水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
少子高齢化社会への構え

政治課題の一つに、少子高齢化対策と言う項目が掲げられています。
新生児の出生数が減るとともに、65歳以上の高齢者の比率が今後増えてゆく、と。


新生児の出生数は、一昨年2016年は100万人を切りました。
数千人は持ち直したものの、おそらくここ数年は、100万人を維持するのが精いっぱいで、
その後は100万人を切るという状態が続くはずです。
最終的に現在1億2,600万人の人口が、1億人を切る年が来るようで、
推計として、2050年ごろ、と言われています。
あと32年後の話です。


わが娘、また婿殿はいい年したじじばばになっていて、
孫たちも早い方は中年の域に入っているはずです。
当然私はとっくにおさらばしていて、人口減の一端を担うことになっています。

 

さて、政治家の先生方は、何かと少子化を気にされていて、
産めよ増やせよのための政策をいろいろと考え、
育児のしやすい環境を整えようとしていますが、
私の経験上、育児のしやすい環境の最も優れたものは、
三世代同居だろうと思っています。
ごく普通に三世代を想定してみます。
まずは年金暮らしのおじいちゃんおばあちゃん。
若夫婦にいいとこ小学生・幼稚園生あたりの子供二人。


子育てで一番の問題は、非常時です。
まあだいたい子供が突然熱を出したの類で、病気になった時、
一人の子の面倒を見つつ、もう一人を抱えて病院に行くのは結構しんどいものです。
ですから、近くに親がいたら、SOSを発信して、
落ち着くまでもう一人の子の面倒を見てもらう、というわけです。
我が家では、娘の子供がまだ小さいので、
こう言うケースがかなりあります。
同居こそしていませんが、市内の比較的近くなので、非常時にもう一人を預かることがあります。
こう言う行動が可能なのです。
同居してればなんてことないでしょ。
人間の子供は、とにかく自立するまでにやたら時間がかかる動物なんですね。
馬や羊に例えるのもおかしいかもしれませんが、
馬だって羊だって、生れ落ちれば、数時間後には自力で歩くでしょ。
人間は一年は優に掛かるじゃないですか。
ともかく成長が遅いのと、その間の手がかかることは、他の動物と比較すると群を抜いています。
ですから、私は結婚と言う制度は、先ずは育児のために重要なことだ、と思ったことがあります。
シングルマザーとかいう人がいますが、これはさぞかし大変だろうと思います。
やはり子供を育てるためのパートナーは絶対的に必要で、

できれば、それ以上のサポートが得られることが望ましい。
ですから、産めよ増やせよと言うなら、

先ずは、日本で崩壊しつつある家族制度の立て直しが必要なんじゃないか、と。
これは、単に子育てと言うだけでなく、教育的環境においても、
多様な人と家族として一緒に暮らすというのは、成人した時に与えるものとして、

きっと大きなものがあると思うのです。
さらに、独居老人などのことを考えれば、今更、と思うかもしれませんが、

家族制度を再度見直す必要があるんじゃないでしょうか、
三世代の生活形態について、政策的な優遇策をなんか講じることで
若干は改善の可能性があるんではないかと考えます。


しかし、なんといっても、現代は、一人の子供を育だて上げるのに、
およそ3000万円かかると言われています。
すでに、子供二人を持っている家庭では、これが経済的なプレッシャーとなるはずです。
ま、稼ぎのいい人なら何てことない金額だと思いますが、
親子4人が食べるのがやっとで、贅沢ができないという家庭では、
さらに3000万円は痛いでしょ。

まして、他人に、もっと子供を産みなさい、とは言えないですから、
これは流れを受けざるを得ない。


つまり、ほぼ推計通り日本の人口は減り続け、新生児の誕生は減少してゆくんです。
そして高齢者を抱え込むという、極めて生産性の少ない社会になります。

つまりですね、少子高齢化対策と言うのは、
少子化社会、低生産性人口比社会と言うのを前提として、着々と備えることです。
幸いかな、ロボット技術が急激に進化してきましたから、
生産性を維持するのは、ここの活用とか、
また高齢者も元気ですから、リターンシルバー運動のようなものを起こすとか、
外国籍の人によって、補ってもらうとか、
すでに手を付けている事ばかりですが、
要は新しい社会へ、いかにスムースになじめるようにするか、
という事が少子高齢化社会への対応策ではないでしょうか。


日本の歴史を紐解くと、
明治になったころの人口は、およそ3,300万人。
太平洋戦争で300万人の国民を失いましたが、
その後順調に人口増が続き、一億人を突破したのが、
1970年です。
東京オリンピックの6年後のことです。
考えてみれば、ごく最近のことでしょ。
それが38年後には1億人に戻る、という事ですから、
考えてみれば、この間まで経験していたことなんです。
確かに、生産性と言う意味では、若干の問題があるかもしれませんが、
むしろ、少子高齢化を避けるのではなく、

真正面から受け止めてゆく政策の方がいいんじゃないでしょうか。


右肩上がりの神話はもうとっくに終わっているんですから。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:28 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
正義の基準

以前、SCN・湘南ケーブルネットワークの市民ボランティア制作による番組、
市民クラブTV、という枠で、
さる著名なジャーナリストをインタビューしたことがありました。
で、いわゆるジャーナリスト魂のようなものをとつとつと語っていただいたのです。
様々な経験に基づく多くの哲学的な言葉は、説得力のあるものでした。
ローカルにおける小さいながらも、一応はジャーナリストと言う立場にある
私達も、大いに薫陶を受けたのです。


で、インタビューが終わって、雑談の中から、
ジャーナリストとして、今日まで、支えてきた思いとは何ですか、
という質問に、一言「正義感」と答えられたのです。
正義を追求するという思いを貫いてきたことだ、という意味ですね。

 

正義と言っても、微妙に解釈の方法があると思います。
ある人にとっての正義と、またある人にとっての正義は、
一致するとは思えません。
ですから、絶対の正義と言うのは、なかなかその定義が難しいものです。

 

