、

早速、紅谷町子ども会の作品に切り替えです。

ほぼ毎日七夕飾り製作漬け。

いいもんですね。

 

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 20:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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