水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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大きな器

よく、人間性の豊かさを示す言葉で、器、という言葉を使います。
器が大きいとか、小さいとか。
少なくとも、あの人は器が大きい、などと言われるとしたら、これは立派なほめ言葉ですね。
逆に、小さいとされれば、評価が悪いということです。
熟語としては、器量という言葉がこれに相当します。
あいつも器量が狭いね、など、人を非難する時につかいますが、
要は器の量ですから、同意語ですね。

 

で、器とは、要は人間としてその能力、資質を計る要素の一つですが、
器とはなんぞや、ということです。
正にイメージとしては、どんぶりか、かめか、
なんとなくですが、土器などで作られた容器のことでしょうね。

で、この器のサイズで人の容量を推し量ったわけです。

そこで大きいという概念の中に、いったい何が多く入っているのか、
と言う事でしょ。

 

私の叔父で、父の弟にあたる大塚の叔父さんがいました。
この叔父は、明石町でゴム印を主とする印章業を営んでいました。
私が小さいころは、何かと接点が多かった大人の一人です。
で、多分、小学校高学年かやっと中学に入ったころのことだと思うのですが、
なんかの会話の中で、「清濁併せ飲む」と言う事を言ったんですね。
初めて聞く言葉だったので、私はその意味を尋ねました。
と、辞典解説のように、清い水も濁った水も、選ぶことなく飲む、ということだ、と。


ちなみにネットの解説を引用します。
正確には、飲むよりも呑むが多用されているようです。
読みは、せいだくあわせのむ。
で、意味としては、

心に余裕があり、善悪の区別をすることなく来るがままに受け入れること。
良いことと悪いこと、良い人悪い人、綺麗なものと汚いものを公平にあるがまま迎えることを表す。
濁を避けて清ばかり好んでいるばかりではなく、時には濁を甘受することも必要であることです、とあります。
ま、度量が大きいことのたとえです。


要は器の大きさのことでしょ。

世の中では、純粋な善意と誠意で行動する人もいれば、
私欲と自己保存の心で行動する人もいます。
また、一人の人間の中にも、この両方の思いが混在しているものです。
ですから、すべての現象が清とは限りませんし、
濁といえど、どこか受け入れざるを得ないこともあります。

私がこの言葉を聞いた時、まだ少年の清なる心に満たされていたころで、
正義とかを追求する気概に溢れていたのです。
ですから、邪悪な「濁」を受け入れるということにえらく違和感を感じたんですね。
少年時代の感情に反して、大人の汚さを受け入れろ、と言われているような気がしたのです。
でも、この言葉には何か奥深いものがある、とは思っていました。
この言葉を聞いた時の様子を鮮明に覚えていたのもそんな感覚があったからです。

 

やがて、水嶋少年は成長してゆきますが、その過程で、
濁と多く出会います。
その経験値に比例して、濁への理解ができるようになってゆきます。
これは、濁となったことの背景の理解が第一です。
もちろん現象として肯定できないことですが、
なぜそうなったのか、そうしたのか、ということに潜む、ささやかな要因を分析することなんですね。
もちろん、その結果、濁を否定することもあります。
しかし、不思議なもので、駄句を否定することが徐々に減ってくるのです。
そして、そうなってしまう背景を受け入れるようになります。

 

話は変わって、良寛さんにまつわる話です。
良寛さんは、長岡の豪商の出で、出家して僧籍に入ります。
実家は兄が引き継ぎます。
で、その兄さんの息子と言うのが、いわゆる放蕩息子で、さらなる後継者として問題が多かったのですね。
そこで、兄に頼まれて、息子に説教してくれ、といわれ、
久しぶりに実家に出向きます。
良寛さんは、もうこのころは僧侶として高名だったので、
そのことを承知している息子はいささか、緊張して迎えます。
で、奥座敷で、二人は対峙します。
しかし、良寛さんは一言も話さない。
息子は、覚悟して、言葉を聞き取ろうとはしているものの、言葉がない。
かれこれ一時間ほど、無言のままが過ぎ、
良寛さんは、いとまする、と立ち上がります。
息子はあわてて庭先に回り込み、良寛さんが履いて来た草履の向きをそろえます。
すると、その草履にしずくが一滴落ちます。
息子は怪訝に思って、見上げると、良寛さんが泣いていたんですね。
これは有名な良寛さんの一粒の涙の話です。


この時の涙のわけを良寛さんは、こう説明しました。
あのような豪商の金に困らない、物があふれている、

使用人に蝶よ花よとかしずかれるような環境に育てられれば、

それは天狗にもなるし、遊びほうける事だってあるだろう、と。
で、良寛さんはこう思うんです。
きっと私でもそうなっていただろう、と。

 

人間のそうなってしまう環境を慮ること、これが濁を飲む要因です。
つまり寛容の心を持つということです。
しかし、これは濁をよしとすることではなく、受け入れるということなんですね。
明らかに濁は濁で存在します。
でも、頭から否定するのは、器量が狭いことになるんですね。

 

要は、まあまあ、といいながら、相手の存在は存在として認めることなんですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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