水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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人間の存在意義

昔、正確には、私が30代のころだったと思うので、
かれこれ40年ほど前のこと。
いや余りに昔のことなので、記憶も断片的なのですが、
さる企業の製品に欠陥があって、使用した人が、大怪我をするという問題が発生したんです。
なんていう企業かどんな製品だったのかは忘れました。
で、この時、通産大臣が記者会見を開き、
この企業の姿勢を叱ったんです。
その時の言葉。
「そもそも、企業と言うのは、人の幸せのために存在するのであって、
理由が何であれ、人の不幸につながるということは、
存在意義そのものが問題となる」と。
どちらかと言うと、政治家の先生方は、基本、大企業の味方ですよね。
それが、この問題では、ズバッと斬って捨てたのです。
私は、この時の「人の幸せのために存在する」という言葉を深く受け止めました。

 

さて、そう考えると、何も企業だけでなく、様々な人間社会を構成する要素の一つ一つは、
人の幸せのために存在する、と言うことが大原則だと思うのです。
まずは政治がそうでしょ。
人の幸せ、つまり、国民の幸せのための政治でなくてはいけないですよね。
このまちの自治体なら、市民の幸せのための地方行政でなくてはならないはずです。
警察だって、単に市民生活の安全安心とか言いますが、
基本概念としては、市民の幸せのための警察行政でなくてはいけないはずです。

 

この、幸せのためのと言うニュアンスは、そこに人間としての温かな思い、
愛に根ざした思い、と言った要素が、たっぷりと含まれているということです。
人間社会にあって、一方は働きかける側、一方はそれを享受する側、
と言う関係がさまざまな場面で、様々な形態として発生します。

しかし、多くの社会的活動は、おうおうにして、やらねばならぬものとしてとらえ、
そこには、人としての潤いが欠落する場合が多いように思うのです。

 

最近しばしば露呈する児童の虐待死などがそのいい例です。
事が公になって、いろいろ経緯が見えてくると、驚くほど共通したプロセスが存在します。
それは、児童相談所やら、警察やらの不十分な対応です。
時に、取り上げるべき程度ではなかった、と判断し、

相談や通報を無駄なものにしてしまうということです。
冷静に考えてみましょう。
こういうことはすべて人が判断するのです。
誰がそう判断し、どのように周囲がそれを受け入れたのか、ということが
もう少し明確になるべきです。

 

児童相談所のだれがそう判断したのか。
警察のだれがそのような処置で済ませたのか。
ここは明らかにすべきでしょ。

 

総じて、日本の行政機構の中で、ミスや不祥事などに対して、
個人的な責任の在り方、つまり、選択をした人間の責任をあまり追求しないでしょ。

先日テレビで見たさる冤罪事件の密着レポートですが、冤罪を晴らした親族が、

その時の警察、検察の担当者は個人的にでも謝罪すべきだ、と言ってました。

私も、間違えた仕事をしたんですから、相応の対応をすべきだと思います。

 

ですから、責任あるべき人の資質として、「私は市民の幸せのために現在の職を全うする」
という思いを持っていれば、ミスは著しく減るはずなんです。
まあ、一言で言えば、これらの人に愛が欠落している。
どこか逃げ腰だったり、自己保存に走ったり、面倒に思ったりしている。

 

それぞれに職務規定と言うのがあると思うんです。
これは、その役職において、何をどうすべきか、と言う、なすべきことを文章化したものです。
で、多くの人が勘違いをしているんですが、
職務規定とは、なすべきことではなく、なさねばならぬことであって、
例えば、5レベルのことをせよ、と規定してあったとします。
これは、5までをやればいい、ということではない。
5以上をせよと言う事なんですね。
職務規定で示されたあるボーダーは、そこまで到達せよ、と言うことではなく、
それを最低限のものとせよ、ということだと理解すべきなんです。
このボーダーをゴールと考え仕事をするのと、新たなスタートして受け止めるのとでは、
仕事の質と量に雲泥の差が生まれてくるのです。
こう言うと、時間がないとか、体力的にきつい、とか泣き言を言うものがいますが、
そこに愛の溢れる判断をすることが、どうして大変なんでしょうか。

 

どうもいまだにこの国は、事なかれ主義とセクショナリズムに侵されているようです。
児童相談所と警察の関係もそうです。
イージスアショアの地元説明会でのやり取りもそうです。
誰かのある意志を受けて、嘘のデータで地元の適性をレポートした。
これは絶対に作為があるでしょ。
うっかり何てことはありえない。
つまりばれちゃったと言うところです。
担当者は、なんとしても誰かの意志を正当化しなくてはいけない。
でも、あの中の責任者であれ、レポートを作成した担当者であれ、
愛があれば、防げた話でしょ。
地元の人の幸せを考えたら、別な考えを提案したわけでしょ。

金融庁の例の2000万円自助的準備に関することもそうです。
あの文書を作成のデータを練り上げたのは、
学者先生方と、金融専門家だそうです。
なるほど、運用による資金の用意をすべきなんて、
我が利のためのレポートですよね。
そこに、国民の幸せのため、なんて感情はかけらもない。

驚いたのは、麻生担当大臣です。
あのレポートは冒頭部分しか読んでいない、と言うんですね。
「全文を読んだわけではない」と国会での答弁。
先ずこの国の最高責任者の一人として、
国民の幸せを願ってるとは思えないでしょ。

 

もう一度私達は、私たち自身も、それぞれの立場で、
私は人の幸せのために存在しているか、と言う自問自答をすべきだと思います。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 07:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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