水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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51%と言う正義

民主主義を定義するのは、けっこうむずかしいのです。
その歴史的な経緯や、現在の形態など、様々な要因で、いかようにも解釈できそうですが、
単純に言えば、重要な物事を決定する主権が民にあるという、主権在民のことです。


これは、人間の集団が徐々に膨れ上がり、群れなんていう言葉では表せないほど数が増え、
その規模が大きくなってゆくうえで、
集団全体がいかに食ってゆくか、と言う問題に対処するため、
食料争奪を敵対勢力と争い、勝利することで集団が食えるようになる、

と言う闘争の本能がベースになっているはずです。


そして、その集団が国家と言う形態になってきた時、その内部の統制をどう進めるのか、
と言う手段と方法論の一つが民主主義です。
当然ですが、歴史的過程において、権力を集中させることによって、
国家的な存在はより確かなものになるのですが、
内部がそれによってより民主的に運営できるか、ということは、別問題でした。
むしろ当然のように、権力を集中してきた連中がいつの世にも存在します。
例えば、武力を背景に権力を集中し、それを継承されてきたのが王政です。
王と、それを取り巻く貴族による執政が展開されてきました。
ところが、権力が集中すると、ほとんどの場合、高権を弄(もてあそ)ぶようになります。
つまり権力者の執政が民のための執政から外れ、高権を得たものの執政になってしまうからです。
そして同時に、民は搾取される立場になり、それに反発するようになります。
近世において、多くの王政が破たんしたのは、当然の流れで、
その民の反発の結果が、主権在民と言うことになったのです。
ま、極めて大雑把な流れですが、そういうことです。

 

そこで疑問なんですが、

権力者と収奪される民の関係は、国家が形成されるようなると、
どこでも生じてきた問題なはずです。
しかし、人類が民主主義にたどり着くのに、とてつもない長い時間がかかりました。
歴史には記録さえされなかった民の権力に対する抗争は、
規模の大小はともかく、おそらく各地で様々に展開されてきたはずです。
結果として強権に抑え込まれ、やっぱだめだった、の繰り返しをしてきたんでしょうね。

 

で、それが、可能になり始めたのには、何かがじわじわと進化してきたからだろうと思うんです。
例えば、人々のIQなどが大きく向上したとか、概念として、主権の意味を形作られるようになったとか、
記録の手段が進化したとか、情報の伝達が緻密になったとか、
なんかが、少しづつ変化・進化して、人の意識が向上してきたんだろうと思うんですね。
これじゃいけない、と。


よく、民意以上の政治は行われない、と言いますでしょ。
意識の高い人々が多ければ、意識の高い政治が行われ、
粗暴な人間が多ければ粗暴な政治が行われる。
心優しい人が多ければ、心優しい政治が行われる、と言うことです。
質の低い政治家が登場するのは、その背景となった人々の意識がそういう選択をするわけで、
それが民意であり、民意以上の政治が行われない、と言うメカニズムは、

いつの時代でも原理原則となっているわけです。

 

世界の政治の形態として、基本は民主主義なんですが、まだまだ民主主義途上国は多く、
ある国際機関が、民主度をデータ化しました。
それによりますと、
レベル10−9は、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、北欧三国。
レベル9−8は、すぺいん、ドイツ、いぎりすなど。
レベル8−7は、アメリカ、韓国、そして日本などです。
以下いくつかの段階があって、
低い方では、ロシア、中国など、
最悪なのが、北朝鮮、サウジアラビアなどです。
ま、総じて旧共産国家は、民主度が低く、

人民主権であったはずの共産主義国家がこの体たらくというのは、
高権が弄ばれているからです。
例えば、それまでの王侯貴族支配政治に人民が蜂起し、

人民の政府を樹立しても、結果、時の主導者の独裁になり、
北朝鮮のように、金王朝が出来上がっただけで、
一歩も民主主義には近づけないんですね。
これは、間違いなく共産主義と言う人民主体の政治理念を持っても、
権力者が、単に入れ替わっただけ、という結果になってしまうんです。
くどいようですが、高権と言うのは、おうおうにして弄んでしまうものなんですね。
トランプにその要素を垣間見ることができます。


さて、では、真の民主主義とはどういうことなんでしょうか。
最近、とてつもないエネルギーを人類は注いできて、とりあえずもっとも公平なシステムとして、
民主主義をベースとした政治体制を作り上げてきましたが、
どうもこれまた不完全なんではないか、と感じるんですね。
それは、紙一重でポピュリズムに陥りがちだからです。
言い換えれば大衆迎合を主に政策決定が行われる、と言う事なんです。

 

朝三暮四、という言葉があります。
これは中国の故事にたとえられた話なんですが、
あるお大尽がいて、これが殊の外猿が好きで、多くの猿を飼っていたのです。
ところが、経済的な躓きがあって、だんだんと景気が悪くなって来た。
で、とうとう、今までのように十分に猿に餌をやることが難しくなった。
そこで、猿を集めて、これからは今までどおり十分なエサを与えることができない。
ついては朝に3粒のドングリを配る。
夕方には4粒のドングリを配る、と言います。
猿たちはそれをきいて、一斉にブーイングをし、反抗的な態度を見せます。
で、そこで、しばし考え、ではこうしようと新たな提案をします。
朝は4粒、夕方は3粒と言うことでどうだ、と。
それを聞いた猿たちは、納得をした、と言う話です。


結果、一日では同じ数でも、ついつい目先のことに捉われ、

朝の4粒に納得してしまったという事なんですね。
これは大衆と言うのは、そういう目先のことで判断しがちである、と言う戒めの言葉なんです。
ま、人間と猿は違うぞ、と言いたくなりますが、
本質はそうは変わらないんでしょうね。

大衆と言うのは、先見性や、大局性と言った視点の欠如は、

高所大所で物事をとらえるということが苦手なんです。
そこで、意見を集約するのに、意志をカウントするわけです。
ギリシャの時代の貝殻投票もそうです。
どのぐらいの比率で賛成者がいるのか、それが民の意志で、

その意志によって重要な事項の選択がされる、
というのが民主主義なんです。


しかし、このご方法が最善なんでしょうか。
私が最近疑問に感じている、と言うのが、

51:49でも多い方が選択されるということです。
51の賛意がすべてで、49の反対がゼロにリセットされてしまう、というのが、
よくよく考えればずいぶんと乱暴なシステムだな、と。

51%を得た途端に、それは正義になるんでしょ。

それよりも疑問は、なぜ、賛成反対に分かれてしまうのか、ですね。

考えとして多様性があるとは言うものの、
もう少し何とかならないんでしょうか。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 12:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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