水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
まさに思い出話

30年余り住んだ松風町から紅谷町に引っ越してきましたが、
その旧我が家の解体が始まりました。
大型の重機で、がりがりと容赦なく建物を取り壊してゆきます。
紅谷町に引っ越してきた時は、
当然、衣類や必要な生活道具やらを持ってきたのですが、
半分ぐらいは、どうでもいいものがあって、それ等は置きっぱなしにしてきました。
まあ、ほんと、どうでもいいものに囲まれて暮らしてきたんだな、と。
だって、3年ぶりに置きっぱなしのものの整理に出向いたのですが、
ほとんどが、やはりいらない、と判断したんですね。
かみさんは何かともったいない、と言って持って帰ろうとするのですが、
それがなしでも3年暮らせたんだから、今更不用品を抱え込むな、と言って、
なるべき持ち帰らないようにしているんです。


まあ、何かと便利なマンション暮らしですが、
欠点は狭いという事でしょうか。
でも、広ければ、ただ余分なものが置かれる、という事に気づいたんですね。
とは言え、その置きっぱなしの品々の中に、どうしても捨てきらないものもあります。
基本的には思い出につながるものです。
写真なんかは、段ボール箱一杯ありました。
でも、当然どうでもいいものもあるのですが、
何か基準を持って、選別しようと思い、
我が人生の100枚、というテーマで選ぶことにしました。
当然やたら捨てなくてはその数に絞れません。
その第一次審査で、ほぼ200枚ぐらいになりました。
そこで、最終審査を近々やろうと思っています。
このことを友人に話したら、100枚きっちりですか、と聞くんです。
そう、現時点では100枚。
で、来年は101枚。
何の理由で1枚増えるんですか、と。
そこで説明しました。
これから毎年1枚増やす。
その増える1枚は、もし、今年死んだら、葬儀の時の遺影に使う一枚だ、と。
遺族に、この写真を使ってくれ、というわけです。
これは結構本気の答えです。


その思い出系のものを整理しているとき、
昭和60年に神奈川新聞に12回にわたってコラムを担当した時のコピーが出てきました。
これは、当時紅谷パールロードのモールが完成した時に、

そのいきさつを書いてくれ、と依頼されて書いたものです。
思わず懐かしくなって、一通り読んでみました。
この中で、最も強く印象に残っている出来事があります。
以前確かこのブログでも書いたのですが、
七夕不掲出事件、とでもいう事のいきさつです。


現在あるモールの工事に絡む事で、その経緯を要約しますと、
モール工事を実行するにあたって、会員から七夕祭りの時の露天商を制限してくれ、
という要望があり、モール建設実行委員会として、市に要望書を提出したのです。
しかし、市からは商店街の会員を満足させる回答が得られず、
対抗として、七夕の竹飾りを掲出しない、と言う手段を取ったんです。
まあ、商店街と市がもめたわけです。
そしたらこの様子を聞いた新聞記者が取材に来て、

どういうことなんだ、と。
私は七夕祭りにおける露天商の横暴さをいささか大げさに表現したんですね。
「ある家族の夕食の時、みんなで食卓を囲んで楽しい話をしながら食事をしていた。
そこへ、突然割り込むようにどこかの人がやってきて、
人の食べていた茶碗を取り上げ、好きなものだけ食べ散らかして、
ごちそうさまも言わずに出て行ったようなもんだ」と露天商の事を例えたのです。
記者は、うまいたとえだね、と感心していたんですが、
それが新聞にそのまま書かれたんです。
しかも、水嶋かずあきがそう言っていると。
つまり露天商排除の急先鋒はこの男だ、という風な書き方だったんですね。


新聞が出たその日、友人がやってきて、水嶋、あれはまずいぞ。
奴らだって大事なしのぎの場がなくなるかもしれないとなると、
それ相応の動きをするぞ、と言うんですね。
で、私もまさか名前入りで書かれるとは思っていなかったので、

正直、びくついていましたから、

それって、刺されたりするのか、と聞いたんです。
すると彼は、奴らだってプロだから、胸や腹は刺さない。
じゃ、どこを狙うんだ、と聞いたら、
多分モモだろうと言うんです。
その時、もう刺されてしまうことになっても仕方ない、と覚悟したので、
腿ならいいや、と思ったんですね。
いや本当にそう思ったんです。

そういうことがあれば、露天商問題の解決の糸口になるかも、とか思ったのですね。
幸い、七夕ではそういうことが起きませんで、無事に過ごすことができたんです。


今思えば、そんなばかばかしいことも、思い出になりました。

 

この時に、腿だろうと言った宮川文ちゃんが、逝去されました。
親しい友がじわっと減ってゆきますね。
ご冥福をお祈りします。

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 07:09 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
セミの抜け殻

夏休み、というのは、子どものころは、天国で過ごす時間のようなものでした。
何しろ、あのお勉強の時間に、ほとんど拘束されないのと、
普段ではめったに行けない、海や山など、自然に接する機会もあり、
高学齢になれば、2泊3日のサマーキャンプがあったり、
年に一度の家族旅行があったり、
遠くのいとこが遊びに来たりとか、
毎日が、わくわくするようなスケジュールが組み込まれていたものです。

 

ま、それでも、微妙にプレッシャーになったのが、宿題です。
絵を描くとか、工作の作品づくりなど、
もともと好きなことでしたから、むしろ楽しくやったのですが、
一番苦手だったのが、日記でした。


何しろ毎日書かなくてはいけない。
で、1週間や10日ほどため込んでしまうと、
何をやったか細かいことが思い出せない。
まさか、毎日、昆虫採集に出かけました、などと書くのも、
子供心に抵抗がありましたしね。
ま、三日に1日分ぐらいは若干創作気味の文章になったとしても、
問題は、その日の天気と気温です。
今日は朝から晴れていて、昼間は、汗をかきっぱなしの暑さでした。
うちの温度計では、32度にもなっていました。
なんて、その日が雨だったら、真っ赤な嘘になるでしょ。
そこで、友達何人かで、夏休み日記のために集まって、
その整合性を調整したりしたものです。


