水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
まっくろけ節

以前流行った、北島三郎さんが歌ったCMソングで、
三菱ボールペンのシリーズのCMが、たびたびテレビで流されました。
「ボールペン、三菱マークのボールペン
軽く書いても真っ黒けのけ〜
これでも30円、真っ黒けのけ、あぁまっくろけのけ」
という歌詞です。
元歌はまっくろけ節。
大正時代に流行った歌だそうで、
軽妙なリズムがCM向きだったんでしょうか。
うっすらと元歌を覚えていたこととか、
何度も繰り返されて放映されたこととか、
まあ、いずれにしても、しっかりと脳裏に焼き付いたCMでした。

 

で、あらためて思うのは、このCMは1970年を前後して流されたので、
その当時、ボールペンが一本30円とは、これはびっくりだったわけです。
まずは、物価指数で比較してみます。
このCMが放映されていたころ1970年の物価指数を1とすると、
2017年の指数は2,92、およそ3倍です。
つまり、今の価値にして、その頃の30円は、90円という事になります。
大学初任給で言うと、1970年は、およそ4万円。
今は20万円ですから、
大卒のサラリーマンが、給料全部で、三菱ボールペンを買うと、
1333本買えます。
今の物価指数をスライドして、一本90円のボールペンを買うと、
給料全部で、2222本買えます。
物価指数と初任給はきっちり連動しているわけではないのですが、
ま、いずれにしても、一本30円が、安かったのか、高かったのか。
それぞれの時代のなかでの評価でしょうね。

 

私はボールペンを異常に好むタイプなんです。
よく、どこかでなんかの登録をしたりすると、
おまけ風に、ボールペンをもらえることがあります。
もう、それは大喜びなんですね。
確か、免許証の書き換えかなんかで、ボールペンか、免許証ケースか、どちらかの選択、

とかいうことになると、迷うことなくボールペンです。

 

ボールペンは、1940年代に発明され、日本に入ってきたのは、戦後。
当初は、なかなかしゃれた筆記具で、
鉛筆ではダサいし、万年筆では面倒だし、というところの中間で、
大いに人気が出たものです。
私の引き出しには、金色をした捻じ曲げて芯を出すタイプの高級ボールペンがいくつかあります。
それこそ、一本一本が、厳かなケースに入っていて、
ケースをあけると、燦然と光り輝いていました。
ただ、いくら高級品と言えど、書き味としては、プラスチック軸の安物と、そうは変わりなく、
時にインクが出なくなると、そのままお蔵入り。
とは言え捨てがたく、字を書くことのできないペンが、引き出しには何本か入っています。
ボールペンの最大の欠点は、何かの拍子に書けなくなることです。
少なくとも鉛筆は、芯が見える限り書けるでしょ。
でもボールペンは書いてみないと分からない。

で、諦めきれず、紙の上で、円をぐるぐる描きながら、インクが出てくることを期待するのですが、
まず、ただ紙が書き跡のように傷むだけ。
その昔は、ライターなんかでペン先をあたたけると、インクが出てくることがありました。
でも書けないと、あたかも体温計の水銀柱を落とすように、
手で握って、強く振ったりしますが、これもなかなか効果が出ない。
確か、ひもでくくって、そのひもをねじって、思い切りよく引くと
その中心でペンがぐるぐると回り、インクが出ることがある、

と何かに書いてありましたが、試したことはありません。
ですから、ボールペンは、インクが残っていても何時か書けなくなる、
という大前提があるので、どうしてもたくさん持つようになるんですね。
たくさんあるせいか、何本持っていて、不思議といつもボールを探すことが多く、
いざという時に見つからない、という不便さに対抗するため、またさらにペンを買うんです。
すると、あまり使わないものが出てきて、
時間の経過があると、これまた書きづらくなる、という悪循環を繰り返しています。
そしたら、最近のボールペンで、インクがいろいろと開発されていて、
スムーズに出てくるタイプのものがあって、これが書きやすい。
それこそ、軽く書いても真っ黒けのけ、なんですね。
確かサラサという商品名だったと思います。

 

で、先日、ある商品が欲しくて梅屋の4階の100均に行ったんです。
するとお目当ての商品が一個だけしかなく、
在庫はないのか、と係りの人に聞いたら、
系列のよその店に問い合わせて、確認するというんですね。
まあとても丁寧に対応してくれたんですが、かなり時間がかかったんです。
で、待ち時間の間、レジの近くの商品棚を除いていたら、
ボールペンがずらりと並んでいるんですね。
正にいろいろなタイプがあるんです。
タイプとともに、本数なんかもいろいろで、
ほぼ、2本一組みたいな単位になっているんですね。
で、その中で、8本一組というのを見つけました。
黒6本の赤2本です。
え、これで100円!と思わず興奮して、買うことにしたんです。
消費税込で、一本13円50銭です。
1970年今から物価指数3分の1の時代に、30円でびっくりしたわけでしょ。
もしあの時代に、このボールペンを売ることができたら、
13円50銭の3分の1ですから、4円50銭になります。

 

で、改めてCMを作り直せば、
「ボールペン、三菱マークのボールペン
軽く書いても真っ黒けのけ〜
これでも4円50銭、真っ黒けのけ、あぁまっくろけのけ」
となります。

ま、これでは三菱鉛筆は、黒字はおろか、
大赤字になってしまいますね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
おねえちゃんあちきと遊ばない

財務省高官のセクハラが問題になっています。
私はやってない、と強硬に反論しつつ、辞職ですから、
まあ、これは半分認めていることと世間は取りますでしょ。
でも、テレビで流されたあの録音を聴く限り、
アルコールでも入って、目の前に好みの女性がいたら、

口にしてしまうかもしれない、とか思いますね。

いや、あそこまで露骨でなくても、近いことは言う可能性があるでしょ。


そもそもセクハラが、世間で言われるようになったのは1980年代なってから。
私たちの青春時代には全くなかった概念です。
言い換えれば、そういう行為は普通にあったのに、
女性がじっと我慢していた、という事なんですね。
ま、日本では、1989年に、流行語大賞になったあたりが、
世の中に改めてデビューした年だったわけです。
正に、新しい概念ですね。


