水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
授かり婚

世相は変わるものですから、この間まで良いと思っていたことは、良くないことになったり、
またその逆もあったりで、

結果的にはじわじわと新しい傾向にながれ、それが定着してゆくわけです。

 

結婚と言う形態も、きっと人類史的に見れば、

実に様々な形態をとってきたのだろうと思います。
それこそ、石器時代から流れを整理すれば、
考えられないようなシステムもあったはずです。
記録に明白な江戸の頃でさえ、今とは全然違いましたし、
結婚そのもののシステムとして、
お見合いと言う方法と自由恋愛と言う方法の比率が入れ替わったのが、
昭和42年のことです。
それまではお見合いによって男女が縁を得てきました。
しかし、この昭和42年を境に、恋愛結婚と言う比率が多くなってきて、
いまや、仲人さんが間に入ってお見合いなんてシステムは、絶滅危惧種でしょ。
さらには、ミレニアル世代なってくると、先ず同棲、その後結婚、と言う手順が普通だそうです。

 

そもそも、恋愛は感情の所産です。
結婚は英知の所産です。
全然別ものなんですね。
ところが、恋愛の延長で、熱気のあまり一緒になりたい、

と言うのはそれはそれで幸せなプロセスだと思うのですが、
この、時に冷静な判断が必要にもかかわらず、恋と愛を混同し、結婚する。
時間とともに冷静さを取り戻し、どうもこの相手は結婚生活と言う人生を共にするには、
適当な相手ではない、と考えるんですね。
まあ、些細なことが不満になる。
毎日毎日のことですから、これが積もるに積もる。
で、どこかで破たんする、ということもあるわけです。

 

偶然かもしれませんが、子どもを虐待し、時に死に至らしめるような出来事の大半が、
シングルマザーが、新たに登場した男と恋愛関係になり、一緒に暮らし始める。
男は、自分の子ではないですから、子どもにかける情が薄い。
結果として、子どもが犠牲になり、壮絶な家庭内暴力が始まるわけです。
女が、もう少し結婚と言う形に入る前に、冷静さをかけらでも持っていたら、
子どもを作ること自体、きちんと考えの上で対処したと思うのですが、
恋愛感情の中で「出来ちゃった」ので何とかなる、と考える。
ま、それはそれでと結婚する。
しかしいささか相手を見る力、二人の相性など、雑に見てきたため離婚する。
その結果が、経済的にも厳しい母子家庭となり、精神的にも支えが欲しいとなると、
次の男を受け入れてゆくわけですね。
子どもへの虐待が発生するのは、
恋愛関係と夫婦関係を混同して受け止めてきたことが大きな要因なんです。

 

人間はライオンと違いますが、
年老いた雄ライオンが統率していた群れに、
若く力のあるオスが、力比べの結果、群れを乗っ取ると、
自分のDNAを持っていない子ライオンをかみ殺してしまうんです。
新しいパパが、先夫の子供を虐待するに似ていませんか。

 

そもそも、動物と言うのは、まず個が存在し続けようとします。
自己生存の本能ですね。
自分の命を永らえようとすることです。
そのために食餌を確保します。
次に、DNAの継承をはかります。
子どもを産むということです。
ですから、この二つの本能にしたがって考えれば、
恋愛と言う、セックスに結び付く感情を否定するのもおかしいでしょ。
でも、人間の特性として、子供の成長に手間と時間がかかるので、
どうしてもパートナーが必要です。
とくに現代のように核家族化してしまうと、子どもを育てるということが、
最低限パートナーの協力が必用なわけです。


打算でもなんでもなく、シングルマザーと言うのはきつい形態なわけですね。
だからそこを解消しようという事なんでしょうね。
大雑把に、出来ちゃった婚と言うのが、時にこういう状況につながってしまう、と言う事なんです。

 

最近、授かり婚と言う表現が登場しました。
なかなか素晴らしいですね。
できちゃった、と言うと妙な後悔とか、後ろ向きの感情があるように感じますが、
授かり、となると、明るくめでたい感じがするでしょ。
時に待ちに待った、ということです。
多分、傍目にはどっちがどうか、違いが判らないと思いますが、
将来を展望した時に、出来ちゃったから仕方なしに入籍する、と言うのと、
待ちに待ったように授かったので、これを契機に結婚するというのでは、
どこか大きな違いがあると思いませんか。

 

時の流れとは言え、男女の関係も、いろいろ変わってくるのですが、
生物として根底に盛っているDNAはそうそう簡単に変わらないですから。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 15:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
啐啄

学校と言うのは、先生がいて生徒がいて、
先生が生徒に教える。
まさに、バランスはともかく、知育、徳育、体育、食育をいかにとらえ、
いかに身に着けるか、を教え伝えるところです。
そこには、生徒の自主性を重んじ、正しい方向に向くような指導が行われるわけです。

 

啐啄(そったく)という言葉があります。
そもそもは禅の言葉ですが、
雛が卵から孵化するとき、雛が内から殻を突っつく頃合に、
母鳥が外から殻を突っつく様を啐啄同時と言うように使われています。
これは、この絶妙なタイミング、また親子・師弟の関係を表していて、
雛が殻から出ようとして、内側から突っつき、ひびを入れます。
これを啐と言います。
そして親鳥は、その様子を見て、雛が殻を割りやすいように外側から、殻を割り
手助けをします。これを啄と言います。
で、親鳥のタイミングが早すぎると、
子は、楽に外に出られるものの、生命が生まれる大事な時に
力を借りて楽な経験をするため、その後の困難に打ち勝つことができなくなる、
と言うある意味、雛の試練の一つとしてとらえます。
で、逆に、親の手助けが遅いと、雛は、時に力尽きて、殻を割ることができず、
命を落とすこともあります。
早すぎてもダメ、遅すぎてもダメ。
自立性を重んずるがあまり、傍観してしまうと、それは無責任な放任主義になってしまう。
かといって、あれこれ手助けが過ぎ、過保護に陥ると、

