水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
人生の節目

なんだかんだと75年生きてきました。

15年に区切って考えてみました。


1期、1歳から15歳まで
戦後のどさくさの中での生活とそれから抜け出しつつある社会の様変わりが、中心の時代でした。
まちかどで見かける米兵に群がりギブミーチョコレートという時期があり、
まあまあ食べるものは粗末な割には、腹いっぱい食べれるようになりましたし、
ぼろは着ていましたが、寒さはしのげました。
小中と、はつらつとした少年期を過ごすことができました。


2期、16歳から30歳。
高校、大学と、紆余曲折ながら無事に進むことができて、
まさに青春時代の真っただ中。
初恋も経験し、男を意識し始めたころでもあります。
大学卒業後、家業に入り、仕事に家庭にそして青年会議所活動に最も充実した時代でした。


3期、31歳から45歳。
青年会議所は40歳で組織を離れますが、たまたままちづくりのノウハウを身に着けたので、
その成果を多くのメンバー地域に伝道する時代となりました。


4期、46歳から60歳。
前期の余韻を抱えながら、50歳の時にベルマーレ、さらにナパサが登場し、
これに大きくかかわる年代となりました。
地域の諸問題に、大きく目を見開いて眺め、それを深く考えるようになった頃です。


で、5期、61歳から75歳。
ちらっと気になり始めたことが、このまちの行政の在り方です。
様々な社会活動を通して、あるべきふるさとの形を求めて、
自分なりの視点が固まっていったのです。
無謀は承知で、声を上げない限り、ただ思っただけで終わってしまう、と感じ、
市長選に手を上げました。
結果はまさに無謀な行動になりました。
で、翌年重症筋無力症が発症。
父の逝去に伴い、松風町から紅谷町に転居。
新たにマンション生活をするようになったのです。

今は仕事も引退し、老後の充実した時間を過ごしています。

 

で、この4期までの流れの中で、
自分が世の中に取り残された、と感じたことは一度もありませんでした。
それなりに時代の先端で、物を見、考え、行動してきたと自負していました。
まあまあ、おたおたながら世間様の中でやってきた、という感覚でしょうか。
で、5期の60歳から75歳までの期間の中で、
大きな変化が出てきたのです。
まずは肉体的な衰えですね。
難病にかかった、と言うことよりも、五感の衰えです。
目は早々に老眼になっていましたので、この期間ではひたすら衰え、

今ではハズキのルーペなしでは、デスクワークが全くできないという状態です。
そして、現在、最大の問題は、耳が遠くなったことです。
普通に話していると、半分ぐらい聞き取れないんですね。
その場の雰囲気で、分った顔して相槌を打つことがありますが、
不思議なもので、大体の話の内容でも納得できるようになったことです。
まあ、その本来は、どっちでもいいや、という半分あきらめたという感じですね。

 

肉体的な劣化はまあ仕方ない、と諦めているのですが、
世間様の標準からえらく遅れ始めた、というこを何とか、と思っているのですが、
最近になって、どっちでもいいやになりつつあるんですね。
それはITに関わることです。
インフォメーション・テクノロジー(情報技術)の領域です。
周囲にやいやい言われてスマホにしたものの、操作を覚えられない。
今だに電話とスケジュール管理しか使ったことがないんです。
カメラも使ったことがないし、当然それ以上のことはしない。
何より、留守電を再生するのが覚えられなくて、
だれかからの留守電を聞きそこなって、次に会った時に、
留守電に入れておきました、なんて言われても、すいません聴き方が分からないので、
なんて言い訳をしているんです。
いや情けないでしょ。
従って、カードで物を買うなんてこともしたことないですね。
現金でいいじゃん、が主義です。
とはいえ、やはりそれでは不便だな、と思って、
楽天カードでも入ってみようかと、その手続きをしたのですが、
10回くらいやり直して、2日がかりで、やっと入会させていただきました。
2日がかりと言っても、ほぼ一日中それに没頭しての2日です。

消費税還元のキャッシュレス決済のやり方も分からない。
しかし世の中は、そっち方面にどんどん進んでゆく。
乗ろうと思っても、もはや乗れる速度を超えてしまった電車のようなものです。
ホームで追いかけても追いつかない。

世の中に様々な格差がありますが、これをIT格差と言うんでしょうね。

 

目が遠くなり、耳が遠くなり、ITも縁遠くなりました。
近くなったのはトイレのインタバルでしょうか。
いやいやもう一つ近くなったものがあります。
それはあの世です。

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 10:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
10年ひと昔

夜中に突然、玄関の扉が、ドンドンドンとたたかれ、
大きな声で配達人が、電報です、と怒鳴っている声を聴いた経験がある、
と言う人は一体何人いるのでしょうか。
緊急の情報伝達は、ともかく電報しかなかった時代と言うのが長く続きました。
時のとても不吉な知らせ、と言うのが電報の印象でした。
今や、昔話の一つになってしまいましたね。

 

ある文化的、文明的要因の進化で、主役交代と言うか、
それまでのものが滅び、新たなものが台頭してくる。
10年ひと昔、と言いますが、
この流れの速い時代は、ときに10年と言うのは、変化を遂げたり、
入れ替わりをしたりするには、十分すぎる時間です。

 

また昔話です。
40年ほど前のことです。
10年ひと昔が4回も繰り返されたんですね。
ま、それはともかく、
私は、青年会議所の上部総括組織である、日本青年会議所で、
1978年度の教育観発委員会の委員長を仰せつかりました。
任命されたのは、33歳の時のことです。
この委員会は全国から100名ちょっとの委員が参画して来るんですが、
青年会議所の在籍可能年齢は40歳ですから、
33歳の委員長と言うのは、大半が年上の方々ばかりだったのです。
中には、地方の青年会議所で理事長を経験された方もいました。
まあ、大所帯の委員会ですから、委員会のスタッフもそこそこの数で、
副委員長をはじめ、なかなかの優秀な人材で構成されていたのです。
しかし、どんな組織もそうですが、いくら選抜しようと、
だらしない人はいるもので、たとえば、出欠席の返事があいまいだったり、
必要書類の提出をお願いしても、期日の平気で遅れたりと、
まあ、逆に一筋縄ではいかない猛者もかなりいたんですね。

