水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
ジュリーどうした

少しばかり自慢話です。

 

私は、青年会議所在籍中から、まちづくりに関しての話を
多くの人に聞いてもらう機会を得てきました。
特に、売りこんだり、PRをしたこともなかったのですが、
何故かいろいろなところで声がかかり、まさに、北海道から沖縄まで、
講演や講習をしてきたのです。
その数1200回以上。
ま、たかだかうなぎ屋の親父にしては、そこそこの数字でしょ。
で、1200回ともなると、実にさまざまな状況がありました。
テーマがテーマですから、大体は、多くて100人、少なければ、30人ぐらい。
ま、もともと話の内容からも、聴講していただく人の数には、
あまり執着がありませんでした。
多ければ多いなりにありがたいと思うんですが、
私にも好みがあって、30人ぐらい、と言うのがちょうどいいと考えていました。
ま、話しやすいと言う意味です。
と言うのも、会場をまんべんなく見渡しながら話しをする癖があるのですね。
で、多ければ多いほど、会場内への視線が行き届かなくなるでしょ。

隅々、までとなると、どこか限界があります。
聴講の相手は、生で聴いていただいているのですから、
矢張りその場の空気みたいなものを大事にしたいでしょ。
ちょっとでも、首を傾げられたら、丁寧に説明するとか、

うなずいてくれたら、分かったんだな、とか。
要は、理解してもらうための話ですから、分ってもらえなくては意味がないわけです。
勝手に話すことが目的ではなく、理解してもらうことが目的なんですから。
ですから、もし長方形の会場なら、縦長がいいですね。
横長だと、どうも左右が視界に入りにくいので、好みではありません。

 

ま、そんなことはともかく、テーマが特殊ですから、

聴講者の数が多くて200人ぐらいだったでしょうか。
で、少なかった時のことです。
もともと、そんなにたくさんの出席はない、という前提の会だったのですが、
行ってみたら二人、という事がありました。
担当の方が、平身低頭で、謝っていましたが、
ささやかな連絡ミスだったようで、

私は、気にせず、二人だけというのもいいじゃないか、と思ったんです。
実に気さくに、微にいり細に入りのていねいな話ができました。
こじんまりはこじんまりの良さがあるんですね。

 

沢田研二さんが、公演をドタキャンした、

というニュースがネットで取り上げられていました。
見出しだけ読んで、気にもしていなかったのですが、
続報に、客の入りが少なかったから、という理由だった、と書かれていたので、

どんなことだったのか気になって読み返したんです。


実は改めて記事を読んでみて二つのことに驚きました。
一つは、アップになった顔写真です。
30年ぶりぐらいの同窓会などで、すっかり風貌が変わってしまった同級生がいて、

思い出すのに時間がかかるんですね。

かと言って、素知らぬふりもできず、そこそこ相槌を打ちながら、

ええ〜と、ええ〜と、と記憶をたどる。

そうこうするうち、徐々に時間のずれが修正されて、
そういえば、奴だ、と確信するんですね。
ま、ジュリーの場合も無限にそれに近かったです。


若いころ、まだ風貌も水々しい頃、ジュリーと叫びながら、

若い娘が身をよじっているのを見ると、
ま、それなりのいい男だな、と思いましたが、
そのアップの写真を見る限り、いまさら身をよじることはないだろう、と思うんですね。
年を取ったわけです。

 

二つ目の驚きです。
改めて、身をよじってももらえそうもないのに、昔の残像でコンサートを続けている、

と言うのも、いかがなものか、と思うんです。

いや、コンサートが悪いというわけではありません。

昔の残像で、と言うことです。
いや、そんなの自由でしょ、と言われそうですが、
客席にファンが埋まらなくなっているという事実を知るべきなんです。


つまり、年を取って、それなりの良さと言うのは生まれてきているはずです。
そこをファンに見せてゆくべきでしょ。
で、それが、あまり魅力的だないとしたら、これはファンも離れてゆくわけですから、
それはそれとして受け止める。


年を取るという事は、時に、過去の栄光からの置くべき距離を知るという事なんです。

高い山も、頂上を極めると、次は下り坂になるんです。

どんな山もです。

なんかそんな原則すら理解していなかったのか、と。
でないとドタキャンなんて、身の程知らずのことはしないでしょ。


ちょっと残念ですね。

私もファンだったので。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 19:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ハロー、ハロウィン

あと2ヶ月ちょっとで、おかげさまで私も後期高齢者のお仲間に入れていいただくことになります。
と言うことで、年より特有の傾向が顕著になってきて、
体調とか、エネルギーとか肉体に関する衰えは言うまでもないのですが、
記憶がまだらに薄れてきまして、何かと、それとか、例のとか、不明確な代名詞で話をしてしまいます。
ま、この程度のことは、どなたにもあることだと思います。
これまた、共通してありうることの一つに、
昔の頃の習慣とか、習俗的な事の思いが再発して、
そういえば、昔はこうだった、など、ほとんど価値のないようなことを思い出したりします。


私が、まだ大学生の頃、いとこの家にしばしばお邪魔しました。
いとこの家族は、父・母・兄弟と歳の離れた妹とおじいちゃんの6人家族。
で、このおじいちゃんが、食事でも終わって皆がくつろいでいるころに、昔話をよくするんです。
確か、ほぼ90歳ぐらいで、その頃としては長寿(今でもか)で、

牛乳瓶の底のような度の強い老眼鏡を掛けていました。
で、誰に話しかけるわけでなく、昔はとても便利なものがあった、と切り出すんです。
そして、実に具体的に、そのものがどれほどすぐれたものだったか、という説明をするんです。
私は、たまにしか聞かない話なので、興味津々と聞き入ります。
ところが家族にしてみれば、またかの話なんですね。
で、どうもその辺がうるさく感じているらしく、おじいちゃんに向かって、
そんなに便利な道具なら、どうして今使われていないのだろうか、と誰かが反論するんです。
私はその反論を聞いて、そりゃそうだ、と思いました。
私はおじいちゃんに聞かれないような声で、いとこに、なかなかすぐれた反論だ、と褒めたら、
実は、我が家では、このパターンは例によって例のごとしなんだ、と。
ある意味、このやり取りはワンパターンになっているんだ、と言うんですね。
ちょっとばかり、真正面から話を聞いてもらえないおじいちゃんがかわいそうになったものです。

 