とは言え、なかなかまとめきれないのが、この問題。
一言で言えば、性的嫌がらせ、という事なんですが、
一番ややこしいのは、それも状況次第、という事なんですね。
何より、男女、女男、男男に至るまで、ありとあらゆる性的(男女)な組み合わせが、
対象になっています。
基本は、性的な接触、言葉、が対象で、
それらで不快感を感じたり精神的なダメージを与えられたりすると
セクハラのの事案になります。
つまり、ある言動があっても、相手次第なわけです。
ですから、まさに受け止めた側の感情が優先するので、
これは、ある意味、かなり手前で引いておかないと、虎の尾を踏むことになるかもしれません。
関連の法的な解説をあれこれ調べても、
明確な線は、どこにあるのかなかなか理解しがたいくらい、あいまいなものです。


一番中心的に取り上げられているのは、男女機会均等法によるもので、
法文などの解釈では、職場が中心になっています。

これは囲い込まれた状況で、逃げ場のないところとしては、

どうしても職場、と言うことがその大きな対象になるんですね。
均等法11条に「性的な言動」と言う解釈部分があって、
性的な内容の発言、
つまり、性的な事実関係を尋ねること、
性的な内容の情報を意図的に流布すること等などと、
性的な行動、つまり、性的な関係を強要すること、
必要なく体に触ること、
わいせつな図画を配布すること等となっています。
ですから、問題は、そのことが嫌でも避けきれない場合の状況が前提で、
道端で、知り合いの女の子に、食事でもしましょうか、などと言ったら、
それはセクハラなのか、という事が極めてあいまいなのです。


まあ、原則は、セックスのイメージが裏にあるという事でしょうか。
いわゆる、下心を感じられ、それが、相手が嫌だと思えば、
それを感じた言葉自体がセクハラになるという事です。
いや、こうなると、特に男は積極性が特性ですから、
対女性関係では、相当に注意しないといけない、という事になるでしょ。
基本的に、目には見えませんが、下心というのは、
もう本能的に男が持っているもので、それが表面化するか、隠しおおせるのか、
そこが境目です。


ジョージ秋山さんが描いた浮浪雲という漫画があります。
1973年からなんと44年間も連載されました。
私はこの作品の大ファンでした。
この中に登場する主人公は品川宿の問屋の主人で、雲というんですが、
ともかくひょうひょうとしていて、とらえどころがない。
かめという名の女房がいて、新之助とお花という子供もいる、いわば所帯持ち。
ところが、女と見れば口説きまくる。
老若美醜に関係なく、何かというと、おねえちゃんあちきと遊ばない、
と声を掛けるんですね。
で、不思議なことに、声を掛けられた女性は、皆うれしそうなんです。


わたしは、この主人公の浮浪雲を、セクハラという言葉が出るたびに思い出します。
雲だったら、セクハラなんてトラブルは起きないはずだ、と。
セクハラって、確かに受け止める方の感情が優先するのでしょうが、
下心満々で、しかもえげつない品性の持ち主の場合、
受け止めるほうがそれを感じてしまうわけでしょ。
ま、一言で言えば、相手次第じゃないですか。


ざっくばらんな表現をすれば、
思っているほど持てないやつが、もてたい一心での出来事なんです。
ま、特に、財務省高官のことはそうでしょうね。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 07:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
記憶力と情緒

これは、ある著名な教育者の方から聞いた話です。
その先生は優秀な学生を多く育て、
その後の人生にも、親しく付き合ってきました。
したがって、学生時代に身に付けた能力と、
その後の生き様の因果関係をそれなりに見てきたわけです。

この先生が現役の頃はもう、40年も前のことですから、
その当時の脳科学などは、まだまだ未熟な段階でした。
右脳の役目とか、左脳の役目とか、今言われるような働きについては、
一般的には、ほとんど知られていないころのことです。
ですから、今の時代なら、もう少し合理的に説明できるのでしょうが、
当時としては、経験談的な漠然とした内容になってしまうのです。


で、そういう状況が前提の話です。

どうも人間の能力に2つの領域があるように思う、と言うのです。
一つは、記憶や理性、知性の領域。
もう一つは、情緒、感情、感性の領域。
で、これが両方並び立って身に付けることはなかなか難しそうだ。
大体どちらかが勝つ。
で、問題は、最終的にはどちらも必要になり、
大人になった時は、そこそこバランスがとれていることが望ましい、というんですね。

 

で、ある生徒のことです。
ともかく記憶力がすごくて、見た瞬間に覚えてしまう。
知識は豊かで、まるで百科事典のように、なんでも細かく記憶しているんだそうです。
で、当然ですが、成績は優秀です。

ちなみに、学校の成績が良い、という事は、テストの結果が重視されるわけですから、
テストの点が取れればいいわけです。
つまり、記憶力が優れていると、いい成績につながるんですね。
いい成績ですから、この人は秀才とか言われるようになるんです。
結果として、東大に現役で入学し、優秀な成績で卒業し、
さる中央省庁に就職します。

で、この人が、女性問題で、トラブルがあって、その結果辞任します。
ちょっとリアルな出来事があるので、それに重ねてこの文を読んでいる方もおいでと思いますが、
これは、それと違い、およそ40年前の話です。
で、多くの学生たちを見ていて、不思議と、ある年代で、
記憶力が衰えてしまうことがあるそうです。
その要因はと言うと、情緒とか感情の分野が広がってくると、
その反対側にある記憶力が低下し始めるんだそうです。
まあ、ざっくばらんな例にすると、
ある優秀な男の子が、同級生の女の子に熱烈な恋をした、と。
と、大体成績は落ちるんだそうです。
これは、集中力とか、勉学に割く時間が減るとか、そんなことではなく、
どうも、情緒、感情が育つと、記憶や知性の領域にマイナスの作用があるんじゃないか、というんですね。
さらにおおざっぱに言えば、もともと持っている容量のうち、
記憶に使われていたエネルギーが、情緒に使われてしまう、という事のようなんです。
いや、これはその先生の分析です。
で、できれば、(というのはやろうと思ってできることではないので)なるべく若いうちに、
記憶から情緒に切り替えたほうが、より人間的な生き方ができる、と。

情緒は、人の痛みや喜びを受け止める、そして、優しさを発する源泉となるものだ、と言うんです。
この切り替えが遅いと、偏ったものの考え方になりがちだそうです。
いわゆる、もののあわれが解せない唐変木になってしまう、という事なんです。

