水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
キャッシュレス

男子、三日会わざれば刮目して見よ、という言葉があります。
その大もとは、『三国志演義』の中に記載されている、

呉の武将・呂蒙(りょもう)の故事が原典です。

 

それはこんな話です。
呂蒙という人は、呉の王・孫権(そんけん)に大変重用されていました。
しかし、呂蒙の家はもともと貧しく、学問を収める機会もなかったのもあり、
学問に全く興味もなく、ただ、武芸を磨き上げてきたのでした。
そのため、書類なども自分は話し、部下がそれを聞き取って作成するというありさまでした。
そんな呂蒙の学識のなさを笑って、人々は、あほな呂蒙とからかっていたのです。
そこで、呉の王・孫権は、見るに見かねて、呂蒙に学問を勧めます。
はじめのうち呂蒙は、軍の仕事が忙しく、書物を読む時間を取れないなど言い訳三昧だったのです。
しかし、孫権は、何も博士なれというわけじゃない、

歴史を学ぶなど、見識を広めるということが大事なんだ、と、説得します。
そうまで言われたので、呂蒙は発奮して、勉学にも本腰を入れ、
やがて本職の儒学者たちをもしのぐほどの知識と見識を身に着けてゆきます。
勇猛なれど無学であった呂蒙を軽く見ていた、当時の知識人であった魯粛と言う人が、
日に日に上がる呂蒙の評判を聞いて、会ってみたいと思い、出向いてゆきます。
で、実際に語り合った呂蒙は、以前とは比べ物にならないくらい豊かな学識を兼ね備えた大人物へと成長していたのです。
おどろいた魯粛は、「昔言われていたあほな阿蒙、とはとても思えない」と称賛したのです。
これに対して呂蒙は「士別れて三日、即ち、更に刮目して相待すべし」
つまり「士たるもの、別れて三日もすれば大いに成長しているものであって、
また次に会う時には、しっかりと目を見開いて会うべきです」と言ったとか。

まあ、滅多に使う言葉ではありませんが、
時に人は大きな変貌を遂げるものです。


わたしの友人で、一代で、二部ながら上場会社を興したものがいます。
なかなかものの見方に先見性があって、
現職にたどり着くのに、3回ほど商売替えをしましたが、
あれこれ試行錯誤の末、最終的に、二部上場まで、仕立て上げたのです。
その彼に1人息子がいたのです。
まあ、彼は創業オーナーですから、自分の息子に対しては、
そこそこの年になれば、後継ぎとして会社に入れて、
いきなり専務で、やがて社長と言うコースを想定していました。
で、彼から見ると、何かともの足りない所もあったようで、
でもまあこれも仕方ないか、と、いささか出来の悪い息子を、
半分あきらめながら、しかし、半分期待し、その将来を思い描いていたのだそうです。

 

で、息子が大学を卒業し、いよいよ社会人、と言う段になって、
アメリカに行って見たい、と言い始めたのだそうです。
彼は、それほど過大な期待を息子にしていなかったので、
好きなことがあればそれをさせる、と言う寛大さも持っていたんです。
で、アメリカ行きを後押ししました。
正に、トランク一つで、単身アメリカにわたり、
時々は、近況報告的なものがあったそうですが、
詳しい日々の暮らしぶりは、まるで知る由もない。


で、数年が過ぎ、突然帰国するとここと。
彼は、久しぶりに会う息子の姿を思い浮かべながら、成田に出迎えに行ったそうです。
で、ゲートから出てきた我が子を見た時、
一体どうしたんだ、と言うほどの変貌を遂げていたのだそうです。
覇気溢れ、エネルギッシュな容貌は、まるで別人。
彼は後に私に、人間ってあんなの変わるものなのか、驚いた、としみじみ話してくれました。

もちろん見てくれだけでなく、骨太の精神を培ってきたのです。

 

私は変化する、変貌を遂げるというのは、人間個人ばかりじゃないと思うんですね。
一つの国だって、三日とは言いませんが、
えらく短期間で成長をする国もあります。
中国なんかそうでしょうね。しばらく実際に見ていませんが、
テレビなどの画像で出てくる中国の姿は、目を見張るものがあります。
正に括目ですね。

 

この中国では、キャッシュレス決済が主流になりつつあるようで、
ここでも日本は追い抜かれたのか、と思っていたのですが

実態は、中国は偽札が多くて、現金取引をするのに、いちいち真贋のチェックをするのだそうです。
だから時間がかかるそうで、そこが嫌われ、カード決済に移ってきたのだそうです。
そう考えると、日本がその類の決済システムが遅れているのは、
いい意味、通貨に信頼があるからなんですね。


普通に、手にした札が本物かどうか、なんて心配をしたことがないでしょ。
ひがむわけではないですが、遅れているには遅れている事情があるんですね。

これまた日本のいいところで、
素晴らしいことじゃないですか。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
タンカー炎上

SNSで炎上したわけではありません。

 

人間に国籍があるように、船にも国籍があるんですね。
いわば出身を明らかにする戸籍のようなものでしょうか。
で、一方、住民票のように、現在どこに住んでいるのか、のような、
所有者がいて、それは国籍とは何の因果関係もないようなんです。

ですから、今回のホルムズ海峡での攻撃事件は、
要は国籍から言ったら日本ではないんですが、
船の持ち主は日本の企業なので、まるで関係ないとはいえないんですね。
つまり、日本企業が攻撃されたわけです。


いや、これは日本国が攻撃されたのではない、ということなので、
即座に、集団的自衛権を発動すると言いうのは、行き過ぎなんでしょうが、
それにしても、なんとなく、日本の空気としては、
そんなことあったんだ的な白々しいものが流れているような感じなんですね。

 

私はこのニュースに最初に接した時、
もちろん詳しい状況が分からなかったこともありましたが、
これは一騒動あるか、と思ったんですね。
政府は、例によって遺憾の意を表しました。

 

