水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
スマホ時代

18世紀に、イギリスで生まれた産業革命。

人々の暮らしが大きく変わりました。

で、21世紀のい今、スマホ革命が起きつつあります。

きっと私たちの生活は大きく変わりつつあるのです。

 

情けない話ですけど、私は、スマホで写真を撮ったことがないんです。
もともと写真を撮る、という意識が希薄で、
結婚式のウェディングケーキ入刀の時も、参列者が群がるようにスマホで写真を撮っていますが、
あの心境がよく分からない。
と、まあ、写真音痴なんですかね。
したがって、スマホは、電話のやり取り、スケジュールの記録以外は、使っていないんです。
きっと、スマホが持っている機能の99%は手つかずじまいなんでしょうね。
ですから、若い人たちが、小器用にパソコン代わりに、その機能を駆使していると、
世代格差を、痛感するんですね。

時代が変わりつつある、と。

 

スマホと言う、個人通信機器と、ミニコンピューターを、誰もが持っていて、
しかもどこにでも持ち歩いている、ということが、

現代社会のさまざまな現象に大きくかかわっていると思います。
電車に乗れば、ほぼ8割がたの人がスマホをいじっていますし、
喫茶店なんかでも、コーヒーが来るまでの間、スマホを取り出し、画面を眺めている人は、
ごく普通にいますでしょ。
こういう文化が決定的に定着しているんですから、
そこに生まれてくる行動とか、意識の変化とかを前提に、社会現象をとらえなくてはいけないんでしょうね。

 

つまらぬ比較ですが、
その昔のドラマの進行で、なぜかタバコを吸うシーンがやたら多かったと思うんです。
ある種の演出上の必需品でした。
タバコなしでは映画が撮れなかった、ということです。
で、今はと言うと、スマホがこれにとって代わっています。
何かと、電話がかかってきて、これに出る。

このシーンが、ドラマのすじ組の肝になっています。
まさに、スマホなしでは、ドラマの進行ができないような役割を、スマホが果たしているんですね。

 

最近、バイトテロなる言葉が登場し、現に、バカな若者が、悪ふざけの延長で、動画をアップさせ、
これが、ネット上で拡散され、炎上につながっている、と。
で、これで、店がつぶれてしまった、なんて話は、良くある話になってしまいましたね。
聞くところによると、そういう動画を投稿した子等の氏名や住所が特定されて、
嫌がらせの投稿が来たり、挙句に果て、決まっていた就職がパーになったり、
さらには、高額の賠償命令が出されたりとか、まあ、いいことないわけです。

 

で、よくよく考えてみれば、この類の悪ふざけは、昔もしていたでしょ。
若いと言うことは、そういうものでしょ。
分別とか、大人の判断とかは、まだまだ未熟で、備わっていない。
遊び心でついついやってしまったわけですね。
昔なら、その場で終わりのことだったのですが、
動画にしたり、これをラインに載せたりと、まあ、簡単にできますし、やってしまう。
していることは昔と大差なくても、時代の背景として、スマホが完全に近い形で整備されているんですから、
ここの違いを考えないと、情報が強烈な範囲に露見してしまう。
たしかに、露見させようという意志はあったのでしょうが、
したくてもできない時代と、したければ出来る時代の格差は歴然とあるわけです。

みんな分かっているけど、ここのところが、どうも習得できていない。


私は、新たな道具を手にした人類が、その正しい使い方を習得しきれていなくて、
今、戸惑っているのではないか、と思うんですね。
現代は、時代の変遷期、ある種のターニングポイントなんじゃないでしょうか。
隠すべき情報と、広がるべき情報の区別ができていない。
もっと言えばそういう判断力とともに、判断基準が共有されていない。
ですから、個人的な感情で対応してしまう。
必要なことは、人間の良心と感性が処理すべきことである、という認識のもとに、
対応するという風潮が醸成されていないんです。

 

大衆の動きは、要は風潮の中で作り上げられてゆくんですね。

ですから、まだまだ現在は、これらの社会的規模の個人的情報の取り扱い方が、
なんの保護もないままのむき出しなので、ちょっとした情報が発生すると、
なんとなく、ひりひりした微妙な痛みを伴うものになりがちなんですね。

 

ウーマン村本がなんと言おうと、これに高須院長が嚙みつこうと、
松本人志が何かのコメントを出そうと、人が人の批判をしている限り、
大した中身はないでしょ。
知らなければいけない情報ではないでしょ。

ちょっとみんな振り回されていないでしょうか。

 

けりが入ったとか、で、ピッチの上で選手同士がもみ合いになりそうになって、
レフリーが間に入って、まあまあ、となだめる。
こんなことがネット上では毎日のように発生してます。
グッドニュースとバッドニュース。
どちらかといえば、生活に必要なのは、グッドニュースでしょ。
バッドニュースは必要最低限のものでいい。

まして、人の中傷、悪口、軽々しい批判など、いちいち載せるな、と言いたいですね。
いわゆる炎上は、火元も、それを煽る人間も、基本的には同罪でしょ。
ほっとけ、と、言いたいですね。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
民法822条

へえ〜、そんな権限があったのか、と改めて驚いたのですが、
親は、子どもをたたいてもよい、と言う権限です。
これは、民法822条に規定されていて、
「親権を行う者は(中略)監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる」
と言う事なんです。
ま、ざっくりですが、法的には、家庭内での体罰が容認されているんですね。
改めて、知りました。
これを盾に取れば、
しつけと言う名目で、子どもに体罰を与えることが、容認されているという事でしょ。
どういう理由なのか、どの程度なのか、なんて、物を十分に言えない子供が相手ですから、
客観的に、アウトと、セーフのラインが判定しづらいでしょ。
そこで、じわじわとしつけは虐待に変わってゆくわけで、
ついには、最悪、死に至ってしまうわけです。

 

実際、この類の痛ましいケースがニュースで伝えられてきています。
まあ、なんとかそれから逃れようと、子どもなりの対応をしながら、
恐怖に陥ったまま、死の時を迎えるわけです。
私は、気が弱いので、これらの記事を読むことができませんでした。
見出しだけ見ると中身には目を通すことができないのです。
正直、辛くなるのが怖いんですね。
その子は、どれほどつらかったろうか、という思いは、見出しだけで十分。

 

さて、虐待による死亡事案は、年間で50件を超えているんです。
加害者は、6割、7割が母親。
1割、2割が父親、残りが両親ともどもです。
ま、家庭の中での出来事ですから、一方が知らなかった、では済まないでしょ。
したがって、これは、主犯、従犯の差はあっても、共犯でしょ。

虐待の相談件数に至っては、年間で13万件を超え、これらの問題が、じわじわと拡大しているわけです。
我が血を受け継いだ子を、手掛けるというのは、
なんの言いわけも通用しないでしょ。


はっきり言えば、親になれる資格がないのに、子どもを産んでいるんですね。
これが、もし、出来ちゃった婚などを含めて、
子どもを持つ資格が整っていないうちに、言い換えれば、親として未熟なうちに、
子どもを生んでしまったということが基本にあるんでしょうね。
おぞましいことです。

 