ともかく、日記と言うのが最大のプレッシャーで、
毎日書けば、なんてことないのに、
ついつい後回しになってしまうんですね。


こうして、今は、毎日ブログを書いていますが、

その頃、今のような根性があればよかったんですけどね。


ともかく、自分でも将来が心配になるほど、あきっぽくて、諦めが早く、
粘りのない子供だったんです。
しかし、子供なりに、学習してゆくもので、
小学校の高学年になると、
この最も大きなプレッシャーである日記については、
なぜか前倒し気味に書き込んでゆくことにしました。

またこれはこれで妙なことなんですが、
天気と気温だけ、ちょこちょことあとで書き込む、という、

小賢しい知恵を身に付けました。
ですから、夏休みの楽しみ方と言うのは、
結構早めに体得したほうだと思います。


それでも、ついつい引き伸ばして、後回しになるものがありました。
それは昆虫採集です。
当時は、当たり前のように、身近にいる昆虫を採集して、
それを虫ピンで標本箱に貼り付け、提出するという宿題です。
で、この元になる昆虫をどこかで捕まえなくてはいけないのです。
いい意味で、のんびりした時代だったんですね。
虫取りの網、トンボ網を抱えて、首から虫かごを下げて、
近所の草むらや林に入りこめば、なんだかんだと標本のネタになる昆虫は取れたものです。
トンボや蝶々がメインです。
あとセミとか、その他の虫たち。
今、冷静に考えると、現代の夏休みの宿題として昆虫採集を課したら、
一体何を標本箱に貼り付けてくるんでしょうね。
で、ある年の夏休みのこと。
昆虫図鑑を見ていたら、セミの脱皮について写真入りで解説してあったんです。
夕方の5時00分、セミが地中から出てきて、木に上り始めます。
5時15分、場所を決め、木の幹に体を固定します。
5時25分、セミの幼虫の背中が割れ始めます。
5時35分、セミの殻から、体をそらせるようにして、半分ぐらい、体を出します。

5時45分、すっかり脱皮します。そして羽がを伸ばしながら、はねを乾かします。

6時00分、脱皮の終わったセミは飛び立ちます。
と言った一連の蝉の脱皮の様子が図鑑に書いてあったんですね。
私は、そこで、自分の目で確かめようと、
木々が生い茂っていた裏庭で観察をしたのです。
実際、庭の木からはセミが脱皮をした後として、

抜け殻が幹についていることが普通にあったんですね。
そこで、5時、満を持して木々の幹を調べます。

30分歩ほど根気よく観察しますが、セミを発見できない。

1時間たっても姿を見ることがない。
いや悔しくて、翌日も、その翌日も夕方の5時になると、

庭の木を見にゆくんですが、それらしき様子を確かめることはできなかったんです。
で、ずいぶん経って、分かったんですが、5時と言うのは例えばの話で、
要は幹に固定してからどのくらいで脱皮し終わるのか、

という事の時間系列を仮に示したものだったんですね。
小学生ですから、そこのところの理解ができなくて、
もろ、5時には出てくるものだ、と思い込んでしまったわけです。

 

ま、夏休みというのは、その意味で、いい思い出、苦い思い出が混在していました。

今となれば、すべてがいい思い出になっています。
いや、間違いなくいい時代だったんだな、と。

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 12:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
14組クラス会
昨日は、湘南高校時代のクラス会が開催されました。
ほんと、久しぶりの事だったんですが、
このクラス会は、ちょっと変わっていて、
普通、卒業年度の仲間が対象になるでしょ。
ところが一年生の時のクラスメートのクラス会なんです。
当時、湘南高校では、一年の時に組まれたものが、
2年の時にクラス替えをし、3年の時はそのまま、ということなんですね。
ですから、普通は、2年間一緒だった友達の方が、
付き合いも濃いはずなんですが、これがそうでもない。
そもそも、私自身、自分のクラスの番号をほとんど覚えてなかったんです。
ま、開催案内には、14組とあったので、ああ、4組だったんだな、と言った程度。
ともかく、幹事の久枝君が、こまめな方で、
出席状況を、時々刻々と知らせてくるんです。
当然、数日前に、念押しのメールが入る。
併せて出席者の名前と合計数。
で、確か、19人とか言っていたように思うのですが、
前日、一人減って、18人とのこと。
思わず、これに返信メールをして、誰か死んだか?と。
いやもちろん冗談ですが、これがあまり冗談ともいえないところが、
私たちの微妙な年齢です。
当然全員年男、年女の72歳。
50人のクラス編成でしたが、5人の仲間がすでに亡くなっています。
いやこうなると冗談でもないでしょ。
もし、〆の言葉でも任されたら、次はいつという予定はありませんが、
でもその時までは死なないように、とか言うんでしょうね。
そんな年です。
そもそもが、中には、54年ぶり、という人もいたわけです。
数日前になんかの会合で顔を合わせた人でも、忘れてしまうくらい、
顔認識機能が弱い私ですので、54年という歳月はまさに致命的。
幸いかな、久枝君が、ネームカードを作っていてくれて、
これを胸につける。
だから、話す前に名札にちらっと眼をやり、ふむ、なになに君だな、と
一旦確認して話さないと、頓珍漢なことになってしまいそうなんです。
さあ、なんだかんだとこの名札に助けられながら、
場は持てたんですが、それもこれも、当時の面影は残しつつ、と言ってもわずか。
顔はしわだのシミだので、往時の面影はなく、
何より、髪の毛の変化は著しく、
一人はつるっパゲ。
総白髪はいい方で、ほとんどうすらハゲ状態。
こういう変化の中で、昔の顔を思い出すのは至難の業で、
出席者のうち、3人は、一緒だったか、とおもうほど、記憶にないんですね。

最悪だったのは、さあ、お開き、となって、帰り支度をし、
皆が胸の名札を外したときのことです。
さて、こいつの名前は何だったか、と、とっさに出てこない。
いや、情けないですね。さっきまで、文字を負って名前を呼んでいたくせに、
それすらできなくなるって。

