その専門店まで開店したり、
コンビニの棚に置いてあるおにぎりの種類が増えてきたり、
何よりも高級なおにぎりが登場するようになりました。
所詮おにぎりというのはいわば軽食のひとつ。
そもそもが、小腹が空いた時に頬張るといった感じの雑な扱いを受けてきたものです。
.
歴史的な経緯で言えば、携帯食として日本の食文化の中では
主要な位置づけを持っていました。
何より、源平の頃から発生した節武士の戦場における食料としては、
この上なく重宝なものだったのです。
腹が減っては戦ができぬと言うように、戦場では、なくてはならぬ食料でした。
少し時代が下って戦国時代の頃は、兵糧としての重要な役割を持っていました。
戦が始まると兵士が集められます。
地域地域のまとめ役の親分がいて、基本的には普段農業に携わっていた人たちですが、
いざ合戦の時は声がかけられ招集されます。
で、土地の親分から徴兵令が出され、兵が集まってくるのですが、
この頃、一つの約束ごと、決まりごとがあって、徴兵を受けたものは、
その日と翌日、二日間に関しては自前で食料を用意するということになっていました。
これはきっと戦闘が始まる、まあいえば城に集まったりすることにから始まるのですが、
食料供給班がなかなか充分に稼働して
分配できないといったようなことがあったんでしょうね。
何しろ場合によっては万単位の兵士たちがいるわけですから、
それは大変な作業だったと思うのです。
.
そこでとりあえず2日間は自前の食料でしのいでくれと、依頼というか、
命令があったのだと思います。
で、3日目から殿様から配られた米が手元に回ってきます。
この時一人当たり一日6号の米というのが基準だったようで、
この米は、親分のもとに頭数分届けられたはずで、その先は、チームとして、調理班が、
炊き上げ、これを配ったのだと思います。
兵士一人一人が腰から飯盒のようなものを下げて、
その辺の枯れ枝を集めて飯を炊くなんてことは、とてもじゃないけど非合理的ですから。
で、この炊き上がった飯を粗熱が取れたところで塩でも振って、
握り飯にして何かの袋にでも入れて戦場で動き回ったのではないでしょうか。
時に炊いた飯を干し、糒(ほしいい)として布袋に詰め、腰から下げて、
戦闘のさなかでも、時々それを食べていたようです。
ま、いずれにしても、握り飯は当時の重要な食料でした。
.
さて、そんな馴染み深いおにぎりではありますが、
ここに来てのおにぎりブームはまさに再認識ということの延長で
おにぎりの美味しさが認められたのではないかと思うのです。
おにぎりの美味しさは言うまでもありませんが、
それは米の美味しさです。
このおいしい白飯とそこにわずかながら包み込まれたおかず
たらことかしゃけとか昆布の佃煮だとか、
そういったものとのバランスが取れて、評価が高まってきているわけです。
.
このおにぎりは私は美味しくて当然だと思っています。
一つは米の持つ力ですね。
例えば明治の中ごろから日本の食卓の上にカレーが登場しますが、
これが広まった背景にはライスカレーという食べ方があったからです。
つまりカレーのルーと具材、それにライスのもつ淡白ながら旨味のある米の味が
ミックスされて、また一段と旨味を増すような食べ物なのです。
カレーを食べる人がご飯だけ食べてまたカレーだけ食べてというのは、
見たことがありません。
だいたいご飯にカレーを混ぜて食べています。
このご飯に混ぜて食べると言う事によって新しく発生する味覚が、
なかなかのものなんです。
.
うな重なんかでもそうです。
ご飯の上に乗った蒲焼を食べ、タレのかかったご飯を食べ、
というふうにもし別々に食べると、
これはせっかくうな重が持つ旨味を半減した食べ方になってしまいます。
私流に言う、正しいうな重の食べ方は、蒲焼を箸で小さめに切り、
それに合う量の白飯と一緒に口の中で混ぜ合わせながら噛むというのが
美味しさをダイナミックに味わう方法なんです。
ですからうな重を食べるときは、箸で食べるよりもスプーンで食べたほうがおいしいです。.
.
ともかくこんな風に米というのは何かと一緒に混ぜ合わせて食べる、
ということによって二つの食材のコンビネーションの結果が、
より優れたものになるということになるんです。
まあ、これが正しい食べ方だと思ってください。
その意味で、おにぎりというのは最初から混ぜ合わせて食べるような構造になっています。
ですからその美味しさが再認識されたわけですが、
しごく当然の流れではないかと私は思っています。
.
よく人生最後の食事を何にするかという質問がありますが、
中には豪華な食べ物を人生最後の食事にしたいという人もいます。
A5ランクの神戸のステーキを食いたいとか、
伊勢海老の刺身を食いたいとか、
ウニイクラがたっぷり乗った海鮮丼を食べたいとか、
まあ、色々ありますが、
私はパリッと焼かれた有明かなんかのノリで包み、
ふっくら炊きあがった白飯、中には鮭がいいかしら、
そんなおにぎりを人生最後の食事にできたらと思います。
まあもっともしっかりと意識があって物を食べれる状態というのが前提ですけど。
]]>個体差に現れてくると言う事に気がついたのです。
.
これは、すべての生物種に言えることで、そ
の環境の変化と言うのは、違いとは言い切れないほどのわずかなことでも、
地域の個性の差が大きく表れてきます。
例えば、コンゴ川流域に暮らすチンパンジーですが、
たまたまこの川を挟んで分れて棲息するようになった
チンパンジーにとっては亜種ともいえる近縁種に、ボノボと言う種がいます。
ちょっと見は、ほとんど変わらないのですが、
生物学的には別種として区分されています。
チンパンジーは、雄主導の群れを構成していますし、その分粗暴な行動をとります。
時に、共食いまですることもあるくらいです。
一方、ボノボは、メス主導の群れを構成し、
穏やかな性質を持ち、ほとんど争いのない生活をしています。
この二つの種は、一つの川を挟んで西と東に分かれて暮らし、
川が広く大きいので、渡ることができず、
そのまま個別に進化した結果、違う種となるまでの進化をし、
存在するようになったわけです。
.
さて、われらが人類ですが、
およそ20万年前にアフリカの東で発生し、何万年かアフリカ大陸内を右往左往し、
10万年ほど前に、アフリカ大陸を出ると、世界の各地に散らばってゆきます。
まずは、中東を経て、西北に向かいヨーロッパを中心に暮らしの拠点を構えた者たち。
また、マンモスを追いながら、西北を目指し者たち。
また、インドを経由し、アジアに散っていった者たち。
さらには北から、アメリカ大陸に渡り、次にそこから南下し、
北アメリカ、南アメリカに生息域を広げた者たち、などなど。
ほぼ1万5千年前までに、地球のありとあらゆるところに進出します。
北の凍てつく大地に根を下ろしたものもいますし、
南の赤道直下の灼熱の地を選んだものもいて、
まさにそれぞれの環境は、天と地ほどの違いがあったのです。
.
そこで、世代を繋ぎながら、何万年と地域の環境になじみながら暮らしてゆけば、
当然ですが、土地柄ともいうべき資質がDNAとして固定化されてゆきます。
ガラパゴスのフィンチのようにです。
見た目も変わってきますし、性格も異なる。
穏やかな気質の者たちもいれば、争いごとの絶えない連中もいる。
それを、民族としても気質の固定化することもあったわけです。
自立心の強い気質と、自立心の弱い気質では、当然生き方が変わってきます。
これは、まさに民族的な差と言えばそれまでなんですが、
たまたま、そういう歴史を作り上げ、その中から生まれた差異であるという事です。
.
例えば、中国も朝鮮も日本も、おそらく世界から見れば、
同じ地域の同じ気質を持つアジア人とみなされるでしょ。
私たちアジア人から見れば、
イギリス人もフランス人もドイツ人もその違いが見た眼で分からないようなものです。
しかし、中国も朝鮮も日本も、どこか微妙に気質の違いがあるでしょ。
中国人の大声での会話だとか、公共性の欠如は、
ちょっとDNAとして刷り込まれているだけの問題だろうか、
と感じるほど違和感があります。
朝鮮人の恨みの強さ、感情の表現など、日本人とは異なる、と感じます。
ほぼ同じ地域なのに、この違いは、
まさに島ごとに異なる進化をしたフィンチのごときです。
.
NHKのロシアの近代史のようなドキュメンタリーを見ました。
私たち日本人にとって、ここ100年ぐらいの中で、
あの国は驚くほど多くの国民を殺害してきました。
要因は、何回か繰り返された政治体制の変化の中で、
反対の位置にいるものの粛清とか、
近隣諸国との戦争の前線に、命と言う価値観もないまま多くの国民を戦場に送り出し、
死をも平然と受け止めてきたという、民族が持つ残忍さを感じました。
このような素地が前提で、この国を眺めてみると、
私たち日本人には不思議でならない、プーチン支持の8割越えと言う現象が、
わずかながら理解できるような気がします。
正にとっかえひっかえ、専横的な立場のものが登場し、
権力を肥大化させてゆく。
それによって、国民は彼らのなすがままにされても、余り疑問を持たない。
そして唯々諾々と強権の指導者を選択してゆく。
彼らには、自由より価値のあるものがあるのですね。
それがロシアのDNAなのです。
そう思うと、あの大統領選挙の結果が、さほど不思議と感じなくなります。
.
ま、結論は日本人でよかった、という事でしょうか。
.
いい値だろうと、高い材料を求め、
その分高い値段をもらえばいい、というのは腕に技術がないと私は思います。
アワビだ、トロだ、いくらだ、ウニだと、超豪華な食材を載せた海鮮丼だとして、
板前がやることは、切って載せるだけ。
この海鮮丼を作るのに、何の技術もないでしょ。
品物を見る目はあるのかもしれませんが、
それは漁師が獲って、仲買が運んでくるだけの話。
ある素材を美味しくしてあげるのが、
調理の精神であり、腕だと思うんですね。
これをただ素材の高さとか、店舗のしつらえなどの中から、
価格を高く上げていくというのは、
どこか、食材を冒涜しているような気がしてなりません。
.