実際、この年になって、年よりの得も知れぬさみしさと言うのが、理解できるようになりました。
世の中の中心からは離れ、かつての栄華の時は終わり、終幕に向けて、場はどんどんと進んでゆく。
やがて幕が引かれるまでの残りの人生を、その栄光の過去の中の思い出に浸るしかないんですね。

だから、何かというと、昔はよかった、昔はこうだった、という事と、今の時代の流れのギャップを
しみじみと感じるんです。

 

まだ中学・高校の頃のことですから、まあ、5〜60年前のことですが、
その頃、祝祭日と言うのは、どの家庭も日の丸を掲げていましたね。
金の球のついた旗竿に、どちらかと言えば、風もなく、だらりと掲げらてはいるものの、
何か、国中でこの日をお祝いしているんだ、と感じたものです。
で、その頃は祝日とか祭日とか区別ができていなくて、
要は学校の休みの日、ぐらいの理解だったんですね。


大体、祭日は、神と人間とを取り結ぶ、祭祀が行われる日で、
それは天皇家の重要な行事だったわけです。
しかし、それも徐々に今様の言葉に置き換えられて、
なんとかの日と言う祝日になってしまったのです。
ですから、敬虔な気持ちのもとの祭祀へ掲げる国旗の意味も、
いささか色あせてきて、何かを祝う、という日に切り替えられたので、
今更国旗掲揚と言う概念は薄れてきている、と言ってもおかしくないですね。

 

その意味で、時代の流れとは言え、何かを祝ったり、象徴に対する行事的な表現は、

どんどんと変わってきています。
で、最近、どうも受け入れがたいのもがハロウィンです。


ま、象徴としては南瓜にお化けの顔を付けるので、とても分かりやすいのですが、
なぜ南瓜なのか、いやそれ以前にハロウィンてなんなのか、といった基本すら理解できていないんですね。
周りの人にいろいろ聞いても誰も明確に説明できない。
にもかかわらずですよ、若者は、奇妙なコスチュームをまとい、
この行事に参加しないのはアホ、と言わんばかりに、熱中しますね。
で、おそらく彼らも、実はハロウィンってなんなのか、あまり知りそうもない。
ただただ外見だけをまねているだけで、

西洋の文化はかっこいいという程度で、受け入れてきているんですね。
じじいとしては、意味も分からなかろうと、

若者が受け入れているんだから、いいじゃないか、とは思いつつ、
ハロウィンとは何なんだ、と疑問は残るわけです。

 

で、あちらこちら調べた結果です。
そもそもはケルト人の祭祀だったようです。
ケルト人と言うのは、今から3000年ほど前、中央ヨーロッパに勢力を伸ばしていた民族で、
彼らの暦が10月31日をその年の終わりとしていました。
まあ、日本的に言えば、年末年始の行事なんですね。
ありきたりに悪魔を払い、豊作を願う、と言う普遍的な人間の願い事の行事だったのです。
で、これが継承されてきたのですが、
多くの人は、キリスト教的な行事だと思っているようですが、
全くと言ってキリスト教とは縁がないそうです。
だって、イエスが生誕する1000年も前から継承されている行事ですから、
このことでも関係ないことがわかると思います。
ま、そういった出生も明らかでないのに、
今の日本で行われているハロウィンは、原点喪失で、

悪魔を払い、豊作を願っている行事とは思えないでしょ。
新しい文化って、そんなもんなんですかね。


じじいは、ますますついてゆけなくなってしまいました。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 18:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
トランプタワーでの密約

私が子供の頃の話です。
平塚に競輪場ができて、その収益が、まちの役に立つと聞いて、
単純にそれはいいことだ、と思いました。

自分の故郷が豊かになると言うんですから、
子どもとしての善悪の判断より、その結果の方が素晴らしいんじゃないか、と感じたわけです。

 

で、何年かして、街中のある商店が店じまいをすることになったのです。
それは、ご主人が競輪に売り上げをつぎ込み、借金で首が回らなくなったから、と聞いたのです。
こんな話は、3つ4つ聞きました。
店じまいをしないまでも、経営悪化とか、夫婦仲が悪くなったとか、
まあ、少なくとも不幸な展開になった話は、ごく普通に耳にしました。
不思議と、儲けて蔵を立てたなんて話は皆無でしたね。

 

今の競輪ファンは、高齢化し、年金片手にちびちび車券を買うので、
それほどひどい結末はないようですが、
何せ当時は、胸の内ポケットに札束を突っ込み、
特券(普通が100円券ですが、特券は1000円券)で流して買う、なんてつわものがいたものです。

ですから、歯車がかみ合わないと、無限に泥沼に落ち込み、
結果として、田地田畑、家屋敷を取られてしまう、と言う悲劇があったんです。


いくら行政の運営に資するところがあるとはいえ、
100の投資に25をはねて、残りの75を配分するんですから、
絶えず25%の不幸を作り出しているわけで、
こう言う存在を私は快くは思えませんでした。
とは言え、公営のギャンブルは、公的に認められているわけです。
俗にいう必要悪、というやつです。

 

そういえばそんなことがあったか、という感じで、今や沈静化してしまったように思えるんですが、
ギャンブル法案なるものが、今年の7月5日に国会で成立しました。
随分と世間では反対をしていましたが、そんな世論には、耳を傾けることなく、
なにやら、さっさと成立させてしまったのです。


人のうわさも75日と言いますが、正に、明日で、75日です。
て、その75日の時効寸前に、アメリカでのトランプと安倍総理との密約めいた話が、
暴露されました。

 

そもそもが、カジノ法案とは妙なものだな、と思ったんです。
だって、反対が起きると、ギャンブル依存症対策と言う、法案をセットしたでしょ。
実に馬鹿げた手法だと思いませんか。
毒薬をばらまくけど、一緒に解毒剤も蒔くから、それで中和できるでしょ、という考えです。
だったら最初から毒薬を蒔かなければいい話です。
これって、当然の論理でしょ。

 

私達は、競輪、競馬、オートレース、ボートレース、宝くじなどギャンブルにならされてきました。
そこに、IR法案とか、名称で、カジノの認可をしようと言うわけです。
ついつい競輪競馬の横並びに考えてしまいますが、全くと言っていいほど異質なものなんです。
競輪も競馬もオートレースも、そもそもが人が行うことなので、
絶対的な事の判断はできないのですが、
それでも、極めて公正に運営されています。
私は、競輪場の選手食堂の運営に一部関わったことがあるんですが、
それは厳しい環境の中に選手は管理されていて、

これでは作為的な不正は行いようがないだろう、と思ったものです。

 

