水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
おかげさまで4000投稿

どうも、生活そのものがルーズな展開で、
その日のスケジュールで、これと言った拘束もない日が多く、
まあ、ある意味気楽と言えば気楽なのですが、
それだけに、仕事をしていたころから見れば、
いい加減な日々を過ごしているような感じなんですね。
まあ、リタイアーをすると言うことは、原則毎日が日曜日、
友人がうまいこと言ってました、サンデー毎日だ、と。
何か予定があると言ったって、長くて2時間程度で終わり。
したがって、その前後は全くの自由なわけです。
普通は、長い仕事や作業の合間に短い休憩がありますが、
長い休憩の合間に短い仕事がある、と言う感じです。
.
それでも、ごく普通にやらなければならないことの一つや二つはあります。
家族3人の朝食の支度とその食材の買い出し。
メダカの世話、と言ってもいいとこ10分。
で、ここがほぼメインなんですが、ブログのアップ。
これは日課ですから、その日の何時であろうとやらなきゃならない、
と自分に課しています。
一番多くパソコンに向かう時間帯は、朝の食事後の約1時間。
午前中がらみのスケジュールがある時は、午後に回ることもありますし、
時に夕方になることもあります。
まあそれこそ、やらなくちゃいけないということは、
日に一本のことで、その時間帯は自由に選択していますが、
ともかく1日1本が自分に課していることです。
.
世の中の様々な出来事を主に、
自分の感じること、思うことを文にしているわけですが、
いわゆる話のネタが頭の中にある時はいいのですが、ゼロと言う日もあります。
そうすると、ともかくネットを検索しまくって、
ネタ探しをするのです。
ここに、なんだかんだと長くて1時間、順調なら2〜30分かかります。
このネタは、たった一言の言葉でいいのです。
つまり書き出したときは、何を書こうか不明のまま、
作業を進めてゆきますが、いろいろと書いているうち徐々に言いたいことが見えてくる
と言うことが多いですね。
書きだしの時に持っていたある種の主張が
書き進むにしたがって論旨がずれてしまうことも多々あります。
まあ、正直行き当たりばったり何ですね。
.
このネタ探しは、ある意味とても大事な作業で、
世間で何が起きているのか、世間はこれについて何と言っているのか、
などをまず理解するところから始まります。
要は、年は取りましたが、現代に生きている以上、
時代に乗り遅れないようにしたいですから。
だから、ぼけ防止みたいな意味も含まれているんだ、と言自分に言い聞かせています。
.
こうして毎日キーボードをたたいているのですが、
一つ後悔していることがあります。
それは、最初からキーボードのボタンを見ながら入力していることです。
これは、一文を打ち終わりenterを打って、画面に文章が現れますが、
画面にどう出て来るかは、enterを打ってからになりますので、
どうしても誤訳や誤打が生じるんです。
まあこれを直し直しですから時間がかかる。
ですので、最初にブラインドの習慣を付けておけばよかった、と後悔しているのです。
.
自分で評価すれば、私のブログはいささか長すぎると思うんですね。
何とか簡潔のまとめようと思うのですが、
だらだらと文が頭の中に浮かんでくるので、ついついそれを書いてしまいます。
気持ちとしては、簡潔に、と思っているのですが、
これは性格だ、とあきらめています。
長文にお付き合いさせて、本当に申し訳なく思っています。
それと誤字脱字。
これも普通の人と比べて、私は校正能力が弱いんですね。
だから一度は読み返しをするのですが、どうも目が追いつかない。
ここも性分だと、半分あきらめ、半分反省しています。
.
このブログは、そもそもが、2011年の市長選に立候補しようと
政策を訴えるために始めたものです。
で、見事に落選したのですが、落ちたからと言ってやめるのもしゃくだな、と感じ、
当初は、いくらか意地もあって書き続けたのですが、
このように文を書くということが性に合っていたんでしょうね。
なんとなく今まで続けてきました。
.
で、投稿し続けて、今回の分で、4000投稿となりました。
積み重ねって、すごいものですね。
およそA4、2枚分ぐらいの文章を、4000も書いてきたのです。
A4の紙8000枚の文章になるわけですから、すごい量ですね。
正直、次の5000はないだろうという気がしています。
年をとって、ボケが始まるということと、

日課のごとく続ける体力も自信がないですし、
なにより、世間から遊離してきているわけですから、
この甘辛問答もただの思い出集になってしまいそうなんです。
まあ、それでもいいか、とも思っています。
とは言え、こんなクソじいじいの思い出なんか読んでも、

面白くも何ともないでしょ。
.
誰もが年を取るわけです。
そして誰もが、肉体は衰えるわけです。
いつか来る老いって、こんなもんだぞ、
と、伝えることもありかな、と考えているんですね。
.
ま、いずれにしても4000投稿と言う一つの節を迎えられたことは、
何より、甘辛問答をアクセスしていただける皆様のおかげなんです。
心から、深く感謝します。
ありがとうございます。

 

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 12:24 | comments(0) | - | - | - |
災害ボランティア

先日、ひらつな祭の実行委員会のある組織の方とお話をしました。
この組織は、平塚災害ボランティアという組織名で、
いざ災害が発生した時、各地から復興を支援するために
やってく来てくれるいわゆる災害ボランティアの人たちの、
作業内容とか、場所とかの振り分けをし、速やかな復興につなげよう、ということを
目的としています。
.
これは、1995年の阪神淡路の大震災の際、
ボランティア元年と言われたように、全国から復興を手助けしようと、
その年一年でなんと述べ137万人の人が被災地にやってきましたが、
そういうノウハウが不十分だったため、何をしていいのか、また何をしてもらいたいのか
明確でなく、かなり非効率的な時間を過ごしてしまったのです。
そこで、その反省とともに、