なぜか似たようなネタがネットに掲載されました。
方や8000円の海鮮丼でしたが、今回は3000円のラーメンということです。
会津喜多方ラーメンが3000円という価格で
超豪華なラーメンを売り出したことに賛否が寄せられているのです。
何が正しくて間違いかなどというのはこの場合問題ではありません。
3000円出しても食べるという人がいるのと、
3000円は高すぎるじゃないかと言う人がいる、それだけのことです。
反対する人は食べなきゃいいだけの話だし、
食べてみたいと思う人は3000円払えばいいだけのことです。
この賛否の中で、あるお笑いタレントが、
食べてもいないのに、高いと言って非難するな、と言ってましたが、
旨いまずいとか、値にあっているかなどの議論じゃないのです。
私のように、食べていませんが、3000円と言う価格に
なじめない、という事を考える人がいるはずで、
旨いまずいの話ではないのです。
私は食べません。
.
以前、20代の半ばごろほんの数年ラーメン屋をやったことがありました。
あるボーリング場のテナントに入ったのですが、このボーリング場が倒産し廃業。
一緒になってうちのラーメン屋もこけてしまいました。
きわめて短い期間だったのですが、一応ラーメン屋のおやじをやったことがあるわけです。
ラーメンというものはそもそも大衆の食べ物だと思うんですね。
あのどんぶりの中に油の浮いた醤油のタレが入って、茹でられた麺が入れられて
上のトッピングにはチャーシュー・メンマ・ナルト・ほうれん草の茹でたものなど
いろいろ見た目の彩りを考え、口の中の変化を考え、
トッピングを載せて、最後に刻んだネギを入れる、
これがパターンです。
やりようによってでしょうが、そんなに原価のかかるものじゃありません。
ですから今でも本気になってこのレベルのラーメンを売ろうと思ったら、
500円前後の売値でなんとかなるでしょうね。
ですから、近頃その辺のラーメン屋さんで850円だとか900円、
時に1000円を超えるラーメンを売ってるのを見ると、
ちょっと高いなあと、正直言って思います。
おやじさんが調理し、かみさんに手伝ってもらいながらやってるラーメン屋さんは
こんなに高くはありません。
なぜ900円、1000円のラーメンが登場するのかというと
チェーン店として運営企業そのもの経費が乗り、
スタッフの人件費がのってくるからですね。
ですから、会津喜多方の3000円のラーメンというのは、
ちょっと度が過ぎるでしょう。
ちなみにネットで伝えられているその内容というのは、
スープは豚ベースのあっさりしょうゆ味にシジミのダシなど混ぜてある。
そして大きな会津牛のチャーシュー、ワンタンのトッピングに、
別添えの小鉢には会津牛のそぼろや地元産の春菊のおひたしなどが添えられる。
また、ラーメン丼と箸は会津地方の伝統工芸、会津塗りの漆器が使われる。
さらに、付けてある会津塗の箸がもらえるのだそうです。
.
ここで提供されるサービスと内容については、
おそらく最上のものなのだと思います。
何しろ箸まで付いてくるっていうんですから。
でも、いくら会津塗の箸だろうと、欲しけりゃ別に買えばいい話でしょ。
むしろ、ラーメンについてきた割り箸を、
歯で噛んでパキッと割って食べるのも、
ラーメンの楽しむルーチンの一つだと思うんですね。
.
ま、それにしても、ラーメンと言うものは、おいしいもの。
一日一食でもいいと思うのですが、
なんとなく、太りそうな気がして、ついつい敬遠してしまうんです。
どこもかしこも、3000円のラーメンだったら、
当然、食べるのを躊躇します。
メタボ防止にはいい話なんですけど。
]]>半月分ぐらいの食品になるかもしれないこのことをやはり知っておくことがとても大事です。
こうして、今食べたいものを食べることができる、
多少値が高くても食べることができるという立場になっていたとしたら
それはそれで自分の能力でそこまでたどり着いたのですから
傍もとやかく言うことではないかもしれませんが
どこか心の隅に一食食べることのありがたさというものを
噛み締めながら食事をして頂ければいいかなと思います。
いただきます、ごちそうさまのことばは食事の前後にする
単なるセレモニーではありません。
今日このように命をつなげていることができるというのは
食べ物のおかげなんです。
食材の命の代償なんだから、高ければいい、うまいければいいと、
俺はこんなに高いもの食ってもなんてこと無いんだ、
なんて言う傲慢な心を養うために
食材は命を捨てるわけじゃないんです。
]]>
]]>
]]>
]]>
私、××××は下記理由により令和五年度の確定申告を忌避します。
その理由は、国家運営の根幹をなす国会議員が、事情があったとは言え
不明瞭な所得とその使途を明確にしないなどの、いわば汚職が行われていることが
判然としています。
この状況が明らかに改善されるまで、つまり、彼らが所得税を納入し、
延滞金も納入をするという一連の汚職事件の税法上の完結を以て、
私も令和5年度の確定申告をし、納税致します。
ここに延滞金がつくとしてもこれは受け入れます。
以上の理由により期日までの申告をいたしません。
令和6年度3月××日
氏名 ×× ×× 住所 ××市××町××番地
.
と言う申告はできないだろうか。
ここのところ毎日といっていいほど。
テレビの報道番組の中で、例の政治資金パーティーの問題から発し、
これに関わるさまざまな法的違反が疑われるような議論になっています。
私たちは法律的なことについてはさほど詳しくないのですが、
これはどう考えても多くの専門家が指摘しているように
政治家が黙って時間が過ぎ去るのを待っている、
という問題ではないような気がします。
.
正直言って、国民がバカにされていると思っている人は
90%を超えているようです。
まさにこれこそ国民の声なわけです。
岸田首相は就任する時にポケットから小さな手帳を取り出し、
色々これには書き込んであると、
私には聞く耳を持っている、と誇らしげに話していました。
が、90%を超える不満の声を聞き取ることはできないのでしょうか。
ここにきてその政権の運営は危ぶまれています。
まさに総選挙がいつあるのかというレベルまで問題は掘り下げられています。
しかし、ここでそのような政局的な動きのなかで
国民の不満を閉じ込められてしまっては、
今回の騒動の結末としてはあまりいい加減すぎます。
.
冒頭に示したような意見を紙に書き、
申告を受け付けている税務署の会場に出向き、
この紙を渡しながら、それではと言って引き返してくるという
まさに一庶民ができる最大限の抗議をしたらどうか、
と思っています。
もちろん、このような強硬な手段に反対する人もいるとは思いますが
では、それ以外にあの面の皮の厚くなった連中の良心を取り戻させる方法が
あるのでしょうか。
蛙の面にションベンとはよく言ったもので、
平気の平左でこの事態を受け流し、
何とか、とぼけとぼけでもやりすごしてしまおうという
魂胆があちらこちらに見受けられます。
数いる国会議員の中で、誰一人としてこの事態の責任を取ろうという
勇気ある行動を示す人はいません。
まあこれらは私が選んだ人たちですから、
私たちにも責任がないとは言えませんが、
でも問題を決断できる立場に居る人達が
率先してこのような汚職を手がけるとなると、
もはや私たち国民としては
このような手段しか取ることができないのではないでしょうか。
もちろんこれ以上に優れた手段があるのでしたら、
どんどん提案して、我々はそれに応じて政界の清浄化を促し、
私たちの行動の中で、改善を促す、ということが必要なのではないかと思います。
.
ちょっと過激でしょうか。
でもこのぐらいのことを言いたくなるほどの怒りを昨今は感じています。
さらには、一本一本の飾りの内容がさみしくなってきました。
豪華絢爛という印象が薄れてきたのは、かれこれ20年ぐらい前からです。
かつて滝口カバン店が素晴らしい竹飾りを掲出していました。
追っかけ平田人形店も、これに負けじとなかなかの飾りを掲出していました。
川万さんも一時は特選の常連でしたが、
ある時を境にふと掲出をやめてしまいました。
そして片野屋さんもこれに劣らぬ飾りを掲出していました。
梅屋さんもそうです。
それぞれ七夕の歴史の中で特選とか準特選を競い合うような
素晴らしい飾りを出していたお店が、
次々と様々な理由で掲出を辞めていってしまいました。
一言で言えばこれは商業の衰退とともに
七夕祭りも衰退して行っていると言って構わないと思います。
.
そもそもが昭和26年に第一回の七夕祭りが開催されて以来、
このイベントは、東海道筋の商店が商人の心意気の中で開催し、
競い合うように飾りに工夫し、豪華さを作り出して言ったのです。
つまり商業の隆盛のよって祭りを盛り上げてきたのです。
しかし、商店も代が変わったり、時代が変わったりしながら、
時代時代の景気の流れに流されて、
お店を閉じるところもあれば、新たに店舗を構えようとするが
代わりの商店に移り変わってゆきます。
そこに商業活動しようと入ってくる人たちの多くは、
地元と関係のない人たち多く、
祭りが持つ基本になる郷土愛とか、コミュニティ意識の希薄な人も混じります。
たがって、七夕飾りを出そうなんて気概に乏しいというのが現状ですね。
ですから、平塚商業の衰えと時を同じうしつつ、
七夕祭りも衰えを見せてきたのです。
.
最近は行政も何とかしようとばかり、対応をしてはいるものの、
笛吹けど踊らずに近いような状態が続いてます。
ここ数年で、さらに大きな転機を迎えるではないかと、
私は思っています。
.
一つは七夕祭りの基本はやはり竹飾りなんですから、
豪華で絢爛で優雅な飾りを掲出することが重要だと思うのですけれども、
ここのところが、主として市民飾りと言って
市民のグループ・団体によってつくられた飾りを掲出することに移りつつあります。
当然のことですが、彼らは、充分な資金を持っていません。
それとボランティアで作り上げますので、
製作に充分な時間をかけることができません。
そんなことから、どうしてもこじんまりとした飾りになってしまいます。
.
ここのところ打破しようと五年前に肉バル・マルコのオーナーである中川さんが
かつての豪華な飾りをもう一度掲出できないだろうか、と動き始めました。
この話を聞いて、私はそれに呼応して、製作することを手伝おうと申し出ました。
おかげさまでこのグループを平塚市飲食店有志の会と称して
各店から協賛金を拠出していただき、これを基礎に、
飾りの製作をしています。
おかげさまで掲出第1回目が準特選。
第2回目が特選、第3回目は準特選と言う結果を得ることができました。
そして、今年は特選を狙った製作を手掛け始めています。
.
