水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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無能なり文科省

先日のブログに、書いたことです。

 

アメリカの軍隊で、戦場において敵兵を狙って、引き金を引いたことはあるもの、
というアンケートを取ったんですね。
時代は第二次世界大戦が終わった直後です。
結果として、敵兵を狙撃した経験者は、20%でした。
これは、狙ったうえで引き金を引いたかどうかで、
それは当たったかどうかまでは調べていません。
で、この調査結果で、引き金引き率の低さにに軍の担当者は驚き、
対策を立てます。
具体的な方法までは知りませんが、
きっと、相手を憎み、なえそうになる心を鼓舞し、
自分がとろうとする行為は、大義に守られていて、
国を守るとか、愛する人を守るとか、正義を確立するとか、
要は、躊躇なく引き金を引けるようにするため、
さまざまなプログラムが開発されたのです。
実は、モチベーションを上げるプログラム開発は、
アメリカの得意とするところです。
そして、当然その内容も修正を重ね、磨き上げられていったのだと思いますが、
如実に効果が表れます。
朝鮮戦争時には、この引き金引き率は50%に上昇します。
そして、この成果をもっと高めようと、さらにトレーニングの内容を練り上げて、
ついに、ベトナム戦争時には、90%まで引き金引き率を上げます。

 

考えてみてください。
第二次大戦時には、まだそういう訓練を受けていなかったので、
躊躇があって、敵兵を撃つ、という行為が
10人に2人しかできなかったんです。
おそらく、今、われら日本人が、戦争が始まって、
銃を持たされ、戦場に送り込まれて、敵と遭遇した時に、
躊躇なく引き金を引けるか、と言ったら、このデータ通り、
10人に2人しか引けないでしょうね。
だって、私たちの頭の中では、敵とはいえ人間じゃないか、
という意識が強いからです。
いくら国家公認の戦争という場面でも、それまで培ってきた意識を
簡単には転換できないと思うのです。

 

でも、あるプログラムで、人をトレーニングすると、
出来そうもないことができるようになる。
何しろ、人殺しそのものをできるようになるという事ですから、
いくら人間の本能の片隅に、自己保存のために、
敵対する相手を倒す、という闘争心があろうと、
そうはやすやすとできることではないでしょ。
でも、できるようになるんです。


さあ、これをもっといいことのために使えないでしょうか。

 

今年の4月から小学校で道徳が教科化されました。
一番このことで戸惑っているのが、現場の先生だと思います。
文教政策として、文科省の意向で、そうする、というかじ取りがされたものの、
その先は、頼りないテキストと指導要項を片手に
その成果を上げよ、と現場の先生にしわ寄せが行っているんです。
一律的な道徳観を押し付けることで、
子どもの個性や多様な意見を潰しかねない、と現場は心配しているようです。
それはそうでしょうね。

 

問題は、プログラムらしいプログラムがないということです。
テキストと、ビデオ程度で、あとは指導要綱でこう指導しなさい、
というぐらいで、成果があげられるわけがない。
第一、道徳という領域で、どのような人間形成を目指すのか、
という道徳の成果としての着地点があいまいでしょ。
例の話で置き換えれば、引き金を引く、という具体的な目標がないんです。

 

そこで、抽象的かもしれませんが、私はこう思います。
最低限、その子の心の中に、人に対する敬意を養うこと、です。
これがすべての根源になるものだ、と。
とかく、あれこれ並べて、広い視野を持ち、積極的な行動力を養い、
協調性に富み、個性を発揮できること、とか言いそうですが、
こういう時は、あまりたくさん目標を併記しない方がいい。
単純に、最も大切で根本的なものは何か、
と言う点を絞り込む。
そうすれば、その先は大間違いは発生しないものです。
ですから、それは、私は人に対する敬意だと思うんです。
素直にその人の人格を認めるという事、
これは、個性を尊重するという事につながるはずです。

さらには、人をあがめるのですから、日々感謝に満ちた生活になるはずですし、
協調性も生まれてきます。
人をあがめ、人を大事にする、という行為こそ、先ずは養うべきです。
そして、すべての子供たちが、多かれ少なかれ、敬意を持つ人間になるように、
そのためのプログラム開発をし、
そのプログラムの実践こそが道徳であり、
テキストもいいかもしれませんが、言葉でけではない総合的な実践の場こそ、
道徳を確立してゆくことだと思います。

 

道徳で定番となっている「星野君の二塁打」という小学6年の教材があります。
「バッターボックスに立った星野君に、監督が出したのはバントのサイン。
しかし、打てそうな予感がして反射的にバットを振り、打球は伸びて二塁打となる。
この一打がチームを勝利に導き、選手権大会出場を決めた。
だが翌日、監督は選手を集めて重々しい口調で語り始める。
チームの作戦として決めたことは絶対に守ってほしい、
という監督と選手間の約束を持ち出し、みんなの前で星野君の行動を咎める。
「いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことには変わりはないんだ」
「ぎせいの精神の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、
とてもできないんだよ」
などと語り、星野君の大会への出場禁止を告げるシーンが展開します。

個人プレーとチームプレーのどちらを優先すべきか。
悩ましい選択ですが、教材は迷うことなく前者を断罪している。
個人プレーはよくない、と。


さて、道徳というのは、協調性、社会性を表面的に判断することでしょうか。
個性の束ねられたものが、社会だとするなら、
そういう個性に敬意を持つところから、
人間としての在り方を考えることが重要でしょ。
ぎせいの精神の分からない人間は、社会に出たって、と言いますが、
臨機応変、状況に応じた判断こそ、重要なことではないですか。
それは個性が成し遂げることです。
星野君は星野君なんです。


往々にして、世の中をよくするのは、個性と創造力です。
金太郎あめみたいな、ただの従順な子等を作り出したって、
この国の将来はないでしょ。
むしろ、様々な状況にあっても人に敬意を持てることこそ、
状況を打破するチームワークを作り上げると思うのです。

 

なんだか、日本の道徳って、妙に底が浅く感じますね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:26 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
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| さなえ | 2018/04/17 1:07 PM |
子供の頃数人で「いなむら」に上って遊んでいたら農家の人に見つかり「百姓が一生懸命積み上げたものをなぜ壊した。米は誰のおかげで食っているんだ」とビンタを食らいました。また、よその家の塀に上って柿を取っていたら家人に見つかり「欲しければ欲しいと正直に言いなさい」と3個持たせてくれました。人として守るべき行いは子供の頃の経験の積み重ねから学ぶことが多いですよね。いい時代だったのかも知れないけれどモラルの欠如した大人の道徳観押し付けはいりません。
| もっちゃん | 2018/04/27 12:53 PM |









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