水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
<< お通し不要論 | main | 寛容の民族 >>
少女像の展示、するも自由、しないも自由

愛知県名古屋での「表現の不自由展・その後」の展示中止に対して
もめごと発生のようですね。
私は、この企画段階で、少女像の展示があると知り、
これはもめそうだなと思いました。
だって、現状、韓国にしろ、アメリカなど他の国々にしろ、
少女像と言うのは、日韓の不和の要因となってきたわけでしょ。
まして、ここにきて経済戦争勃発じゃないですか。
もっともデリケートな部分を、いくら何らかの主張がしたいとはいえ、
油に火を注ぐような企画をどうしてするんだろう、と思っていました。

 

おうおうにして、この類のことは、「表現の自由」をテーマに、
論争が起きがちです。
私は、例えば、テレビの放送なども含め、表現の自由と言う、
実は誰もよく分かっていない概念を盾にとって、なんでもかんでも表現する権利があり、
その権利は個の自由につながりる。
したがってこれを制限することは、この自由を奪うことに等しい、と言う論法が、
ワンパターンのように展開されてきました。

 

例えばです、少女像の代わりに、男と女が露骨に絡み合っている男女像が展示されたとします。
おれたちのじじいはともかく、若い人だったら即座に興奮するような像です。
きっと猛抗議がされるでしょ。
教育上よくないとか、軽犯罪なんだらとか、
まあ、人の羞恥心に関わる事って計量できませんが、
良識的にこれは反対され、展示中止でしょうね。
じゃあ、少女像と男女像と何がどう違うんでしょうか。
少女像の展示が自由と言う人は、
この男女像も表現の自由だ、と主張するんでしょうか。

 

つまり私達は、自由と言う概念が極めて不安定なものとして、持っているということです。
まして、表現の自由と言う概念には、自己主張の強い主観的な概念が混じるわけです。
つまり、表現のテーマが気に入るかどうか、自分の主義主張にあっているかどうか、
など、きわめてこ静的な判断、価値観が根底にあるということです。
なんでもかんでも言うこと、表現することは自由だとばかり
野放図にものを表現したら、コミュニケーションは取れなくなるでしょ。


かみさんに、ちらとでも思ったことを全部口にしたら、
不穏な空気が生まれてくるに決まってます。
どこか言いたいことを飲み込む。
そう言う判断をしているわけです。
それは時に良識だったり、争いを避ける本能的な判断だったり、
人と人のよい関係を作り上げようとする努力です。

 

この企画展の中止に抗議をした人がいたんです。
例によってネットで呼びかけ、
暴力で表現の自由を封殺するな、とか、の横断幕を掲げ、
表現の自由を守ろう、とシュプレヒコールを繰り返したそうです。

例えば、この抗議集会にやってきた人たちに対して、
その服装や、身だしなみ、容貌、肉体的な欠点など、
例えば、くそばばあ、とか、ずんぐりむっくり、とか、デブとか、ブスとか、
安物の服着てるとか、センスのないファッションだとか、
まあ、普通には口にしないことを面と向かって言ったとします。
当然相手は怒るでしょうね。
いやこれも表現の自由です、と続けたら、おおもめになるでしょ。


つまり、表現の自由と言うのは、実はそれなりの制限のもとで自由なのであって、
制限されたことはなんでもかんでも反対と言うのは、
自由の概念が定まらないままの主張と言うことになりませんか。

 

よく考えてみると、好ましくないと考え、中止をするという思いを持つことは、自由でしょ。
つまり展示をしないというのも自由でしょ。
で、表現の自由を守れ、という思いも自由でしょ。
最後は、どちらの言い分に大義があるのか、じゃないですか。

 

自由を侵略する力をも自由と認めるのか、と言う事ですね。
やはりそこは、きちんと区別すべきでしょ。

| 水嶋かずあき | - | 05:54 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









http://blog.mizushima-kazuaki.com/trackback/3113
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930     
<< September 2019 >>
+ SELECTED ENTRIES
+ RECENT COMMENTS
+ CATEGORIES
+ ARCHIVES
+ MOBILE
qrcode
+ LINKS
+ PROFILE