外国のカジノに行った経験がある方は、お分かりと思いますが、
客の状況によって、ディーラー(サイコロを振ったり、カードを配る人)の腕で、
勝ち負けを決められるようなんです。
ルーレットなど、ほぼねらい目に落とせるんですね。
つまり、他の公営ギャンブルから見たら、はるかにギャンブル性が高いのです。
時代劇に出てくる賭場で、しばしば出てくるシーンに、
壺振り師がサイコロをある程度コントロールできるわざがあるため、トラブルが発生する、
と言うところを見たことがあると思いますが、
まあ、あれに近いものですね。


その意味では、少なくとも、公営ギャンブルの75%の還元はないでしょうね。
つまり不幸な人が増えるわけです。

それと、競輪ではねられた25%は、運営の費用を除くと、市の財政に繰り入れられます。
つまり胴元が、行政体なんです。

ところが、カジノの場合、どうも日本政府、もしくは所在の府県が胴元と言うわけではないようです。

 

トランプ安倍カジノ密約は、例のトランプタワーでの会談でまとまられたというんですね。
何やら妙に親しくなって、しっぽを振っている安倍首相が、得意げに多くに成果を口にしていましたが、
世界最強のセールスマン、トランプが、ただでプレゼントをくれるわけがない、と思ったんです。
ですから、これは、アメリカに相当有利な何かを差し出したな、と勘繰ったんですが、
それはカジノ法案だったんですね。
何しろ、トランプの政治資金のかなりのものを、

カジノ経営者であるシェルドン・アデルソンなるものが出しているんですね。
だから、トランプは、シェルドン・アデルソンへの還元として、カジノ法を成立させることで、
日本での営業チャンスを作らせたわけです。
日本人の中に不幸をばらまくことを、安倍首相は、平然と差し出してしまったわけです。
私はきっとそうにちがいないと思っていましたが、
今回の暴露の記事が出されて、やっぱりそうかと思いました。


簡単に言えば、安倍首相は日本を売ったんですね。


ま、政商と営業マンに手玉に取られたという事でしょ。
このカジノの75%が国または地方自治体に入るというならともかく、
営業として、アメリカの手練れが入り込んできて、カジノを仕切るんだとすると、
結果として日本人がカモで、その懐から大枚の円が巻き上げられるといういことでしょ。
わずかな量の、効くか効かない様な解毒薬では、
日本人がこれから受けるであろうギャンブル依存症という病気は、これから防ぎようがないでしょ。


これって、日本人が犠牲にってしまう、と思いませんか。
そう考えると、
なんとも腐った政権ではないですか。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
一人ぽっち

ある居酒屋で、カウンターでちびりちびり独酌している、やがて60ぐらいになろうか、
と言う一人の男がいました。
ちょっと遅れて店に入ってきた、似たような風采の男が、
イスを一つあけて、カウンターに座り、酒を注文。
これまた、独酌でちびりちびりやってました。
一本目の銚子が終わろうとするときに、あとから来た男が、もう一人の男に、
話しかけたのです。
何時もよく見かけますが、常連さんなんですか、と。
話しかけられて男は、言葉少なに、よく来ます、と。
いやあ、私は、どうも一人でちびちびやるのが好きでしてね。
すると相手も、いや、私もそうです。
大体、何人かでワイワイやるのも、妙に気を使わなきゃいけないんで、
ああいう酒は肌に合わない。
すると、それを聞いた男は、我が意を得たように、
そうですよね、酒の味がわからない。
しっとりと味わうのが、酒の本当の飲み方じゃないか、と思うんです、と。
妙に趣旨が一致したので、男たちはうれしくなって、
しばらく、ぼそぼそと話を続けていましたが、
あとから来た方が、いやあ、なかなか気が合いますね、今度一緒に飲みましょう、と提案。
もう一人の男も、話が合ったので、
近々、一緒に飲みましょうと約束をしたのです。

 

で、この二人を中心に、一人で飲むのが好きな人たちが徐々に集まってきて、
結局、みんなでワイワイと飲むようになった、という事です。

 

実は、どんなに理屈をこねようと、矢張り孤独はさみしい。
人は社会的な動物です。
社会的な動物は、仲間に受け入れてもらえるための行動を本能的にします。
人間の場合、状況が複雑なので、様々な方法でこれが行われますが、
あわせて、集団が、仲間として受け入れることも、様々な要素でチェックします。
そして、支えてもらうために支える、と言う相互の関係を学んでゆくのです。

 

つまり、幼少期から集団に溶け込めるトレーニングが行われ、
その成果として、様々な集団の場で人間は、相互に支え合いながら、生きてきたのです。
ですから、なんだかんだと、人間は孤独に弱いんですね。

本能的に弱い。

 

アメリカのある財団が、日本、米国、英国のそれぞれ国の孤独に関する調査をしました。
その調査の結果、孤独であると回答した人のうち、
10年以上、孤独であるという人が、日本、35%、
アメリカ、22%、イギリス、20%だったそうです。
世界では、「孤独は現代の伝染病」と言われていて、各国が主体的に、調査や対策が進められているそうですが、
日本では「孤独」はあくまでも個人の心の持ちようの問題であり、

個人や家庭での対応をすべきである、と言う姿勢だそうです。


孤独を肯定することで、問題から目をそむける中高年とは対照的に、
若年層は、真剣にこの問題に向き合っているようです。
日本では、孤独感にさいなまれているという15歳の子どもたちでは、

ほぼ3割の子どもたちがこれに該当し、
先進諸国の中でも、他国より2〜3倍の、ずば抜けて高い比率のようです。

 

特に心配なのは、幼少期にしっかり集団性を身に付けなければならないのに、

その環境が整っていないという事です。
これに輪を掛けるように、スマホなどでゲームをするようになり、
孤立する環境の方が、増えてきているようです。


市内の明石町の公園で、少年たちが5〜6名ベンチに座って、何やら夢中になってやっていたのです。
で、遠巻きで、そのようすをみていたら、どうも電子ゲーム機をそれぞれが手にしていて、
それをワイワイとやっているんですね。

一人でやるゲームだとは思うのですが、
わざわざ集まってそれを楽しむ。
潜在的に、仲間と徒党を組んで、時間を共有するって、
むしろ子供の方が強く望んでいるのではないか、と思います。
社会として、大人として、こう言う環境を理解し、
子どもたちに十分な機会を与えるような努力をすべきではないでしょうか。

 

その意味で、孤食を解消できるこども食堂と言うのは意味があると思うんですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ボランティア活動の薦め

