水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
<< 男女対等社会はまだ遠い | main | 地球に棲息する人間のレポート >>
平塚流の伝統

伝統を守る、というある種の美名のもとに、
伝統を守れなくなってしまいうことも多々あります。
時にそのかたくなな姿勢が、かえって伝統を壊してしまう事すらあります。

 

七夕祭りもそうです。
もし、伝統という概念が強ければ、
平塚の七夕祭りは、とっくに終焉の時を迎えていたかもしれません。

 

そもそもが平塚の七夕祭りは、終戦後、商業祭りとして発足しました。
初めは、商店街の中元大売出し的な要素もあって、
農閑期を迎えた近郷近在の人たちをターゲットに、
人集め的なイベントを開催しようと、復興祭として企画されました。
平塚の中心商店街のエリアは、太平洋戦争で焼き払われ、
しばし焼野原状態でしたが、
終戦とともに復興が始まり、それは勢いよく商店街の整備が進んだのです。
そして、昭和26年、一息ついたところで、復興をさらに押し進めようと、
復興祭が実施されたのです。
で、これが七夕祭りの起源になりました。

 

私の父は、すでにその頃商工会議所での活動に参加していましたので、
仲間と一緒に仙台に視察に出かけたことを記憶しています。
先進地の事例を、何かの参考にしようというわけです。
おそらくそれなりの収穫はあったのだと思うのですが、
なんといってもあちらは伝統的な祭り。
こちらは、新興の祭り。
その経験値と言い、文化性と言い、正に雲泥の差があったようです。

で、結果としてですが、新興であったがゆえに、フレキシブルに七夕をとらえ、
平塚なりの解釈をして、独自に進化させてきました。


よく、7月開催の平塚の竹飾りが、8月開催の仙台に買われてゆく、という話が出ますが、
あれはない話です。
基本的に、七夕という言葉の共通点以外は、
全くと言っていいほど類似点はありません。
これはデザインと言い、製造法と言い、扱う素材と言い、
何一つ共通するものはないと言っていいと思います。
それほど、伝統と新興の違いがあるのです。
ですから、よしんば、平塚の飾りを仙台のまちに飾ったら、
違和感がすごいでしょうね。
掲出した人は、いったいどうした、と言われるに違いないです。

 

つまり、仙台の紙を中心にして作った飾りと比較しても、
平塚は、7月という梅雨の最中の行事ですから、雨対策をせねばならず、
ビニール楠花を使うという点が、先ずは根本的に異なります。
正直、情緒という点では、全く歯が立たないくらいのものですが、
いきがって紙でやろうものなら、
一度雨にぬれると、それこそ、みじめなくらいみっともないものに変貌してしまいます。
私が、七夕を始めたごく初期に、紙で作った久寿玉を使ったことがあったのですが、
雨にあたって、まるでトイレットペーパーを巻きつけたような姿になってしまい、
恥ずかしい思いをしたことがありました。
こんなところから、平塚七夕祭りは独自に進化を始めたのです。
久寿玉と吹き流し、という原則はそこそこにして、
それ以外の作り物に力を置くようになりました。
もう、この時点で、伝統的な七夕祭りとたもとを分かっちあったのです。

 

さて、一時は夜空を覆うほどと言われるくらい竹が立ったのですが、
商業の衰退とともに掲出する数が減ってきます。
その理由は、主に、商店が自作のものを掲出するのですが、
その費用の負担に耐えられなくなったのです。
例えば、頑張って大きなものを作ろう、とすれば、
まあ、100万円ぐらいの経費は必要になったとします。
でも、こういうイベントというのは、一店一店の努力の総和でやるものですから、
一店がやらなかったと言って、集客力が目立って落ちてしまうという事はありません。
多少の、心に負い目はあるでしょうが、
その負い目を100万円と変えられるものか、と言われれば、
矢張り目先のお金を選択してしまいます。

つまり、不掲出を選択する場合もある、と言うことです。
さらには、試作場所が無くなってゆきました。
昔は、裏の物置なんかを片づけて作業場所にしたのですが、
裏も、裏道に面していれば、建物を建てて、スナックにでも貸した方が
効率がいいでしょ。
そこで、次々と物置が無くなっていったのです。
さらに、8月になって旧暦の七夕祭りをやるよそのまちでは、
平塚の用の済んだ飾りを買い付け、安上がりに七夕を掲出する、
というところがいろいろとあったのです。
埼玉の蕨や千葉の茂原など、商店街の人が、平塚にやってきて買い付けてくれたのです。
その時売れたお金は、材料費の何分の一かにはなったんですね。
ところが、これらのまちでも、商業は衰退して行き、
徐々に下取り制度の形が壊れていったのです。
要は、別口の収入源が無くなったんですね。


ま、いろいろな原因が相互に影響して、
結果として、七夕不掲出の商店が増えてきました。
特に、中心街に関しては、中央資本の支店が多く、
そういうところは地域の祭りなんかには関心がないんですね。
結果として、今まで地元の商店だったのが、
中央資本の支店になり、七夕飾りの不掲出の店になってゆくわけです。

こういう変化って、まさに時代の流れですね。

 

伝統を気にしない平塚の伝統があって、
商人がダメなら、市民が何とかしようと、
市民飾りの活動が始まりました。
昨年は、この市民飾りの竹飾りが33本並びました。
この傾向は、ますます高まっているようです。
これまで、七夕は商人が作るもの、
市民はそれを見るもの、と、向こうこっちに分かれていましたが、
作る側に回る市民が増えてきたという事です。

ある意味、理想的でしょ。
これが、平塚流の伝統なんです。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 13:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









http://blog.mizushima-kazuaki.com/trackback/2624
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< July 2018 >>
+ SELECTED ENTRIES
+ RECENT COMMENTS
+ CATEGORIES
+ ARCHIVES
+ MOBILE
qrcode
+ LINKS
+ PROFILE