水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
一歩前進と言えなくもないけど

ほんのちょっと前まで、くどいくらい、日大アメフトの危険タックルンのシーンが
テレビの画面に繰り返し流されました。
まあ、なんとなしにテレビを見ていても、そのシーンが映し出されるのですから、
否応なしに見てしまうわけです。
何十回も見ました。
おそらく、皆さんも、数回、というレベルではないと思います。


で、それにとって代わって、今回は、昨日、今日と、
中継を含め、テレビ各局では、アメリカと北朝鮮の国旗が並ぶ前に、
両国首脳が歩み寄り、握手をする、という様子が、
米朝会談の象徴的シーンとして流されました。
きっと何かと、これからも、あの歩み寄り、握手をするところが、
何度も何度も流れるんでしょうか。

 

こういう出来事って、視点がちょっとずれただけで、
えらく評価が変わります。
ま、何はともあれ、話をするという事は、誤解を解く第一歩にあたるし、
長々と敵対してきた二つの国が、
仲よくするために、話し合ったのだから、
その細かい中身はともかく、結構な事じゃないか、と、
プラスの評価をする人もいます。


当然のことですが、いいとこ数時間の中で、
そんなに細かい段取りまで煮詰められるわけもないのですから、
いささか抽象的な合意文書も、当然と言えば当然でしょ。
テレビのワイドのコメンテーターたちが、
ここが足りない、ここがふれられていない、と評論していますが、
それは今後の進展による、という事でしょ。
20階建てのビルの設計図を、数時間で書き上げろ、という要求に近いでしょ。
ま、ここに、20階のビルを建てます、ぐらいの表現が精いっぱいですよね。


まあ、その意味で、私は、そんなもんだろうと思います。
しかし、この問題の根底に横たわっている重要な人間としての要因に、
ほとんどだれもが触れません。
それは、両首脳の人間的資質のことです。
おじさんを殺し、兄貴を殺した人間が、目の前に現れて、
少しばかり改悛の情を漂わせたからと言って、
まあ、よくそこまで反省したわね、ぐらいで受け入れるんでしょうか。
私は、なんとなく、もしそんな輩が身内にいたら、
きっと口も利かないと思うんです。
友達だったら、縁を切ると思うんです。
自分が話をしている最中に、居眠りをした部下を、高速砲で粉々に打ち砕いた人間です。
いやあのときは、いささか気が動転していたから、なんて言い訳は通用しないでしょ。
正直、前科者じゃないですか。
いや裁判に掛けられたわけではないので、前科者ではない。
日本語でこう言う場合は、凶状持ちと言うんです。
その教凶状持ちが、にこやかに笑顔を作ったからと言って、
受け入れるほうも受け入れるほうです。

 

今回の両国の基本が、すべて経済であった、という事が、

やはり、それぞれの国のリーダーという立場から考えると、
いささか不安になりますね。
アメリカはアメリカで、ここが丸く収まれば余計な軍事費がかからない、と。
100%計算ずくでのことでしょ。
北がこの合意を達成するために生じる経済的な負担は、日本と韓国が負うだろうと。
ま、なんて無責任な事でしょうか。


食事が終わってレストランを出る時に、隣のテーブルのやつが勘定を払うから、
と言ってさっさと帰り支度をするようなものです。

 

アメリカの計算ずくでの合意と同じく、
北も、計算ずくでの合意です。
矢張り、制裁が効いてきたんでしょうね。
繰り返し打ち込まれたボディブロー、特にジャブやらフックやらも織り交ぜ、
少なくとも経済的には、ぼこぼこにされたわけでしょ。
そこで、タオルを投げるがごとく、米朝対話を求めた。
要は金勘定です。
そこに国民と言う人間の所在を感じない。

金と金の交渉です。
どうしたこんな交渉が、歴史的で素晴らしいことなのか、
私は釈然としません。

 

とは言え、何かを期待するしかないわけで、
ここがきっかけとなって、少なくとも極東の平穏が生まれてくれば、
それはそれなりに、いいことですよね。

 

現実的に、北の核が無くなったとして、
隣国、ロシアと中国は、たっぷりと核を持っています。
歩を挟んで、飛車と角は控えています。
日本としては、ここはスルーなんですかね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
犬猫事情

20年ほど前、うちの双子姉妹が、犬飼いたい、猫飼いたい、とほぼ毎日のようにつぶやくんです。
私自身は、子どものころに家では飼っていましたが、自分で面倒を見たことが無く、
要は、丁寧に情を注ぐという事をしたことがないんですね。


でも、主に犬は年中飼っていました。
ですから子供の頃は、犬は身近にいたんです。
ところが、その犬たちも、どうもまともな一生を送っていないんですね。

ですから、うち以外で飼われていたら、もっと幸せな生涯が送ることができたはず、
と、いつも、とても無責任な感想で終わっていたんです。


したがって、成人してからは、犬猫を飼うという事はしませんでした。

ところが、娘たちのその念仏のように言う言葉にほだされて、
ある年の誕生日の時に、猫を飼ってもいい、と許可を出したのです。
もちろん、面倒はしっかりと見る、という条件でした。
で、アメリカンショートヘアーのオスを買ってきて、飼い始めたんですが、
こいつがやたら野生満々のねこで、人なれの行動をあまりしないんですね。
なもんで、人との相性があまりしっくりしないんです。
しかも、結構なやんちゃ系で、外に行くと喧嘩したらしく、時に傷だらけで帰ってくる。
で、ある時、しばらく帰ってこなくなって、どこかで野垂れ死にでもしたのか、と思っていたら、
一か月ほどして、ぼろぼろになって帰ってきたんです。
多分、ひっかき傷かなんかから、ばい菌が体に回ってしまったんでしょうね。
帰ってきて、1週間ほどで、あの世に旅立ちました。
5〜6年の短い生涯でした。
この猫も、幸せな生涯とは言えなかったな、と思いました。

