水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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生老病死の生の意味

手水(ちょうず)と言うものがあります。
多くは、神社などの中庭にあって、参拝の折に、
手を洗い、口を注ぎます。
この手水の一種で、高級料亭の中庭なんかに置いてある手水鉢があります。
大体は、座敷を出ると廊下があり、その先に御不浄がある。
その手前に、ちょろちょろと水を流し、竹でできた柄杓かなんかが伏せておいてあって、
用が済んだら、これで水をくみ、手を洗うというわけです。

この手水鉢は、なぜか、吾唯足るを知る、という文字が円形に刻まれているものが多いようです。
直径では、およそ2尺前後。
外周は円形で、デザインとしては、寛永通宝とかの銅貨を見立ているんでしょうね。
この中央が四角く刻み込まれていて、いわば文字としての口になっているんですね。
この四角の部分に、水がたまるんです。
で、上から五、右に行って隹(ふるとりと読みます)。
下に下りて、疋、訓読みで、あしとかひきとか読みます。
で、左に上がって、矢です。
つまり、口を囲んで、時計回りに、五、隹、疋、矢、四つの文字が取り囲んでいるデザインです。
それぞれ、口を足すと、吾、唯、足、知の4文字になります。
これは、そのまま、吾唯足るを知る、ということの意味となります。

とても意味の深い言葉を、実に巧みにデザイン化したものです。

私は、ただ、足りていることを知る、という意味ですが、
これを別に、知足とも言います。

 

人間の欲には際限がなく、時に、他の人の分まで収奪するということがしばしばありました。
これはただひたすら、将来に対する不安から、物をため込む、

と言う習性がDNA化されて、人間の本能に、組み込まれてきたのです。
よく、リスなどが、秋に森になっている木の実を集め、食べきれない部分は地面に埋めて、
冬眠から覚めたら掘り起こす、と言う習性があることをご存知と思いますが、
あれも、蓄財の一つですね。
わが身を養う、最低限の行動なんですが、
その最低限ならともかく、時に、不用と思われるほど蓄財に執着する人がいます。
まあ、ゴーンさんなんかその一人でしょうね。
ともかく、人間にはもっともっとと言う思いが働きます。
その原点は、不安なんですね。
不安を解消するために、際限ない蓄財に走る。
もっともできればの話ですが。
でも、それをしていたら、食い扶持の総量には限界があるので、誰かがへこんでしまう。
つまり人の食い扶持にまで手を付けて、わが身の将来の不安のために蓄財するのは、
やはりおかしいだろう、というのが、吾唯足るを知る、の解釈です。

 

いま与えられているもので、十分としよう、というわけですね。
足りている、つまり不足ではありません、という現状をしっかりと知りましょう、ということです。
これはこのブログでも、何回も書いてきましたが、
キリスト教の聖書に繰り返し出てくるたとえ話、パラブルと言いますが、
そのうちの一つに、
「金持ちが天国に行けることは、ラクダが針の穴をくぐる事より難しい」
と言うイエスの言葉があります。
要は、いくら貯め込んでも、幸せになるとは言えない。
むしろ貯め込むことは、人の取り分まで手を付けることになり、
その人に苦痛を与えることになる、という考えなんでしょうね。
ですから、いま与えられているもので、先ずは満足しなさい、と言う事なんでしょうか。

 

正に、吾唯足るを知る、ということです。
このことは、併せて、与えられている事のありがたさにつながります。
初めに、命を父よ母からいただき、とてつもないエネルギーを注いで育ててもらい、
学校に行くようになってからは、先生に教わり、友達にささえられて、
社会に出てみれば、共に働く者がいて、品物を入れてくれる業者、品物を買ってくれるお客様、
すべてが、支えてもらって生きてきたわけでしょ。
それを当たり前ではなく、ありがたいことと認識しなくては、
私達が奇跡のごとく与えられた命の意味を見失ってしまいます。

 

そう言う物のとらえ方ができないと、
物はとしては豊かであっても、心の貧しい人生になってしまうんですね。

 

世の中にはとんでもない奴がいるもんだとあきれ果てたニュースがありました。
ま、確かに、暴力で我が子を殺してしまう鬼畜生もいますが、
それに匹敵する鬼畜生です。
「同意なしに自分を生んだ、という理由で、インドの27歳の男性が、両親を告訴しようとしているのだそうです。
サミュエルというこの男は反出生主義者(そんな主義があるんだ)で、
苦しみや悲しみばかりの世の中に、子供を産むことは倫理的に間違っている、と信じているのだそうです。
これは自分の命を粗末に生きていることと、とてつもないエネルギーを注いで生育してくれた親への冒涜でしょ。
第一、子が親を選べないこととおなじで、親も子を選べないんですね。
これはある意味、親子と言う人間関係の難しさかもしれません。
しかし、これをマイナスの条件と取っている限り、世の中、マイナスの条件だらけでしょ。
釈迦が疑問に思った、生老病死の「生」は、生きることの悩みだと思っていましたが、
もしかすると、このインドの男のように、生まれてくることの「生」なのかもしれませんね。

まいずれにしても不毛の裁判になりそうです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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