被災地でのボランティア受け入れのための方法論が議論されるようになったのです。
.
それから9年後中越で地震が発生しますが、
この時、私は現地に行きましたが、十日町のボランティアセンターで見かけた風景が
頭に焼き付いています。
それは続々と若い人たちがやってくるのですが、
ボランティアセンターのスタッフが適切な指示を出せないため、
およそ半数以上の人が、何もすることがなく、センターのテント前でたむろしているのです。
何と、もったいないことか、と思いました。
阪神淡路以来かれこれ10年近く経過したというのに、
あまり進歩していなかったんですね。

.
実はこれは大変難しい要素があるのです。
ボランティアセンターというのは、そもそも被災地の地元の人が運営すべきことなのですね。
まあ当たり前ですが、どこに何のために行くのか、ということは、
いわゆる土地勘があって、

多少とも地域とのコミュニケーションが取れる人が差配すべきなのです。
ですから、ボランティアセンターのスタッフの中核はその土地のものが望ましいのですが、
そういう人材がいなければ、結局役場の職員がこれに当たる、ということになりますが、
被災した行政がやるべきことは膨大な仕事が発生しますから、
なかなか人手を割けない。
ですからそもそもわが町が被災したらどうしたらいいのか、
という前提での平常時の準備が必要なわけです。
ところがこれがなかなか進まない。
そこで10年たっても、相変わらず現場は混乱のままだったのです。
.
まあさすがにその後は、行政体の連携した活動で、
各地にボランティア組織が作られ、
それなりの研修とかをすすめ、ノウハウの蓄積とか進んできたようですが、
決して十分ではないでしょ。
そのボランティア組織の人が言っていたことがとても印象的で、
いくつかある問題点を挙げていましたが。
要約すると、三つ。
第一は会員数が十分ではない、ということです。
これは、その時々で増減があるのだそうですが、
何か災害が発生すると、例えば、東日本大震災とか、熊本地震とか、
その直後は会員も増えるのだそうですが、
また徐々に減ってゆく。
いわば、喉元過ぎれば熱さを忘れる問うことですね。
増えたり減ったり、この繰り返しのようです。

.
第二は、高齢化です。
まあ日本全体が高齢化の波に覆われていますので、
どんな組織にも共通の問題なのでしょうが、
特に、災害復旧などと言う力を必要とするところですから、
ある程度は、若いパワフルな力が望まれています。
いっそのこと、中学生、高校生などとの連携を模索したら、と提案したら、
実際そういうことは進めつつあるのだそうですが、
時に教育現場の理解が得られないこともあるとか。
実はこういう状態こそ縦割りの弊害を取り除くべきなんですけどね。

.

そして三番目ですが、情報の問題です。
要するに、支援を求める人がどこにいて、どのような支援を必要としているか
ということが活動のスタートになります。
では、この情報をだれが集約して、どのように伝えるのか、
と言ったことがまだまだあいまいなようなんですね。
実はここのところが一元化していないと、
現場はめちゃくちゃ効率が悪くなるのです。
.
さすがに阪神淡路から27年が過ぎましたが、こういうことの処理作業は、
パソコンを活用してかなり速やかに出来るようになったようです。
しかし肝心のそれを活用する人間がまだまだ不十分なんですね。
.
何も地震ばかりじゃない、と。
平塚の場合水害の危険性を抱え込んでいる。
これに対する災害ボランティアの在り方も検討して行かなくてはいけない、
ということでした。
いやいやそれだけじゃなく、
火山の噴火による災害も視野に入れなくてはいけないでしょ。
トンガの例のように、全く予知できなかったですものね。
地震から比べれば火山の噴火は予知しやすいということでしたが、
新手の災害が登場しました。
空振です。
富士山から60キロの平塚です。
もし噴火があれば、相当に被害が出るはずです。
災害も多様になってきましたが、
これに対する備えも、当然多様になってきます。

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地域愛で結集しているボランティアの皆さんの活動に期待します。

 

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 12:34 | comments(0) | - | - | - |
人生の節目

なんだかんだと75年生きてきました。

15年に区切って考えてみました。


1期、1歳から15歳まで
戦後のどさくさの中での生活とそれから抜け出しつつある社会の様変わりが、中心の時代でした。
まちかどで見かける米兵に群がりギブミーチョコレートという時期があり、
まあまあ食べるものは粗末な割には、腹いっぱい食べれるようになりましたし、
ぼろは着ていましたが、寒さはしのげました。
小中と、はつらつとした少年期を過ごすことができました。


2期、16歳から30歳。
高校、大学と、紆余曲折ながら無事に進むことができて、
まさに青春時代の真っただ中。
初恋も経験し、男を意識し始めたころでもあります。
大学卒業後、家業に入り、仕事に家庭にそして青年会議所活動に最も充実した時代でした。


3期、31歳から45歳。
青年会議所は40歳で組織を離れますが、たまたままちづくりのノウハウを身に着けたので、
その成果を多くのメンバー地域に伝道する時代となりました。


4期、46歳から60歳。
前期の余韻を抱えながら、50歳の時にベルマーレ、さらにナパサが登場し、
これに大きくかかわる年代となりました。
地域の諸問題に、大きく目を見開いて眺め、それを深く考えるようになった頃です。


で、5期、61歳から75歳。
ちらっと気になり始めたことが、このまちの行政の在り方です。
様々な社会活動を通して、あるべきふるさとの形を求めて、
自分なりの視点が固まっていったのです。
無謀は承知で、声を上げない限り、ただ思っただけで終わってしまう、と感じ、
市長選に手を上げました。
結果はまさに無謀な行動になりました。
で、翌年重症筋無力症が発症。
父の逝去に伴い、松風町から紅谷町に転居。
新たにマンション生活をするようになったのです。