さて、遺憾の意ってなんなんでしょうね。
今までの例で考えれば、一応、この野郎!と言っておいた方がいい、と言った程度で、
本気になって怒った感じがしないでしょ。
だって、あくまでも言葉を発しているだけで、で、この後どうするんだ、ということに関しては、
ほとんど行動を起こした試がないでしょ。
でも、まあ、黙ってるとなめられるというか、
国民への手前もあって、政府としては、抗議し、遺憾の意を表する、というわけです。

 

で、このことに関して、例によって麻生大臣は、
「ホルムズ海峡付近で起きたタンカー攻撃について、
日本にとって望ましくない」との認識を示した、と言うんですね。
具体的には、閣議後に国会内でこの問題の認識を問われ
「よろしくない」と記者団に語った、のだそうです。
多分、前後にあれこれの言葉があったのだと思うのですが、
よろしくない、という言葉のニュアンスを私流に解釈すれば、
おいたしちゃだめよ、と子供でもなだめる様な印象がなんですね。
よろしくない、という表現が、どうも本気度を感じない。
もちろん、肯定など出来っこないのですが、
よろしくない、と言う以外の表現がないのでしょうか。
とても曖昧模糊としているでしょ。


だって、我が国に深い関係のあるタンカーが、何やら飛来するもので、攻撃を受け、
エンジンルームでは火災が発生するなど、まあ、ちょっとした戦闘状態に近かったわけでしょ。
これは「よろしくない」に決まってるじゃないですか。

 

で、アメリカはと言うと、これはイランが裏で操っていると、
得意の勘繰りで、イランを非難。

そういえば、以前に大量破壊兵器を製造している、とか勘繰りをし、
湾岸践祚が勃発しましたが、あの国の得意の疑心暗鬼が、

今回もいかんなく発揮されています。
ま、おそらく今後も含めて、どこから飛んできて、誰が発射したのか、など、

基本的な事実関係は、うやむやになってしまうんでしょうね。


とんだとばっちりなのが、この船の持ち主。
勝手な想像ですが、船体自身にも、

車で言う車両保険のようなものに入っていると思いますし、
積荷も保険に入っているはずです。
まあ実損はさほどないんじゃないとは思いますが、
オーナーとしては、やはりとんでもないことなわけで、

ついてないということでしょうか。


そして、とんだとばっちりは、安倍総理。
わざわざ見込みの薄い対米関係の緩和をイランに働きかけに出かけたものの、
結果的にはぴしゃりと断られたわけでしょ。
これを、骨折り損のくたびれもうけ、と言います。
そのさなかの出来事ですから、
見様によっては、和解の使いだったはずが、
貧乏神がやってきた、ぐらいの印象に変わってしまいましたね。

この方、なんとなく徳がないんですかね。
任期だけは長々と命脈を保っていますが、
人徳とか、善良さなど、感じませんものね。
せっかくの仲介役も、タンカー攻撃で、水を差されてしまいました。


もしかすると、水を差す、という目的の攻撃だったんでしょうか。。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 18:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
安寧の日々のために

老後2000万円の話です。
まあ、基本的には、想定される範囲では、なんとかしなきゃ、でしょ。
世間がびっくりして、100年安心の話はどうなった、とかには、
100歳まで生きるとしたら、退職金で間に合うのか、
そういう計算をしたことあるか、と言うのが、麻生さんの最初の言葉。
そのうち、風向きが厳しくなってくると、
審議会としての答申を、発注者たる大臣が受け取らない、と言い出す。
まあ、こういう事体での麻生さんの対応は、つっけんどんで横柄ですから、
何かと批判を浴びてしまいます。


で、野党はここぞと攻めたてていますが、
まあこれは、これと言った政局のネタが少ないので、
参院選を控えて、格好の材料と言う捉え方でしょ。

与野党の政争として2000万円の問題は、スポットライトを浴びていますが、
そんなやり取りを超えて、冷静に私たちの老後を考えたら、
内容はともかく、意味のあるレポートだったんじゃないでしょうか。

だって、現在、決して安心できる状況じゃないでしょ。

確かに、年金がらみで考え、将来を展望した時、
老後は極めて不安材料が多く、
おそらく、今の若者が老後を迎えるときは、
相当に厳しい状況になっているでしょうね。

 

私は、2年前に、自分の老後について、経済面からチェックをしたことがありました。
つまり、2017年から始まる年度ごとの収支の推移を一覧表にしたのです。
したがって、一番上の欄は2017・2018・2019と続きます。
そして、その下の1行目は、現在の手持ち資金の合計。
現金とか、貯金とか、生命保険などの合計。
2行目に私の年金額。
これは年度を経るにしたがって、数値は少なくなります。
考えられる範囲で、このまま行く、とは思えないからです。
で、続いて3行目がかみさんの年金額。
さらに、臨時的な収入について。
例えば保険が満額になったとか、ですね。
この合計がその年度の収入総額です。

 

で、その下は支出の部です。
現在の生活形態の支出を、多少大雑把ですが算出します。
この項目は、家計簿的に項目できちんと区分けすべきですね。
実態としての現状をチェックできるからです。
で、食費とか、水道光熱費とか、マンションですからその管理費とか
さらに、諸税、交際費、衣服、趣味、医療費など、想定できる限り項目を書き出し、
それぞれに具体的に数字を入れてゆきます。
年に一度ぐらい、どこかに旅行に出ようとか、
孫たちの成長に応じた支出も想定します。
年に応じて、増えてゆくものもあります。
医療費なんかそうでしょ。
でも年に応じて減るものもあるわけです。
衣料費なんかそうでしょ。
年取れば、ファッションにそれほど金を掛けなくなるはずです。
で、その年度の支出予測額の合計が出ます。
これを収入から引き算して、剰余は翌年の一行目に手持ち資金として書き込みます。
そして、さらにその年度の収支残高の下に
私とかみさんの年齢を書き込みます。
当たり前ですが、年度ごとに一歳づつ年を取ってゆきます。
まあ、こうして年度ごとの推移の一覧が出来上がるのです。

 