これは例えばの話です。
ある映画のストーリーで、悪巧みをしている悪の集団があって、
その組織を壊滅させようと、この映画のヒーロー役が、敵のアジトに乗り込む。
このプロセスで、観客は、ヒーローがんばれ、という気持ちになってゆきます。
つまり、このヒーローは正義の象徴なんですね。
ですから、大怪我をしたりとか、敵にぶちのめされたりとか、
まして戦いの結果死んでしまうとなると、
観客の応援が空しいものになってしまいますから、
ストーリーとしては、時にハラハラさせられる状況や、
絶望的と思われるシチュエーションでも、
様々な困難を打破し、問題解決へと突き進んでゆきます。
で、この時、敵のアジトで見張り役をしている下っ端的なものが数名いたとします。
ヒーローは足音を忍ばせ、音をたてないように巧みにナイフを使って、
その見張り連中をやっつけてゆきます。
この時、観客は、たかだか見張り役の人格はそれほど意味がある役柄という認識がないので、
殺されることに何の思いも持ちません。
むしろ、やっつけたぞ、と拍手喝采です。
でもです。
もしこのヒーローに殺される役の立場の映画を作ったとしたら、
このヒーローは、必ずしも正義の味方ではないでしょ。


歴史的な事実であっても、ヒーロー主体の歴史編纂をすれば、
それはヒーローは正義の味方なんですが、
歴史を裏側から見て、滅ぼされてゆくものの視点で見れば、
それは、正義漢でもなんでもなく、単なる逆賊とも取れるわけです。

 

つまり正義とは、しばしば自分の立場の主張に過ぎない場合があります。
しかし、とはいっても、普遍的な正義感というのはあるんじゃないか、と思うんですね。
その意味で、現在のジャーナリストと自称する人たち、
またはジャーナリズムと言う産業界に身を置く人たちに、
自らに問いかけたうえで、私はジャーナリズム魂をしっかりと持ち、仕事をしている、
と主張できる人がどれほどいるんでしょうか。

 

大相撲の一連の報道、有名人の不倫報道など、
うんざりするほど人のあら捜しをしている現況を見ると、
なんか勘違いしているんじゃないか、と思うんですね。


そもそも、この世の中における様々な社会的な活動は、
小さくは人の幸せに寄与することが前提のはずですし、
大きくは、世界平和に近付くことが目的のはずです。
この原則的な姿勢を持っていないジャーナリズムが存在するとは思えません。
ここのところをしっかりと踏まえたうえで構築した情報を作らないと、
時に、烏合の衆に迎合する魔女狩り的な情報を拡散することになってしまいます。

 

特に、最近のようにSNSが発達し、多くの人が簡便に情報を共有できるようになり、
しかも、情報発信側になれるという事で、問題に油を注ぐ現象がよく起きます。
それだけに、情報の受け手としても、周りの空気に流されることなく、
しっかりとした指針を持って、様々な情報に接することが大事です。

なんだかんだと、正義を作り出すのは、一般的な市民によるものだからです。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
記憶のブラックボックス

テレビの番組で、比較的好みのものと言えば、
バラエティ系では、クイズ番組です。
クイズ番組でも、ピンからキリで、芸人レベルを対象としたクイズ番組もあれば、

とてつもないハイレベルの知識の持ち主の大学生とか、高校生などの、

非常識な知識の持ち主と言いたくなるような回答者が登場するクイズ番組もあり、
それぞれに、結構、納得してみています。

 

芸人系のクイズ番組は、時に、驚くほどの低レベルの質問で、
それをまともに取り上げている構成も、
いささか、お遊びが過ぎるんじゃないか、と思うほどですよね。
確かに、小学校何年生とかのレベル、と言ったうえでの出題なのですが、
それにすら、低正解率だと、芸人やタレントさんの知的レベルが疑ってしまいますよね。
これは、視聴者にある種の優越感を与えるためなんでしょうか。
なんだ、こいつら、とばかりにです。
ですから、番組制作の意図がよく分かりません。

 

一方、クイズ王決定戦みたいな、超難問のクイズは
これまた見ごたえがありますね。
正解のかけらすら思いつかないような質問を、
すらすらと答える回答者を見ていて、
こいつの頭の中はどうなっているんだ、と思います。
そして、その優秀な頭脳に敬意を抱くんです。
大したもんだ、と。

きっと人間の本能の中に、優秀な頭脳に対するあこがれがあるんですね。

 

かみさんと一緒にクイズ番組を見ていると、
自然に、それぞれが回答者になっています。
で、自分なりの答えを口にします。
そして正解が発表される瞬間を待って、
当たれば得意満面です。
さあどうだ、とばかりですね。

実は最近、気になることがあります。
といってもまあ、当然というか当たり前のことなんです。
そもそもがクイズの回答と言うのは、
正解となる知識がもし過去にストックしてあれば、そこを探し出す作業をすることが、

クイズへの回答です。

もちろん、とんちとか、考え方で回答する場合もありますが、

基本は知ってるかどうか、つまり、思い出せるかどうか、と言うわけです。
で、ええと、確か、とか思いながら、頭の中を検索します。
見つけるのに、すぐの場合も、時間がかかる場合もあります。
回答を聞いて、そうだ、そうだったんだ、と、
ストックはしてあったものの、見つけられなかったことを悔やむんですね。
いや、番組に出ているわけでもないので、だからといって、なんてことはないんですが。


で、気になることと言うのは、
この検索時間がどんどん伸びて時間がかかるんです。
ですから、どうやら正解を見つけられたとしても、もし早押しだったら、
絶対に勝てないくらい遅いんです。
この記憶がすぐに取り出せない状態は、年々ひどくなってきていて、
時に数日かかることがあります。
一番多いのは、人の名前。
ええ、なんて言ったかな、を繰り返し頭の中をめぐらせるのですが、
いったん、記憶の盲点に入り込むと、なんとしても出てこない。
却って、考えるほど、それはブラックボックスの中に入り込んでしまうんですね。

 