3時間余りの集いの中で、当然席の隣同士はよくしゃべりますが、
離れたところの仲間とも話したい。
で、なんとなく半ば過ぎたあたりで、一寸した席替え状態になって、
じっくりと懐旧談に花を咲かせます。
そこで、改めて、そうだったのか、という話が次々と出てきて、
知らなかったことや、勘違いしていたこと、
そして主に、忘れてしまったことの話が、とても刺激的に展開されるんです。
いいもんですね。
また会いたいね、という思いを共に口にしました。

きっと、それなりにいい時代だったんですね。
みんな、ほぼ現役を引退し、気楽な日々を過ごしているようでした。
何よりなによりです。
次に会うまで、お達者で、と思わずにいれらませんでした。
 
| 水嶋かずあき | 思い出話 | 09:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
携帯の文化
20年前に、現在を予測して、
恐らく、こんなことになっている、って、想像できなかったことが
けっこうありますね。
いろいろある中でも、コンピューターの進化が、すべての基礎にあるような気がします。

日常的なものの中では、携帯電話が特にその影響が大のようです。
だって、あんな小さなものの中に、実に多彩な機能が含まれているでしょ。
一体どのようにして、閉じ込めたのでしょうね。
便利になったと同時に、その普及度もものすごいでしょ。

小学校のころの話です。
一平という料亭を祖母がはじめ、それを父が受け継いだのですが、
当然、商売をしていたので、電話を引いてありました。
なぜか、玄関の横に、扉付きの電話ボックスがあって、
そこでかかってきた電話に出たり、こちらから掛けたりしていたのです。
確か、電話番号は587番。
これに局番が付くようになったのは、中学生ぐらいになってからです。
まだまだ手動的なところがあって、
受話器を取ると、交換手が出て、番号を聞かれます。
で、番号を言うと繋がる、と言った感じでした。
悠長な時代だったので、番号が分からなくても、屋号を言えば繋いでくれたりしたものです。

これが、ダイアル式になったのは、中学生の終わりのことだったと思います。
以来、電話は急速に進化しました。
人の多く出るところには公衆電話がありましたし、
客商売をしているところでは、お客さん用のピンク電話を設置したものです。
とはいえ、この頃でも、電話を引く、となると、電電公社に出かけて行って、
申込書を提出。
で、時に、2〜3週間後に設置工事にやって来る、なんて状態でした。
しかも、あわせて、電話債券なるものを購入しなくてはならず、
かなりの出費を伴ったのです。
家電(いえでん)として電話が普及するのに、これらの手続きと、費用は、
大きな障害になっていたと思います。
恐らく、昔から商売をやってきたところは、早めに電話を取得していたので、
当然電話債券なるものを購入します。
で、これが、帳簿の債権の欄に記載されていて、
今では何の価値もないようなの物でも、帳簿上、残っている、ということがあると思うんです。

本当にあっという間に電話は広まり、進化しましたね。
30年以上前になるでしょうか、ぼちぼちと携帯電話が普及し始めていました。
当時は自動車電話と並んで携帯が売られていて、
バッテリを小さめのカバンに入れて、肩からぶら下げて、電話を持ち歩いていたのです。
まあ考えられないでしょ。
その電話機も、やたらごつい形で、大きくて、あれば便利、という程度で使えわれていました。
しかし、あっという間にこれは小型化し、手のひらに収まるサイズになりました。
でも、まだまだ、電話をする道具として扱われていました。

その頃のことです。
多少は普及しつつあるものの、私も持っていませんでしたし、
友人の中でも、携帯を持っている人はわずか。
そこで、12月31日におせち料理を配達するのに、
どうしても途中で連絡しなくてはいけない事態がしばしば発生するんで、
友人に頼んで、3つほど携帯を借りて、配達に使ったことがありました。
車3台で配達したので、3台の携帯が必要だったのです。

なんだか、今の普及状態を考えると、隔世の感がしますね。
一番の驚きは、その機能ではなく、その普及率です。
だって、小学生だって普通に持っているでしょ。
通信機能を誰もが持ち歩いている、って、すごいことでしょ。
しかし、一方ではこの新しい文明の利器の広がりとともに、
例えば病院内で通話するな、とか、
電車内で禁止するとか、
会議中は当然ですが、何かと、使用のコントロールが広くなっています。
まあ、新しいマナーと言うか、ルールが決められてきました。

先日、webの動画で見たんですが、
確か、チェコかなんかでの、バイオリンコンサートの時、
観客の携帯の着信音が会場に響き渡ったんですね。
奏者は一瞬演奏を止めたのです。
そしてやおら、その着信音のメロディーをバイオリンで弾いて、
(いや、さすがですね、そういう能力は)
しまいに、ちゃんと曲としてエンディングまで付けたのです。
これには観客も大喜び。
うっかり携帯を切らなかった人も、幾分かメンツを保てたと思うんですね。

永六輔さんが、講演の時、会場の観客に向かって、
みなさん、携帯をお持ちですか、持っている方はポケットから出してください。
そして、画面をこちらに向けてください、と言います。
永さんも、自分の携帯を高く掲げます。
そして左右にゆっくり振ってください、と言って自分の携帯を左右に振ります。
そうです、こちらから見ると、ペンライトを振っているようでとてもきれいです。
はい、ありがとう、では、スィッチを切って、しまってください。
って言うんですね。
講演中は、携帯電話の電源を切ってください、なんて野暮な言い方をしないんです。
しゃれているでしょ。

もっとも、そんなことばかりではありません。
やはり、新しい文明の利器に対しては、
新しいルールが必要です。

これも、ある意味の文化なんでしょうね。
 
| 水嶋かずあき | 思い出話 | 10:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
情熱さえあれば、素人でもできるんです
長々と話を引っ張ってすみません。
パールロード物語は、これで最終回にします。

露天商にまつわるやり取りで、結局、市からは何の回答も得られず、
裏で掲出の準備はしていたものの、この努力はオジャン。
私たちは、七夕飾りを掲出しませんでした。

七夕が終わると、結果として掲出しなかったものですから、
世間は事情も斟酌せず、非難ゴウゴウ。
特に、数人の市議が表だって動いて、
市の行事に協力しない奴らに、助成金なんか出すな、と働きかけたんです。
そんな動きなどは、私たちは知りませんでした。
で、予定通り、旧アーケードや街路灯など、既存設置物の解体をしたわけです。
ところが、市側の発注したアーケードなどの工事が始まらない。

