シャッター街、という言葉が使われるようになってから、
随分と時が流れました。
商店街という一つの消費形態が壊れていったその一つの象徴なんですね。
私は一商店街の構成員でしたから、商店街そのものが凋落してゆく様は、
心痛む思いで受け止めていました。
平塚の商店街が、戦後いち早く復興をし、市内ばかりでなく、
近隣のまちからも多くの買い物客を集め、
正に絶頂の時代がありました。
昭和20年代後半、戦後の復興期に、商圏人口50万とか言われ、
西は熱海から、南は三浦半島からもお客様がやってきた、と言われたものです。
確かに、その時代は、物資も十分ではありませんでしたし、
ともかく安物で何とかしようとしていたころですから、
仕入れが巧みだった平塚商人の大先輩たちが、大量に商品を仕入れ、
山積みにして安売りをしたのですから、
近隣の人たちは、買い物にわざわざ平塚までやってきたわけです。
ま、そういう状況があったからこそだったと思いますが、
平塚商人がその心意気を示さんと、七夕祭りが始まったわけです。
ま、その辺のいきさつはともかく、
私が、昭和42年、学業を終え、父が仕切る紅谷パールロードの店にそのまま職を求めて、
いわゆる、食い物屋の見習いを始めたころ、すでに、凋落の兆候は商店街に表れていました。
ま、それでも、この商店街には、若いものが力を合わせて、あの黄金期を取り戻すべく頑張ろう、
みたいな雰囲気が残されていたのです。
商店街ですから、隣近所はもちろん、一連の連なったお店同志は、
それぞれの事情がある程度分かるものです。
そこで、年齢の若い人たちが集まるようになって、青年部が結成されました。
比較的、活発な人達が多く、気も合うところがあって、
結構なかよく商店街の活動を展開したものです。
青年部とは言え、実務的な事は結局若い者がやることになるので、
親会としては、徐々にその管理する範囲を狭くし、
その分、青年部に実務を委任するようになってきたのです。
いくつかの大事業を進めました。
その最大のものはモール化事業でしょうね。
会員を説得するエネルギー、さらにそこに投じられた金銭など、相当の規模のものだったと思います。
ま、それ以前にもあれこれ手がけたものがありました。
その一つが、シャッターに絵を描こう、という運動です。
当時、今でいうシャッターの閉まったお店などはありませんでしたが、
シャッターは、締めた時は営業終了か、お休みの時になるわけで、
あけているときがお店の顔はわけです。
そんなもんですから、シャッターについては極めて無頓着で、
あの灰色の鉄の板が、ずるずると降ろされると、そこは何もなかったんですね。
極端な話、店名すら書いてない。
ま、営業等終了後、または休日など、いかにも無味乾燥な風景なので、
シャッターに何か描こうということになったのです。
で、それぞれのお店に交渉し、何とかこういう事業に協力して下さい、と。
ま、商店の常なんですが、様々なイベントなど、協力してくれるところは協力してくれるのですが、
非協力な店は、何をやっても協力してくれないんですね。
ま、商店主の人格というか、性格というか、身勝手で、儲け仕事以外は動かない、
という人は必ずいるものです。
このシャッターに絵を、という運動は、
全員揃わなければ成り立たないことはないので、まあ有志で始めよう、という事でした。
我が店は、間口が17メートルほどあって、かなり広いのですが、
それなりにデザインをして、絵を描くことにしたのです。
確かペンキ屋さんで巧みに絵を描いてくれる人がいて、そこに依頼したと思います。
絵柄は、竹取物語でした。
おじいさんが竹やぶでかぐや姫を見つけるシーンと、
花咲爺が木の上で灰を撒き撒き、桜を咲かせるシーンでした。
他のお店も、なんだかんだと絵を描き、シャッターの半分ぐらいがいくらかにぎやかにすることができたのです。
いま、平塚市内では、駅前の地下道などで、そこそこ鑑賞できる素晴らしい絵画が展示されていて、
地下道ミュージアムとか名乗っているようですが、
あれらの人々の才能をお借りして、
無味乾燥なシャッターをいくらか彩りを与えたらどうなんでしょうね。
何十年ぶりかの「シャッターに絵を」の運動が再開されることを望みます。
ネットで、こんな記事を読みました。
「灰色のシャッター街を、日本一の壁画の町に」
ということで、佐賀県の多久市の中心市街地で、
営業していない店舗のシャッターや商店の壁などを色鮮やかな絵画で飾る
「多久市ウォールアートプロジェクト」というのが展開されているそうです。
その記事には、見事な絵で装飾されたシャッターの写真が載せられていましたが、
なかなかのもので、その成果を大いに期待する所です。
これで街のにぎわいを取り戻す、とかいう事ですが、
ま、気持ちは分かりますが、
商店街は、消費材の販売、サービスの提供で、
コミュニティーの構成要素になっているわけですから、
シャッターの絵だけで、商業の復興は難しいと思うのです。
問題はこういう運動を展開している人たちの気持ち汲んで、
まだ残っている商人たちが、どこまで奮起するかでしょう。
私はその可能性を信じつつ、今後の展開を期待しているんです。
いいですね、若い人のこういう情熱は。