自力で人生を切り開くという気概を育てることができない。

この啐啄は、その意味で、理想の教育機会の比喩に使われているのです。

 

正に教育の望ましい師弟のバランスの絶妙さを表現したんですね。
逆に、このバランスが悪いと、子どもは子どもなりに影響を受ける。

 

今回の例の教師間のいじめがいい例ですね。
師が人の道を外れた行動をする。
即座に、弟にそれが反映される。
現に、教師のいじめが発生してから、生徒のいじめが多発した、と言うデータが公表されていました。
恐ろしいくらい、原則通りになっているわけです。
教育と言うのは、時に正面からぶつかって、指導、矯正をする必要がありますが、
併せて、後姿の教育も大事です。
親が、いい加減に生きていて、子供に、ちゃんと生きろ、と言っても子は聞く耳持たないでしょ。
先生が、いじめはダメだ、と言っても、自分たちがいじめをしていたら、
子どもに対して示しがつかないでしょ。
要は、大人の生き様がそのまま投影されるということです。

 

いやそれにしても、こんなことがあるんですね。
信じられない出来事でしょ。
先生が先生をいじめるんです。
話しの詳細が徐々に表ざたになればなるほど、異常なくらいの違和感を感じますでしょ。
そんなことが起きるのか、と。
私達が子供のころ、異常なほどの違和感を感じる人は、

一言で、キチガイと言っていたと思います。
今時そんな言葉を使ったら非難されるのかもしれませんが、
でも私達には、貧弱なボキャブラリーで、こういう人たちを表現するとしたら、
それ以外の選択肢はない、と思うんですね。

 

なんとなくですよ、これに関わる報道を見ている限り、
なんか神戸市立東須磨小学校全体が、そういう色に染まっていたとしか思えませんね。
前校長もどうもおかしいし、
現校長も、ぴんとこない。
なにより、この四人の教師を自宅待機させ、この間は有給ですって。
驚きの処置でしょ。
ちょっと待て、君らの給料は誰が払っているんだ、でしょ。

 

教育界と言う特殊な世界の中で、何か正常性が失われてしまったんですね。
可哀そうなのは子どもたちです。
せっかく、志を持って啐しているのに、
適宜な啄が行われないんでしょ。

 

そもそも、こういう現象が生じ折るということの背景は、
ミスを犯さない、と言う精神的な縛りが強く、
そのために、多少のことは隠蔽し、時に不都合な真実は目をつむり、
正直、正確に表現しない。
時に嘘を言う。
だから適切な処置ができない。

最大の問題は、教育の場で現れたということでしょうね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 20:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
自然災害という言葉に逃げていないか

人は暮らしてゆくうえで、水を必要としています。
飲み水など体に取り入れる事もさることながら、水によって生産される食料、
また、燃料となる樹木など、多くの人が生きてゆくうえでの必需品なんです。
世界4大文明と言われているエジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、 黄河文明がありますが、
そのすべてが、川の流域に発生しました。
エジプトのナイル川、メソポタミアのチグリス・ユーフラテス川、インドのインダス川、
そして、中国の黄河です。


日本においても、原則、川の流域に人は集まり、集落を形成し、
特に、米作が基本となった農耕に関しては、否応なしに川とともに生きてきました。
ですから、人間にとって、川から離れられないので、
逆に、川をいかにコントロールするか、ということが、人類史の一部になっているわけです。

 

私の父は、印章業出身です。
印章は漢字の世界と切っては切れないものですから、
漢字に関してはかなり豊かな知識を持っていました。
ある時、私のこんなことを言いました。
漢字と言うのは、今の形態になる前に、
隷書(れいしょ)とか篆書(てんしょ)と言われる形態を経てきている。
だから、今伝えられている漢字の形の前身は、隷書、篆書に求めることができる。
そこで、漢字の成り立ちがよりわかりやすくなる、と。
なぜこんなことを言ったのか、その前後のことを覚えていないのですが、
こういう話題だったのです。
で、その時、政と言う字を取り上げたのです。
まあ、せいと呼んだり、まつりごとと言ったりします。
で、この文字の成り立ちは、へんに「正しい」
つくりを文としているが、隷書・篆書によれば、支えるだ、と。
つまり政治の政と言う字は、正しきを支える、という意味をもっている、と言うんですね。
この時の話をよく記憶しているというのは、

きっと、父との会話で、

およそそういったアカデミックな話題が少なかったからではないか、と思うんです。

 

つまり、政治とは、正しきを支える、と言う集団の価値基準を持って進めることと、
治は、サンズイに台、つまり水をコントロールするということですから、
正に治水そのもののことです。
要するに政治とは、正しきを支えつつ、

水による災害から国民を守る、と言うことの理念を表した言葉なんですね。
まあ、大雑把ですが、この二つの機能が、政治と言われる領域のなすべきことなわけです。

今回、19号の台風で、死者、不明者が、90人を超える、と言う被害が出ました。
あわせて、52の河川が決壊し、それぞれの地域で、大きな被害を生み出しました。
テレビなどで、その状況が放映されていますが、
泥まみれになった、家の中を片づけている人たちを見ると、何とも気の毒、としか言いようがありません。
家や車、家財道具、畑の作物や、工場の機械など、水浸しで、放棄せざるを得ない人も続出しているようです。
ある町工場が浸水し、機械類、パソコンなどが使い物にならなくなってしまった、
再建に1000万円は飛ぶだろうね、と肩を落としていました。
家に壊滅的な被害を受けた人は、建て直すしかないだろう、と頭を抱えていました。
誰も、受けた被害を金銭に換算すれば、
何千万とか、何百万とかの数字のようです。
余力たっぷりで生きてきた人はまだしも、
やっとこさっとこやってきた人にとってみれば、
雨が降って、川の堤防が決壊して、我が家に流れ込んできて、
それによって発生した損害は、自分で負うしかないわけでしょ。