こんな作業をしたのは、かみさんが、将来の経済的な変化の不安をしばしば口にしたからです。
私達は大丈夫だろうか、と。
そこで、じゃあともかく、現状でわかる範囲で数字を書き出してみよう、ということになったんですね。
想定ですから、多少の狂いはあるでしょうが、
まあ、大狂いはないでしょうね。

 

で、この作業をしながら、そうそう無限に生き延びるわけじゃないだろうから、と、
私の没年を想定しました。
つまり、その年から私の年金は入らなくなるからです。
その年は、あと11年後の86歳です。
いろいろ考えてこの年に会いました。
表に自分の寿命を書き込んだわけです。
この年の支出には、葬儀代を追加しました。
だって、何もしないわけには行かないでしょ。
ですからそこそこには葬儀を出せる費用も確保すべきでしょ。

 

ま、そんなこんなで、我が夫婦の老後はどうだろうか、ということのチェックは
とっくに、済んでいるんです。

で、これを経験してみて、逆に周囲の人が、

ほとんどそんなことしていないことに気が付きました。
いや驚くほど呑気なんですね。
とは言え、多少は不安を持っているわけでしょ。
だったら、はっきりと現状から見える範囲は目をそらさずに見つめてみるべきでしょ。

 

その結果、何とかなりそうなら、のんびりとした老後を過ごせばいいわけですし、
不安があるなら、相応の努力をすべきでしょ。

こういう話をすると、

時々ひどいことを言う人がいます。
まあなるようにしかならねえよ、と。
土壇場で、バンザイグリコなら、(お手上げ状態と言う事)生活保護って手もあるしな、とか。
いやいや待てよ、今までの生き方が、それではすべてパーじゃないの。
竜頭蛇尾なんて言葉のように、死に際をしょぼしょぼ生きるとしたら、
なんていう人生だったろうな、と、人生を丸ごと後悔するだろう。

 

でも、人生の最終章である、まあ死ぬ前10年ぐらいが穏やかで安寧の日々なら、
昔の苦労は笑い話。
いい人生だった、と思えるんじゃないかな。

つまり、老後の2000万円は、人によって当然金額は変わるだろうけど、
要は、安寧の日々のための資金である、と言うことですよね。
とかく世間は金額に右往左往していますが、
大事なことは、安寧の日々を望み、良い人生の締めくくりをできるかどうかなのであって、
正に、生きざまそのものを問うているんですね。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 23:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
喧嘩両成敗

こんな言葉、今でも生きているのでしょうか。
それは喧嘩両成敗。
喧嘩と言うものは、そのきっかけは実に些細なものです。
ですから、布石と言うか、根底に蔑視や、遺恨、妬み嫉み、時に劣等感など
様々な心理的なマイナスが作用し、これがなんらかの前哨戦のようなものになり、
これらが根底にあって、これまた些細なきっかけで、怒気が膨れ上がってゆく。
正に最終的には売り言葉に買い言葉、時に暴力沙汰に発展していしまいます。
何だか個人的には喧嘩ですが、
国対国なら戦争ですね。

 

で、これは江戸の頃の争いごとのお裁きの原則でもあったと思うのですが、
喧嘩両成敗。
要は決定的にどちらかが悪いなんてことはない。
喧嘩売られる方も売る方も、どっちも問題あり、と言う事なんですね。

 

話しはガラッと変わりますが、
以前、四宮の裏路地で、体調も悪く、いささか、ぼおっとした状態で、車を運転していたのです。
そして信号のない交差点で、右から来た車と接触。
相手の車のフェンダーあたりに傷をつけてしまいました。
冷静にあたりを見たら、こちらは一時停止の標識が立っていたのです。
いいか悪いかと言えば間違いなく、こちらが悪い。
そこで、お降りて行って、相手方に、謝罪しました。
で、その時、修理等の費用がかかるでしょうから、こちらが全面的に持ちます、
と言ったんです。
で、その後、保険会社に連絡し、処理を依頼したら、
信号のない交差点での事故は、最大で1:9、間違っても0:10と言う責任比率はありません、
ときっぱり言われたのです。

つまり全面的に費用を持つ必要はない、と言う事なんですね。
片方が一時停止のマイナー側であるということは、一方が優先性を持っている。
で、優先性があろうと、車が信号のない交差点を通過するときは、減速し、

事故を未然に防げるような状態にすべきなのだそうです。
つまり、こちらが優先道路であっても、事故を防ぐ注意は、課せられている、ということですね。
そこで、その責任があるので、0:10と言う責任比率はないのだそうです。

なんか喧嘩両成敗に似ていないですか。


この両成敗の精神は、こっちもそっちもと言うことではないのです。
喧嘩をするということそのものがよくない事であって、

しかけられて、受け身だから分があるというわけでなないのですね。

 

よく、アメリカ国民が、忘れまい9・11みたいなことを、アメリカ国家の悲劇のように言いますが、
そもそもで言えば、アメリカが中東の国々に、ちょっかいを出し続け、
挙句の果てに湾岸戦争など、大義なき戦争を展開してきたわけです。
これによって、アラブ系の国によっては、多くの犠牲者を出してきた。
当然一部の人間は面白くない、と反発する。
まあ、当たり前ですよね。
友が、家族が死を迎えたのは、アメリカのちょっかいだ、ということなら恨みを持つでしょ。
その反動の一つがあのテロだったわけです。
9・11だけを切り取って論ずるのは、

すくなくとも喧嘩両成敗の精神からスレば、あるべきことではないでしょ。

 

さて、長々前置きを書きましたが、
こんな記事を読みました。
けんかではなくいじめ、だと。


2016年に新潟の県立学校の生徒が同校の生徒の足をひっかけて転倒させ、

左腕を骨折させる出来事があったのだそうです。
ま、よくありがちなことですね。
当初、学校は生徒同士のけんかと判断したのですが、
被害生徒側が意義を申し立て、県教委の第三者委は「いじめに当たる」と認定。
一方、加害生徒側の代理人は
「被害生徒に悪口を言われたことが原因で、被害生徒によるいじめもあったと認めるべきだ」と反発。
で、第三者委が調査報告書を公表。
被害者の男子生徒はその前から、1学年上の加害者の男子生徒の悪口を友人らに話していた。
これに腹を立てていた加害生徒はが、生徒玄関から出た被害生徒に足をかけて転倒させた、と言う経過です。

