水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
間もなく、茶番劇が開演となります

加計ネタが、ネットのニュースのタイトルにしばらく前から載っていました。

そのタイトルは、加計も文書改ざんが行われていた、と言うものでした。
しかし、世間は森友再燃に注視していて、
なんとなく隅に放っておかれた感じだったんです。
私も、まあ、いずれ、加計も再燃するだろうと思っていたので、
時期がきたら、詳しく読んでみようと、
タイトルだけ見てスルーしていたんです。


で、やはり、その時期が来ましたね。

 

ここで冷静に、ここしばらくの国会での与野党のやり取りを眺め直してみると、
要は、見てくれはともかく、やっちまったことは明白だったわけです。

いや、明白だ、と国民は思っていたわけです。
文書の廃棄の問題も、そんなことあるわけない、と誰もが思っていたでしょ。
例の今治の職員が首相秘書官にあったという話が出てきた時も、
じゃあ、今治の職員が嘘ついているのか、と思ったでしょ。

わたしたち、後期高齢者に近い連中が答えたならきおくにない、も通用しますが、

頭脳明晰なお役人、しかも油の乗った働き盛りの年令の方々が、

そうそう簡単に忘れるわけはない。


首相夫人が、籠池氏に言ったことも、100万円寄付したことも
籠池氏の作り話だろ、と思った人は少ないと思うんです。

 

要は、国会では、とぼけたり、嘘をついたり、政権側の真実隠しに、
延々と付き合わされてきたのです。
さすがに、国民はもううんざり、といったところでしょ。

私はこの一連の流れに、不思議だったのは、
与党の議員連中が、これといった意見を言わなかったことです。
いくら身内とは言え、やっていいこととやっていけないことの区別ぐらいは、
議員の先生方は判断できているでしょ。
これといった批判が聞こえてこないことに、
自民、公明の先生がたの良心は崩壊してしまったのか、
と思っていました。
あれだけ見識のある方々が、地域の市民の支持を得て、
国会に登場しているんですから、
相応の良識、判断力は備えているはずでしょ。
だからこそ、国の運営をお願いしたわけです。
でも、その最もそういうことに敏感に判断すべき方々が、
一律にものを言わない。
結果として真実隠しの片棒を担いできた、と言うそしりは免れない。


私は、右でも左でもない中道のつもりです。
ですから余計、保守系の方々のふがいなさが残念に感じるんです。
それぞれが健全に機能してこそ日本の未来はある、と思うんですね。

ま、大ざまな見方ですが、
国会で与党も野党も、政権側もお役人達も、みんなで茶番劇を演じていたという事です。
これを見ていた国民という観客は、
テレビで報道されるそれぞれの言い分を、そうかもしれない、などと思わなかったでしょ。
国民はみんな感じていたと思うんです。
これは茶番劇だ、と。

 

ちなみに茶番劇とは、
その大本は狂言に発しています。
江戸の末期に、下手な役者が手近なものを利用して
滑稽な寸劇・話の芸を演じるといったものが語源です。
茶番というのは、お茶番のことで、
歌舞伎の中で特にはしたの役者が、歌舞伎役者(いわゆる大物)のお茶番をしていて、
(まあ、オフィスのお茶くみみたいなものです)
その余興として、滑稽な寸劇を演じたのだそうです。
ここが原点でとなり、茶番劇という分野に発展したのだそうです。
とは言え、ごく軽い内容でしたので、劇に使われた菓子類を無料で配布したので、
それが目当てで、観客もやってきた、と言われるくらいでした。


そこで、見え透いたバカバカしい物事のことを「茶番劇」というようになったのです。

ピッタリじゃありませんか。
劇場は国会の中にあります。
時々テレビでも中継しますので、
ばかばかしい茶番劇を暇があったら見てください。

ちなみに、お菓子はもらえません。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
地球に棲息する人間のレポート

文書と言うものは、よくよく探せば出てくるものなのか、

もしくは、もともと探さなかったのか、そのへんはよく分かりませんが、

どうして、見え透いた嘘をつくんでしょうか。

ひどすぎますね。

 

そういえば、こんな文書が出てきました。

 

どこかの星の高度に進化した生物が、いわゆるUFOに乗って地球にやってきました。
彼らの目的は、SF映画にあるように地球侵略を目指したものではありません。
ただ彼らの高度な知性から、様々な生物の実態を観察する、という事です。
ま、極めて科学的な姿勢だったわけです。
で、体型を変幻自在に操れるので、地球人に成りすまし、
各地で様々な人種の観察を続けました。
で、彼らは次のようにリポートをまとめました。

 

「地球と言う惑星に棲息する人間と言う生物のレポート」

位置 銀河系・太陽系第三惑星、地球
‥曚蕕蓮可住範囲のあらゆるところに棲息する。
氷におおわれる北極であろうと、噴煙の上がる火山のふもとであろうと、
海面下以下の陸地であろうと、また、5000メートルを超える山岳地であろうと、
奴らは、棲息する。

 

∪蛎のための棲家を作る。
岩石を切りだしたり、土を焼いたレンガを積み重ねたりとか、
木を組み立てたりとか、してきたが、
コンクリートを作り出し、これによるものが増えている。