かなりきつい状況でしょ。

 

しかし、冷静に考えてみれば、治水と言うのは、国家の重要な使命でしょ。
二宮尊徳さんをはじめ、地域の治水に貢献してきた人は歴史的にも多くいます。
大昔から、人の暮らす集落では、全体の仕事として、治水工事が行なわれててきたわけです。
この国で暮らすうえで、様々にかかるコストを税金として納めています。
その中の幾分かは、治水の費用として拠出しているわけでしょ。
まあ自然災害だから、と言う言い訳はともかく、
安全のための税金と考えれば、
堤防の決壊による損害は、基本的にこの国の責務として考えるべきでしょうね。
この国の政治家の中から、

今回はともかく、治水と言う生活を守る基本について、
しっかりと見直し、今後に備えたい、

なんて政治として負うべき責任ある言葉は聞こえてきませんね。

 

政治家が政治とは何か、という基本を忘れているんでしょうか。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ナスカに行ってきました

昨日は、三連休の最終日。
といっても、私は毎日がお休みなので、見様によっては365連休なんですが、
それでも世間様がお休みだと、ちょびちょびした予定もなくなるので、
それなりに連休っぽくなるんです。
まして初日は台風でしたし、すっかり家にこもっての3日間となりました。

 

で、久しぶりにグーグルマップで旅をしたのです。

ま、それにしてもあのグーグルマップはすごいですね。
南極大陸まで含まれていますもんね。
前に南極大陸を丁寧に旅をしたのですが、もちろんグーグルマップの上をウロウロする旅です。
これはつまんない。

ひたすら白い画面が続くんですね。
拡大してもこう言うところは粒子が荒く、ともかく白い画面に過ぎないんです。

 

一度、ナイル川を河口からさかのぼり、ビクトリアの滝まで旅をしたことがありました。
かなり拡大して進めたので、それでも小一時間掛かりました。
ビクトリアの滝を上から見ると、いわゆる滝壺のところが真っ白になっていて、
その規模はやはり相当のものですね。
この時はアフリカのジャングルを、蛇行して流れるナイル川をたどりたどり進んでゆくのですが、
途中集落らしきものはなく、ただ緑と川。

南極よりも多少は変化があるのですが、
ビクトリアにたどりついたときは、ちょっとした感激でした。

 

そもそもは、ピラミッドを上空から見てみたかったんですね。
それなりに探しまくって、やっと発見。
で、その後、ではついでにビクトリアまで行って見ようか、となったわけです。
ナイル川と言うのは、地中海に注ぎ込んでいるので、ヨーロッパの人々にしてみれば、
まあ身内みたいなもんです。
そこで、18世紀も末の頃になると、幾たびとなくナイルの源流探しが行われたようです。
いわば源流を求めての大冒険です。
これがなかなかうまく行かず、時に原住民に襲われたり、
時に熱帯地方の独特の病気に掛かったり、と、さんざんな目にあったそうです。
とはいえ、主な探検隊の組織は軍隊が命令によって構成したようで、
冒険好きのおじさんが集まって出かけて行ったわけではなかったのです。
で、そういう背景があったものですから、この大冒険の成果は、
ヨーロッパの国々に、アフリカの地域を植民地化するというきっかけになってしまったんですね。
人類最大の悲劇が、この冒険から始まるのです。

ま、ともかく、第一段階で、ビクトリアまでたどり着きますが、
たどり着いて初めて、ビクトリア湖は水源ではない、と分かるんですね。

 

でも私は、水源とみなして、グーグルマップの上をビクトリア湖まで行って見たわけです。

で、この経験をした時に、上空から見て面白そうなものは何か、と考え、
その結論がナスカの地上絵でした。
逆に、ペルーの旅をして、マチュピチュとかあちらこちら回っても
ナスカの地上絵は見ることができないのでしょ。
大地の地肌の茶色っぽい盆地を横から見るだけです。
上からでないと意味がない。
と言うことは、むしろグーグルの旅の方が向いているのではないか、と。

 

そこで、三連休の最終日、突如思い立ったようにペルーに出かけることにしたのです。

グーグルの旅のいいところは、日本の平塚を出発点にして、

縮小すると、一気に日本列島全体ぐらいのサイズになります。
あとはスクロールして、およそ数秒でペルーに着きます。
先ずリマに着きます。

空港でのややこしい手続きも、待ち時間もありません。
で、実はこう言うのってそれなりのコツがあるのですが、
道に迷ったら、拡大縮小を繰り返すのと併せて、地図表示と航空写真を交互に切り替えるのです。
リマから南南西に300キロぐらい。

ナスカにたどり着きますが、ちょっとし市街地以外は、ほとんどむき出しの大地。
木一本生えていないんですね。

パナメリカナ・スール自動車道と言う道が、ナスカの市街地から北西に伸びているんですが、

ここを15キロぐらい言ったところの周辺が、ポイントなんです。

航空写真にすると、NAZCA LINES という表示があるんです。
地上絵のことなんでしょうね。
で、丹念に周辺を探索。
色々と有名な地上絵が見えてきました。
まずはハチドリと呼ばれるやや小さめの鳥の線画。
渦巻きもありました。
さるも近くにあり、雄大なコンドルもはっきり見えました。
地図の下の方に縮尺が出てきますが、それで測ると、
コンドルは翼の幅が約60メートルくらい。
頭から尾の先までが100メートルくらいでしょうか。
ともかく、やたらと絵が描いてあるんですね。