私は、SCNクラブという湘南ケーブルネットワークの

ボランティアによる番組制作グループに所属しています。
このクラブは、自主独立した組織で、
企画、制作など、会員で手掛け、一本のビデオを作成し、ケーブルテレビの2チャンネルで放映しています。
作品は二つあって、一つは地震その時あなたは、で、これは山田美智子さんが、孤軍奮闘で、製作しています。
何が凄いかって言えば、毎月一本、ゲストと防災について対談するのですが、
毎回違うゲストを探し出してくる能力は、半端じゃないと思いますね。
それと、市民クラブTVと言う番組があります。
なんだかんだとこちらは、複数名のメンバーが、なんとなくの輪番で製作を担当します。
あるチームが企画し、製作に入ると、それに必要ならばお手伝いしますし、
自分が主たる製作責任を負っている場合は、
他のメンバーのサポートのもと、それこそ、ほぼ一か月をうまくスケ―ジュールを組みながら、
シナリオを書き、それに沿った撮影をする、という事をします。


で、今月は、来月の作品を担当していますので、
目下のところ、撮影の追い込みに入っています。

 

ちなみにその番宣です。
放映は、ケーブルテレビの2チャンネル、毎日8時半と夕方の5時半の2回。
11月のテーマは、子ども食堂の行くへ。
内容は、平塚で展開されているこども食堂の概要についてで、
それぞれの現場のシーンと、中心になって運営している堤園子さんとの対談で、
こども食堂の現状、問題、今後の展望などを一本の作品にしてみようと考えています。


現場の撮影は、ほぼめどが付きましたが、
今日は、朝7時から、朝ごはん子ども食堂の取材に行ってきました。
場所は、明石町居酒屋「あおば」さん。
そもそもは居酒屋さんなんですが、月に一度、朝早くから子ども食堂として開店しています。
で、私も6時に起きて、準備をし、7時ちょっと前に現場に入り、
その様子を撮影してきました。
こども食堂の割に、朝一番は大人の人が多く集まってきます。
特に通りすがりの人ではなく、まちがいなくボランティア仲間です。
当然ですが、それぞれ顔見知りなわけですが、
おにぎりを頬張りながら、情報交換なんですね。


私が作る作品のテーマは、こんな風に子ども食堂に限らず、
しばしばボランティアな活動を取り上げることがあるんですが、
街の隅の方で、コツコツと活動している市民の人たちの共通する匂いのようなものを
あれこれ取材しながら、かぎ分ける能力が身についてきました。
要は、ボランティアの分析をしてみたわけです。
その共通する要素を書き出してみます。


まず、見た目です。
基本的にあまりファッションに気を使っているとは思えません。
いいとか悪いとかではありません。
そういうことの意識がないという事でしょ。
逆に、派手派手しい服装とか、ファッショナブルな服とかを着ている人はまれなんですね。
人間は外見じゃないんだ、みたいな哲学を持っているのかもしれません。


性格的には、控えめで、おとなしい人が多いでしょうか。
社交性はあるんですが、自己アピールをしないというか、遠慮がちと言うか、
ある見方では、謙虚なんでしょうね。
ものの見方ですが、純粋と言えば純粋なんですが、
まじめが前提な感じがするんで、時に自説を曲げない頑固さがあります。


当然ですが、行動力は人一倍。
さまざまな情報に接すると、気がるに出向き、先ず体験、というタイプですね。
そのへんで出会うボランティアと話していると、
東日本大震災の後、現地へ出向き何らかの形でボランティア活動に参加しています。
ま、困っている人を助ける、と言うのに理屈はないんですね。
ボランティアが普通のことで、特に意識したり、自慢したりとかはしません。


経済的な面ですが、裕福そうな生活をしている、という感じがしませんね。
いや、だからと言って、生活に困っているとも思えないのですが、
いわゆる金持風の振る舞いを見たことはありません。
ごくごく普通の生活のレベルで、満足しているというところでしょうか。
そして、彼らが共感すること、いわばボランティアのテーマですが、
個人差があると思いますが、極端な話、何かの拍子にその道にはまった、とでもいうのでしょうか。
ですから、そこにどっぷりつかっている人ほど、
案外つぶしが効かないんですね。


例えば、青少年・教育系のボランティアと、防災系のボランティアが共通するか、
というと、案外クロスしないんですね。
これはそれぞれの趣向の問題かもしれません。
興味を感じるテーマは人それぞれという事です。

とは言え、やはり、人の役に立つ、ということを、ごくごく自然な考えとして持っていることは間違いなく、
すべての人間がこのような考えを持ち、このような行動を取れるようになれば、
世間でしばしば問題になるスキャンダラスな出来事なんかなくなるだろうと思うんです。
そして、何より、世界平和に、近付くことができるのではないかと思います。

 

今は、仕事が忙しくて、人のことなんか構っていられない、と言う人も多いと思いますが、
どこかで時間がとれるようになったら、恐る恐るでいいですから、
ボランティアの活動に、一歩踏み入れてみてください。
きっと素晴らしい体験ができます。
そして、何より、そこで得た人間関係は、

今までにない平穏な空気をかもしだしていることを知るはずです。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
個人情報保護法

先日開催された自治会の役員会の席上でのことです。
テーマは、民生委員の選出についてでした。
ま、ひとこと言えばなり手がいないので、どうしようか、という事です。
で、よそではなんだかんだと選出しているのに、わが自治会で候補がいませんでした、では済まないだろう、と。
ま、それは確かにそうですね。
とは言えですよ、いやだという人を無理矢理選任はできないでしょ。
馬を水飲み場に連れてくることはできても、馬に水を飲ますことはできない、と言うたとえの通りです。
意志がない、と言う以上、仕事は押し漬けられませんものね。

 

その席で、いろいろと民生委員のこととか話題に上がりましたが、
実は誰も正確に実態を把握していないので、
結果としては噂話的な内容に終わったのですが、
その意味では私も同じこと。
よく知らない世界ですが、それなりに聞きかじった範囲で話を進めます。

 

で、じゃあ、なぜ民生委員はなり手がいないのか、です。
民生委員は、さしたる金額ではありませんが、若干のお手当てが出ます。
ランクがあって、金額は違うのですが、ま、そこそこいわゆるたばこ銭程度にはなります。
しかし、こう言うのって金の問題ではないでしょ。
もっとも、そのへんの社長クラスの報酬なら、ウンと言う人はいるかもしれませんが、
原則、ボランティアな仕事ですし、そんな涙金程度では、心動く人はいないでしょうね。
いや実際、だからなり手がいないのです。