学校は当初、被害生徒と加害生徒の関係を「いじめ」でなく「けんか」の状態だったと判断しました。
その後、被害生徒の母親からの申し立てを受けて再調査。
国の指針の改正で「けんか」であってもいじめに該当するケースが加えられたことから、
学校側は昨年1月に「いじめに当たる」と判断を覆した、ということです。

 

ま、言っちゃあなんですが、けんかといじめの違いがよく分からないのですが、
加害側はけんかと言う認識、被害側はいじめと言う認識。
その違いで何がどう変わるんでしょうね。


申し訳ないけど、この出来事、国も含めてですが、
物の本質をきちんとは把握していない。
だから、指針の改定についても、その得るべき成果、当然ですが、いじめとか喧嘩を減少させること、
を明瞭に目標化していないんでしょうね。

けんかがいじめになったからと言って、この二人が和解したとかはないようですし、
これに影響を受けて、その学校、またはその地域でいじめが激減したとかの成果もないようです。

 

もっと、人間関係を素朴に見る必要があるんじゃないでしょうか。
けんか両成敗に見るその精神をしっかりと認識すべきですね。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人間の存在意義

昔、正確には、私が30代のころだったと思うので、
かれこれ40年ほど前のこと。
いや余りに昔のことなので、記憶も断片的なのですが、
さる企業の製品に欠陥があって、使用した人が、大怪我をするという問題が発生したんです。
なんていう企業かどんな製品だったのかは忘れました。
で、この時、通産大臣が記者会見を開き、
この企業の姿勢を叱ったんです。
その時の言葉。
「そもそも、企業と言うのは、人の幸せのために存在するのであって、
理由が何であれ、人の不幸につながるということは、
存在意義そのものが問題となる」と。
どちらかと言うと、政治家の先生方は、基本、大企業の味方ですよね。
それが、この問題では、ズバッと斬って捨てたのです。
私は、この時の「人の幸せのために存在する」という言葉を深く受け止めました。

 

さて、そう考えると、何も企業だけでなく、様々な人間社会を構成する要素の一つ一つは、
人の幸せのために存在する、と言うことが大原則だと思うのです。
まずは政治がそうでしょ。
人の幸せ、つまり、国民の幸せのための政治でなくてはいけないですよね。
このまちの自治体なら、市民の幸せのための地方行政でなくてはならないはずです。
警察だって、単に市民生活の安全安心とか言いますが、
基本概念としては、市民の幸せのための警察行政でなくてはいけないはずです。

 

この、幸せのためのと言うニュアンスは、そこに人間としての温かな思い、
愛に根ざした思い、と言った要素が、たっぷりと含まれているということです。
人間社会にあって、一方は働きかける側、一方はそれを享受する側、
と言う関係がさまざまな場面で、様々な形態として発生します。

しかし、多くの社会的活動は、おうおうにして、やらねばならぬものとしてとらえ、
そこには、人としての潤いが欠落する場合が多いように思うのです。

 

最近しばしば露呈する児童の虐待死などがそのいい例です。
事が公になって、いろいろ経緯が見えてくると、驚くほど共通したプロセスが存在します。
それは、児童相談所やら、警察やらの不十分な対応です。
時に、取り上げるべき程度ではなかった、と判断し、

相談や通報を無駄なものにしてしまうということです。
冷静に考えてみましょう。
こういうことはすべて人が判断するのです。
誰がそう判断し、どのように周囲がそれを受け入れたのか、ということが
もう少し明確になるべきです。

 

児童相談所のだれがそう判断したのか。
警察のだれがそのような処置で済ませたのか。
ここは明らかにすべきでしょ。

 

総じて、日本の行政機構の中で、ミスや不祥事などに対して、
個人的な責任の在り方、つまり、選択をした人間の責任をあまり追求しないでしょ。

先日テレビで見たさる冤罪事件の密着レポートですが、冤罪を晴らした親族が、

その時の警察、検察の担当者は個人的にでも謝罪すべきだ、と言ってました。

私も、間違えた仕事をしたんですから、相応の対応をすべきだと思います。

 

ですから、責任あるべき人の資質として、「私は市民の幸せのために現在の職を全うする」
という思いを持っていれば、ミスは著しく減るはずなんです。
まあ、一言で言えば、これらの人に愛が欠落している。
どこか逃げ腰だったり、自己保存に走ったり、面倒に思ったりしている。

 

それぞれに職務規定と言うのがあると思うんです。
これは、その役職において、何をどうすべきか、と言う、なすべきことを文章化したものです。
で、多くの人が勘違いをしているんですが、
職務規定とは、なすべきことではなく、なさねばならぬことであって、
例えば、5レベルのことをせよ、と規定してあったとします。
これは、5までをやればいい、ということではない。
5以上をせよと言う事なんですね。
職務規定で示されたあるボーダーは、そこまで到達せよ、と言うことではなく、
それを最低限のものとせよ、ということだと理解すべきなんです。
このボーダーをゴールと考え仕事をするのと、新たなスタートして受け止めるのとでは、
仕事の質と量に雲泥の差が生まれてくるのです。
こう言うと、時間がないとか、体力的にきつい、とか泣き言を言うものがいますが、
そこに愛の溢れる判断をすることが、どうして大変なんでしょうか。

 

どうもいまだにこの国は、事なかれ主義とセクショナリズムに侵されているようです。
児童相談所と警察の関係もそうです。
イージスアショアの地元説明会でのやり取りもそうです。
誰かのある意志を受けて、嘘のデータで地元の適性をレポートした。
これは絶対に作為があるでしょ。
うっかり何てことはありえない。
つまりばれちゃったと言うところです。
担当者は、なんとしても誰かの意志を正当化しなくてはいけない。
でも、あの中の責任者であれ、レポートを作成した担当者であれ、
愛があれば、防げた話でしょ。
地元の人の幸せを考えたら、別な考えを提案したわけでしょ。