しかし、世間は、その秀才ぶりをあがめるわけでしょ。
そりゃあ、私立の2流3流の大学出よりは、東大出の方を、上に置きますもんね。
ノルディックで、いくらジャンプで稼ごうとクロスカントリーで遅ければ、

大した成績は納められません。
でも、逆に、ジャンプが短くても、クロスカントリーで追いつければそれなりの成績になるわけです。
要は、人生は、記憶力で勝負すべき分野と、情緒で勝負すべき分野があって、
できれば両方とも、と願いますが、そうはいかない、

でもまあ神様はそこはそこで、どちらかの能力は与えてくださる。
しかも、もっとありがたいことに、記憶力型の人間にも、
あるタイミングで、情緒を育む機会を与えてくれるんですね。


悲劇なのは、記憶力型のままで、人生を突っ走ってきた人です。
そこには、人の情を汲む優しさも、本当の愛も欠落しがちなんです。
先生は、その学力優秀で、東大を経て、中央のお役所に勤めながら、
何故か、さる人妻に恋をして、(情緒の切り替えが遅いと盲目になるんだそうです)
トラブルになってしまった顛末を話してくれました。
先生は笑いながら、世間から、ばか、とか言われている方が、
穏やかな人生が送れることが多い、と言ってました。

 

新潟県の知事もきっと、この切り替えが遅かったんでしょうね。
偏見かもしれませんが、東大の医学部卒で、弁護士でしょ。
いわゆる世間では優秀な人間として評価されていたわけでしょ。
でもつまずいた。
きっと、いい年して情緒という花が咲いてしまったんでしょうね。
自分が破滅の道を歩み始めた、と分かっていながら
後戻りをすることができなかった。
私は、感情的にですが、彼の陥ってしまった状況がなんとなく理解できます。
その切々たる部分が引退記者会見でにじみ出ていましたものね。
道徳的にいいのか悪いのか、という話じゃないです。
人として、情緒の世界に踏み込んだその場面とタイミングの悪さに、いささか同情したのです。

一方、それこそ感情的かもしれませんが、
財務省高官のセクハラに関しては、えげつないほどの保身を感じますね。
結局辞任ですが、そこに潔さがない。
今だに優秀な頭脳で、情緒を理解できないまま、言い換えれば人間らしい感性を持ち得ないまま、
人生を送ってきたんだろう、と思ってしまいます。

とても対照的なお二人でしたが、
まあ、これを機会に、穏やかに過ごす人生のありがたさを見出してもらいたいものです。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
イベントの行方

あの阿波踊りが、危機に瀕しているようです。
何とか、手を打ち、この夏の開催はするそうですが、
問題が一挙に解決したわけではないと思ますし、
表面的には、負債を4億円も抱え込んでしまった、という金銭的な問題ではありますが、
ここに焦点を当てるだけでなく、
組織の在り方を含め、今後の対応をしっかりしなくてはいけないと思ます。

 

もし、何らかの理由で、消滅してしまったとしたら、
これは、全国に鳴り響いた徳島を代表するイベントなんですから、
そこで失うものは大きいと思いますし、
徳島の空港は、徳島阿波おどり空港、という名称も危うくなる。
まあ、ちょっと変わっているネーミングですが、
逆に、阿波おどりという名称を付けたという事は、
徳島には他に比べるものが少ない、という事でしょ。
いわば徳島の一枚看板なわけです。
それが開催の危機に瀕しているというのは、
これは地元力が試されるところですね。

 

状況はこのようです。
約4億円の負債を抱えて破産手続きの開始決定が出た市観光協会が、
債務返済のめどがついたので、今夏の阿波おどりの準備を進める、と表明しました。
企業や個人などから約3億3000万円の融資を受け、
協会の資産を合わせると4億8000万円程度が調達できたのだそうです。
ん?という事は、1億5千万円は自己資金という事でしょうか。
としたら、約4億円という負債は、2億5千万円でしょ。
ここのところは詳しい情報がないので、よく分かりませんが、
まあ、なんか事情があるんでしょうね。


で、観光協会は徳島地裁による破産手続き開始の決定を取り下げてくれ、と、
今度は、高松高裁に即時抗告したのだそうです。
何か、内ゲバっぽくないですか。

同じイベントを巡って、破産手続きをするものと、
それをやめるよう抗告するものがいるんです。
よくこのあたりの構図が分かりませんね。
そもそもが、破産手続きをしたのは、徳島市なんです。
市は、協会の損失を補償する契約を結んでいるのですが、
累積が膨らんでゆくことで、見切りを付けたんでしょうね。
で、市としては、面子もありますから、
この一大イベントを、おめおめ中止するわけにはいかない。
ですから、いったん、観光協会の主導を断ち切って、
市主導で開催するとしたわけです。
いくらか構図が見えてきたでしょ。

主導権を観光協会に任せて運営してきたら、
借金が膨らんで、もともとマイナス分は市が補てんする、となっていたので、
これを、観光協会としては、それに甘えて、ダダ流しに、赤字決算を繰り返してきたのだと思います。

さあ、ここまで来ると、観光協会の言い分も、市の言い分も何となく見えてきたでしょ。

 

私的な話になります。
毎年、3月11日を中心に、
東日本大震災の惨禍を忘れないということと、

まちの防災力をつけるために、平塚中心街で、
ひらつな祭という、防災イベントを実施しています。
これが、今まで、20万円台の総予算で運営されてきました。
おそらく、万単位の人出があって、300人規模の実行部隊がいて、
出展コマ数が、60ぐらいで開催されるイベントです。
多分、中心街で開催される様々なイベントで、同規模のものだったら、
5倍から10倍の予算を持っているはずです。
実際、秋に開催される商業祭りは、これよりいささか規模が大きくなりますが、
10倍クラスの予算を持っています。
私は両方に関わって、その違いを実感していますが、
予算がかかる方のイベントは、
原則、あまり汗をかかないで何とかしてしまおうとするんです。
例えば、出展者が使うテント一つとってみれば、
これをレンタルでやれば、いたって楽に設営できます。
さまざまな看板も業者に発注しています。
特に、効果も考えず、様々な印刷物を刷ります。
しかし、予算が少なければ、無償のものを調達するしかない。
テントだって、運んだり、組み立てたり、自分たちの手でやるんです。
看板は、カラーコピーを活用して、手作りです。
朝早くから集まって、あれこれ準備する。
片づけも、ひと気が無くなった会場で、コツコツと進める。