 

で、猫はこりごりという事で、今度は犬が飼いたいと言いだしたんです。
買ってきたのが、キャバリアの雌。
人懐っこく、家族にもなじんだんですが、
数年後、大人になったので、ふと、この子の子供が欲しいと思ったんです。
で、群馬だかあちらの方のブリーダーに預けて、
いわゆる種付けをしてもらいました。
で、無事、身ごもって、帰ってきました。
それから、月が満ちると出産したんですが、
なんと、8匹も子を産んだんです。
これって、妊娠促進剤でも飲まされたのかな、という感じでした。
ところが、小さな体で、しかも初産。
一匹一匹が小さくて,100グラムを切るくらい。
ネズミより小さいんです。
小さすぎたのかもしれませんが、結局、ほぼ一日たったところで、
生きていたのは1匹だけ。
で、紙の箱の中には、7匹のご遺体が安置されているんです。
庭先にでも墓を作ろうか、という案も出たのですが、
ここは、市で、ペットを処理してくれるところがあるから、
と聞いたので、そこに持ってゆくことになりました。

 

大神の小動物焼却場に行きました。
受付で、何やら書類に書き込み、料金を尋ねると、
一頭、3000円、とぶっきらぼうな答え。
で、何しろ7匹ですから、ざっと、21000円。
これに消費税がつくのかどうか、そんなことはともかく、えらく金がかかるな、と思ったんです。
正直、だったら、庭の隅に埋葬と言う方がよかったかな、とか。
で、一応、持って行った箱のふたを開けて、こんな小さいのですが、と言ったら、
ちらっと見て、一頭分でいいや、ですって。
まあ、確かに重量が基準なんでしょうね。

平塚にも、民間で小動物の焼却・埋葬をしてくれるところがあります。
大体、3万円から5万円ぐらい。
それぞれコースがあって、丁寧なところと、
基礎的な部分だけで済ます場合と、いろいろです。
ほぼ、人間の葬儀の簡易版と言ってもいいくらいの内容です。
特に、最近ペットを飼う人が増えてきて、
それこそ家の中で家族同様に生活をしているので、
その死には、ひどく悲しむことがある、と言われています。
そういう風潮もあると思いますが、
ペットの死の迎え方も、その昔の、雑なやり方ではなくなったようですね。

 

そう言えば、もう数十年も昔のことですが、
よく道路に、犬猫の轢死体が転がっていましたね。
走っていて、はっと気づくと何やら道の上にものがある。
少し近づくと、どうも犬猫の轢死体のよう。
ま、一応、ハンドルを切って轢かないように避けますが、
あまりいい気持ちがしないものです。
そんな景色はもうほとんど見ることが無くなりました。
きっと各家庭でしっかりと管理しているんでしょうね。

 

日本全体での犬猫の飼育実態は、
推計ですが、犬が892万頭、猫が952万6千頭だそうです。
合わせて1844万頭。
微妙に、猫が多いようです。
日本の世帯数がざっと5000万世帯ですから、
2.7軒に1匹と言うのが平均です。
まあ大雑把には、3軒に1軒が犬猫を飼っているという事です。
で、犬の平均寿命は14・19歳。
猫の平均寿命は15・33歳ですって。
これも微妙に猫が長生きなんですね。

 

いいこととは思いますが、犬猫を大事にするという事は、
きっと優しさに通じる心をはぐくむと思います。

 

ま、それより、人間の子供をもっと大事にしてほしいですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
議会改革ランキング

国の運営が、いささか透明性を欠いている、と、
昨日のブログで述べました。
この、透明性が欠けるというのは、
国であれ、地方であれ、自治体の運営に、
職務に対する責任感と、将来展望の視点が欠けているという事になります。
 

で、地方自治体についてなんですが、
国の自治体制と比べると、
地方の場合、首長及び議員を選挙で選びます。
これを二元代表制と言って、国のように、議員は国民に選択されますが、
その長たる総理大臣は、議員が選ぶので、二元代表制とは言いません。
当然ですが、二元代表制のほうがずっと民主的です。
首長、議員をそれぞれ選挙で選ぶという事は、
不都合が生じたり、適性がないと感じたら、住民はリコールをすることができます。
任免罷免の権限を有権者は持っているのです。
しかし、現実に、相当レベルのひどいことがない限り、
リコールと言うのは実施されませんし、
議会自身が、自浄作用として、問題の多い議員に辞任要求をしても、
本人が、受け入れなければ、失職することはありません。
したがって、現実的には、地方の民主制と言うのは、
結果として、議会構成者とか、首長自身の自覚によって、
民主的に運営されているかどうか、が決まってゆくのです。

 

毎年、全国の地方議会の議会改革度を調べている早稲田大マニフェスト研究所は、
2017年度の議会改革度調査を実施し、
そのランキング上位300議会を発表しました。
ま、それぞれに事情はあると思いますが、
なんだかんだとこのランキングで、上位にある方が、
民主性や議会運営の透明度は高い、と言っていいと思うのです。
逆に、こんなランキングは関係なく、
ちっとぐらい低い所に評価されても構わない、という事はないと思うのです。


このランキングをする基準は、三つあって、
議会の果たすべき役割として
「情報共有」(本会議などの議事録や交際費・視察結果の公開具合と検証)、
「住民参加」(傍聴のしやすさ、議会報告会などの実施、住民意見の聴取)、
「議会機能強化」(議会本来の権限・能力を発揮するための機能強化状況)
をそれぞれ数値化し、その合計に順位付けをしたものです。
ま、この三つの基準は、どれも大事なことでしょ。
ですから、ランクが低くてもかまわない、とは言えないと思うんですね。