これは極めて特殊な例ですが、ある程度人が集まって、
ある程度の資金を用意できれば、そこそこの飾りはできる、
と言う例の一つです。
ただ、最終的に大きな問題が一つあります。
それは七夕を作る技術と言うものがあるのかどうか、という事です。
これが、このまちの中で、システム的に行われてきませんでした。
普通は、竹に下がっている飾りを見上げるだけで、
その奥の事情までは考えないと思うのですが、
あの空中に下げる技術、風や雨にも耐える素材と作り方、
ただのデザインではなく、下から見上げることを前提にしたデザイン、
軽くしかし丈夫に作る素材の使い方など、
かなりの経験がないといけないんですね。
つまり、単に美的センスだけの問題ではありません。
力学的な知識や、作り方まで考えると、まさに総合の技術知識が必要になります。
この技術知識の伝承はきちんと行われていません。
それにはかつて、各商店で繋げてきた流れがない現状では、
トータルな視点で、製作技術の育成をシステムとして構築すべきです。
.
問題は日本が背負っている高齢化の問題をこの町でも同じように抱えているのです。
七夕の製作もこの流れの中にあります。
市民飾りを一昨年まで指導していた根岸さんも年齢を理由に第一線から身を引きました。
片野さんは七夕政策担当者の方が、高齢りリタイアーされたそうです。
かくいう、私もこの年80ですが、
今、作っている飾りをのレベルを落とすことなく
あと何年作れるのか正直自信がありません。
つまり高齢によってこういうある種の限定された技術知識というのは
失われていくのです。
.
岩手の黒石で蘇民祭という伝統的な行事が行われてきました。
この寒いさなか裸になって川の水を浴びたり、
さまざまな一連の展開があるのですが、
この蘇民祭は千年続いたという極めて伝統的な行事なんですが、
今年で終わるそうです。
最大の理由は高齢化による担い手がいなくなってきたということです。
これに類する地域に残されてきたさまざまな行事は、
高齢化ということが主な理由で衰退しくして行くだろうと考えられます。
七夕祭りもそのうちの一つになるのではないかと憂いております。
.
平塚と言う町が七夕祭りの将来について
選択べきことは二つ。
何とか、継承しようと本気になって対応するか、
あきらめて、いずれ終了するときが来る、と投げ出すか、
の二者択一です。
ときに病気になってしまうとなると
やはり近くにしっかりした病院がある所を選択し、
そこへ再度引っ越すという現象が起きたのです。
のんびりとした田舎ぐらしの構想も、住む人がいなくなったり、
空き家になったりと、尾羽打ち枯らした状態になっています。
つまり、人間社会の力学的な要素として人は人の集まるところに
集まるという原則が人の暮らしの中には存在しているのです。
.
私が過疎の研究を始めた頃、日本列島改造論といったものの影響を受け、
まず工業系の製造会社が地方に工場を建設し、
地方に分散するようになりました。
まあ、これは土地代とか、地元で得られる労働力とか、
様々なものの条件の中から、より効率的な経営成果が得られるという
判断があったのだと思いますが、
合わせて国も工業、製造業などの地方分散を促進する法整備をしたものです。
.
日本の国づくりの計画として、全国総合開発計画が定められ、
のちにその修正版として新全総と言われた第二次の全国総合開発計画が策定され、
さらには3次、4次とある一定の間隔の中で
国家計画としての方向性を示してきました。
ご記憶の方もおいでになると思いますが、4次総あたりから、
ただの経済基盤を地方に分散させるだけでなく、
地方の活用というものに重点を置き、例えばリゾートという名のもとに
地方の開発を進めた頃もありました。
言い換えると戦後経済が上向きになり、
それが安定した成長を伴うようになってくると、
どうしても人が中央に集まってしまう。
そこでこれをいかに分散するかということが大きな国策となっていたのです。
しかし、人間の根底にある人の集まるところに集まるという習性を
修正することはできませんでした。
大まかに言えばさまざまな開発計画はそのほとんどが
充分な成果を得ることができなかったと思うのです。
.
しかし、地方に力を分散するということは、
国家全体の大きな目的ですので、
その後もさまざまな策が示されました。
近年の一番近い政策として、ふるさと納税というシステムが提案されました。
これはヒトモノカネが中央に集まりがちなことを、
税金という対応方法で地方に分散させようという意図があったのです。
言い換えると、地方は財政不足で四苦八苦しているにも関わらず、
東京やその他の大都市はそれなりの黒字の自治体経営ができていたのです。
ここをバランス良くしようというのがこのふるさと納税の目的の一つです。
正直言ってこれは地方の努力、やる気が顕著に表れるもので
納税の返礼品に魅力あるものを揃えたり、工夫をしたところは
多くのふるさと納税を得ることができました。
まさにやればできるという、とてもいい例の一つだったと思います。
ですから、そもそも国として地方に中央の力を分散させる、
まあ、ここで言えば税金ですが、
この方策としては成功例の一つであると私は考えています。
つまり、このふるさと納税というのは、
地方に中央のエネルギーを分散するという観点から言えば、
少なくとも成功した例ですし、
何よりも東京が税収が少なくなったと嘆くのは、
まさにその成果の一つであると思います。
.
地方というのは景気が良くなったとしても、
その影響を受けるのは必ず時間が遅れてやってきます。
そして中央で景気が後退し始めるその瞬間に、
地方は同じように好景気の終焉となるわけです。
始まりは遅くても終わりは一緒なんです。
つまり、地方が中央の良い影響を受けることは少ない。
逆に言えば、その分、中央はいい思いをすることができていたわけです。
それが地方税の納税額が減ってきたとぼやくのは、地方から言わせれば
まだまだ贅沢な悩みだ、と。
それでもまだ私たちの地方の財政規模よりも
はるかに余裕のある自治体運営をしているんじゃないかと思われているわけです。
.
東京の税収が減ったとぼやく多くの区にとってみれば
なんとも面白くないふるさと納税というシステムでしょうが、
これは大元で言えばそのような地方にエネルギーを分散させるための
まさに国が何十年となく試みてきた一つのシステムとしての成果の表れである、
と捉えれば、大変だという愚痴の前に、
かつて、惨めな思いを味わってきた地方の苦しみを
考えるべきではないかと思います。
.
チコちゃんに叱られる風にまとめると、
「政治にお金がかかるのは、選挙にお金がかかるから」
]]>.
誰がどこで嗅ぎつけるのか、次々と新たな疑惑が浮上してきています。
二階元幹事長の3500万円という書籍代もそうですし、
松野前官房長官の辞任間際の4660万あまりの引き出しもそうです。
これなんかまさに盗人に追い銭みたいなものでしょ。
飛ぶ鳥大いに跡を濁すの典型ですね。
新しい譬えで、「松野のどさくさ紛れ」とかのたとえの表現が
登場するようになるかもしれません。
もう国民はこの程度のことでは驚かなくなってしまいました。
もっとあるに違いない、その氷山の一角だろうというのが
概ね、多くの人が共通で持っているこの政治的騒動の見方だと思います。
.
たとえに出したパンドラの箱というのは、
開けるなと言われたのに、パンドラが開けてしまったわけです。
しかし、今回の政治騒動の箱はどこかの大学教授をきっかけとし、
いわゆる、週刊誌を主とするメディアが開けたものです。
きっと政治家諸氏はこの箱は開けられることがないだろう、
もしくは、開けられたとしても大した問題にはならないだろう、
と高をくくっていたのではないかと思われます。
なぜなら、みんなやってるし、前々からやっていたから、
というわけのわからない言い訳が、その根底にあって、
いわば悪いことだという認識がなかったのではないか、という気がするんです。
そういう意味で改めて箱が開けられて、
次から次へと不都合な事実が露見してくる。
おそらく、こんな状況になるとは当初は誰も想像しなかったのではないでしょうか。
きっと今頃は予算審議あたりをのうのうとやってれば済むタイミングだったはずです。
野党からの追求、国民からの疑念、メディアの追いかけ報道など、
そんな追及を受け、恥じらうべき言い訳に終始するとは
きっと思っていなかったでしょう。
.
一言で言えば、汚職と言えるのかもしれませんが、
政治資金規正法とか、収支の正しい記帳の在り方とか、納税の義務とか、
法律の前になすべきことをなさなかった、
また、小手先の取り繕いはかえって批判を呼んでいます。
使い道はどうだったのか、などという追求に面と向かって答えられない人も多く、
職を失う人も居ましたし、立場を危うくする人もいました。
中には、有権者にお詫び、懺悔の行脚をするとまで言い出した議員もいました。
新聞紙上テレビの番組では具体的な名前が次々と表示され、
きっと、本人、その事務所のスタッフ、また地元の支援者などは
ヒヤヒヤしながらそういう報道を見てたのだと思います。
.
ここまで来たら、もう出すものを出し切った方が良いんじゃないでしょうか。
よく膿を出しきる、という言葉がありますが、
ここで思い切って政治の信頼を取り戻すために
最も重要な国民からの信頼を得るために、
膿を出し切るということが大事なんじゃないかと思います。
.
パンドラの箱もそうでした。
ありとあらゆる不幸や災難が箱から出てしまった後に、
パンドラはとんでもないことをしたと気づき、
箱のふたを閉めようとします。
すると中から、「開けてください。開けてください」
と声が聞こえます。
パンドラが耳を澄まし、あなたはだあれ?と聞き返します。
すると、その声はこう言います。
「私は、希望です。」と。
きっとこの政治騒動の膿が本当に出切った時に、
最後の最後に箱から出てくるのは希望だと思います。
ちょっと楽観的な見方かもしれませんが、
そういうことになることを心から期待しています。
]]>立派なメディアの一角をなしていると思うのです。
ですからいろいろと掲載してあればいいというものではなく、
それ相応の基準のもとに一つの理念を体現するものでなくてはいけない、
とわたくしは思うのです。
なぜならメディアの基本は社会正義だからです。
何でもかんでも自由に表現するということも、
やはりどこかで自己規制的な意識の中で、
載せるべきものと排除するものは分別されなければいけない。
何が基準でどういう内容なら掲載するのかというのは、
もう少し神経を使って編集すべきではないかと思います。
.