今は仕事も引退し、老後の充実した時間を過ごしています。

 

で、この4期までの流れの中で、
自分が世の中に取り残された、と感じたことは一度もありませんでした。
それなりに時代の先端で、物を見、考え、行動してきたと自負していました。
まあまあ、おたおたながら世間様の中でやってきた、という感覚でしょうか。
で、5期の60歳から75歳までの期間の中で、
大きな変化が出てきたのです。
まずは肉体的な衰えですね。
難病にかかった、と言うことよりも、五感の衰えです。
目は早々に老眼になっていましたので、この期間ではひたすら衰え、

今ではハズキのルーペなしでは、デスクワークが全くできないという状態です。
そして、現在、最大の問題は、耳が遠くなったことです。
普通に話していると、半分ぐらい聞き取れないんですね。
その場の雰囲気で、分った顔して相槌を打つことがありますが、
不思議なもので、大体の話の内容でも納得できるようになったことです。
まあ、その本来は、どっちでもいいや、という半分あきらめたという感じですね。

 

肉体的な劣化はまあ仕方ない、と諦めているのですが、
世間様の標準からえらく遅れ始めた、というこを何とか、と思っているのですが、
最近になって、どっちでもいいやになりつつあるんですね。
それはITに関わることです。
インフォメーション・テクノロジー(情報技術)の領域です。
周囲にやいやい言われてスマホにしたものの、操作を覚えられない。
今だに電話とスケジュール管理しか使ったことがないんです。
カメラも使ったことがないし、当然それ以上のことはしない。
何より、留守電を再生するのが覚えられなくて、
だれかからの留守電を聞きそこなって、次に会った時に、
留守電に入れておきました、なんて言われても、すいません聴き方が分からないので、
なんて言い訳をしているんです。
いや情けないでしょ。
従って、カードで物を買うなんてこともしたことないですね。
現金でいいじゃん、が主義です。
とはいえ、やはりそれでは不便だな、と思って、
楽天カードでも入ってみようかと、その手続きをしたのですが、
10回くらいやり直して、2日がかりで、やっと入会させていただきました。
2日がかりと言っても、ほぼ一日中それに没頭しての2日です。

消費税還元のキャッシュレス決済のやり方も分からない。
しかし世の中は、そっち方面にどんどん進んでゆく。
乗ろうと思っても、もはや乗れる速度を超えてしまった電車のようなものです。
ホームで追いかけても追いつかない。

世の中に様々な格差がありますが、これをIT格差と言うんでしょうね。

 

目が遠くなり、耳が遠くなり、ITも縁遠くなりました。
近くなったのはトイレのインタバルでしょうか。
いやいやもう一つ近くなったものがあります。
それはあの世です。

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 10:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
10年ひと昔

夜中に突然、玄関の扉が、ドンドンドンとたたかれ、
大きな声で配達人が、電報です、と怒鳴っている声を聴いた経験がある、
と言う人は一体何人いるのでしょうか。
緊急の情報伝達は、ともかく電報しかなかった時代と言うのが長く続きました。
時のとても不吉な知らせ、と言うのが電報の印象でした。
今や、昔話の一つになってしまいましたね。

 

ある文化的、文明的要因の進化で、主役交代と言うか、
それまでのものが滅び、新たなものが台頭してくる。
10年ひと昔、と言いますが、
この流れの速い時代は、ときに10年と言うのは、変化を遂げたり、
入れ替わりをしたりするには、十分すぎる時間です。

 

また昔話です。
40年ほど前のことです。
10年ひと昔が4回も繰り返されたんですね。
ま、それはともかく、
私は、青年会議所の上部総括組織である、日本青年会議所で、
1978年度の教育観発委員会の委員長を仰せつかりました。
任命されたのは、33歳の時のことです。
この委員会は全国から100名ちょっとの委員が参画して来るんですが、
青年会議所の在籍可能年齢は40歳ですから、
33歳の委員長と言うのは、大半が年上の方々ばかりだったのです。
中には、地方の青年会議所で理事長を経験された方もいました。
まあ、大所帯の委員会ですから、委員会のスタッフもそこそこの数で、
副委員長をはじめ、なかなかの優秀な人材で構成されていたのです。
しかし、どんな組織もそうですが、いくら選抜しようと、
だらしない人はいるもので、たとえば、出欠席の返事があいまいだったり、
必要書類の提出をお願いしても、期日の平気で遅れたりと、
まあ、逆に一筋縄ではいかない猛者もかなりいたんですね。

基本的に、委員は志願制ですから、それなりの意識の持ち主、と思うのですが、
どうしても枠に収まらない人と言うのは、必ず何割か存在するものなんですね。

 

前年の準備期間でのことです。
電話で催促しても、はがきで催促しても、

委員会委員の名簿に記載する詳細を送ってこない人がいる。
まあ、その頃は、メールなんてなくて、FAXが精いっぱいの時代です。
で、名簿の印刷のタイミングは迫ってくる。
でも、最後5〜6人の書類が届かない。
で、打った手が電報です。
ま、40年前と言えど、すでに電報は殆ど使われなくなっていたんですね。
その昔は、都会で貧乏学生をしているものが、

故郷の実家に、カネオクレ、なんて電報を打ったものです。
緊急時の単純な内容は電報が効果があったのです。
で、電報と言うのは、それなりに強いアクセントになっていたものですから、
その書類未提出の人に、メイボノゲンコウヲスミヤカニオクレ、とかの文で、
電報を打ったのです。
効果はてきめんで、数日で文書はそろいました。

 