その昔、大学の入試を受けた時に、
地理の問題で、10ほどある気候区のうちの一つを答えるという内容のものがありました。
で、質問を読んだ瞬間、いきなりこのブラックボックスに入り込んでしまったんですね。
冷静さを取り戻そうと、その質問への回答は飛ばして、
次に移り、全部終わったところで、時間的に余裕があったので、
最後にそこに戻ったんです。
そして、では、と気候区を次々に書き出したんです。
10のうち9は軽々と思いだしましたが、
何故か、肝心のその一つだけが思い出せない。
不思議なもんでしょ。
時に記憶と言うのは、普段使っている言葉や、普段会っている人の名前や、
実に何てことなないことほど、
一度、闇に隠れてしまうと、なかなか思い出せないものなんですね。


私は、一時、カリフラワーとブロッコリーのどちらかを思い出せないことがありました。
ブロッコリーという名称を思い出せると、カリフラワーのことが出てこないのです。
逆もありました。
カリフラワーという言葉を思い出せたときは、ブロッコリーが隠れてしまうんです。
これは自分にとって、なぜかわからない健忘症的な現象で、
ほぼ、5年ほど続きました。
まあ幸いなことに、そのどちらかが出てこなくても、生活で困ることはないことですから、
自分の中で溜め込んでおけばいいことです。
しかし、どうして両方をいっぺんに思い出せないのか、
不思議でならなかったんですね。
とはいっても思い出せないものは思い出せない。
ですから、この記憶呼び出し障害を、そこそこに悩んだことがあったんですね。
ま、これまたなぜか、あるときから、ちゃんと思い出せるようになりました。

 

で、一難去ってまた一難。
今度は、そんな単品的なことではなく、
ごっそりと多くのことが思い出せない状態になってきました。
いやこれは現在進行中です。
ただ救いがあるのは、時間をかけらば、なんとかなる状態です。
先日も、友人の竹田君のことを思い出し、さてなんという名前か、
思いだそうとしたら、ブラックボックスに入ってしまったんです。
名前が出てこないけど顔は結構リアルに出てくるんです。
極端な話、住まいも、かみさんの顔も、仕事も、
しゃべる言葉の特徴もいろいろ思い出すのですが、
名前だけでてこない。
で、ま、いいか、と諦めたんです。
ところが、2日して、突然出てきました。
それも、道を歩いていて、思い出したんですね。
思わず、歩きながら、そうか、竹田だった、と独り言を言ってしまいました。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
本当に必要なのか

マンションで大規模修繕、と言うのがよく行われます。

ビル全体に足場を組んで、ネットを張り巡らせている建物を見たことがあると思うのですが、

外壁のタイルの修繕や塗装の塗り替え、防水関係などの工事を行っています。
我がマンションでも、本年に大規模修繕が行われることになりました。


そもそもが、築12年目を目標に積み立てをしてきていて、
この積立を全戸がしているわけですから、ある意味、12年経ったら、
大規模修繕をします、という事への同意は取れている、という事ですね。
まあそこが下地にはなっているのですが、当マンションにお住いの方々は、
あまり細かいことに口出しをする方がいなくて、
今回の計画も、ほとんど異議もないまま総会で承認されたのです。

 

私は、大規模修繕検討委員会と言う委員会の委員長を仰せつかっていました。
これは、いつごろに、どの程度の規模で行うのか、という事と、
その工事監理と、施工業者を決定するなどの下準備をすすめる委員会です。
まあ、まあ、これもスムースに諸事を決定し、
いよいよ実施という事になったのです。
この委員会はそのまま、平行移動をし、大規模修繕管理委員会になる予定です。
つまり、大規模修繕工事がスムーズに実施できるように、
住人と工事業者の間のコミュニケーションを図り、
発生しがちなトラブルを事前に対応し、
工事の結果に住民が満足できるような工事の実施を進める、という事です。

 

何しろ、大規模修繕となると、億単位の工事になりますので、
その責任は重いものがあるのですが、
その割には、結構気軽に進めてきました。
そして、最近になって、あることに気づいたのです。

 

いや今さらですみませんが、結構重要なことです。
それは、大規模修繕と言うのは、どこまで必要なことなのか、
と言う基準が極めてあいまいである、ということなんですね。

まず第一に、たとえば築15年までに実施しなければならない、
なんて法律や決め事、また行政的な指導などないようなんですね。
要は、誰かが、ぼちぼちやった方がいいですね、と言ったんですね。
それが、なんとなく、まあこんなもんだろうと、
ほぼ12年から15年ぐらい、と言う世間が盲目的に理解している慣習的な期間になっているのです。
いや冷静に考えれば、おかしな話でしょ。

我が、マンションも、上から下まで様々な個所をチェックしましたが、
例えば、外部廊下の塗装が、はげかかったところもあれば
なんでもない所もある。
防水加工をした部分でも、当初と変わらないところもあれば、
浮いているところもある。
要は、きっと工事人の腕なんでしょうね。
下手な奴が担当したところは早くさびる。
旨いやつが担当したところはいまだに大丈夫、みたいな差がある、という事です。
これを建物全体に広げて考えると、
旨い工事人がやった塗装工事の建物は、20年たっても大丈夫、かもしれません。
ところが、へたくそな工事人がやった場合、10年持たないかもしれません。
これはどこか箇所とかではなく、建物全体の話です。
したがって、実は、世間が一律に考えがちな大規模修繕のインターバルと言うのは、
建物ごとに、微妙に異なっているはずなんですね。

 

大規模修繕に疑問を持ったのは、こう言うことがあったのです。
外壁のタイルが、年月とともに浮いてきます。
叩くと、カラカラと響くような音がするときは、浮いている、つまりはがれかかっている、という事です。
これが、コツコツというような堅い音がすると、まだ密着しているという事ですね。
で、うちの場合、あちらこちらサンプリングして叩いた結果、3%が浮いていると言う数字が出ました。
これに従って工事費が積算されるんですね。
そして、取り換え用のタイルの発注をします。
さ、そこでです。
3%と言うのはサンプリングとして叩いた結果ですから、
場合によっては、3%を超える場合もあるし、それ以下という事もありうる。
まあ、全体は、やってみなくては分からない、という事です。
ふ〜んそんなもんか、と思っていたのですが、

