水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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西行と義経
なんか、この騒然とした世情って、経験したことがありませんね。
質は違うかもしれんせんが、国家存亡の危機的な状況である、
いや大げさでなく、ほっとけばその可能性はあるわけでしょ。
少なくとも、一年間の日本国の一般会計の予算総額が、100兆円そこそこですから、
今回の経済対策としての財政出動108兆円、という規模は、
一年分の予算をそこにつぎ込むということでしょ。
そうせざるを得ないって、これはまさに国難、国家としての大問題である、
ということについては間違いないでしょ。
様々な行動は規制に近い自粛が要求されています。
戒厳令まではいかないまでも、それに近い感じですよね。

あの、太平洋戦争直前の社会も、
同様に国難が迫ってきているという実感があったと思うんですね。
欲しがりません勝つまでは、とかいって、あらゆる個人的私欲を満たすことが禁じられ、
様々な行動制限が出されました。
パーマ禁止令など、この象徴でしょ。
女性は当時はやりのパーマをかけてはいけない。
東京都では床屋さんの営業自粛を検討しているとか。
なんとなくこの雰囲気に似ていませんか。

さて、そんな中、じっと巣ごもりをしているわけですが、やはり、微妙にストレスが溜まりますね。
せっかくだから、この時間を有効に使おうか、と思っても、なかなかいい案が出てこない。
片付けも一日やると飽きてしまう。
結局、いい時間というのは、人との接点の中にある、と気が付いたんですね。

で、時間つぶしもあり、たまたまちょっと興味があって、源の義経について、
いろいろと調べてみたんです。
実は、ちょっとした仮説を持っていて、西行法師と義経は、
奥州平泉で会っていたんじゃないか、と思ったんですね。
いやあ、稀代の和歌の名手と時代の悲劇のヒーローが、
なんの縁か藤原氏のもとで会っているとしたら、
いったいどんな話が交わされたのか、と気になりますでしょ。

そもそも、源平の小競り合いで焼失した東大寺の大仏の再建のため、
時の仏教界の重鎮、重源は金が足りなくて、奥州藤原氏の所有する金に目を付けます。
そこで、奥州藤原氏と縁が深かった西行と会い藤原との交渉を依頼します。
西行68歳のころのことです。
まあ今どきでも十分高齢者。
それが、片道で1000キロもの旅をすることになるのです。
よく引き受けたなと思います。
時は、1186年のことです。
途中、西行は鎌倉に立ち寄ります。
おそらく理由は、そのころ守護地頭の制度が張り巡らせられていて、
旅をするにも、何かと関所を多く通らねばならず、余計なトラブルを避けるため、
頼朝から、一種の通行手形を得ようとしたのではないか、と思います。
もちろん、もともと西行は京ではそこそこの家筋の出身で、
和歌の詠み手としては超高名でしたし、
将来を嘱望されていたのにもかかわらず若くして出家してしまったのです。
頼朝にしてみれば、西行は平家方の人間ですが、
出家もしており、歌人として、また僧侶として敬意を持っていたのだと思います。
鎌倉まで有名人がやってきたので、それなりの扱いをしたわけです。

そのころ、義経はすでに多くの戦績を残し、平家を打ち破っていて、
これまた、武将としての実力を認められていました。
そして、朝廷から官位を授かります。
これが頼朝が気に食わなかったことだったのです。
頼朝は、朝廷に支配されることを良しとせず、
官位を与えられること自体その下に従属することになると、
嫌っていました。
それを義経が勝手に動いたといって怒りを持ちます。
その後、些細なことの行き違いがあり、頼朝は弟である、と言っても異母兄弟なのですが、
義経の討伐の命を下します。
で、同時に全国に守護地頭制度(今でいう警察暑のようなもの)を設置し、
義経の逃亡を発見できるようにします。
ところが、義経はこの監視網をかいくぐり、縁があった平泉の藤原のところに逃げ込むんですね。

で、私はその年代から推測して、西行が平泉についた時、そこに義経がいたんじゃないか、と。
どんな話をしたかは推測できませんが、なんか、西行と義経の縁を感じるんですね。
ものの本によれば、西行が出家して最初に身を寄せたところが京の鞍馬です。
義経が幼少期に身を預けたのは鞍馬寺で、これは西行が口利きをしたとされています。
義経はそのころ幼名を牛若丸と名乗っていて、少年のころは、父親が平家に殺されたということで、
その恨みを晴らさんと武芸に励んでいたそうです。
で、15才のころ、平泉の藤原のもとに身を寄せることになります。
これも、西行の口利きと言われています。
ですから、西行は、ことのほか義経の身の上を案じていたはずであろうと思うんですね。

常識的に考えれば、義経逃避行の行く先は平泉であろうと推察できます。
重源から、平泉まで行って金の調達をしてほしいといわれ、
それを引き受けた背景に、義経の身を案じていたこともあるのではないか、と思うんですね。
平泉で義経に再会し、その後のことの相談でも乗ろうか、と。
 
微妙に時系列がずれるんですが、どうもやはり会ったらしいということが見えてきたのです。
まあ、ひまですから、こんなことを調べていました。
で、その中で分かったことですが、そのころの戦のやり方ですね。
例えば、川を挟んで両軍相対峙する。
で、ある軍勢(地方武士たちの集合体でしたから)が切り込んだり、引いたりと小競り合いが
あちらこちらであるわけです。
総攻撃のような全軍がガブリ四つに組み合うなんて状態はほとんどない。
で、押し引きをしているうちに、時間は過ぎ、日も暮れかかってくる。
すると、どちらからともなく、今日はこの辺でおわりにしよう、と言って自陣に引き上げるんだそうです。
妙な風習でしょ。
なんかしきたりのように、ある意味正々堂々たる向かい合いをするわけですね。
で、自陣で夕飯を食べて、寝て、明日に備える。
日が昇ると、ぼちぼち再開するか、といった感じだったんですね。
したがって、夜討ち朝駆けという奇襲はご法度だった。
禁じ手と言えばいいでしょうか。
しかし、義経はこの禁じ手で勝ってきたわけでしょ。
ですから、おそらく当時の平家方にしてみれば、きたないやつだ、と思っていたと思うんですね。
とはいえですよ、負けて命を落としてしまえばそれまでなんですから、
四の五の言っていたってしょうがない。
以来、戦のやり方はだいぶ変わってしまったようです。

ある意味、戦いと言えルールを尊重していた時代があったんだということです。
| 水嶋かずあき | - | 14:01 | comments(0) | - | - | - |









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