ま、時代は変わっても、普通なら対応してくれそうなことでも、
ぐずぐずしている人って、今でもある比率いるでしょ。
まあ、電報と言う手はないと思いますが、今ならどうするんでしょうね。
ただひたすら、携帯をかけ続ける、ということでしょうか。
もっとも、掛けるたびに留守電とか、あとでおかけ直し下さいのメッセージでは
意気消沈するでしょ。
電報に変わるショッキングなツールが欲しいですね。
最終手段、て言うやつです。

 

まあ、その意味で、一昔ごとに様々な道具は進化し、
特に10年も経つと、進化するというより、突然変異の新種のように、
新たなものが登場します。
で、一方で、それまで重宝していたものでも、新種にとってかわられて、
姿を消してゆきます。

 

こう言う世の流れにそれなりに対応してきましたが、
この年になって、時流に乗れなくなってきました。
特に新しいことへの挑戦は、先ずその気になれない、と言う事なんですね。
まあ、理解ができない、対応する能力がないだろうとあきらめる、なんてことはいい方で、
鼻っから拒絶と言うこともあります。

スマホにガラケーから切り替えるのに、周囲からさんざやいやい言われて変えたものの、
ガラケー以上の機能を使ったためしがありません。
いわば、ネット社会でのハンディコンピュータなわけですが、
それは机の上にあるおもので十分とか、
カメラも録音機も、それぞれのものがあるからそれで十分とか、
ま、およそ、通話とスケジュール管理以外に使ったことがないというありさまです。

 

10年ひと昔と言いますが、その流れについてゆけなくなりつつある状態を実感しています。
まあ、だからといって、自分に人生の価値が下がることはあるまい、と、
正に、じじいの本領発揮ですね。
我が道をゆくなんです。

 

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 10:29 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
PTSD・心的外傷後ストレス障害

昨日アップしたブログ、自転車事故の後日談です。

 

病院に運び込まれたものの、二の腕の擦過傷は、かなりの面積でしたし、
皮膚に砂利がめり込んでいて、時間が過ぎてもひりひりが続くんですね。
素人ながら、消毒して、砂など取って、包帯でも巻くのかと思ったら、何もしない。
私は思わず、このままですか、と聞いたら、こう言う傷はまず乾かすことなんです、と。


で、レントゲンを撮ってきてください、と言われたので、
もうその頃は、初期の痛みは少なくなっていましたので、
歩いて行って、レントゲンを撮ってもらい、戻ってくると、
医師は、そのレントゲンを白く光るアクリル板の前に止め、
しばらく見ていましたが、振り返って、何の異常もありませんね、で終わりなんです。
つまり、病院では治療的な事は一切されませんでした。

私は診察も終わったんで、タクシーで店に戻り、
治療を受けるほどのけがではなかった、ということで、
そのままディスクワークを始めたんです。
ところが、なんとしても強打した胸のあたりが痛い。
で、2時間ほどして、やっぱ今日は家に戻るわ、と退社したのです。

 

病院では、様子を見たいから2週間後に来るように、と言われたんです。
で、2週間たって、診療に出かけました。
まず、レントゲンを撮るようにと言われ、撮って、診察室に戻ると、
例のレントゲンを見るための白いアクリル板の前に写真を貼って、
医師がしげじげと見て、こういう診断を下しました。
肋骨が一本折れています、と。
私は、だろ、と思いました。
なんでもないのに、あんな痛いわけがない、と。
で、胸にマジックテープで留める幅広のバンドのようなものを渡され、
これを胸に巻いてください、少しは痛みが和らぎますから、と言われたのです。
基本的には、肋骨の場合、呼吸のたびに動くわけですから固定することができない。
したがっておれた部位に仮骨ができて、自然に直すしか方法がない、のだそうです。
およそ、一か月もすれば治るだろう、と言われました。
で、その一か月後にまた来るように、と。

 

それから一か月して、9月の半ばに病院に行くと、

いつも通り、レントゲンを撮って、その判断を聞く。
例によって医師は、レントゲンをしげじげと見て、その判断を告げます。
肋骨が2本折れています、と。
いやちょっと待て、この間は1本だったじゃないか、と。
何故かこの一カ月間で、一本追加されたわけです。
つまりです。
この二本目が付くまでにさらに一か月必要なわけでしょ。
当然ですが、激痛はないものの、胸はじわじわ痛いわけです。
これがあと一か月続くんですね。

 

そしてさらに一か月後、10月の半ばごろでしたが、病院に行きました。
例によって、レントゲンを撮って診察室のイスに座って、
医師の判断を聞きます。
医師は、肋骨が3本折れていますね、と。
ここまで来ると、もう驚かない。
私も冷静に、まあ、あと一か月胸のバンドを巻き付けるんだ、と。
ま、それだけのことですから。

 

で、そうこうするうち、サンフランシスコで七夕太鼓の公演があり、
帰ってきて、11月の半ば、もうこれでけりがついただろう、と病院行きました。
で、例によって、レントゲンを撮って、医師のご宣託を聞くわけです。
医師は、凄く冷静に、4本折れています、と言うんです。
厳密には4本5か所折れている、と。
一本は2カ所折れていたんですね。
私もまじまじとレントゲンを見ました。
あばら骨が、上の方はまともですから、「つ」と言う字のように写っているんですね。
で、その下は折れているので、「く」の字を逆さまにしたような形です。
さらに、4本目は、二カ所折れてるので、「コ」の字のようなんです。
つまり、レントゲンに、つつつくくくコ、と書かれているんですね。
私は、どうしてレントゲンを撮るたびに増えるんだろうと、思いました。
そうでしょ、なぜかと思うでしょ。
医師はそんな私の表情を見て取って、何か疑問ですか?と質問。
私は、当然ですから、はい、と答えました。
医師は、そばにいた看護師に、今までの写真を全部持ってくるように言い、
1枚目からその広めのアクリル板の上に貼っていったんです。
1枚目ゼロ、2枚目1本、3枚目2本、4枚目3本、5枚目4本5カ所。
得意げに医師はその展開を、ほら、と言った感じで見せるわけです。
で、医師は、もし、この先さらに増えるようでしたら、学会に報告します、と。
私はそれを聞いて学会に報告と言うことがちょっぴりうれしかったんですね。
だって自分の症状が学会に報告されるなんて機会はめったにないでしょ。
私はうれしさを悟られないように、表情を崩さず、分りました、と。