ちょっと待て、3%と言うのは、修繕をしなくてはいけない数字なのか、どうか、
という事が客観的にだれも説明できないんですね。
要するに、ぼちぼちですね、程度の話で、
もし放っておいたらどういう現象が、何年後に発生するのか、
なんて誰もわからないんです。
これは工事人そのものもわからない。
工事監理人もわからないんです。

 

考えてみてください。
100枚のうち97枚は健全なんです。
3%と言うのは、これはある種の兆候なのか、手を付けるべき数値なのか、と言うことです。
現実的には、足場を組んで、地上高65辰旅發気旅事をしなくてはいけないのか、
という疑問があるんですね。
3%と言う状況で推し量れる全体の劣化状態があるとは思うんですが、
客観的、物理的なデータでもあるんでしょうか。

よしんば、あったとして、だったら、壁をたたいて、ぼちぼちですね、と決めるべきで、

築12年だから大規模修繕をやる、と言うのはどうも腑に落ちないんですね。

 

で、今更のように気づいたのですが、
これって、もしかしたら、建築業者のご都合で決めたインターバルじゃないか、

と言う気がするんです。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
日本人なら…

私は、今までに、ネットの2チャンネル系で、
平塚のまち、平塚の住人への誹謗と言うか、
根も葉もない非難の言葉が羅列されているスレを何回か読んだことがあります。

そのたびに、暗い気持ちになってしまうんですね。


そもそもが、平塚は、太平洋戦争の際、軍需工場が多かったため、
大規模な空襲を受け、焼け野原となって、
無傷に近い他の周辺都市から見れば、大きなハンディキャップを負いました。
終戦後、復興期に入ると、国の復興支援策を優先的に受けて、

道路区画の事業など、インフラの整備などに当てられてきました。
また、競輪事業の認可を受けるなど、周辺都市から見れば、
かなり優遇策がとられ、何かとうらやましかったようです。

これは、以前、商工会議所の関係で横須賀市の視察をした時、
商業関係の職員が、終戦後、平塚に次々と振興のための予算が割り当てられ、
とてもうらやましいと思った、と言っていたので、
改めて、周辺の町は平塚のことをそういう風に感じていたのか、
と気づいたんですね。


そんなやっかみの気持ちが背景にあったのかもしれませんし、
もしかすると、平塚市民の品性が欠けていたのかもしれませんが、
何かというと、平塚いじめのような感情があるようです。
特に、相模川以東のまちは、平塚に対して優位性を感じたいらしく、
何かと、難癖を付けたがる傾向がありました。
私達にしてみれば、悪意を持って、他都市の批判をした覚えはありませんし、
私たちのどこが悪いのだろう、と思うんですね。


こんなスレが立っていたことがありました。
テーマは平塚競輪場です。
多分、周辺都市の人たちだと思うのですが、
競輪場と言うのはばくち場の一つだ、
いやしい品性のものが集まってくる、
そこの上がりを、市の財政にしている平塚は、
品性に欠ける。
と言ったことを、かなり口汚くののしるように書き込んでいるのです。
仮に、市政運営の財源の一部に、
競輪場の上がりである品性のないお金を使っている、としましょう。
しかし、現実として、競輪場の上がりが大きく、
行政としてはとても魅力的であった時代があって、
しばしば、近隣都市の主催競輪と言うのが行われていました。
つまり、平塚競輪場での開催権を、ある月委譲してもらって、
例えば、藤沢市主催とか、鎌倉市主催とかの開催をし、
その時の上がりを譲り受ける、という事です。
要はおこぼれ頂戴、という事です。
たとえ品性のないお金であっても、平塚ひとりが儲けていて「ずるい」という事です。
ま、そういう思いがあるんだったらどうぞ、と平塚は開催権を譲っていました。
これは、売上から、必要な経費を引いて、いわば純益を渡す、
という事です。
まあ、周辺都市にしたら、うまい話でしょ。

名義一つで収益があるんですから。
ところが、時代とともに、売り上げが減ってきて、
旨味が少なくなってきたんですね。
すると手のひら返しのように、主催権の返上を始めたのです。
今ではゼロです。


何年か前、平塚競輪場で、鎌倉市の主催競輪があって、
それにかかわる費用の請求をしたところ、鎌倉市はその支払いを拒否したのです。
私はその品性のなさに驚きました。
ま、何かの事情があったのだとは思いますが、
一地方行政体が、ある取り決めの中での失払いを拒否したんです。
これは裁判沙汰になって、結局は鎌倉が敗訴し支払うことになったのですが、
こうなると、平塚と、鎌倉では、どちらが品性が欠けるか、という事でしょ。

 

ま、そんなことはともかくです、どうも平塚は、
あまり好かれるタイプの街じゃないようなんですね。
でも、よく考えてください。
何が悪いってわけでもないし、誰が悪いってわけでもないでしょ。

実は、このように、なんとなく風評のようなもので、
人が判断されるという事があるものです。

 

その最たるものが、ナチスがしたユダヤ人への差別的処置ですね。
私達は、西欧社会の成り立ちとか、宗教的な対立の根などについて、
十分な知識がありませんが、
客観的に言って、ユダヤ人の何が悪かったんだろうと思うんですね。
あの第二次世界大戦のさなか、ただユダヤ人と言うだけで、見下げられ、迫害を受け、
挙句の果てにホロコーストとして、殺害される、
と言う惨劇が展開されたのです。
侮蔑、差別、偏見と言う、人間として最も醜い心の動きです。
しかし、その立場は、なかなか日本人には理解できません。

 

外遊中の安倍総理が、リトアニア中部カウナスで、
第2次大戦中にナチス・ドイツの迫害から多くのユダヤ人を救った
日本人外交官、故杉原千畝氏の功績をたたえる「杉原記念館」を昭恵夫人とともに訪れた。
と言うニュースがネットで紹介されていました。
そこで、首相は見学後、記者団に
「世界中で杉原さんの勇気ある人道的行動は高く評価されている。
同じ日本人として本当に誇りに思う」と語った。
そうです。

 

杉原さんは、生前、その勇気ある行動をたたえられると、
必ずこうコメントしたそうです。
「私は特別なことをしたわけではない。
日本人なら誰もが、同じことをしたと思う」と。