基本的に、委員は志願制ですから、それなりの意識の持ち主、と思うのですが、
どうしても枠に収まらない人と言うのは、必ず何割か存在するものなんですね。

 

前年の準備期間でのことです。
電話で催促しても、はがきで催促しても、

委員会委員の名簿に記載する詳細を送ってこない人がいる。
まあ、その頃は、メールなんてなくて、FAXが精いっぱいの時代です。
で、名簿の印刷のタイミングは迫ってくる。
でも、最後5〜6人の書類が届かない。
で、打った手が電報です。
ま、40年前と言えど、すでに電報は殆ど使われなくなっていたんですね。
その昔は、都会で貧乏学生をしているものが、

故郷の実家に、カネオクレ、なんて電報を打ったものです。
緊急時の単純な内容は電報が効果があったのです。
で、電報と言うのは、それなりに強いアクセントになっていたものですから、
その書類未提出の人に、メイボノゲンコウヲスミヤカニオクレ、とかの文で、
電報を打ったのです。
効果はてきめんで、数日で文書はそろいました。

 

ま、時代は変わっても、普通なら対応してくれそうなことでも、
ぐずぐずしている人って、今でもある比率いるでしょ。
まあ、電報と言う手はないと思いますが、今ならどうするんでしょうね。
ただひたすら、携帯をかけ続ける、ということでしょうか。
もっとも、掛けるたびに留守電とか、あとでおかけ直し下さいのメッセージでは
意気消沈するでしょ。
電報に変わるショッキングなツールが欲しいですね。
最終手段、て言うやつです。

 

まあ、その意味で、一昔ごとに様々な道具は進化し、
特に10年も経つと、進化するというより、突然変異の新種のように、
新たなものが登場します。
で、一方で、それまで重宝していたものでも、新種にとってかわられて、
姿を消してゆきます。

 

こう言う世の流れにそれなりに対応してきましたが、
この年になって、時流に乗れなくなってきました。
特に新しいことへの挑戦は、先ずその気になれない、と言う事なんですね。
まあ、理解ができない、対応する能力がないだろうとあきらめる、なんてことはいい方で、
鼻っから拒絶と言うこともあります。

スマホにガラケーから切り替えるのに、周囲からさんざやいやい言われて変えたものの、
ガラケー以上の機能を使ったためしがありません。
いわば、ネット社会でのハンディコンピュータなわけですが、
それは机の上にあるおもので十分とか、
カメラも録音機も、それぞれのものがあるからそれで十分とか、
ま、およそ、通話とスケジュール管理以外に使ったことがないというありさまです。

 

10年ひと昔と言いますが、その流れについてゆけなくなりつつある状態を実感しています。
まあ、だからといって、自分に人生の価値が下がることはあるまい、と、
正に、じじいの本領発揮ですね。
我が道をゆくなんです。

 

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 10:29 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
PTSD・心的外傷後ストレス障害

昨日アップしたブログ、自転車事故の後日談です。

 

病院に運び込まれたものの、二の腕の擦過傷は、かなりの面積でしたし、
皮膚に砂利がめり込んでいて、時間が過ぎてもひりひりが続くんですね。
素人ながら、消毒して、砂など取って、包帯でも巻くのかと思ったら、何もしない。
私は思わず、このままですか、と聞いたら、こう言う傷はまず乾かすことなんです、と。


で、レントゲンを撮ってきてください、と言われたので、
もうその頃は、初期の痛みは少なくなっていましたので、
歩いて行って、レントゲンを撮ってもらい、戻ってくると、
医師は、そのレントゲンを白く光るアクリル板の前に止め、
しばらく見ていましたが、振り返って、何の異常もありませんね、で終わりなんです。
つまり、病院では治療的な事は一切されませんでした。

私は診察も終わったんで、タクシーで店に戻り、
治療を受けるほどのけがではなかった、ということで、
そのままディスクワークを始めたんです。
ところが、なんとしても強打した胸のあたりが痛い。
で、2時間ほどして、やっぱ今日は家に戻るわ、と退社したのです。

 

病院では、様子を見たいから2週間後に来るように、と言われたんです。
で、2週間たって、診療に出かけました。
まず、レントゲンを撮るようにと言われ、撮って、診察室に戻ると、
例のレントゲンを見るための白いアクリル板の前に写真を貼って、
医師がしげじげと見て、こういう診断を下しました。
肋骨が一本折れています、と。
私は、だろ、と思いました。
なんでもないのに、あんな痛いわけがない、と。
で、胸にマジックテープで留める幅広のバンドのようなものを渡され、
これを胸に巻いてください、少しは痛みが和らぎますから、と言われたのです。
基本的には、肋骨の場合、呼吸のたびに動くわけですから固定することができない。
したがっておれた部位に仮骨ができて、自然に直すしか方法がない、のだそうです。
およそ、一か月もすれば治るだろう、と言われました。
で、その一か月後にまた来るように、と。

 

それから一か月して、9月の半ばに病院に行くと、

いつも通り、レントゲンを撮って、その判断を聞く。
例によって医師は、レントゲンをしげじげと見て、その判断を告げます。
肋骨が2本折れています、と。
いやちょっと待て、この間は1本だったじゃないか、と。
何故かこの一カ月間で、一本追加されたわけです。
つまりです。
この二本目が付くまでにさらに一か月必要なわけでしょ。
当然ですが、激痛はないものの、胸はじわじわ痛いわけです。
これがあと一か月続くんですね。