なんかの理由で、ある時期、流行ったのかもしれません。

ま、それにしても、地上で、どうしてこういう線が引けたのか、不思議ですね。

 

まあ、グーグル旅っていうのも、これも特殊な趣味ですが、

なかなか実際海外に気軽に行けないので、
こんなところで、旅の気分を味わっています。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 07:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
正常性バイアス

19号台風襲来前にさんざ、強力とか、大型とか、猛烈とか

その規模の大きさを表現して伝えられましたが、
終わってみれば、残念なぐらいの数の方々が犠牲が出てしまいました。

 

台風19号の犠牲者は、14日時点で死者、行方不明者の合計が50名。
氾濫河川は21に上ります。
堤防が崩壊して、泥流とかした川の水が住宅地などに流れ込む。
水に囲われ、脱出も不能になった人々が、助けを求め、
消防やら自衛隊などが救助する。

 

あれ程、事前に避難するように、と言われていても、
動かない人々がいるんですね。
多分何とかなる、と思って、様子を伺っているうちに、
徐々に水位が上がり、気が付いたら泥流の中に取り残されてしまった、
と言うのが本来なんでしょうね。

 

私もその可能性があるかも、と思いました、
なんとかなる、とか、そんなことにならないとか、
要は、ささやかな過去の何でもなかった経験を優先させるのですね。

 

東日本大震災の時、津波警報が出されていても、
今までもしばしば警報が出されてきたけど、
まあいいとこ、1メートルぐらいの潮位が上がっただけで、なんてことなかった、
と言う風に、過去の大したこともなかった経験が優先されるのです。
実際、18000人の犠牲者の殆どが、いわば、逃げ遅れの人たちです。
パチンコ屋で、玉の出がよかったんでもう少し、と妙な粘りをした人もいたとか。
避難直前に、家に忘れ物がある、と言って取りに戻ったとか、
大半の人が、沖合からやってくる津波を視認してから動き出したというのです。
見えるようになってからでは遅いでしょ。
津波は海底の様子によっては、新幹線並みの速度だそうです。
気が付いて急いだときには、足元に来ていたわけです。
今回は様子が違うぞ、と思っても時すでに遅し。
このように、何らかの被害が予想されるものの、
それを日常生活の延長上の出来事としてとらえてしまい、
都合の悪い情報を無視したり、
「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価してしまうんですね。


これを正常性バイアス、または、正常化の偏見とか、恒常性バイアスなどと言っています。

人は、どうしてもこの正常性バイアスから抜けられないものなんです。
一言で言えば、ピンとこないんですね。
逃げろ、と言ってもそのためのさまざまな条件を考えしまう。
それこそ服装とか、持ち物とか、見捨ててゆかねばならないものへの愛着とか、
周囲への気兼ねとか、逃げた先の様子の心配とか、
要は、素直にまずは行動すべき、ということへの、疑義とか、躊躇とかが生まれてくるのです。
こういうのって、いつもと突飛もなく違うことですよね。
この現実的正常性との誤差を、受け入れられないために、行動を起こせない、と言う訳です。

防災の講演会、勉強会があります、と広報しても、
まず参加しない。
参加したとしても、多くの人が、講習やら講演を聞きながら、
その時点でも、他人事と聞いてしまう。
実は、防災活動をしていていつも感じることは、この正常性バイアスとの戦いなんですね。

 

今回だって、あれほど口酸っぱく、早く非難の準備をしてください、と、くどくど放送されていたでしょ。
平塚市でも警報が発令され、どうか本気になってください、と言わんがばかりの繰り返しの警報だったでしょ。
さいわいかな、河川の氾濫もなく、これといった被害が出ていないようですが、
この経験だって、のど元過ぎれば熱さを忘れるんでしょうね。

 

まずは命を守る行動をしてください、って、凄い忠告だと思いませんか。
でも、死者いく行方不明者合わせて50人ですものね。

 

現段階では地震の予知はほぼ不可能なんです。
しかし、台風の予報は、かなりの精度がある。
時間的猶予もある。
危険回避、命を守るための行動は、やってできなくはないはずです。

 

相変わらず、川の様子を見に行って帰らぬ人となるという例があるのは、
残念なことですね。
危険なところには行くな、と言ってるのにですね。

身の安全を守るセキュレタリーとしての対応は、万一に備えて、ということで、
0,01%、つまり万分の一の可能性にいかに対応するかなんです。
万一、と言うんはまずは起きることもない、と捉えるか、
万に一つ起きる可能性と捉えるかなんですね。

おきるはずもない、と呑気な見方をすることを正常性バイアスと言います。

 

そういう人ほど、災害に巻き込まれてしまうんです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 13:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
金田大投手の葬儀

昨夜の台風19号は、ものすごかったですね。
各地の被災状況のニュースに接するたびに、
ここでは大した被害もなかったことを申し訳ないと感じるくらいです。
被災された方々、犠牲になった方々には、心から哀悼の心を表します。

 

さて、例によってネットのニュースを検索していたら、
金田正一さんの逝去と葬儀のことが書かれていました。
まああの天候の中ではありましたが、80人と言う数字が、妙な違和感につながったんですね。
もっとも、基本、家族葬であったらしく、後日お分かれの会が開かれるそうで、
その意味では、80人と言うのはごくありきたりな数字なんだと思いますが、
記事に、葬儀に80人と見出しを打つと、いかにも、なんだこれは、となるでしょ。
こんな数字をタイトルにするということ自体、記者のセンスと言うか、時に悪意さえ感じますよね。
死者への敬意が欠落している、と。