今まで履いていたパンツをはきかえようとしたら、一旦は脱ぐでしょ。
で、速やかに新しいパンツをはく。
でも、この場合、脱いだものの新しいパンツをはく、ということが行われなかったんですね。
アーケードと店舗の接している部分は、店舗としては実に無防備な建築の仕方をしているんです。
ただ板が貼ってあるだけ、みたいなですね。
ですから、旧アーケードを外すと、いきなり、ボロが出てくる。
要は、パンツをずり降ろしたまま、突っ立てるようなものです。
みっともないでしょ。
で、何とかしなくちゃ、と私たちは焦りました。
市もえげつないでしょ。
ちょっとしたやり取りで、トラぶったものだから、その意趣返しです。
仕方ない、理事長に頭下げてきてくれ、と頼み、
もちろん、理事長は、しぶしぶでしたが、頭を下げて、ともかく、工事を始めてくれ、
とお願いして、手打ち。

で、なんだかんだと、1ヵ月半遅れて工事開始。
もともとが7月半ばから、11月いっぱいという予定でした。
間違いなく歳末商戦に影響するのですが、そこは何とかしたい、と。

で、工事再開の最初の工程会議が市の、会議室であったんです。
さまざまな工事関係者が集まり、この建設の指揮をする道路課の職員、
私たち、会の役員も出席しました。

議事進行を道路課の職員が議長となって、仕切りました。
で、さまざまな業者が自分の分野について、あれこれ必要日程を言うんですね。
例えば、既存電柱の抜柱については、1週間欲しい、とか、
路面の掘削には、10日欲しいとか、ま、あれこれです。
その意見を聞きながら、道路課の議長は、最後に、
では、工事完成は2月半ばですね、と言って、会議を閉めたんです。
私たちは、会議室の外に出て、議長が出てくるのを待って、取り囲み、
なんだ、あの会議の進め方は、と詰め寄ったんです。
ただ単純に足し算しただけじゃないか、何の工夫も、知恵も出されていない。
私たちは、最低限、12月の歳末商戦には間に合うようにしたいのだから、
少しづつでも、工程を短縮する努力をしてほしい、と。
すると、彼はそんなことできない、工程は必要な時間の足し算したものだから、
というんですね。
そこで、じゃあ、これからは、自分たちで工程会議をする、と市の管理を突っぱねたのです。
帰ると、早速、各工事業者に連絡を入れて、
明日、再度工程会議をする、場所は、舟平の二階、ということで、
完全に商店街主導で工事を進めることにしたんです。
考えてみれば、すごいことでしょ。
4億円の工事の管理を、ずぶの素人がやろうというんですから。

で、翌日、集まってきた業者との交渉が始まりました。

さて、東電さんは、電柱の抜柱に1週間と言われましたが、
ここを5日でできませんか、と投げるわけです。
で、大体は無理だというんですね。
では、1週間の根拠は何ですか、と。
すると、工事担当者が、ポロリと、実際は、5日でできるんですが、
雨でも降るといけないので、その予備を含めると1週間になるのです、と。
で、我々は、こういいます、
「この期間、雨は降りません、したがって、電柱の抜柱は5日です」と。
無茶な話ですが、こんな風に決めつけるしかない。
私たちの必死さが伝わったのでしょうか、
会議を進めてゆくと、いろんなアイディアが出てくるもので、
路面のタイル工事を担当している業者が、こんな提案をしてきました。
設計図によると、使用しているタイルが10センチ角です。
これを11センチ角の同じタイル材があるのですが、これに変えませんか、と。
なぜそんな提案をするのか、と聞くと、
10センチより11センチの方が、たとえば1メートル分貼るのに、
1枚少なくて済む、その分仕事が早くなるでしょ、と。
そりゃそうですが、見た目で10センチと11センチではどんな違いがあるんですか、
と聞きますと、
普通、見た目ではその違いが分からないでしょう、と。
業者が言うんですから、じゃあそうしましょ、となります。
こんな風に、なぜか、皆さんやたら協力的で、
さまざまなアイディアが出されて、その会議の最後の結論が、
「ということで、工事の完成は、12月初旬と言うことになりました。」
と宣言して終了しました。
ぎりぎり歳末商戦に間に合います。

すごいでしょ、市の仕切方から比較すると、なんと、2か月も短縮できたのです。

もちろん、工事期間中も様々なトラブルがありました。
でも、ありがたかったのは、業者の方々がとても一生懸命に仕事してくれて、
なんとか、12月初旬の竣工に間に合ったのです。

おかげさまで、市内では第一号のモールが完成したのです。
そして、翌年の七夕祭りでは、パールロードが、露天商の出店除外地域に指定されたのです。
有難いことに、ももを刺されることなく、です。

長いシリーズおつきあいありがとうございました。
 
| 水嶋かずあき | 思い出話 | 05:12 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
刺されても、もも。
なんだか長々と引っ張ってすみません。
プロ野球はとっくに始まりましたが、
この話は、ここからがクライマックスシリーズです。

初めての方は、昨日の話をまず読んでください。

さて、その新聞記者に何と話したか、ということです。
質問に私は、
「いやよくぞ聞いてくれました。
なんだか私たち商店街がすっかり悪者になっているようですが、
是非とも言い分を聞いてください。
そもそもですよ、露天商の人たちは、七夕の時にやってきて、
美味しいところをすっかりさらって、
飛ぶ鳥、あとをにごしっぱなしで、いなくなるんです。

