理性とか、知性とかを働かせ、要は冷静沈着に物事をとらえ、
寛容と安寧を求めて、筋の通った対処をするという事は、
当たり前のようでなかなか難しいものです。
社会的にこれが正しい、とか、望ましい人間関係とか、いろいろな尺度があります。
時に法で定め、時にルールとして決められ、時にマナーなどとして習得すべきとしながらも、
人は絶えずそれから外れています。
見るに見かねて、釈迦やイエスやモハメッドや孔子などが、
人の生きるべき道を説きましたが、それでも救いがたい人々は多く、
依然として人間は、穏やかで平和な世界を実現できないのです。
侵略し、殺戮し、我欲を達成するために、他の犠牲は顧みませんでした。
こんなに激しく同一種がいがみ合う動物は、地球の上ではいないんじゃないでしょうか。
それは、縄張り争いとして、一対一の争いをする動物はいますが、
人間ほど露骨に同種の命を奪う動物はいません。
小さい所ではいじめ、大きなところでは戦争。
絶えず人は人を傷つけ、葬ってきました。
普通なら、何とかしたいと思うものでしょ。
同じ人間なんですから、不幸な人間は出したくないですよね。
ですから、心ある人は何とかならないか、と心痛め、
何とかしたいとささやかな努力をするのですが、
その大半は、他の人の心に響いてゆきません。
どうしてこんなに人はいがみ合うのか、という事がずうっと疑問でした。
どこか何かの作用で、改善できるのだろうか、
いがみ合うな、と言う法を作ればいいのだろうか。
まあ、何の進歩もないまま、頭を悩ませてきましたが、
最近、やっと気づいたのです。
これは人間の本能に組み込まれているものではないか、と。
話は変わりますが、不倫の問題です。
いいか悪いか、はさておきます。
これとて、有名人ほど、騒がれ、しっぽをつかまれたら、
魔女狩りのように、こっぴどいバッシングを受けるでしょ。
時に、それまでの地位名誉を失い、あの有名だった人も、
それこそタダに人の成り下がります。
にもかかわらず、浜の真砂は尽きません。
石川五右衛門が釜茹での刑になった時、
盗人は、どんなに時代が流れても、尽きることはない、と予言したとおり、
いまだに盗人はいますからね。
なんかこれに似ていませんか。
衝動的な行為と言うだけではない、一線を超えるというのは、
矢張り、人間の根底にある、本能に根付いたものだからだろう、と思うのです。
集団や社会を問題少なく構成、維持するために、必要とされた理性は、
本能の前にもろいものなのではないか、と思うんですね。
そもそも、婚姻制度と言うのは、脳科学的に無理がある、と
あの脳科学者の中野信子さんも言っています。
ま、そこは屁理屈になるかもしれませんが、
こうまで、文春に限らず、有名人の不倫報道が続き、尽きない、という事は、
いいとか悪いとか、要は理性の判断を超えた、
本能に動かされるところは大きいのではないか、と思うんです。
つまり、食べたり寝たりと同列の本能的行為と考えれば、
そう目くじら立てて非難することではないのではないか、と。
で、これに輪をかけて、どうも本能の一角に潜んでいるのではないか、と思えるのが、
いわゆる人をバッシングする人間が持っている攻撃的な感情です。
そもそも動物の一種と考えた時、動物の本能として、
種の維持、というものがあるように考えがちですが、
ごく一部の蜂やアリなどの種を除くと、
大半の動物は、個の維持にいては間違いなく本能を発揮しますが、
種の維持については、そのルールから外れていることが普通なんです。
ペンギンのコロニーで、親から離れてしまったひな鳥は、
結構簡単に他の親から攻撃されて、死んでしまいます。
熊の類は、母熊と小熊が移動しているときに、雄熊に出会うと、逃げ出します。
うっかり正面衝突でもしようものなら、雄熊に子熊が殺されてしまうからです。
ライオンもそうですね。
雄ライオンがメスが統括する集団に近付くと、
こどもライオンは、すべてかみ殺されてしまいます。
そして自分のDNAだけを残そうとするのです。
すべての動物がそうだとは言いませんが、
種としてDNAを残そうとするのではなく、
個のDNAを残そうとすることこそ、本能なんですね。
したがって、人間も、人類みな兄弟的な考えでないものは普通に存在しているわけで、
本能の片隅だとは思うんですが、
人より優位に立ちたい、自分だけは何とかいい思いをしたい、と言う
優位感を求めているんですね。
この優位感は、逆に働けば、人を不幸に貶める事でも達成出来ます。
特に、ネットでは、匿名で物言えますから、
このバッシング、人への誹謗は、理性のコントロールを失ったように、
他を攻撃するんですね。
正に制裁社会です。
情けないけど、これが人間の本性なんでしょうね。