 

そう、私たちは、そういう心を持った日本人なのです。
その日本人であることを誇りに感じている日本人なのです。

時々思うんですね。
2チャンネルで、荒々しい言葉で、世の中のさまざまな現象を
誹謗中傷して悦に入っている人たちは、日本人じゃないのかもしれない、と。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:40 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
朝日の当たる家

実は、2月24日に、あるライブの司会進行をすることになったのです。
そのステージの演目に、朝日のあたる家、が入っていて、
さて、今まで結構雑にアニマルズの歌を聞いてきたけど、
この歌は、いったい何を歌い上げようとしていたのだろう、
と疑問になったんですね。
さあ、そうなると、いろいろと調べ回るわけですが、
その結果、世間は、かなりいい加減な解釈をしている、という事が分かりました。

 

アニマルズの朝日のあたる家、と聞いて、
ああ、あの歌ね、と思える人は、もしかすると
私と同世代ぐらいの、限られた人かもしれませんが、
一応、現段階での中間報告です。

 

まずは、この歌の経緯に触れておきますと、
17世紀に、イギリスのフォークソングとして歌われていて、

アメリカにわたり、1960年ジョーン・バエズがレコーディングし、
1962年にボブ・ディランが、さらに1964年にアニマルズが、
シングルを発表し、爆発的なヒットとなります。

 

まずはそのアニマルズ版の英語と訳語を載せます。

HOUSE OF THE RISING SUN(旭日館)

There is a house in New Orleans
They call the Rising Sun
And it's been the ruin of many poor boys
And God I know I'm one

ニューオーリンズに館があった
「旭日館」という館があった
そこは多くの若く貧しい少年らの廃墟だった
神よ、ぼくもその一人だった

My mother was a tailor
She sewed my new bluejeans
My father was a gamblin man
Down in New Orleans

母は裁縫を仕事にしていて
ぼくに青いジーンズを縫ってくれた
父はギャンブル狂で
ニューオーリンズに入り浸っていた

Now the only thing a gambler needs
Is a suitcase and a trunk
And the only time that he's satisfied
Is when he's all drunk

さてギャンブラーがいる物といえば
スーツケースとトランクだけだった
そして彼が満足するときといえば
酔い潰れているときだけだった

Oh mother tell your children
Not to do what I have done
To spend ther life in sin and misery
In the house of the Rising Sun

母よ、子供に言い聞かせてくれ
ぼくがしでかしたことをするな、と
罪と惨めさの中で生涯を送るな、と
朝日の昇る館で

With one foot on the platform
And the other foot on the train
I'm going back to New Orleans
To wear that ball and chain

片足をホームに乗せて
もう片足を列車に乗せて
ぼくはニューオーリンズに戻ろうとしている
その重りと鎖を付けるために

さらに、第1節が繰り返されます。

 

で、ここで問題になるのは、
タイトルの訳です。
こじつけのように、旭日館、とか朝日楼とか言いますが、
どうも、これは朝日のあたる家、でいいと思うんです。

この曲の解釈の中で、3行目のthe ruinの解釈が、
大きな影響を与えます。
ジョンバエズが歌ったバージョンでは、
Its been the ruin of many a poor girl
となっていて、もともとは女性が主人公の歌なんですね。
したがって、ここの解釈が、娼館と解釈されていて、
この主人公は売春婦だった、という事になります。

その影響で、旭日館とかになりがちなんですね。
まあ、それはアニマルズ前の解釈です。
で、アニマルズは、これをboysに変えて、
主人公を男性にしました。
ここから、どうも混乱が始まったようです。

 

曲全体を眺めてみると、
この曲の基点なるのは、
どこかのまちの鉄道の駅におかれていて、
5節目で、列車の乗ろうとする場面がありますが、
この瞬間の歌なんですね。

ろくでもない境遇の中で、ぐれて、荒れた生活をしてきて、
挙句の果てに、犯罪に手を染めてしまう。
そして結局つかまり、New Orleansで、投獄されることになった、
そんな自分の暗い半生を、いささか後悔の念を持って
歌ったものです。

 

自分が育った家は、
割れた窓ガラスはそのまま、玄関にはごみがだらけで、
正に掃き溜めのような所で、(the ruinの解釈です)、
親父は、ばくち打ちの飲んだくれ、
兄弟もろくでなしが揃っているという家族。
絵に描いたようなみじめな人生を送り、気が付けば犯罪者になっていた、
と言うところでしょうか。

 

その暮らしていた家を、世間は嘲笑を込めて、
the Rising Sunと呼んでいたんですね。

この、光り輝く清廉な朝の光を浴びている家も、
実は暗い人生を送ってい住人がいる、
と言う光と闇の世界の対比を
曲のタイトルとして掲げたのではないか、
と言うのが私の解釈です。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
カトリーヌ・ドヌーブさんの言い分

アメリカのグラミー賞のアワードに、出席した女優のほとんどが、
黒い衣装をまとい、ハリウッドにおけるセクハラ撲滅を訴えたというニュースを見ました。

この運動、Me Too、と言うそうです。

私もそうだったの、という意味でしょうか。

私は、個人の権利を主張する一種の運動として、いかにもアメリカらしいと思ったのですがく、
若干違和感を感じていました。


セクハラと言うのは、基本的には、一対一の出来事なわけでしょ。
つまり、ケースバイケースと言うことです。

それをみんなで撲滅、と言うのは、さまざまな事情を無視して、十把ひとからげのような気がしたからです。

 

すると、今度は、

「フランスの女優カトリーヌ・ドヌーブさん(74)や
女性作家ら100人が10日付ルモンド紙に連名で寄稿し、
男性嫌悪をあおる女権運動は認めない、と訴え、
セクハラ告発キャンペーンの行き過ぎに警鐘を鳴らした。」
と言うニュースを見ました。
で、まあどうでもいいのですが、あのカトリーヌ・ドヌーブです。
いや懐かしいですね。
ある時期、地球上のかなりの比率の男どものマドンナだったはずです。
シェルブールの雨傘と言う、かなりショッキングなミュージカルで主演し、
その後も昼顔など、数多くの映画に出演。
いくつかの映画祭では主演女優賞を取るなど、
正に女優の大御所と言った存在の人です。
さらにどうでもいいのですが、この記事で、彼女の年齢を見て、
なんと同級生じゃん、と。
ま、関係ないですけど。