さて、そのランキングの結果です。
上位300の自治体という事ですが、
母数としては、全国の市町村は1718あります。
これに都道府県議会が加わりますので、総数では、1766です。
さて、ベスト100に入っているのは、ちなみに神奈川県に絞ると、
茅ヶ崎12位です。
いや見事ですね。
で、箱根23位、横須賀34位、大磯59位、南足柄77位、葉山89位、秦野93位です。
7つの市町がランクインです。
ベスト100ですと、都道府県数から見れば、単純に2市町が平均ですから、
そこに、7市町がランクインとなると、神奈川県民としてはちょっと鼻が高いでしょ。
で、平塚はまだまだこの100位には入っていません。


続いて、ベスト200を見てみます。
154位に藤沢、さらに、横浜174、川崎176、相模原186と政令都市が続きます。
鎌倉が189位で、200位以内は、12市町となりました。
でも、まだまだ平塚は出てきません。


で、300位以内をチェックすると、小田原が271位で登場。
実は、この順位のランキングは、300位までで、それ以外は公表されていません。
行ってみればわが平塚は、落選という事です。
1718もの市町村の中で、周辺の市町はことごとくランクインしているのに、
平塚は残念なことに、落選です。

つまり、周辺の都市に比べれば、透明性と民主性に欠けているという事なんです。

 

例えばです。
政治活動費と言うものがあります。
これは議員活動を進めるのにある程度の活動の補助をしようと、
政務活動費の名称が改められたもので、
世間では第二の給料とも言われていますが、
地方議員の先生方が、時にこの処置を勘違いし、正当とは思えない使い道をして、
これがばれて、議員辞職、なんてことがあったので、
特にこのことについては敏感になっているようです。
で、この政治活動費については、その領収書をネットで公開する、という
より開放的な情報を開示している議会も増えてきて、
現在28%を超えているようです。
おそらくこれは今後もっと増えるはずです。
で、平塚なんですが、

まず、この数字の28%は、まだまだだ、とのんきに捉えていて、

平塚では、一枚の報告書に項目と金額を記入したものが、
ネットで公開されていますが、
項目に対応する領収書は、開示されていません。
これについて、平塚では、議会の事務局などで、いつでも閲覧できるようになっているので、
問題はない、としているようですが、それでいいのでしょうか。
つまり、来れば見れる、というわけです。

高齢者だとか、時間がないとか、身体的な理由で、行けない人は見れないわけです。
ネットで公開することはそれほど大変なことではないでしょ。
でも、ああだこうだ言って、これを拒む。
つまり、この姿勢そのものが、民主性と透明性を悪くしているのです。
ことほど左様に、という事です。


透明性を上げるという意識があると、
当然改革的な事を取り入れます。
特に、2017年度の中で顕著だったことは、
住民参加に力点をおき、「高校生と大阪市会議員の意見交換会」を開いた大阪市会とか、
「議会活性化策」を設け、政策討論会や市民と語る会を開いた岡山県真庭市議会、
委員会の審査過程を傍聴できるように、休日・夜間議会の運営に取り組んだ長野県喬木村議会などは、
大きくランキングを挙げているんですね。
つまり、議員さんや自治体、また首長の考え次第で、
風通しのいい議会運営は可能になるのです。


是非とも、来年のランキングでは、
せめて、300位以内を目指してもらいたいですね。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
体たらく、と言う言葉の意味

働き方改革の採決の様子を見ても、
また、相変わらずのモリカケ問題と、それを巡る駆け引きなど見ていても、
国会が正常に機能している、と思う国民はごく少数だと思うんです。
何かがずれているからなんです。


少なくとも、物心ついてから、見てきた60年余り、
国の運営と言う観点でその主要な役割を果たしてきた国会の在り方として、
現在ほど混迷し、国民から不信を抱かれていることはなかったと思うのです。
逆に、程度の差こそあれ、国会が国民の信を得た瞬間はほとんどなかったでしょうね。
ま、それにしても、その体たらく。
その原因はいくつかあげられると思うんですが、
はっきり言って、議員の資質にあります。
もちろん優れた人材は数多くいますが、
一部、なんか勘違いしてしまった人が、舌禍事件を起こしたり、
不適切な行動を取ったりしてしまい、
それが全体に影響するという事があるんでしょうね。
あのアメフト危険タックルの日大の学生が、
日大というブランドだけで、就活に支障が出ている、なんていう事と同じで、
一部は全体に良きにつけ、悪しきにつけ影響を与えるわけです。


一部の、その勘違いとは、選挙民によって選出され、

多くの支持を得ている、というところから始まります。
50%を制すれば、原則当選できます。
複数名の場合は、ともかく20%だろうと、30%だろうと、一番多ければいい。
この時、100引く自分の得票率、という考えをもっとしっかり持つべきですね。

投票をしない人を含めて、支持してもらえない人の数を前提にすべきです。

でないと天狗になってしまうんです。
まして、当選すれば、周囲は、先生先生と丁寧な扱いをする。
いつの間にか自分はえらい、と勘違いする人も出てくるわけです。
そして、同時に、何のために選出されたのか、という本質を忘れてしまうんでしょうね。
ですから、これらの先生方は、家を出る前に、
わたしは、多くの国民による喜捨によって、生活している、と認識することが第一ですね。
つまり税金で今の立場を維持できている、という事です。

みなさんのおかげなんです。


私達が、不信を取り除けない一番の要因は、
その運営に透明性がないからです。

 