 

金額の問題ではないと言いましたが、むしろ問題は、その内容なんでしょうね。
一つは、社会的な意義があり、それはそれなりに重要な仕事なんですが、
生半可な使命感程度では、なかなか乗り越えられないそうです。
いくつか、気がそがれることがある中で、最大の問題が、個人情報についてです。


何故か、2003年に、この個人情報保護法が制定されてから、
この類の仕事が極端にやりにくくなったと言われています。
守秘義務があって、見様によっては、こそこそ仕事をしなければならない。
胸を張って、堂々と福祉事業に参画している、という感じより、
人の秘密を守るために、なんとなく、そおっと行動する、という感じのようです。

私は、防災系の活動をしてきましたが、なぜかこの個人譲歩保護法を半端に理解している人が多く、
君子危うきに近寄らず、さわらぬ神にたたりなし、的な感覚で、個人情報についての取り扱い方には、
必要以上神経をとがらせているのが実態です。
とくに、行政など、公職についている人は、過剰なくらい、

個人情報に触れそうな領域はさけているように思うのです。
ま、言い換えれば、この法律に関しては、遠巻きにして眺めているという感じです。


以前、マンションで、老齢の人、または体力が低下していたり、身体的な障害を持っている人たち、
いわゆる災害弱者に対して、災害発生時にどのように対応するのか、という事を議論し、

実際、アンケートを配布して、その実態を調べてみよう、と言うことになったのです。
つまり、どこにどんな人がいるのか実態を把握しようという事です。
基本的に回収量が少なく、いわゆる社会調査としては成立しませんでした。


そのアンケートは、大まかに二つの質問で、
一つは、いざ災害発生した時、手助けが必要ですか、と言う設問と、
逆に、その時、家族が無事で、怪我もなく、余力があったら、手助けができますか、と言う
助けられる人、助ける人る人の潜在的なニーズを把握したかったのです。
まあ、関心がなかったのかもしれませんでしたが、一部、これは個人情報保護に関して触れるかもし知れない、
という意見が出てきて、この活動はその先へ進めませんでした。


その時、私は、もし個人情報保護法が、このような切羽詰まった状況を想定しても
なおかつ、個人の領域に踏み込んではいけない、という解釈をするなら、
一体何を持って、「保護」が成り立つのか、と反論をしたことがあります。
名誉とか、世間体とか、そんなことの前に、命を守れなくては、意味がない。
よしんば命があったとしても、その後の生活で不自由があっては問題です。
年を取り、体の動きも思うに任せない。
エレベーターも動かないと想定した時、階段を使ってはとても所要を足せない、と言う人たちに対して、
情報が無ければ、何もしてあげられないでしょ。
ですから、結果的に、個人情報保護を盾に弱者救済が困難になったとしたら、

この法律は大間違いだと思うのです。

 

そもそも、個人情報の保護が取り上げられたのは、
個人情報データベース等として所持し事業に用いている事業者が対象で、
個人情報取扱事業者が主務大臣への報告や、不都合が発生し、それに伴う改善措置に従わなかった場合は、
事業者に対して刑事罰が科される、という事になっています。
で、個人情報が、本来の業務以外の漏れ、他に明らかになってしまい、公益その他の利益が害されるものとして、
1.本人又は第三者の生命、身体又は財産に危害が及ぶおそれがあるもの
2.違法又は不当な行為を助長し、又は誘発するおそれがあるもの
3.国の安全が害されるおそれ、他国若しくは国際機関との信頼関係が損なわれるおそれ
又は他国若しくは国際機関との交渉上不利益を被るおそれがあるもの
4.犯罪の予防、鎮圧又は捜査その他の公共の安全と秩序の維持に支障が及ぶおそれがあるもの
という事なんですね。


つまりです。
民生委員や、善意のボランティアが、弱者のための行為を前提とした時、
公益だの、国家の安全だの、犯罪の予防だの、とは全然違う世界の話でしょ。
これが、どうして、通常の我々の生活とか行動に規制となってしまうんでしょうね。

 

以前、FM湘南ナパサの放送ボランティアクラブに、
公共の情報を提供する放送局に出入りするのであるから、
クラブ員の名簿を提出するように、と要請したところ、
この個人情報保護法案を盾に、拒否されたことがありました。
いやその時は私も驚きました。
当時の会長に、盾としている法文を一度よく読んでください。
きっと勘違いしていると思います、と言ったことがありました。

ま、勘違いや思い込みも含め、そこに善意が根底にあるんだったら、
別な視点での解釈が必要でしょ。


なんか最近、ぎくしゃくしている社会の風潮に、

この保護法が一役買っているような気するんですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 19:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ただ乗りインセンティブ

いま、別な角度で七夕祭りが復活しつつあります。
最盛期には、夜空が見えない、と言うほど多くの竹飾りが掲出され、
一つ一つも豪華絢爛な内容で、それはそれは重厚な美しさがありました。
ところが、この掲出の主体となっていた商店が、その力を失っていったのです。


ま、例えば、足場や飾りに、なんだかんだと100万円かけたとしましょう。
このぐらいかければ、最低でも入賞、デザインが良ければ準入選ぐらいには入ります。
商店としてはそれなりの栄誉となるわけです。
しかし、もし飾りを出さなければ、100万円を支払わなくてもいい。
商店は形態上、法人組織を名乗っていたりしますが、基本は個人経営。
つまり、親父さんの懐から100万円が出てゆくわけです。
出さなければ、100万円が残るんです。
で、ある時、なんかの都合で、うちは出さない、としたとします。
その年、その店の前は飾りがないので、いささかさみしくなりますが、
左右のお店が出しているので、不掲出のそれほど影響しないんですね。
相変わらず、土日ともなれば、大挙して見物客が店の前を通る。
ついでにそこそこ商品も売れる。
竹飾りを出さなくったって、さしたる影響はない、と判断するんです。


つまり、周りの竹飾りのおかげで、まあまあの七夕景気のおすそわけが得られる、と。
これを「ただ乗りインセンティブ」と言います。

インセンティブとは、目標達成の褒賞とか、

やる気を起こさせる動機付け、とか訳されます。


で、この風潮が年と共に広がってゆきました。
そして、いつの間にか、夜空がスカスカに見えるようになっていったんです。
しばしば、往時の勢いを知る人は、平塚の七夕も、妙にスケールが小さくなったな、
と言い始めたのです。
そして、いよいよそれが底に近付いた時、中心街に竹飾りを復活させようと、
市民のボランティアが立ち上がり、さほど手間を掛けず、しかも材料代は行政が持つ、
と言うシステムを作り上げ、いわゆる市民団体の竹飾り製作を促してきたのです。
今年はこのグループで掲げた飾りが34本になりました。
極端に言えば、本来商店が出していた飾りは100%だったのですが、
なんだかんだと半分を市民団体が埋めるようになってきたのです。
まちかど広場の子供飾りも、その一つでしょう。
ここには、20本を超える飾りが掲出されます。