で、彼女の言い分は、男の口説く権利を認める、と言ったことです。
今、ソーシャルメディアで広がるセクハラ被害の告発運動「MeToo」
の一連の動きを批判したもので、
「暴行は犯罪だが、しつこく言い寄ることは性犯罪ではない」としたうえで、
「膝を触ったり、軽くキスしようとしたりしただけで男性は制裁され、失職を迫られている」
と現状を嘆いたそうです。
セクハラ告発の行き過ぎは、女性をかえって、立場を貶めてしまうことになりかねない。
ま、要は、私たち女性は、と言いつつ、保護を必要とすることを主張している、と。


米国では昨年秋、ハリウッドの大物映画プロデューサー、ハーベイ・ワインスタイン氏が
女優やモデルにセクハラで告発されて、社会的な制裁を受けたことがきっかけのようです。
要は、確かに、犯罪的な要素があるんだったら、それはそれで問題ですが、
男と女の微妙なやり取りの一つと考えれば、

目を三角にして訴えることもないのでは、と言ってるわけです。

で、確かにそうでしょ。


ま、Me Tooやドヌーブさんそれぞれの言い分はあるとして、
男が、確定的でない関係をより進めようとした時、
(まあ、男が女を射止めようとした時、という事です)
一体どのレベルまでがセクハラでセクハラでないのか、と言うラインがあいまいでしょ。
特に、妙なのは、映画女優やモデルと言うのは、
女性として非常に魅力的な人たちでしょ。
美人で、スタイルもよく、さらにセクシーとなれば、
正に、男が言い寄っても当然な条件を備えているわけです。
で、実は、本人たちも、成長する過程で、
自分の美しさやらスタイルの良さ、つまり、女としても魅力はまあまあある方だ、
と認識するんでしょ。
で、その肉体的利点を活用しようと、モデルや女優と言う職業を選択する。
そして自分の美しさに磨きをかける。
そこに目を付けた芸能関係者が、作品やら写真やらに出ないか、とオファーをかける。
多分、売れないころにそんな話があれば、やったー、と思うんでしょうね。
つまり、女としての魅力を認めてもらったことじゃないですか。


それは程度の差こそあれ、口説いてみたい、と思わせる要素が十分にあるからです。

ある日本の女優がこの件に関して言ってました。
口説かれるのは悪い気がしない、と。
ま、時にしつこかったり、行動的であったり、様々な口説き方があると思いますが、
それらをするな!と言うなら、
じゃあ、そんなきらびやかなモデルや女優と言う仕事以外で、
自分の女らしさをアピールすればいいじゃないか、となりませんか。


基本的に、今まで色々と言われてきたことですが、
セクハラっていうのは、する側とされる側の人間関係でしょ。
虫も好かない男から声を掛けられたら、このスケベ親父、となるし、
敬意や好意を抱いている相手から口説かれたら、うれしいんじゃないですか。
もちろんその先に進むかどうかは別にしてです。
私はそこそこに魅力的な女だ、と、もし自覚していて、
どこからも声がかからなければ、きっと淋しい思いをすると思うんです。


ただ、この問題に関しては、「性」と言うゴールがちらつくことでしょうね。
でも、世の中、男と女で構成されていますし、
神様が人間に与えた本能では、産めよ増やせよ、という事が条件ですから、
秩序の中では、嫌悪することもないと思うのです。

要は微妙なラインは状況次第で変わるという前提で、
まずは、魔女狩りのようなセクハラ撲滅みたいな部分は、
行き過ぎじゃないか、と思うんですね。


私はドヌーブさんに賛成です。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:11 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
韓国の言い分

この1月いっぱい、SCNの2チャンネルの市民クラブTVと言う番組枠で、
12月に外務省、大臣接見室で収録した河野外務大臣と私の新春トークが
放映されていますので、できればそれをご覧ください。

 

この中で、河野外相が、アセアンの会議に就任4日後に出席することになったそうです。
会議が終わって、出席者のレセプションが開かれた時、
各国の外相が談笑している輪の中に、なかなか入って行きづらく、
まるで、新学期に転校してきた生徒のように、
周りになじみ切れなかったことがあったそうです。
この時、韓国の康京和(カンギョンファ)外相も、就任したばかりで、
二人とも輪の外だったため、転校生つながりのように
ま、なかよくやりましょう、と言うやり取りがあった、と話していました。

 

とは言え、二国間の外交となると、やはり丁々発止になるようです。

日本政府は、韓国政府が慰安婦問題を巡る日韓合意に関して
新たな対応方針を発表したことに強く反発しているそうで、
韓国の康京和外相が、「自発的な真の謝罪」を求めたようです。
これには一切応じない方針で、日韓合意の着実な履行を引き続き求めていく、
という姿勢を崩さなかったとのことです。

繰り返されて表現されてきましたが、
日韓合意には、慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」が確認されています。

 

で、なにより不思議なのは、
韓国の求める自発的な真の謝罪という言葉の、より具体的な内容です。
地べたに頭を付けて土下座をすることなのか、
なみだをながしながら、悪かった、という事なのか、
一体何を持って自発的と解釈し、真の謝罪とみなすのか、という事でしょ。

私は、冷静に客観的に考え、今まで日本が繰り返し謝罪してきた
そのどこに自発性が感じられず、真の謝罪と受け止められなかったのか、
よく分からないのです。

外交ですから、やや抽象的なやり取りになるがちなことは、
一種の政治手法ですからやむを得ないと思うのですが、
もう少し、具体的な要求にならないと判断できないでしょ。
よくある、謝りゃいいという問題じゃねえ、みたいなことを言ってるわけでしょ。