 

そしてさらに一か月後、10月の半ばごろでしたが、病院に行きました。
例によって、レントゲンを撮って診察室のイスに座って、
医師の判断を聞きます。
医師は、肋骨が3本折れていますね、と。
ここまで来ると、もう驚かない。
私も冷静に、まあ、あと一か月胸のバンドを巻き付けるんだ、と。
ま、それだけのことですから。

 

で、そうこうするうち、サンフランシスコで七夕太鼓の公演があり、
帰ってきて、11月の半ば、もうこれでけりがついただろう、と病院行きました。
で、例によって、レントゲンを撮って、医師のご宣託を聞くわけです。
医師は、凄く冷静に、4本折れています、と言うんです。
厳密には4本5か所折れている、と。
一本は2カ所折れていたんですね。
私もまじまじとレントゲンを見ました。
あばら骨が、上の方はまともですから、「つ」と言う字のように写っているんですね。
で、その下は折れているので、「く」の字を逆さまにしたような形です。
さらに、4本目は、二カ所折れてるので、「コ」の字のようなんです。
つまり、レントゲンに、つつつくくくコ、と書かれているんですね。
私は、どうしてレントゲンを撮るたびに増えるんだろうと、思いました。
そうでしょ、なぜかと思うでしょ。
医師はそんな私の表情を見て取って、何か疑問ですか?と質問。
私は、当然ですから、はい、と答えました。
医師は、そばにいた看護師に、今までの写真を全部持ってくるように言い、
1枚目からその広めのアクリル板の上に貼っていったんです。
1枚目ゼロ、2枚目1本、3枚目2本、4枚目3本、5枚目4本5カ所。
得意げに医師はその展開を、ほら、と言った感じで見せるわけです。
で、医師は、もし、この先さらに増えるようでしたら、学会に報告します、と。
私はそれを聞いて学会に報告と言うことがちょっぴりうれしかったんですね。
だって自分の症状が学会に報告されるなんて機会はめったにないでしょ。
私はうれしさを悟られないように、表情を崩さず、分りました、と。

 

で、年の瀬も押し迫った12月の半ば、病院に行きました。
6枚目のレントゲンを撮るためです。
結局、4本5か所以上には増えていませんでした。
痛みもその頃は一切なくなっていたんです。

まあ、この経緯を振り返ってみて、病院で診察はしてもらいましたが、
救急車で運び込まれてから、6回の病院通いで、一切の治療を受けていないんですね。
ま、これも良しとするか、です。

ちょっと残念なのは、学会に報告される可能性が無くなったことです。

 

私はそれから1年ほど、自転車に乗ることができませんでした。
恐怖感が取れなかったのです。

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 10:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
8月1日、私の記念日

またも思い出話です。

 

今から31年前の1988年8月1日のことです。
この年は、初夏に研修船の講師として乗船し、2週間の船旅を経験しました。
秋には、サンフランシスコでの七夕太鼓の公演が予定されているなど、
何かとにぎやかなスケジュールが多く、
まあ、半分お楽しみのスケジュール満載で、実に充実した時期だったんです。
で、その日の朝、なぜこんなにハッピーな日々が続くんだろうと、
妙に不安になったんですね。
本来の意味ではありませんが、好事魔多し、と言った感じでしょうか。
こういう時って、どこかでどんでん返しが来るんだよな、
なんて妙に殊勝な気持ちになっていたんです。

 

で、いつものように自転車にまたがり、松風町の自宅から紅谷町のお店に向いました。
この自転車は、ナショナルの自転車で、結構いい値だったんです。
要は車体が軽い。
自転車って、車体重量が軽いほどスピードが出るんですね。
したがって、この自転車は、結構速く走れたんですね。
この時私は、御年44歳。
まだはつらつとしていたのです。
で、自称、下り坂の中野浩一と言ってました。
下り坂ですと、楽に加速できるでしょ。
平坦だと、足が続かない。
で、条件付きで下り坂の中野浩一だったんです。

 

家を出て、中央地下道にさしかかろうか、と言った時のことです。
信号待ちしていた路肩側に郵便局のバイク、道中央寄りに軽自動車。
信号が変わった瞬間ですから、バイクも軽も、もたもたしていたんですね。
中央地下道に入ると下り坂ですから、
私は、中野浩一を気取って、尻を上げて、一気に踏み込みました。

自転車にしては相当な速度になっていました。
軽とバイクの間をすり抜けられる、と思ったんですね。
ところが、ほんのちょっと、バイクにに接触したんです。
私はバランスを崩し、何メートルか飛んで、

段差のある左側の路肩にいったん叩きつけられました。
で、その反動で、歩道の上にあおむけになって転がったんです。
ものすごいショックが全身を襲い、息もできない。
痛いを通り越しているんですね。

 

で、話は変わります。
その年の青年会議所の国際交流委員会の委員長を、みどり会館の成田さんしていたのですが、

彼は韓国籍だったので、韓国の釜山青年会議所と姉妹締結すべく、
事業を進めていました。
で、話しも煮詰まり、釜山のメンバーが平塚にやって来て、具体的な調印をする、
というところまでこぎつけたんです。
私は、たまたま韓国青年会議所と、ささやかな交流があったので、
彼は表敬的な意味で、私を釜山と平塚のメンバーの朝食会に招待してくれたのです。
ところが、その当日の朝、ころっとスケジュールを失念し、
昼過ぎになって、そういえば今日は朝食会があって、参加すると返事をしていた、

と言うことを思い出したのです。
夜の立食のパーティならともかく、朝食と言うのは、間違いなく着座の席でしょ。
OBと言うこともあって、きっと上の方に席があったはずです。
そこがポツンの空席になってしまった。
いやいやこれは申し訳ないことをした。
成田さんの顔をつぶしてしまった、と、えらく反省したんですね。