さすがに、これらの状況を含めて、国会でも動きが出てきました。
先ほどの、監護や教育のため子どもを懲らしめる、虐待につながりやすい「懲戒権」を
民法から削除するするということです。
久しぶりに安倍晋三首相がまともなことを言いました。
「子どもの成長に必要な教育は、体罰や暴言、暴力であってはならない。懲戒権は削除すべきだ」と。
さらに「児童福祉法と児童虐待防止法を改正し、体罰禁止を明記すべきだ」とも。
そうです、トランプのノーベル平和賞なんかに関わっている場合ではないでしょう。

 

日本の実態です。
国際的NGOセーブ・ザ・チルドレン・ジャパンが、

日本で2万人を対象に行った子どもの体罰に関する調査では、
6割の親が体罰を容認していて、

子育て中の7割が少なくとも一度は子どもをたたいた、と言うデータがあります。
逆に、しつけのための子どもへの体罰は
「決してすべきではない」と答えたのは43%、残りの57%の人は、程度の差はあれ体罰の存在を認めたそうです。

問題は、その程度なんですね。
と言うか、体罰の質でしょ。


確かに、いくら我が子であっても、一個の人格を持っていますから、
意にそぐわぬ言動があれば、いらっとしますでしょ。
これが積み重なったり、親の精神状態が悪ければ、手を挙げてしまうでしょ。
いくら言っても言う事を聞かない、と言って。
問題は、そういう行動が、真に人格形成に意味を持っているのかどうかでしょ。


子どもなんだから、わけのわからないことをするわけです。
みんなそうだったわけでしょ。

まさに、子供叱るな、来た道じゃ 年寄り笑うな 行く道じゃ、ですね。

 

さて、国会でのこの問題の議論は、どう考えても反対の理由がないですから、
早々に、改正法が成立すると思うのです。
でもですよ、まあ、ないよりましかもしれませんが、
法の改正で、どの程度の抑止力が生まれるでしょうか。
だって、虐待をしてきた親たちが、民法822条に規定されていて、
親には、子どもに対して、懲戒権をもっているんだ、ということを
知っていたから虐待した、というわけではないでしょ。
だから、法律でしちゃあいけないんだって、と言われても、
家の中での出来事ですから、
ストレスが爆発すれば、それが子供に向かうことはありうるでしょ。

冷静に考えるべきです。
そもそも虐待とは何なのか、と。


その原点は、
子どもを望ましい人間に仕立て上げようという教育的指導でしょ。
つまり、未熟も含めて、こども側に問題があるという認識です。
私は、子ども側に問題がある子なんているわけないと思うんです。
子どもですよ。
大人から見ればはるかに純真で、無垢の心を持っているんです。

その存在が、問題があるというのは、問題があるとみる親に問題があるんでしょ。
つまり虐待のすべての事例の主体が親にあるわけです。

客体たる子供に非はない。
される側には、これっぽっちも問題はない。

どう考えても、あるのは、する側の親にある。
親子と言う立場、大人と子供と言う力の差、正に、パワハラの極致みたいな事でしょ。

確かに、法的な整備は意味があるとは思いますが、
「やるな」でやらなくなれば、泥棒も人殺しもいなくなるわけですもんね。


正に、日本で崩壊しつつある、社会の有機性が、悲劇を防ぐとしたら、
実は周囲にいる私たちの問題なんだと思います。
他人事にしない事でしょうね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
右肩下がりの宝くじ

仲間同士の会話の中で、割と出てくるのが、
宝くじが当たったらどうする?という質問です。
この答えで、ほぼその人の人間性が垣間見れますね。


当選金額にもよりますが、
家族で旅行するとか、
高額なある欲しいものを買うとか、
中には、借金を返すとか、
一番多いのが、一部使って残りを貯金だそうです。
ま、いろいろですよね。

 

実際、一億円とかなったら、それはそれで悩むでしょうね。
人によっては、人格崩壊を起こすかもしれません。

年末ジャンボは、最大、7億円、これが24本ですから、
これまた、かなりの瞬間お金持ちが誕生するわけです。
前後賞1億5千万円ですから、人によっては、いきなり10億でしょ。
これじゃ、人生狂うでしょうね。


聞きなれている言葉ですが、宝くじと言えど、
ま、これも公営ギャンブルでしょ。
競輪場に通い詰めていると、博打狂いぐらいのことを言われ、
パチンコ屋に入り浸っていると、ギャンブル依存症ぐらいのことを言われますが、
ばんたび宝くじを買っているからと言って、さほどの非難めいたことを言ったりしないですね。

でもその本質はギャンブルなんですね。

競輪競馬など、公営ギャンブルが還元率75%。
厳密に言うと、競艇 74.8%、競輪 75.0%、オートレース 74.8%、競馬 74.1%です。
まあ、大雑把に、755でいいのです。

 

さてそこで、 宝くじですが、
なんと、45.7%。
半分も戻らない。
ちょっとひどいでしょ。
しかもですよ、競輪競馬などは、あたれば、ほぼその場で換金します。
宝くじの場合、買ってからしばらくして当選番号が発表されるので、
どうしても、見損なったり、忘れたり、とかのことが多く思いのほか未換金が出てきます。
年度によって変わると思いますが、
ざっと、未換金は、年間で150億から200億。
で、決められた期間に取りに来ないと、胴元のものになってしまいます。
ですからこれらの結果的に配当されない額とすると、45.7%はもっと少なくなっているのが実態でしょうね。

 

そういう意味では、宝くじは買ってから、当選番号を見る寸前までの間の

夢見ることに価値があるのかもしれません。

ま、冷静に考えれば、丁半博打だって、基本半々でしょ。
要は50%ハックは確保できます。
競輪競馬で75%。
これから考えると、宝くじは滅法率の悪い博打なんです。

 

で、そのことをみな、感じ始めたようです。
だって、何回挑戦しても、200円とか、300円当たりの末等が、1〜2枚じゃ、引き換えに行くのも面倒でしょ。
これを繰り返していると、ばかばかしいと思い始めるんですね。
よく高額当選をする人にあやかり、購入窓口とか、時間帯、なかには、当選率の高いと言われている

その時の服装かなんかを信じて、着替えまでして、買ってみたって、

空しくハズレの確認をするだけのことなんです。
そんなことで、最近は、宝くじの売り上げが落ちてきているそうです。

 

つまりやっと現実に気づいたんですね。

ま、傍から余計なお世話ですが、
人生狂うかもしれない10億円と言う金額がどうして必要なんでしょうね。
これが24人に当たるという事より、せめて一億にして、240人の方が、喜びも広がりますし、
当選後の失敗も減るはずです。

博打と言うのは、当たりるか当たらないか、その運を天に任せたような部分で、スリルを感じる。
そして、当然した人は、一挙に経済的に潤うわけですから、
結局のところ、人に幸せを分けてゆく、という事なんですね。

 

ですから、人生狂うまでの金額は考えなおすべきだと思うんです。
宝くじで幸せになれた、と言うのは、せめて、うん千万円単位で十分だと思うのですが。

 