 

で、年の瀬も押し迫った12月の半ば、病院に行きました。
6枚目のレントゲンを撮るためです。
結局、4本5か所以上には増えていませんでした。
痛みもその頃は一切なくなっていたんです。

まあ、この経緯を振り返ってみて、病院で診察はしてもらいましたが、
救急車で運び込まれてから、6回の病院通いで、一切の治療を受けていないんですね。
ま、これも良しとするか、です。

ちょっと残念なのは、学会に報告される可能性が無くなったことです。

 

私はそれから1年ほど、自転車に乗ることができませんでした。
恐怖感が取れなかったのです。

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 10:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
8月1日、私の記念日

またも思い出話です。

 

今から31年前の1988年8月1日のことです。
この年は、初夏に研修船の講師として乗船し、2週間の船旅を経験しました。
秋には、サンフランシスコでの七夕太鼓の公演が予定されているなど、
何かとにぎやかなスケジュールが多く、
まあ、半分お楽しみのスケジュール満載で、実に充実した時期だったんです。
で、その日の朝、なぜこんなにハッピーな日々が続くんだろうと、
妙に不安になったんですね。
本来の意味ではありませんが、好事魔多し、と言った感じでしょうか。
こういう時って、どこかでどんでん返しが来るんだよな、
なんて妙に殊勝な気持ちになっていたんです。

 

で、いつものように自転車にまたがり、松風町の自宅から紅谷町のお店に向いました。
この自転車は、ナショナルの自転車で、結構いい値だったんです。
要は車体が軽い。
自転車って、車体重量が軽いほどスピードが出るんですね。
したがって、この自転車は、結構速く走れたんですね。
この時私は、御年44歳。
まだはつらつとしていたのです。
で、自称、下り坂の中野浩一と言ってました。
下り坂ですと、楽に加速できるでしょ。
平坦だと、足が続かない。
で、条件付きで下り坂の中野浩一だったんです。

 

家を出て、中央地下道にさしかかろうか、と言った時のことです。
信号待ちしていた路肩側に郵便局のバイク、道中央寄りに軽自動車。
信号が変わった瞬間ですから、バイクも軽も、もたもたしていたんですね。
中央地下道に入ると下り坂ですから、
私は、中野浩一を気取って、尻を上げて、一気に踏み込みました。

自転車にしては相当な速度になっていました。
軽とバイクの間をすり抜けられる、と思ったんですね。
ところが、ほんのちょっと、バイクにに接触したんです。
私はバランスを崩し、何メートルか飛んで、

段差のある左側の路肩にいったん叩きつけられました。
で、その反動で、歩道の上にあおむけになって転がったんです。
ものすごいショックが全身を襲い、息もできない。
痛いを通り越しているんですね。

 

で、話は変わります。
その年の青年会議所の国際交流委員会の委員長を、みどり会館の成田さんしていたのですが、

彼は韓国籍だったので、韓国の釜山青年会議所と姉妹締結すべく、
事業を進めていました。
で、話しも煮詰まり、釜山のメンバーが平塚にやって来て、具体的な調印をする、
というところまでこぎつけたんです。
私は、たまたま韓国青年会議所と、ささやかな交流があったので、
彼は表敬的な意味で、私を釜山と平塚のメンバーの朝食会に招待してくれたのです。
ところが、その当日の朝、ころっとスケジュールを失念し、
昼過ぎになって、そういえば今日は朝食会があって、参加すると返事をしていた、

と言うことを思い出したのです。
夜の立食のパーティならともかく、朝食と言うのは、間違いなく着座の席でしょ。
OBと言うこともあって、きっと上の方に席があったはずです。
そこがポツンの空席になってしまった。
いやいやこれは申し訳ないことをした。
成田さんの顔をつぶしてしまった、と、えらく反省したんですね。

 

ともかく、謝りに行かなくては、と考え、予定としては、
その日の午後にでも出かけてゆこうと考えていたんです。

で、肝心なところでの事故。

 

私はうんうんうなりながら、歩道に転がっていました。
軽を運転していたおばちゃんが、駆け寄ってきて、
私は何も悪くないよね、と念を押すんです。
そう、俺が原因の事故だからあなたは、さっさと、車に戻っていい、と言いました。
郵便局の配達員は、その場で、本局の事故係に電話をしていました。
で、通りすがりの人が人の顔を覗き込むんです。
郵便局の配達員は、私のところに来て、救急車を呼びましょうか、と。
何故か私は断ったんですね。
ま、何とかなるだろう、と思ったんです。
しかし、ま、ともかく苦しい。
痛いじゃなくて苦しいんです。
涙が次々と流れてきて、周りが良く見えない。
と、私の顔を覗き込んで、水嶋さんじゃないですか、と言う人がいる。
かすんだ視野で見えたのは、あの、成田さんだったんです。
大丈夫ですか、と心配しているんですね。
そりゃ、自転車はひしゃげているし、右腕は擦り傷で、血を流しているし、
まあまともじゃない。

 

で、成田さんと分かった時、
私は、なんというめぐりあわせだろう、と思いました。
と、即座に、この間は、朝食会を欠席してしまい、誠に申し訳ありませんでした、と
息も絶え絶えに謝ったんですね。
彼は私の顔を覗き込みながら、そんなことどうでもいいじゃないですか、
それより救急車呼びましょうか、と。
さすがに苦しさが取れないので、呼んでください、とお願いしました。