実際は、受け止める側の姿勢がぐらついているんですね。
だから、じゃあどうすればいいのか、と言うのがあいまいになる。

ちなみに、日本が韓国、中国に関して、戦争謝罪と言うのは、
繰り返し行われてきているのです。
政権担当者だけではなく、1990年5月、今上天皇から、
「昭和天皇が『今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは
誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない』と述べられたことを思い起こします。
我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、
私は痛惜の念を禁じえません。」と、韓国大統領に対し発言されています。
これって、謝罪でしょ。

 

特に、慰安婦問題に関することだけでも、
1992年1月、 宮澤喜一首相。
「私は、総理として改めて貴国国民に対して反省とお詫びの気持ちを申し述べたいと思います。
いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが,私は、このようなことは
実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております。」
1993年8月、河野洋平内閣官房長官。
「いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。
政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、
心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。
1994年8月、村山富市首相
いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、
私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。
<中略>我が国のお詫びと反省の気持ちを表すことになると考えております。
さらに、1995年7月、村山富市首相。
いわゆる従軍慰安婦の問題は、
旧日本軍が関与して多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけたものであり、とうてい許されるものではありません。
私は、従軍慰安婦として心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対して、
深くおわびを申し上げたいと思います。
1996年6月、橋本龍太郎首相。
従軍慰安婦の問題について、私はこの問題ほど女性の名誉と尊厳を傷つけた問題はないと思います。
そして、心からおわびと反省の言葉を申し上げたいと思います。
2001年小泉純一郎首相。
いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。
私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、
心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。
2007年4月、安倍晋三首相。
従軍慰安婦の問題について昨日、議会においてもお話をした。
自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、
そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである。

 

ま、これはある意味慰安婦の方々に対する謝罪の一部です。
ほとんどと言っていいほど、歴代の首相はこの従軍慰安婦問題について触れていて、
謝罪の言葉を述べています。
まだ足りない、と言うのは、何が不足しているんでしょうか。

正直、極力両国の関係を公平に見ても、私には韓国が何を求めているのかよく分かりません。
ですから、先ずは、要求をするんだったら、真の謝罪、なんて抽象的な表現では、
どうも埒が明かないと思うんですね。


それと、合意の見直しとか破棄とか言ってます。
これは前政権が交わした約束だから、今の私達にとっては無効である、みたいな理屈でしょ。
だったら、この戦争犯罪は、80年も前に、私たちの曾じいちゃん、じいちゃんたちが
起こしたトラブルだから、今の私達には関係ない、という論理が成り立つでしょ。


どう考えても、あの国の言い分と言うのは、首尾一貫していないですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
要は人の判断なんだから

先日、テレビで、アスリートたちがひな壇に座って、
それぞれの競技の世界での内輪話を披歴していました。


案外、外から見るのと違って、
何か基準がヅレていると感じたり、結構ヒューマニティに溢れていたり、
また、滑稽なことも多く、最後まで飽きずにその番組を見たのです。

その中のコーナーとして、誤審についての話が出てきました。
今はビデオが駆使されて、試合中でも、あるルールに沿って要求をすると
テレビカメラでとらえた瞬間を検証し、
極力誤審を避けようとする制度が定着しつつあります。

 

基本的には人間の目と瞬間的な判断にゆだねられているのですが、
ここに作為が働けば、かなり微妙に勝敗に影響を与えることができるわけです。
ですから、審判の能力が劣る場合は、これは問題が発生しがちなんですね。

 

ちなみに相撲では行事が判定をしますが、
その周囲には、勝負審判員という立場の人たちがぐるりとまわりを取り囲んでいて、
行事だまりに二人、正面、東、西に各一人の計5人。

彼らは、微妙な判定には、物言いをつけられます。
で、実は、控えに座っている力士も物言いを言える立場にあり、
東西、控えには2人ずつ座っていますから、
なんだかんだと行事以外に9人もの目が光っているんです。
これって、あらゆるスポーツの中で、最高の監視体制だと思うんですね。
またさらに、ビデオ判定をしますので、
相撲に関しての勝敗の決定は世界中のスポーツで、
もっともすぐれたシステムで運用されているのです。

いや判定の話で、

組織の運営の話ではありません。

そう言えば、行司がばかなことをして、また突っつかれていますね。

そこで、話は変わってということなんですが、

こんな川柳を詠んでみました。

「最高位 力士はヨコで 行司タテ」

 

ま、ともかくです。

これは、相撲の勝敗は、物理的な要因で決定できます。
先に土俵の土がついたか、もしくは土俵を割ったかのどちらかですから、
とても明快です。
テニスやバドミントンなども、ラインのうちかどうかとかの判定が基本ですから、
なんだかんだと物理的な要因で判断できます。
でも、サッカーなど、多くの競技は、イエローカードなのか、ただのファールなのかは、
審判の見方ひとつで変わってしまいます。
よく、あれはPKだろう、という場面でも、笛が吹かれなかったりしますが、
得点に大きく影響する判断に、なんだかんだと主観が持ち込まれるので、
しばしばトラブルになります。


ボクシングなどもそうでしょ。
審判は審判なりにプロなわけで、そのプロにもかかわらず、三者三様の判定ってあるでしょ。
割れるということ自体がおかしいでしょ。
それは判断の仕方が未熟だからです。

 

時に誤審は大きな影響を与えます。
そして、裁判まで持ち込まれることすらあるのです。

でも、その裁判も実は人間の判断なんですね。


司法試験を通ったという事は、法文の内容を記憶しているという事と、
それぞれの対応基準をも理解しているという事が前提でしょ。
ある犯罪でも、量刑の幅があります。
懲役になったり、禁錮刑になったり、有罪と言えど執行猶予が付いたりと、
状況が勘案されるので、固定的な判決にはなりません。


したがって、犯罪によっては、まあこんなところか、と言った量刑の目安がつくようです。

それで、司法関係の人、裁判官、検察官、弁護士などの人たちは、
確かに人の判断で、量刑が決まったりするので、
個人的な見解を恐れているようです。
したがって、彼らにとって、法を照らし合わせる場合、
ほぼ、判例と言うものに頼ります。
かつて、何年何月のどこそこの高裁で、
このような判例があった、となると、それを参考に、時に基準にして、
法の解釈をしようとします。
もちろん、法で照らし合わせる事案と言うのは、
千差万別なので、細かな個別の条件を丁寧に洗い直し、整理したうえで、
判断しやすいようにして、最終的な決断をするのでしょうが、
いずれにしても、かつてどのように扱われたか、
という事からはなかなか脱却できないようです。