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
頭のいい悪人

悪人と言うべき輩が、この世には存在します。
時に、血も涙もないような悪行を、善良な人にふるまいます。
ま、オレオレ詐欺など、その一種でしょ。
高齢者への狙い撃ちですね。
そもそも高齢者は、生産手段がほとんどない。
それまで爪に火をともしながら蓄えた虎の子と、
いくばくかの年金で、カツカツに生きているわけです。
そこから、人の情に付け込んで、金を巻き上げるなんて、
極悪非道、血も涙もない悪行でしょ。
こういうことをへ隠然とするなんて、
本当に人間としての血が通っているのか、と疑問に感じますね。

 

で、今までの私達が漠然とイメージしてきた悪人とは、
根性がねじ曲がっていて、もちろん善悪の判断ができない。
ま、一種のごろつき的なイメージがあって、
よしんば、それらしき輩に、街中で肩でもぶつけられたら、文句も返さず、
触らぬ神にたたりなし、といった風情で、その場を引く、という感じだったじゃないですか。
ま、一見、強面で、粗暴な感じがして、通常の理屈なんか通用しそうもない、

と言った雰囲気を漂わせていたでしょ。
これが悪人のイメージです。


テレビのドラマなんかでも、見るからに悪人相の人が犯人役でしたものね。
先日、茨城の女子大生殺人事件がありましたね。
ま、世間では女性側にも問題あったんじゃないの、みたいな書き込みが多くあったようですが、
だからと言って、命が戻ってくるわけじゃない。
で、この事件で、容疑者として廣瀬某なるものが逮捕され、
結構、堂々とテレビに顔出しになっていましたが、
一目瞭然の悪人面でしたね。
理由はともかく、金の金額もともかく、こんな男に身を任せる女がいるのか、

と思うほどの悪人面だったでしょ。
ま、悪人と言うのは、その意味で、悪さを平然とする分、

少し頭が足りない、というイメージだったのですが、
最近その辺が変わってきましたね。
頭のいい奴が、悪巧みをするようになった。


例のオレオレサギだって、次々と新しい手口を見つけてくるでしょ。
あのアイディアの卓抜さを、普通の生活に生かせないものか、と感じるほど、巧妙な手を考え出すんですね。
勝手な想像ですが、グループで、アイディア会議でもして、
いろんな手口を考え出して、それを練る。
で、一つ二つ実行してみて、修正し、詐欺レベルの精度を上げる、なんて、
通常、企業で行われる商品開発みたいな手順を踏んでいるんでしょうね。
ともかく、時に感心するほどの巧妙さです。


正直、頭のいい奴らが揃っているんじゃないか、と思います。

悪人が、頭脳を持ち合わせると、なかなか厄介でしょ。
通常の優れた判断を下す脳の働きは、「良い思いと、良い行い」のために

力を発揮する、と私は思っていました。
目的が正義に向かっているときは、それこそ神の助けではないか、と思うほどの、
道筋の通った、それでいて卓抜なアイディアに恵まれるものです。
うちのかみさんが、私がボランティアな活動を、次々と手掛けるもので、
あなたのその活力とアイディアを、商売に生かしてくれていたら、
我が家はもう少し裕福になっていたかもしれない、と言うんですね。
でも、私は、商売に関しては、どうもいいアイディアが生まれて来ない。
半面、確かにかみさんの言うとおり、ボランティア活動なんかには、様々なアイディアが浮かぶんです。
ですから、悪行をなすための優れたアイディアが生まれてくるということは、
人間の生理現象にあっていないんじゃないか、と、ずうーと思っていたのです。
ま、大きな勘違いでした。

 

それにしても、頭の良さには、及びもつかない悪人たちが出てきました。
案件は車の盗難です。
車の盗難と言えば、昔からよくあった、犯罪です。
大胆な手口から、こすからい手口まで様々な手段があります。
私の先輩の話ですが、さる会社のオーナーで、ま、そこそこの企業規模でしたから、
運転手つきの高級車で移動をしていました。
で、街中での会合があり、例によって、高級車でその会場の前まで乗り付け、
運転手は、降りると後ろに回り込み、後部座席の左側のドアを、いつものように恭しく開けます。
社長は、不愛想に降りてきます。
で、会場の入り口に向かう。
運転手はその後ろ姿を軽く会釈をして見送ります。
この間、数十秒。
で、ドアの向こうに社長の姿が消えたのを見計らって、
体の向きを変えたら、なぜか、車が動き出し、あれよあれよという間に、走り去ってしまったのだそうです。
このちょっとした隙に、車を盗んだやつがいたんですね。
もちろんこれは大問題なんですが、その運転手、警察なんかに通報はしたのですが、

そんなにすぐに車が出てくるわけがない。
短い会合が終わって、社長が会場から出てきました。
社長は当然、自分の車が玄関先に待機していつ思ったのですが、
運転手が立っているだけ。
車どうした、と当然の質問。
運転手はしどろもどろ、盗まれてしまったんです、と。
その説明では社長は状況が理解できない。
運転手ともども呆然としていた、と言いうことです。

 

で話を元に戻します。
車の盗難で、リレーアタック、と言う手口があるんだそうです。
ちょっと正確に理解できないのですが、どうもこういうことらしい。
最近の車は、厳重な盗難防止機能を持っているスマートキーになっていると思うんです。
うちの車もそうです。
車のスマートキーから絶えず微弱な電波が発信されていて、
キーが、およそ微弱電波の範囲、約1メートルぐらいだそうですが、
そこに近付くと、反応し、ドアのロックが解除され、エンジンもかけられるようになるわけでしょ。
で、このキーから発信されている電波をある機器がキャッチし、
要するにこれがリレーの意味なんですが、
この電波情報をとらえた機器で、車のロックを解除し、エンジンをかけることができると言うのですね。
ですから、キーの電波情報をキャッチできれば車を盗めるというわけです。


方法はほぼ二つ。
まずは自宅の駐車場に止めてある車で、高く売れそうな車種などを狙い、
その家の玄関に近付く。
大体、玄関のかべにキーホールだーがあって、ここにキーが掛けられていると、
玄関の扉あたりから、この微弱電波を検知出来るんですって。
そうなれば、あとは簡単、今度はその機器を車の所まで持って行って、

ロックを解除し、エンジンをかけて、走り去るわけです。
で、ふたつ目は、レストランかなんかの駐車場で待ち伏せ、車を降りた後、どの席に着席したかを確認。
さりげなく、その席の近くを通り、電波情報を盗み出す。
で、そのまま外に出て、その先は、簡単に車を盗む、と言う事なんです。
いや、飛んでもなく頭のいい奴らでしょ。

スマートキーなんてなんて便利なものなんだ、と思っていましたが、
そういうことでもしっかりと裏をかいてくる輩はいるんです。
ま、正直、その頭の良さに、脱帽です。
その対応策としては、鍵の置き場を家の奥にする、ぐらいしか対策はないようです。

いやあ、ややこしい世の中になったものですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 16:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
今の医療は日進月歩

医療は、正に日進月歩、とてつもない速度で進化し続けています。


若いころは、これと言った病気にもなりませんですから、
医療の世界がどのような状態なのか、ほとんど関心もなかったのですが、
年を取って、あちらが痛い、こちらが不調と言うことが多くなると、
病院を訪れる機会も増えて、医療のさまざまな情報に接するようになります。
で、それを聞くたびに、なんという進化だろうか、と。