まあ、救急車が来るまでの時間の長かったこと。
また、市民病院にたどり着くまでの長かったこと。

 

成田さんには、迷惑をかけたうえに、肝心なところで助けてもらいました。

 

浮かれて過ごしていたつけが、一気に回ってきたわけです。
毎年8月1日なると、このことを思い出します。

 

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 19:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
夏休みもあと一か月

どんな子供も、勉強はいやでしょ。
ごくまれに、好きな子もいるかもしれませんが、それでも遊んでいい、
という状況に置かれてもなお、いや勉強しますなんて子はいないはずです。
子どもってそういう存在でしょ。


でも、大人が、ああだこうだ言って、勉強を強いる。
いいか悪いか、勉強することを大人は大事だ、と言うんですね。
いや、私もそう言います。
つまり、ほとんどの大人が、子供に勉強しろと言うのは、

子どもと言うのは、勉強しないものだという不安からなんですね。
それと、しろと言わないとしない、という子供の特性もこれには関係しています。

 

ですから、学校がお休みなんて、子どもにとって最高に幸せな状況でしょ。
我が子供のころを振り返ってみて、
春休み、夏休み、冬休みとあって、
夏休みは、大体7月22〜23日ごろから、8月いっぱい。
今はよく知りませんが、その頃は、これでもか、と言うほど宿題が出たでしょ。
漢字の書き取りとか、算数のドリルとか、図工の工作とか、理科での昆虫採集とか、
そのほか、日記と言うのがありましたね。

これが嫌だったですね。
何故かこれがたまってしまう。
知恵がないですから、メモしとくことなんかしないで、天気のところはうろ覚えで書く。
その日のしたことはほぼ作り話で、なんとなくありそうなことを書き、
なんとなくありそうなコメントを付け加える。

結局、ほぼ毎日プールに行ったことになってしまうんですね。

それこそ雨の日もです。

まあこれはご愛嬌です。
しかし、実態は、8月の27・28・29辺りをピークに、
宿題本来の目的は無視されて、提出するための書類作りみたいな様相になるでしょ。

8月の後半になると、貯めこんだ宿題をしなくちゃ、というプレッシャーがあって、
最後の一週間は、あまり楽しめなかったですね。

ですから、夏休みで一番充実した時間は、
休みにも慣れて、精神的にも何にもとらわれていない8月の上旬ぐらいだったでしょうか。

 

おぼろげながらの記憶ですが、
その一番嫌な日記に、もちろん日付と天気、気温などを書き込むところがあるわけです。
で、当たり前ですが、気温はその日の最高気温。
そのおぼろげな記憶と言うのは、
なんだかんだと暑い暑いと言いながら、最高気温が30度を超える日はあまり多くなかったように思うのです。
いっても、いいとこ32度どまり。
それを思うと、やはり今は異常ですね。

 

ま、ともかく、子どもにとっては、宝物のような夏休みでしょ。


ひがむわけではありませんが、
私達が子供の頃は、土曜は半日でしたが、それでも学校はあったわけでしょ。
きっちりと週休1日ですよね。
ですから、祝日が土曜とか、月曜とかになると、まさに連休ですよね。
これがうれしくてうれしくてたまらなかったです。
ある年、多分、昭和28か29年ごろ、
5月の3日が土曜、4日が月曜、と言う暦の時がありました。
3連休です。
後にも先にも、小中学校の時に3連休と言うのはこの時だけだったように思います。
で、この連休のさなかに、通ていた崇善小学校の校舎が火事になったのです。
3連休と言うことで、東京のいとこが遊びに来ていましたので、

その辺りの記憶で、頭の隅に残っているんです。
で、消防のサイレンを聞いて、学校までかけてゆき、教室の机など、校庭に運んだ記憶があります。
昔々の連休の思い出です。

 

さて、あ夏休みもあと一か月、でしょ。
まあ十分と言えば十分ですが、子供のころ、8月に入った途端、

月日が進んでゆくという実感とともに、
いずれ休みも終わってしまう、という不安に駆られたものです。

 

あすから8月ですね。
早いものです。

 

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 20:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
まさに思い出話

30年余り住んだ松風町から紅谷町に引っ越してきましたが、
その旧我が家の解体が始まりました。
大型の重機で、がりがりと容赦なく建物を取り壊してゆきます。
紅谷町に引っ越してきた時は、
当然、衣類や必要な生活道具やらを持ってきたのですが、
半分ぐらいは、どうでもいいものがあって、それ等は置きっぱなしにしてきました。
まあ、ほんと、どうでもいいものに囲まれて暮らしてきたんだな、と。
だって、3年ぶりに置きっぱなしのものの整理に出向いたのですが、
ほとんどが、やはりいらない、と判断したんですね。
かみさんは何かともったいない、と言って持って帰ろうとするのですが、
それがなしでも3年暮らせたんだから、今更不用品を抱え込むな、と言って、
なるべき持ち帰らないようにしているんです。


まあ、何かと便利なマンション暮らしですが、
欠点は狭いという事でしょうか。
でも、広ければ、ただ余分なものが置かれる、という事に気づいたんですね。
とは言え、その置きっぱなしの品々の中に、どうしても捨てきらないものもあります。
基本的には思い出につながるものです。
写真なんかは、段ボール箱一杯ありました。
でも、当然どうでもいいものもあるのですが、
何か基準を持って、選別しようと思い、
我が人生の100枚、というテーマで選ぶことにしました。
当然やたら捨てなくてはその数に絞れません。
その第一次審査で、ほぼ200枚ぐらいになりました。
そこで、最終審査を近々やろうと思っています。
このことを友人に話したら、100枚きっちりですか、と聞くんです。
そう、現時点では100枚。
で、来年は101枚。
何の理由で1枚増えるんですか、と。
そこで説明しました。
これから毎年1枚増やす。
その増える1枚は、もし、今年死んだら、葬儀の時の遺影に使う一枚だ、と。
遺族に、この写真を使ってくれ、というわけです。
これは結構本気の答えです。