話は変わって私事です。
我がマンションは、この7月から大規模修繕工事をはじめます。
22階建ての建物に足場を組み、外壁や防水関係の修繕を行います。
この大規模修繕委員会の委員長を私が仰せつかっています。
この工事の総額は、億単位になりますので、
それでなくても慎重な運営が求められるのです。
そこで、私が目指したところは、透明な運営です。
先ず委員の公募から始まります。
そして、何をどのように修繕するのか、という工事概要を決定します。
これには、専門家を含め、多くの人の意見を戴きました。
そして、この工事の管理者を選定。
さらに工事会社等の選定をします。
ここがポイントなんですが、公募し、書類審査をし、条件を絞り込んで、
およそ10社から見積もりを取ったのです。
委員会で、先ず5社に絞りこんだのですが、
この時、の条件が、見積金額の安い順5社です。
期限までに見積もり書が私の手元に郵送されてきます。
私は、これを開封することなく、委員会の席上で初めて、開封しました。
もっとも公正な方法でしょ。
ともかく、この億単位の工事の原資は住人が拠出しているんです。
ですから、それに対する責任があります。
一番重要なことは、委員会への信頼ですので、その条件としては、
無駄なお金を使うことなく、最大の透明性を持たせて、運営することなんです。
そして、さらに3社に絞り、
最後の決定は、住民参加のもと3社のプレゼンを行い、
出席者の評価にとって、依頼先の会社を決定しました。
一点の曇りもない選出方法です。
私は100%透明に運営してきたと自負しています。


ま、ここから先、工事中に何かとトラブルが発生すると思いますが、
これまでの民主的で透明性の高い運営があったので、
大きなトラブルにはならないだろうと思っています。
それは、大規模修繕委員会そのものが、信頼を得ているから、と考えているからです、
民主的で透明な運営がなされる事が、組織運営の原則である、という事です。

 

まあ、規模も、内容も桁違いですが、
せめて、国会で、誰かが、もっと透明性を持たせて、
信頼を得られるようにしよう、といって、実施すれば、
今のような混乱はないでしょ。
総理、財務、その他の大臣連中の答弁も、各省のお役人たちの答弁も、
透明性ということをもっと意識し、実践すれば、こんな国会の体たらくはなかったはずです。

 

その根本には、国民に幸せになってもらいたい、
という願望がすべてのエネルギーの源になっているべきです。
この国の国民として生まれてきて、後悔はさせない、ぐらいの気概を持つべきでしょ。
個別の問題は、それなりの政党間の駆け引きがあるとは思いますが、
根底において、幸せ実現のための、希望の持てる国づくりのための、
使命感が無ければいけない。
行政府においては、幸せ実現のための施策を実践し、
立法府においては、希望を持つための方向性を示すことが、それぞれの役割です。

早くそんな当然の位置に帰ってきてほしいですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 07:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
繰り返される悪循環

例の結愛ちゃんの虐待死事件の余韻が、いまだ頭から離れず、
虐待死そのものについて、考えてみました。

 

今回の事件は、残された手紙の言葉が衝撃的だったので、
特別大きく扱われていますが、
虐待死は、実は、日本では、ある意味日常茶飯事の出来事なんです。
少なくとも、統計的に把握されている虐待死は、年間でおよそ50件以上。
一週間に1人という事です。


そんなに、と思うでしょうが、私達の虐待死の概念がずれているんですね。
年間50数名と言うデータのうち、およそ半数が0歳児なんです。
しかも、その8割が、出産日当日なんです。
つまり産み落とすとその場で命を奪ってしまうんですね。
これも虐待死なんだそうです。
ま、いたいけない大事な命が、親に奪われるという実態に違いはないのかもしれませんが、
私達の虐待死の概念とは、ニュアンスがちょっと違う気がします。
そんなことも影響していると思うんですが、
虐待死の主体は、実母が50%となります。
ちなみに、実父が25%。
これはどちらかが一方的な行為として行われた、という数字で、
両親ともどもを入れると、9割ぐらいが生みの親の手によるものです。
残りの大半は、再婚の相手、義父、義母という事になります。

 

こういう悲惨な出来事が発生すると、
もっと罪を重くして再発を防げ、という論調が高まります。
私は、犯罪の量刑は、犯罪防止に影響すると思っているので、
刑を重くすることは賛成です。

ところが、この虐待死の刑は、実に微妙な解釈がとられていて、
普通は殺人罪にはなりません。
それは、親たちは、口をそろえて殺意はなかった、と言うんですね。
まあ、確かに、行き過ぎたけど、しつけの一環だった、とか、
いわば、親が子に下す懲罰と言うレベルで解釈されてしまうんです。


そして、このような解釈が前提になる法曹界の、いわば基準があって、
法格言と言うべきもののようなんですが、
「法は家庭に入らず」という事が言われているようなんです。
つまり、家庭内の問題については、法関与せず、
あくまで 家庭内の問題は家庭内にゆだね、公権力使用控えるべきである、という
伝統的な考え方があるのです。
例えば、親族間の窃盗は、親告罪で、訴えがないと取り調べすらしないのです。
ですから、虐待と言うのは、
この考え方に影響されていて、
法曹界としては、余り触りたくないんですね。


こんな背景もあって、殺人罪と言う適用がされないんです。
ですから、傷害致死と言ったところに落ち着くんですね。
まあ、よほど悪辣なら、懲役7年ぐらい。
普通には、環境的事情を考慮して、3年とか、5年ぐらいの懲役が精一杯なんです。
殺すつもりはなかった、という事ですから、殺人にはならないんですね。
殺意がないんだからと、日本の刑法も妙な視点で判断するんですね。

 

これらの事案が取りざたされるようになって、
データがとられるようになりましたが、
なかなか日本では、表面化しずらく、

統計の裏側に隠れてしまうケースも、さぞかしあるんだろうと思います。
その意味では、外国、特にヨーロッパなどでは、子どもの権利が強く守られていて、
時に、第三者による告発で子どもの権利を確保した、という例は山ほどあるようです。

日本でもここのところは見習うべきです。

隣の人が物音を聞いて不審に思った、などと言う社会全体での監視が必要でしょ。

 

よく、街なかとか、ショッピングモールの中で見かけるんですが、
まだ、3〜4歳の幼児が、母親から少し遅れてついてきて、
親が、もっと早く歩けとか、その他、もろもろの注意をしていることがあります。
この時、さすがに人目があるのか、手を挙げることはないにしても、
子どもに掛ける言葉の汚いこと。
きっとこの母親は、若いころやんちゃ系の仲間と徒党でも組んでいたんだろうな、と。
まさに、品格も何もあったもんでない。
子どもにしてみれば、精神的な罵倒ですよね。


