個体差に現れてくると言う事に気がついたのです。
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これは、すべての生物種に言えることで、そ
の環境の変化と言うのは、違いとは言い切れないほどのわずかなことでも、
地域の個性の差が大きく表れてきます。
例えば、コンゴ川流域に暮らすチンパンジーですが、
たまたまこの川を挟んで分れて棲息するようになった
チンパンジーにとっては亜種ともいえる近縁種に、ボノボと言う種がいます。
ちょっと見は、ほとんど変わらないのですが、
生物学的には別種として区分されています。
チンパンジーは、雄主導の群れを構成していますし、その分粗暴な行動をとります。
時に、共食いまですることもあるくらいです。
一方、ボノボは、メス主導の群れを構成し、
穏やかな性質を持ち、ほとんど争いのない生活をしています。
この二つの種は、一つの川を挟んで西と東に分かれて暮らし、
川が広く大きいので、渡ることができず、
そのまま個別に進化した結果、違う種となるまでの進化をし、
存在するようになったわけです。
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さて、われらが人類ですが、
およそ20万年前にアフリカの東で発生し、何万年かアフリカ大陸内を右往左往し、
10万年ほど前に、アフリカ大陸を出ると、世界の各地に散らばってゆきます。
まずは、中東を経て、西北に向かいヨーロッパを中心に暮らしの拠点を構えた者たち。
また、マンモスを追いながら、西北を目指し者たち。
また、インドを経由し、アジアに散っていった者たち。
さらには北から、アメリカ大陸に渡り、次にそこから南下し、
北アメリカ、南アメリカに生息域を広げた者たち、などなど。
ほぼ1万5千年前までに、地球のありとあらゆるところに進出します。
北の凍てつく大地に根を下ろしたものもいますし、
南の赤道直下の灼熱の地を選んだものもいて、
まさにそれぞれの環境は、天と地ほどの違いがあったのです。
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そこで、世代を繋ぎながら、何万年と地域の環境になじみながら暮らしてゆけば、
当然ですが、土地柄ともいうべき資質がDNAとして固定化されてゆきます。
ガラパゴスのフィンチのようにです。
見た目も変わってきますし、性格も異なる。
穏やかな気質の者たちもいれば、争いごとの絶えない連中もいる。
それを、民族としても気質の固定化することもあったわけです。
自立心の強い気質と、自立心の弱い気質では、当然生き方が変わってきます。
これは、まさに民族的な差と言えばそれまでなんですが、
たまたま、そういう歴史を作り上げ、その中から生まれた差異であるという事です。
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例えば、中国も朝鮮も日本も、おそらく世界から見れば、
同じ地域の同じ気質を持つアジア人とみなされるでしょ。
私たちアジア人から見れば、
イギリス人もフランス人もドイツ人もその違いが見た眼で分からないようなものです。
しかし、中国も朝鮮も日本も、どこか微妙に気質の違いがあるでしょ。
中国人の大声での会話だとか、公共性の欠如は、
ちょっとDNAとして刷り込まれているだけの問題だろうか、
と感じるほど違和感があります。
朝鮮人の恨みの強さ、感情の表現など、日本人とは異なる、と感じます。
ほぼ同じ地域なのに、この違いは、
まさに島ごとに異なる進化をしたフィンチのごときです。
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NHKのロシアの近代史のようなドキュメンタリーを見ました。
私たち日本人にとって、ここ100年ぐらいの中で、
あの国は驚くほど多くの国民を殺害してきました。
要因は、何回か繰り返された政治体制の変化の中で、
反対の位置にいるものの粛清とか、
近隣諸国との戦争の前線に、命と言う価値観もないまま多くの国民を戦場に送り出し、
死をも平然と受け止めてきたという、民族が持つ残忍さを感じました。
このような素地が前提で、この国を眺めてみると、
私たち日本人には不思議でならない、プーチン支持の8割越えと言う現象が、
わずかながら理解できるような気がします。
正にとっかえひっかえ、専横的な立場のものが登場し、
権力を肥大化させてゆく。
それによって、国民は彼らのなすがままにされても、余り疑問を持たない。
そして唯々諾々と強権の指導者を選択してゆく。
彼らには、自由より価値のあるものがあるのですね。
それがロシアのDNAなのです。
そう思うと、あの大統領選挙の結果が、さほど不思議と感じなくなります。
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ま、結論は日本人でよかった、という事でしょうか。
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いい値だろうと、高い材料を求め、
その分高い値段をもらえばいい、というのは腕に技術がないと私は思います。
アワビだ、トロだ、いくらだ、ウニだと、超豪華な食材を載せた海鮮丼だとして、
板前がやることは、切って載せるだけ。
この海鮮丼を作るのに、何の技術もないでしょ。
品物を見る目はあるのかもしれませんが、
