水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
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一隅を照らそう
おおよそ、宗祖が登場し、その人生観・哲学観などを説き、
人としての生きざまを指導するようになると、
その周辺に、弟子たらんとする人々が集まってきます。
そしてその教えを布教し、広めてゆきます。
しかし、およそどんな宗祖も、自らが文字を書き、その言わんとするところを
文章にとどめるということはしませんでした。
聖書にしろ、仏教の経文にしろ、のちの弟子たち、さらにはその弟子たちがまとめたものです。
ですから、書き手の意思がどうしても混じってくるのです。
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時に、布教の折にあるたとえ話を思いつき、
それを口にしたところ、大いに人々は理解を深めた、とすると、
これが常套句になってゆくわけです。
キリスト教も、仏教も放蕩息子の話が出てきますが、
おそらく両方とも、弟子の創作ではないか、と思われます。
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つまり、後世で、様々な解釈が付け加えられるのです。
その布教を使命と感じたものにしては、何とか、あの手この手で理解を得たいと考えるわけですね。
お釈迦様は、弟子たちからこんな質問をたびたび受けたそうです。
人は死んだらどうなるのか、と。
お釈迦様は、この質問に対しては、一切答えなかった、と伝えられているんですね。
にもかかわらず、現在に伝わっている様々な宗派の教えの中には、極楽と地獄が出てくるでしょ。
これはキリスト教も同様です。
きっとイエス様は、人は死ぬと地獄か天国かどっちかに行くことになる、なんて言ってないと思うんですね。
そう思う最大の根拠ですが、宗教はもともと今をどう生きるか、ということを解いている哲学なんですね。
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先日、日本の天台宗の祖である最澄に関するNHKの番組を見ていました。
改めてものすごい人だったんだな、と再認識したのですが、
その中で、最澄が書いたとされる巻物が紹介されたのです。
で、その中に「照干一隅」字がアップになって登場します。
これは天台宗が、宗派のキャッチフレーズのように「一隅を照らそう」と言うことを掲げていますが、
その出典となったものです。
まあ意味としては、一人一人それは小さな光でも、何処かそれぞれのたとえ片隅であろうと、
照らすことによって、明るい世の中を作り出しましょう、といった意味があると思うんです。
まあ、素晴らしい考えじゃないですか。
で、その言葉の出どころですが、中国の天台の仏典の中に文言としてしたためられています。
いきさつとしては、中国、隋代にまとまられた仏教書、
10巻の智(ちぎ)の教説を弟子の灌頂(かんじょう)が筆録したものとされています。
俗に、摩訶止観と言われるものです。
まあその辺のいきさつはともかく、中国に渡った最澄はこの天台で学びました。
さらに、日本に帰ってきて、仏教布教のテキスト的なものを作り、
その中に登場するのが「照千一隅」という文字です。
で、一隅を照らそうという言葉の中で、この干もしくは千の文字がどこかに行ってしまっているんですね。
だって、一隅を照らそう、だけなら、照一隅、でいいわけでしょ。
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以前から私もこのことを疑問に思っていました。
いったいどういう解釈をしているんだろう、と。
調べてみると、干(干物の干)の本来の意味なんですが、
犯す、触れる、関係する、地位を求める、と言った動詞、
群れ、岸辺、乾物のほか、
形容詞として、
乾いている、空っぽである、中身がない、
副詞として、労せずして、無遠慮であるなどの意味があるのだそうです。
で、その解釈の上で、照干一隅を理解しようとしても、なんかピンときません。
私はテレビに映った文字をみて、どう見てもこれは「千」だろうと。
これは書道の専門家に鑑定してもらえば、一目瞭然です。
つまり「照干一隅」ではなく「照千一隅」としか読めないんですね。
干物の干ではなく数字の千なんです。
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そしてその意味は、
千隅を照らために一遇を照らすということで、
これなら、中国天台の教えにも沿うのです。
つまり、一隅を照らしなさい、では、時に視野が狭くなるでしょ。
何のためにの目的とか動機があいまいじゃないですか。
でも千隅となると、あちらこちらに光を照らすことになりますでしょ。
つまり目的としては、世の中全体をよりよくするために、あなた自身の力が必要なんです、
という解釈になりませんか。
本来はこれに近い言葉に要約すべきでしょ。
一体「干(干物)」の文字はどこに行ったんだ。
千(1000)の解釈をどうするんだ、ということですよね。
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比叡山というのは、一時は、政権の言動にあれこれ口をはさむまでに勢力を拡大しました。
最澄を慕って多くの修行僧が集まりました。
その中には、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などのそうそうたる名僧が輩出されています。
いわば、日本仏教のメッカみたいなものです。
そこが、どうして、一隅を照らそう、なのか疑問ですし、
多くの学者先生方が、間違いじゃないの、と言ってるにもかかわらず、
既成事実のように、勝手な解釈をキャッチフレーズにしている、という事情が理解できないのです。
なんか、修正してはいけない背景があるんでしょうか。
素直に、間違いは間違い、とみとめることも仏の道だと思うのですが。
| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:03 | comments(0) | - | - | - |









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