 

例えば、ここにきて再度ブレイクしているボヘミアンラプソディのフレディ・マーキュリーですが、
少なくとも、今だったら、エイズでは死なない状況になりつつあるわけですから、
きっと生きていただろうね、などとフレディのファンのかみさんと話すことがあります。

 

身近なもので、最近がんの宣告を受けたものがいます。
体調不調で病院に行ったところ、精密検査の結果、このまま何もしなければ一か月、という、
びっくりする宣告を受けたのだそうです。
そりゃそうでしょ。
一か月と言ったら、何もできないまま人生を閉じるんでしょ。
で、早速治療計画が立てられ、それにしたがって治療に入ったのですが、
症状と治療法と言うのは、時に相性のようなものがあって、
適合してうまくゆく場合と、全然受け付けない場合があるようで、
正に試行錯誤の連続なようなんです。
でも、なんだかんだと、相性のいい治療法を探りつつ、

最近は、正常に近いような状況まで回復してきた、と言うんですね。


で、その試行錯誤のプロセスで、しばしば出てくるのが、新しい治療法という言葉でした。
一言で言えば、治療の選択肢が広がってきているということと、
その中でも効果的な方法が、集積されたデータで、裏づけされている、と言う事なんですね。
まあ、一言で言えば、かつて恐ろしいと思われた病気も、

なんとかなる時代になりつつある、と言うことです。

 

これも、実はそこにたどり着くまでは、うまくいかなかった例があってのことなんですね。
まあ、申し訳ないですが、失敗した治療法が成功した治療法に変わってゆくわけです。
もちろん、すべてが成功例であることが望ましいのですが、
治療法と症状は、人間の個性があるように、個性的な反応をするもので、
いい場合とうまくゆかない場合に分かれるのは仕方ないようです。
でも、失敗例は単に失敗に終わるのではなく、
次の成功への指針となっていることが厳然としてあるのです。
言い方に問題があるかもしれませんが、
ある種の犠牲的存在の上に、次の成功が生まれてくるわけなんです。

 

以前、私が重症筋無力症が発症し、その頃の最新の治療を受け、
結果として現在は、なんてことない状態まで回復しています。
その昔、記憶の片隅にあった、中村錦之介さんが車いすに座って、人前に出てきた写真があって、
その時、重症筋無力症と言う病状が報じられたことがありました。
つまり、その頃は、不治の病として、難病に指定されていたのです。
もっとも、今でも難病指定になっていますが、死亡率なんか、もう雲泥の差です。
この病気で死ぬ人はほぼいなくなったそうです。


これには、プロセス、プロセスでの治療法が向上してきたからなんですね。

この病気の治療として、先ず胸腺と言う臓器の摘出をします。
私の場合、これも、無事に済み、その後投薬での治療に移ったのですが、
手術後、ある会合で、さるご夫人から、私に、何の病気になったんですか、と聞かれたんですね。
私は、どうも重症という言葉が嫌いで、単に、筋無力症です、と答えたら、
その後夫人が、重症筋無力症だったんですか、と言葉を返してきたんです。
で、なぜ重症という言葉を付け足したのか疑問に感じ、
それを聞くと、じつは、私の主人が重症筋無力症になったんです、と。
で、詳しく話を聞くと、同じく胸腺の摘出手術をしたのだそうですが、
その時、発症の原因である、抗アセチルコリン受容体抗体が、大暴れをし、肺呼吸筋がマヒし、呼吸停止、
集中治療室に運び込まれ、数週間出てこれなかった、という、経験をしたのだそうです。
実は、私が手術した時は、そのような状況に陥らないための対応方法がとられることになっていて、
それによって、私は何てことなく手術を終えることができたんですね。
この方のご主人と私の手術した期間は2年ちょっとの差。
この間に、より安全な手術方法が見つけられたんですね。
ま、正直、そのような過酷な経験をされた方が土台になって、
より安全な手術方法が見い出されたわけです。


私はその話を聞いて、そのご夫人に、ご主人のよろしくお伝えください、
おかげさまで、私は、無事に安全に手術をうけることができました、と。

この経験から、医学の日進月歩の現状を実感することができたのです。

 

池江璃花子選手が白血病を発症したというニュースが流れました。
この病気の現状を私は知りませんが、おそらく最新の治療を受ければ、

きっと回復するだろう、と思っています。
ま、競技者としての能力まで回復するかはわかりませんが、

まずは、普通の人間としての健康を取り戻すことに専念してもらいたいですね。
もう、オリンピックなどと言う身勝手な希望を彼女に託すのはやめましょう。
すでにいままでの実績だけでも、多くの人に、夢と勇気を与えてくれたのですから、
先ずはなにより、元気になることに専念し、あの明るい笑顔を又見せてもらえれば、それで十分です。

今の医学の力を信じ、一日も早い回復を祈ります。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
バイトテロ

バイトテロ。
長生きするもんですね。
バイトテロなんて言葉は、この年になって初めて耳にしました。
もっとも、年を取ってからの耳にする言葉は、年を追って増えてくるようです。
新しいボキャブラリーとして、頭のどこかにストックしなくてはならないのでしょうが、
これがなかなか難しい。
一番の障害は、覚えなくてもいいか、と言う諦観ですね。

 

ま、年寄りの愚痴はともかく、
なんだバイトテロって、と記事を読めば、いたって単純な事柄。
しかし、普通に正義感を持っている人なら、こういう若者を受け入れがたい所があるわけでしょ。
おそらく、これらの行動をした者たちに、ほぼ、99%の人は、否定的な見方をしているはずです。
だって、肯定する理由なんてかけらも見いだせないでしょ。

 

私もごくごく普通に99%のうちの一人ですから、いたって単純な結論で、
常識、社会性の欠如する若者については、何らかのお仕置きが必要だろうと思っています。
まあ、尻の百叩きなんてできないでしょうから、
可能なかぎりの厳罰を適応すべきでしょうね。
刑事・民事のすべてで最大級の処罰が適応されれば、
これは大きな抑止になると思うんです。

 

罪に対する罰は、二つの考え方があると思います。
一つは犯罪者に、まっとうな人間になるための必要な期間が刑期として言い渡される。
そして服役。

または罰金、いずれにしても罪をあがなう、と言うことです。

もう一つは、再発防止です。
ある意味見せしめですね。
そんな割の合わない事ならやめておこうか、と言う抑止効果です。

 

あるアメリカのドラマでの1シーンです。
ゴロツキの一人が、ビリヤードでゲームをしていると、
かつてのムショ仲間がやってきて、今度、ここの銀行を襲おうと思う、と銀行強盗の計画を話し、
仲間として手助けしてほしいと依頼します。
そいつは、で、報酬はいくらか、と聞きます。
金庫に眠っているであろう金額を、山分けする、と言うんですが、
その額を聞いて、そいつは、話を断るんですね。
「割に合わない」と一言。

 