一家の夕ご飯のシーンを考えてください。
お母さんがコツコツと支度をする。
できあがって、みんな、ご飯よ、と家中のものに声をかける。
オヤジが顔を出す、子ども達も席に着く。
上の姉ちゃんは箸を揃えたり、とみんなで食卓を作り、
揃ったところで、では、いただきま〜〜す、元気よく声をかけ、
夕食が始まる。
そんな時、ガラッと玄関が開いて、何やら見知らぬ人が入ってきて、
下の子の茶碗と箸を手に取ると、皆が狙っていた今日一番のおかずに箸をつけ、
もぐもぐと食べ始める。
皆あっけにとられていると、食い散らかしたうえで、ご馳走さまも言わず、
茶碗箸をそのままに、家を出てゆく。
これが露天商の実態なんです、と。
いいとこどりなんです。
七夕が終わって、後片付けをしていると、
兄ちゃんそのほうきをちょっと貸してくれ、と言って貸すと、
まず戻ってこない。
お好み焼きの練った地粉は、そのまま道路わきに捨ててゆく。
1週間ほど匂いが取れないんです。
まあ、迷惑と言えば迷惑だけど、際限なく増えてゆくテントの数は、
何とかコントロールすべきでしょ。
私たちが、七夕飾りを掲出している意味がない、
と思っている商店主も増えてきているんです。
そこで、モール工事を機に、この問題を共に解決しよう、と申し出ているにもかかわらず、
市の方が、ケンモホロロ。
この私たちの抵抗は、最善策を求める一種のアピールなんです。」

この長々した話を、克明にメモしていた記者は、
私の顔をしげじげと眺めて、いやあ、うまいたとえだね、と褒めてくれたんです。
で、翌日、夕食のたとえ話から、私たちと市の関係まで、
克明に、その話がそのまま、記事になったのです。
最後に、副理事長の水嶋がそうコメントした、と。
実名入りですね。

翌日、その喫茶店で、例によってコーヒーを飲んでいると、
友人がやってきて、
よう、水嶋、新聞記事読んだよ、と。
ありゃまずいね。
 *何がまずいんだ、内容が雑か?と。(*は私)
いや、あの記事を読む限り、露天商は、お前一人が反対している、と取るだろう、と。
 *で、そうだと何がまずいんだ。
いや、だからさ、七夕と言う美味しい稼ぎ場所を制限されたら、奴らも困るだろ。
こういう場合、問題を起こした奴を制裁するのさ。
 *制裁?どんな?
まあ、下っ端をよこして、ヤッパでぐさりだな。
 *ナイフかなんかで刺されるのか。
そう、ひと突きだ。
 *そりゃたしかにまずいな、第一痛そうじゃないか。
でも、まあ、安心しろ、こういう場合、命に関わるような刺し方はしない。
(こいつ妙に詳しいでしょ)
 *何処をさすんだ?
まあ、腿かな。
 *もも!
腹や胸よりいいだろ。

いやこれホントのやり取りの再現です。
私は正直こりゃ困ったと、と思いましたが、腿ならいいか、と思い始めていたのです。
それはそれで事件になるはずで、そうなれば一挙にこの問題も片付く、と。
こういう時も、楽観的な性格は出るんですね。
で、ももなら仕方ない、と覚悟したんです。

いよいよ七夕本番。
道は観光客で相変わらず混雑しています。
正直、ももでも厭なので、なるべく出ないようにしていたんですが、
それでも何かと用事があって、人込みの中を突っ切るしかないこともしばしば。
こういう時、どこからかあらわれて、ぐさ、とくるんだろうな、と、びくびくしました。
でも、5日間何事もなく、やれやれと終わったんです。
で、10年ぐらい後のことですが、この話が出て、
結局何事もなかったんだ、と言ったら、父が、いやああの時、
店の前にそれらしき人が何人か取り囲んで、
鰻を焼いていた父に、水嶋というやつがいるだろ、顔を出してもらいたい、
とか、すごんだそうです。
父は、うちは水嶋だらけだ、と言うと、向こうもいきさつを話したそうですが、
たまたま、私は外に出ていて、そのことを告げたら、
じゃあ、またあとで来る、と言っていなくなったとか。
以来顔を出さなかったんで、先ずは収まったんですね。
いやあ、このいきさつは知りませんでした。
いたら、なんかあったかもですね。
そう、ももです。

この後ももう少し付き合ってください。
あとちょっとでモールは完成しますので。
 
| 水嶋かずあき | 思い出話 | 09:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ついに出たトラブル
パールロードのモール化の時の話です。
延々と、4日も続き、さらに5日目に入っています。

さて、モール化工事に必要ないくつかの条件が整いつつありました。
でも私たちは、じっくりと、しかしてきぱきとさらに内容を詰めにかかっていた、その時です。
設計図を眺めながら、市の担当職員が、とんでもないことを言ったのです。

設計図は、延長170メートル、幅15メートルの道路に、
何が配置されるか、ということが書かれていました。
アーケードのポールの位置や、水飲み場、公衆電話、
植え込みにベンチ、東と西の門柱。
中央に配置されたモニュメントなどです。
で、この設計図を見ながら、何やらカウントしていて、
その職員が、ぽつっと、
これなら、露天商は50は配置できるな、と言ったんです。

私たちは、七夕祭りについては極めて積極的に推進してきましたが、
道一杯にテントを張り出し、
隣と隙間のないような状態の出店の仕方に疑問を持っていました。
何かあったら、例えば、地震とか、どこかで火事が出たとか、
突然の大雨が降ってきたとか、要は、あの群衆が、どこかに向かって
一斉に動き出したとき、時に惨事が起きるのでは、と危惧していたのです。
そこで、基本としては、パールロードから、露店を撤退させてほしい、
と、市に要望書を提出していたのです。
モール工事はその絶好の機会である、と考えていました。
また、うちの組合員の方々から、モール化計画の説明会の時に、
モールができても七夕の時は、相変わらず露店で埋め尽くされるのか、と質問を受け、
これを機に、対応をしてもらうよう市に要請している、と回答してきたのです。
くどいくらい、このことは何度も取り上げられ、執行部としては、
計画推進の上で、約束をしてきたのです。
つまり、モール工事を推進する前提として、
露天商の配置について、削減、もしくは完全移動を前提に、
市には要請をしてきていて、露天商問題の解決が条件の一つになっていました。
私たちも子供じゃないですから、一挙にゼロ、とは考えていませんでしたが、
それでも大いなる前進があるはずだ、と期待していたのです。