それは、人間としての判断には、どうしてもムラがあり、
それによる誤差を最小にしようとすると、
どうして、過去の判例に頼らざるを得なくなるのです。

人間の判断って、実は結構あいまいで、恣意性に富んだものなのです。

 

でもいずれ、この分野も、いつかAIに頼るようになるかもしれませんね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
北朝鮮への圧力の理由が不明確

ミサイルとロケットは基本的には同じものです。
しかし、ロケットと言うと、宇宙開発に使われ、
人工衛星などの打ち上げを担っています。
また、ミサイルと言うと、核弾頭を搭載し、敵に向かって発射され、
攻撃のための武器となります。

要はその用途により呼び方が変わるんですね。

 

で、これまで、人工衛星を打ち上げた国は、米・露・仏・日など9カ国で、
日本を除く国々は、そのロケット技術をミサイルに転用しています。

つまり、世界で唯一、ミサイルの技術を持ちながら、
核を搭載することなく、平和的にロケットとして開発をしているのは、
日本だけなんですね。

これって、平和国家として誇るべきことでしょ。

 

で、一方、世界で核を保有している国の数は27カ国。
アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、インド、パキスタン、アフガニスタン、
サウジアラビア、イエメン、UAEなど中東の国々はほぼ持っています。
それに、中国、韓国、台湾、北朝鮮など。

ロケットの技術もないのに、ミサイルを持っているのは、

核搭載のミサイルを買っているからです。

まあ、武器の輸入ですね。

つまり、アメリカ・ロシア・中国などは様々なサイズのミサイルを保有していている核大国ですが、
これは自前で作ったもの。

中東などの国は、まあ、小型のミサイルを持っている程度で、
簡単に言えば、スカッドなどを買って持っている、と言ったところです。
ですから、自前で核開発をし、自前でロケット開発をしたわけではないのですが、
一応、なんかあったらまずいから、ちょっとしたミサイルぐらいは保有しておこうか、
みたいな国があるので、27カ国と言うことになっているのです。

 

さて、相変わらず、北朝鮮が、核開発やらミサイル開発やら熱心に進めていますが、
これを圧力をかけて、中止させ、やがて廃棄させようと、
国際社会が躍起になっていますが、
なぜ、そこまでムキになっているのか、という事が、
漠然としていてよく分からないのです。
なぜなら、世界中では27カ国もの国が、ボタン一つで核戦争の幕を開ける可能性を持っているのです。
ちなみに、米露はそれぞれ2000発前後が配備済。
お隣中国では、非公式ながら、300発と言われています。
この中国が、ロケット開発をし、核開発をしてきた経緯で、

国際的に一致団結してそれを阻止しようとはしてこなかったでしょ。

27カ国が核を持つ過程で、北朝鮮だけが格別な扱いを受けているわけです。

ま、これは、北朝鮮に対する信用度の問題が大きいんですね。

 

つまり、北の開発を危惧するのは、
もうこれ以上核を作らせない、と言う国際的な世論が背景で、
すでに作って、一抜けた、と言ってるところはその対象外なんですね。
妙だと思いませんか。
核戦略に既得権があるなんてことが、おかしい。
冷静に考えれば、核の脅威と言うのは、持っていることが第一なわけです。
でも既に持っている。
中国、台湾、韓国、北朝鮮、ロシアと、日本を取り囲む国々はすっかり核武装しているわけです。

そこで、日本はアメリカの核の傘の下にいるわけです。
いや、だったら日本も自前に核を持とうか、というわけではありません。
みんな日本以上に心配性が揃っていて、なんかあった時に
対抗できるぞ、と言う抑止力を想定しているんですね。

 

これって、アメリカがしばしば銃で人を殺傷する事件が発生しているのに、
身を守るために銃を携帯する、という事に似ていると思いませんか。
実際、アメリカでの銃による犯罪のうち、わずか3%が正当防衛という事ですから、
実際は護身用と言う、いわば抑止力の役目を果たしていない。
極端な 見解ですが、全米ライフル協会会長のコメントは、
「銃を持つ自由の対価として銃で撃たれるのも仕方ない」とまで言っていて、
本来銃と言う武器を持つことの意味を否定していると言ってもいいかもしれません。
ミサイルもこれと同等とは思えませんが、
持つことの抑止力と言う点では、実はあまり意味がないのではないか、と思うんですね。


さ、そこで、北朝鮮が、とやかく言われるのは、その根底に、
核のボタンを管理する人間の問題があるのですね。
つまりあいつならやりかねない、と言う危惧です。
だって、中国の核保有が結構、スルーされてきた経緯と言うのは、
中国は、絶対に先制攻撃はしない、と、かなり明確に断言しているんです。

で、国際社会はこれを信用した。

ですから、北朝鮮が核保有国になるという事を危惧するのは、
不信が前提になっているわけです。

その点が大きいのではないか、と。
もっとも、あのカリアゲくんの性格を、伝えられる情報の範囲で推し量っても、

少なくとも信頼がおける冷静沈着さを持っていて、

穏かで、人類愛に満ちているとは思えないでしょ。

お兄さんを殺し、親戚のおじさんを殺し、

ちょっとでも刃向かった部下を殺し、恫喝を得意技とするなんて人物が、

ボタンを管理することになったら大変だ、と。

 

で、もし、あのカリアゲ君以外のそこそこの人格者が次なるリーダーに収まって、

国情も安定してきたら、

今ほど、圧力をかけるという声は収まってくると思うのです。

そして、北朝鮮も核保有国になるんですね。

 

ですから、国際社会も遠慮せず、あんたはダメ、あんたがトップである限り、

圧力を緩めることはありません、と、付帯的な条件を付ければいいじゃないですか。

それも明確に。

でないと、中国がよくって、北朝鮮がだめ、と言う矛盾が残ったままになるでしょ。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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