その思い出系のものを整理しているとき、
昭和60年に神奈川新聞に12回にわたってコラムを担当した時のコピーが出てきました。
これは、当時紅谷パールロードのモールが完成した時に、

そのいきさつを書いてくれ、と依頼されて書いたものです。
思わず懐かしくなって、一通り読んでみました。
この中で、最も強く印象に残っている出来事があります。
以前確かこのブログでも書いたのですが、
七夕不掲出事件、とでもいう事のいきさつです。


現在あるモールの工事に絡む事で、その経緯を要約しますと、
モール工事を実行するにあたって、会員から七夕祭りの時の露天商を制限してくれ、
という要望があり、モール建設実行委員会として、市に要望書を提出したのです。
しかし、市からは商店街の会員を満足させる回答が得られず、
対抗として、七夕の竹飾りを掲出しない、と言う手段を取ったんです。
まあ、商店街と市がもめたわけです。
そしたらこの様子を聞いた新聞記者が取材に来て、

どういうことなんだ、と。
私は七夕祭りにおける露天商の横暴さをいささか大げさに表現したんですね。
「ある家族の夕食の時、みんなで食卓を囲んで楽しい話をしながら食事をしていた。
そこへ、突然割り込むようにどこかの人がやってきて、
人の食べていた茶碗を取り上げ、好きなものだけ食べ散らかして、
ごちそうさまも言わずに出て行ったようなもんだ」と露天商の事を例えたのです。
記者は、うまいたとえだね、と感心していたんですが、
それが新聞にそのまま書かれたんです。
しかも、水嶋かずあきがそう言っていると。
つまり露天商排除の急先鋒はこの男だ、という風な書き方だったんですね。


新聞が出たその日、友人がやってきて、水嶋、あれはまずいぞ。
奴らだって大事なしのぎの場がなくなるかもしれないとなると、
それ相応の動きをするぞ、と言うんですね。
で、私もまさか名前入りで書かれるとは思っていなかったので、

正直、びくついていましたから、

それって、刺されたりするのか、と聞いたんです。
すると彼は、奴らだってプロだから、胸や腹は刺さない。
じゃ、どこを狙うんだ、と聞いたら、
多分モモだろうと言うんです。
その時、もう刺されてしまうことになっても仕方ない、と覚悟したので、
腿ならいいや、と思ったんですね。
いや本当にそう思ったんです。

そういうことがあれば、露天商問題の解決の糸口になるかも、とか思ったのですね。
幸い、七夕ではそういうことが起きませんで、無事に過ごすことができたんです。


今思えば、そんなばかばかしいことも、思い出になりました。

 

この時に、腿だろうと言った宮川文ちゃんが、逝去されました。
親しい友がじわっと減ってゆきますね。
ご冥福をお祈りします。

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 07:09 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
セミの抜け殻

夏休み、というのは、子どものころは、天国で過ごす時間のようなものでした。
何しろ、あのお勉強の時間に、ほとんど拘束されないのと、
普段ではめったに行けない、海や山など、自然に接する機会もあり、
高学齢になれば、2泊3日のサマーキャンプがあったり、
年に一度の家族旅行があったり、
遠くのいとこが遊びに来たりとか、
毎日が、わくわくするようなスケジュールが組み込まれていたものです。

 

ま、それでも、微妙にプレッシャーになったのが、宿題です。
絵を描くとか、工作の作品づくりなど、
もともと好きなことでしたから、むしろ楽しくやったのですが、
一番苦手だったのが、日記でした。


何しろ毎日書かなくてはいけない。
で、1週間や10日ほどため込んでしまうと、
何をやったか細かいことが思い出せない。
まさか、毎日、昆虫採集に出かけました、などと書くのも、
子供心に抵抗がありましたしね。
ま、三日に1日分ぐらいは若干創作気味の文章になったとしても、
問題は、その日の天気と気温です。
今日は朝から晴れていて、昼間は、汗をかきっぱなしの暑さでした。
うちの温度計では、32度にもなっていました。
なんて、その日が雨だったら、真っ赤な嘘になるでしょ。
そこで、友達何人かで、夏休み日記のために集まって、
その整合性を調整したりしたものです。


ともかく、日記と言うのが最大のプレッシャーで、
毎日書けば、なんてことないのに、
ついつい後回しになってしまうんですね。


こうして、今は、毎日ブログを書いていますが、

その頃、今のような根性があればよかったんですけどね。


ともかく、自分でも将来が心配になるほど、あきっぽくて、諦めが早く、
粘りのない子供だったんです。
しかし、子供なりに、学習してゆくもので、
小学校の高学年になると、
この最も大きなプレッシャーである日記については、
なぜか前倒し気味に書き込んでゆくことにしました。

