水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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家康弁当
家康シリーズ第3弾です。
これは、SCNで7月に放映を予定している平塚と家康の縁、という
SCNクラブの作品の中で、家康の好物をまとめた「家康弁当」というものが紹介されます。
その弁当煮詰められる9品目の献立を調理するシーンがあるのですが、
このシーンにかぶせて流されるナレーションです。
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‖笋療靴廚
家康は75歳で亡くなります。当時としては長生きでした。
その家康の死因がいろいろ取りざたされましたが、一説で鯛の天ぷらの食べ過ぎ、という説があります。
しかし、どう考えても、食べすぎで命を落とすというのは考えられません。
これは、医学的知識が不十分だった時代の、ある種の噂ばなしに近いものだと思います。
ま、いずれにしてもそんな話が出るほど家康の好物だったようで、
家康の好物と言えば必ず登場するのがタイの天ぷらで、当時は天ぷらと言わず付け揚げと言っていました。
今回は、タイの天ぷらの味付けはどうするかなんですが、抹茶塩を添えることにしました。
鎌倉時代、臨済宗の僧、円爾(えんに)が修行を終え、
中国の宋から持ち帰ったお茶の実が初めて植えられたのが、今の静岡市です。
きっと家康も、地元の特産品であるお茶を楽しんだと思われます。
その茶葉の抹茶と塩を合わせたものが抹茶塩です。
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鴨とねぎの串焼き
鷹狩が大好きだった家康です。
子供のころ今川義元の人質となっていましたが、暮らしている屋敷の庭で、しばしば鷹を飛ばしては楽しんでいたようです。
ある時、鷹が、隣の家の今川の家臣、孕石家の庭に飛び込んでしまい、そこの主より、大目玉を食います。
のちに合戦の敵方で家康軍の捕えられた敵武将の一人にこの孕石がいたのですが、
子供のころしばしば怒られた恨みもあってか、即座に打ち首にしてしまったそうです。
鷹狩を好んだのは、ある種の健康管理で、適度な運動を伴うこともあって、
趣味と実益を兼ねたのが、鷹狩だったようです。
当時、鷹狩というのは、主に水鳥が獲物の対象でした。
中原の一帯は、湿地も多く、カモ類が多く飛来したと思われます。
その獲物を食べるとしたら、こんな風に料理したのではないか、というのが、鴨とねぎの串焼きです。
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0海凌櫃諒
中原に詰めていた成瀬という代官がいました。
ある時、家康が中原御殿に逗留し、その食事の時に、
地元で作られたお酢がたいそう美味なのできっと気に入ってもらえるだろうと、これを使った料理を出します。
家康はこの酢をたいそう褒め、江戸城に献上するように申し付けます。
そして、以来、大きな土甕に入れたお酢を江戸まで運ぶことになったのですが、
このお酢が通った道が中原街道で、そのため、当時、お酢街道と言われていました。
そしてこのお酢を家康に提供した成瀬の名をとって、成瀬酢と呼ばれていたそうです。
家康が食した酢の料理がなんであるか記録はありませんが、相模湾でいつも取れていた魚と言えば当時から鯵が代表的です。
そこで今回は、鯵を酢締めし、うちキュウリを添えた鯵の酢の物を一品に付け加えました。
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げ愡劼糧丁みそ炒め
一富士・二鷹・三茄子、と言ってめでたいもののたとえによく使われますが、これは実は家康の好きなものベスト3なのですね。
三保の松原のあたりに折戸という集落があり、ここで作られていたのが、丸い小茄子の折戸ナス。
家康は、ふるさとの名産ということもあって、この折戸ナスを殊の外好んでいたようで、
定期的に江戸城に献上させていました。
今でも、当時の原種に近いものを折戸ナスとして栽培しています。
この家康の好物の茄子の料理なのですが、茄子は特に何でも応用の利く重宝な食材です。
そこで、これも家康のおひざ元である岡崎の名産品、八丁味噌と併せた、茄子のみそ炒めとしました。
八丁味噌は、調味料として使われただけでなく、合戦の時の必携の食材で、
あちらこちらで戦をする何万という兵の活力を養い、栄養補給にはなくてはならないものでした。
家康の天下取りを支えた食材、と言っても過言ではありません。
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Δ箸蹐軆
駿河湾で獲れる甘鯛を興津鯛と呼んでいましたが、この干物を家康はよく食べていたそうです。
