水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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家康が平塚に残したもの
来月のSCNクラブによる、市民クラブTV枠の番組制作に私は携わっています。
番組タイトルは「平塚と家康の縁」ということで、
かの征夷大将軍徳川家康公が何かと平塚に縁があって、
その史跡を中心に、番組を構成しようという企画です。
ちなみに放映は、ケーブルテレビ2チャンネル、期間は7月1日から31日まで。
時間は朝8時半、夕方5時半の2回。
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まずはこの類のテーマは下調べから始まります。
ですから、コロナ自粛期間中はなんだかんだと家康自身のこと、
また、戦国時代のそれぞれの武将の様々な動きを調べていました。
しかし、どうも歴史ものは、不正確な記録しか残っていなくて、
時に、ウソかホントか、と疑念の残る文書も出てくるわけです。
でもまあ、何百年とそれなりに歴史研究家が、あらん限りの資料を基に、
分析・解説をしているので、それを駆け出しの素人が、あれこれ言うのは遠慮すべきである、
ということは十分に承知しています。
ですが、基本的には「諸説あり」ということが前提です。
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そして、番組構成にあたって、博物館の学芸員である早田旅人さんにご指導いただきました。
旅人(旅人)なんて素敵な名前でしょ。
さすがに、きちんと整理されていて、家康と平塚の縁というのがよく分かりました。
したがって、これからの話はその受け売りだと思ってください。
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まず筆頭に挙げるべき縁は、中原御殿ですね。
私は、平塚生まれの平塚育ちなんですが、中原御殿がかつて家康が鷹狩の際の休憩所的な目的で、
造営したもの、と理解していました。
ですから分かったような顔をして、まあ、一種の別荘ですよね、とか言っていたのです。
しかし、どうもこれは大間違いでした。
小田原攻めが一段落すると、早速に秀吉から領地変えを命ぜられます。
それまでの、三河・駿府など東海地方105万石から、関東一円の江戸への移封(いほう)です。
秀吉は、関東は240万石だ、ぐらいのことは言ったそうです。
石高そのものでは、かなりの増収になるのですが、
何しろし住み慣れた故郷を捨てなければいけない。
でも、少しは増碌になる、と思ってうんと言ったんでしょうね。
まあ、面白い話で、当時の年貢は五分五分だったのだそうです。
お百姓の取り分五で、年貢として上納する分が、五分。
ところが関東は六分四分だったんですね。
100入る予定が2割少なくなる。
まあ、仕方ないですね、そういう仕来たりだったようです。
ともかく、そういう事情で江戸城を居城にすることになったのですが、
まだまだ戦乱の状態は、終結したわけではありません。
ですから、関東一円と言えば広いですし、
何より領地の西の小田原から江戸まで、中間に外敵から防御する砦一つなかったんですね。
そこで、以前に鷹狩にも来たことのある平塚の中原に白羽の矢を立て、
味方によっては一つの砦、平城を作ることにしたのです。
ですから、御殿の敷地の周囲には10メートルほどの堀が張り巡らせてあったそうです。
もうこうなると完全に戦略的意味を持つんですね。
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考えてみれば、様々な変遷の中で、ちょっとした理由で、味方は敵になり、
いつどんな状態で寝首を掻れるかもしれない。
戦国時代という、過酷な生き残りをかけた争いに勝ち残ってきたわけですから、
見た目平穏な情勢であったにしても、いつどんな変化があるか分からない。
ちょっとした油断で命を落としてきた武将を数多く見てきたはずです。
ですから、相当に用心深かったはずです。
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中原選択の理由は、きっとこの鷹狩で何回か来たことがある、
という土地へのなじみがあったんでしょうね。
たまたま、前年、金目川が氾濫し辺り一帯が大水に浸かったこともあって、
少し高台に建物を構えようということで、周囲より高かった中原が選ばれたようです。
また、脇街道としてですが、江戸城の虎ノ門から、一直線の街道が整備されていた、
というのも、選択の理由だったようです。
そして何より、富士の雄姿が見えたということです。
家康は幼少のころから、今の静岡で、暮らしてきましたから、
富士山はまさに精神的なランドマークだったろうと思うのです。
ですから、どうせなら富士がよく見えるということは望ましい条件だったんですね。
ちなみに、中原御殿から富士山頂までは50キロの距離。
今は建物が邪魔してその姿は見えませんが、
当時はまあまあの大きさで見えたはずです。
ですから、ちょっとしたやすらぎの時を得ることができたはずですし、
その意味では別荘と言ってもよかったんでしょうね。
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正に多目的御殿です。
軍事的な要塞の機能、鷹狩の休憩所的機能、
さらに江戸と駿府、また京など遠出でするときの宿泊の機能、のんびりできる別荘など、
正に、中原御殿は家康にとって、有用な拠点の一つだったわけです。
家康は、この御殿が海から丸見えである、という理由で、周囲にお林を作りました。
まずは御殿を囲む松林です。
これは目隠し的な意味と、戦略的に侵入をしずらくするためのものと言われています。
で、そのほか、中原から東、さらに南に、多くの松林を植林したのだそうです。
その面積は(正確に分かりませんが)少なくとも今の総合公園はその跡地の一角である、
といういことですので、なかなかの面積だったようです。
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家康との縁で、私たちはまさに昭和の城とも言うべき総合公園を利用しているわけですが、
中原周辺に行われた街づくり的ないわゆる土地の整備事業は、
正に先見の明があり、今の時代にもその影響があるということは、
なかなかの有益な史実ではないですか。
これは続編ありです。
| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 15:56 | comments(1) | - | - | - |
平塚を離れて50年。「中原御殿」久しぶりに懐かしい名前を耳にしました。地元の「金持ちの館」程度の知識でしたが、家康の御殿、また、軍事目的もあったとは大変勉強になりました。「中原街道」も興味ありますね。平塚に「松林」が多いことも納得出来ました。コロナ、政治・・・。暗いニュースの中で良いお話ですね。
| もっちゃん | 2020/06/19 10:06 AM |









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