 

ともかく、謝りに行かなくては、と考え、予定としては、
その日の午後にでも出かけてゆこうと考えていたんです。

で、肝心なところでの事故。

 

私はうんうんうなりながら、歩道に転がっていました。
軽を運転していたおばちゃんが、駆け寄ってきて、
私は何も悪くないよね、と念を押すんです。
そう、俺が原因の事故だからあなたは、さっさと、車に戻っていい、と言いました。
郵便局の配達員は、その場で、本局の事故係に電話をしていました。
で、通りすがりの人が人の顔を覗き込むんです。
郵便局の配達員は、私のところに来て、救急車を呼びましょうか、と。
何故か私は断ったんですね。
ま、何とかなるだろう、と思ったんです。
しかし、ま、ともかく苦しい。
痛いじゃなくて苦しいんです。
涙が次々と流れてきて、周りが良く見えない。
と、私の顔を覗き込んで、水嶋さんじゃないですか、と言う人がいる。
かすんだ視野で見えたのは、あの、成田さんだったんです。
大丈夫ですか、と心配しているんですね。
そりゃ、自転車はひしゃげているし、右腕は擦り傷で、血を流しているし、
まあまともじゃない。

 

で、成田さんと分かった時、
私は、なんというめぐりあわせだろう、と思いました。
と、即座に、この間は、朝食会を欠席してしまい、誠に申し訳ありませんでした、と
息も絶え絶えに謝ったんですね。
彼は私の顔を覗き込みながら、そんなことどうでもいいじゃないですか、
それより救急車呼びましょうか、と。
さすがに苦しさが取れないので、呼んでください、とお願いしました。

まあ、救急車が来るまでの時間の長かったこと。
また、市民病院にたどり着くまでの長かったこと。

 

成田さんには、迷惑をかけたうえに、肝心なところで助けてもらいました。

 

浮かれて過ごしていたつけが、一気に回ってきたわけです。
毎年8月1日なると、このことを思い出します。

 

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 19:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
夏休みもあと一か月

どんな子供も、勉強はいやでしょ。
ごくまれに、好きな子もいるかもしれませんが、それでも遊んでいい、
という状況に置かれてもなお、いや勉強しますなんて子はいないはずです。
子どもってそういう存在でしょ。


でも、大人が、ああだこうだ言って、勉強を強いる。
いいか悪いか、勉強することを大人は大事だ、と言うんですね。
いや、私もそう言います。
つまり、ほとんどの大人が、子供に勉強しろと言うのは、

子どもと言うのは、勉強しないものだという不安からなんですね。
それと、しろと言わないとしない、という子供の特性もこれには関係しています。

 

ですから、学校がお休みなんて、子どもにとって最高に幸せな状況でしょ。
我が子供のころを振り返ってみて、
春休み、夏休み、冬休みとあって、
夏休みは、大体7月22〜23日ごろから、8月いっぱい。
今はよく知りませんが、その頃は、これでもか、と言うほど宿題が出たでしょ。
漢字の書き取りとか、算数のドリルとか、図工の工作とか、理科での昆虫採集とか、
そのほか、日記と言うのがありましたね。

これが嫌だったですね。
何故かこれがたまってしまう。
知恵がないですから、メモしとくことなんかしないで、天気のところはうろ覚えで書く。
その日のしたことはほぼ作り話で、なんとなくありそうなことを書き、
なんとなくありそうなコメントを付け加える。

結局、ほぼ毎日プールに行ったことになってしまうんですね。

それこそ雨の日もです。

まあこれはご愛嬌です。
しかし、実態は、8月の27・28・29辺りをピークに、
宿題本来の目的は無視されて、提出するための書類作りみたいな様相になるでしょ。

8月の後半になると、貯めこんだ宿題をしなくちゃ、というプレッシャーがあって、
最後の一週間は、あまり楽しめなかったですね。

ですから、夏休みで一番充実した時間は、
休みにも慣れて、精神的にも何にもとらわれていない8月の上旬ぐらいだったでしょうか。

 

おぼろげながらの記憶ですが、
その一番嫌な日記に、もちろん日付と天気、気温などを書き込むところがあるわけです。
で、当たり前ですが、気温はその日の最高気温。
そのおぼろげな記憶と言うのは、
なんだかんだと暑い暑いと言いながら、最高気温が30度を超える日はあまり多くなかったように思うのです。
いっても、いいとこ32度どまり。
それを思うと、やはり今は異常ですね。

 

ま、ともかく、子どもにとっては、宝物のような夏休みでしょ。


ひがむわけではありませんが、
私達が子供の頃は、土曜は半日でしたが、それでも学校はあったわけでしょ。
きっちりと週休1日ですよね。
ですから、祝日が土曜とか、月曜とかになると、まさに連休ですよね。
これがうれしくてうれしくてたまらなかったです。
ある年、多分、昭和28か29年ごろ、
5月の3日が土曜、4日が月曜、と言う暦の時がありました。
3連休です。
後にも先にも、小中学校の時に3連休と言うのはこの時だけだったように思います。
で、この連休のさなかに、通ていた崇善小学校の校舎が火事になったのです。
3連休と言うことで、東京のいとこが遊びに来ていましたので、

その辺りの記憶で、頭の隅に残っているんです。
で、消防のサイレンを聞いて、学校までかけてゆき、教室の机など、校庭に運んだ記憶があります。
昔々の連休の思い出です。

 

さて、あ夏休みもあと一か月、でしょ。
まあ十分と言えば十分ですが、子供のころ、8月に入った途端、

月日が進んでゆくという実感とともに、
いずれ休みも終わってしまう、という不安に駆られたものです。

 

あすから8月ですね。
早いものです。

 

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 20:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
まさに思い出話