その矢先に、配置ありき、と言った感じの話になったわけです。
ちょっと待ってくれ、努力に努力を重ねた結果、若干の配置はやむを得ぬ、
と言った結論ならともかく、こちらと何のすり合わせもしていないのに、
まずは50店は可能だ、という発言は、我々の要請を無視していないか、
と、抗議をしたんですね。
かなり強い抗議でした。
私たち執行部も、これにはいささか不安を覚えて、
市に改めて、要請に関する回答書を文書でほしい、申し入れをしました。
まあ、簡単な話です。
露天商の配置削減について努力をする、という文言です。
で、その申し入れをし、回答をしてくれる、という日、
正副理事長で、市役所を訪れ、担当の助役に面会しました。
すると、助役はちょっと待ってくれと、一旦席を外し、どうやら担当者に相談に行き、
しばらくすると、その回答の文書をひらひらと手に持ったまま、
判子は押せない、と言ったんですね。
要は回答拒否です。
この回答は、先ほども書きました通り、まあ、若干曖昧な表現で構わなかったのです。
要は、露天商配置問題について、今後の進展が予期できて、
パールロードの親父さん連中が納得できればよかったのですから。
まあ、形式的な意味合いも半分はあったんですね。
ところが100%拒否の回答になったんです。
いままで、綿密に、このことも含めて計画を練り上げてきたのに、
一体この裏切りのような態度は何だ、ということで、交渉決裂。
瀬尾理事長は、テーブルをどんと叩くと、
居合わせた我々の顔を見て、帰るぞ、と叫びました。
私たちはいっせいに立ち上がり、正に席を蹴って部屋を出たのです。
追いすがるように、数人の職員が、そう言わず着席してください、
と、スーツの裾を持って、懇願してきました。
その手を振り切って、私たちは出口に向かったんです。
いや、このシーンは、ちょっと芝居じみていましたが、なかなか体験できないことで、
いまでも、深く印象に残っています。
部屋を出るとき、私はちらっと、助役に目をやりました。
署名をしなかった文書を一枚ひらひらと持って、呆然と立たづんでいました。

この時の交渉では、露天商の配置削減については、
全組合員の強い要望で、モール工事の成否にかかる案件である、
ついては、ぜひとも考慮していただきたい。
もし、この条件を受け入れてもらえなかったら、
私たちの唯一の対抗手段として、七夕飾りの掲出をしない、
という私たちの条件を付けたのです。
で、これがご破算。
でも、何時どんな条件で、文書に署名捺印されるか分からないでしょ。
そこで、最低限、話がまとまった時には、飾りを掲出できるようにと、
裏では準備を進めたんですね。
で、七夕の日にちは迫ってきます。

予定では、七夕が終わり次第、旧設備は取り壊しの工事にかかる、
となっていました。
この、解体作業と費用は商店会持ちでしたので、発注は私たちがしていたのです。

さて、何日経っても回答が無い。
いい加減こちらがじれ始めたころに、
パールロードの商店街のやつらがわがまま言って、七夕飾りを出さないと言ってるらしい、
飛んでもない奴らだ、という話がささやかれるようになったんです。
何らかの機会には、これらのうわさに、反論したいと思っていた矢先です。

七夕もあと一週間後、と言った頃に、
たまたま近所の喫茶店で、朝のコーヒーを飲んでいた時に、
隣の席に、顔見知りの新聞記者が座って、
背もたれ越しに、水嶋さん、なんだか市ともめているそうですね、
と、話を振ってきたのです。
私は、ここぞとばかりに、いきさつを話しました。
記者は席を移ってきて、目の前でメモを取り始めたのです。

で、翌日、このメモがそのまま新聞記事になりました。

私はそんな騒動になるとは予測していなかったので、
口は災いのもとだな、と深く後悔をしたのです。

つづく
| 水嶋かずあき | 思い出話 | 10:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
説得大作戦
さて、パールロードのモール化工事の話です。
当時、低い高さのアーケードと、いささか貧弱なアーチに街路灯。
車道はアスファルト舗装、という、
ごくありきたりの商店街の構えが、
時代に先駆けて刷新しよう、と商店街が動き出したのです。
時に昭和58年から59年にかけてのことです。
主体となったのは、それまで青年部だった商店街の若手が、
何年かの経験を積んだのち、本会の役員の登用され、
それなりの発言権を得るようになったからです。

総工費4億円という大プロジェクトだったのですが、
緻密に戦略を練り上げていました。
そして当初、3つの大きな障害、と予測していたうちの、
資金に関しては行政が前向きの援助をしてくれることになって、
先ずクリアー。
常時歩行者天国を実現するための障害が道交法だったのですが、
これも、当時の歩行者天国ブームが後押しをして、クリアー。
で、残るはなんと身内の問題だったのですが、これがてこずりました。
何しろ、工事資金としては、その4割強を商店主の懐からねん出しようというわけです。
そもそも我々が調達すべき金額は1億5千万円。
そこで、15年計画で返済する、という概要を決めました。
年に1000万円づつ元本を払い込むわけです。
利息を含め、年に約1100万円なにがしかの資金を新たに集めなくてはいけません。
それでなくても紅谷会の会費は高い、と言われてきました。
これにプラスアルファーです。
当時、会員数は60店舗ぐらい。
これを単純に振り分ければ、1店舗20万前後。
間口で割りましたので、舟平は間口が広かったから、
年額で50万円を超えたんです。
これが15年間続く、という計画です。

