ネット社会は、実に便利な生活を作り出してくれました。
情報を遠隔に操作し、時に機械を動かせたり、
一定条件を判断し、自動でコントロールする技を組み込んだり、
もはや人間の生産的行動には不可欠のものとなりました。
しかし、あわせて、電脳的なツールによって、人間の脳が劣化しつつあることも事実のようです。
ちょとレベルの違う話ですが、電卓が普及した結果、
私達は暗算能力を失いました。
それこそ簡単な足し算掛け算なども、いちいち紙に書かなくては計算出来ないくらい、
数学的脳みそは劣化したと思っています。
もちろん、手元に電卓があれば無条件で電卓をたたくでしょ。
この程度の桁数なら、暗算で答えを出したのにな、などと、自らの衰えを嘆くことしばしばです。
携帯になってから、電話番号の記憶がすっかりなくなってしまいました。
かつては、月に一二度かける程度の番号は、すべてそらんじていたものです。
今じゃあ、かみさんの携帯番号なんて、覚えてないですからね。
まあ、便利は時に、人間の能力をすり減らすんですね。
いいことばかりじゃない、ということです。
で、このスマホなどの異常な発達により、もう一つ人間の悪い面が助長されてきました。
それは付和雷同ということです。
広辞苑によれば、
自分にしっかりとした考えがなく、他人の言動にすぐ同調すること。
「付和」は定見をもたず、すぐ他人の意見に賛成すること。
「 雷同」は雷が鳴ると万物がそれに応じて響くように、むやみに他人の言動に同調すること。
とあります。
肝心なことは、しっかりとした自分の考えがないことです。
それが故か、自分の考えを持たなくてもいいようになってはいないでしょうか。
誰かがあることを言えば、そうだそうだ、と賛同する。
ま、ネットなら「いいね」なんでしょうか。
もちろん反対の意見もあるわけですが、
これとて、反対をロジカルに言った意見に、いいね、を付けるわけです。
要は自分としてはオリジナルな意見を持たず、絶えず、人の意見の尻馬に乗るという傾向です。
これが時に集団的な動きをもち、ある意味世論形成につながることがあります。
最近のネットに現れたいくつかの現象を思い起こしてみますと、
まずは、ラグビーのあっぱれな活躍ぶり。
そうするとネットに限りませんが、ラグビー一色になってしまいました。
次に桜の問題が勃発すると、朝から晩まで桜、桜とうるさいこと。
この騒ぎはいまだに続いていますが、少なくとも、ある時期満開でしたでしょ。
で、次が、NHK大河ドラマの麒麟が来るでしょうか。
なんか仕込まれたかのように、麒麟一色。
アサヒがへそを曲げるんではないか、という感じでした。
で、ここにきて新コロナ。
ま、しばらくは沈静化はなさそうですね。
いずれにしても、瞬間的であれ、多少に期間があったものであれ、
マスコミそのものが付和雷同のスパイラルにはまり込んでしますよね。
お互いが出した情報を勝ち誇るように、継続させる。
あたかもエコーチャンバーで、余韻を作り出しているようです。
改めて、人間て、こんなに同類項を持ちたがる生物なんだ、と思いました。
同じ傘の下にいることが安心なんですね。
要は、群れで暮らしているんですから無理からぬことだとは思いますが、
どこか共通項目を共有している実感が欲しいのでしょうね。
この性格を隣百姓と言います。
これは、日本人の気質を作り上げてきた、一つの習性なんですが、
お隣さんのやり方を受け入れ、まねて、ある種の同一化を計らおうとするものです。
隣のお百姓は、農業技術に優れ、豊かな経験と知恵を持っているとします。
その優秀なお隣さんが、そろそろ種をまくか、と動きはじめたら、
それを見て、じゃあうちも種を蒔こうか、となるんですね。
稲を刈ろうとすれば、同じように稲を刈る。
要は、知恵のある百姓の行動をまねれば、
さほど間違いなく自分の田んぼにも適応できる、というわけです。
そこで、自分の判断ではなく、お隣さんの判断を受け入れるということです。
このような下地は、日本民族の基礎素養として受け継がれてきました。
ある意味独自性に欠けるものの、逆に協調性に関しては、有利に働きました。
ですからこの付和雷同的な本性が、良くもあり悪くもあるのですが、
このようなご時世で、情報の共有、発信が容易になって来ると、
これはこれで問題になってくるんですね。
協調性という側面が、なんかの拍子に負に働き、
憲法改正とか、他国との武力衝突とか、
あの、昭和初期の軍国国家へ傾注していったようなことに
しっかりと歯止めをかける知恵を習得しなければいけないですね。
一億なんとか、という危険は何時でも抱えているわですから。