またこれはこれで妙なことなんですが、
天気と気温だけ、ちょこちょことあとで書き込む、という、

小賢しい知恵を身に付けました。
ですから、夏休みの楽しみ方と言うのは、
結構早めに体得したほうだと思います。


それでも、ついつい引き伸ばして、後回しになるものがありました。
それは昆虫採集です。
当時は、当たり前のように、身近にいる昆虫を採集して、
それを虫ピンで標本箱に貼り付け、提出するという宿題です。
で、この元になる昆虫をどこかで捕まえなくてはいけないのです。
いい意味で、のんびりした時代だったんですね。
虫取りの網、トンボ網を抱えて、首から虫かごを下げて、
近所の草むらや林に入りこめば、なんだかんだと標本のネタになる昆虫は取れたものです。
トンボや蝶々がメインです。
あとセミとか、その他の虫たち。
今、冷静に考えると、現代の夏休みの宿題として昆虫採集を課したら、
一体何を標本箱に貼り付けてくるんでしょうね。
で、ある年の夏休みのこと。
昆虫図鑑を見ていたら、セミの脱皮について写真入りで解説してあったんです。
夕方の5時00分、セミが地中から出てきて、木に上り始めます。
5時15分、場所を決め、木の幹に体を固定します。
5時25分、セミの幼虫の背中が割れ始めます。
5時35分、セミの殻から、体をそらせるようにして、半分ぐらい、体を出します。

5時45分、すっかり脱皮します。そして羽がを伸ばしながら、はねを乾かします。

6時00分、脱皮の終わったセミは飛び立ちます。
と言った一連の蝉の脱皮の様子が図鑑に書いてあったんですね。
私は、そこで、自分の目で確かめようと、
木々が生い茂っていた裏庭で観察をしたのです。
実際、庭の木からはセミが脱皮をした後として、

抜け殻が幹についていることが普通にあったんですね。
そこで、5時、満を持して木々の幹を調べます。

30分歩ほど根気よく観察しますが、セミを発見できない。

1時間たっても姿を見ることがない。
いや悔しくて、翌日も、その翌日も夕方の5時になると、

庭の木を見にゆくんですが、それらしき様子を確かめることはできなかったんです。
で、ずいぶん経って、分かったんですが、5時と言うのは例えばの話で、
要は幹に固定してからどのくらいで脱皮し終わるのか、

という事の時間系列を仮に示したものだったんですね。
小学生ですから、そこのところの理解ができなくて、
もろ、5時には出てくるものだ、と思い込んでしまったわけです。

 

ま、夏休みというのは、その意味で、いい思い出、苦い思い出が混在していました。

今となれば、すべてがいい思い出になっています。
いや、間違いなくいい時代だったんだな、と。

| 水嶋かずあき | 思い出話 | 12:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
14組クラス会
昨日は、湘南高校時代のクラス会が開催されました。
ほんと、久しぶりの事だったんですが、
このクラス会は、ちょっと変わっていて、
普通、卒業年度の仲間が対象になるでしょ。
ところが一年生の時のクラスメートのクラス会なんです。
当時、湘南高校では、一年の時に組まれたものが、
2年の時にクラス替えをし、3年の時はそのまま、ということなんですね。
ですから、普通は、2年間一緒だった友達の方が、
付き合いも濃いはずなんですが、これがそうでもない。
そもそも、私自身、自分のクラスの番号をほとんど覚えてなかったんです。
ま、開催案内には、14組とあったので、ああ、4組だったんだな、と言った程度。
ともかく、幹事の久枝君が、こまめな方で、
出席状況を、時々刻々と知らせてくるんです。
当然、数日前に、念押しのメールが入る。
併せて出席者の名前と合計数。
で、確か、19人とか言っていたように思うのですが、
前日、一人減って、18人とのこと。
思わず、これに返信メールをして、誰か死んだか?と。
いやもちろん冗談ですが、これがあまり冗談ともいえないところが、
私たちの微妙な年齢です。
当然全員年男、年女の72歳。
50人のクラス編成でしたが、5人の仲間がすでに亡くなっています。
いやこうなると冗談でもないでしょ。
もし、〆の言葉でも任されたら、次はいつという予定はありませんが、
でもその時までは死なないように、とか言うんでしょうね。
そんな年です。
そもそもが、中には、54年ぶり、という人もいたわけです。
数日前になんかの会合で顔を合わせた人でも、忘れてしまうくらい、
顔認識機能が弱い私ですので、54年という歳月はまさに致命的。
幸いかな、久枝君が、ネームカードを作っていてくれて、
これを胸につける。
だから、話す前に名札にちらっと眼をやり、ふむ、なになに君だな、と
一旦確認して話さないと、頓珍漢なことになってしまいそうなんです。
さあ、なんだかんだとこの名札に助けられながら、
場は持てたんですが、それもこれも、当時の面影は残しつつ、と言ってもわずか。
顔はしわだのシミだので、往時の面影はなく、
何より、髪の毛の変化は著しく、
一人はつるっパゲ。
総白髪はいい方で、ほとんどうすらハゲ状態。
こういう変化の中で、昔の顔を思い出すのは至難の業で、
出席者のうち、3人は、一緒だったか、とおもうほど、記憶にないんですね。

最悪だったのは、さあ、お開き、となって、帰り支度をし、
皆が胸の名札を外したときのことです。
さて、こいつの名前は何だったか、と、とっさに出てこない。
いや、情けないですね。さっきまで、文字を負って名前を呼んでいたくせに、
それすらできなくなるって。

3時間余りの集いの中で、当然席の隣同士はよくしゃべりますが、
離れたところの仲間とも話したい。
で、なんとなく半ば過ぎたあたりで、一寸した席替え状態になって、
じっくりと懐旧談に花を咲かせます。
そこで、改めて、そうだったのか、という話が次々と出てきて、
知らなかったことや、勘違いしていたこと、
そして主に、忘れてしまったことの話が、とても刺激的に展開されるんです。
いいもんですね。
また会いたいね、という思いを共に口にしました。

きっと、それなりにいい時代だったんですね。
みんな、ほぼ現役を引退し、気楽な日々を過ごしているようでした。
何よりなによりです。
次に会うまで、お達者で、と思わずにいれらませんでした。
 
| 水嶋かずあき | 思い出話 | 09:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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