犯罪と言うリスクと、それに見合う報酬。

ハイリスク・ハイリターンなんて言葉が保険の業界などにありますが、
正に危険度に見合う金額ってあるんでしょうね。
ですから、基本的にはどんな犯罪も、ハイリスクに思えるようにしてしまうべきなんです。
でないと、抑止効果と言うのが得られにくい。
酒酔い運転の厳罰化によって、見る見る間に、日本の交通事故死者数が減少しました。
時に、百万単位の罰金に、みんなビビったんですね。
要は、割に合わない、と考えたわけです。

テレビを見ていると、非道な犯罪が報道され、しかも、またかと思うほど、後を絶たないでしょ。
子どもを虐待し、命まで奪うとか。
すると、うちのかみさんはニュースを見ながら、裁判官になってしまい、
一言、死刑だ、と言います。
ま、これに近い言動は、われわれも簡単に口にします。
死刑だ、と。
でも、もしそうなら、一挙に犯罪は減少すると思うのです。

 

国家公務員で、国会でまとも証言をしなければ、死刑、となったら、
モリ・カケや文書改ざん、統計疑惑など、スムーズに解明できたわけでしょ。
ありえないかもしれませんが、人の良心を目覚めさせ、

まっとうな人間的言動を取らせるというのは、
ときに、厳罰という、結果に対する抑止力が効果的であるし、
それが反ヒューマニズムになるとは思えないんです。

 

バイトテロですが、事前の教育をいかにやろうが、誓約書を書かせようが、
結局、仕事に対する意識の幼稚さがそういうことをさせてしまう、わけです。
不適切な動画投稿だと、皆、目くじらを立てていますが、
むしろこれは氷山の一角で、

隠れて、また、分からないように、これに類することをやっている可能性は大だと思うんですね。

 

その昔、戦時のさなか、上官にいびられる二等兵などが、炊事当番の時に
ご飯に、頭のふけを落とし、差し出すとか、汁ものに唾を入れて出すとかした、

という話を聞いたことがあります。
日頃、威圧的に扱われている腹いせなんですね。
これをふけめし、つば汁なんて言っていたそうです。

勿論、ばれれば、コテンパに殴られて、懲罰牢にでもぶち込まれてしまうんでしょうけど、
ま、ばれなきゃいい、と。

 

ですから、動画投稿など、自らばらしているわけでしょ。
そう考えると、ちょっと変わった神経ですね。
私は、これらの傾向から、むしろ、ばれなきゃいいという軽い気持ちで行われている不適切な作業の数は、
実は山ほどあるのではないかと思っています。
動画投稿という異常な自己顕示性はともかく、
職場のストレスとか、精神の未熟さによる、ばれない悪意の作業の方が、よほど怖いと思うんです。

 

子どもの頃、犬を飼っている友人がいて、こいつの飼っている犬が

やたら主人の言いつけを守るしつけの行き届いた犬だったんですね。
で、どうしてそんな風に仕込んだんだ、と聞いたら、
家につれてこられて、最初の頃に、食事の「マテ」を仕込んだんだそうです。
ま、オスワリ、オテ、マテは犬の仕込みレッスンワンでしょ。
で、どうしたのかと言うと、

マテと言って、目の前からは姿を消し、建物の陰から犬の様子を見て、
こらえきれずに餌を食べようとしたその瞬間、長い竿で頭を小突く。
犬はびっくりして、またマテの姿勢を取る。
これをやったら、一発でマテを覚え、以来、様々なしつけができるようになった、と言うんですね。

彼が言うには、うちの主人はいつでも、どこかで見ている、と思ったんじゃないか、と。

 

ですから、作業場に、監視カメラを付けるのもいいかもしれませんね。
監視?と反論されそうですが、
もともと、仕事をするのは、質のいい作業の延長で、お客様を集めるんですから、
その質のいい労働を作り出すのに、プライバシイも何もないでしょ。
更衣室を覗くというんではないんですから。

厳罰と監視。
最後の手段かもしれませんが、お客様のため、という大義で、企業は考えるべきです。
佐奈、あ

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
トップリーダーの在り方

さまざまな組織に、トップリーダーがいます。
会長とか、社長とか、組合長とか、理事長とか、もっと大規模になると、首相とか、大統領とか。
視点を変えれば、市長とか知事もそうでしょうね。


私も、現在、名目に過ぎませんが、二つの会社の社長をしていますし、
民間組織ではありますが、二つの組織の会長をしています。
ま、いいトップリーダであるのかどうかは、
ホント、自信ありませんが。

 

で、トップリーダーと言う立場は、なんとなく雰囲気で決まることもあれば、
組織のテーマに真剣に取り組み、結果として存在が重要視され、

トップとしての運営を任されるということもあります。

 

私は、会長をしているという二つのうちの一つ「すさ美会」と言う、美術家集団の組織の会長を務めています。
この会は、その名の通り、手すさびと言う概念が前提の美術家の組織で、
要は、ただ好きなだけとか、昔取った杵柄の復活とか、まあ、同好会的な集団なんです。
で、ある時、会長が逝去され、会長職が空白になってしまったんですね。
そこで、新年の総会と懇親会を兼ねて、さる中華レストランで、
年次の決算・予算を承認し、新たな会長人事をするという会合が開かれたのです。
で、決算予算案の審議が終わり、会長人事になって、これと言った会則もない組織でしたから、
司会進行係が、では誰か推薦して下さい、と言ったんですね。

すると、てんでんばらばらに、誰それさんがいいと思う、みたいな、ことを言う。
言われた人は、いやいや、あれこれ忙しくてそんな役は引き受けられない、と言う。
ひたすらこれの繰り返しで、正に堂々巡りになってしまったんです。
私も何故か、指名されたんですが、予期すらしていなかったので、しどろもどろの辞退の言い訳をしました。
で、一向に議論が煮詰まらない。
ルールがないので、決定的な詰めができないんですね。
で、事体が解決の方向に向くとは思えなかったので、
司会進行者は、らちが明かないし、時間も時間ですので、
乾杯をして、食事を開始しましょうと、提案。
全員賛成で、乾杯、食事、歓談、ということになりました。
アルコールが入ってくると、それまでの議論などすっかり忘れて、
要は、美術談義や世間話に没頭していたんです。
料理もそこそこの数が運び込まれ、宴も半ばを過ぎたころ、
司会進行者が立ちあがり、先ほどの新会長の件ですが、と切り出したのです。
これを聞いて、雑談していた声が止まりました。
そう言えば、まだ新会長を決めてなかったな、と言った程度の感じです。
ま、誰でもいいじゃない、という雰囲気でした。
で、司会進行者は、なぜかこう言ったんです。
「新会長は水嶋君に受けていただきます。」
おっと、それって断言じゃんか。
本人に何の相談もなく、また了解も取らずに断言かい?
つまり、ほぼ決定と言う感じなんですね。
私は、当然ですが、ちょっと待ってくれ、と言いました。
心の準備すらしていなかったんです。
と言うのは、私はその組織にはいって、3〜4年目。
しかも、ジャンルは油絵だったんですが、基礎も何もない。
ただ何となく気の赴くままに、絵筆を握っていただけで、
一目瞭然のど素人の作品を、やっとこさっと仕上げるのが精いっぱいだったんです。
要は、力量から言ったら、最下位レベル。
組織内の実績経験も新人レベル。
そんなものに、会長はないだろう、と。