私は親がああいう風に言葉を使うと、
きっと子供もそういう言葉の概念を持ってしまうのではないか、と思ってしまいます。

大きくなってから、母親の小言を、うるせーくそばばあ、なんて言われてしまうのは、

その種を、かつて母親が撒いていたからではないか、と思うんですね。
現実的なデータとして、
虐待をする親は、多かれ少なかれ自分が親から虐待に近いことを受けている、と言うデータがあります。
正に、輪廻ですね。

これを悪循環と言います。
どこかで絶たなければ、この循環は回り続けるんです。


ですから、これこそ、社会がやるっきゃないでしょ。
個人に任せたり、家庭にゆだねていては、

解決の糸口は、いつまでたっても見つからないのです。
子どもが幸せな環境で成長できるような国づくりがもっと力強く進められなくては、
日本は何時まで経っても、2流国家のままです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
大学の学部

まあ、当たり前と言えば当たり前なんですが、
大学の学部も、時代とともに変遷をするものです。
私が在籍していたころの早稲田大学は、
政治経済学部、法学部、商学部、文学部、教育学部、それと理工学部
と言ったところでしたが、
最近は、文化構想学部、社会科学部、国際教養学部、基幹理工学部、創造理工学部、先進理工学部、
人間科学部、スポーツ科学部などがあるようです。
ま、詳しく調べていないのですが、一体、何を教えているんでしょうね。


これも学校にとっては、商品の一つです。
時流に沿って、品ぞろえを進めなくてはいけないわけですから、
それなりの企業的な観点での生き残りには、必死だと思うんです。
うちもボチボチこんな分野の学部が必要なんじゃないか、と。


まあ、基礎的で伝統的な学部に関しては、
従来の蓄積したノウハウがあるから、授業もそれなりに展開できると思うのですが、
新しい分野においては、それがおぼつかない場合もあるでしょ。
とは言え、学研的に先行していれば、
そんなもんだ、と授業は展開できるとは思うのですが。
ある意味、新参の学部は、底が浅く、十分な成果を発揮できないかもしれません。
しかし、これは社会のニーズでもあり、
教育という先行投資の場においては、先取り的なカリキュラムも必要なわけで、
社会のニーズを醸成するきっかけとしては、十分に意味があることです。

 

ちなみにわれらが平塚の東海大学では、
文学部、文化社会学部、政治経済学部、法学部、教養学部、体育学部
など、オーソドックスな学部があり、他には、
健康学部、理学部、情報理工学部、工学部、観光学部、情報通信学部のほか、
清水キャンパスでは、海洋学部、伊勢原キャンパスには医学部、健康科学部、
工学部、 医用生体工学科などがあります。
そして、熊本キャンパスでは、経営学部、基盤工学部、農学部
など、実に幅広いんですね。


まあ、これらの学び舎から、将来の日本を背負う人材が輩出されることを期待したいですね。

 

私が大学を受験した時、当然、大学が出している受験用のパンフを取り寄せ、
色々と調べたのですが、その時、わずかな文字からどんなことを学べるのか、
という事が分からなければいけないのでしょうが、
ざっと、学部の名称だけで、こんなもんだろうと勝手に想定して、
受験するわけです。
まあ、その点は結構学生もあいまいで、

入ってみて、話が違うと感じる人もいて、途中退学する人もいるんですね。
確かに、何を教えてもらえるのか、は、見ると聞くとでは違う場合は、これ仕方ないですね。
要は、何を学ぼうとしているか、という姿勢次第なんですなら。

 

ネットのあるコラムを読んでいて、
へえ、そうかと再認識したことがありました。
それは例の日大のことです。
すでに情報としては知れ渡っていると思いますが、
日大には危機管理学科、という学科があるんだそうです。
で、今回の「危機」に関してそのノウハウがどれほど意味を持っていたか、
という事が、世間で揶揄されていますが、
もし本気になって危機管理のノウハウを、アカデミックに蓄積していたら、
あのようなばかばかしい対応と会見を繰り返すことはなかったでしょうね。
紺屋の白袴、医者の不養生と並んで、日大の危機管理、という言葉が、
使われそうですね。


で、さらに、例の加計学園、千葉の分校もそのうちなんですが、
ここにも危機管理学部があるんだそうです。
日本の数多くの大学の中で、危機管理学部があるのは、
日大と加計学園だけ、というのが面白いでしょ。
ま、関係者には失礼かもしれませんが、笑っちゃうでしょ。
危機管理としては、偽の報告書を出すなんてことが、どうして受け入れられるんでしょうね。


ま、そういう意味では、時代の流れを敏感につかみ取りながら、
世の中を先見と言う光で照らしだそうとする大学の志には共鳴しますが、
商品として並べるなら、
もう少し完成度を高める必要があるんじゃないですか。
スーパーの棚から買った食パンが、
翌朝カビが生えていたようなものでしょ。
しっかりせよ、と言いたくなるでしょ。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
笑顔は子供の特権

最近つくづく感じることがあって、まあ、これも年なのかな、とも思うのですが、
子どもはどうしてあんなに笑顔が可愛いのか、という事なんです。
顔の表情が、笑顔になった時に、神々しくも変化するさまを見ていて、
これはきっとDNA的な動きであって、
正に、生きる力もなく、非力なために、保護され、かわいがられることが必要で、
本能として身についているものではないか、と感じるんですね。


それほど、子供の笑顔は素晴らしいものです。
笑顔を見た大人は、その素晴らしい表情に、思わず手を差し伸べる。
抱きしめたり頭をなでたり、心の中でその命の尊さをたたえたり、
励ましの言葉を与えます。
大人自身が子どもの笑顔に触れることで、
人としての大事なものをよみがえらせることもある。
そのくらい、幼児であれ、人間相互のコミュニケーションの原則を
笑顔が作り出してゆくんですね。
子どもの笑顔に接するたびに、子どもは宝だな、と実感します。