30年余り住んだ松風町から紅谷町に引っ越してきましたが、
その旧我が家の解体が始まりました。
大型の重機で、がりがりと容赦なく建物を取り壊してゆきます。
紅谷町に引っ越してきた時は、
当然、衣類や必要な生活道具やらを持ってきたのですが、
半分ぐらいは、どうでもいいものがあって、それ等は置きっぱなしにしてきました。
まあ、ほんと、どうでもいいものに囲まれて暮らしてきたんだな、と。
だって、3年ぶりに置きっぱなしのものの整理に出向いたのですが、
ほとんどが、やはりいらない、と判断したんですね。
かみさんは何かともったいない、と言って持って帰ろうとするのですが、
それがなしでも3年暮らせたんだから、今更不用品を抱え込むな、と言って、
なるべき持ち帰らないようにしているんです。


まあ、何かと便利なマンション暮らしですが、
欠点は狭いという事でしょうか。
でも、広ければ、ただ余分なものが置かれる、という事に気づいたんですね。
とは言え、その置きっぱなしの品々の中に、どうしても捨てきらないものもあります。
基本的には思い出につながるものです。
写真なんかは、段ボール箱一杯ありました。
でも、当然どうでもいいものもあるのですが、
何か基準を持って、選別しようと思い、
我が人生の100枚、というテーマで選ぶことにしました。
当然やたら捨てなくてはその数に絞れません。
その第一次審査で、ほぼ200枚ぐらいになりました。
そこで、最終審査を近々やろうと思っています。
このことを友人に話したら、100枚きっちりですか、と聞くんです。
そう、現時点では100枚。
で、来年は101枚。
何の理由で1枚増えるんですか、と。
そこで説明しました。
これから毎年1枚増やす。
その増える1枚は、もし、今年死んだら、葬儀の時の遺影に使う一枚だ、と。
遺族に、この写真を使ってくれ、というわけです。
これは結構本気の答えです。


その思い出系のものを整理しているとき、
昭和60年に神奈川新聞に12回にわたってコラムを担当した時のコピーが出てきました。
これは、当時紅谷パールロードのモールが完成した時に、

そのいきさつを書いてくれ、と依頼されて書いたものです。
思わず懐かしくなって、一通り読んでみました。
この中で、最も強く印象に残っている出来事があります。
以前確かこのブログでも書いたのですが、
七夕不掲出事件、とでもいう事のいきさつです。


現在あるモールの工事に絡む事で、その経緯を要約しますと、
モール工事を実行するにあたって、会員から七夕祭りの時の露天商を制限してくれ、
という要望があり、モール建設実行委員会として、市に要望書を提出したのです。
しかし、市からは商店街の会員を満足させる回答が得られず、
対抗として、七夕の竹飾りを掲出しない、と言う手段を取ったんです。
まあ、商店街と市がもめたわけです。
そしたらこの様子を聞いた新聞記者が取材に来て、

どういうことなんだ、と。
私は七夕祭りにおける露天商の横暴さをいささか大げさに表現したんですね。
「ある家族の夕食の時、みんなで食卓を囲んで楽しい話をしながら食事をしていた。
そこへ、突然割り込むようにどこかの人がやってきて、
人の食べていた茶碗を取り上げ、好きなものだけ食べ散らかして、
ごちそうさまも言わずに出て行ったようなもんだ」と露天商の事を例えたのです。
記者は、うまいたとえだね、と感心していたんですが、
それが新聞にそのまま書かれたんです。
しかも、水嶋かずあきがそう言っていると。
つまり露天商排除の急先鋒はこの男だ、という風な書き方だったんですね。


新聞が出たその日、友人がやってきて、水嶋、あれはまずいぞ。
奴らだって大事なしのぎの場がなくなるかもしれないとなると、
それ相応の動きをするぞ、と言うんですね。
で、私もまさか名前入りで書かれるとは思っていなかったので、

正直、びくついていましたから、

それって、刺されたりするのか、と聞いたんです。
すると彼は、奴らだってプロだから、胸や腹は刺さない。
じゃ、どこを狙うんだ、と聞いたら、
多分モモだろうと言うんです。
その時、もう刺されてしまうことになっても仕方ない、と覚悟したので、
腿ならいいや、と思ったんですね。
いや本当にそう思ったんです。

そういうことがあれば、露天商問題の解決の糸口になるかも、とか思ったのですね。
幸い、七夕ではそういうことが起きませんで、無事に過ごすことができたんです。


今思えば、そんなばかばかしいことも、思い出になりました。

 

この時に、腿だろうと言った宮川文ちゃんが、逝去されました。
親しい友がじわっと減ってゆきますね。
ご冥福をお祈りします。

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 07:09 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
セミの抜け殻

夏休み、というのは、子どものころは、天国で過ごす時間のようなものでした。
何しろ、あのお勉強の時間に、ほとんど拘束されないのと、
普段ではめったに行けない、海や山など、自然に接する機会もあり、
高学齢になれば、2泊3日のサマーキャンプがあったり、
年に一度の家族旅行があったり、
遠くのいとこが遊びに来たりとか、
毎日が、わくわくするようなスケジュールが組み込まれていたものです。

 

ま、それでも、微妙にプレッシャーになったのが、宿題です。
絵を描くとか、工作の作品づくりなど、
もともと好きなことでしたから、むしろ楽しくやったのですが、
一番苦手だったのが、日記でした。


何しろ毎日書かなくてはいけない。
で、1週間や10日ほどため込んでしまうと、
何をやったか細かいことが思い出せない。
まさか、毎日、昆虫採集に出かけました、などと書くのも、
子供心に抵抗がありましたしね。
ま、三日に1日分ぐらいは若干創作気味の文章になったとしても、
問題は、その日の天気と気温です。
今日は朝から晴れていて、昼間は、汗をかきっぱなしの暑さでした。
うちの温度計では、32度にもなっていました。
なんて、その日が雨だったら、真っ赤な嘘になるでしょ。
そこで、友達何人かで、夏休み日記のために集まって、
その整合性を調整したりしたものです。