 

私たちの世代では、金田正一と言う投手のものすごさは、
実感として感じ取っていました。
あの頃のプロ野球で、ダブルヘッターなんて試合の運営方法が時々あって、
昼のうちに1試合、夜間に1試合。
つまり、同日に2試合を戦う、なんてことがあったんですね。
今ではちょっと考えられないでしょ。
スケジュールの都合なのか、経費の問題なのか、ともかく数時間のインタバルを置いて2試合です。
当時、金田さんは国鉄スワローズに所属していて、
これが、まあ絵にかいたような弱小球団。
で、金田さんの国鉄時代の戦績で、国鉄の勝利数の42%は金田さんの勝ち星だったんですね。
正に大黒柱でしょ。
そのくらいですから、ダブルヘッダーに2試合に登板するんです。
一体、一日に何球投げたんだ、と思いませんか。

 

今年の高校野球で、大船渡高校の佐々木投手が、決勝戦に登板せず、敗退をした際に、
投球数の問題が出てきました。
特に高校生の内に、投球過多による故障が問題になり、
様々な議論が出ましたが、
金田さんは、そんなことお構いなしでしょ。

 

ともかく三振を取るのがすごかった。
通算400勝はあまりにも有名な数字ですが、
実は奪三振の記録がすごい。4,490です。
1試合平均で5個。
1955年から5年間年間300個の三振を取りました。
私の最も強い印象は、長嶋茂雄さんがデビューした試合の時に、
4打席連続4三振を取った時です。
鳴り物入りでジャイアンツに入団、ルーキーとしては異例の注目を集めていて、
そのシーズンの最初の試合でした。
日本中が注目している中で、金田投手の洗礼をまともに受けたわけです。
まさか、まさかの連続で、バットにかすりもしない。

実に苦々しいデビューになってしまったんですね。

 

金田正一さんの奪三振の話で、最も興味深いのは、
1957年8月の対中日戦でのことです。
この日は暑かったせいもあって、撃たせて取る、というピッチングが展開されていました。
で、8回を終わって、完全試合のペースです。
9回をノーヒットなら完全試合です。

9回が始まった最初の打者が、ハーフスイングで三振。
ところが中日のベンチがこれに猛抗議。
ハーフスイングじゃないと主張。
この抗議にファンが同調、グランドに入り込んできて大混乱になるのです。
いったんは収まったものの、主審の場内への説明で、再度ファンが乱入してきて、
なんだかんだと収まるまでに45分ほどかかりました。
で、この間ベンチに控えていた金田さんは、再会の時、ベンチにいたチームメートに、
あと6球で終わるから帰り支度をしておくように、と言ったそうです。
で、正に有言実行、残りの打者を連続3球三振に切って取って、完全試合達成、と言う事でした。

 

まさに、二度と出てこないような怪物でしたね。

 

金田さんが最初に結婚をした榎本美佐江さんと親交のあった友人が私の母の友人でもあったので、
ある時誘われて、皆で食事をしたことがあったのだそうです。
で、食事が終わって、帰途に就いたところ、たまたまタクシーが横断歩道に入ってきた。
この時金田さんはボンネットをバン、とたたいて、運転手に注意をしたんだそうです
その男気のある行動に、母は、かっこよかったと称賛していました。
なんてことのないエピソードですが、
私には、とくに印象に残っています。

 

ご冥福を心からお祈りいたします。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 15:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
いい男がかかる病気

事の起こりは、もう、7年も前のことなんですが、
このブログでも、過去、最も頻繁に登場するテーマが、
重症筋無力症について。

 

で、7年前の2月ごろから、体調不良に陥り、

数か月後それが重症筋無力症である、と判明したのです。
すでに、ブログは始めていたので、その頃の内容をチェックすれば、

なんだかんだと重症筋無力症に関して記述してあります。
で、当初は、病気のメカニズムについてずいぶんとあれこれ書きました。
と言うのも、そもそもが難病に指定されている疾患で、ちらっと名前は聞くかもしれませんが、
その病状などについてはよく知られていません。
なので、身近な人から、どういう病気なのか、と聞かれても説明に時間もかかるので、
ざっと要点だけ話し、あとは、俳優の中村錦之介さんが発症した病気ですよ、と言うと、
年配の方は、おぼろげながら車いすに座っている中村錦之介さんの映像を記憶の片隅から引っ張り出し、
ああ、ああ、そういえばそんな病気に錦之介さんがかかったというニュースがありましたね、

と相槌を打つんですね。
そこで、定番のように、私は、そうなんです、

この病気はいい男がよくかかる病気なんです、と茶化します。
まあ、そこそこには受けたんですね。

 

その昔は、これに罹病すると、時に死亡につながるという恐ろしい病気でした。
でもありがたいことに、治療法も研究されて、

今では、完治しないまでも、死亡につながるということは無くなったようなんです。

私が、治療の一環として、胸腺切除と言う手術をして、1週間ほど入院した時、
退院の前日、外科を担当した医師やってきて、
いわば退院直前の言葉みたいなものを言うわけです。
で、その時、一通り、治療の経緯と、今後の対応について説明をし、
最後に、こう言いました。
この病気で死ぬことはありません。と。
いやあ、ほっとする言葉でしょ。
言い換えれば、医師がそういう宣言をするということの背景として、
この病気で死ぬ、ということが、ちょっと前までは普通のことだったんですね。
ですから、治療法も確立しつつある現在では、死なない、と、断言するわけです。
私は、その言葉を聞きながら、例によって一言質問。
ということは、治った、と考えていいのですか、と。
するとその医師は、さらに強い口調で、
治りません、と。
そもそも難病に指定されているということは、完治はない、ということです、と。
なんか訳の分からない論理ですが、そうなんですって。