例えば、新聞なんかなんでもかんでも記事にはなっていません。
多少なりともある一つの方向性、理念、方針などがあって
それに沿ったものが載っていて、
そうでないものはきっとボツになっているのだと思うのですね。
確かに新聞などを限定された紙面から考えれば、
コンピューターの容量を考えると
無限に近いような記事を検索できるようにすることは可能だと思うのです。
でも、広い収納スペースの家は、余分なものを取っておくため、
結果として死蔵に近い状態を品作りだします。
まあ、言えば下世話な話も含めて、
確かに人は興味を引くかもしれませんが、
ただの興味だけで掲載をするのは売らんかなと言う
利益至上主義の民間企業が持っている姿勢とさして変わりがないでしょう。
先ほども言ったように、
もはやねネットの検索サイトはメディアなんですから。
もう少しチェックがあっていいのではないかという気がするのです。
.
4人のおばさまたちの話は誰もチェックをせず
思うがままに好き勝手なことを話し合った結果のものです。
それがストレス解消につながるのかどうかわかりませんが、
大きな笑い声を店内に響かせることになったわけです。
あの雑然とした空気は、最近ネットの検索サイトが持ち始めている
一つの空気感に似ていると思うのです。
もし、このまま自ら編集の方針を見直すことがないとしたら、
ネットの検索サイトの信頼と将来における立場は
失われていくのではないかと危惧をします。
.
実を言うと私は新聞を読むことができないのです。
理由はよくわかりませんが、あの小さい字を読むのはあまり好きじゃない。
そこでついついネットを開いてはサーフィンをしつつ、
さまざまな情報を集める癖があるのですが、
ここがいまいち内容を伴っていないのだとすると、
不便というか、不安というか、ちょっとまずいぞ、と思うのです。
これは大変残念なことだと思うので、
是非とも編集者と言う立場の人がいるなら
このことを心してもらいたいと切に願わずにはいられません。
]]>
この中で、最初に登場したのは古菌類。
ここを基礎にして、長い時間を経たのち、植物が登場します。
植物の特性は言うまでもないことですが
太陽からのエネルギーを受けて大地の栄養と水によって生命を維持し、
進化、繁殖をしてきました。
この地球の上で、地球外の太陽からエネルギーを得て、
生命活動をするという選択をしてきたのです。
よくよく考えてみれば、これはもの凄く画期的なことでした。
なぜなら、植物が登場していなければ、動物は存在しないからです。
つまり、今、私たちが地球の上で暮らしているという大原則は、
植物が登場したからなのです。
.
植物の登場の後に動物が登場します。
動物は、植物が太陽から得たエネルギーを生命体に蓄えていたので、
それをかすめ取って、自分たちのエネルギーにしようという魂胆で
登場しました。
いわば略奪・搾取の生命体です。
動物の基本的なエネルギー確保の方法は、
第一段階としては植物の所へ出向いて行き、
それを摂取するということによって成り立つようにしています。
やがて動物が動物をエネルギー源とするような、
いわば弱肉強食の世界が展開されるようになりますが、
基本は逃げない植物を食料とするために、
動物は植物のように、
太陽光からエネルギーを作り出すことができないわけですから、
エネルギーを蓄えている植物のところに、
自ら動いて、出向くという機能を身に付けたのです。
当たり前ですが、動物は動くことで生命を維持する生命体です。
そして、どこに向かって動くのかということに関しては、
自らが選択するしかないのですね。
その意味で、動物は動くという事が前提ですから、自由でなくてはいけないのです。
つまり、動物の本質は自由に動くというところにあるわけです。
.
人間は動物ですから自由に動けなくてはいけない。
これは動物なんですから、基本ですね。
したがって、人間の中には、
自由であるという事がDNAとして刻み込まれているのです。
しかし、長い歴史の中で人間は、必ずしも自由を得ていたわけではありません。
大半人々にとって、自由でないことの時代が長く続きます。
しかし、時代とともに、少しずつ自由を得られるようになってきました。
.
話は変わりますが、
日本の憲法では人が持っているべき自由というものを
いくつかの項目で表現しています。
思想・良心の自由(第19条)
信教の自由(第20条)
集会の自由、結社の自由、表現の自由、(第21条)
職業選択の自由、居住移転の自由、外国移住及び国籍離脱の自由(第22条)
このように、日本国憲法は国民の権利を守り、
国家権力を縛る役割を果たしています。
現代では、その自由、与えられた自由の領域が少しずつ広くなってきています。
.
とはいえ、何でも自由なのか、と言えば決してそうではありません。
最近のテレビでは政治資金の不手際による与党自民党と野党で、
熱い論戦が繰り広げられています。
このやりとりの中で、
岸田首相はしばしば政治の自由という言葉を使って
自分たちの政治活動がどのような内容であれ、
それは政治の自由という概念のもとに
とやかく言われる筋合いはないと言った論点で議論を収めようとしています。
しかし、いつ頃からどんな概念のもとに政治は自由であるということが
政治家および国民の間で認識されるようになったのでしょうか。
正直言ってさほど不思議ではない言葉ではありますが、
政治の自由っていったい何なんだと考えてみると
余り十分な認識を得ている言葉とは思えません。
.
ここでの与野党間の論戦で、
政治の自由という言葉を使って、その中に切り込むことができないような
バリアを作っているような気がします。
確かに憲法で保証されているように、
日本の国民はさまざまな観点で自由を保障されていているわけですから
国会議員も同じように
何らかの形で自由が保証されているだろうと思いますが。
それは政治家が個人として、日本国民の一人として、
この国の中で生きて行く上での自由であって
政治家に対して、政治の自由という概念に与えられたのは
いつどこで誰が与えたのかという気がするんですね。
.
そもそも自由というのは何らかの制約があったり
何らかの義務が前提になって、初めて与えられるものだと思うのです。
何の前提もなく義務もなく自由を主張することはできないというのが
自由の本質です。
なんでもかんでもあるがままの存在や、能力を自由だからと言って
認めていくと、本当の自由が失われていく可能性があります。
自由という一つの状況を犯す力も、これまた自由なのか。
これを認めざるを得ないのか。
やはり、これは間違いでしょう。
その意味で政治の自由というのはいったいどのような概念のもとに
どのような制約のもとに、どのような義務を前提として
成立するのでしょうか。
少なくとも昨今の政治の世界で行われている汚職に近い不始末の中身を
明らかにしようとしない政治の自由って何なんだ、と思いませんか。
正直、国民が受け入れられる政治の自由とは言い難いと思います。
本当にその場しのぎの勝手な言葉をよく口にするものですね。
その才能の豊かさには驚かざるを得ません。
]]>
メインディッシュ、まあハンバーグとしましょうか、
これにサラダが付いてスープがついて、あとはライスかパン
という組み合わせがよくあります。
で、この場合ライスかパンですから、ウェイトレスは
パンにしますかご飯にしますかと聞いてきます。
その時その時ですが、パンになったりご飯になったり
ということなんですけれど、
もそもそも欧米での食事において白いご飯というのは
基本的にはないわけですね。
出てくるとしても、米料理として付け合わせの一つという位置づけです。
ですから、白いご飯は、まさに日本独特のお米の食文化の一つだと思います。
.
で、この時ライスの食べ方ですが、日本のレストランでは
結構、普通に箸が付いてきます。
したがってその箸を使えばいいのですが、
ちょっと気取ったところだとナイフとフォークが出てきますね。
正直言って、日本人はなんだかんだナイフ・フォークの使いかたが
決して上手いわけではないですから、
ライスを食べるときのフォークの使い方にいろいろ意見があるようです。
フォークの背にご飯をのせて食べる場合と
右手でフォークを持ってすくいあげるようにご飯をのせて食べる場合があります。
このライスの食べ方の正式なマナーというのが時々議論されます。
.
私は基本的に食事というのは著しく周りに不快感を与えない限り
その人の流儀で食べていいものだと思います。
基本はいかに美味しく食べるかですから
そこのところでビビりながらナイフ・フォークでご飯を食べるというのも
無理することではないと思うんですね。
場の雰囲気にもよりますが、勇気を出して、
すいませんお箸くださいで構わないでしょ。
それもちょっと憚られる場合は、
食べやすいかたちで食べればいいじゃないですか。
こういうことにとやかく口を出してマナー云々する人たちというのは
美味しく食べるということが、優先していませんね。
.
私は大学生の頃は学校に行けば、ほぼ学食でランチを食べていました。
この時に、料理の出し口カウンターのところには
自分でお茶が注げるような装置があったり、
箸・ナイフ・フォークなどが並んでいたりします。
従ってなんで食べるかは勝手な話なんですね。
まして学食ですからチマチマしたマナーなどあまり気にしない。
要は腹一杯食べるという場所なんです。
でも、私は学食で食事をする時は
意図的に必ずナイフとフォークで食べるようにしました。
もちろん最初はぎくしゃくしていましたけれど、
毎日やってるとそれはそれで慣れるもので
最後の頃はかなり小器用にフォークの背にご飯を乗せて
流れるような動作で食べることができるようになりました。
.
しかし今どきの食事のマナーを語る先生方は、
フォークの背にライスをのせて食べるのはよろしくない、
といっています。
その理由は、周りがちゃんと食べれるかどうかハラハラするからだ、
ってくだらない理由なんですよね。
確かに慣れなければなんかギクシャクした動作になって、
周りも大丈夫かっていう不安を持つかもしれませんが
まあそれは勝手な話じゃないですか。
食事のマナーの先生方はフォークの腹に乗せろといっています。
もともとは述べたように白いご飯を皿に盛って
これを食べると言う作法そのものはなかったわけでしょ。
つまりコースの中に白いご飯は出てこないんですですから
西欧流の食事のマナーというのは、
日本で多少の変更アレンジがあってもまったく問題はないわけです。
腹に乗せるのが正しくて、背に載せるのはよくないというのは
議論をする必要もないくらい意味のないことではないことです。
.
先日もそばのを食べるときに音を立ててはいけない
みたいなことを言う人がいて
それは周囲に不快感を与えるからだというのが
主な理由でしたけれども、
実はおよそ90%の人がそのことを不快だと思っていないという事実が
アンケート調査ではっきりしたわけです。
このライスを背に乗せて食べるということに不快感を感じる人は
おそらくほとんどいないんじゃないかっていう気がしますね。
.