 

生体活動のためのエネルギーは、植物、動物に関わらず、なんでも捕食することで得る。
本来の必要エネルギー以上のものを食べ、これを食文化と誇らしげに言うが、
地球上で生産できる食料の物量には限りがあり、将来的な確保は難しいと思える。


づ曚蕕蓮衣服と呼ばれるものを体にまとう。
今まで様々な星で生物を観察してきたが、
衣服をまとう生物は地球でしか見ることができなかった。


ダ限里蓮∋麝困吠かれ、生殖行為によって次世代を生み出す。
これに伴い、雌雄は一対となり生涯を共にするようだが、実態は、定かでない。


集団で生活するため、様々なルールがあって、自律的に集団内でコントロールされているが
様々な解釈が勝手に行われるので、そのルールは増え続け、客観的に観察する限り、
ルールのために生きている傾向がみられる。


知的にはまずまずのレベルだが、まだまだ未熟で、
さまざまな道具を作り出してきたが、我々から見れば、ほとんどおもちゃに近い。


地球の環境が悪化してきているという認識があり、地球以外への移住を模索しているようだが、
現在の技術のレベルでは、あと、200年ほど時間が必要と思われる。
その前に、奴らは、絶滅している可能性がある。


相互の意思疎通に言葉を使うが、地域によって表現が異なり、奴らの最大のネックになっている。


集団生活には、集団をまとめるためのリーダーが必要とされていて、
彼らは、これを集団の意志として、選挙という方法で選択する。
しかし、多くの地域では、正常に機能してない場合が多い。


奴らは集団内で生産された富を公平に分けることをしない。


集団の組織は幾層かに分かれていて、
大きくは、指導的立場の支配層と被支配層に分けられる。


集団相互で生存を掛けた争いがあり、しばしば武器を使用し、相手を殺戮する。
これは個体間においても行われ「殺人」という行為がしばしば発生する。


総論
我々との違いはさまざまあったが、他の惑星での高等生物を観察したデータから、
もっとも大きな違いがいくつかあった。
一つは、地球に住む奴らの特徴として、同種の個体を殺すという行為である。
これは他の惑星には、決してみられない事だった。
もう一つは、きわめて特徴的な違いとして、嘘をつくという事がある。
嘘というのは、事実と異なること、そうは考えたり思っていなかったことなど、
真実と異なることを言葉にするという事である。
理由は、集団内での自分の立場の評価を落とさないための行われるようで、
嘘をつくという行為そのものにも驚いたが、
その嘘を見抜けないことがしばしばあるようで、
奴らの能力の低さはこれでもはっきりと表れていると思われる。
地球という環境の中で、奴らはほぼ500万年かけて進化し、
その成果は顕著に表れてきているが、
まだまだ未熟で、嘘をつくこと、嘘が通用することなどからも、
我々から見れば、奴らは、はるかにレベルが低い。


以上が結論である。
これ以上地球にとどまるのは意味がないので、この報告をもって、
次の使命に移る。

 

この文書は、以前聞かれた時には、廃棄したと言いましたが、

倉庫の隅の段ボール箱に入っていました。

あらためて、訂正しお詫び申し上げます。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
平塚流の伝統

伝統を守る、というある種の美名のもとに、
伝統を守れなくなってしまいうことも多々あります。
時にそのかたくなな姿勢が、かえって伝統を壊してしまう事すらあります。

 

七夕祭りもそうです。
もし、伝統という概念が強ければ、
平塚の七夕祭りは、とっくに終焉の時を迎えていたかもしれません。

 

そもそもが平塚の七夕祭りは、終戦後、商業祭りとして発足しました。
初めは、商店街の中元大売出し的な要素もあって、
農閑期を迎えた近郷近在の人たちをターゲットに、
人集め的なイベントを開催しようと、復興祭として企画されました。
平塚の中心商店街のエリアは、太平洋戦争で焼き払われ、
しばし焼野原状態でしたが、
終戦とともに復興が始まり、それは勢いよく商店街の整備が進んだのです。
そして、昭和26年、一息ついたところで、復興をさらに押し進めようと、
復興祭が実施されたのです。
で、これが七夕祭りの起源になりました。

 

私の父は、すでにその頃商工会議所での活動に参加していましたので、
仲間と一緒に仙台に視察に出かけたことを記憶しています。
先進地の事例を、何かの参考にしようというわけです。
おそらくそれなりの収穫はあったのだと思うのですが、
なんといってもあちらは伝統的な祭り。
こちらは、新興の祭り。
その経験値と言い、文化性と言い、正に雲泥の差があったようです。

で、結果としてですが、新興であったがゆえに、フレキシブルに七夕をとらえ、
平塚なりの解釈をして、独自に進化させてきました。


よく、7月開催の平塚の竹飾りが、8月開催の仙台に買われてゆく、という話が出ますが、
あれはない話です。
基本的に、七夕という言葉の共通点以外は、
全くと言っていいほど類似点はありません。
これはデザインと言い、製造法と言い、扱う素材と言い、
何一つ共通するものはないと言っていいと思います。
それほど、伝統と新興の違いがあるのです。
ですから、よしんば、平塚の飾りを仙台のまちに飾ったら、
違和感がすごいでしょうね。
掲出した人は、いったいどうした、と言われるに違いないです。