形の上では、何とか面目を保っていますが、
かつて商店製作の飾りのころから比べると、
その規模とかデザイン性などは、いささかレベルダウンしています。
ま、やむを得ないでしょうね。


そもそもが、七夕を通じて商業振興を図ろうという、インセンティブがあったにもかかわらず、
ただ乗りで何とかなることを覚えてしまったんですから、
なかなか元には戻らないのですね。


そこに来て、商店街の構成が、少しずつですが植民地化しています。
この植民地化と言うのは、中央資本が進出してきて、
売り上げは確保しますが、地元に落とすべき人的、経済的なものはほとんどない、という状況のことです。
例えば、中央からの支店は、原則支店長が取り仕切ります。
ほとんど現場での裁量が与えられていませんから、
商店街に入会し、会費を払う、なんてことも時に避けられてしまいます。
ましてや、七夕飾りを作ろう、なんてことは、ほとんどしません。
これはすでにそういう状態の中で七夕を経験するんですから、
無理なことかもしれませんが、

地元商店が、次々と閉店し、代が入れ替わってゆく現状では、
なかなか口出しできない事なんですね。

 

ま、それにしても、さまざま形態は異なれ、ただ乗りインセンティブが多くないでしょうか。
きっと企業の中でもいるんでしょうね。
周りがせっせせっせと働いて、業績を上げているのに、
ぶらぶらしながら過ごし、いいとこ取りをしている社員が何人かいるはずです。

 

これが国際社会となると、結構えげつないものです。
ま、問題によっては露骨なんですね。

 

思えば、もう20年も経ちますが、
1997年、12月に採択された第3回気候変動枠組条約締約国会議、
COP3の京都議定書は、先進国の温室効果ガス削減率を定めましたが、
アメリカは離脱、中国やインドも参加しませんでした。
まあ、よその国がやってくれるだろう、とせこい考えです。
要は、ただ乗りのインセンティブ、をされてうまく機能しませんでした。

以来、地球温暖化こそ我ら人類の最大テーマである、と言う認識は広まってきましたが、
まだまだ不十分です。
何より、世界1位のGDPをほこるアメリカが、

あのトランプの一言で、このことに背を向けたことです。
ただ乗りインセンティブの典型ですね。
GDPが多いという事は、原則産業活動が活発という事です。
つまりそれだけ炭素排出量が多くなるという事です。
この地球の中、アメリカファーストと言う身勝手な方向を指し示したトランプの
人間全体への背信は、計り知れない悪影響につながるはずです。


環境の変化と経済活動の望ましい姿を模索し、
かつて炭素税なるものを提唱した経済学者が、ノーベル賞を受賞しました。
トランプのひざ元のアメリカ人です。
何とも皮肉ですよね。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
おかげさまで健康保険

先日、ほぼ同年代のかつての仲間と久しぶりの飲み会をしました。
参加者15名ほど。
で、案の定、病気自慢大会になってしまいました。
これは、そもそも、多かれ少なかれ、何らかの病気が発症しはじめた年齢ですので、
テーマとしては避けられないでしょ。
で、誰かが自分がかかっている病気について話す。
実話ですから、だれも、説得力があるでしょ。
それこそ手術でも経験してればその時の様子。
医者とのやり取り。
普段のケアーなど、まあ一通り話すわけです。
当然、周りからいくつか質問が飛びます。
今、縁のない病気でも、明日は我が身ですから、これまた詳しく聞きたがる。

同病の場合、まさに相憐れむわけです。
そうして、なんだかんだと一通り、病気報告がなされるんですね。
一巡終わっても、まだ病気の話をしているんです。
ガンの人も多かったですね。
中にはステージ靴裡造箸い人もいましたが、
何故かみんな明るい。
病気になったからと言って、くよくよしてないんですね。
まあ、とりあえず生きてるしさ、と言ったところです。

 

で、私も病気自慢なら負けないぞ、と言うところなんですが、
でも、筋無力症が発症してからは、いささか病気に関する考えが変わりましたね。
そう、元気なころは、健康なんて気にせず、他人事のような気持だったですし、
病院とか医者とか、あまり縁のない存在でしたね。
ですから、医療に関する厚生的制度も、実感が無く、
収めろと言うから収めているのが健康保険、という感じだったんです。
で、この年になって、医者に行くたび、その支払額の10倍は医療代として掛かっているんだ、
と認識を大にしています。


たとえば、血液検査を3か月に一度するんです。
病気の進行度をチェックするためです。
で、一割負担ですから、2千なにがしか支払います。
と、単純に、保険に入っていなければ、2万なにがしか支払うんだな、といつも思っています。
元気なころは何も感じませんでしたが、まあ、今となるとありがたい話です。

 

で、筋無力症になった時、特定疾患、つまり難病については、医療的な特例がありるらしい、
と聞いたので、早速調べ、特定疾患の申請をしました。
と、オレンジ色の手帳が送られてきて、
支払い時にこれを見せ、月額で、2万円を超えると、それ以上の支払いを免除される、
と言う制度が適応されることになったのです。
で、何よりありがたかったのが、投薬については全額無料だったのです。
手術も終わり、自宅に戻ってからは、ただ薬を飲む、という事の毎日でした。
ま、痛くも痒くもないんですね。
でも、その薬の量と言うのは半端じゃない。
で、一部高額な薬も交じっていて、ある時、薬局の人が、処方通りの薬を手提げ袋に入れて、
その袋を掲げて見せて、水嶋さん、この一袋で、14万円分ですよ、と言ったんです。
私は驚きました。
そんな金額の薬を飲んでいたのかと。
でも、ありがたいことに、薬代は全額免除だったんです。
それから、2年すると、対応基準が変更され、
薬代については、支払い義務が課せられました。
とは言え、年が年ですから1割負担です。
ただで無くなったんですが、まあ、体も順調に回復しているんで、

1割ぐらいは当然じゃないか、と思ったんですね。
それより何より、残り9割はどうなってんだ、と。

 