 

きっと、あの結愛ちゃんも、笑顔を作っていたに違いないんですね。
あの記事を一行読んだときに、その先のすべてが理解できたのです。
ネットに報じられていた記事の見出しは、
「もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」と。
最初は、その一行以上読むことができませんでした。
心が締め付けられました。
その先は心落ち着いてから読もうと、数時間を置きました。
で、改めて読んでみましたが、涙なくして読むことができませんでした。
なんと悲惨と言う表現を超えた悲しい出来事でしょうか。
こんな悲劇を作り出した親が、人間が、いるなんて信じられないでしょ。
いや、悲しいことに人間てそうなのかもしれません。

 

私は、死刑廃止論者です。
法の下とは言え、二度目の殺人が行なわれるわけですから、
どう考えても正当な行為とは思えないのです。
でも、唯一この両親への極刑は例外としたい、と思いました。

 

命と言うのは幸せな時間を過ごすために生まれてきているはずです。
それは苦痛と、無念さの時間でしかなかった、
というのは、命の大原則からして、あってはならない事でしょ。

両親はしつけだった、とうそぶいているそうです。
しつけと言うのは、後ろ姿で導くことで、
そこには、愛以外のエネルギーが混じってはいけないんです。
しつけなどと言う概念をかけらも持っていない、
人間のクズみたいな存在に、しつけそのものができるわけないでしょ。

 

この出来事の悲劇の要因の一つに、
役所の対応があります。
きっと、前住所の役所から連絡があって、要注意だと。
で、新住所の役所から、一応出向いて行った。
すでにこのころは、見た目で虐待が悟られる可能性があったんでしょうね。
親は職員に会わせなかった。
つまりばれないような対処をしたわけです。
で、職員は、行ったけど会えなかった、と帰ってきたわけでしょ。
ちょっと待て、と。
それじゃガキの使いじゃないか。
行くことで事が済んでしまうのか。
会って観察することが仕事じゃないのか。
会えなかったからですます。
行ったからいいですます。
まるでガキの使いでしょ。
会って様子を見るために行ったんですから。
ここがちゃんとしていたら、この悲劇は防げたかもしれないでしょ。

 

ストーカーなどで警察の対応が不十分で悲劇を悲喜を引き起こしたことがしばしばありました。
幼児の虐待問題で役所の対応が甘く、悲劇を引き起こしたことは
今回が初めてではないでしょ。
国会でバカな議論を繰り返していないで、
こういうケースをカバーできるように、
法的に、これらの行為に、捜査権のような権限を与えればいいことでなないですか。

そもそも親権など主張できる資格もない親に対して、

もう少し権限を持って接することができる法的裏付けが必要でしょ。

こんな悲劇二度と繰り返したくないでしょ。

 

結愛ちゃん、
今度は天国で、安らかに安心して過ごせるように祈ってます。

そして、あなたが持っていた笑顔を取り戻してください。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
司法取引

司法取引制度が、日本にも導入されました。


今まで、アメリカなどのドラマで、ごく普通に、捜査に協力すれば罪を軽くする、

という司法取引が行われている、と言うことは見聞きしてきましたが、
いよいよ日本でもか、と思ったら、これが、全然違うんですね。


大きな違いは、アメリカの場合、事件の犯罪そのものの捜査協力で、
いわば、素直に有罪を認めるなど、
犯罪捜査とか、裁判とかの手間を省くのに、活用されてきたわけです。
確かに、犯罪捜査や裁判など、ある意味余計なコストを社会は負担しているので、
これを軽減させようという事ですよね。


考えてみれば、ヘンな話でしょ。
だって、犯罪と言うマイナスの行動をして、
これをとがめられたら、すみませんでしたと素直に認めると、
いくらか罪が軽くなるんですから、
最初に引き起こしたマイナスの状態はなんだったのか、という事でしょ。
極端な話、殺人が行われて、テレビなどでよく出てくる第一級殺人が、
時に司法取引で、ランクが下げられたっとしたら、
殺された人は良い面の皮ですよね。


最近しばしばしば挙げられている被害者の救済、という面で、
司法取引で、罪が軽くなるというのは、
時にやり切れない事でしょ。
犯罪の現場で起きたマイナスは、何も修復されないのですから。

 

ともかくです、日本の場合はこれと大違いで、
主に、企業犯罪や組織犯罪などを想定していて、
なんかの拍子に捕まえた犯罪者が、小物だったとすると、
刑罰の軽減と言う餌で、大物の逮捕に資するための情報を引き出そうというのです。
まあ、組織内のちくりですね。
のうのうとしている黒幕とか、親分を放置しないぞ、というわけです。

 

構造としては、いささかニュアンスが異なりますが
例の日大の危険タックル問題に似ているでしょ。
ある出来事があって、これはまずいぞ、ということになる。
日大の場合、メディアとかマスコミが問題として取り上げ、
ある種の告発をしたわけです。
そこで、犯人は顔出しをしてまで、我が非を悔いたわけです。
結果、親分の諸行が露呈された。
世間は、親分が悪いんじゃないの、と、今度はそちらに攻撃の的を絞った。
ここで犯人は、ある種の減刑に近い状態を得る事ができそう、と言うことでしょ。
宮川君にその意図は微塵もなかったと思いますが、形の上では、
これは、問題の当事者と世間様が、社会正義の名において、司法取引のようなことをしたわけです。

 

私は、司法取引で、司法側の労力を軽減し、より効果的な巨悪を暴く、と言うのは、
十分にありの制度だと思うのですが、
でも、犯した罪は罪でしょ。
その罪は、確かに、非を認めたり、悔いたり、謝罪することで、
改悛していると判断すれば、それなりの犯罪の罪のレベルが軽くなることは、
いいことだとは思いうのですが、
それより、むしろ、非協力的とか、過剰な黙秘とか、操作への非協力的な態度は、「
マイナスにすればいいと思うのです。