 

つまり、仙台の紙を中心にして作った飾りと比較しても、
平塚は、7月という梅雨の最中の行事ですから、雨対策をせねばならず、
ビニール楠花を使うという点が、先ずは根本的に異なります。
正直、情緒という点では、全く歯が立たないくらいのものですが、
いきがって紙でやろうものなら、
一度雨にぬれると、それこそ、みじめなくらいみっともないものに変貌してしまいます。
私が、七夕を始めたごく初期に、紙で作った久寿玉を使ったことがあったのですが、
雨にあたって、まるでトイレットペーパーを巻きつけたような姿になってしまい、
恥ずかしい思いをしたことがありました。
こんなところから、平塚七夕祭りは独自に進化を始めたのです。
久寿玉と吹き流し、という原則はそこそこにして、
それ以外の作り物に力を置くようになりました。
もう、この時点で、伝統的な七夕祭りとたもとを分かっちあったのです。

 

さて、一時は夜空を覆うほどと言われるくらい竹が立ったのですが、
商業の衰退とともに掲出する数が減ってきます。
その理由は、主に、商店が自作のものを掲出するのですが、
その費用の負担に耐えられなくなったのです。
例えば、頑張って大きなものを作ろう、とすれば、
まあ、100万円ぐらいの経費は必要になったとします。
でも、こういうイベントというのは、一店一店の努力の総和でやるものですから、
一店がやらなかったと言って、集客力が目立って落ちてしまうという事はありません。
多少の、心に負い目はあるでしょうが、
その負い目を100万円と変えられるものか、と言われれば、
矢張り目先のお金を選択してしまいます。

つまり、不掲出を選択する場合もある、と言うことです。
さらには、試作場所が無くなってゆきました。
昔は、裏の物置なんかを片づけて作業場所にしたのですが、
裏も、裏道に面していれば、建物を建てて、スナックにでも貸した方が
効率がいいでしょ。
そこで、次々と物置が無くなっていったのです。
さらに、8月になって旧暦の七夕祭りをやるよそのまちでは、
平塚の用の済んだ飾りを買い付け、安上がりに七夕を掲出する、
というところがいろいろとあったのです。
埼玉の蕨や千葉の茂原など、商店街の人が、平塚にやってきて買い付けてくれたのです。
その時売れたお金は、材料費の何分の一かにはなったんですね。
ところが、これらのまちでも、商業は衰退して行き、
徐々に下取り制度の形が壊れていったのです。
要は、別口の収入源が無くなったんですね。


ま、いろいろな原因が相互に影響して、
結果として、七夕不掲出の商店が増えてきました。
特に、中心街に関しては、中央資本の支店が多く、
そういうところは地域の祭りなんかには関心がないんですね。
結果として、今まで地元の商店だったのが、
中央資本の支店になり、七夕飾りの不掲出の店になってゆくわけです。

こういう変化って、まさに時代の流れですね。

 

伝統を気にしない平塚の伝統があって、
商人がダメなら、市民が何とかしようと、
市民飾りの活動が始まりました。
昨年は、この市民飾りの竹飾りが33本並びました。
この傾向は、ますます高まっているようです。
これまで、七夕は商人が作るもの、
市民はそれを見るもの、と、向こうこっちに分かれていましたが、
作る側に回る市民が増えてきたという事です。

ある意味、理想的でしょ。
これが、平塚流の伝統なんです。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 13:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
男女対等社会はまだ遠い

昨夜、久しぶりにBSで、バルマーレの中継を見ました。

なんとなく頑張っているんだけど1:1の膠着状態がつつづいていて、

このまま行けば、引き分けか、と思っていたところ、

最後の最後、山根君の右からのシュートがゴールとなり、

久しぶりの勝ちになりましたが、

いやうれしくてうれしくて、大声を上げて喜びました。

で、そのあと、なでしこのw杯のアジア予選を見たのですが、

形の上ではベトナムに4:0で勝ちましたが、

やはり男子のサッカーから見ると、運びが遅いのとパワー不足は歴然。

比較しちゃいけないのでしょうが、男女差をまざまざと感じたんですね。

 

さて、話は変わりますが、男女差に関する問題が勃発しています。

ま、言い分としては、伝統と言う言葉で全て説明は終わり、という感じですが、

ならば、伝統ってなんでしょうね。

ご存知のように、相撲協会が伝統という伝家の宝刀を抜いて、
女人禁制の表明をしました。
例の、女性の方は土俵を下りてください、と繰り返された館内放送は、
正に、女人禁制の表明でしょ。

世間では、時代遅れだとか、伝統を守るためには仕方ない、とか、
賛否両論が噴出しています。
でもまあ、伝統とは何か、という事をじっくり考えてみれば、
これは正当性を主張できる裏付けは皆無に近いようです。

 

そもそも伝統とは、ある時誰かが、決めたことを、
前人の知恵として受け継ぎ、それを代々守り通してきたものです。
つまり、守るための論拠が、時代の中で変化してきたら、
当然修正するか、新たな知恵を出して、変革するかなんです。