まあ、年よりは増える。
病人も増える。
病院に掛かる、薬をもらう。
などなど、国が負担する医療費も大変だろうと思うんです。

 

で、ここに来て、医療費を抑制するためのシステムが検討されはじめました。
いいことですね。
1割負担と言うシステムの気安さから、
安易に病院にかかる癖が生まれてきていないだろうか。
そこで、財務省は、財政制度等審議会の分科会で、
かかりつけの医師以外で受診した場合に患者の自己負担を増やす制度や、
新薬の保険適用の際に費用対効果の検証を導入することなどを提言したのだそうです。

政府は、これらの風潮が、医療費の負担が増加する要因となっていると現状を分析、
過剰な通院や受診を減らすため「かかりつけ医」や「かかりつけ薬剤師」への受診を推奨しているのです。
あわせて、少額の受診に一定程度の追加負担を求めていく、という事も検討されているとか。
確かに、病院の窓口で、数百円の請求をされた場合、なんだか申し訳ないような気がするんですね。
多少の負担増は、先を考えれば、やむを得ないと思いますね。

 

何より、この制度によって、かかりつけ医、かかりつけ薬剤師の制度が、広がってゆくべきだ、と思っています。
わがマンションでは、ありがたいことに、内科外科の医院と、処方箋薬局と、歯科医が、建物内で開業していて、
マンション住民とは、かかりつけ契約をしています。
つまり我がマンションで、生活するという事は、同時にかかりつけ医、
かかりつけ薬局、かかりつけ歯科医を持つことになるのです。
なかなかすぐれているでしょ。
実際、かかりつけ医も、かかりつけ薬局も、かかりつけ歯科医も、同じ建物内、と言う物理的な距離もさることながら、
やはり、同じ屋根の下ですから、人間関係が緊密になりますよね。
治療にとって、この条件は何より大事な事でしょ。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
にほん・にっぽん

「日本」という国名は、何とも、複雑な歴史があるようです。
何しろ、その昔の様々な文献には、様々な呼称が付けられていて、
まあ、定まったものがなかった、という事でしょうか。
単純には、いわゆる領土としての概念が不確定だったので、
それぞれの呼称も、時の天皇が言い出したみたいなところがあったりしたようですね。


で、なんとなくそう言えば聞いたことがある、と言うのが、
万葉集などに登場する「敷島」。
日本書紀などに出てくる「瑞穂国」。
これは例の森友学園の小学校が、使おうとしていた名称ですね。
で、やがて、朝廷の組織も固まってくると、大和国と言う名称が登場します。
さらに、『古事記』や『日本書紀』では「倭」「日本」として表記されているんですね。

とまあ、いくつかの変遷の後に、大和と日本が併用されたりしつつ、
日本に絞られてゆきます。


何処の国にも国名がありますが、
きっと日本の場合それなりの歴史があり、
かつ、島国だったこともあって、外国の侵略を受けること無く、国の本来の体制が継続してきたので、
現在地球上にある200を超える国々の中でも、
長期間、国名を維持してきた国として、その長さは特筆する国なのかもしれません。
何より、現代の多くの国が、国家体制を国名に付けて表現しています。


例えば、一番多いのが、何々共和国。
王国を名乗る国もちらほらあります。
あと、連邦、とかもあります。
要は政治体制を国名に付けて、その国の正式名称にしていますが、
日本は、何もつけていませんよね。
これは少数派、ただ、日本国。
もっとも、七十数年前までは、大日本帝国などと名乗ってましたが。

 

このシンプルこの上ない国名なんですが、
不思議なことに、文字に書けば日本国で、何のブレもないんですが、
呼び名となると、にっぽん、にほんの二通りがあります。
しばしば統一しようか、という話が持ち上がってきたのですが、
結論は両方とも普通に使われているので、あえて統一しないという事になって、
現在では、どうでもいいじゃんという考えのようです。


そもそも、憲法とかでは、我が国は、何々と名乗る。
と、国家の名称が定められているものですが、
日本ではこれがないんですね。
日本国憲法と言う最も権威のある文書なのですが、
これにも、国号を日本国、とか規定していないんです。
そして、当然のように、国号を規定した法律もありません。
どうも何となく、日本で済ましているんですね。

 

こんな位ですから、外国からの呼称もバラバラ。
もっともそれぞれの国の言葉で表現されるので、多少のなまりのようなものは、仕方ないのでしょうが、
おそらく、国の数ほど呼び方があると思ってもいいくらいです。
とは言え、基本はJAPAN。
私達は日本と言っているのに、どうしてジャパンなのかですよね。
私は、水嶋です、と名乗っているのに、スイトウとか言われているようなものです。
よくよく考えれば、にっぽんとか言ってもらいたいでしょ。


で、ジャパンが登場した経緯があるのですが、
基本的なボタンのかけ違いは、中国にありました。
「日」を「ジツ」に近い発音をします。
「本」は「ポン・ポング」と発音します。
で、ジツポンで、ジッポングからずれてゆき、ジャパンになったんですね。
中国でそう言われていたものを、マルコポーロだか、誰だかが自国に伝えたんですね。
で、西欧では、ジャパンの音が先行したわけです。

 

ま、そんないきさつはともかく、最近、日本も悪くないけど、

大和もいいじゃないか、と思っています。
だって、大いなる和でしょ。
平和の和です。
和(なご)みの和です。
少なくとも、和の概念に争いはありませんね。
仲よく和む国なんです。
それも大いなる和みなんです。
なんとなくですが、いかにも民度が高そうでしょ。
事実、私たちは穏やかに協調的な精神をバックボーンとして持っている民族ですよね。
時に人は、ふとしたはずみで、ミスをしたりしますが、
それも恥と言う文化でカバーしてきました。
なぜなら、共にあるという和の精神は、集団における協調を優先させるので、
その乱れは、恥じと受け止めるんですね。
まあなんだかんだと、民度が發ぬ餌欧澄△隼廚い泙后

 

日本と言う日のいずる処、と言うところととも、
大和と言う精神文化を脈々と受け継いできている、と思うんです。

まあ、民度の低い国があったら、少しは見習ったら、と言いたいですね。
なぜなら、ささやかなものであっても、民度のレベルによって、
世界の平和は乱されてきたからです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 13:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
土浦の花火大会

昨日、茨城県の土浦市で開催された全国花火競技大会の見物に行ってきました。

この花火大会は、日本三大花火大会、と言われるうちに数えられていて、
まあ、それは豪華絢爛な花火が打ち上げられるのです。
競技大会と銘打っているわけですが、これは、三つの部門で構成されていて、