 

瞬間ふとよぎったことが、
私が入会したその直前に、私の前前会長が逝去されたんですね。
ですから、私はその方と顔を合わせたこともなかったのです。
で、今回は、短期政権でしたが、前任の会長さんが急逝と言う事での今の事態。
つまり、会長さんが亡くなると新人事が動くわけです。
と言うことはですよ、これは、終生会長ということではないのかな、と。
つまり、死ぬまで会長職をしなくてはいけないんじゃないか、
ほぼ瞬時の判断ですが、そう思ったんです。
指名の宣告があると、無責任なもんで、みんな拍手なんかしているんですね。
中には、会長職を逃れられたと言わんばかりに大きな音を立てての拍手。

 

そこで、しどろもどろ、できれば辞退したいと言いつつ、これは逃れられそうもない、と。
で、よくよく考えれば、年に一回だけの会展が開催され、
その準備やら運営は、幹事さん達がやってくれる。
それほど負担にはなるまい、と考え、受諾したんです。

そんなくらいですから、ろくでもないトップリーダーなわけです。

 

ま、これは例外でしょうが、世のさまざまな組織のトップリーダーは、
大きく分けて二つのパターンがあります。
前進全力型と調和優先型です。
組織として、目的達成のために力で、前進をさせてゆくというタイプのリーダーシップです。
これは、効率的運営を心がけますので、成果を上げてゆくんですね。
しかし、一方で、ヒューマニティックな配慮が少なく、
成果は上がるけど組織内がガサガサになってゆく、という欠点を抱えがちです。
一方、調和優先型は組織内の人間関係を大事にしますから、穏やかな状況で組織が運営されてゆくのですが、
時に、成果を上げるという観点では、不十分になりがちなんですね。
どっちもどっちでしょ。

 

そこで、ある程度のインタバルで、この前進型と、調和型が、交替をしながら進めてゆく、
と言うのが、結果として望ましい展開をすることができるというわけです。
言い換えれば、先ほどの終生会長と言うのも問題なんですが、まあ、これは趣味の世界ですから、
そうは問題ではありません。

 

しかし、利益追求を目標とした会社や、市民国民の生活の向上などの責任の大きなものを担うトップリーダーは、
時に適宜な交替をすることが、組織の活性化には必要なことなんです。

言っちゃあなんですが、その意味で、安倍政権は長すぎますでしょ。
結果として、次世代を育てることができませんし、
時代の流れに即応した対応も取りにくくなります。
数々の不明確な政権運営があるにもかかわらず、
小手先の対応で、人のうわさも75日で、何とかその場を乗り切ろうといているような気がするんですね。
何より、なぜそこまで政権に執着するんでしょうか。


勝手な想像ですが、ただ、在位記録の更新を目標にしているんじゃないか、と思える節すらあります。

としたら、そんな個人的な意向に巻き込まれた国民はいい面の皮ですね。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
第7回、ふるさと納税論

このブログでは、すでに、6回も触れているのですが、
ふるさと納税がテーマで、その第7回目です。

 

どうして、何度もくどくどっ主張をくりかえすのか、と言うと、
どう考えても、国の考えが間違えていると思うからです。

で、今回のきっかけは泉佐野の問題です。
事のあらましは、
「ふるさと納税・礼品 名指し批判を受けた泉佐野市が猛反発」と言うことの記事がありました。
大阪の泉佐野市が石田総務大臣から名指しで批判を受け、これに泉佐野市が猛反発をしている、と言うんですね。
石田総務大臣の言い分。
「泉佐野市が新たにキャンペーンでプレゼントするというギフト券はふるさと納税制度の根幹を揺るがし、
制度の存続を危ぶませるものと考えています」
これに対し泉佐野市のコメント
 「石田総務大臣は「制度の趣旨」と繰り返し述べられていますが、
総務省の見解だけで強硬に物事を押し進め、
無理やり地方を押さえつけようとしているように思われ、
それこそが地方分権という理念の「趣旨」に反するのではないかと考えています」

これは、泉佐野市が数日前に、ふるさと納税の内容について、
2月から3月までの間、返礼品に加えて、寄付金の「最大20%」をアマゾンのギフト券で提供する、
という発表をしたのです。

 

そもそもが、総務省は、その前からふるさと納税の過熱化を苦々しく思っていました。
なぜかと言うと、国は、税金を集め、それを各自治体や事業体に分配します。

ここに権限が発生するんですね。

しかし、ふるさと納税は、直接地方自治体に税金を振り込むようなものです。

ですから、この中央が持っていた権限が多少なりとも減少してしまうからです。

 

そこで、返礼品については「寄付額の3割以下」「地場産品」「金券の自粛」という通達を出したのです。
泉佐野市の今回発表した内容は、これに反している、と。
さらに、制度の隙間を狙って明らかに趣旨に反する返礼品によって寄付を多額に集めようとすることは、
自分のところだけが良ければ他の自治体への影響は関係がないという身勝手な考えであり、悪影響が大きい、と、反論。

 

ま、言い換えれば、これによって国の税収能力が減少するということの裏返しで、

国への影響は関係がないという身勝手な考え、に言葉を変えるべきです。

 

さ、そこで、泉佐野の弁護をします。
まず、このふるさと納税の政策的意義についてです。
これは日本の国が、戦後の復興を成し遂げ、さらなる飛躍を目指していたころの話です。
昭和37年、1962年、東京オリンピックの2年前です。
このころは、経済復興も一段ギアを変えて力強く動き始めたころです。
池田内閣では、有名な「貧乏人はムギを食え」と言いつつ、
所得倍増を目指していました。
確かに国全体としては、イケイケムードだったのですが、一方で、大きなマイナス現象が生じていました。
それは、都市間格差です。
中央の都市に人口が偏り始め、地方が力を失い始めたのです。
過疎化、なんて言葉がマスコミで語られ始め、いわゆる田舎の地方自治体は、

人口減少のあおりを食らって、財政的な危機を迎え始めていたのです。

そこで、全国総合開発計画として、日本の国土開発の位置づけをし、

所得倍増とともに、地域間の均衡ある発展を目指すことにしたのです。
まあ、ぶっちゃけて言えば、取り残されがちな地方救済の政策です。
まず、地方へ、生産拠点を移す政策がとられました。
これは、大企業の工場などの移転とともに、地域での雇用の創出、法人税の地元への還付など、
地方自治体の救済策だったのです。
多少の効果はありましたが、この恩恵は結局一部の自治体にとどまりました。
平塚にも、この時代に多くの工場が建設されています。
で、その後、続々と改訂された全国総合開発計画が提示されたので、
 後に、全体の位置づけから、最初の総合開発計画は、1次総とも呼ばれました。
で、2次総が出たのが昭和44年。
開発の基礎条件整備による開発を全国に均衡のとれた拡大、を目指しました。
3次総は、昭和52年策定で、定住圏構想と言うものが示され、
大都市への集中を回避する政策を掲げました。
昭和62年の4次総は、東京への人口集中、諸機能の集中を分散させるため、
多極分散型国土の形成、と言うことを標榜しました。
5次総は、平成10年に、総合開発計画と言う名称を変更し、
21世紀の国土のグランドデザイン、と看板替えをしましたが、
要は、今まで連綿と策定されてきた全国総合開発計画のことです。