 

例えばです。
強盗傷害の犯罪があって、犯人が捕まる。
取り調べて、否認から始まり、挙句の果てに冤罪だぐらいことで騒ぐ。
裁判の意結果、動かぬ証拠が出てきて、有罪となった。
状況から、懲役10年が妥当なのですが、
捜査に非協力的だったために、プラス年の刑が追加される、という制度です。
この時、犯人が逮捕直後から素直に犯罪を認め、
罪を悔いるなら、規定通り10年で済む、という事です。
取り調べの過程で、嘘をついたら、一つの嘘につき、3か月づつ量刑が増えるとか、
過剰な黙秘は、半年増えるとか、
まあ、何が妥当か分かりませんが、
いくら犯罪者と言えど、さらなる人間性の悪いものと、
まあまあ、まともなものとを同じレベルで判断するのはおかしいでしょ、
司法取引で刑を軽減するのと併せて、
結果として、有罪になる場合、取り調べに非協力的であったら、
罪は重くなるというのも、ある種の司法取引とみなせるんじゃないでしょうか。

 

人は量刑の大きさを絶えず念頭に置いているようです。

これもアメリカのテレビドラマですが、ある犯罪常習人が、仲間に銀行強盗を持ちかけます。

すると、話を聞いたその仲間は、割に合わない、と断るんです。

得られるものと、発生するかもしれないリスクを天秤にかけるんですね。

 

割りに合う、となれば、捜査への協力が進むと思うんです。

 

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
服忌令

24年前の6月1日。
私はその年の七夕飾りを作るべく、
豊田の谷地工務店さんの作業場で材木の切り出しをしていました。
正に、七夕飾り製作の第一日目でした。
作業中に、友達から電話がかかってきたと、事務所からの伝言で、

急ぎ足で、電話機の所に行き、受話器を取り上げたのです。
と、我が大親友の戸塚保君が、急死したという知らせです。
そりゃ並みのショックではありませんでした。
電話の様子では、自死らしいということまでは分かりましたが、

と頭の中は大混乱です。

いったい何があったんだ、と。

 

この年ですから、身の回りの友達も、何人か亡くなっています。
その中でも彼は、最も早く亡くなってしまったのです。
その後自分の人生の節目ごとに、
必ずと言っていいほど、たもっちゃんが生きていたら、と、
恨み言のような、仮定をしたものです。


自分の両親はともかく、友達関係で、葬儀委員長的な役割や、
友人代表での送辞など、案外と数多く勤めてきました。
振り返れば、多くの人との別れがありました。

私の携帯に登録されている電話番号で、
名前を見ても、どこの誰だか思い出せない人が10数名います。
まあ、在るとき、それなりの必要性があって、やり取りしたんだろうな、
とは思うのですが、それがいつ、どんな要件での関係なんだか、
まるで思い出せないのです。


時々、電話を掛けようとした相手の名前そのものを思い出せなくなって、
「あ」から順にスクロールしながら、一覧を読むのですが、
ところどころ、亡くなった友達の名前が出てきます。
その数、19名。
登録後にお亡くなりになってしまったんですね。
それなりのお付き合いがあったんですから、
亡くなったからと言って、登録を消去する気にはなれないんですね。
ともかく登録したままです。
ですから、ある人の番号を探そうと、スクロールしているときに、
そういう名前を見ると、昔の元気だったころのこと、
さまざまなやり取りの思い出が浮かんできます。
少なくとも、私の携帯では、友たちは亡くなっていないのです。

 

よく人の存在を、人は二度死ぬ、と言われます。
最初は、肉体として死んだとき。
二度目は、その人の思い出を持っている人がすべてなくなった時、
と言われています。
そう、周囲の特に密接に関係のあった人たちの心の中には、
何かにつけ、心の中でよみがえり、生き続けているんですね。

 

さてかく言う私、来年は後期高齢者ですから、まあ、標準的には、ぼちぼちお迎えが来る年です。
ですから、周辺の人たちがいなくなってしまうのは、当然と言えば当然のことです。
私は、ある意味、臆病なのかもしれませんが、
死の瞬間をどのように迎えるのだろうか、とよく考えます。
そして、自分の死を、周囲はどのように受け止めてくれるのだろうか、と。
まあ、しょうもない考えを巡らせるのですが、
その度に、じたばたしまい、と心に言い聞かせています。

 

世の中変化の連続と言えばそれまでですが、
最近のお葬式にも変化が表れていますね。
特に、家族葬とか言って、内輪でこじんまりと済ませることが増えてきました。
遺族としては、身内が亡くなり、精神的なダメージがあるのに、
葬儀で神経が細る思いは、つらいことでしょうし、
経済的にも負担になりますから、規模は小さく済ませるというのも選択肢の一つですよね。
そこで、家族葬が多くなってきているわけですが、
家族以外の友人にしてみれば、友の死を悼む場がないというのは、
さみしい思いをすることがあります。
今までは殆どが、風通の通夜・告別式を執り行ってきたわけですから、
じゃあ、家族葬の場合は、どうしたらいいんだ、と。
家にまで押しかけて線香を上げるというのも、迷惑がかかるかな、と思えますし、
新たな習慣に対する対応方法がまだ決まっていないように思うんですね。
どうしたらいいんでしょうか。

 

