水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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ノーサイド

ラグビーのワールドカップが開催され、日本のラグビー熱もここに来て沸騰してきました。
正直、ラグビーについては、日本は後進国だと思います。
何より、この期に及んで、テレビのワイド的な番組で、
ラグビーの基本ルールを解説しているくらいですから、まあ、間違いなく後進国でしょ。

 

そう言えば、Jリーグが1993年に始まった時、
テレビではしきりにオフサイドの解説をしていましたもんね。
今更、テレビのワイドで、オフサイドの解説なんか聞いたことも見たこともないでしょ。
その意味では、ラグビー文化は、この後、時間をかけて、間違いなく花開いてゆくんでしょうね。

ですからそれだけに、そういう状況にもかかわらず、日本での開催を実現させることができたのは、
多くの人の努力があったからだろうと思います。

 

ラグビー音痴の私だって、なんとなく思いつくのが、
釜石の松尾さん、伏見工業高校の山口さん、その出身の平尾さん、
政治家では森元首相。
きっとそれ以外に日本のラグビーをけん引してきた人は山ほどいるのでしょうが、
その人々にしてみれば、このように世界の強豪がやってきて、
日本の各地で肉弾戦を繰り広げ、迫力あるゲームを観戦できる機会を得たということは、
とてつもなく誇りに思っているのではないか、と思います。
ある意味で、やっと陽の目を見たぞ、と。

 

私は、その昔、そう、およそ40年前のことです。
当時、伏見工業高校のラグビーの監督だった山口良治さんにとてつもなく興味を持って、
京都まで会いに出かけたことがありました。
電話でアポを取り、高校行まで足を運んだんです。
目的はさる講演会で講演していただきたいとお願いに行ったんですが、
結果はスケジュールがどうしても合わず断念しました。
でもその代わり、実に生々しい体験談をじっくりと聞くことができたのです。
おおよそは、あの「スクールウォーズ」に再現されていましたが、
ご本人の口から聞く話はまた格別で、とても印象深く心に残っています。


まず、山口さんは、ラグビーの日本代表ですから、そこそこの立場だったんです。
今でいうサッカーのカズとか、ヒデとか日本代表のレジェンド的立場です。
で、最初に伏見工業高校に赴任したの時のことです。
高校のある駅に降り立った時、当然学校から出迎えがある、と考えていたようです。
そう、代表経験者と言うのはそれほどの地位だったからです。
でも、誰もいない。
ま、仕方ないからとぼとぼと歩いて学校に行き、挨拶をし、
ちなみにラグビー部の部室に案内してもらったのだそうですが、
学校も学校なら、生徒も生徒、部員のだれもが、お前誰だ、みたいな顔をしてたそうです。

その頃の伏見工業高校は、まあいっちゃあなんですが、

中学時代の成績の一番下の子等が集まってくるような高校だったようで、
誰一人として自校に誇りを持っていない。
出来れば通っている高校名は、隠しておきたい、と言ったぐらいの学校で、
学力が低かった分、資質も荒れた子が多く、

もう、校内にはすさんだ風が吹いていたようでした。
何しろ、廊下をバイクに乗った生徒が走っているとか、
部室の机のど真ん中にでかい空き缶があって、そこには吸殻が山と積まれていて、
先生の前でも平気でタバコを吸っていたそうです。

そこで、山口さんは、何か誇りの持てるようにすることが大事だ、と言うことと、
荒れた空気を一掃するための努力をするんですね。


それには、ラグビー部を強化して、活躍すようになれば、空気が変わるかかもしれない、と。
そもそもそのために赴任したので、そこに最大限の力を注ぎます。

しかし、一朝一夕には、部員の体質は変わらない。
赴任した年の1975年5月の京都府春季総合体育大会で対戦したのが、京都の名門花園高等学校。
この試合に112対0の大敗をします。
山口さんは、こう話していました。
「まるでホテルのドアマンのように、走って来るやつをさっと通してしまうんです」と。
失点は信じられない速度で増えてゆきます。
今までの山口さんの経験では経験したことのない光景が展開されていたのです。
70点を超え、80点を超え、そのあたりから、グランドで何が起きているのか分からなくなった。
とめどなく流れる涙で、ちゃんと見えなくなっていたのです。
ノーサイドの笛が響き渡る。
試合が終わって、集まってきた選手たちは、だからなんだと敗戦の悔しささえ表さない。
部員を前にして、山口さんはしばし沈黙。
一時あって、彼は部員一人一人にこう語りかけます。
「悔しくないのか」隣の選手にも「悔しくないのか」さらに「悔しくないのか」
次々に語りかけても、誰も知らぬ顔。
一通り語りかけて間があって、一人の選手が、うめくように、「悔しいです」と。
すると、次々と選手達が、「悔しいです」と正直に胸の内を言葉にしたのです。

山口さんはここがきっかけだったと言います。

 

以来、過酷な練習を積み重ね、その3年後、1978年近畿大会で準優勝。
翌1979年全国大会ベスト8、さらにその翌年の1980年国体優勝、全国大会優勝と、
強豪校としての力をつけてゆきます。
この中から、平尾誠二をはじめ、多くのラガーを輩出します。
もちろん、伏見工業高校はいい学校である、と胸を張って言えるようになりました。

私は、温厚で、しかも情熱的な山口良治さんと直接、話しをしたのはこの時だけですが、
勝手ながら、良い縁を得た、と思っています。
そして、何よりワールドカップで、各会場が満席になってる様子を見て、
ラグビーの未来を明るく展望しているのだろうと思います。

 

試合終了は、ノーサイド。
いい言葉ですね。
今まで敵味方で戦っていたチームが、ホイッスルとともに、
ノーサイド(敵味方無し)になるんです。

 

すべての国がノーサイドになることを夢見ますね。

 

| 水嶋かずあき | - | 13:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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