それは、コストを下げるという事もありますが、
イベントを開催するというその精神の在り方にあるんです。
そもそもが、イベントの主体となるものは、膳を添えることに喜びを持っているものです。
頼まれて、いやいややるようでは、いいイベントは開催できません。
要は、自らの自立性をもって、他の自立性を涵養するための行動なんですね。
ですから、そこに、自立性を阻害する要因があったとすると、
イベントそのものの成果が問われるわけです。

 

これは憶測にすぎませんが、
阿波踊りも、ある時代、あるきっかけで始まったはずです。
そしてその精神は、伝承されてきたのだと思うのですが、
だんだんと規模が大きくなってきた。
そこで、それに応じた規模の組織になってくる。
すると、なぜか、組織内において膳を据える、据えられた膳を食う、という関係が
あいまいになってくる。
そこで、膳を据えていた連中の中から、不寛容な言動が生まれ、
膳を据えるはずの人たちに不満が出てくる。
つまり、自分が汗をかくことと、汗をかかない連中が同居していることに違和感を感じるんですね。
組織が大きくなると、大体このような感情が生まれるものです。
そこで、汗をかいている連中の荷を軽くしよう、というやり方が出てくる。
これは、大体金がかかるもののなんです。
業者を使ったり、専門家に依頼したり、と、
有償でも、ことが成り立てばいい、とする。
そうすると、当然ですが、予算が膨らみ始める。
これは無限に拡大してゆくんです。

まして、阿波踊りは全国規模のイベントですから、その予算は膨大なものになってゆく。
誰もが金の流れを正確に把握しにくくなるわけです。
もしかすると、時に訳の分からない支出が紛れ込む場合もある。
まあ、組織内の不調和や、イベント全体に対するガバナントが不十分だと、
これが金銭面で現れてしまうんですね。
市が、その主導を取り戻そうとした背景は、きっとそんなところではないか、と憶測します。

 

ま、いずれにしても
以前、一度行ったことがあるだけに、何とか踏ん張ってほしいな、と希望しています。

そして、平塚の七夕祭りが、阿波踊りの二の舞にならないよう、
願っています。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
無能なり文科省

先日のブログに、書いたことです。

 

アメリカの軍隊で、戦場において敵兵を狙って、引き金を引いたことはあるもの、
というアンケートを取ったんですね。
時代は第二次世界大戦が終わった直後です。
結果として、敵兵を狙撃した経験者は、20%でした。
これは、狙ったうえで引き金を引いたかどうかで、
それは当たったかどうかまでは調べていません。
で、この調査結果で、引き金引き率の低さにに軍の担当者は驚き、
対策を立てます。
具体的な方法までは知りませんが、
きっと、相手を憎み、なえそうになる心を鼓舞し、
自分がとろうとする行為は、大義に守られていて、
国を守るとか、愛する人を守るとか、正義を確立するとか、
要は、躊躇なく引き金を引けるようにするため、
さまざまなプログラムが開発されたのです。
実は、モチベーションを上げるプログラム開発は、
アメリカの得意とするところです。
そして、当然その内容も修正を重ね、磨き上げられていったのだと思いますが、
如実に効果が表れます。
朝鮮戦争時には、この引き金引き率は50%に上昇します。
そして、この成果をもっと高めようと、さらにトレーニングの内容を練り上げて、
ついに、ベトナム戦争時には、90%まで引き金引き率を上げます。

 

考えてみてください。
第二次大戦時には、まだそういう訓練を受けていなかったので、
躊躇があって、敵兵を撃つ、という行為が
10人に2人しかできなかったんです。
おそらく、今、われら日本人が、戦争が始まって、
銃を持たされ、戦場に送り込まれて、敵と遭遇した時に、
躊躇なく引き金を引けるか、と言ったら、このデータ通り、
10人に2人しか引けないでしょうね。
だって、私たちの頭の中では、敵とはいえ人間じゃないか、
という意識が強いからです。
いくら国家公認の戦争という場面でも、それまで培ってきた意識を
簡単には転換できないと思うのです。

 

でも、あるプログラムで、人をトレーニングすると、
出来そうもないことができるようになる。
何しろ、人殺しそのものをできるようになるという事ですから、
いくら人間の本能の片隅に、自己保存のために、
敵対する相手を倒す、という闘争心があろうと、
そうはやすやすとできることではないでしょ。
でも、できるようになるんです。


さあ、これをもっといいことのために使えないでしょうか。

 

今年の4月から小学校で道徳が教科化されました。
一番このことで戸惑っているのが、現場の先生だと思います。
文教政策として、文科省の意向で、そうする、というかじ取りがされたものの、
その先は、頼りないテキストと指導要項を片手に
その成果を上げよ、と現場の先生にしわ寄せが行っているんです。
一律的な道徳観を押し付けることで、
子どもの個性や多様な意見を潰しかねない、と現場は心配しているようです。
それはそうでしょうね。

 

問題は、プログラムらしいプログラムがないということです。
テキストと、ビデオ程度で、あとは指導要綱でこう指導しなさい、
というぐらいで、成果があげられるわけがない。
第一、道徳という領域で、どのような人間形成を目指すのか、
という道徳の成果としての着地点があいまいでしょ。
例の話で置き換えれば、引き金を引く、という具体的な目標がないんです。

 

そこで、抽象的かもしれませんが、私はこう思います。
最低限、その子の心の中に、人に対する敬意を養うこと、です。
これがすべての根源になるものだ、と。
とかく、あれこれ並べて、広い視野を持ち、積極的な行動力を養い、
協調性に富み、個性を発揮できること、とか言いそうですが、
こういう時は、あまりたくさん目標を併記しない方がいい。
単純に、最も大切で根本的なものは何か、
と言う点を絞り込む。
そうすれば、その先は大間違いは発生しないものです。
ですから、それは、私は人に対する敬意だと思うんです。
素直にその人の人格を認めるという事、
これは、個性を尊重するという事につながるはずです。