それは漁師が獲って、仲買が運んでくるだけの話。
ある素材を美味しくしてあげるのが、
調理の精神であり、腕だと思うんですね。
これをただ素材の高さとか、店舗のしつらえなどの中から、
価格を高く上げていくというのは、
どこか、食材を冒涜しているような気がしてなりません。
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なぜか似たようなネタがネットに掲載されました。
方や8000円の海鮮丼でしたが、今回は3000円のラーメンということです。
会津喜多方ラーメンが3000円という価格で
超豪華なラーメンを売り出したことに賛否が寄せられているのです。
何が正しくて間違いかなどというのはこの場合問題ではありません。
3000円出しても食べるという人がいるのと、
3000円は高すぎるじゃないかと言う人がいる、それだけのことです。
反対する人は食べなきゃいいだけの話だし、
食べてみたいと思う人は3000円払えばいいだけのことです。
この賛否の中で、あるお笑いタレントが、
食べてもいないのに、高いと言って非難するな、と言ってましたが、
旨いまずいとか、値にあっているかなどの議論じゃないのです。
私のように、食べていませんが、3000円と言う価格に
なじめない、という事を考える人がいるはずで、
旨いまずいの話ではないのです。
私は食べません。
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以前、20代の半ばごろほんの数年ラーメン屋をやったことがありました。
あるボーリング場のテナントに入ったのですが、このボーリング場が倒産し廃業。
一緒になってうちのラーメン屋もこけてしまいました。
きわめて短い期間だったのですが、一応ラーメン屋のおやじをやったことがあるわけです。
ラーメンというものはそもそも大衆の食べ物だと思うんですね。
あのどんぶりの中に油の浮いた醤油のタレが入って、茹でられた麺が入れられて
上のトッピングにはチャーシュー・メンマ・ナルト・ほうれん草の茹でたものなど
いろいろ見た目の彩りを考え、口の中の変化を考え、
トッピングを載せて、最後に刻んだネギを入れる、
これがパターンです。
やりようによってでしょうが、そんなに原価のかかるものじゃありません。
ですから今でも本気になってこのレベルのラーメンを売ろうと思ったら、
500円前後の売値でなんとかなるでしょうね。
ですから、近頃その辺のラーメン屋さんで850円だとか900円、
時に1000円を超えるラーメンを売ってるのを見ると、
ちょっと高いなあと、正直言って思います。
おやじさんが調理し、かみさんに手伝ってもらいながらやってるラーメン屋さんは
こんなに高くはありません。
なぜ900円、1000円のラーメンが登場するのかというと
チェーン店として運営企業そのもの経費が乗り、
スタッフの人件費がのってくるからですね。
ですから、会津喜多方の3000円のラーメンというのは、
ちょっと度が過ぎるでしょう。
ちなみにネットで伝えられているその内容というのは、
スープは豚ベースのあっさりしょうゆ味にシジミのダシなど混ぜてある。
そして大きな会津牛のチャーシュー、ワンタンのトッピングに、
別添えの小鉢には会津牛のそぼろや地元産の春菊のおひたしなどが添えられる。
また、ラーメン丼と箸は会津地方の伝統工芸、会津塗りの漆器が使われる。
さらに、付けてある会津塗の箸がもらえるのだそうです。
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ここで提供されるサービスと内容については、
おそらく最上のものなのだと思います。
何しろ箸まで付いてくるっていうんですから。
でも、いくら会津塗の箸だろうと、欲しけりゃ別に買えばいい話でしょ。
むしろ、ラーメンについてきた割り箸を、
歯で噛んでパキッと割って食べるのも、
ラーメンの楽しむルーチンの一つだと思うんですね。
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ま、それにしても、ラーメンと言うものは、おいしいもの。
一日一食でもいいと思うのですが、
なんとなく、太りそうな気がして、ついつい敬遠してしまうんです。
どこもかしこも、3000円のラーメンだったら、
当然、食べるのを躊躇します。
メタボ防止にはいい話なんですけど。
]]>半月分ぐらいの食品になるかもしれないこのことをやはり知っておくことがとても大事です。
こうして、今食べたいものを食べることができる、
多少値が高くても食べることができるという立場になっていたとしたら
それはそれで自分の能力でそこまでたどり着いたのですから
傍もとやかく言うことではないかもしれませんが
どこか心の隅に一食食べることのありがたさというものを
噛み締めながら食事をして頂ければいいかなと思います。
いただきます、ごちそうさまのことばは食事の前後にする
単なるセレモニーではありません。
今日このように命をつなげていることができるというのは
食べ物のおかげなんです。
食材の命の代償なんだから、高ければいい、うまいければいいと、
俺はこんなに高いもの食ってもなんてこと無いんだ、
なんて言う傲慢な心を養うために
食材は命を捨てるわけじゃないんです。
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