金融庁の例の2000万円自助的準備に関することもそうです。
あの文書を作成のデータを練り上げたのは、
学者先生方と、金融専門家だそうです。
なるほど、運用による資金の用意をすべきなんて、
我が利のためのレポートですよね。
そこに、国民の幸せのため、なんて感情はかけらもない。

驚いたのは、麻生担当大臣です。
あのレポートは冒頭部分しか読んでいない、と言うんですね。
「全文を読んだわけではない」と国会での答弁。
先ずこの国の最高責任者の一人として、
国民の幸せを願ってるとは思えないでしょ。

 

もう一度私達は、私たち自身も、それぞれの立場で、
私は人の幸せのために存在しているか、と言う自問自答をすべきだと思います。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 07:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
年寄りの話題

昨日も書きましたが、今、もっぱら七夕づくりに没頭しています。
で、今年計画した二つの作品は、その難易度から見て、
飲食店有志による豪華飾りについては、かなり手間がかかると想定しました。
かといって、そう簡単に第三者が手出しできるものではないんですね。
ですから、ほぼ、ややこしい部分は自分でやるしかない。


そこで、スケジュールを組んだんですが、
これは従来のものと徹底的に違うんです。

昔は、一度作業場に入ると、ほぼ8時間ぶっ通しで作業をしてしまいます。
場所は、谷地工務店の下小屋と言われるところ。
その一部をお借りして、ときに大工さんたちの作業と並行して進めるのです。
8時間と言っても、時に休憩も取らずにです。


こんなことをしてきたのですが、それなりに体がきつくなるんですね。
で、改めて、大工さんたちの仕事ぶりを見ていると、
朝、8時仕事開始。
10時になると30分の休憩に入ります。
そして12時になるとお昼休み。
食事をしたり、ごろっと寝転んだり、要は休憩時間です。
1時になると仕事再開。
で、3時になると休憩30分。
仕事じまいは午後5時。
この時間進行はかなり厳密に守っていますね。


つまり、2時間仕事、30分休憩、1時間半仕事。
昼に、1時間休憩、2時間仕事、30分休憩、1時間半仕事、となっているわけです。
で、ある時このリズムは、きっと彼らが疲れを残さず、

いい仕事をするうえで望ましいパターンなのだろうと推察しました。
そこで、8時間無休憩と言う仕事がきつく感じられるようになったのもあって、

私もそれに従ってやってみることにしました。

要は、二時間以上ぶっ通しで仕事をしない、ということです。
すると、作業能率も上がり、疲れも残らないのですね。


さて、この年になって改めて力仕事をするわけですから、
間違っても8時間ぶっ通しと言うわけにはいきません。
そこで、一日3時間仕事したらそれで終わり、ということにしたスケジュールにしたのです。
と言うことは、かなり前倒しで期間を設定しなくてはいけません。
つまりゴールは七夕祭りですから、今年の場合7月5日から。
この5日までは、制作過程で何があるか分かりませんので、1日から4日まではすべて予備日。
つまり、6月中に完成ということになります。

 

まあ、いくら大作とは言え、今までの経験で、一か月あれば何とかなったのですから、
年取って、一日の成果が昔の半分になったとしても、
時間を掛ければ何とかなる、と言うのが読みでした。

まあその意味では、ほぼ予定通りになっています。
で、準特選狙いの大作はほぼめどがついたので、
紅谷町自治会の飾りの製作に切り替えたのです。
この飾りは、大作と異なり、みんなでつくることがテーマなんです。
で、その担い手は、子ども会とシニア会。
ここ数年、このパターンで進めてきていますから、両会とも、話は通じやすくなっています。
で、シニアは午前中がいいという。
子供会は、学校が終わってから、4時過ぎがいいという。
そこで、仕事の内容を分けシニア用のものと、子ども会用のものと分けたんです。
まずはシニア会で先行して準備に入り、
それによって子供会が参加するという予定です。
この6月6日からシニアの作業が始まりました。
なんだかんだととっかえひっかえ、10名ぐらいの人が参加してくれて、
半分ほどの時間で目標達成。
まあ、少しは慣れてきたんでしょうね。

ああだこうだと世間話をしながら、
一回2時間程度の作業をしてもらったのです。


で、初日のことです。
この日は6人ほどの参加。
作業がはじまって、最初のうちは若干の戸惑いもあるのですが、
花を折るとかの作業ですから、単純なことこの上ない。
したがって、10数分もすると、手よりも口が動き始めます。
まあ、こんな雰囲気ってあまりないことなので、思いのほか話が弾むんです。
想像はしていましたが、話のテーマは病気について。


それぞれみんな何かしら病気を持っていたり、大病で入院したり、
病気に関しては共通する話題が多いですね。
みんなが共通して知っていた病院の院長さんの話とか、
あそこの病院は看護婦が愛想ない、とか、血圧の話とか、まあ話は尽きない。

で、翌日再度集まって作業をしたのですが、
はじまる時に、そういえば昨日は病気の話ばっかりでしたね、と私が言ったら、
だってそれ以外の話題はないだろ、と。
で二日目も、要は病気の話が口開けになったのですが、

実は話題はほかにもあったのです。
話は少しづつ変わってゆき、
結局、死についての話になりました。
葬式をどうするとか、火葬場は日曜休みらしい、とか。
病気の話が終わったら、死の話ですから、
明日は何になるんだろうか、と興味津々です。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 12:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
2000万円ですと