さらには、人をあがめるのですから、日々感謝に満ちた生活になるはずですし、
協調性も生まれてきます。
人をあがめ、人を大事にする、という行為こそ、先ずは養うべきです。
そして、すべての子供たちが、多かれ少なかれ、敬意を持つ人間になるように、
そのためのプログラム開発をし、
そのプログラムの実践こそが道徳であり、
テキストもいいかもしれませんが、言葉でけではない総合的な実践の場こそ、
道徳を確立してゆくことだと思います。

 

道徳で定番となっている「星野君の二塁打」という小学6年の教材があります。
「バッターボックスに立った星野君に、監督が出したのはバントのサイン。
しかし、打てそうな予感がして反射的にバットを振り、打球は伸びて二塁打となる。
この一打がチームを勝利に導き、選手権大会出場を決めた。
だが翌日、監督は選手を集めて重々しい口調で語り始める。
チームの作戦として決めたことは絶対に守ってほしい、
という監督と選手間の約束を持ち出し、みんなの前で星野君の行動を咎める。
「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ」
「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、
とてもできないんだよ」
などと語り、星野君の大会への出場禁止を告げるシーンが展開します。

個人プレーとチームプレーのどちらを優先すべきか。
悩ましい選択ですが、教材は迷うことなく前者を断罪している。
個人プレーはよくない、と。


さて、道徳というのは、協調性、社会性を表面的に判断することでしょうか。
個性の束ねられたものが、社会だとするなら、
そういう個性に敬意を持つところから、
人間としての在り方を考えることが重要でしょ。
ぎせいの精神の分からない人間は、社会に出たって、と言いますが、
臨機応変、状況に応じた判断こそ、重要なことではないですか。
それは個性が成し遂げることです。
星野君は星野君なんです。


往々にして、世の中をよくするのは、個性と創造力です。
金太郎あめみたいな、ただの従順な子等を作り出したって、
この国の将来はないでしょ。
むしろ、様々な状況にあっても人に敬意を持てることこそ、
状況を打破するチームワークを作り上げると思うのです。

 

なんだか、日本の道徳って、妙に底が浅く感じますね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:26 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
諸悪の根源

さまざまな行いの中で、悪行と言われるものがありますが、
その形は千差万別。
人殺しから始まって、人のものを盗んだり、人をだました詐欺とか、
最近は、性的な諸行も、また、立場地位を逆手にとってのパワハラとか、
保身のための嘘とか、治めるべき税金をかくしたりとか、
まあ、犯罪ぎりぎりまで含めれば、
正に、千差万別でしょ。

 

で、なぜ、人はこんなに罪を犯すんでしょうか。
逆に、何を持って罪という領域があるんでしょうか。
この辺が整理できないと、
人類は、延々と獅子身中の虫と戦い続けることになるのです。
実にばかばかしい話でしょ。
人間の世界を平穏に、友好的に過ごすことができないために、
どれほどのエネルギーと時間を使うんでしょうか。
露骨に言えば、そのために、私たちが働いて、積んできた税金が、
無駄なことに使われてしまうわけです。
ええ、もちろん、基本は、ある特定の人間の悪の諸行の為です。


例えばです。
瀬戸内で、囚人が脱走しました。
で、何とか捕まえようよ、捜査員を増員して、島中を探索しています。
で、ニュースでは、今日は1300人態勢で捜索にあたっている、とか。
不心得者一人に、すでに累計で3000人を超える捜査員が配置されているのです。
そのコストはいかばかりになるんでしょうか。
日当2万として、一日で2600万円ですよ。
4日で1億円です。
一人のあほたれのためにです。

 

私は、こうやってどこからか集合を掛けられて、
たくさんの人が集まった時に心配になるのは、
このように、先ずその経費のことと、食事とトイレです。
どうやってるんだろうか、と。
いきなり、1300人の弁当がいるんでしょ。
どこに発注するのか、という事と、
集合後だって、トイレに行きたい人はいるわけでしょ。
しかも、野山に入り込んでいるんです。
ささっと、木陰で立ちションベンというわけにもいかないでしょ。

 

話はガラッと変わりますが、この食事とトイレについては、
前々からの疑問があったのです。
こんなシチュエーションを読んだことがあるでしょ。
頼朝の軍勢20万人。
川の向こうとこっちで敵の平家の軍勢と対峙し、
にらみ合う事三日間。
そして、四日目の未明、朝霧に包まれた河原で、時の声が上がる。
とかです。
嘘かホントか、20万人が、陣地で構えているわけです。
食事はどうするんでしょうかね。
また、朝になったら、20万人がクソを垂れるわけです。
どこでやるんでしょうね。
20万人ですよ。
なんだかあちらこちらにノグソが落ちているわけでしょ。
まあ、余計なお世話ですが、
歴史の戦記物を読むたびに、ここが心配になるんです。

 

さて、話を戻します。
人は悪行をしがちである。
その根本は、原則的に蓄財なんですね。
本能的に考えれば、備蓄です。
人間は、脳の活動が熟達し、将来を展望できるようになりました。
良い展望は夢です。
でも、多くは悪い展望をします。
そして、不安が生まれ、安心のための「食料の確保」です。
その日暮らしは不安なんですね。
マンモスをいつまで狩ることができるという、保証はないんです。
木の実や果物が確実に実る、という保証はないんです。
さまざまな自然の環境の変化を人間たちは目で見て、時に飢えに苦しんできました。
ですから、安定した食料を確保するために、それはそれなりに努力してきたのです。
そして、これでもしかすると、飢えから解放されるかもしれない、
という状況を得たのが、1万年前です。
それまでの狩猟採集の生活から、牧畜農耕の技の時代に転換します。
以前から見れば、はるかに効率的に食料を確保できるようになりました。
しかも安定しています。
何時食べれなくなるか分からない、という不安が解消されればよかったのですが、
人は欲深く、もっと、もっとという事で、
より多くの者を蓄財することになりました。
要は、不安を捨てきれなかったのです。
確かに、人類の系譜500万年とすると、
499万年間、飢えの恐怖と戦ってきたのですから、
たかだか1万年で、それを払拭することは難しかったのかもしれません。
それより、DNAに染みついた、備蓄という本能は、
状況が改善されたのちも強く働き続け、
もっと多くのものを欲しがることに歯止めがかけられなくなったのです。

そして、部族と部族、国と国までもが、この備蓄本能に負けて、
他からの収奪を試みます。
これは単にモノだけで無く、名誉とか、地位とか、精神的なものまで含め、
我欲に負けてしまうのです。