 

つまり、国の重要な政策として、安保や外交とともに、

この全総に位置づけは、時の政権の目玉政策でもあったのです。
5回もの改定を繰り返してきましたが、それでもどこか漏れが出てしまい、
その都度、前回の総合開発計画を補完するように、改定版が出されてきたのです。
つまり、時代は流れるとはいえ、決定打を撃てなかったということです。
要するに、地方の格差は、様々な手法を使っても埋められなかったんですね。
この間、ますます人々は中央に流れ込み、地方自治体は人口が減り、

それに応じて、行政体の財政は悪化してゆきます。

 

ごく最近にデータでは、地方の人口減をよそに、首都圏だけでも年間14万人の人口増だとか。
正直打つ手がなくなってきている、と言ってもいいでしょうね。

 

かつて、竹下内閣時代に、ふるさと創生基金として、各自治体に1億円を無差別に配布したことがありました。
突然の金の使い方に戸惑った自治体は多く、一億円分の金塊を展示するなど、
なんの創意もないまま、この騒ぎは沈思化していったことがありましたが、覚えているでしょ。
要は、中央に集まる富を地方に分散しようという、いかにも無分別な政策だったわけです。

 

さ、そこで、今回のふるさと納税です。
平塚市は出遅れましたが、この制度を活用した自治体は多く、それなりの成果が出ました。
まず、財政的収入が上がったことです。
第2に、その土地の産業が潤ったことです。
例えば、焼酎を返礼品にしたとします。
そうすると、焼酎のメーカーの売り上げが増えた、ということになるでしょ。
地場産業の振興につながったわけです。
第3に、都市名の広報ができたということです。
ふるさと納税額のランキング1位の宮崎の都城市では、これらの経済的効用以外に、
都市の名が広まった、と実感したそうです。
今までは、高校野球以外では名が売れなかった、と。
地方都市に住む人間の心情に、自分の住んでいる街の名が知れらていない、

と言うことに、幾分かさみしい感じを持つものなんです。
それが証拠には、各行政体の中で、まちの名前を浸透させる政策が、必ず掲げられています。
これをどうでもいい、とするところはありません。
なぜなら、この精神的なものが、人口減を食い止める要因の一つだからです。


このふるさと納税の在り方について、国から地方の自主性を損なう様な手かせ足かせを掛けると、
せっかくの効果が減少してしまうでしょう。
今まで、5度にわたって繰り広げられてきた、

全国総合開発計画になかった、地方再生のきっかけが見出しつつあるのです。
逆に、もっと制限なしにし、展開すべきではないでしょうか。

世田谷区が、ふるさと納税のおかげで、税収が減少した、とぼやいていましたが、
中央にマイナス、地方にプラスと言う、政策の効果が出てきた、ということではないですか。
税収減をぼやく前に、世田谷もまたふるさと納税のシステムを活用すればいいことなんです。

 

泉佐野は、例の夕張市が財政破たをしましたが、その次の候補と言われていた市です。

正に崖っぷちなんですね。

なんだか、総務省のこの発言は、「首っつりの足を引っ張る非業さ」に通じていませんか。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 13:09 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
生老病死の生の意味

手水(ちょうず)と言うものがあります。
多くは、神社などの中庭にあって、参拝の折に、
手を洗い、口を注ぎます。
この手水の一種で、高級料亭の中庭なんかに置いてある手水鉢があります。
大体は、座敷を出ると廊下があり、その先に御不浄がある。
その手前に、ちょろちょろと水を流し、竹でできた柄杓かなんかが伏せておいてあって、
用が済んだら、これで水をくみ、手を洗うというわけです。

この手水鉢は、なぜか、吾唯足るを知る、という文字が円形に刻まれているものが多いようです。
直径では、およそ2尺前後。
外周は円形で、デザインとしては、寛永通宝とかの銅貨を見立ているんでしょうね。
この中央が四角く刻み込まれていて、いわば文字としての口になっているんですね。
この四角の部分に、水がたまるんです。
で、上から五、右に行って隹(ふるとりと読みます)。
下に下りて、疋、訓読みで、あしとかひきとか読みます。
で、左に上がって、矢です。
つまり、口を囲んで、時計回りに、五、隹、疋、矢、四つの文字が取り囲んでいるデザインです。
それぞれ、口を足すと、吾、唯、足、知の4文字になります。
これは、そのまま、吾唯足るを知る、ということの意味となります。

とても意味の深い言葉を、実に巧みにデザイン化したものです。

私は、ただ、足りていることを知る、という意味ですが、
これを別に、知足とも言います。

 

人間の欲には際限がなく、時に、他の人の分まで収奪するということがしばしばありました。
これはただひたすら、将来に対する不安から、物をため込む、

と言う習性がDNA化されて、人間の本能に、組み込まれてきたのです。
よく、リスなどが、秋に森になっている木の実を集め、食べきれない部分は地面に埋めて、
冬眠から覚めたら掘り起こす、と言う習性があることをご存知と思いますが、
あれも、蓄財の一つですね。
わが身を養う、最低限の行動なんですが、
その最低限ならともかく、時に、不用と思われるほど蓄財に執着する人がいます。
まあ、ゴーンさんなんかその一人でしょうね。
ともかく、人間にはもっともっとと言う思いが働きます。
その原点は、不安なんですね。
不安を解消するために、際限ない蓄財に走る。
もっともできればの話ですが。
でも、それをしていたら、食い扶持の総量には限界があるので、誰かがへこんでしまう。
つまり人の食い扶持にまで手を付けて、わが身の将来の不安のために蓄財するのは、
やはりおかしいだろう、というのが、吾唯足るを知る、の解釈です。

 

いま与えられているもので、十分としよう、というわけですね。
足りている、つまり不足ではありません、という現状をしっかりと知りましょう、ということです。
これはこのブログでも、何回も書いてきましたが、
キリスト教の聖書に繰り返し出てくるたとえ話、パラブルと言いますが、
そのうちの一つに、
「金持ちが天国に行けることは、ラクダが針の穴をくぐる事より難しい」
と言うイエスの言葉があります。
要は、いくら貯め込んでも、幸せになるとは言えない。
むしろ貯め込むことは、人の取り分まで手を付けることになり、
その人に苦痛を与えることになる、という考えなんでしょうね。
ですから、いま与えられているもので、先ずは満足しなさい、と言う事なんでしょうか。

 

正に、吾唯足るを知る、ということです。
このことは、併せて、与えられている事のありがたさにつながります。
初めに、命を父よ母からいただき、とてつもないエネルギーを注いで育ててもらい、
学校に行くようになってからは、先生に教わり、友達にささえられて、
社会に出てみれば、共に働く者がいて、品物を入れてくれる業者、品物を買ってくれるお客様、
すべてが、支えてもらって生きてきたわけでしょ。
それを当たり前ではなく、ありがたいことと認識しなくては、
私達が奇跡のごとく与えられた命の意味を見失ってしまいます。

 

そう言う物のとらえ方ができないと、
物はとしては豊かであっても、心の貧しい人生になってしまうんですね。

 