つまり簡単に言えば、伝統と言うのは、単なる前例に過ぎず、
その前例の構築された背景に対する考察が、深淵であれば、
それが長い期間守り続けられて、
ある意味、「伝統」として昇華しているというだけのことです。

ま、それが壊されてとしても、実はそれほど大きな問題ではない、という事です。
なぜなら、伝統を破られるような状況になったわけですから、
かえって、それに捉われることのほうが問題で、
その伝統を確立した先人たちは、そういうことを望んでいるのかどうかでしょ。

 

特に女人禁制と言うのは、女性に対する蔑視です。
女なんて、という男の身勝手な視点で、物事を取り決め、
女性の能力を恐れるがあまり、軽視することにより、男の立場を守ろうとしているわけです。

 

女性に対する最大のひどい扱いは、魔女狩りではないか、
と私は思っています。
15世紀から18世紀にわたって、ヨーロッパで起きた出来事で、
妖術を使ったと疑われる者を裁いたり制裁を加えた、いわばリンチの一種で、
一部男性が含まれたこともあったらしいのですが、
基本は女性を裁いたものでした。
何がひどいことかというと、
魔女として嫌疑をかけられるのは、誰かの密告によるもので、
いったん嫌疑がかけられると、集団ヒステリーのように、
そのものを裁判に追い込んでゆくのです。
本来、魔女かどうかなんて判断は根拠がないものでしたから、

それはひどい方法がとられていました。

その判断の方法としては、
その女性を縄で縛り、池の中に投げ込みます。
で、生きて生還したら、魔女と判断され、処刑されてしまいます。
で、溺れて死んでしまったら、魔女でなかった、という事になります。
しかし、考えてみてください。
水の中に投げ込まれた時点で、手足を縛られているんですから、
これは死刑執行でしょ。
で、万一、まずありえない確率ですが、溺れ死にすることなければ、
それはそれで第二段階で、リンチに合うわけです。
要は、どうやっても一度疑われたら、殺されてしまうわけです。
もう当時の女性は戦々恐々だったと思います。
何しろ、記録に残っているだけで、魔女として処刑された女性は、優に5万人は超えると言われています。
正に人類史上最悪の差別でしょ。

 

そもそもが、日本の社会は、女性を軽く見てきました。
富士山だって、この間まで、女人禁制だったでしょ。
江戸時代に花を咲かせた庶民文化の歌舞伎も、女人禁制でしょ。
そのために、女形として、男の華奢な役者が女の役をやったわけです。
何よりも、日本の社会が女性に選挙権を与えたのは、

終戦後のことです。
私が生まれた時は、女性に参政権が無かったんですね。
ですから、そもそもが女性蔑視の社会的な構造があって、これがある意味日本の伝統なんですね。
現在、女性の地位向上は、もう普通のことになっていて、

あえて、その政策を打ち出していますが、
それでも、相撲協会のような出来事が起きるわけです。


世界141カ国で、女性が対等の社会的立場を与えられているかどうか、
という調査を、さる国際機関がしたそうです。
その結果、日本は114位。
いや情けないでしょ。
女性に優しくない国なわけですね。
時代の流れが必要なのはわかりますが、
これって、かなり意図的に取り組まないと、

現代の魔女狩りが延々と続けられる国になってしまいそうです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 14:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
パワハラの温床

以前のブログにも書きましたが、
アメリカの軍隊のことです。
第二次世界大戦が終了した時に、帰還兵たちにある調査をしました。
それは、銃で、敵兵に照準を合わせ、引き金を引いた経験があるかどうか、ということです。
その結果、20%の兵士がその経験がある、と答えました。
逆に、80%、大半の兵士が、銃で敵兵を殺そうとしなかった、ということです。
戦時ですから、普通の人間も召集されていて、それらの人に銃を持たせるわけですから、
いくら、殺し合い公認の戦場でも、微妙に良心が働いて、引き金を引けなかったんですね。
戦争、という国家容認の場とはいえ、人殺しは人殺しですから。
そこで、アメリカは、これじゃいけない、と。
急きょ、兵士を対象とした戦闘訓練のプログラムを作って実践し、
その後の朝鮮動乱の時には、この、引き金引き率を50%に上げることができたそうです。
そして、さらに、その後のベトナム戦争では、
この引き金引き率は90%まで上がるようになったそうです。


大雑把にいえば、闘争心をベースに敵を殺傷すべき対象としての認識を強くさせるわけです。
奴らは人間ではない、不要の存在であり、除去することこそ正義である、と。
これを徹底的に叩き込むのです。
そして、人を殺すことへの抵抗を持つ良心を取り除いてゆくんですね。
つまり、精神的に敵愾心をあおりながら殺人マシーンを作り上げてゆくわけです。
まあ、具体的にどのようなプログラムかは知りませんが、
20%が50%になり、やがて90%にまでなったという事は、
それなりの効果的なプログラムだったわけでしょ。


ですから、多くのアメリカの青年たちが、かつてベトナムに派兵され、
無事に帰ってきても一種のPTSDが発症し、
時に、精神的に壊れてしまって、殺人事件を引き起こす、といったことが多発しましたが、
皮肉にも、軍隊でそういう教育を受けた成果なわけです。