ある国の首相が、さんざんと失政を積み重ねてもなお、
その地位にこだわり続けるのは、こうした人間の奥深い我欲によるものです。
その日暮らしは、確かに不安です。
ですから、わが身を養うための、最低限の蓄財は必要でしょ。
でも、毎日、大ご馳走を食べ、豪華絢爛な屋敷に住む経済的な勝者が

成功者だ、と、本人が自負している三流の人間と、

それ等を偉い奴らだと勘違いしている二流の人間は、
その蓄財本能を発揮し続けるんですね。

そして富の偏在が進む。


これは、実は人類滅亡の一つのサインなんです。
理屈から言って、そんな不必要な富を生み出すための資源を
地球は持ち合わせていません。

人間の悪行で、人類は滅亡するのかもしれません。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
人により法の解釈は異なる

そもそも法は、人間が決めたものです。
ある条件、状況を守らせるために、
守らなかったものへの罰則が規定されています。
しかし、その罰則の適応には、極めてあいまいなグレーゾーンが付け加えられていています。
例えば、ある犯罪を犯すと、懲役5年未満、または罰金100万円以下、とか規定されているとしましょう。
すると、有罪の場合、5年未満の懲役刑が科せられ、それは状況やら、裁判官の判断でなどで、
4年になったり、3年になったり、時に、執行猶予が付いたりします。
それは、犯罪ごとに、状況が異なるので、杓子定規に決めつけられないからです。

 

よく、アメリカの犯罪捜査もののテレビドラマで、見るシーンなんですが、
どたばたとした格闘の末、抑え込んだ犯人に、
お前は第1級殺人を犯した、電気椅子に送ってやる、
とか言ってますでしょ。
1級とか、2級とか、状況や計画性、殺人の方法などで分類するんでしょうね。
よく知らないのですが、何級まであるんでしょうか。
で、捕まえた刑事が、尋問室で、司法取引を持ちかけるでしょ。
素直に吐けば、減刑するとか。
要するに、法律は人が定めたものですから、
解釈は人によって異なるわけです。


解釈のもっともばらつく実例が、
例の、総選挙などの一票の違憲性です。
各地で起こされる高裁の判断は、微妙に異なりますもんね。
同根の問題にもかかわらず、裁判官によって、判断が微妙に異なるわけです。
これは、人によって解釈が異なることのいい例です。

 

最近のこの類の問題で、へえそうなの、と思ったのが、
佐川前長官の不起訴の決定です。
私は、以前から、日本の司法の問題として、不起訴率について、不満を言ってきました。
なんと5割を超えるそうです。
なんか犯罪が発生したとしても、公判に耐えきれるだけの証拠がないとか、
そもそもの内容が、軽微なものであるとか、
取り調べの結果、後始末が付きやすそうだとか、
色々な用件を勘案するのだと思いますが、
まあ、不問に付そう、という事でしょ。
不起訴とか、起訴猶予とか、内容は若干異なりますが、
要は、ある種の無罪放免です。


起訴による有罪率は99,9%だそうですから、
要は、起訴されたら有罪なんです。
ほぼ100でしょ。
ですから、1%でも有罪を立証する要因が無かったら、
放免と言うことですから無罪と同じでしょ。
ものすごい確率だと思いませんか。
がちがちのものしか裁判にかけない、という弱腰の司法なんです。


その意味で、佐川氏のことは、あれだけの注目を集めながら、
また、ほとんどだれの目にも有罪だろうと思われた犯罪ですから、
不起訴かよ、と思った人は多いのではないかと。
もっとも、これは「忖度」が大きな要因の犯罪ですから、
検察も「忖度」したのでしょうね。

 

さて、2016年、大阪府門真市で一家4人を殺傷した事件で、
1人を殺害、3人に重軽傷を負わた事件の裁判員裁判の判決がありました。
で、大阪地裁は、死刑を求刑された小林被告に、懲役30年を言い渡しました。
これは、日本における死刑の基準を下回った事案で、
1人の殺害で死刑が選択されるかどうか、注目を集めたのですが、
結局、死刑という判断を回避しました。
小林被告側は、心神喪失状態だったとして無罪を主張していましたが、
検察側は完全責任能力があったとして死刑を求刑していたのです。
正に、人の判断による違いです。
裁判所は、小林被告は事件当時、精神疾患が悪化し、心神耗弱状態だったと認定しました。
それにより、有期刑の上限の懲役30年の実刑判決となったのです。
遺族は、判決後の会見で、
「精神疾患があるからといって人を殺していいなら、日本の法律は間違っている」と反発しました。

 

確かに、精神疾患が認められれば、時に刑罰が軽くなったり、
責任能力があったのか、とかいう理由で無罪になったりしますが、
微妙に違和感を感じるんです。
だって、そもそも人を殺すなんてこと自体、正常な神経ではないでしょ。
正常でない神経だったら、刑が減刑されるという論理がよく分からないのです。
一体どのような状況で、精神的な障害がある、と判断するんでしょうね。
極端な話、精神的な障害があれば、殺人をしても仕方ない、という事になりませんか。


ただ、日本刑法は、刑事責任能力について、
「心神喪失者の行為は、処罰しない」(39条第1項)
「心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」(同2項)と規定しているんですね。
これは憲法31条が保障する「適正な手続」という概念が裏付けになっているそうです。
法的なことはよく理解できませんが、
一市民の感覚として、このあいまいな線引きが、犯罪を許容しているとなると、
どこかできちんとそのボーダーを整理すべきだと思います。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
神の存在証明

フランシスコ・ローマ法皇が、地獄はない、とおっしゃったとか。
昨日の続きです。

 

天国、地獄の前に、神はいるのか、という事が順序です。
もしいなければ、天国も地獄もないわけでしょ。

昔ちらっと読んだ話で、その出所が誰だったの忘れてしまいましたが、
なんとなくの記憶によると、
アリストテレスとか、カントとか、ソクラテスとか、その頃の哲人だったと思います。
で、なんと言ったか、と言うと、
まずは4つの分野を想定しました。


/世呂い襪隼廚辰神犬方をして、実は神はいなかった場合。
⊃世呂い襪隼廚辰神犬方をして、神がいた場合。
神はいないと思った生き方をして、神がいなかった場合。
た世呂い覆い隼廚辰神犬方をして、神がいた場合。
と分けたわけです。


