水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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どうでもいいじゃねえか

はっきり言って、ウーマンの村本と言う芸人は、あまり好きじゃない。
情けない理由なんだけど、最近とみに耳が聞こえづらくなって、
ちょっと、遠い所からの話や、周囲に雑音があったり、特に、相手がマスクしたまましゃべったりすると、
ほとんど聞き取れない。
さらには滑舌の悪い話し方、早口の話し方も、きちんと聞き取れない。
要は、老化が、特に耳に関して進んだという事なんです。


ですから、村本の話し方が速すぎて、また、早い喋りを売りにしていることもあって、
彼が登場するテレビ番組のさまざまな場面のほとんどが分からないんですね。
なんかこれでもか、とまくし立てているのを見ていて、疎外感を感じてしまうんです。


足の悪い人に、もっと早く歩けないのか、と言われているようなもんでしょうね。
肉体的な能力が追い付かないんですから、そこからドロップアウトするしかない。
年を取った自覚はしていますが、露骨にそのことを押し付けられると、時に嫌悪感にすらなる。
だから、彼が受け入れられないのです。

 

で、一週間ほど前の羽島慎一モーニングショーで、この村本を取り上げ、
彼が、様々な社会的問題を取り上げ、ツィッターで発信をし、
これがしばしば炎上していることが議論されていたのです。
もともと、彼は社会的なテーマを取り上げ、それなりの発言をしてきていて、
とかく芸人が、干されることを恐れて、無難な物言いしかしないのに、
まあ、勇気ある発言を繰り返しているな、と、その意味では評価していたのですが、
どうも言葉遣いがよくない。
基本的に、喧嘩を売っているような所があるでしょ。
私が一番嫌う品性に掛ける、ということです。
正に怖いもの知らずのように、人を切り捨てる。


私は人の評価の一つに、好きとか嫌いとかの前に、
こいつと一緒に飲みたいと思うかどうか、という判断基準を当てはめてみることがあります。
これは、さしたる理屈とかではなく、正に、本能的、感情的なものでしょうね。
要は肌が合うとか、言うことです。

で、村元とは飲みたいと思わないだろうな、ということですね。
勿論向こうも飲みたいとは思わないでしょうけど。

 

で、この番組の中で、いわゆるメディア論のようなものが展開されました。
これはテレビなどのメディアが構造的に持っている、メディアの成り立ちの本質を
議論しておかないと、本来の結論にたどり着かないんですね。
ですが、そこを議論する番組ではないので、そこが浅くなってしまったんですが、
まあこれはやむを得ないことか、と。

 

そもそも、メディア、要はマスコミと言われる業態の在り方です。
ま、主にはテレビがその主流になっていますが、
ここでは、ニュースやバラエティ、スポーツ中継やドラマなど、
さまざまな分野のものが放映されています。
で、メディアにとって、お客様は誰か、と言う事なんですが、
私はお客様は、間違いなくスポンサーである、と思います。
どんな商売だって、お客様がそれ相応の商品を買ってくれるからこそ、
成り立っているわけでしょ。
製造業だろうと、商業だろうと、飲食業だろうと、要はお金を支払ってくれる人がお客様なわけです。
形態が異なるメディアが数多く存在しますが、最終結論は、お金を支払ってくれる存在がお客様です。
という観点で考えれば、NHKは視聴者が視聴料を支払っているんですから、
市民一人一人がお客様でしょ。
でも民放は、スポンサーが支払うお金で成り立っていますから、スポンサーがお客様です。
NHKは、公共放送、という言い方をしますけど、1億2千6百万人がお客様ですから、
右も左もいろいろいて、それこそ中立公正の立場が原則となるので、正に公共性の基本を守らねばなりません。
かといって、民放も、結果としては公共放送なんです。
なぜなら、スポンサーは、その番組を見ている人に、自社の存在、または商品をアピールするわけですから、
右も左もいろいろいることが前提なので、これまた中立公正が原則になります。
ただ、民法の場合、視聴者の意向と、スポンサーの意向の両方を受け止めなくてはいけない。
ここが、ちょっとだけ複雑な背景が存在するんです。


で、実態と言えば、
放送内容の的が外れたとしても、NHKの場合、収入が激変するわけじゃない。
ちっとばかりクレームが寄せられるだけで、社員の給与の支払いに困ることはない。
ところが民放は、スポンサーがそっぽ向いたら、いきなり収入がなくなるわけでしょ。
ですから、スポンサーの顔色をうかがわざるを得ない。
つまり、民放のテレビ局としては、
基本、視聴者は、お客様ではないんです。
スポンサーにとっては視聴者が多いほど広告効果があるわけですから、
視聴率の高い番組が商品価値があることになるので、結果、視聴率を獲得しようと躍起になるわけです。

つまり、メディアは、なんだかんだと、大衆の意向に沿うように作られなければならないので、
時に、多少盛られたり、あいまいにしたり、あえて削除したりと、

100%クリアーでドンピシャのピントを合わせた状態でないことは、ある意味当然なんですね。

 

私は、昨今のSNS上の市民のさまざまなやり取り。
時に人を中傷したり、揚げ足を取ったり、過剰に感情をむき出しにしたり、と、
まあはたで見ていて、決して仲のよい状態でないことに、いささか心配をしてるのです。
若いころは正義感溢れ、間違ったことはしたくない、なんて、硬直状態だったのですが、
ある時こんな言葉を聞いて、正しいと思っていることは自分の価値観に過ぎず、
多くの状態の人がいることを前提にすれば、
多少は緩い判断をすべきだ、と思ったんですね。


その言葉が、清濁併せ飲む、ということです。


大人とか、懐の広さとか、要は、人間としての許容は、
反論や批判からは生まれてこないんですね。
まあ、どうでもいいじゃねえか、と言いながら死んでゆきたいものです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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