概要を説明しているときは、まあまあだったのですが、
この資金計画があらわになると、いきなり空気が冷えて、
不協音が聞かれるようになったのです。
ともかく、やる気のある元青年部が中心のに個別に説得するしかない、
ということで、ある作戦を立てました。
それはグー、チョキ、パー作戦です。
簡単なことです。
グーはチョキに勝てますが、パーに負ける。
パーはグーに勝てますが、チョキに負ける。
これを応用しようと。
要は勝ち目のある人間関係を徹底的にさぐって、その筋を通して説得する、というわけです。
例えば、会の役員でこの計画を積極的に推進しようとするA・B・Cの三人がいたとします。
それぞれ、反対するD・E・Fを説得することになった。
でも、まともに当たっては、話がまとまりそうもない。
つまり、Dを担当するAとの関係はDがパーだったとすると、Aはグー。
これは勝てない。
そこで、AはDに勝てるチョキと言う人を探すんです。
グーはチョキに勝って、チョキはパーに勝てるんですから、この人間関係を活用すればいい、と。
まあ、仲がいいとか、仕事の関係があるとか、昔借りがあったらしい、とかを調べて、
仲介を立てます。
できれば、この仲介者は、Aに借りがあることが望ましいのです。
つまり、A(会の役員)>仲介者>D(反対者)という人間関係を探し出すということです。
仲介者を通して、そこを何とか、賛同してくれ、と頼むわけです。
こうして個別に撃破してゆきましたが、それでも強硬反対者が二人いました。

何回か繰り返された全体説明会の時です。
私たちの計画推進の根拠は、このままではじり貧になる。
まだ少しばかり、預金の残高があるうちに次の投資をしよう、と。
でも反対派は、投資した効果が無かったらどうする、というんですね。
こればっかりは保証のしようがない。
話を煮詰めれば煮詰めるほど感情的になってくるんです。
賛成も反対も、絶対的な予測ができないんですから。
すると、年配のある組合員さんが、若い私たちを一人一人指差して、
お前たちは戦争に行ったことがあるのか、と、立ち上がって、大声で怒鳴ったんです。
そして、手元にあったアルミの灰皿を、議長席に向かって投げつけました。
コントロールミスでとんでもないとこにそれは飛んで行ったんですが、
ま、一種の暴力ですね。
この、戦争に行ったかどうか、って発言は、その後の飲み会などで、
必ず話題として登場しましたね、何度も何度も。
で、そのたび結論は、戦争に行ったかどうかは、関係ないじゃん、と。
そういえば、この方、以前に自分の店の前に車がいつまでも停まっていたと、
腹を立てて、道端にあったブロックの半分ほどの石をボンネットに投げつけた、
という経験の持主で、通称石投げおじさんと呼ばれていました。

数々のエピソードを残して、モール化案は実現に向かって、前進してゆきました。
不思議なもので、その時の厳しい体験は、なぜか厳しいほど、笑い話になるんですね。
経験ってそういうものです。
平坦で楽チンな経験は、記憶に残らないですものね。

話がほぼまとまったところで、いくつかの先進事例の商店街視察に、
バスで、出かけてゆきました。
その中に、シャポーのもう亡くなった原さんの老夫婦がいたのです。
バスが付く先々で、二人で仲良く、バスからおりると、寄り添うようにして、
私たちの後をついてきたのです。
たまたま私が小耳のはさんだお二人の会話ですが、
原のお父さんが、奥さんの耳もとで、
今度のモール工事に必要な分担金は15年かけて払うんだってさ。
払い終わるまで、私たちは生きていないかもしれないね。

この会話を聞いた時、私はある種の決意を固めたのです。
計画が始まった時、私は建設実行委員長だったのですが、
その立場を超えて、
このモール化計画に賭けている組合員な方々のためにも、
有効な成果を得る責任がある、と。
 
| 水嶋かずあき | 思い出話 | 09:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
モール化の計画
おとといから続いています。

あらすじ。
紅谷パールロード商店街振興組合の成り立ちと、
モール化工事に経緯です。

青年部はその後、皆経験を重ね、年を取り、会の運営でも
中核を担うようになりました。
ま、出世したわけです。
青年部会長の瀬尾さんが、副会長になり、やがて理事長という職になり、
牧野さんが専務理事。
私が副理事長、という立場になってゆきました。
組織を振興組合という法人にしたので、
会長は理事長に、副会長は副理事長に呼称変更です。

さて、別段、皆えらくなろうと言うわけではなかったのです。
商店街として、来街のお客様に喜んでもらうために
商店街として何をすべきか、ということを模索しつつ、
さまざまな事業を展開してきたのです。
で、究極の目標として、商店街のモール化を図ろう、という所に
照準を定めました。
これは、かなりの大事業です。
私たちは、会の中で役職を戴いていましたが、まだ、30代。
その意味では非力です。
でも逆にその分夢は大きい。
ともかく、あちらこちらの先進商店街を訪ね、
自分たちの目指す商店街のあり方を具体的に形として描き出しました。
その結果がモール化です。
当時はやり出していた歩行者天国、車を止めて安全な道にしよう。
ぶらぶらと歩くことが楽しいモールとしての整備をしよう、というわけです。
これには、とてつもない多くの障害がありました。
第一は資金です。
総額で4億円程度が必要でした。
そんな金をたかだか小売商60店舗からはひねり出せない。
さらには、交通規制をして、従来通っていた車を止めなくてはいけない。
日曜ごとの歩行者天国とは違って、
毎日が歩行者天国、ということを目指したのです。
アーケイドは今の倍の6メートルの高さ。
ポリカーボネートを取り入れ、光あふれる明るいアーケードにしたい。
また、路面はタイル張りのしゃれたデザインの道にしよう。
街具は、ここが勝負。
見ていて飽きのこないような最新のもので、
光とか、動きのあるものをモニュメントとして取り入れる。
水飲みやベンチも必要。
当然、しゃれた街路樹も植えたい。
まあ、あれこれ抱えきれないほどの夢を形にしたものを描いていったのです。

今までのアーケイドは取り払う。
アーチやめて、門柱風のものにしよう。
舗装はすっかり剥がして貼り直し。
まあ、ついでに下水管やガス管などの取り換えもしてしまおう。
電柱は抜柱して、電線は地下埋設。

今でこそ、その通りになっているのですが、当時は見当もつかない大改装だったのです。

障害はいくつもありましたが、
見えているものとして大きなことが三つ。
一つは資金の問題。
行政の助成が無ければ、工事費が賄えません。
でも、今と違って、市にはいくらか資金的な余裕がありました。
そう、時代は、昭和58年ごろの話。
話の煮ツメ、各種交渉に1年。
設計と細部の詰めに1年。
工事に5か月。
完成が昭和60年の12月でした。