で、,漏里にあてがずれたかもしれませんが、だからと言って、
その人の人生に問題があったわけではないでしょ。
生前の行いが、評価されるあの世そのものがないのですから。
でもまあ、きっといい人生を送れたんでしょうね。
△蓮△修Δい生き方をした結果、その通りだったのですから、
取り敢えず合格の人生じゃないですか。
天国があったとしたら、天国に行くことができるでしょ。
は、これの想定通りですから、問題はない。
これといった罰則受けることもないし、まさに天国も地獄もないんですから。
さて、問題はい任后
いないと思って、実は、我欲を規制することなく、結構不敬な振る舞いが多々あって、
いささか、いい加減な人生を送ったわけです。
で、その結果、あの世に行ったら神様がいて、
生前の行いをこっぴどくたしなめられたとします。
まあ、一種のばれないと思ってやったことがばれていた、という事です。
いるわけはない、と高をくくっていたら、とんでもないことになる。
で、結論としては、神はいると思って、敬虔な生活をした方がいい、と、
回りくどい説教なんですね。

ま、ともかくです。
おそらく中世の頃の科学的知識では、人体のメカニズムも、
地球の在り方も、よく分かっていないわけですから、
取り敢えず、天地の創造者をどこかに登場させないと、
この世が生まれてこない、という人間の存在を肯定するために必要で、
考え出したのが神だと思うのです。
で、どう説明してもなかなか理解されないので、
神は自分の姿に似せて人間を作った、と言ってしまったわけです。
となると、じゃあ何を召し上がっているんだ、とか、
睡眠はとられるのか、とか、
排せつはどうなってるとか、あれこれ、人間世界の在り方を当てはめてみるわけです。
これに対して、どうしても説明が付けられなくなる。
この発言に、何とかつじつま合わせをしようと、
あれこれ教典を整えたわけですから、
当然、改竄やら削除が繰り返されました。
今の国会の比じゃありません。
一番の問題は、この世のすべてのもととなった、とされているわです。
何しろ、光あれ、という一言で、光と闇の世界が登場するわけです。
では、すべてを作り出した神は、どのように作られたのか、でしょ。
鶏と卵の論争みたいなものです。

ま、でも、神の存在を作り出した人々は、
多くの安寧を人類に提供したのですから、
まさにそれこそ神業ですよね。

 

基本的には、生物が生きてゆくうえで、必要とする生きざまは、
多くは本能で賄われます。
個々の生物の特性は、長い長い時間をかけて、
DNAに刻み込み、その特性が故に存続しえたわけです。
何万年、何十万年、時に何百万年という時間の中で、
生き残れれることができた要因を後生大事に伝えてきたから、
現在見ることができる多様な生物種が存在しているんです。


で、人間はと言えば、たかだか20万年前、
しかも現在からさかのぼれば、ネアンデルタール人と交流があった辺りを、
中興の祖とすれば、たかだか5万年です。
こんな短い時間の中で、人類という種が繫栄を目指すには、
本能、つまり先天的な生きる術だけでは、無理があったんですね。
そこで、後天的な生きるすべを身に付けることが、
種の継承に役立つと考えたご先祖がいたわけです。
これが、広い意味での教育で、集団生活の技を教えるようになったのです。
つまり社会性です。
これに、死後の世界の不安というのが絡まって、
宗教的な要素が生まれてきたのではないか、と思うんです。


いいことさせる、つまり、集団としての存在が機能するようになるために、
今でいう教義のようなもので規定する。
で、中には分らんちんがいますから、地獄に落ちるぞ、

みたいな脅しも必要だったのでしょう。
当然反対の教義として、いいことすれば天国に行けます、と。


神の存在の真偽はともかく、ある意味効果的な集団の統率方法だったのではないか、
と思っています。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
地獄はないそうです

お釈迦様は、生老病死という4つの事柄について、
なぜなんだろう、と疑問を持たれ、それを解くために、
カピラ城を出奔し、修行の旅に立たれます。


生老病死とは、要は人生そのもので、いかに生きるか、何のために生きるか
といういわば人間にとっての、基本的な疑問です。
まあ、ぶっちゃけて言えば、理想的な生き方を求め、
それがどうして理想的と言えるのか、といったことも含めて、
一つの哲学的な思索をしたわけです。

 

で、我々凡人は、あの偉大なる釈尊が、悩み、そして、悟ったことを
一体どのような方法で、どのような答えを導き出したのか、
と言うことについて、できれば知ることができたら、
きっといい人生を送ることができるだろう、と、
その道を求めるわけです。
で、それを具体的にインストラクトしましょう、というのが仏教です。


釈尊が得たその方法論と、たどり着いた境地に共感し、
出来れば私も、と、その道を歩もうとし、
その上で、多くの人に、その境地にたどり着けるような指導をしようとしたのが、
仏教家で、様々な解釈のもと、独自の宗派を興し、
時に、宗派の祖となり、教えを広めました。


多くの宗派が、地獄と極楽の存在を前提に、
生きている間に善行をすることを勧めます。
中には、なかなか日々の行いとしては困難かもしれない、
と考えたところは、安易にある経文を唱えればそれでもいい、
と簡略な宗教を広めたところもあります。
ま、いずれにしても死後の世界に大いなる不安を持つ人々に、
一時でも安寧の心を与えたわけです。

 

宗教がどうしてこの世に登場したのかは、それこそ推理の世界なんですが、
かつて、小松左京氏が、それは人間が未来を考えるようになったからだ、
と主張していました。
人間は、他の動物と比較して、記憶する能力を磨き上げたために
未来を展望するようになります。
いかなる動物も捕食されないための未来予測をし、
捕食するための未来予測をします。
ある距離までライオンが近付くと、シマウマは逃げ出します。
それはこの直後の出来事を予測するからです。
また、ライオンはライオンで、攻撃をする時に、チームで狩りをする場合、
待ち伏せ係を配置します。
これも、こっちに来るかもしれない、という未来予測をするからです。
いずれにしても、人間以外の動物たちは、ほとんど論理的に先を読むことができません。
人間だけがひたすら先の先の未来の予測をするようになり、
それがあるところで、で、死んだらどうなる?と言うところにたどり着いたのです。
そこから人間は大いなる不安を抱くようになります。
そして、多くの試行錯誤を重ねて、いわゆる宗教にたどり着きます。
基本は、いかに望ましい生き方をするか、でしたが、
矢張りその延長で、どうしても死後の世界が気になり、
多くの門弟たちは、師に、死後の世界を聞いたものでした。
仏典でしばしば出てくるのですが、
同じく釈迦に、死後の世界はどうなっているのか、と聞きます。
原点的な仏典では、釈迦は答えなかった、と記録されています。