マナーとかルールとかっていうのは
その場の中で培われていくものです。
日本の食事の基本はやはり箸ですから
ここに異文化としてのナイフフォークの食べ方を云々すること自体、
穿ったものの考え方の一つとしか私には思えません。
.
一日でたった三食の食事の機会です。
おいしいものを食べるチャンスは少ないわけです。
だからこそ、いかに美味しく食べるかっていうことが、
大事なんじゃないかと思います。
]]>.
ぴんと来ない理由として、東京ドームってイメージは更地ではないでしょ。
上に建物が載っている。
余計理解しにくいですね。
よく、いつも通る道に面した家が取り壊されて更地になっている。
前はどんな家だったか、なんてこの間まで見ていたのに、
思い出せない、という事があるでしょ。
併せて、更地になった地面を見て、こんな狭いところに建っていたのか、
と驚くことがあります。
ですから、東京ドームを見て、このぐらいの敷地だろう、
なんてイメージすらわいてきません。
まして、東京ドームの敷地というのはどこからどこまでなのか
という事さえ分からないでしょ。
ですから、これを基準として面積を説明しようとしても、
ほとんど意味がないという事ですね。
.
以前、環境問題として、休耕地に付いて調べていたら、
全国の休耕地の総面積は、埼玉県の総面積に匹敵する、
と書かれていたのです。
すごい面積だ、とは思いましたが、ただ、すごい面積という以上に、
具体的に何もイメージがわかなかったのです。
もう一つ。
毎年、森林が乱伐によって地球の緑が失われ、その面積を縮小している。
その面積は、一年で、九州の面積に匹敵する、と書かれていました。
こりゃ大変だ、とは思いましたが、
九州の面積と言われても、 地図で形は思い浮かべられますが、
面積としての実感はかけらも得られなかったのです。
.
東京ドームはともかく、身近なものに関しては、
その尺度とか、度量に関する概念はしっかりと持っていた方がいいですね。
最近はそんな経験がありませんけれども
ある時期しきりに店舗を設計し、作った時期がありました。
その店舗の通路幅をどのくらいにするか、とか
テーブルのサイズをどのぐらいにするかとか
厨房に至ってはさまざまな器具を配置した上で
どのぐらいの作業通路が必要か、とかいろいろなことを想定しながら
図面を引いていくわけです。
高さで言えば背の高さ、私は身長が180でしたので(今は少し縮みました)
これを基準にすれば、いいですし、
さらには、ベルトの位置とか、ひざ下の数字とか、
色々なものを基準にしてこの場合何センチというふうな数字の概念を
体で覚えたものです。
例えば右の肘を張り左の手を精一杯伸ばす、
なんかお相撲の仕切りの時の姿のようですが、
この肘から指先までは135cmというふうに覚えていました。
客席の通路はできればこの135センチを基準にしました。
体でそのように理解しておくと便利でしょ。
その他に自分の指親指から中指まで精一杯伸ばした長さが約22cmなのです。
ですから指を精一杯広げて2回繰り返し、間に指一本入れれば、45センチ。
これは建築などの場合、結構基準になるサイズなんですね。
これは日常でも何か測るときにとても便利な方法で
ぜひ皆さんも自分体を基準にしたサイズを知っておくと、
とても便利です。
お勧めします。
.
重量とか容積なども大雑把には換算できる能力があった方がいいですね。
特に料理をするときには材料の量目をレシピの通りしようとすると、
だいたいの概念で数量も予測することもありますが、
それじゃあ、レシピを見た意味がない。
このレシピの持つ意味は、調味の部分です。
味付けですね。
ちなみに塩、醤油、砂糖、みりん、酒などだと、
だいたいが大匙一杯とか小さじに一杯とか書かれています。
この場合やはり指定のように、スプーンを使って作るのが望ましい
とは思いますが。
では大匙一杯というのはどのぐらいの容量なのかについては
結構雑に捉えていますが、
大匙一杯は15?というのが基準です。
小匙は5?。
一応はこれを基準にちょっと大目にするのか少なめにするのか
などというのはまさにその人の感覚ですが、
基準は基準としてしっかり押さえておく必要があると思います。
数字に出しにくものとして、特に、塩については
こんな表現になりがちです。
ひとつまみ、とか少々とかのことです。
ひとつまみ、これは親指人差し指中指の三本でお塩をつまんだ時の状態で
強いて言えば1.2gぐらいに相当します。
親指と人差し指二本でつまんだ塩の量を少々と言います。
これも微妙に分かりにくいものですね。
少々の量は0.55gぐらいと言われていますが、
もうこれから先はただの勘ですね。
.
料理の中で一番難しいと思うのは塩加減です。
ついつい味見をして薄いんじゃないかと思って
塩を足したりすると、却って、濃すぎてしまう。
この塩の扱いを御するのが料理の腕前と言えると思います。
塩というのはやっかいなもので調理をしたての時に味見をし、
これでいいと思っても、時間とともに塩辛さが出てくることがあります。
一時間経ったときの塩加減と
場合によっては翌日になっての塩加減というのは変わってきます。
ここのところを想定してすぐ食べるんだったら
多少塩気が強くてもかまいませんが
寝かしておいたり、時間をかけたのちに食べようとするんだったらば
塩加減は控えめにすることが肝心です。
昔から料理のコツは塩加減と言われてきました。
入れ過ぎれば不快感を感じさせてしまい、
足りなければ味そのものを感じないなんてこともあります。
まさに最後の決め手は塩加減ということでしょうね。
一つまみの1.2gが勝負なんです。
東京ドームの大きさに比べたら、小さい話ですね。
.
銃社会でしばしば集団的な殺人事件が起きるのがアメリカです。
アメリカでは一年間で2万数千人の人が殺人によって、死を迎えます。
そのうちの77%、およそ8割の人が銃で殺されています。
これは銃社会の弊害の端緒な例です。
このことはそれぞれの社会の文化にも反映されていて、
例えば、日本でも殺人事件を扱うようなドラマが多く作られていて、
警察とかどこかの捜査機関が主人公で、
そのチームが発生した殺人事件の犯人を追うというようなドラマですね。
いわゆるミステリー系のドラマですが、
これが結構頻繁に放送されています。
でも、よくよく見てみるとだいたい一つのドラマで一人が殺される
というのがほぼ定型になってるような気がするんですね。
その殺人の方法も、階段から突き落とすとか、首を絞めるとか、
ナイフで刺すとか、要は一対一の殺人です。
これに反して銃社会のアメリでは、映画にもそれが反映されていて、
殺人の大半が銃によるものです。
これは、1対1で行われる殺人より、容易に人が殺せるので、
一つのドラマで多くの殺人が展開されます。
いい例が、キアヌ・リーブスが主演するジョン・ウィックという映画では、
どう考えても百人ぐらいの人が殺されていますよね。
また、スティーブン・セガールが主演する映画で
沈黙のなんとかというシリーズものがありますが、
これでは、1話で大体4〜50人が殺されています。
銃という手段のほかに、
これはやはり人が死ぬということに対する重みが
希薄なのかのしれません。
これは、銃という殺人の道具がもたらす命の価値観の差、
と考えられないでしょうか。
.
比率や数の大小の違いはあっても
人が人を殺すという殺人の罪の意味は決して変わるものではありません。
逆に日本の文化の中における人の命に関する考えも結果として
殺人事件というのを引き起こすわけですから、
多い少ないということを抜きにしても、
何か心の根底に人の命を粗雑に扱うことがささやかながら
存在していると考えるべきでしょう。
特に殺人件数の多い国における人命に関する価値観というのは
やはり大きな問題で、こういうことの延長上に
どうも戦争ということが行われていくんじゃないかという気がしてなりません。
.
古今東西人間の歴史は、数はともかく、絶えず人が人を殺す
ということの歴史とともにあったような気がします。
平和というのは最低限人が人を殺すことをやめることが
基本にあるはずです。
しかし、人は絶えず争いをする。
その意味で人間のDNAに刻み込まれているんじゃないかと。
人が人を殺すと言う行動をどこかで
抑え込まないといけないのじゃないかと思うのです。
平和はまだまだ遠い気がします。
.
で、このことを受けてある機関が、
外国人のみを対象としたアンケート調査をしたのだそうです。
Does the Japanese custom of audibly slurping soba
and other noodles when eating them bother you?
(そばをすする音は不快ですか?)という設問。
回答は二択。
「Yes it does.(はい、不快です)」と
「No it doesn’t.(いいえ、不快ではありません)」
その結果ですが、不快と答えた人は11%
不快ではないと答えた人が89%という比率になりました。
要は、言われているほど、気にしていないという事です。
.
日本人の中にもやはり何パーセントかの人が
蕎麦を食べるときに音をたてて啜るのは、
品がないとか言って、嫌う人がいますが、
私に言わせれば、正しい蕎麦の食べ方を知らない、
と言わざるを得ないですね。
.
以前こんなテレビ番組を見たことがあります。
それは手打ち蕎麦屋のご主人の話です。
彼はそこそこに修行をし、自分が打ったそばは上等のものだ
という自負心を持っていました。
しかし、なかなかそのことをきちんと評価してくれる人も少なく
できれば蕎麦を食べる名人がいたとしたらその人と勝負をしたい
と思っていたのだそうです。
番組では、このご主人の意向を聞いて、
蕎麦を食べる名人、まあそういう人がいるのかどうかわかりませんが、
ともかく蕎麦喰いの名人を探し出してきて、
蕎麦打ち名人と蕎麦喰い名人の対決をしてもらうことになったのです。
そして対決の日、そば喰い名人がそば打ち名人のお店にやってきました。
そば打ち名人は職人かたぎということもあるのか、
あんまりチャラチャラしておらず、
自分の仕事場で黙々とそばを打つだけの人だったのです。
ですから自分の店にそば食い名人がやってきたからと言って、
わざわざ出て行って挨拶をするようなことはしませんでした。
で、蕎麦喰い名人は、ざるを注文し、出来上がったそばを食べたわけです。
この時そば打ち名人は
蕎麦喰い名人の座っている席から見えないような柱の陰にいて、
蕎麦喰い名人が蕎麦を食べる音を耳で確かめようとしたのです。
蕎麦喰い名人は、切れの良い音で、ザー、ザーとそばをすすります。
蕎麦打ち名人は柱の陰でそれを聴いて、
うん、この人はなかなかの人だと言ったんですね。
.