 

さあ、ここで、大事なことは、そういう精神を、
プログラムで作り上げることができる、という事です。

 

いや、かなり前からいろいろ問題になっていたスポーツ関係のパワハラですが、
レスリング界でも相撲界でも、また、高校の運動部などでも、
その話は絶えずありましたよね。
鉄拳制裁までゆくかどうかはともかく、
これはある種の根性を鍛える、という名目のもとの指導なわけでしょ。
ここでは、闘争心を養うという事だっと思うのです。
つまり、肉体的な能力、瞬発力だとか、持続力だとか、身のこなしだとか、それに伴う判断力だとか、
要は強くするために、鍛えるわけですが、

とどのつまりは、それらの訓練を受け入れ、さらに自律的に訓練に立ち向かってゆく精神は、
言い換えれば闘争心の延長上にあるものではないかと思うのです。


きっと、コーチは、訓練項目の中の一つに闘争心を強く持たせる、というものがあるんじゃないか、と。
それは様々な表現を使おうと、要は闘争心こそが、いざ本番で最も求められることだと思いますし、
その闘争心があれば、つらい訓練に耐えられる、と。
なんとなくですが、スポーツのすべての根底にこの闘争心が位置付けられていると思うんです。
だって、勝ってナンボが、スポーツの世界でしょ。
特に格闘技系のものはそれが激しいはずです。

コーチがこの闘争心を植え付けようとした時、
オネエ言葉に近いニュアンスで、
あら、ダメよ、そんなことやってちゃ、本当に意気地がないのね、とか、
ちゃんとできなきゃ、お仕置きをしちゃうわよ、ウフン、なんて言うわけがない。
なんだコラ!そんなことでうまくなれると思ってんのか。
もっと性根を据えてやってみろ、この根性なし。
てめーなんかクズだ、と、怒号とともに一発殴る、なんてのが、
きっとコーチのやり方でしょうね。
でなけりゃ闘争心が植え付けられない。

つまり、相撲も、レスリングも、何だこの野郎、みたいなところで訓練し、
コーチも選手もともに、粗い気性の空気の中に存在している、わけです。

正にパワハラと紙一重のところなわけです。


特に、相撲界は、とても狭い世界で、彼らの訓練方法は
伝統と言えば伝統なんでしょうけど、
相変わらず、昔ながらのルーチンで、訓練しています。
以前、高砂部屋の夏合宿を見に行く、そこだ初めて相撲の世界のトレーニングを見ました。

土俵の周囲で、それなりにトレーニングをしているんですが、
もう少し近代的な方法があるんじゃないか、と思いました。
基本的にスポーツトレーナがいない。
先輩、部屋付きの親方あたりが、ちょこっと口出しをする程度。
特に、筋力を鍛えるなんてことは、きっと効果的なプログラムがあると思うんです。
しかし、勝手にやらせてる感がするんですね。
で、結局はパワハラ的な指導が行われる。


闘争心をかきたてるという事を
コーチが闘争心でやってきたので、次にまたパワハラ的な方法で
闘争心を育てようとしているんですね。

負の連鎖です。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
3010運動って知ってました?

日本国内の年間食品廃棄量は約1700万トンといわれています。
これは、皮をむいたり、骨を取り除いたりという部分も含まれますが、
データとしては、ここの数字が基礎になります。
これは国内及び海外から調達された飼料などを除いた農林水産物の
約8400万トンの2割に相当します。

 

そこで、タラレバの計算をしてみます。
まず、廃棄された食品の量は、そもそも失われても、なんてことなかったわけですから、
本当に必要な量は、6700万トンになります。
8400万トンのうち、自給率39%(ただしカロリーベース)ですから、
輸入に頼っているのが、現状では、61%となり、5124万トンとなります。
で、ロスなしで賄うということで、先ずは輸入分を減らしてみると、
5124から1700を引くと、3424。
つまり、3424万トン輸入すればいいことになりますね。
これで済ませれば、あれほど気にしていた自給率は、
一挙に48・9%となり、ほぼ半分という事になります。
廃棄した量を節減するという事で、相対的に自給率も上がるというわけです。

まあ、数字のマジックですが、
それにしても、日本の食糧問題の解決方法の一つだと思いませんか。

 

それよりも何よりも、問題は食品ロスです。
「食品ロス」とは、本来はまだ食べられるのに捨てられる食品のことを指します。
食品ロスの量は、推計の段階ですが、年間約500万〜800万トンと試算されており、
絞った数値としては、632トンと言われています。
これは、世界の国々が食料を十分に確保できない国の人たちに対して
食糧援助をしていますが、その総量が320万トン。
食料難をすくうための食料の量のほぼ倍を、
日本では捨ててしまっている、という事です。
これは単なるもったいないという感情論だけではなく、
罰当たりな行為でしょ。


人の命を支えるのが食料です。
世界では8億人の人たちが満足に食べることができなくて、
飢餓状態にあると言われています。
しかし、我が日本では、様々な理由で、食べられる食料が、無残にもゴミとなっているんです。

 