 

でも、それでは納得できない人が多いので、
その後さまざまな解釈が行われ、死後の世界が勝手に作りだされました。
代表的なのが、極楽と地獄です。
いいことしてれば、極楽(天国)へ、
悪いことしてれば、地獄に落ちる、と言われてきました。
そういえば、国会などで問題になっている人は、天国に行けるのでしょうか、心配です。


ま、それはさておき、キリスト教の世界で、
とんでもない発言があったそうです。

(ネットの記事からの転載です)
イタリアの著名日刊紙の創刊者のスカルファリ氏がローマ法王に質問。
「以前、あなたとお会いした時に、
あなたは、私たち人類はある瞬間に消えていくとおっしゃいました。
そして、神は新しい種を創造するとも。
しかし、あなたは、罪の中で死んだ人たちの魂についてのことや、
そして、それらの魂が地獄に行き、永遠に苦しみを受けることについては
私に決して話されません。
あなたは神の意図に同意した良い魂について私に語りました。
しかし、悪い魂はどうなるのですか? 彼らはどこで処罰されるのですか? 」

フランシスコ法王はそれにこのように答えます。
「彼らは罰せらません。
悔い改める者は神の許しを得るのです。
そして、神が意図している魂の階級に入ります。
しかし悔い改めずに神の許しを得ることができない者は消えるのです。
地獄はありません。
あるのは、罪深い魂の消滅なのです」と。
これはその後釈明の声明が出されますが、
なんだかんだと、あの法皇が、地獄はない、と言ったんですね。
これは、キリスト教界の根底を覆す見解なわけです。

 

私は、もともと、地獄はない、と思っているタイプです。
やっと、気付いたのか、と思う程度だったんですが、
これって、結構大きな問題になるんじゃないかと、気になっています。
でも、なんとなく、やっぱそうだったんだ、と安どする人が多いような気がします。

何よりも、国会で嘘八百を並べ立てても、

地獄に落ちることはない、と安心している人がいるかもしれません。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
間もなく、茶番劇が開演となります

加計ネタが、ネットのニュースのタイトルにしばらく前から載っていました。

そのタイトルは、加計も文書改ざんが行われていた、と言うものでした。
しかし、世間は森友再燃に注視していて、
なんとなく隅に放っておかれた感じだったんです。
私も、まあ、いずれ、加計も再燃するだろうと思っていたので、
時期がきたら、詳しく読んでみようと、
タイトルだけ見てスルーしていたんです。


で、やはり、その時期が来ましたね。

 

ここで冷静に、ここしばらくの国会での与野党のやり取りを眺め直してみると、
要は、見てくれはともかく、やっちまったことは明白だったわけです。

いや、明白だ、と国民は思っていたわけです。
文書の廃棄の問題も、そんなことあるわけない、と誰もが思っていたでしょ。
例の今治の職員が首相秘書官にあったという話が出てきた時も、
じゃあ、今治の職員が嘘ついているのか、と思ったでしょ。

わたしたち、後期高齢者に近い連中が答えたならきおくにない、も通用しますが、

頭脳明晰なお役人、しかも油の乗った働き盛りの年令の方々が、

そうそう簡単に忘れるわけはない。


首相夫人が、籠池氏に言ったことも、100万円寄付したことも
籠池氏の作り話だろ、と思った人は少ないと思うんです。

 

要は、国会では、とぼけたり、嘘をついたり、政権側の真実隠しに、
延々と付き合わされてきたのです。
さすがに、国民はもううんざり、といったところでしょ。

私はこの一連の流れに、不思議だったのは、
与党の議員連中が、これといった意見を言わなかったことです。
いくら身内とは言え、やっていいこととやっていけないことの区別ぐらいは、
議員の先生方は判断できているでしょ。
これといった批判が聞こえてこないことに、
自民、公明の先生がたの良心は崩壊してしまったのか、
と思っていました。
あれだけ見識のある方々が、地域の市民の支持を得て、
国会に登場しているんですから、
相応の良識、判断力は備えているはずでしょ。
だからこそ、国の運営をお願いしたわけです。
でも、その最もそういうことに敏感に判断すべき方々が、
一律にものを言わない。
結果として真実隠しの片棒を担いできた、と言うそしりは免れない。


私は、右でも左でもない中道のつもりです。
ですから余計、保守系の方々のふがいなさが残念に感じるんです。
それぞれが健全に機能してこそ日本の未来はある、と思うんですね。

ま、大ざまな見方ですが、
国会で与党も野党も、政権側もお役人達も、みんなで茶番劇を演じていたという事です。
これを見ていた国民という観客は、
テレビで報道されるそれぞれの言い分を、そうかもしれない、などと思わなかったでしょ。
国民はみんな感じていたと思うんです。
これは茶番劇だ、と。

 

ちなみに茶番劇とは、
その大本は狂言に発しています。
江戸の末期に、下手な役者が手近なものを利用して
滑稽な寸劇・話の芸を演じるといったものが語源です。
茶番というのは、お茶番のことで、
歌舞伎の中で特にはしたの役者が、歌舞伎役者(いわゆる大物)のお茶番をしていて、
(まあ、オフィスのお茶くみみたいなものです)
その余興として、滑稽な寸劇を演じたのだそうです。
ここが原点でとなり、茶番劇という分野に発展したのだそうです。
とは言え、ごく軽い内容でしたので、劇に使われた菓子類を無料で配布したので、
それが目当てで、観客もやってきた、と言われるくらいでした。


そこで、見え透いたバカバカしい物事のことを「茶番劇」というようになったのです。

ピッタリじゃありませんか。
劇場は国会の中にあります。
時々テレビでも中継しますので、
ばかばかしい茶番劇を暇があったら見てください。

ちなみに、お菓子はもらえません。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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