そば打ち名人にしてみればそばを食べる音を聞けば
その人がそばの正しい食べ方をしているか、どうか、
ということがわかるという話だったんです。
これはまあ一つのエピソードです。
.
私は以前からそばは音を立てて食べるものというふうに
私の料理の師匠から聞いていました。
ですから師匠の教えにのっとって私はそばを食べる時は、
音を立てて食べていたのです。
ただ音を立てればいいというだけではなくて、
実は音を立てる事の意味があったんですね。
それは私個人の見解なのですが、
啜りあげる時にどうしても音が出てしまうのですが、
この時、周りの空気も合わせて吸うということなんです。
これはその気になってやってみれば空気を吸い込むということの意味が
分かると思うのですが、
この吸い込んだ空気とそばのつゆと、そしてそばの風味が一体になって
口の中に広がるのです。
モグモグと食べた蕎麦というのは空気を吸い込みませんので
実は蕎麦の香りそのものが口の中に広がってこないのですね。
私はその差をまあ気づいたのです。
師匠の言っていた、音を立てて食べろというのは、
空気も合わせて吸い込んで食べるという食べ方だったのだと思いました。
.
人によっては音を立てると品がないという事を言う人が多いのですが、
正直、日本の伝統的なそばの食べ方を知らないだけの偏った意見です。
蕎麦の風味を口の中いっぱいに広げるために
どうしても音を立てて食べざるを得ないということを
理解していないんじゃないかと思うのです。
つまり、よりおいしく食べるための方法なので、
まさに、こういうのを文化というのです。
そこに生きる人の知恵の集積とでも言いましょうか。
気のせいだとか簡単な言葉で片付けられない時代になって来たのかもしれません。
もし宇宙人が飛来して来て実際にUFOが墜落した残骸とかいうものを公開したとしても
これまたなかなか信じられないで、
地球は平らだと言ってる600万人のアメリカ人と同じような感覚になる
可能性というのはないわけではないと思います。
私はUFOに関しては否定したことはありませんし、
実は興味津々な訳です。
でも頭の隅でどこかそんなことあるはずないと思い込んでいるのもまた事実です。
例えば先日ユーチューブで、宇宙人とインタビューをしたという動画が
載っていましたが、
見る限りいかにもフェイクだと思いました。
その宇宙人は、片言ながら英語を話していました。
どこでどのような教育を受けたのかは分かりませんが、
この宇宙人は英語を話すだけでなく、
姿形はよくあるような頭でっかちで、大きめな目、細い首、華奢な胴体という事で、
いわゆるグレー型の典型的な宇宙人の姿をしていました。
.
宇宙人はどこかの星から飛来してきていたと考えられることは、
少なくとも人間の姿を無視して宇宙人を考えるのは大きな間違いだと思います。
頭があって鼻があって、口があって、両腕があって、胴があって、足があってという
この形態を生物として取らざるを得ないというのは人間の勝手な思い込みに過ぎないと思います。
いずれにしてもこの地球の上に異星人がやってきたとしたら、
人間たちは友好的に迎えるのか、もしくは敵と想定して構えるのか、
ここは人類としての大きな判断の分かれ道になると思います。
かつてアフリカの原住民が鉄砲を持った文明的な西欧人に、
自由を奪われ、船にすし詰めにされて南アメリカさらには北アメリカに送り込まれていった
という隷属的な状況を私たちも宇宙人によってされるかもしれない
なんて悲劇的な考え方ももないわけではないと思うのです。
それよりも何よりも本当に宇宙人がいるんだったらば、
一度でいいから会ってみたいですね。
その場で取って食われちゃうかもしれませんがそれはそれで覚悟しましょう。
]]>
その一つのデータとしてこの地球上で発生するマグニチュード6以上の地震の18%が
日本で発生するということです。
そして、ここ数十年の中で私たちが経験したように、
北海道でも九州でもそして関西でも、大阪でも、
百年前になりますが関東でも大きな地震が発生しました。
つまり日本中どこでも大地震が発生すると言うことです。
この地震大国日本で暮らしてる以上、地震にいかに対応するかという
経験による知恵がもっと有効に活かされていかなくてはいけません。
.
こういった中で、発生する可能性が高いと言われている南海トラフ巨大地震が
予測されています。
地震学者の中では、
このときに首都直下型地震や富士山の噴火が合わせて発生する可能性がある
とまで言われています。
この南海トラフ巨大地震の最大の犠牲者の総数はなんと32万人とまで言われているわけで、
この地震が発生した時に私たちの町平塚は震度6弱、津波が3Mと予測されています。
津波の3Mというのは、浴槽に湯を張るときにじわじわと溜まって
水面の高さを上げてきますが、
これは津波の時にはそんな風に水位が上がってくるものではありません。
水の塊が押し寄せてきてその高さが3メートルということですから
かなり危険な状態になります。
今回の能登半島での3メートルレベルの津波の被害を検証してみれば
風呂に水をためるがごとく3メーターの水がやってくるという考え方は安易すぎるわけです。
つまり、思いのほかこれは大きな被害を伴うと考えた方が良いと思います。
.
さて、この南海トラフ巨大地震についていえば、その発生が広範囲に及ぶということです。
それこそ東京でも横浜でも静岡でも名古屋・大阪・高知そして大分に至るまで、
広範囲に被害が及んだ場合、
私たちの街平塚はその意味でローカルな町なわけですから、
当然復旧の応援はかなり遅れてくるだろうと想定すべきです。
人口の多い都市が優先され私たちの平塚のようなローカルな街の対応は
どうしても後回しになってしまうだろうと考えるべきです。
水も充分に給水されない、もしかすると電気の復旧も遅れるかもしれない
といったような、日常に戻るための基本的なライフラインの回復は遅れ、
その間大変不自由な日常生活を送らなければならない
ということは覚悟すべきです。
神奈川県の予測では、平塚市で発生する南海トラフ巨大地震に係る犠牲者というのは
80名程度を想定しているようですが、これはまさに直接死の数であって、
これを超える数が私たち平塚市民の犠牲者の数というふうに考えなくてはいけません。
逆になんとかその数を抑えるということが人としての知恵ということになるだろうと思います。
.
今回の能登半島地震で明確になったことは
高齢化社会・過疎化社会のひずみが大きく表れていました。
平塚市は少なくとも過疎化社会とは言えないと思いますが、
高齢化社会になりつつあることは間違いありません。
能登と言う地理的な条件はこれには過疎化の進む要因がふくまれていますし、
この過疎化によって高齢化が拡大してゆくわけです。
まさに何か大きな災害があった時に、地域の構造として、
過疎化や、高齢化が災害によるダメージを大きくしてしまう、
ということの良い例を能登は示してくれました。
高齢化は、瓦屋根のまま、建て替えが進まなかったり、
耐震化基準を満たす補強が後回しにされたなど、
今回の悲劇を増大させた要因の一つになると思われます。
.
能登半島地震についていえば、まさに人間の体で言う指先足先のような
毛細血管がほそぼそと通っているような地域になります。
つまり経済的な意味で言えば、決して充分な潤いが得られていない地域である考えると
高齢化により地域の活力が失われ、過疎化によりさらに追い打ちをかけ
経済的には不十分な環境であると考えると
この条件に当てはまる地域というのは日本中に散在しているはずです。
日本は地震大国でそれこそ地震の被害が想定されない地域は無いと
言っていいくらい危険を内在している国です。
今回の能登半島地震の情勢を精密に判断すれば
やらなくてはならないことが山ほどあるということが分かります。
.
すでに200人を超える犠牲者が出ていますが、
これらの方々の犠牲を無にしないためにも、
どこか特定の場所ではなく、日本のあらゆる場所でこのようなことが再発する
と考えその対策を充分に練っておく必要があります。
併せて各市町村地域では自分たちの力で
通り一遍の防災の備え程度のものではなく、
もう一つ高いレベルの災害復興の方策を用意しておく必要があります。
]]>その復旧には相当の時間がかかりそうです。
ちなみに私たち平塚市料理飲食業組合連合会では、
能登半島地震の義援金の募金を組合員の店舗で行うことになりました。
早いところではすでにレジの横に募金箱が置いてありますが、
是非とも皆様のご協力を宜しくお願いしたいと思います。
ちなみに皆様のご好意で集まったお金は
現在のところの予定ですが、
日本赤十字社を通じて、
現地の一日も早い復興に役立ててもらおうと考えています。
3月の半ば過ぎぐらいまでは実施する予定ですので
その間市内の飲食店、特に私たちの組合員の店舗で
募金箱を見かけたら募金をお願いしたいと思います。
.
以前、中越の地震の時に私は現地に行き、
ちょっとしたボランティア活動をしたことがあるのですが
この時この地震の中心的な位置にあった十日町の避難所で見た光景を
忘れることができません。
それは十日町の役所の前にある体育館が
十日町の中心的な避難所になっていました。
この体育館の前にはがそこそこの面積があって
東京のテレビ局数社のおおきな中継車が駐車していました
広場の中央に横付けになった状態で駐車していましたのです。
その場所が体育館の入り口の真正面あたりだったので
物資を届けたトラックは、やや離れた所に止め、
人力を使って中に運び込まなくてはならなかったのです。
私は、なぜもう少しこれらの作業がやりやすいように
入り口付近を空けないのかと不思議でした。
が、もっと不思議だったことは、
たまたま時間的に手が空いていたのかもしれませんが
何人かのスタッフが入り口付近でタバコを吸ってたむろしていたのです。
その時、救援物資を運んできた大きめのトラックでが到着。
体育館の中から職員とかボランティアの人たちがぞろぞろと出てきて
ダンボールの荷物を運びこんでいました。
このとき彼らはタバコ休憩をやめるわけでもなく、
この様子を人ごとのように見ながら何の手も差し伸べない状態だったので
これを見て私は随分と薄情なんだな、と。
タバコ吸ってるん。だったら手伝えばいいのにと私は思いました
.
