水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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なぜ勉強しなくちゃいけないのか

先日テレビの番組のあるコーナーで、
なぜ勉強しなくてはいけないのか、
と子供に聞かれたらなんて答えるか、という事の議論をしていました。
そもそも子供は勉強が嫌いです。
いや、もちろん学ぶことが好きな子もいますが、大体は勉強嫌い。
机に向かって座り、本をあけて読み、理解をしたかどうかを
ノートに書き写し、時に、テストされます。
出来が悪ければ、お前は、この程度、という数字で評価され、
親は心配して、勉強しろ、と尻をたたく。
覚えようと思っても、覚えられない。
記憶力という能力と、集中力という能力がいくらかでもかけていると、
成績は、伸びない。
それは勉強をしないからだ、となる。
やる気も起きないし、やっても成果が見えないとなると、

だれだって、勉強したからと言って、それが何になるんだ、と疑問を思うでしょ。
そこで、冒頭の、なぜ勉強しなくちゃいけないのか、という質問になるんです。


では、勉強のできる子は、どうして勉強ができるのか、
というその要因が整理されていて、それらから、
そのために、どうしたら成績が上がるのか、という成果を実感できるための
具体的なプログラムでもあったら、
まずは、勉強することの成果が見えてきます。
この方法もわからず、むやみに、勉強しろ、というのは、
子供にしてみれば、問答無用、いいからやれ、みたいな、個性を無視された存在として、
妙な取り残され感と、一抹の寂寥感を味わうだけなんですね。


その昔、中学の頃、番長を張っていた男の子を板前修業をするという事で
預かることになりました。
中学生にしては中肉中背の体つきで、さほど大きくはないのですが、
きっと喧嘩早くって、強かったんでしょうね。
ま、でないと番長は張れませんが。
で、この子は、3年生の夏過ぎに、学校公認で、うちの店で、アルバイトをすることになって、
半年ほど接点があったんですが、いざ仕事をさせてみると、

どこが番長だったのか、という感じがするくらい、まじめでやさしい男だったんですね。
私は大変興味を持ってしげじげと仕事ぶりから、彼の人間観察をしたのです。


基本的にこういう連中は勉強嫌いです。
で、どうして勉強嫌いになってしまったのか、という事なんですが、
どうもそれなりのきっかけがあったらしい。
授業中の先生の説明で、よく理解できなかったところがあった。
教科によっては、単元を積み上げて進む流れのものがありますから、
どこかで引っかかると、その先へ進めなくなるのです。
例えば、日本史ですが、奈良平安期のことに興味を持てなくて、
そこのところの知識が抜けてしまったとします。
しかし、戦国の頃から、桃山・江戸と興味を持ったとしたら、
それはそれで頭に入るでしょ。
しかし、ABCのアルファベットで引っ掛かったら、
その先は行けないでしょ。
いわゆる、レッスン1が終わるとレッスン2に行けるという場合は、
レッスン1で引っかかれば、レッスン3とかレッスン4は理解できないわけです。
でも、全体で授業は進めなくちゃいけないので、
そういう子は置き去りにします。
すると、ますます授業の中身が理解できなくなる。
考えてみてください、授業の小一時間の間、
まるで理解できない外国語の映画を見ているようなものです。
理解できないことが展開されているんですから、
そこに疎外感を持つでしょ。
仕方なしに、落書きしたり、うとうとと眠ったり、窓の外をぼうっと眺めたりするわけです。
中には授業放棄をしたりするんですね。
これが、数年間化蓄積されてゆくと
自分の身の置き場を探しはじまます。
時に、学校の外でやんちゃな連中とつるむようになり、
力があれば、番長を張り、肩で風を切るようになるんです。


まあ、その子も、そんな筋書きのような中学生活を送っていたんです。
この状態で、勉強せよ、といったってどこ吹く風でしょ。
なぜ勉強が役に立つのか、なぜ必要なのか、を、当の大人が明確に伝えられない。
そのやんちゃだった少年は、実に勤勉に仕事をしました。
その理由は簡単です。


仕事を決めた面接のときに、
うちは、ボランティアで君のような子を預かるわけではない。
君には一人の社員として仕事をしてもらい、
それでうちはうちで経営として成り立たせてゆかなくてはいけない。
ここでは仕事をしてもらう。
職場は遊びじゃないんだ。
これでみんな食ってるんだから、と。
君が、うちで仕事をするという事は、君が必要だから依頼するんだ。
正直、必要ないと思えば、預かることはしない。
努力をすれば、君は、必ず、このなかで必要とされる人間になれる、
ここで過ごすという事は、
教科書はないけど、君が一人前になるための勉強することになる。
ここで勉強をしそこなうと、君は一人前になれない。
そのための一日一日だと思って、頑張ってくれ、と。

 

教科書が無くても、勉強はできると思うんです。
国語も、英語も、数学も、歴史も地理も、
教科書が必要ですが、
人間としてどう生きるか、という事も勉強で、
何も教科書には載ってないことの方がはるかに多い。
学校の勉強は、社会での人間教育の一環に過ぎません。
しかし、そこのところは、できれば、しっかりと学んでおいた方が、
次の社会での学び方が効果的になる。
なぜなら、人間が考え、理解し、記憶するという事は、
人間の生き方を学ぶことのレッスン1になっているからです。

 

どんな動物も、原則、本能90%で生きて行けます。
しかし、人間は、DNAに十分刻み込まれていない集団生活を送ってゆくのに、
本能だけではうまくゆかない。
だから、後天的な生き方を身に付けなくちゃいけないわけです。
これが教育の本質なんですね。
ルートや、サインコサインの数字を必要とする生活はほとんどありませんが、
でもそこで、脳に容量を造りだすことが、次に社会性を受け入れてゆく基礎になるんですね。
なぜ勉強するのか、という事は、私はそのように思っています。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:20 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
東アジア儒教圏と欧米社会との違い,または似ているところに興味がありますが。
| やぶ枯らし | 2018/04/02 11:37 AM |









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