それぞれ、花火師の腕の見せ所なわけです。


一つが10号玉の一発勝負の部、です。
これは、いわゆる尺玉と言われる、直径30センチの花火玉を打ち上げるもので、
きっと、最も繊細な技術が求められるだろう、と思うんです。
すべて昇り曲導付で、本体の球は、三重芯変化菊、とかいうものになっています。
多分よく分からないと思いますので、もう少し解説。
昇り曲導付とは、花火が打ち上げられ、頂点にたどり着くまでに、
途中、何らかの小さな花火が複数個開くんですね。
もちろん、細かい規定はないと思うのですが、それぞれ工夫されていて、
夜空に上ってゆく光の筋に、ちらちらと小花火が点火されてゆきます。
中には笛がついていて、ヒューと言う音がするのもあります。
そして、頂点で開花するんですが、これがただ丸い形だけでなく、
その芯の部分が色の異なる同心円になっていて、
さらに、何色かに変化するんです。
ま、一瞬の勝負なんですが、これが、色変わりの同期性とか、その直径が正円に近いかどうかだとか、
さまざまな観点があって、そのレベルが競われるわけです。
単純と言えば単純なんですが、きっと玄人好みの部門何でしょうね。

 

第二に、創造花火と言う部門があります。
これは、なぜか、従来から、7発打つことになっていて、
これが順に打ち上げられるわけです。
一発一発の内容は微妙にことなっていて、その7発の花火で何かを表現するんです。
打ち上げの高さとか、花火の開いた直径とかから察すると、3寸玉、とか、
条件が規制されているのではないかと思います。
ま、今までは、この創造花火で、新たな技術開発や、
表現方法の模索が行われてきていて、火薬の混ぜ方とか、色の発生方法とか、
さまざま花火の進化に大きく寄与してきたのではないか、と思います。
かつては、トランプの舞、とかテーマで、ハートやダイヤ、スペードなどの形を作り出していました。
時に、キティちゃんが7個打ち上げられたこともありました。
ですから、以前の大会などでは、それなりの驚きがあったのですが、
最近は、なんとなく見慣れた内容のように感じ、
かつてほどの進化度は失われたように感じました。
おそらく、この部門は、どこかで改善されるのではないか、と思います。
ま、見る側としては、さほど面白くないんですね。

 

で、三番目はスターマインです。
これはどこの花火会場でも人気のものですが、
連続して、大小の花火が打ち上げられ、
その豪華さにおいては、これぞ花火というものですね。


このスターマインは、そもそもは仕掛け花火の裏打ちとして、

打ち上げられてきたものが独立して進化したものです。

きっと競技ですから、総打ち上げ数が制限されていると思うんです。
その中で、大小の球を混ぜ、演出をし、色遣いを決めるわけです。
以前は、ただ、花火が打ちあがるだけだったのですが、
最近は、曲付きで、会場にスピーカーから音が流れ出し、
音楽に合わせた構成をしているようです。
正直、曲との同期性やら、曲のリズムとの調和や、そういう面での音楽性については、まだまだです。
選曲も、これでいいのか、みたいなところもありますしね。
とは言え、その豪華な花火の数と、色の変化、音など、

迫力はちょっとその辺の花火大会で見るスターマインとは、数ランク上のものです。

 

この競技大会は、それぞれの花火製造店の技を競い合うものですから、
花火が始まる前に、どこのだれの作品か、という事が放送されます。
もっとも、プログラムが配られていて、3つの部門別と、作品のタイトル、
さらに製造会社の名前が並んでいるので、それを見ればわかります。
大雑把には、何とか煙火店、という名称が多かったと思います。
ですから、そのお店の技を精一杯出し切る競技ですので、
尺玉単発であろうと、創造花火であろうと、スターマインであろうと、
それはそれで各店のメンツをかけた競技になるのですから、
若干の失敗はあるでしょうが、それなりの技術を見せつけるんですね。

 

このような花火大会ですから、なかなか人気が高くて、
桟敷席を確保するのも難しいのですが、
これは、地元土浦の篠塚さんが、席を手配してくれるんです。
まあ、昔からの交遊のある方で、市議を三期務めている、という、
そこそこに顔の利く方なんですね。
ともかく、電車で、土浦駅を降りた時から、人、人、人の大群衆、
会場までのシャトルバスに乗るまで、小一時間。
会場に付けば、駅よりもっと多い、人の群れ。
どこかに行くのに、普通に歩けないんです。
例えば、臨時トイレが30〜40基、ずらっと並んでいるんですが、
1列が20人以上いて、待たなければいけない。
尿意を催してから並んだら、最後まで持たないかもしれない、と言うほど時間がかかるんです。
会場の桜川の河原には、単管パイプで作った桟敷席があるんですが、
ともかく見渡す限り、人が座っているんですね。
聞くところによりますと、なんだかんだ、70万人以上は見物客がいる、とのことでした。
ですから、帰りのバスに乗るのも小一時間。
この混雑を前提にしておかないと、人によっては不満が出るかもしれない。
ま、そんなもんだ、と。

 

で、その花火大会のプログラムが20番代に入ってです。
ま、いよいよ佳境か、と言う時です。
いくつかの花火の打ち上げ高さが、ちょっと低いんじゃないか、と感じたんですね。
一緒に行った仲間も、結構低い所で開花するんで、
演出にしちゃあ、危険じゃない、とか言っていたんですが、
突然会場のマイクで、安全確認のため、再開までしばらくお待ちください。とかの放送が流れたんですね。
これは、何度も繰り返され、10分もすると、それすら放送されなくなったんです。
かれこれ30分は過ぎたあたりから、これで、道の向こうに救急車でも来たら、
今日は中止だな、などと言っていたら、
それからしばらくして、中止の発表。
ま、口実としては、強風の天候悪化のため、とか言ってましたが、

誰も、どこが強風なのか、と感じていたので、これはまさに口実。
正直に言えばいいのに、と思いました。
要は事故が発生していたのです。


帰りの電車の中で、スマホに、土浦の花火大会で、

10人がやけどを負った、というニュースが流れていました。
まあ、本来の3分の1ぐらいしか見れなかったのですが、
ともに出かけた友とのぐだぐだしたおしゃべりや、おいしい花火弁当など、
まあまあそれなりに楽しめました。
事故にあった方も、軽傷のようで何よりです。
また機会があったら、やはり行ってみたいですね。
何より、まちがい無く、花火の技術は進化していますから。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 15:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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