.ネットに載っていた記事でず。
いぶん前の話ですが漁船が転覆し
十名を超える犠牲者が出たことがありました。
この時漁船が所属する漁業組合ではその対応に追われ
何より状況をつかむための情報収集を必死になっているところでした。
このことはすでに中央のメディアには伝わっていて、
それぞれの記者やスタッフがやってきて取材をしていたのです。
しかし漁業組合としては彼らの相手をしていられない。
何よりも現況でどのような状態なのかを把握することが優先していたのです。
しかし、彼らは入室お断りと書いた貼り紙を無視して
事務所の中に入ってきて、情報収集に四苦八苦している職員たちに
あれこれと質問をして来たのだそうです。
この時その中の一人の記者が、あなた方がきちんと状況を説明してくれれば
私たちのメディアにそれを載せ、
日本の各地に現況を知らせることができます、と
妙な正義を振りかざして、取材に応じることを求めてきたそうです。
この時漁業組合の関係者は無神経な新聞記者たちに対して
おおいなる反感を持ったと言うことでした。
.
まあこのような事というのはしばしば発生することで
犠牲者、被災者の心情を汲むことなく情報を広く伝達することが
何にも勝る正義であると言う考えのもとに
メディアとしての押し付けがましい接触をしてくるわけです。
この記事を読んだとき私は十日町での
テレビのスタッフのことを思い出しました。
今何が必要で、何をすべきか、
逆に何をしていけないのかといったことの、
いわゆる常識というものにいささか欠けた振る舞いが
しばしば見られます。
特に取材と称して人の心の中に土足のまま立ち入ってくる
そのあり方は本当に正義を軸として自分の仕事を理解しているのか
ということについてしばしば疑問に感じたものです。
残念なことですが、こういった傾向は
メディアそのものが企業としての利益を追求する組織ですし、
そのためにより多くの視聴者、読者の関心を引こうとするに余って、
人として持つべき矩を超えてしまうのだと思います。
彼らもきっとそれなりに自分の人生観や正義感などを
持っていると思うのですが、
その背景に売れる記事、興味を集める内容に心とらわれて、
本来のメディアが示すべき正義の在り方を示すことができないということですね。
つまり、所属する企業の利益よりも
世の中にあるべき正義を優先しなくてはいけないのではないか、
ということです。
もしメディアにおける正義が死んでしまったら、
メディアもその命がなくなるということです。
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よく考えてみればこれはパーティー券を買った側にも問題があるわけで、
ここのところはただ単に政治の支援活動という名目で、
しかも2万円という法に引っかからない範囲の金額のために、
1種の治外法権的な権利を与えてしまっているような気がするのです。
2万円といえど10枚なら20万、百枚なら200万です。
そこそこの政治献金の金額になると私たち一般国民には感じてしまいます。
少なくともこのパーティーに参加をするということは、
本来、純真に日本の政治をより良くするために必要な資金の提供するという高邁な精神のはず。
しかし、おそらく何らかの形で義理を果たすとか、
ささやかながら多少有利な扱いをしてもらえるとか、
いわゆる本来の企業献金が目的としている対応を期待するから
このパーティーに参加するのではないかと思いますです。
ですからここに来ての様々なメディアの評論を見ていて、
問題はひとつ、不明瞭なキックバック、つまり裏金になりがちな金額が記載されていないこと
ということに焦点が絞られているように思います。
やはりここは政治資金パーティーそのものの在り方を根本的に考えるべきではないでしょうか。
お主もワルじゃのう、と言われているような企業の姿勢も問題ではないかと思うのです。
結果として政策が企業に有利に働くような傾向があるということは間違いないことだと思うのです。
この越前屋から袖の下をもらった悪代官は
決して市民を向いたまつりごとをしないだろうと推測できます。
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こういった観点でこの問題を見てみると、
やはりその大本に政治資金パーティーという企業献金やむなしとするやり方に
まずは問題があると考えるべきではないでしょうか。
臭い匂いは元から絶たなきゃダメ、とよく言います。
ここで匂ってくるきな臭い空気は
その元であるパーティーが開催されることで漂ってきているわけなんですから。
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よく政治は金がかかるから、というわけのわからない大前提のもとに
企業からの献金によって政治活動を進めようとしているこのことが前提にされていますけれども
そもそもが国民一人当たり250円の負担という政党支援金が政党に配られているのですから
少なくともその範囲の中での政治活動で成果を出すべきです。
それとも、企業は何かと金を出してくれるけど、
お前たち(一般国民)はたかだか250円しか出してないだろ、という事かしら。
決められた枠のお金、と言っても国会議員一人当たり税金から支払われる金額は、
一人1億円をちょっと超える金額になります。
この額で成果を出せないとするなら、
それは政治家の無能さであると考えるべきです。
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このブログでも何度か主張してきましたが
そのようなお金がないと選挙に当選できないとしたら
それは経済上の理由ではなく立候補した人の人格・能力の問題であると考え、
政治には金をかけなければならないと考えている人が政治家になれば
当然このようなきな臭い問題はが発生してくるということは火を見るより明らかです。
改めてこのような問題が再発させないためにも
まずは、袖の下を求めるという悪代官の存在をなくすということ併せて、
袖の下を渡して有利な計らいをしてもらおうとする越前屋の存在をなくすということも
根絶すべきです。
「お主もワルじゃのう」と言うあのセリフは時代劇の
フィクションの世界にとどめるべきです。
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したがって買ってきた食材も時に余りがちで、その対処にかなり苦労しています。
例えば納豆なんですが、だいたいは白い発泡のパック3つが1つになって販売されています。
で、2人ですから3個をかき回して作ってしまうとちょっと余るんですね。
ですから3個のうち2個をその時の食事で食べるということなんですが、
どうしても1個が取り残されてしまうんです。
そこで次の納豆を買ってくるまでの間、
最低でも数日間この取り残された1個の納豆は冷蔵庫にしまわれたままになります。
次に買ってきたのと合わせてかき混ぜることもあるのですが
時に前に残っていたものが大粒だったりすると
次の小粒とのバランスが悪くなったりとかで、
あまりいいシステムであるとは思っていませんでした。
そこで先日のことですが味噌汁にこの残った納豆を入れてしまえ、
ということでいわゆる納豆味噌汁を作ったのです。
正直さほどうまいとも思いませんでしたが、
まあ余ったまま残しておくよりはましかなと思う程度のものでした。
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ふと考えてみると味噌汁に賽の目の豆腐が入り、なおかつ納豆を入れたとなると、
お椀の中は大豆生産物で占められているわけです。
この他に醤油等もあり日本の朝の食卓に乗っているものは
かなり大豆に頼ったものが多いと感じました。
そこでいったい日本ではどの程度の大豆の消費をしているのかということが気になり、
ネットでそのデータを検索してみたのです。
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まずは、世界における大豆の生産量ですが、
大豆の生産量は約3億6000万tでブラジルが38%を占める生産国です。
ついでアメリカが31%、アルゼンチンが13%、中国が5%と続きます。
一方消費国は中国が最大で約30%を消費し任意が米国18% 3位ブラジル14%となっています。
このデータを見てみると思いのほか日本の大豆の消費量は少ないと感じたのです。
あんなに食卓の上には大豆製品が載っているのにもかかわらず
まだまだ大したことはないんだなという実感を持ちました。
ただ、このデータへの疑問として、
夏から秋にかけてまさにビールのともとも言えるくらいの枝豆は
どの段階でデータに組み入れられているのか、ということが少々疑問でした。
まあ大体この類の統計上の数字というのは確かに曖昧な部分はどうしても残ります。
それより今欲しいと思っているデータでも、
4〜5年前のデータであることもあったり、
なかなか欲しいと思う現況の数字は得られないこよが多いものです。
ネットでいろいろな角度で検索をして行くと
同じ数字であるはずのものが少しずつずれていたりすることもあり
一体何が基準でこのようなデータを出してきたのかということが
時に疑問に感じたりします。
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特に統計的な意味合いで大きな疑問を感じるのが、いわゆる世論調査の結果の数字です。
これはデータを出すデータを発表する母体の微妙な癖が反映されていて、
例えば、政権の信頼度とでもいうべき観点では、
支持すると支持しないの大きく二つにしか選択肢がないにもかかわらず
調査母体の例えば新聞社の違いによって数パーセントの誤差が発生します。
ある新聞社では同時に出される様々な新聞社のデータの中で
最も低い数字、時に最も高い数字という具合に
多少の傾向の違いが出てくることがあります。
この原因は何なのかということを調べてみたのですが
どうも調査の仕方に違いがあるようなんですね。
したがってその調査母体のやり方が反映して数パーセントの誤差が出てくるわけです。
こんな分かりやすいしかも現況を忠実に反映しようとする政権の支持不支持のデータなんかこそ、
もっと信頼できるものにすべきではないかと考えています。
これは調査母体の方法を充分に話し合って整理整頓し、
ほぼ同一の設問文をベースにすればおそらく大きな差は出てこないのではないかと思うのです。
この微妙に数パーセント違うことにより
世論調査の数値が若干信頼性を失っているような気がします。
せっかく何千何万というデータを取りながらあまり信頼を得ていないというのは、
さみしい話ではないですか。
私たちはとかくこういう場面で公表されるデータの影響を受けているわけですから、ここのところはもう一歩踏み込んでしっかりとした数値が公表できるようにすべきではないか、と考えます。
これもまたマスコミの大きな課題の一つではないでしょうか。
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しかし、最近の、というか私がパソコンに慣れ親しんだ頃から見ると
はるかにさまざまな機能が充実していて、
今更ではありますが、音声入力という方法があるということを
人から聞き、要はどのぐらい正確に転換できるかだろう、と疑問に思っていたのです。
それにはこんな経験が影響していたのかもしれません。
かれこれ30年近く前でしょうか、
その頃新しいパソコンを買ったときに音声入力が可能だという機能を選択しました。
で、昔々のまだ未熟な能力しかない時代のパソコンですから、
最初に50ぐらいの文章をまず読み上げて、私の音声の癖を機械に覚えさせるわけです。
この人はどんな音を出すのかと言う発声上の癖を、ベースの音から文字を転換してゆくわけですね。
元々入っているテキストと比べながらその誤差というかブレの部分を学習させる、
という事なんですね。
ともかく、そこそこの長さの例文を50ほど読み上げて、私の発声の癖を機械に学んでもらい、
