水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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誰のための証人尋問だったのか

青年会議所時代の話です。
今から、35年も前のことです。
私は、その年度の理事長を拝命したので、当該年度の事業展開のための会議を重ね

準備を進めるわけです。

それまでの会議の在り方は、さまざまな会議の中で、正副執行部の意見を統一し、
一枚岩で取り組む、というのが通例だったのです。
したがって、たとえばある役員会などで、
理事長が発言した内容と、副理事長が発言した内容に齟齬があれば、
批判を浴びるわけです。
意志の統一ができていない、と。
でもですよ、私は一枚岩になる必要はない、と主張しました。
こう言う考えは、異例のことだったと思います。


会議というのは、より優れた結論を導き出すためのもので、
自分の通念とか、価値観とかからずれていたとしても、
時に一歩引いて、全体を見た時、自分の主張より優れたものがあったら、
それはそれで認めるべきでしょ。

 

これは今でもそう思っているのですが、

私は、様々な会議で、意見を言い合う時、
自分がある主張をしたところ、それに反論を食らい、
よく考えれば、それもそうだ、と思ったら、潔く、その新たな提案を支持します。
別にこういう時に、面子も何もないでしょ。
何を求め、何のための議論かという事をしっかりと踏まえていれば、
面子とか、立場とか、ちっぽけな誇りなんて、関係ないですもんね。
より良い結論を求め合うための時間なんですから、
そこに向かって努力すればいいことです。


ですから、青年会議所時代の議論も、そう考えていました。
むしろ、遠慮なく、反論をすべきだ、と。

ところが、この考えに違和感を持つ人は結構いるもので、
だったら、事前に十分な意思統一を図るべきだろう、というんですね。
私は、二つの理由でこれには賛同しかねるんですね。
まず、そのように事前に煮詰めてゆくプロセスに、
その会議に参加する人は、経験しない可能性がある。
つまり、煮詰まった結論を提起され、そこに至る経過、時に、結論には含まれないある意見など、
知る由もないわけでしょ。
Aという意見が出た。
続いてBとCが出た。
さらには、おずおずとEという意見も出された。
で議論した結果、Aが採択されたとします。
丁寧な経過を説明すればいいのですが、

それだと、集約して事前に会議した意味がなくなります。
そこで、かいつまんだ説明になってしまいます。
時に、Eという意見など紹介されないこともあります。
つまり、効率的な議論では、しばしば、全体を見損なうことがあるのです。
ですから、どの段階の会議でも、異論や新提案などは、柔軟に対応すべきなんです。
そのことが、時に執行部の一枚岩的な組織化されたものを否定することにはならない、

と思うんですね。

もう一つの理由は、実は会議で他の人の意見を聞きながら、

意見が変わるということがあるでしょ。

これは、望ましい変節です。

ですから、事前の根回しとか、打ち合わせなどは、単なるウォーミングアップにすぎない、と。

より活性化した議論こそ、正当な結論を得られる、と思うんです。

一枚岩的な意思の統一は、一つのグループ、組織体の運営に、
本来のより望ましい結論を求める機能を阻害する可能性があると思っています。
いわば、風通しのいい状態での会議こそ、望ましい結論が得られる、と。
時に、議長の独断的な発言や、威圧的な姿勢が表れると、
一気に会議の場は委縮するものです。
そうなると、民主主義的要素は影をひそめてしまうのですね。

 

私は、以前から、日本の政党の在り方にいくつか疑問を持っていました。
一つは、党としての方針に、党員はほぼ従う、という事です。
これがなぜだかわからないのです。
だって、およそ政党と言うのは、オールラウンドにテーマを議論するんでしょ。
国際関係、外交問題、安全保障、福祉に民生と厚生、教育など。
多岐にわたる分野で、すべての分野が同一の意見にまとまるなんてありえない、と思うんです。
憲法の在り方については、全員が一致した、として、
では、安全保障については、若干のヅレがある。
さらに、福祉に関しては、反対すらある、なんて状況は考えられるでしょ。
人はそれぞれ個性を持っているわけですから、この個性の尊重は最低限されるべきです。
党議により、その人の自由な意見を封殺する、なんてことはおかしいでしょ。
皆それぞれの思いを言うべきだ、と。

それをどうまとめるかはそれこそリーダーの技量でしょ。


要は、異口同音である必要はない。
幹は幹として尊重し、枝葉は枝葉で、存在させる。
という大局の対応が必要だと思うんです。

 

ラグビーの試合が終わりを告げるのは、ノーサードという言葉です。
それまで敵味方でぶつかり合ってきたけれど、
試合が終われば、敵味方なしの、ノーサイドという事です。

国会とか、さまざまな政治のステージで、敵味方で論戦を戦わせようと、
どこか、最後の最後はノーサイド、だと思うんです。
それは、国民のため、というノーサイドです。

 

先日の例の佐川証人喚問を見ていて、
国会議員は党議のために存在していて、

国民のために存在していない、と感じたんです。
あそこで演じられた茶番劇の出演者として、
どこか、国民のためという共通の意識があったのだろうか、と。

 

もし私が、この茶番劇の演出を任せられていたら、
開演前に出演者を集め、
聞く方も、聞かれる方も、先ずは国民の為である、という誠意をもって演ずるように。
そして、人間としての良心を見失わないように、と注意しますね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:25 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
君子ではないけれど「和して同ぜず」は大事ですよね。
| もっちゃん | 2018/03/29 11:37 AM |









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