こう言う事って、時代とともに変わるんですが、
ちなみに、明治7年、ぶっきょうれい、と言う法令が発令されました。
漢字では、服忌令と書きます。
これは、それまでのさまざまな服喪に対する慣習を、
法令で統一しようという事になったのです。
その一部に、妻が死んだ夫は、忌中50日間、喪中13か月と定めました。
夫を失った妻は、忌中20日間、喪中90日間、という事でした。
忌中とは、基本的に自宅謹慎という事で、
喪中とは、祝ごとの席には出ない、などのことです。
ま、いずれにしても、こんなことを法令で定める、というのも、それなりの時代だったんですね。
もちろん、今はこの法令はありませんから、お好きにどうぞ、という事です。
ま、それにしても、身内、または友を失った人も心の痛みは、
法令なんかで決められるものではないでしょ。
よしんば決まられたとしても、
それは自分の心の中で、その亡くなった人が生きているかどうかなんですから。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
顔認識ソフト

中国では、顔認識ソフトが著しく発達していて、
町中に張り巡らされた防犯カメラから、
何処に誰がいる、というのが、データ化され、当局に把握されているそうですね。
いいのか、悪いのか。

 

私は、実は人の顔を覚えるのが、極端に苦手なんです。
なかなか識別できない。
ですから、そんなソフトを脳みそにつないでおきたいくらいです。

 

以前、九州である会議が開催されるというので、出かけてゆきました。
会場のホテルに到着すると、会議主催者の担当者の方が対応してくれて、
会議開催まで、小一時間時間があったので、時間つぶしに

ホテルのロビーでコーヒーを一緒に飲むことになったのです。

ばかばかしい世間話で談笑していたのですが、あっと言う間のこと。
会議の時間が迫ってきたものの、まだチェックインしていなかったので、
チェックインして荷物を部屋に入れてきます、と、言って席を立ったのです。
すると相手の方も、同時に席を立ち、ではロビーで待っています、と言うことで、

ロビーで待ち合わせすることになったんですね。
おそらく、所要で5分程度。
ロビーに戻って、その担当者の方に、お待たせしました、といって次の行動に移ろうとしたんですが、
その人がどこにいるか分からないのです。
ロビーには、人も多く、背格好、年の具合が似ている人が多かったのかもしれません。
それにしても小一時間正面から顔を見続けてきて、5分しかたっていないのですが、
もうどんな顔をしていたか思い出せなかったんですね。

メガネをかけていたのか、どうかさえ思い出せないのです。
まあ、結果としては、ただうろうろしていたら、柱の陰からその担当者が出てきて、
それでは、ってなこと言って会議室に向かい、

私は何事もなかったように付いていったんですが。

 

逆に人の顔をよく覚えている人っていますね。

実にすばらしい特技で、うらやましい事です。
 

その昔、スナックの類によく出入りしていたころ、
さるところに数人の友達と入ったんです。
で、入ってみて、店の風情なんかで、以前来たことがあるな、と思っていたところ、
お店の女の子が、あら、水嶋さん、と声を掛けてきたのです。
私としては、どう考えても、一年以上来たことないし、
それも、一回ぐらいですから、なんで名前を呼ばれたのか、不思議だったんです。
すると、あとで分かったんですが、そこのママさんが、
あの子は、人の顔と名前を覚えるのが得意で、一度お店に来た人は、全部覚えてしまう、
と言ってました。

そう、私が特別ではなかったんですね。
でもまあ、そういう人もいるんです。

 

そんな具合ですから、道端などで挨拶されると、
本当に思い出すのが大変なんです。
もちろん、そこそこにあいさつは返しますが、ええと、誰だったけ、と、
家に着くまで思い出そうとするんですが、
まあ、たいていは誰だか思い出せない。
挙句の果てに、よく会う人なんだけどな、とか思うんですね。
よく会うんだったら、思い出せないのがおかしいのですが。

 

1978年のことです。
この年私は、日本青年会議所の教育開発委員長になりました。
やりたい、とエントリーをし、その時のスタッフが、資格審査をし、
パスすればその役職を与えられるのです。
ちなみに、その年の日本青年会議所の会頭は、今、話題の麻生太郎さんです。
で、まだまだ34歳の未熟者でしたが、
どういうわけか、それなりに評価されて、委員長になったわけです。
委員会は、教育というテーマで、各地の青年会議所が活動を展開する場合の
具体的なプログラムの提供と、その周辺の情報の整理などが委員会の仕事です。
委員数は、117名、まさに、北は北海道から、南は沖縄まで、
全国からこの委員会にエントリーしてきたのです。
私は、事業の進め方についてはある程度めどが立っていたので、
それほど負担には感じませんでしたが、問題は運営です。


117名と言う大所帯を運営スタッフとともに仕切ってゆかなくてはいけないわけです。
最大の課題は、メンバーひとりひとりのプロフィールを、

頭の中に叩き込んでおかなくてはいけないのです。
年齢、所属の青年会議所名、会社名、役職、どんな仕事か、

また家族のことなど、いわゆる履歴書的な事はすべて、
そして、問題の、当然ですが顔との付け合せ。
会った途端に、どこのだれかが分からなくてはいけないんです。
委員長とはそういうものだ、と教わってきました。
ですから、1月が最初の会議なんですが、
それまでに、委員のエントリーの書類に目を通しながら、
添付してある写真を、目に焼きつけるように何度も何度も見たんですね。
およそ準備の2カ月間、毎日に近いくらい写真を見続けました。
まるで、受験時代に単語帳をめくりめくり赤線を引いたようなものです。
何しろ、もっとも苦手なことなんですから、
相応のエネルギーは使わない限り、人並みにはなれないんですね。


で、いよいよ、1月最初の会議の時ですが、
その会議に三々五々集まってくるメンバーは、
会った瞬間で、誰それ、と分かったんですね。
まあ、生涯でこんなことはその一年だけ。
あとは元の木阿弥です。


最近は、始末が悪いことに、年と言うマイナス要因が足を引っ張って、
ますます顔認識が鈍ってきました。

もし道端で私とあって、つれない反応だったら、
そういう欠点のある人間なんだ、とお許しください。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< June 2018 >>
+ SELECTED ENTRIES
+ RECENT COMMENTS
+ CATEGORIES
+ ARCHIVES
+ MOBILE
qrcode
+ LINKS
+ PROFILE