さて、いったいどこのだれが、こんな罰当たりなことをしているんでしょうか。
まずは食品製造業が、144万トン、外食産業、120万トン、食品小売業、60万トン、
食品卸売業が16万トンとなっています。
まあ当たり前と言えば当たり前ですが、
食品ロスの現場は、作ると食べるの直接的な分野が大きくなっています。

ですから、作る・食べるの家庭はかなりのもので、
食品ロスの約半分に当たる年間約200万〜400万トンは家庭から発生しています。

 

外食産業に関しては、作る際のロスよりも、むしろお客の食べ残しが問題になっていて、
提供した料理のどのぐらいを残しているかは、営業の形態で異なります。
レストラン食堂が3.1%、旅館宿泊施設が13.0%、宴会・パーティ会場が15.2%、
結婚披露宴会場、結婚披露宴会場が22.5%となっていて、
食堂、レストランでは、好みのものを頼むので、完食が普通です。
ところが、コースなどのあてがい扶持になると、一挙に食べ残しが増えます。
特に、結婚披露宴では、お客様が着席している時間が短いためと、
若干の見栄もあって、品数が多いので、どうしても食べ残しが出てしまいます。

 

そこで、なんと、3010運動というのがあって、
宴会初めの30分は、先ずは食べることに専念しましょう、と。
そして、お開きの前10分は、席に戻って、残りを食べきりましょう、という運動なんです。
そこで、3010運動というわけです。
知らなかったでしょ、こんな運動があるなんて。

ですもんね、日本が食品ロス大国になってしまうわけです。

 

最近、ドギーバックなるものが、陽の目を見るようになりました。
そもそもは、レストランなどで、残り物を家に帰るための下げ袋のことです。
ま、犬に食わせる的な見てくれを気にして言ったのが始まりなんですが、
現在では、人間が家で食べるために、持ち帰り容器としてのものとなっています。
これはいいことでしょ。
もったいないの対処法の一つです。
ただ、飲食店側からすると、店の管理外に持ち出されるため、
食中毒なんかが起きたらどうする、と言いう問題は残っています。
ま、あちら立てればこちら立たずですが、

まずは、知恵を出して、やってみたらどうでしょう。

 

| 水嶋かずあき | グルメ | 01:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
富の偏在

中国では、顔認識ソフトを国中で展開していて、
どこに誰がいるか、分かるようになるための情報網の整備をしているそうです。
個人の尊厳とか、行動の自由とか、一切無視されていることですよね。
おそらく、犯罪の防止とか、まあ、なんだかんだとこじつけた理由があるんでしょうが、
それこそ、運用のさじ加減で、犯罪の防止に役立つかもしれませんが、
どこでだれが何をしようとしていたかなどは、
管理側に筒抜け状態になるという事でしょ。

もうこれって、完全な監視体制の構築でしょ。
それに加え、ネットでの検索が制限されているとか。
まあ、頼まれても中国には住みたくないですね。

 

ともかく、IT系の技術の進化には、もう、年よりはついてゆけなくなりました。
その延長上で、AI(人工知能)の性能がますます高められ、
私達が子供の頃に、あのロボットが活躍する

手塚漫画でしばしば夢見た未来社会が、現実的になっています。


さまざまな動物の記憶力について、いわれることの一つに、
ニワトリは三歩くと忘れてしまう、とかですが、
ホントかどうか、よく、卑下して、私はニワトリと同じで、
ともかく記憶力が弱いんです、などという事を聞いたことがあるでしょ。
まあ、様々な動物の中では、脳の容積も含め、人間は記憶に特化した動物なんです。
象の鼻が長いこととか、キリンの首が長いこととか、ワニの顎の力が強いこととか、
生物が進化する過程で、少しずつその特性を持ち、その特性を特化させて現在があります。
その意味で、人間は記憶力というものを特化させてきました。
であるがゆえに、人間の一番の弱点は、記憶力のあるなしに人間そのものの価値を付けたがるという事です。
何らかの理由で記憶力の弱い人間に大きなハンディを作り出しているということです。
ですから、いつも、記憶力と戦っているのです。
言い換えれば、何気なく記憶することも含め、
記憶するという作業を日々しているわけです。


この人間の特性をAIが着々と担いつつあります。
つまり、人間がするべき領域にAIが入り込んできています。
ただ、便利になったとか、優れた道具を得たとか、思う前に、
人間の領域に入ってきたAIで、
私達の生活はどのように変わってゆくのか、
ということをもう少し考えるべきでしょ。
簡単な話し、これはすでにしばしば議論されてきたことですが、
AIの進出は、人間を不要にするという事です。
重要なことは、職場を失う、という事です。


先日、惜しまれつつ逝去されたスティーブン・ホーキング博士は、
技術革新がますます人間の雇用と所得を奪うことを危惧していた、と言われています。
ご存知とは思いますが、車いすの天才科学者、として知られる
イギリスの宇宙物理学者スティーブン・ホーキング博士は、
世界最高の頭脳として人類に対する警告を数々遺されましたが、
その中で、富の再分配と格差解消をしばしば訴えていました。

 

