死因は、くも膜下、と聞いています。
鳥海義晃さんが、亡くなりました。
ご存知、鳥保貴柳庵のご主人。
享年80歳。
20代から寿司職につき、沼津で修業をし、
平塚に戻ってくると、親父さんが手がけていた鳥保で仕事を始めます。
私が出会ったのは、とりさんが平塚青年会議所に入会をしてきたことがきっかけでした。
近所で商売をしていたのですが、それまで縁もなかったのです。
で、当時、青年会議所の例会と言うと商工会議所の2階で開催されていてのですが、
終わって、三々五々、皆帰り路を急ぐんですが、紅谷町に私も向う、鳥さんも向うということで、
同じ方向に歩いていたのです。
この時、数メートル離れた距離で歩いていて、言葉を交わすことはありませんでした。
まあ、なんとなくよく知らなかった、ということもあったのです。
で、梅屋さんの裏道、鳥保のお店がある道なんですが、
そこで、店への細い路地に入りながら、とりさんは振り返ることもなく、右腕をふりながら、
同業だしよ、これからもよろしくな、と言ったんですね。
もちろん相応の返事を返しました。
この、いかにもぶっきらぼうな最初の接触が、くっきりと記憶しているということは、
その後の濃密な関係と際立って対比されたからなんです。
以来、特に飲食業という同じ土俵でずいぶんとパートナーを組んで活動してきました。
このブログでもたびたび登場した伊藤雅易さんを師匠にした料理研究会の立ち上げです。
これは、それまで碌に板場の修業もしてこなかった私にとって、
とてつもなく新鮮で、実りの多い会合となりました。
1990年、相模湾アーバンリゾートフェスティバル、略称SURF90が開催されたんですね。
この時、今の弦斎公園で、伊藤師匠との包丁式が行われたのですが、
介添えに一番弟子を自負していた鳥さん、私は進行を解説する役で参加しました。
こういうことには、妙に張り切るところがとりさんにはあったんですね。
思い返してみると、何ともたくさんの調理関係者を紹介してくれました。
道場六三郎さんもそうですし、故人となった阿部狐柳先生もそうです。
そうして、彼は、日本料理探求のために、東京の調理師の組織に参画します。
何度か、とりさんの料理が、料理本のカラーページを飾りました。
特に、剥きものの技に秀でていて、大根を使ってバラの花を作ったりするなど、
その包丁さばきは秀逸なものを持っていました。
そして、まだ紅谷町に私の店があって事務所があったころのことです。
事務所にやってきて、小さなタッパーウエア―に入った南京豆の煮ものを差し出したのです。
1粒試食しました。
これがなかなかのもの。
褒めると、実はね、これは村井弦斉の食道楽に書いてあった通りに作ってみたんだ、と。
で、これがきっかけとなって、ゲンサイ豆を作り販売することになったり、
また、全般的に弦斎食道楽の再現料理を手掛けたりと、
いわゆる地域食文化の振興にかかわるようになったのです。
今、松風町と八重咲町の境を通っている弦斉通りですが、
これは、とりさんの提唱によるものなんですね。
地域のご婦人方を集めて料理教室を開催したり、
地方のタウン誌に連載で、料理に関する記事を書いたり、
食育に関する講演会を開いたりと、
ただの寿司屋ではありませんでした。
先月初め、紅谷町に引っ越してきたんですね。
近くだから、近所のカフェで、コーヒーでも飲みながら、じっくりと平塚食文化に関して、
語り合いたいものだ、と楽しみにしていた矢先の訃報です。
色々と多くのことを教えていただきました。
本当に、ありがとうございました。
心からご冥福を祈ります。