この時、必ずと言っていいほど、添えらせたものがとろろ汁です。
そのころのことですから、山際の林を分け入って、掘り出した自然薯を摺ってだしでからませたものだと思われますが、
記録によりますと、このだしは必ず甘鯛からとったものだったそうです。
特に家康は麦飯を常食としていたので、麦飯と、とろろという組み合わせは、理にかなった献立だったのですね。
広重による東海道53次鞠子宿(まりこじゅ)の浮世絵でもとろろ汁の看板を大書きした構図になっていますが、
この鞠子の宿というのは、今の藤枝あたり。
間違いなく、駿河の名物の一つであったようです。
今回は、弁当形式ですので、いくらか濃いめの仕立てとなっています。
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О鵑叛蜊の佃煮
本能寺の変が起きた当時、家康は堺見物を楽しんでいました。
そこへ明智光秀の謀反により信長が切腹したという報せが届きます。
同盟関係にあった家康は動転し、追い腹を切るとまで言った様ですが、
服部半蔵らにいさめられて、まずは岡崎城まで戻ることにしたのです。
ところが淀川を渡るのに、その手段がない。
困っている家康らに舟を出したのが、堺の佃村の漁師たちでした。
彼らは、川を渡るのを手助けしただけでなく、帰り道の足しになるように、と小魚の煮物を手渡します。
川を渡った家康の一行は、伊賀の山中を超えて無事城に戻りますが、
この時の恩を家康は忘れず、のちに江戸に幕府を開いたときに、この時の漁師たちを江戸に移住させ、江戸湾の漁業権を与えます。
彼らは江戸の新天地を佃島と名付け、漁業のかたわら、伝統の小魚の料理を売り、これが佃煮として名物になってゆきます。
今回は、駿河湾でもよく取れたイワシと、浜名湖の名産だった浅蜊の佃煮にいたしました。
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漬物 奈良漬/覚弥和え
奈良漬けは、江戸に集う各藩のものに、おいしい食べ物だからと作ることを推奨し、
その結果、北は秋田から茨城、兵庫、奈良など、全国で作られるようになりました。まさに家康一押しの漬物です。
もう一点、覺彌和えです。
これは、家康が晩年、歯が悪くなったので、刻んだものを好むようになり、ある時出されたのが、たくあんを刻んで薬味などと和えたもの。
これを食べると家康は、「今日の料理当番は誰だ」と尋ねます。控えていたものが、
「岩下覺彌(かくや)でございます」と答えます。すると、家康は、この漬物の調理法を誉め、
「以後は覺彌に刻ませい」と命じたそうです。
以来、たくあんを刻んで和えたものをかくやあえ、というようになりました。
この表現は、今でも、所によって、おかくあえといわれ、その調理法が伝承されています。
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┯淕楮ぜ寿司
混ぜ寿司、今でいう五目寿司のことです。
そもそもは、家康が三河時代によく食べていたものを駿河に伝えたものである、とされています。
おそらくどこででもとれたであろう根菜類を炊き、これを酢飯に混ぜたのだと思われます。
五目の中身としては、牛蒡、人参、大豆、ひじき、ハスなどで五目の具を作りました。
先ほど出てきた成瀬酢が、ここでは活用したかったので、あえて酢のご飯にしました。
このまぜ寿司は、今でも静岡ではご当地グルメ的に食べられています。
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麦飯
家康は、そもそも健康オタクと言われていますが、それは食生活を見ると、
決して贅沢することなく、体にいいものをとっていることがよくわかります。
その基本となるのが、この麦飯。
夏場は食料が少なくなることもあって家康の食事は麦飯だったようです。
ある時、それを気にかけた家臣が、膳に白米を出しました。
すると、家康は、「主から進んで倹約すれば、いくらかでも戦費に回せるし、百姓を労わることにもなろう」と言ったそうです。
庶民の生活を思う心は後に天下統一を成し遂げた統率力を生んだと言われています。
家康自身が実践する質素ながらも体に良い食生活を家来達にも推奨していたということもあり、
経済と健康の二つをかなえようということのようでした。
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とまあ、家康弁当の内容の紹介なんですが、
ではこれをいつどのように食べられるか、なんですが、
平塚の観光協会が「家康の史跡めぐり」を企画した時に出されると思います。
暫く、お待ちください。
| 水嶋かずあき | グルメ | 06:10 | comments(0) | - | - | - |









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