学び終わったところで音声の入力をするのです。
が、実はそこまでの手間をかけてもなかなか正しい反応をしてくれないんです。
せっかく上級の機種を買ったのに、何だこりゃ、と思って、
いろいろ発声の仕方そのものを逆に分かってもらえるような滑舌を意識して
話をするんですが、まあそれでもまだまだたくさんの誤打、誤転換があって
思うような成果を上げることができませんでした。
正直、使いこなす前にギブアップだったのです。
ある時のことです。
夕方から友人に誘われて一杯飲む行くことになって、酔っ払って帰ってきた時に、
そういえば文章を一つ仕上げておかなくてはいけないと思い出し、
キーボードを打つのも面倒だし、と、音声入力で文章を作ろうという試みをしたわけです。
ところがいつもと違ってめちゃくちゃに文字の転換をするんですね。
で、よくよく考えてみたら酔っ払っているために
滑舌が悪くて発声の仕方もズレがあってほとんど使えないということが分かったんです。
なるほど酔っ払いはよく訳の分からないことを言ってると思っていましたが、
パソコンの音声入力によって、それは証明されたという事ですね。
しかし、きっと慣れればこれはこれで使えるようになるだろうという予測をして
しばしば、この音声による入力をに挑戦をしてきたのです。
でも、この当時の機械ではやはり限界があって、
結局はパソコンメーカもその後改良型を出すことなく、
音声入力は夢の世界になってしまったんですね。
しかし、30年の歳月は著しく機能を安定させました。
そして、私としては音声入力の第二期になったわけです。
そこで、このブログの文章から音声入力に挑戦することにしたのです。
以前から見ればはるかに正確に転換をしてくれると感じています。
私にとってみれば、ただ話してればいいというのも、楽な話です。
きっと色々な意味での時間的な短縮だとか文章を入れる際のストレスだとか、
そういう利点を得られると思うのです。
誤転換を修正したりする間に、頭の中に流れていた文章が消えてしまうことがあります。
少なくとも、音声入力は、多少は余分な文が交じりますが、ここはカバーできる。
流れが途絶えることの方が、トータルでは話がややこしくなるんですね。
一応今のところただひたすらベラベラと喋りこれを文字に転換してもらっているのですが
この後一つ一つの文章をチェックしながら句読点などをつけていかなくてはいけないものの、
これは手でキーボードをたたいても同じことはしなくてはいけないわけで、
何より基本的な文字がそこに並んでいるということだけでも結構楽な作業になりそうです。
なんだかんだとすごい世界に変わってきましたね。
そもそもが私がコンピューターに関わりを持つようになって
50年ぐらいの歳月が経ちます。
最初のビジネスコンピューターは、事務机1基分のサイズでした。
やがて、小さく小さくなっていって
今じゃノートパソコンに代表されるようなサイズにもなり、
これとほぼ同じような能力を持ったコンピューター機能が、
スマホに入っているわけですから、いくら進化進歩したとは言え、
とんでもない大きな変化がもたらされたものだというふうに驚いています。
いずれにしてもこのようなICの進化進歩により
人間はずいぶんと別次元の生活に入ってきました。
先日の新聞で生成ITについての取扱いが議論されるようになったと報道されていましたが
たしか便利なものがこの世の中に登場すると
それと同じぐらいマイナスを私たちの暮らしの中に持ち込むものですです。
しかし、こういうのって扱う人間の問題なわけですから
便利で楽になったということはそれはそれで評価すべきで
これからも逆にこの音声入力を活用できるようになりたいと望んでいます。
まずは音声入力による文章化の第一号がこの文章であるということをご報告いたします。
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いわば今回の容疑者は国会議員である、という事。
それは国会議員の本来の役割である、立法の主体となっている
ということです。
つまり、なんだかんだと様々な法律を作る役割を追っているわけです。
自分たちで法、規則を作っておいて、
その規則を守らないというのですから、
なにをか、いわんやでしょ。
現在の政治資金規制法を作ったのは、国会議員だったわけでしょ。
自らを律する、と大見えを切っておいて、
しばらく時が過ぎたら、その決まり事を破るって、
順法精神のかけらもないでしょ。
これが国会議員なんですから、
日本の国もそれまでですかね。
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検察は、不退転の覚悟で、この件を審理してもらいたいですし、
国会議員は、大いに反省し、その判断を虚心坦懐に受け止めてもらいたいですね。
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とはいえ、まだまだ浅い追及で、政治の本質を踏まえたところまでは
ちょっともどかしいくらい、遠慮がちな追及です。
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まずは政治とは何か、ということです。
わが父から聞いた話ですが、政治の政という字の成り立ちは、
隷書(漢字の進化過程では初期のころのもの)によると、
偏(へん)である「正」と旁(つくり)である「支」によって構成されていて、
それが変化し政になった、というのです。
通常は、正と文の構成と言われていますが、父は真っ向から否定していました。
隷書からの変化を見れば、正と支、だと。
で、わが父の言い分が正しかったとすると、
政とは正しきを支える、という意味になります。
これは裁判というか、訴訟と言うか、いわば民の訴えごとを聞き取り、
正か非を判断するもので、社会正義ともいうべきものを、醸成してゆく、
ということを意味するものです。
また、政治の治は、治水を意味し、河川の氾濫を抑え、
安定した土地を確保するという仕事の一つと考えられます。
大雨が降るたび、田畑が水没しては、食料という命の根源が危うくなるので、
治水という仕事は、民の安定した日々を確保するうえで、
重要な仕事だったのです。
大雑把に言えば、社会正義と安定した生活環境を整える、
というのが政治の大きな目的である、となります。
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まあこれを前提として、政治は何をすべきか、
ということを考えてみる必要があります。
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私たちの祖先であるホモサピエンスは、
20万年ほど前にアフリカを出て、様々なルートをたどり、
地球のいたるところに定着し、そこで独自の文化を創り出します。
人類が最後にたどり着いたのが、南アメリカ大陸の南の先端で、
およそ、1万数千年前ごろ、と言われています。
こうして、人類は地球のあらゆるところで暮らしはじめますが、
およそ1万年前に、それまでの狩猟と採集の自然の恵みに頼った
食料の確保が、農耕と牧畜に切り替わります。
この変化は画期的なものでした。
一言でいえば、それなりの群れで生活してきたのですが、
食料が安定して確保できるようになったと言うことで、
その群れで養える人の数が増えたということですね。
つまり、それまでより多くの人々を束ねるようになってきたわけです。
そして、他の部族との争いや、確保した食料の維持などのため、
少しづつ社会的組織化が必要になってきます。
この管理をしたのが、政治というわけです。
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当然初期のものは未熟なものだったに違いありませんし、
何より、その長たる者の専横的な支配が行われたに違いありません。
そして長い年月を経て、その基礎的な人口が拡大するにあたって、
政治の形態も進化してきたはずです。
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しかしです。
形態やら、規模やら、変化しても、政治の本質が変わることはないはずです。
にも拘わらず、政治形態は変化してきました。
何より、本質的な部分で、変異したのです。
それは、しばしば政治の世界に登場する、民を忘れ、
己の野心を満たし、己の利益に走った輩によって、
ゆがめられてきたのです。
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日本の歴史に登場する時代時代の中で、まれに名君と言われる人物が登場します。
この名君のいわれは、きわめて単純で、民を向いた政治を行った人のことです。
私利私欲に対する公利公益こそ政治の本質であるのに、
私利私欲に傾いた政治家が登場すると、
政治は乱れ、それとともに社会が乱れるのです。
必ず、政治の乱れは社会の乱れに直結します。
なぜなら、正しきを支える政治が、曇れば、併せて、この世の中も曇るのです。
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正しきを旨として、法を定め、それを執行する、
まさにこの国の正しさの羅針盤であるべき政治家が、
揃いも揃って、正しい施策ができなかったということは、
あわせて、この国の国民も不正を承知しつつ、ことを行う可能性がある、
ということでしょ。
政治資金パーティのキックバックの問題は、
ただ政治家の世界の問題ではないのです。
要は乱れた社会になる可能性を持っているということです。
違反をした政治家を罰するということ以上に、
しっかりした政治を行わないと、
この国はますます乱れた国になってしまうんじゃないか、
と感じるのですね。
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正しきを支える政治の本来の姿をしっかりと取り戻すために、
現在、表れてきた諸問題を、徹底して糺す必要があります。
これは、そこまでやるか、というくらい厳しくすべきです。
半端な対応では、罰せられたものが、
運が悪かったですまされる可能性があります。
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世の中不祥事は発覚すると、直接的なミスを犯したものからさかのぼって、
連帯として上のものが責任を取ります。
よくある、会社の不祥事に、社長以下、役員が並んで謝罪会見をして、
申し訳なかった、と世の中に対して謝りますが、
なぜか、政治の世界では、それが行われない。
机が一列に並んだ会議室で、
首相以下、政府の役職者、自民党の役員が一列に並んで、
この度は政治家として犯してはならない不祥事を引き起こし、
多くの疑念、不快な思いを国民の皆様におかけし、
誠に申し訳けありませんでした、と
深々とお辞儀すべきでしょうね。
もっともこのことは極めて非現実的です。
なぜなら、首相をはじめ、大半の政治家が
だから何だ、と思っているようなのですから。
]]>ジョーカーを1枚混ぜたトランプをよく切って、1年に1枚引きます。
1枚1枚ひっくり返し、そのジョーカーのカードを引いた年に地震が起きるとしましょう。
しかし、地震学会が言ってることは、正しいかどうかはともかく、
30枚のカードを引いた30年後80%、ということですから、
30年たっても発生しない確率は20%あるということです。
ただ、最初の30枚の中にジョーカーがある可能性が80%ある、ということです。
ですから、言葉の解釈としては、2024年が80%、2025年も80%2035年も80%、
ということなんですね。
要するに、いったいつ起きるというんだ、とイライラしている人には、
よくわからないのです、としか答えられない。
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そこで正解ですが、いつ起きるかわからないから、
いつ起きても不思議でない、と思うべきです。
備えあれば患いなし、とはいい言葉ですね。