ともかく、日記と言うのが最大のプレッシャーで、
毎日書けば、なんてことないのに、
ついつい後回しになってしまうんですね。


こうして、今は、毎日ブログを書いていますが、

その頃、今のような根性があればよかったんですけどね。


ともかく、自分でも将来が心配になるほど、あきっぽくて、諦めが早く、
粘りのない子供だったんです。
しかし、子供なりに、学習してゆくもので、
小学校の高学年になると、
この最も大きなプレッシャーである日記については、
なぜか前倒し気味に書き込んでゆくことにしました。

またこれはこれで妙なことなんですが、
天気と気温だけ、ちょこちょことあとで書き込む、という、

小賢しい知恵を身に付けました。
ですから、夏休みの楽しみ方と言うのは、
結構早めに体得したほうだと思います。


それでも、ついつい引き伸ばして、後回しになるものがありました。
それは昆虫採集です。
当時は、当たり前のように、身近にいる昆虫を採集して、
それを虫ピンで標本箱に貼り付け、提出するという宿題です。
で、この元になる昆虫をどこかで捕まえなくてはいけないのです。
いい意味で、のんびりした時代だったんですね。
虫取りの網、トンボ網を抱えて、首から虫かごを下げて、
近所の草むらや林に入りこめば、なんだかんだと標本のネタになる昆虫は取れたものです。
トンボや蝶々がメインです。
あとセミとか、その他の虫たち。
今、冷静に考えると、現代の夏休みの宿題として昆虫採集を課したら、
一体何を標本箱に貼り付けてくるんでしょうね。
で、ある年の夏休みのこと。
昆虫図鑑を見ていたら、セミの脱皮について写真入りで解説してあったんです。
夕方の5時00分、セミが地中から出てきて、木に上り始めます。
5時15分、場所を決め、木の幹に体を固定します。
5時25分、セミの幼虫の背中が割れ始めます。
5時35分、セミの殻から、体をそらせるようにして、半分ぐらい、体を出します。

5時45分、すっかり脱皮します。そして羽がを伸ばしながら、はねを乾かします。

6時00分、脱皮の終わったセミは飛び立ちます。
と言った一連の蝉の脱皮の様子が図鑑に書いてあったんですね。
私は、そこで、自分の目で確かめようと、
木々が生い茂っていた裏庭で観察をしたのです。
実際、庭の木からはセミが脱皮をした後として、

抜け殻が幹についていることが普通にあったんですね。
そこで、5時、満を持して木々の幹を調べます。

30分歩ほど根気よく観察しますが、セミを発見できない。

1時間たっても姿を見ることがない。
いや悔しくて、翌日も、その翌日も夕方の5時になると、

庭の木を見にゆくんですが、それらしき様子を確かめることはできなかったんです。
で、ずいぶん経って、分かったんですが、5時と言うのは例えばの話で、
要は幹に固定してからどのくらいで脱皮し終わるのか、

という事の時間系列を仮に示したものだったんですね。
小学生ですから、そこのところの理解ができなくて、
もろ、5時には出てくるものだ、と思い込んでしまったわけです。

 

ま、夏休みというのは、その意味で、いい思い出、苦い思い出が混在していました。

今となれば、すべてがいい思い出になっています。
いや、間違いなくいい時代だったんだな、と。

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 12:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
14組クラス会
昨日は、湘南高校時代のクラス会が開催されました。
ほんと、久しぶりの事だったんですが、
このクラス会は、ちょっと変わっていて、
普通、卒業年度の仲間が対象になるでしょ。
ところが一年生の時のクラスメートのクラス会なんです。
当時、湘南高校では、一年の時に組まれたものが、
2年の時にクラス替えをし、3年の時はそのまま、ということなんですね。
ですから、普通は、2年間一緒だった友達の方が、
付き合いも濃いはずなんですが、これがそうでもない。
そもそも、私自身、自分のクラスの番号をほとんど覚えてなかったんです。
ま、開催案内には、14組とあったので、ああ、4組だったんだな、と言った程度。
ともかく、幹事の久枝君が、こまめな方で、
出席状況を、時々刻々と知らせてくるんです。
当然、数日前に、念押しのメールが入る。
併せて出席者の名前と合計数。
で、確か、19人とか言っていたように思うのですが、
前日、一人減って、18人とのこと。
思わず、これに返信メールをして、誰か死んだか?と。
いやもちろん冗談ですが、これがあまり冗談ともいえないところが、
私たちの微妙な年齢です。
当然全員年男、年女の72歳。
50人のクラス編成でしたが、5人の仲間がすでに亡くなっています。
いやこうなると冗談でもないでしょ。
もし、〆の言葉でも任されたら、次はいつという予定はありませんが、
でもその時までは死なないように、とか言うんでしょうね。
そんな年です。
そもそもが、中には、54年ぶり、という人もいたわけです。
数日前になんかの会合で顔を合わせた人でも、忘れてしまうくらい、
顔認識機能が弱い私ですので、54年という歳月はまさに致命的。
幸いかな、久枝君が、ネームカードを作っていてくれて、
これを胸につける。
だから、話す前に名札にちらっと眼をやり、ふむ、なになに君だな、と
一旦確認して話さないと、頓珍漢なことになってしまいそうなんです。
さあ、なんだかんだとこの名札に助けられながら、
場は持てたんですが、それもこれも、当時の面影は残しつつ、と言ってもわずか。
顔はしわだのシミだので、往時の面影はなく、
何より、髪の毛の変化は著しく、
一人はつるっパゲ。
総白髪はいい方で、ほとんどうすらハゲ状態。
こういう変化の中で、昔の顔を思い出すのは至難の業で、
出席者のうち、3人は、一緒だったか、とおもうほど、記憶にないんですね。