と言うことで、
術後、7年経過しても、今だに3月に一度血液検査をし、外来の診療を受けているんです。
当然ですが、症状を抑える薬も飲み続けなくてはいけない。
まあ、これが病因で死ぬことが無いにしても、
ある意味、一生付き合ってゆく病気なんですね。

 

発症して間際、症状がひどいころ、どうも水嶋が難病にかかったらしい、と情報が拡散しました。
まあ、考えてみれば、時々刻々と状況をブログに書いていたので、
話は広まるに決まってますよね。
ありがたいことに、この時の印象があると思うのですが、

久しぶりにまちかどなんかで知人にばったり会うと、その後お体の様子はいかがですか、などと
健康を気遣う言葉をいただくのです。
いや本当に人の心は温かいな、といつも実感します。

「フィリピンのドゥテルテ大統領が、自らが難病の重症筋無力症を患っており、
その影響で片目のまぶたが垂れ下がると明らかにした」というニュースが流れました。
これは重症筋無力症の典型的な症例の一つで、
眼瞼下垂、と言います。
まあ言葉通り、まぶたが垂れ下がってくるんですね。
要は、まぶたの筋肉に力が入らなくなるために、垂れ下がるんです。
「この疾患は筋肉を弱めるもので、完治できる有効な治療法は存在しないが、
症状を緩和する方法はあるという」とニュースは結ばれていましたが、
その通り、完治はできないのですが、症状を緩和する治療法は確立されています。
まあ、さほど脅威がある病気ではなくなってきたんですね。


似たような筋肉の病気で、ALS・筋萎縮性側索硬化症と呼ばれているものがありますが、
筋力が低下するという似たところがありますが、
こちらは、進行性の疾患で、一度発症すると、病状はどんどん悪くなる一方なので、
大変厳しい病気なんです。
厚生労働省の規定による特定疾患(難病)の同じ枠に収まっているのは申し訳ないくらいのものなんですね。

 

ま、いずれにしてもあの猛牛のようなドゥテルテ大統領が、同じ病気になるなんて、と驚いた次第です。
これで、しばしば受け狙いでたとえてきた、いい男がかかる病気、と言うのが使えなくなりそうです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 13:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
親の代わりのせがれの代行

次の国々の共通点は何かご存知ですか。
アジアでは、カンボジア、タイ、ブルネイなど、
中東では、ヨルダン、オマーン、バーレーンなど、
ヨーロッパでは、オランダ、スウェーデン、スペイン、ノルウェーなど、
アフリカでは、モロッコ、レソトなど。

正解できたら、相当に見識のある方です。
ま、この共通点は具体的に前述した国々以外も当てはまり、
地球上に22カ国あります。

 

さあそこで正解ですが、これらの国は王国なんです。
王様がいて、そのもとに国家が形成されています。
しかし、とはいえ、このご時世ですから、民主主義国家を標榜しているわけで、
王様とは、伝統的な血統により、在位し、いわば象徴的な存在になっています。
その意味では、日本の天皇陛下もそうですね。
なんかの拍子に、テレビの画面で、ベルギー国王が登場したりすると、
ベルギーには、まだ王様がいたのか、なんて認識を新たにすることがあるでしょ。
大半が、政治への介入をしていませんが、
ブルネイは例外的で、王様が首相兼外務大臣を兼ねています。
ブルネイは正式には、ブルネイ・ダルサラーム国と言って、
ボルネオ島の北部にあって、愛知県ほどの面積に、40万人の国民がいますけど、
ロシアや中国、アメリカなどの大国にしてみれば、箱庭みたいな国なんでしょうね。
とは言え、王様の権限は絶大で、自分の考えにより法律を決めてしまうほどの権力を掌握しています。
まあ、今時珍しいタイプですね。


それぞれの王室のしきたり、伝統があるのだと思うのですが、王様が変わり、
次に世襲すると、大体戴冠式と言って、跡目相続的な披露が行われます。

日本で言えば、即位式のようなものです。
英語の表現としては、ほぼ同義語的な扱いですので、
即位式=戴冠式、と言っても間違いではなさそうですね。
ま、伝統的血統の王様の世代交代ですから、国としてはそこそこの大きな儀式になるわけです。
したがって、国同士の付き合いとしては、表敬の意味もあって、
そこそこの立場の人がやってきて、祝意を表すわけです。
まあ、これも重要な国際間のお付き合いなんでしょうね。
そこで、やってくる人のその国でのレベルで、
その国の対応、立場が分かるわけです。

まあ、王様の戴冠式ではないのですが、
天皇陛下の即位式ともなれば、ほぼこれに同等の国際間での位置づけがあると思うんですね。
足元を観るわけではないですが、一つの尺度にはなるでしょ。

 

で、今いささかややこしい関係になっている韓国では、どういう方針なのか、と言うと、

韓国大統領、即位礼見送りへ 李首相の参列で最終調整、なんていう報道がありました。
まあ、首相では格下だけど欠礼はできないだろう、という配慮なんでしょうね。
親父が行くべきところをせがれに行かせるみたいなもんです。

 

江戸の小話です。
夏の暑い日に、縁側で汗をかきかきウチワを扇いでいる男がいました。

 