で、二つ目の障害は、道交法です。
警察及び交通安全協会などとの交渉です。
こればっかりは、そこを何とか、と言い続けるしかないでしょ。
私たちの主張が正しいかどうか、なんて何の根拠も無かったのですから。

そして、三番目が、各商店主さんの賛意です。
いやいや、簡単そうだった身内の説得が一番大変でしたね。

先進的な考えを持っていて、商店街として何かをしなくちゃ、
と、日頃から考えていた人たちを中心に無条件賛成が5割ほど。
態度保留と言うか、資金的な数字に難色を示す人が、3割ぐらい。
残り一割が、どちらかと言えば反対。
最後の一割が、絶対反対。
そんなことやったって、なんの効果もない、というわけです。
大体この類の人は、何をやっても反対で、日ごろから
あまり商店街の活動に協力的でないんですね。
いや、これは、当初から予想していたんですが、思いのほか強硬だったのです。

ともかく、結果としてはこの三つの障害以外に、
山ほどさまざまな問題が噴出してきたんです。

ですから、その割には、というのも変ですが、
当初、想定した障害は案外簡単にクリアーできたのです。
資金的な問題は、市が6割ほどの助成をしてくれました。
金額で2億5千万円です。
逆算すれば、私たちも1億5千万円の拠出をしたのです。
ここにたどり着くのには、それなりのやり取りがありましたけど、
もともと、市としても初めてのモール化ですから、
かなり興味を持っていたみたいで、関係各部著も積極的に協力してくれたのです。
例えば、モール内の植樹ですが、これは、市の緑化事業として取り扱ってくれて、
工事費から外してもらったのです。
ですから、植樹位置は設計で決めましたが、
樹種の選定は市がイニシアティブを持ったのです。

警察の方も案外話が分かってくれて、
結構楽な条件で許可を降ろしてくれました。
なんとなくですが、歩車道の段差は2センチ以内、とか言われたように記憶しています。
これは、もともとバリアフリーを目指していましたから、こちらの条件内。
ちなみに当時はバリアフリーなんて言葉はありませんでした。
私たちは、車いすでやってこれる街、という表現で、舗装面を考えていたのです。
ですから、当時一台だけ公衆電話を設置したのですが、
これは車いすからもかけられる高さ、ということで、通常より低く設置しました。

ま、ともかく、第三の障害以外は、思いのほか、ラッキーって感じでクリアーできたんです。
その分、第三の障害が重くのしかかってきました。
| 水嶋かずあき | 思い出話 | 10:20 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
パールロードと命名
昨日のつづき。

紅谷会青年部での仕事の、歳末感謝セールとかの、
毎年の恒例的な行事以外では、
初めに手掛けたのが、紅化会商店街の名称改称です。
当時、天井高でいいとこ3メートル程度の、
高さとしては今のアーケードの半分程度のアーケードがありました。
道路は両側に歩道があって、車道との落差15センチぐらい。
道幅は、歩道各4.5メートル、車道6メートルと言うサイズでした。
まあ、商店街のアーケードとしては、当時としてはまあまあの物だったのですが、
何しろ、全国での先進の商店街が次々とリニューアルするので、
ではわが紅谷会も、遅れてならじ、とばかり
道路名、商店街名を刷新することになったんです。
それには、それまでの鉄の骨組みで四角い門のような構造体に
これまた四角い白いアクリルに、赤い丸ゴシックの文字で書かれた
紅谷街と言う電飾看板がいかにも古めかしくて、老朽化が進んでいた、
と言う物理的な理由もあありました。
そこで、とりあえず公募。
いやずいぶん来ましたね。
数まで覚えていませんが、選択するのにずいぶん迷いました。
もちろん結果は現在の紅谷パールロードになったのですが、
冷静に振り返れば、何がパールなんでしょうかね。
真珠とはいわく因縁もないのですが、
イメージの清新さに心傾いたのかもしれません。
私の記憶に、紅ヤードと言うのが残っていました。
べにや、と、ある一定の場を表すヤードの合成語です。
ま、当然あれこれ意見はあったのですが、紅谷パールロードに決定。
さて、名前だけでは意味がない、と言うことで、
古めかしい入り口のアーチを刷新することになったのです。
併せて、中間部分に街路灯。
当然ですがデザイン的に一体となるもので、
鉄のパイプをアール状態に曲げて、それぞれの先端に白く球形の電気がついている、
と言う、いかにもパールのイメージ。
これと床のタイルも研ぎ出しの45センチ角のプレートを敷き詰めました。
少なくとも、以前から見ればかなりフレッシュな感じになったんです。

青年部としてこういうハードな部分の改善も手掛けたということが、後に、
モール化の工事推進に実に役立ったのです。

親会には、そうそうたる面々が顔をそろえていたのですが、
私たち青年部のそういう活動には、口出しをせず、
若いもんの考えでどんどんやっていいですよ、と言った感じでしたね。

その頃、中心的に頑張っていた花屋の望月さんがいました。
もっちゃんと呼ばれていたのですが、私たちより7つか8つ上。
どんなことも決して嫌な顔一つしないで引き受けてくれたのです。
ただ、無類の酒好き。
少し前まで、花の仕入れに市場までリアカーをひいて行ったのだそうです。
仕入れた花をリアカーに積んで、自転車をこいで帰ってきたのだそうですが、
この時、ウィスキーのボトルを、ひもで縛ってハンドルにつるして、
このボトルに長めのストローをさして、時々かがむようにして
ストローからウィスキーを飲むんだそうです。
自転車こぎこぎの話ですよ。
いや、じゃないと冬なんて寒くてしょうがない、とか言い訳。
夏場はどうした、と聞くと、いや、じゃなけりゃ暑さに負けちゃう、とか。
まあ、なんにつけ飲んでいましたね。
いまじゃあ、道交法でアウトですね。
まあ、いい時代でした。
 
| 水嶋かずあき | 思い出話 | 10:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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