最悪だったのは、さあ、お開き、となって、帰り支度をし、
皆が胸の名札を外したときのことです。
さて、こいつの名前は何だったか、と、とっさに出てこない。
いや、情けないですね。さっきまで、文字を負って名前を呼んでいたくせに、
それすらできなくなるって。

3時間余りの集いの中で、当然席の隣同士はよくしゃべりますが、
離れたところの仲間とも話したい。
で、なんとなく半ば過ぎたあたりで、一寸した席替え状態になって、
じっくりと懐旧談に花を咲かせます。
そこで、改めて、そうだったのか、という話が次々と出てきて、
知らなかったことや、勘違いしていたこと、
そして主に、忘れてしまったことの話が、とても刺激的に展開されるんです。
いいもんですね。
また会いたいね、という思いを共に口にしました。

きっと、それなりにいい時代だったんですね。
みんな、ほぼ現役を引退し、気楽な日々を過ごしているようでした。
何よりなによりです。
次に会うまで、お達者で、と思わずにいれらませんでした。
 
| 水嶋かずあき | 思い出話 | 09:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
携帯の文化
20年前に、現在を予測して、
恐らく、こんなことになっている、って、想像できなかったことが
けっこうありますね。
いろいろある中でも、コンピューターの進化が、すべての基礎にあるような気がします。

日常的なものの中では、携帯電話が特にその影響が大のようです。
だって、あんな小さなものの中に、実に多彩な機能が含まれているでしょ。
一体どのようにして、閉じ込めたのでしょうね。
便利になったと同時に、その普及度もものすごいでしょ。

小学校のころの話です。
一平という料亭を祖母がはじめ、それを父が受け継いだのですが、
当然、商売をしていたので、電話を引いてありました。
なぜか、玄関の横に、扉付きの電話ボックスがあって、
そこでかかってきた電話に出たり、こちらから掛けたりしていたのです。
確か、電話番号は587番。
これに局番が付くようになったのは、中学生ぐらいになってからです。
まだまだ手動的なところがあって、
受話器を取ると、交換手が出て、番号を聞かれます。
で、番号を言うと繋がる、と言った感じでした。
悠長な時代だったので、番号が分からなくても、屋号を言えば繋いでくれたりしたものです。

これが、ダイアル式になったのは、中学生の終わりのことだったと思います。
以来、電話は急速に進化しました。
人の多く出るところには公衆電話がありましたし、
客商売をしているところでは、お客さん用のピンク電話を設置したものです。
とはいえ、この頃でも、電話を引く、となると、電電公社に出かけて行って、
申込書を提出。
で、時に、2〜3週間後に設置工事にやって来る、なんて状態でした。
しかも、あわせて、電話債券なるものを購入しなくてはならず、
かなりの出費を伴ったのです。
家電(いえでん)として電話が普及するのに、これらの手続きと、費用は、
大きな障害になっていたと思います。
恐らく、昔から商売をやってきたところは、早めに電話を取得していたので、
当然電話債券なるものを購入します。
で、これが、帳簿の債権の欄に記載されていて、
今では何の価値もないようなの物でも、帳簿上、残っている、ということがあると思うんです。

本当にあっという間に電話は広まり、進化しましたね。
30年以上前になるでしょうか、ぼちぼちと携帯電話が普及し始めていました。
当時は自動車電話と並んで携帯が売られていて、
バッテリを小さめのカバンに入れて、肩からぶら下げて、電話を持ち歩いていたのです。
まあ考えられないでしょ。
その電話機も、やたらごつい形で、大きくて、あれば便利、という程度で使えわれていました。
しかし、あっという間にこれは小型化し、手のひらに収まるサイズになりました。
でも、まだまだ、電話をする道具として扱われていました。

その頃のことです。
多少は普及しつつあるものの、私も持っていませんでしたし、
友人の中でも、携帯を持っている人はわずか。
そこで、12月31日におせち料理を配達するのに、
どうしても途中で連絡しなくてはいけない事態がしばしば発生するんで、
友人に頼んで、3つほど携帯を借りて、配達に使ったことがありました。
車3台で配達したので、3台の携帯が必要だったのです。

なんだか、今の普及状態を考えると、隔世の感がしますね。
一番の驚きは、その機能ではなく、その普及率です。
だって、小学生だって普通に持っているでしょ。
通信機能を誰もが持ち歩いている、って、すごいことでしょ。
しかし、一方ではこの新しい文明の利器の広がりとともに、
例えば病院内で通話するな、とか、
電車内で禁止するとか、
会議中は当然ですが、何かと、使用のコントロールが広くなっています。
まあ、新しいマナーと言うか、ルールが決められてきました。

先日、webの動画で見たんですが、
確か、チェコかなんかでの、バイオリンコンサートの時、
観客の携帯の着信音が会場に響き渡ったんですね。
奏者は一瞬演奏を止めたのです。
そしてやおら、その着信音のメロディーをバイオリンで弾いて、
(いや、さすがですね、そういう能力は)
しまいに、ちゃんと曲としてエンディングまで付けたのです。
これには観客も大喜び。
うっかり携帯を切らなかった人も、幾分かメンツを保てたと思うんですね。

永六輔さんが、講演の時、会場の観客に向かって、
みなさん、携帯をお持ちですか、持っている方はポケットから出してください。
そして、画面をこちらに向けてください、と言います。
永さんも、自分の携帯を高く掲げます。
そして左右にゆっくり振ってください、と言って自分の携帯を左右に振ります。
そうです、こちらから見ると、ペンライトを振っているようでとてもきれいです。
はい、ありがとう、では、スィッチを切って、しまってください。
って言うんですね。
講演中は、携帯電話の電源を切ってください、なんて野暮な言い方をしないんです。
しゃれているでしょ。