いや驚くほど無責任なレポートを公表したもんです。
その無責任ぶりに、これは何かの間違いじゃないか、と思ったくらいです。
例の老後2000万円の話です。


この金融庁のレポートを読んでみて、
単純な驚きは、子どもでも引っかかるような論旨を展開しています。
で、冷静に受け止めてみれば、世間から避難ごうごうになるのは、
普通の大人なら分かるでしょ。
つまり、文書発表すると、どのような反応があるのか、と言うことは想定するでしょ。
特に、反論的な意見については、当然事前にこのように対処するとか、
そもそもが反論が起きないように文章を添削するとかするもんでしょ。
このブログのように個人の見解を書くというのとは大違いですものね。


ですから金融庁のお役人って、結構呑気者が揃っているという事でしょ。
少なくとも、2000万円を持ち出してきたことそのものが、

かなり無頓着な神経と言わざるを得ないでしょ。
ですから、早々に麻生担当大臣が、例によって、つまらない言い訳をする羽目になってしまった。
大臣はこう言いました。
あれは老後に2000万円赤字になるという話じゃなくて、
豊かな老後のために2000万円必要だ、と言うべきだったんです、だと。
まあ説明が不十分だった、とあるし種の訂正をしたわけです。
いや、ですから、金融庁の人間は、不十分じゃないのか、と言う事前のチェックすらできない程度の頭、
と言う事なんですかね。


しかもですよ、豊かな老後ですって。
いやいやこの論旨冷静に考えると、2000万円用意しておかないと、
豊かな老後は送れない、と言う事でしょ。
つまり、問題は、豊かな老後とはどういう状態なのか、と言う事でしょ。つまり、食うは食えるだろうが、
2000万円無ければ、しょぼしょぼした生活をする羽目になるぞ、ということですかね。
ま、ともかく驚くほどずさんなレポートです。


60過ぎの完全リタイアーした老夫婦が、現状の生活をするには、
年金などを中心に収入を算出、されど、支出は支出で出てゆくんで、
月に5万5千円ずつ不足する、ということが事の発端です。
年に66万円不足、30年で2000万円という事のようです。
で、先ずはこの算出が大雑把すぎるでしょ。
第一に、毎年家計の収支構成比が、同じわけない。
何より、今後30年間、年金が目減りすることなく支払われる、
と言うことの保証はないでしょ。
収入が減れば、5万5千円はもっと大きくなるでしょ。
ししゅつは減るでしょうね。
年を取ればとるほど、物が必要なくなるからです。
若いころより、量目としては、食べれなくなりましたしね。
人付き合いも、先細りになってくる。
このような収支の変化をもう少し組み込むべきでしょ。
単純に30年を掛け算して、2000万円足りなそうだ、なんて、人を脅すにもいい加減にしろ、と言いたいですね。
何より、30年ってどこから出てきた数字なんでしょうか。
ちなみに、平成30年の60歳女性の余命は、29年。
まあほぼ30年ですね。
で、65歳男の余命は20歳。
30年なんか生きれねえじゃないか。
どうして、死んでしまった10年の期間を数字に対応できないんだろうね。
いや、屁理屈と思われるかもしれませんが、
少なくとも日本国の中央政府が公表するんですから、
ある程度の説得力が必要でしょ。
ですからこういうことは、必ずキチンとデータとして反映させるべきなんです。
まあ、国民はばかだからそんなきめの細かいデータでの推計をしたって、
混乱するだけだ、と軽く見られたんですね。

 

で、先ずは前提として、年金だけではだめなのか、と言うことでしょ。
つまり、年金は、どう計算しても、現状維持ができないんです、
ですから、そうは露骨に年金だけでは心細いですよ、なんて言えないので、
あれこれ、今から準備しておいた方がいい、とかの煙幕を張ったわけです。

でどうしたらいいのか、については、
3つの期間に分けましたが、
そのうちの一つは、要は、分散型の投資をしろ、と言うんですね。
国が、リスクを伴う投資話を持ちかけますか。
これはやばいでしょ。

ともかく、私たちの老後を心配してくれるのはいいのですが、
そんな暇があったら、年金そのものの運用をもっとしっかりとやるべきでしょ。
いずれにしても、大臣も、お役人の面々も、
一般市民の懐具合なんて他人事なんでしょうね。
だってあまりに簡単な話でしょ。
2000万円足りません。
老後のため投資なんか結構じゃないですか、と。


さすが金融庁ですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 20:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
高齢者講習は二度受けました

テレビを、朝つけて、またか!!!と思わず言ってしまいました。
きっと皆さんもそう思ったでしょ。
高齢者の交通事故です。

 

で、最近の高齢者事故については、さんざん交通事故等の専門家が分析しましたので
今更なんですが、どうも要因は2種類。


急激に起きる体調の変調、よく言うてんかんなど、発作を伴うもの。
中には、脳こうそくとか、血管系の変調が発生する場合もあるようですね。
つまり肉体的な不適格状況。
続いて、精神的、というか脳の劣化などで起きる二次的変調。
単純すぎる勘違いと、起きた状況の判断力、およびその対応の遅さ。
いわゆるペダルの踏み間違いとか。

これらの要因は歴然と、年齢が高くなればなるほど、発生確率は高まります。
で、どうする、と言うところでしょ。


やさしい対応としては、免許証の自主返還を促す。
返還しないのは、年寄りの意地だ、と言われますが、
今年から後期高齢者の仲間に入った私としては、
意地よりも何よりも、そういう衰えの自覚がない、と言うことではないかと思うんです。
いや、衰えてない、という思いがあるんですね。


でも、実際、私は高齢者講習を二度も受けましたが、
はっきり言って、いくつか要求されているうちのどこかの能力が、

劣化しているということを自覚しました。
視界、視野の広さなどは変化なしでしたが、
俊敏性と言うか、即座の反応は遅くなっていました。
自分でも、まさかと思うほど鈍くなっているんですね。

とは言え、だからと言って免許証を取り上げられることは無かったのです


ですから、この高齢者講習の在り方をもう少しうまく改善する必要があると思うんです。
先ずその原則から見直すべきだ、と。
基本、この講習の先生方は、なるべくOKを出そうということが前提で指導しています。
そこは、逆転して、もう少し厳しい基準に改める。