なんだってこう毎日、あつい日が続くんだろうね。
ええ、こういう時こそ、ざっと夕立でもくりゃあ、ちっとは涼しくなるのにな、
とぼやいていると、見る間に雲が広がり、ぽつぽつと雨が降り始めます。
おや、願ったりだね、いい塩梅に雨が降り始めた、
と言ってる間まもなく、ざあざあと本降り。
すると、ピカリゴロゴロと雷。
こともあろうに雷さんまで登場か、などと言っていると、
二、三度ピカリゴロゴロがあったのち、
今度は耳をつんざくほどの大音響で、
ゴロゴロドッカン、という音とともに地響き。
思わず縁側に体を伏せて、
一体何があったんだ、とびくびくしてると、庭の片隅に何やら見慣れぬるものがうごめいている。
あ、あれは雷を起こしていた辰(龍)の野郎だな。
どうやら失敗して雲を踏み外したんだ。
でもって、うちの庭先に落っこちてきやがった。
いやそれにしても、絵では見たけど、実物は初めてだね。
そうだ、こいつを縄でくくって、どこかの見世物にでも売り飛ばすか。
とまあとんでもないことを考えたもんで、早速縄を持って近付きます。
落っこちた衝撃で、地べたにうずくまって、うんうん言ってる辰は、
縄を持って立ちはだかる男がいたので、びっくり。
な、なにをしようとするんです、と。
男は、お前を縄でしばって、見世物にでも売り飛ばすんだ、と。
それを聞くと辰は、どうかそれはご勘弁くださいと命乞い。
男は、あまりに必死の懇願されたので、心動かし、
よし、お前にも事情はあるだろうか、ここは見逃してやろう。
でも、ただでと言うわけにはいかない。
いったいどうすればいいのでしょうか、と辰。
そうだな、じゃあ、こうしよう、今日みたいに暑い時は、

声をかけるから夕立を降らせてくれ。
涼しくなっていいじゃねえか。
暫く男は考え、でもねえ、夏はいいけど冬の雨というのは寒くていけねえ。
どうしたらいいだろ、と思案顔。
辰はそこで我が意を得たりとこう言います。
寒い時はせがれの子辰をよこします。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 12:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
国際結婚

親戚の中の誰かが、結婚をすることになり、話を聞いたら外国人だという。
と、先ずでてくる質問が、どこの国の人?と。
でも、このたぐいのことって、さほど不思議でもないようになってきましたね。
いわゆる国際結婚。
私たちが自分の結婚を考えるころから比べると、ずっと開けてきたように感じます。
つまり、結婚すること自体に国籍の違いが障害になっていない、ということです。
愛が優先するんでしょうね。
結構なことです。

私達が勝手ながら心配するのが、言葉の障害。
もっとも、今時、ある程度の語学力があれば、正に愛があれば何とかなるんでしょ。
私は、日本語しかダメなので、ちょっと、コミュニケーションが不自由である、

なんて状態そのものが受け入れられないでしょうね。

まいずれにしても国際結婚はこれからもごく普通のことになってゆくのだと思います。

 

以前、2002年のサッカーワールドカップの時に、平塚にナイジェリアのチームが事前キャンプを張ろうと、
やってきたことがありました。
私は当時、ベルマーレのボランティア組織に所属していたので、
ナイジェリアチームの受け入れの時、様々な歓迎プロジェクトを立ち上げたことがあったのです。
そんな関係もあって、様々なつてをたどって、何とかナイジェリアの情報を手に入れようと、
動き回ったことがあったのですね。
で、あるルートから、ナイジェリア人と結婚した日本人妻の会、というのがある、と聞いたのです。
ちょっと驚きました。
そんな組織があったんだ、と。
で、これまた手を尽くして、彼女らの組織と接触したのです。
月に一回ぐらい、東京で例会のようなものが開催されるというのです。
私はのこのこ出かけてゆきました。
その人妻の会にです。
その日は、ナイジェリアの着物の着付け教室のようなものを開催していました。
ともかく、ただ着るだけでなく、帯を締めたり、頭に何やら飾ったりと、
そこそこ知識がないとできないような衣裳を着るんですね。
まあ、私はナイジェリア料理の内容を知りたかったので、着付け教室はどうでもよかったのですが、
その会合に、十数人の方々が来ていて、きっと会員はもっと多いと思うのですが、
日本在住で、アフリカのある国の人と結婚している女性が、組織まで作っている、ということに驚いたんですね。

 

アメリカ人、ヨーロッパ系となるとまあ国際結婚という印象がありますが、
最近はアジア系のさまざまな国の人との結婚も多いようです。
その意味では、国際結婚って普通になりつつあるんですね。

同じ人間なんですから、人間的なやり取りは、何の問題もないと思うんですが、
生活習慣とか、言語、また親戚に関わる付き合いなど、多少はややこしい問題が残りそうです。

 

こんな記事がネットに載っていました。
「海外の風習であっても、保育園児のピアスは駄目なの?」というタイトルです。
要約しますと、日本人妻からの投稿で、この方、西アフリカ出身の男性と国際結婚し
1歳の双子の女児を育てているそうです。
で、夫の母国では、女の子が生まれるとすぐにピアスをつけるという文化的な習慣があるのですって。
まあさまざまな習慣の違いがあるんですね。
割礼なんかも、聴けばそうなの、という感じでしょ。
で、問題は娘たちを保育園に入園させようとした時のことです。
希望した認可保育園は安全確保を理由に、ピアスを外さなければ通えない、と。
結構かっちりとそのことが書いてる入園案内書があるんですね。
まあ、危険だから、と言う事でしょ。
で、旦那は旦那で、これはイスラム教徒としての風習だから外すわけにはいかない、と。
外すと災いが降りかかると。
いや、付けてるから災いが降りかかっているんじゃないか、って思いましたけど。
で、ここは平行線。
結局女性はこの園をあきらめて他に志望を変更したそうです。