つまり、人類の歴史の中で、絶えずテーマだったことは
この格差に対する力の衝突です。
富を持つものはその立場を守ろうとし、
持たないものはそれを配分せよと要求します。
部族間の争いも、要は食える食えないを原点とした、
富の収奪を目指したものです。
そのためには、人を殺し、財産を奪い、女を拉致しました。
この規模が大きくなれば、国家間の戦争になり、
戦争にまでならないまでも、国際間では、絶えず貿易上の諸問題がくすぶっていて、
富の偏在を嫌うものと、富を確保したがるものとの争いが生じています。

この争いは、起きるたびに、一応は平準化を目指しますが、
わずかな時間の経緯の中で、また偏在が始まります。
特に、IT化が進むにつけ、この富の偏在は極端になってきました。


比較的最近のあるデータです。
世界人口の1%にあたる富裕層が1年間に生み出された富の82%を独占した一方、
所得の低い人口の約半分は財産が増えなかったそうです。
これは、富める人は増々富を蓄え、
貧しい人は、どうあがいても現状から抜け出せない、という事です。


よく、なぜ富を蓄積する事が悪いのか、という反論をする人がいますが、
きっと、こういうことを言う人は、平均以下の所得で生活をしたことがないんでしょうね。
貧しいこのとみじめさを知っていれば、
稼げるやつが稼いでどこが悪い、とはならないはずです。
富の偏在は富の配分の在り方の問題なんです。
確かに先見性があって、チャンスを読み取る能力があって、

熱心に働いた報酬と言えばそれまでですが、
とは言え、収入には限度というのがあると思うんです。
1万円の報酬がその価格で決められたのは、妥当だからです。
妥当と言うのは、人として、人間らしく生きることのできる金額のことです。
大会社の社長が、億単位の年俸を得ているなんて、
雲の上の話として聞くことがありますが、
どうして、億の金が必要なんでしょうか。
富の偏在を無制限に許してしまうと、
結局は、それが力になり、社会正義がとん挫してしまうはずです。


世の中、金で動くようになるんですね。
まあ、これは今までもそうでしたが、その傾向はひどくなるという事です。
特に、AIを活用する能力のあるところは、
顕著にこの傾向が出てくるでしょうね。
だって、ややこしいこと言う人間を必要としないで、富の蓄積にまい進で来るのですから。

ともかく、ロボットが稼ぎ出した収益に対しては、報酬を必要としないでしょ。

給料もボーナスも彼らは要求しないのですから。

ここに富が偏在するメカニズムがあると思うのですが。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:29 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
PTSD・心的外傷後ストレス障害

1988年の8月1日のことです。
まあ、覚えやすい年月なので、いまだに日にちまで記憶しているんですが、
ある出来事がありました。
時間は10時ちょっとすぎ。
朝ごはんが終わって、紅谷町の店まで出かける時のことです。
当時は、確か、ナショナルかなんかの自転車に乗っていて、
これが、軽量タイプのもので、そこそこにスピードが出るんです。

自転車でも、いいのと悪いのとでは、同じエネルギーを使っても
そのスピードは全然異なるんですね。
よく、路上を、上から下までレーサーのような服を着て、
ヘルメットをかぶり、
シャーとすごい速度で走っている自転車乗りを見たことがあるでしょ。
彼らの乗っている自転車は、そもそもがやたら高いのと、
ともかく軽量を目指していますので、軽い。

z泥除けとかライトとか、余分なものは付けていません。
この自転車に乗ってみると、
ママチャリの倍ぐらいのスピードが出ます。
同じ人間が漕いでいてですよ。
ま、余計なお世話ですが、電動アシストに乗るくらいなら、
その金で買える街乗りのいい自転車を買う方がいいと思いますね。
自転車選びの基本は、丈夫で軽いこと。

ともかくスムースに軽快に走れるんです。

 

ま、ともかく、その日は、その軽快に走る自転車に乗って、いささか飛ばして走っていたんですね。
で、地下道の直前で、前を走っているバイクを追い越そうとして、
ちょっとしたハンドル操作で、接触し、転倒したんです。
ただの転倒ではありません。
何しろMAXで飛ばしていたので、体が宙を飛び、

歩車道の段差の路肩に思い切りたたきつけられてしまったんですね。
大転倒です。
なんだかんだとぐずぐずしていたら、救急車がやってきました。
要は交通事故です。
て、それに乗り市民病院に運ばれました。
結局、ろっ骨を折っていたのですが、その時は分かりませんでした。
その後、一か月、2か月と経つうちに、折れる肋骨の本数が増えて行ったんです。
不思議でしょ。
およそ4か月ほどの中で何回か撮ったレントゲンを日付順に並べると、
折れた肋骨の本数が増えてゆく様が分かるんですね。
理由はよく分からないですが、結果として4本5か所。
たかだかろっ骨の骨折の完治に、ほぼ半年かかりましたから。
ともかく、年中胸が痛かったんです。
この転倒した時の衝撃は凄まじく、
痛いのを通り越していましたね。

 

この経験があって、しばらくは自転車に乗れませんでした。
脳裏にそのシーンがよみがえって、恐怖心が先だって、
自転車をまたぐことさえできなかったんです。
ま、今でいう、心的外傷後ストレス障害、
よく聞く、PTSDというやつです。
この精神的な影響が消えるのに丸々2年かかりました。
まあ、これも記憶の一種ですから、どこかで薄れるものですし、
私は、根がポジティブですので、ある期間を過ぎれまあっけらかんとしたものです。
もっとも、年も年、自転車はミニベロ(小径の車輪のもの)にして、
そんなにぶんぶん飛ばすことはなくなりましたが。

