水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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中原街道

この平塚には、ほとんど痕跡が残っていないのですが、
中原街道という道が、通っていました。
これは、江戸時代になって、東西の主要街道として東海道が整備されますが、
それまで、江戸の脇街道として、中原街道が重要な役割を果たしていました。
この街道は、江戸城の虎ノ門から、ほぼ一直線で中原御殿まで通っている道で、
その道筋は、江戸城前を出立すると、今の品川を通り、洗足、丸子で多摩川を渡り、
川崎の中原区、用田、寒川を経て田村の渡しを渡ります。
そして、中原御殿まで、ほぼ一直線の道筋でした。
その総延長60キロメートル。
この道筋は、今でも残っているところが多いのですが、
平塚に入ると、区画整備のためか、ほとんど残っていません。
とくに御殿近くは、かぎ型に曲がる道が多く、区画整理とともに、まっすぐな道に変わってゆき、
往時の面影はほとんど残っていません。
.
そのころの地図で比較してみると、
東海道は日本橋を起点として、横浜に入り込み、藤沢あたりから海沿いに近づきますが、
これを弓とみなすなら、弦のような位置づけで中原街道があったわけです。

ちなみに、日本橋から平塚の宿までおよそ63キロ、虎ノ門から中原御殿まで60キロです。

まあ直線的ですからその分距離も短かったのですが、
家康が西に向かう時は、この中原街道が多用されたようです。
東海道が整備されたものの、海からの攻撃には弱いと判断されていたようですね。
家康の用心深さが表れています。
.
生活道路的な位置づけが強く、東海道はしばしば大名行列などが通るので、
庶民からは嫌われていたようです。
むしろ江戸に届ける物資の主要な輸送路として利用されたいたようで、
平塚の中原から、成瀬酢という酢が、江戸城に献上されていたのですが、

これもこの中原街道を通りました。
したがって当時はお酢街道などと呼ばれていたようです。
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この成瀬酢というのは、家康が中原御殿に滞在しているとき、
時の代官の成瀬何某が、この地でおいしい酢を作るものがいます一度ご賞味ください、と
食事の時に供したところ、家康はこの酢の味をえらく褒めて、以後城まで献上するように、と命じます。
酢の製造者は、御殿の近隣に住む佐藤何某という人なんですが、
取り計らったのが成瀬何某だったので、成瀬酢と言われるようになったそうです。
これは大きな土甕に入れられ、運搬したのですが、

この土甕の一つが、平塚市博物館に展示されています。
結構大きなもので、見た目ですが、楽に一斗は入るものと思われます。
かつて、お酢街道と呼ばれた背景は、中原の佐藤さんが作ったお酢がその大本なんです。
考えてみればなかなかのことですよね。
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この佐藤さんちの近くに、中原街道一里塚跡と言う銘板が建てられていますが、
ということは、ここは基点から一里目にあたる、と考えるべきでしょ。
では、本来の中原街道のゼロメートル地点はどこか、ということなんですが、
諸説ある中で、どうも大磯の化粧坂辺りらしい、ということです。
ちなみに、そうだとすると、化粧坂から、ほぼ4キロ弱なので、まあ、一里ということかな、と思えますね。
すると、虎ノ門から化粧坂まで一直線になるので、その街道に沿って、中原御殿があったということになります。
まあ、当時としては、中原の俺んちの門の前から江戸の城の門の前までの専用道路だ、

ぐらいの感覚があったんでしょうね。
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ともかく間違いないことですが、中原街道の中原というのは平塚の地名で、
これから採られたものです。
江戸五街道という街道の整備が家康によって行われました。
今でいう新幹線の整備みたいなものです。
五つの街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道なんですが、
街道名としては、広範囲の地域地名が冠せられます。
しかし、これはまだまだ一つの集落に過ぎなかった中原が、
その街道名になったということは、実にすごいことなんですね。
そもそもが、この街道は相州街道とか、江戸間道、小杉道、お酢街道

中にはこやし街道などと呼ばれていましたが、
その中にあって結局、伝え残ったのが中原街道です。

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この中原街道は、いまだに多くの地域にその原型が残っていますが、
川崎では、区の名前として、中原区というのがあります。
ここに中原街道が通っていた、というのが命名の根拠だそうです。
つまり、中原区の大本は平塚の中原、ということなんですね。
この川崎の中原ですが、明治のころ周辺の村落が合併して新しい村を形成します。
この時、新村名が中原村で、中原街道沿いの村落であったというのが大きな理由です。
その後、さらに近隣の合併が進み、中原町と命名しますが、
一度これは消えたものの、川崎の区政が敷かれたため、中原区として復活します。
まあ、だからなんだということですが、これは平塚の中原が起点になっているわけですね

.

こうしてみると、とかく東海道という表街道が平塚の南部を通っているため、

そちらに視点が行きがちですが、歴史的な位置づけとしては、中原街道も意味を持っていたんです。

田村の渡しも、中原街道の渡し場所だったわけですから、

もう一度、少し北に視点を移して、このまちを眺めてみましょう。

 

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 09:59 | comments(0) | - | - | - |









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