おそらく今の講習では、受講者の99%がOKなはずです。
これがせめて、3分の1はふるい落とされるぐらいの厳しさが必要だと思います。
逆に考えれば、そこまでの狭き門にするために、どの点でのチェックポイントを厳しくするのか、
という観点で、講習内容とその評価を決めてもいいのじゃないでしょうか。


この時、先ず、厳しい基準でも講習を実施し、様々なシミュレーションを行い、
その評価点を付ける。
その評価点により、三つの段階に分かれる。
一つは合格、つまり今後の運転してよろしい、と言う評価。
二つ目は、改めて、試験を受けるという段階。
これは、実技と法令と二種類の試験を受ける。
現行の道交法は、その人が免許を取得した時と若干の異なる法令に変化している可能性があるからです。
どなたもそうでしょうが、普通の免許証の書き換えを重ねてゆくと、
違反でもして講習を受けさせられる場合はともかく、
普通は、法令についてどの程度理解しているかなどのチェックは受けたことがないでしょ。

 

私は、以前もブログに書きましたが、
右折左折は、運転席から腕を出してその意思を表す、と言う時代でした。
今時こんな法令はないでしょ。
何か危険を感じたら、周囲に警笛を鳴らして知らせる、と言う事でしたから、
やたらクラクションを鳴らしました。
それが正義だったんです。
でも、方向指示も、警笛も、すっかり法的に変更したでしょ。
その変更は、知ってるはずだで免許証の更新をしてきたわけです。
返納時期になった時点で改めて、法規のテストをしてもいいんじゃないか、と。
たぶん、年とったから、暗記なんかできないし、今までだって運転してきたんだから、
別にそんなチェックをしなくてもいいだろう、とか、
色々反論が出そうですが、だからこそ、試験が必要なんですね。
今時の流れの理解ができないということが問題なんです、と。

 

で、どうやっても不合格になり、免許証の再交付が得られないとなったら、
それはそういう状況なんですから、もうあきらめるべきでしょ。
脳梗塞でも起こして、体が不自由になったと思えば、そういうこととさして変わらないでしょ。

ま、もしそうなっても、ただ一つだけ救われる手段を用意しましょう。

 

一つは、やはり車の運転資格が必要だ、という具体的な申請を文書でする事。
そして、限定車のみ運転できる、と言う許可をもらうんです。
限定車とは、どう頑張っても時速3〜40キロしか出ない、低速車です。
当然高速なんか乗れませんが、
生活上困る、とか御託を並べる輩には、
だったら、スピードが出ませんが、低速車なら運転許可を出しましょう、と言うんですね。
まあこの低速車、メーカーに開発してもらって、通称シルバーカーとか言って、
座席は、いいとこ3人まで、
車幅も狭く小回りが利くんで、いわばコミュニティカーとしての活用をしてもらう。
後ろの荷台には、ちょっとした農機具ぐらい積める。
デザインとしては、いささかださくなりますが、ともかく足代わりなんですから贅沢は言わない。
と言うことにしたら、かなり事故は減るんじゃないですか。

ともかく、具体的な解決方法を、速やかに着手すべきでしょうね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 13:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
健康記念日

今から7年前の6月6日、
おそらく私にとって、死ぬまで忘れないであろう心に留め置く日となりました。

病気からUターンし、健康の日々を迎えることができるようになった記念日なんです。

 

それは、重症筋無力症が発生して、その治療の中で大きな山である胸腺摘出手術をした日です。

そもそもは、2012年の3月ごろから体調が妙に崩れ始めたのです。
最初の症状は複視と言って、物が二重に見えるようになったんですね。
ともかく、画像が一つにならないんです。
で、眼科医に行って診てもらったんですが、
あれこれ調べて結論はドライアイじゃないか、と。
そうこうするうち、妙に筋肉に力が入らなくなってきたんです。
特徴として現れたのは、首の筋肉でした。
普段と言うか、普通は肩の上に首がありますが、
首に力を入れているなんて意識はないでしょ。
体を起こせば普通に首は垂直に肩についています。
しかしこれも実は筋肉がそうしているんで、もし、首の筋肉が弱体化すれば、
頭の重さに耐えかねて、頭は、肩から真下に向いてしまうんですね。
まあ、うなだれている、という感じでしょうか。
いやただのうなだれるではなく、背骨と頭が直角になってしまうんですね。
これは頑張れば、しばらくの間は垂直になりますが、
とてもその状態が続かない。
で、首に力が入らないと、基本起きて行動しているときは、下を向いたままなんです。
次にジワリと来た症状が、咀嚼の力が弱くなったことです。
極端な話、普通の食事をするのに、途中、3回か4回休まないと、
顎が疲れて嚙めなくなるんです。
正に休み休み一食を食べる、という感じです。

 

これらの症状が、あれこれ出てくれば、こりゃまずい、となるでしょ。
で、医者に行って診断してもらったら、重症筋無力症だと宣言されたのです。
と言うか、その可能性が高い、と。
で、とりあえずレントゲンと血液検査をしなさい、ということで、
その検査のために窓口に並んで順番待ちをしたんですが、
このまち時間の間、頭の中では、まずいことになった、と。
重症筋無力症と言うのが、どんな症状になって、生命の危険性はどのぐらいか、
なんて何も知らないわけです。
漠然とその病名から、これは尋常な病気ではない、ということと、
素人ながら、最悪死ぬんだ、と思ったんですね。
まあ、こういう場合、最悪の状況さえ受け入れておけば
それ以下はないのだから、あとは、それ以上を想定すればいいことでしょ。
まずはボーダーラインを心にとめたわけです。
で結論を言うと、5年で死ぬかもしれない、と。

言い換えれば5年は生きるだろうと、適当な基準を想定したわけです。
ここは、素人が勝手な算段をしたのですが、
真っ暗闇の中の手探り状態ですから、最悪の想定を前提にしたんですね。

とは言え、5年で死ぬ、と言う感覚より、5年は生きられる、と言う捉え方だったですね。

そうか、あと5年は生きていられるんだ、と。

 