世の中にはとんでもない奴がいるもんだとあきれ果てたニュースがありました。
ま、確かに、暴力で我が子を殺してしまう鬼畜生もいますが、
それに匹敵する鬼畜生です。
「同意なしに自分を生んだ、という理由で、インドの27歳の男性が、両親を告訴しようとしているのだそうです。
サミュエルというこの男は反出生主義者(そんな主義があるんだ)で、
苦しみや悲しみばかりの世の中に、子供を産むことは倫理的に間違っている、と信じているのだそうです。
これは自分の命を粗末に生きていることと、とてつもないエネルギーを注いで生育してくれた親への冒涜でしょ。
第一、子が親を選べないこととおなじで、親も子を選べないんですね。
これはある意味、親子と言う人間関係の難しさかもしれません。
しかし、これをマイナスの条件と取っている限り、世の中、マイナスの条件だらけでしょ。
釈迦が疑問に思った、生老病死の「生」は、生きることの悩みだと思っていましたが、
もしかすると、このインドの男のように、生まれてくることの「生」なのかもしれませんね。

まいずれにしても不毛の裁判になりそうです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
春節の爆竹

実は、どこの国も、現状に至るまでは、かなりえげつない内部抗争があり、
その結果、多かれ少なかれ、覇権を得た者たちが、その国を支配しているわけです。
つまり、覇権に対する強い欲望が国家形成の基盤と言ってもいいかもしれません。


中に、民族と言う認識の仕方があって、
血筋の違いや、言語、文化的風習、価値観など、微妙な違いと、生活領域による区分が、
民族意識を醸成し、今日に至っています。
きっと、歴史をさかのぼれば、今は和気あいあいの仲でも、
正に犬猿の仲だったことがあったんでしょうね。

 

特に中国は、覇権の歴史と言ってもいいくらい、次々と次なる勢力が国を治めてきました。
で、結果として、漢族が主流になっているのですが、
中には、他民族だったのが、漢族になってしまった民族がいて、

現在に至ったのではないか、と勝手に想像しています。
漢族は、中国の94%をしめる一大民族で、中国以外にも散っています。
移住先では、華僑とか、華人、唐人など名乗ってはいるものの、要は漢族なんです。
その数は、世界人口の20%と言われています。

で、この中国はとてつもなく広いですから、雲南省とか、どちらかと言うと海から離れた山間部には、
少数民族と言われる、言語の違いや文化の違いを伝統的に維持している民族がいます。
この数中国全体で55。
55の少数民族には、当然ですがさまざまな名称があります。
少数と言えど、満族などは985万人、神奈川県より多いんです。
回族も860万人で、大坂とトントン。
それでも少数民族ですから、中国はでかいんですね。

 

雲南省の12万人ほどの少数民族で、チンポー族と言う民族がいます。
まあ、ちょっと変わった名前だなと、気になったので、ご報告まで。

ともかく、基本は覇権行動の繰り返しで、現在に至っているわけですが、
やはり、人口14億と言う、日本の10倍を超える人々がいるんですから、
それは相当の大きな内在的な力を持っているはずです。

 

30年前と言えば相当昔の話ですが、その頃中国を訪れた時の印象は、
都市の一部は新興していましたが、ちょっと田舎に入ると、極端な話、戦後の日本でした。
まだその時のことを印象深く覚えているのですが、
湖南省の省都、長沙に行き、そこからバスで、150キロほど南に下った湘南の本家のまち、

衡陽に向かったことがあったのです。
この時、正に田舎道をごとごと走るのですが、

まだ道は十分に整備されていなくて、道路の標識ごときものはゼロ。
道路の路肩辺りには、背丈4〜5メートル、幹の直径20センチほどの街路樹が植わっているんですね。
で、その木の下から1メートルほどの幹のところに白いペンキが塗ってあるんです。
あたかも包帯でも巻いたようにです。
で、まあこれはそれなりに、道路の何かの役を果たしているんだろうと。
まあ、日本で言えば、ガードレールに近いものか、路肩表示のポールか、そんなところです。
夜走ると、まさにまちがいなく、ライトに白いラインが浮かび上がり、路肩表示になるんですね。
そんな状態でした。

 

何より、トイレの事情が驚くほど遅れていて、
200人ほど収容のレストランでも、トイレは表に出て行って、公衆便所で用を足すのです。
またそれが汚い。
食事の途中で見るべきものではないんですね。

 

このバスでの行程でのことです。
道には、ほとんど車は走っていないので、前方の遠くの景色が展望できるのです。
で、その日は日曜日だったのですが、20分、30分走るインタバルで、遠くに人だかりが見えて来るのです。
市かなんかが立っていて、近所の人が集まってきているんですね。
で、遠くでは紺色の塊なんです。
要は紺の服を皆が着ている、ということです。
でも紺色が多い所は、人の数も少なめで、要は田舎の小さい村落なんでしょうね。
そこを抜けてしばらくすると、また人だかりが見えてきます。
こんどは、紺以外に幾分か赤だとか水色だとかの色合いが増えてきます。
これは、そこそこ大きな集落で、田舎と街の中間ぐらいの規模なんでしょうね。
つまり、道端の市にお休みだから、人が集まってくる。
で、その集落の都会度、田舎度が服装のカラフルさに如実に表れてくるんですね。

 

ま、いずれにしても、あの広い土地でも、どんなところにも人が住んでいるんだ、と言うのが実感でした。

あのころのことを言っても仕方ないのですが、
最近のニュースなどを見ていると、とてつもなく、発展しているな、と思います。
きっと、長沙から衡陽までの道もきっちり舗装され、ガードレールなんか設置され、
街路樹は街路樹として、植栽されているんだろうな、と思います。
何よりも、市場に出てくる人の服装は、さぞかしカラフルになっているに違いないでしょうね。

 

そして、中国は国際社会においても様々なイニシアティブを握りつつあります。
こういうのって、それはそれで良しとすべしなんでしょうが、
根が、覇権の国ですから、そこがちょっと怖いですね。
せめて、民主主義の国だったら、それはそれでいいのだと思うんですが、
いわば、共産主義者の独裁でしょ。
リーダーがどのような舵を取るのかアブなしくって仕方ないですね。

 

この湘南の旅で、長沙に2泊したのですが、
二日目の朝のことです。
ホテルの窓の下を、とてつもない騒音を立てて車が走ってゆくんです。
思わず飛び起きて何事が起きたのか、と外を見ると、
小さなトラックの荷台に人が乗っていて、爆竹に火をつけて、路上になげ、
それが、爆音を立ててはじける。
パンパンパン、と、道に響き渡るのです。
朝の5時にですよ。
いい迷惑でしょ。
つまり、人の迷惑顧みないのが中国の人の本質なんですね。
しかも、春節から半年も経った時のことです。

ですから、春節になったら、凄まじいでしょうね。
テレビの報道でも、春節と爆竹の関係が取りざたされていますが。
正に中国人の民意のレベルの問題なんでしょうね。
大気汚染になるほどの状況だそうです。

 

自慢じゃありませんが、日本のお正月は、

お正月だからこその澄んだ空気に覆われますね。
初日の出を見るたびにそう感じます。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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