もっとも、そんなことばかりではありません。
やはり、新しい文明の利器に対しては、
新しいルールが必要です。

これも、ある意味の文化なんでしょうね。
 
| 水嶋かずあき | 思い出話 | 10:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
情熱さえあれば、素人でもできるんです
長々と話を引っ張ってすみません。
パールロード物語は、これで最終回にします。

露天商にまつわるやり取りで、結局、市からは何の回答も得られず、
裏で掲出の準備はしていたものの、この努力はオジャン。
私たちは、七夕飾りを掲出しませんでした。

七夕が終わると、結果として掲出しなかったものですから、
世間は事情も斟酌せず、非難ゴウゴウ。
特に、数人の市議が表だって動いて、
市の行事に協力しない奴らに、助成金なんか出すな、と働きかけたんです。
そんな動きなどは、私たちは知りませんでした。
で、予定通り、旧アーケードや街路灯など、既存設置物の解体をしたわけです。
ところが、市側の発注したアーケードなどの工事が始まらない。

今まで履いていたパンツをはきかえようとしたら、一旦は脱ぐでしょ。
で、速やかに新しいパンツをはく。
でも、この場合、脱いだものの新しいパンツをはく、ということが行われなかったんですね。
アーケードと店舗の接している部分は、店舗としては実に無防備な建築の仕方をしているんです。
ただ板が貼ってあるだけ、みたいなですね。
ですから、旧アーケードを外すと、いきなり、ボロが出てくる。
要は、パンツをずり降ろしたまま、突っ立てるようなものです。
みっともないでしょ。
で、何とかしなくちゃ、と私たちは焦りました。
市もえげつないでしょ。
ちょっとしたやり取りで、トラぶったものだから、その意趣返しです。
仕方ない、理事長に頭下げてきてくれ、と頼み、
もちろん、理事長は、しぶしぶでしたが、頭を下げて、ともかく、工事を始めてくれ、
とお願いして、手打ち。

で、なんだかんだと、1ヵ月半遅れて工事開始。
もともとが7月半ばから、11月いっぱいという予定でした。
間違いなく歳末商戦に影響するのですが、そこは何とかしたい、と。

で、工事再開の最初の工程会議が市の、会議室であったんです。
さまざまな工事関係者が集まり、この建設の指揮をする道路課の職員、
私たち、会の役員も出席しました。

議事進行を道路課の職員が議長となって、仕切りました。
で、さまざまな業者が自分の分野について、あれこれ必要日程を言うんですね。
例えば、既存電柱の抜柱については、1週間欲しい、とか、
路面の掘削には、10日欲しいとか、ま、あれこれです。
その意見を聞きながら、道路課の議長は、最後に、
では、工事完成は2月半ばですね、と言って、会議を閉めたんです。
私たちは、会議室の外に出て、議長が出てくるのを待って、取り囲み、
なんだ、あの会議の進め方は、と詰め寄ったんです。
ただ単純に足し算しただけじゃないか、何の工夫も、知恵も出されていない。
私たちは、最低限、12月の歳末商戦には間に合うようにしたいのだから、
少しづつでも、工程を短縮する努力をしてほしい、と。
すると、彼はそんなことできない、工程は必要な時間の足し算したものだから、
というんですね。
そこで、じゃあ、これからは、自分たちで工程会議をする、と市の管理を突っぱねたのです。
帰ると、早速、各工事業者に連絡を入れて、
明日、再度工程会議をする、場所は、舟平の二階、ということで、
完全に商店街主導で工事を進めることにしたんです。
考えてみれば、すごいことでしょ。
4億円の工事の管理を、ずぶの素人がやろうというんですから。

で、翌日、集まってきた業者との交渉が始まりました。

さて、東電さんは、電柱の抜柱に1週間と言われましたが、
ここを5日でできませんか、と投げるわけです。
で、大体は無理だというんですね。
では、1週間の根拠は何ですか、と。
すると、工事担当者が、ポロリと、実際は、5日でできるんですが、
雨でも降るといけないので、その予備を含めると1週間になるのです、と。
で、我々は、こういいます、
「この期間、雨は降りません、したがって、電柱の抜柱は5日です」と。
無茶な話ですが、こんな風に決めつけるしかない。
私たちの必死さが伝わったのでしょうか、
会議を進めてゆくと、いろんなアイディアが出てくるもので、
路面のタイル工事を担当している業者が、こんな提案をしてきました。
設計図によると、使用しているタイルが10センチ角です。
これを11センチ角の同じタイル材があるのですが、これに変えませんか、と。
なぜそんな提案をするのか、と聞くと、
10センチより11センチの方が、たとえば1メートル分貼るのに、
1枚少なくて済む、その分仕事が早くなるでしょ、と。
そりゃそうですが、見た目で10センチと11センチではどんな違いがあるんですか、
と聞きますと、
普通、見た目ではその違いが分からないでしょう、と。
業者が言うんですから、じゃあそうしましょ、となります。
こんな風に、なぜか、皆さんやたら協力的で、
さまざまなアイディアが出されて、その会議の最後の結論が、
「ということで、工事の完成は、12月初旬と言うことになりました。」
と宣言して終了しました。
ぎりぎり歳末商戦に間に合います。

すごいでしょ、市の仕切方から比較すると、なんと、2か月も短縮できたのです。

もちろん、工事期間中も様々なトラブルがありました。
でも、ありがたかったのは、業者の方々がとても一生懸命に仕事してくれて、
なんとか、12月初旬の竣工に間に合ったのです。

おかげさまで、市内では第一号のモールが完成したのです。
そして、翌年の七夕祭りでは、パールロードが、露天商の出店除外地域に指定されたのです。
有難いことに、ももを刺されることなく、です。

長いシリーズおつきあいありがとうございました。
 
| 水嶋かずあき | 思い出話 | 05:12 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
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