で、その後、家に帰ってから、ネットなど、それは様々な情報を集めた結果、
最近は、この病気で死ぬということはほとんどない、ということが分かりました。
とは言え、厚生労働省指定の特定疾患、つまり難病である事には変わりがないんです。

そこで、医師の治療計画が立てられ、検査入院が一週間ほどあって、
その中で、まずは胸腺切除と言う外科手術が行われることになったのです。
そもそもこの病気は、なぜか(ここがいまだにわからないのですが)自己免疫疾患の一つです。
人間の体の健康を維持するために様々な免疫システムがあるのですが、
体の中をくまなく、防衛隊が外敵を排除しようとパトロールしているわけです。
ところが、この隊員の一部が間違えた情報をうのみにしてしまい、
健全に働くためのアセチルコリン受容体の活動を、外敵だと思い込んでしまうんですね。
この間違いがかなりの隊員に浸透すると、筋肉活動の指令を伝えるアセチルコリンの受容体を攻撃してしまう。
そこで、筋肉活動がまともに出来なくなって、最終的には、無力症になってしまう、というわけです。

で、肺と胸膜の上に胸腺と言う臓器があって、これが、防衛隊の本陣なんですね。
胸腺から、防衛隊員を養成して送り出す。
ところがここに間違えた情報で動く連中が出現したものですから、
この防衛隊の本陣を破壊してしまおう、というわけです。

少し乱暴な手段なんですが、この胸腺を取ってしまえば、
少なくとも今までの様な勘違い隊員は激減するはずだ、ということで、
胸腺切除と言う手術が行われるわけです。

まあ、それまでに予備的な治療があって、いよいよ本戦である胸腺切除の手術が
7年前の6月6日に行われたのです。

決して大げさでなく、このような治療をしていなければ、
素人の読みではありますが、5年であの世に行っていたかもしれません。
でもおかげさまで、7年過ぎても生きながらえていると言うことは、
正に医療と言う健康確保の手段の優れた進歩のおかげですね。

 

この手術が終わって、1週間後に退院したのですが、
その時担当医が、私のベッドのところにやってきて、いくつかの注意をするとともに、

この病気であなたが死ぬことはありません、と宣言されました。

 

ほんと、おかげさまで、先ずは元気に手術7年目を迎えることができました。
ご迷惑かもしれませんが、あと、11年ほどこの世にとどまる予定ですので、
今後ともよろしくお付き合いのほど、お願い致します。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 16:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
いやな渡世だな

勝演ずる座頭市が、ひと暴れした後、画面いっぱいのアップになって、
「いやな渡世だな」とつぶやく。

確かに、いやな渡世、今様に言えば、暮らしにくい世の中、とでも言うのでしょうか。


いつものように、ネットの検索をあれこれしていると、
トピックスの羅列を見ながら、
暗い話題ばかり。


相変わらず高齢者の無謀運転による交通事故。
川崎の事件の余波を受けたように発生した元事務次官の事件。
日韓のぎくしゃくした状況の記事。
地球の温暖化は止められない、という記事。
中国の天安門に関する日本人としての主張。
あほな国会議員の戦争発言に続く女買いたい発言。
芸能人の世相批判への批判。
自己保存の極みのような政治家たちの体質。
何も機能しないであろう南海トラフ地震への対策。
高齢化の中での経済的な老後不安、2000万円用意しろ、と。

なんか明るいニュースはありますか。
どれもこれも、気が沈むようなことばっかり。
座頭市でなくても
「いやな渡世だな」と言いたくなりますでしょ。


で、この間の川崎小学生殺傷事件の事を知った時に、
改めて感じたのですが、
どうも人間には、二種類の人間がいるらしい。
一つは「性善」的な人。
もう一つは「性悪」的な人。


特に、世の中で、ミスも含めて、事を起こす人は、
原則的に性悪なのではないか、という仮説を立ててみたのです。
性悪と言っても、右から左までいて、

小悪党から、大悪党まで。
面構えとしては柔和なんですが、心の奥では冷徹な悪を抱え込んでいる。
普段は普通の人なんですが、いざとなると、冷血動物のような行動をとる。
自己示威欲が強く、物欲が激しい。
最後の最後はそろばん勘定で事を選択する。
物事を否定的に考える。
人を平気で中傷する。
何かと、人のせい世の中のせいにする。

まあ、協調性とか社会性は望むべくもない。
しかし、結構こういう人で、政治家だったり、企業家だったりするでしょ。
ようは、いわゆる世に於けるリーダー的な人ですね。

でも、性悪の人はいるものです。


もちろん、チンピラ的な人生を送る人もいます。
いわゆる小悪党ですね。

ま、いずれにしても、どのように時代が進もうと、
これらのタイプに人は、一定比率で世の中に存在するんじゃないのだろうか、
と考えるんです。


日本に限らず、世界の国々のさまざまな歴史を見てみると、
年がら年中もめごとの中で暮らしているでしょ。
いささかうんざりしますよね。
ま、戦争という最も激しい憎悪は、少なくても日本ではここ70数年間経験していませんが、
大病こそしなかったものの、頭痛、腹痛、倦怠感など、
微妙な体調不安は絶えず持っていましたよね。

すっきりさっぱりなんて、雲一つない晴天なんてしばらく見たことがありません。

と言うのも、性悪のDNAを持ちこんでいる人がいる限り、
トラブルは世の中から消えないんですね。


これはDNAとして持っているようですから、
あきらめるしかないのでしょうか。

しばしば人間は、法と教育で性悪なるものを性善なるものに
変えることはできる、と言う幻想を持ってしまいます。
でもDNAですからね。
もともと鈍足に人をいくらトレーニングしたって、
100メートル10秒を切らせることは不可能でしょ。
そういう肉体なんですから。

 

考えや行動も肉体なんですから。

性悪から、性善への切り替えなんて、奇跡でも起きない限り、ありえない。

やはり「いやな渡世だな」なんですかね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 19:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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