 

ま、一言で言えば、郷に入らば郷に従えなんでしょうが、
このご時世、郷もそれまで維持してきた在り方を、情勢に合わせて変更してゆくべきなんでしょうね。
ただ、宗教的な要因と言うのは、客観的な説得力がないでしょ。
豚肉が食べれないからと言って、豚肉抜きのトン汁を作るということになるわけで、
そこまでして、郷が他の世界の人を受け入れるというも、とかく摩擦の種になる。
国際結婚をするというのは、郷に従えない時のことを前提に決断すべきでしょうね。

 

ま、いずれにしてもこの類のことは、これからも頻繁に起きて、
そのたびに、郷の考えが少し変えられ、
ゆくゆくは、あらゆるところが均されてグローバルな風習になってゆくんでしょうね。
なんとなくですが、一歩づつ平和が近付いてくるのではないか、と思いました。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 14:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
汚職のメカニズム

ミレニアル世代と呼ばれる世代の人たちがいるそうです。
色々と調べてみると、1980年代後半生まれの世代で、
いわば社会の若手と言われる年齢層の人たちで、
主に、アメリカなどでの認識として、その上の世代とは違った価値観を持ち、
新たなライフワークを形成している世代のことなんですね。
いくつかの一般的な特徴を言えば、
料理は自分で作らず、出来合いを買う。
結婚して一緒に暮らすのではなく、一緒に暮らしてから結婚する。
育児の問題も上の世代に相談するよりネットで検索する。
などなど。


日本でも通用するでしょ。
一言で言えば物が豊かになってきたこと、
コミュニティの基礎が弱くなってきたので、世間体の概念が薄らいできたこと、
スマホ、パソコンの進化に順応していること、など、
複数の生活状況の変化に応じて生まれてきた「今時の若者」の特性なんですね。
日本的に言えば、平成世代とでも言えるでしょうか。

 

で、この世代の志向とか価値観は、

少なくとも今後の人間社会の基本的価値観になってゆくわけですから、
いいか悪いかの前に、そういうもんだ、と言う風潮の基礎になので、
私達の年寄りの考えよりも、重視されてゆくわけです。
いや、ひがんでるわけじゃなく、そういう社会になるという考えを受け入れ、
老いては子に従えを心すべきかな、と思っているということです。

 

で、このミレニアル世代を中心に世界180カ国で意識調査をしたデータが報告されていました。
テーマは「どこの国が汚職が多いか」と言うことです。
当然自国の評価もあるでしょうし、他国の評価もあります。
3万人が調査対象と言うので、まあまあ信頼できる結果だと思います。
それによると、世界で最もクリーンな国として1位はデンマーク。
2位に、ニュージーランド、3位フィンランド、以下シンガポール、

スウェーデン、スイス、ノルウェーと続きます。
で我が日本は18位。
ちなみに韓国は37位、中国は83位でした。
日本の18位がいいのか悪いのか、判断に迷うところです。
私達の庶民の感覚から、汚職の現場は程遠い世界ですよね。


汚職とは、利権とそれに絡む許認可に関して、規定を超えた判断を求めるのが基本構造です。
ですから、例の関電の越後屋風の菓子折りに金貨なんてことは、
いくら恫喝と強要があったとはいえ、
利権とそれに絡む規定を超えた判断が発生していたわけで、
記者会見でいくら弁明しようと、汚職事件であることは間違いないわけです。
まあ以前から取りざたされていましたが、原子力村と言う利権がちがちのコミュニティがあって、
その実態がボロッと出てきたにすぎないでしょ。
言っちゃあなんですが、おそらくすべての原子力発電に関する電力会社に関わることは、
多かれ少なかれ越後屋が暗躍しているということですよね。


まあそれもこれも日本が18位に甘んじている国としての体質なんでしょうね。
そういうことを良心の咎もなく行っていると、
結局は、死後に地獄に落ちるような気がするんですけどね。


そもそも、国と言うのは、基本的方向を示す長(総理大臣)がいて、
そのより具体的な方向を決る議員がいて、そのもとに現場で使える方策を決める役人がいて、
一つの国が運営されています。
で、多くの汚職は、このどこかで発生するわけです。

 

いまだに、政治献金として、わけのわからないお金を企業が政治家に渡していますが、
法的に正当に処理したとかなんか言いますが、
日本の民度と生活土壌として、何の見返りもない政治献金ってあるのか、と思いませんか。
街頭で被災地に募金するのとは違うでしょ。
見返りを期待しないお金を拠出する感覚というのは、まだまだ日本では十分に育っていないと思うんですね。
しばしば与党系のそこそこのボスの事務所で、政治献金の問題が出ますが、
まあなんだかんだと、汚職寸前の事態ではないかと思うんです。

 

十把一絡げになるかもしれませんが、
スポーツ団体のトップがしばしば組織内での密告で、

その運営の在り方に疑義を持たれることがあります。
ボクシングがいい例でしたし、今度はテコンドー。
これだって、トップの権限によるある種の汚職じゃないでしょうか。

もっともっとボランティア意識が生まれてこないと、
なんでも金で換算する汚職体質は消えないんじゃないでしょうか。

 

先日も報告しましたが、例の盲学校の読み聞かせのことですが、
ある友人が、私がこのことを言うと、それって一回いくらかもらえるんですか、と。
いやいやそれどころか、
一応、ボランティアとしての登録をすることになっていて、
わずかですが、年会費を収めるんです。

 

こう考えると、庶民の健全な意識の方が、
上の方で利権を扱っている輩より、ずっと清潔でしょ。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:25 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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