 

私はこれを経験していますので、
その恐怖の体験が、薄らぐのには時間がかかるという事、
それ以前に、そういう心理状態になるものである、という事など、
ある程度PTSDについては理解しているつもりです。

 

さて、例の大相撲の暴行事件が紆余曲折の上、思わぬ展開になり、
結局、貴乃花が起こした一揆は腰砕けのように終焉を迎えたか、
に見えたのですが、なぜか、ここにきてまた妙な復活をしています。
こんなニュースを読みました。
「日本相撲協会は3日、春巡業に参加していない関取の休場理由を公表し、
3月の春場所で3場所ぶりに復帰した十両・貴ノ岩は
「心的外傷(後)ストレス障害(PTSD)、左足関節症」だった。
診断書は公表されていない。」というのです。

左足関節症はともかく、PTSDが理由というのが、ちょっと分かりかねますね。
要するに、その時に精神的な打撃が、土俵の上で相撲を取ることに障害になっている、
という事でしょ。
確か、障がいを受けた翌日かなんかの巡業の土俵は出ていますでしょ。
で、なんだかんだと休んだ挙句、先場所は、それなりに十両で相撲を取っています。

私で言えば、事故後2か月後ぐらいに、さんざ自転車で走り回って、
半年経ったところで、やっぱ、怖いから乗らない、と言っているようなものでしょ。
それはないと思いますね。


人間の記憶の問題なんですから、
基本的には薄らいでゆくでしょ。
時薬という言葉があります。
時間の経過が癒すという事です。
失恋の傷みも、大学受験に失敗した敗北感も、時間とともに薄らいでゆくものです。
ですから、左足関節症というのは分かりますが、
今更、PTSDが出てくるのは、
世間の理解を得られないでしょ。
一兵卒から出直すというなら、
まずはどんな仕事をするのかではなく、
人間としての基本をよく学び、そこか前進してゆくことです。


なんか、まだ、この方は、世間の常識という物差しと、自分の物差しがずれているような気がしますね。

 

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
そこまで来ている訪日観光客

資源の少ない日本では、物を作り、物を売る、というのが経済の基本的な骨格でした。
そのために、諸外国との商談的な場が必要で、
かつて、日本人は積極的に海外に向かいました。
とは言え、まだまだ経済的に足腰は弱く、海外に出かけてゆく人材や経費など、
日本の企業には荷が重かった時代が続きます。


単純に、日本の国にやってくる外国に人の数と、
日本から外国に出かけてゆく人の数を比較すると、そのあたりが見えてきます。
もちろん、観光という目的の出入国もありますから、
一概にこの比較がすべてを物語っているわけではありませんが、
傾向はある程度読み取れると思います。
つまり、入国数が出国数をずうーと上回っていたのです。
そして、昭和46年、今から35年前に、やっとこの出入の数が逆転し、
日本人が外国に行く数が日本にやってくる人の数を上回ります。


この傾向はどんどん格差を広げ、2年後には、入りと出の比率は2倍を超えます。
これはますます勢いがついて、昭和の後半には3倍になります。
平成に入ると、ついに、出国数と入国数の合計が、1000万人を超えます。
観光客の増大が、これに拍車を掛けます。
出入国の格差が、平成10年前後には入国に対して出国が4倍という数値になります。
平成12年には、ピークを迎え、出国する人の数は1700万人を超えます。
以来、ほぼこの数字の前後を推移しますが、
突然と観光客の入国が増え始め、平成25年に、初めて1000万人を突破します。
以来、順調にこの数は伸びて、
平成29年度の訪日外国人の数は、ついに過去最多の2869万人となりました。

ここまで来ると、観光という産業の経済性が注目されます。


観光と言ったって、旅行者が、ちょぼちょぼと金を落とすぐらいのもんだ、と考え、
観光客が地域経済に影響を与える、とは考えてきませんでした。
特に、そもそもが観光で立地していない地域では、他人事だったんですね。
もともと、温泉地とか、名所旧跡が多くあるところとか、
景観の優れたところなど、観光は地域経済の大きな要素でしたが、
それ以外は、どうあがいたって、このまちに観光客がやってくる、
なんて、気にもとめなければ、
ましてや、それを取り込もうなんて積極的なアイディアさえ出されなかったんです。
つまり特殊な現象だと。


しかし、ここにきてこうまで、日本に人がやってくるとなると、
それはそれで考慮すべきことではないか、と。
で、それなりの対策を立てて、おこぼれ頂戴できないだろうか、と。
ともかく、世界中から日本にやってきているんだから、何とかしようなどと言ってるんです。


世界中から?
いやそうかもしれませんが、比率というのがあるでしょ。
実態を冷静に眺めないと、獲らぬ狸の皮算用になってしまいます。

まず基本的な実態です。
訪日客の国別内訳を以下のようです。
トップ5は、ここ数年不動の1位中国(735万人)、2位韓国(714万人)、
3位台湾(456万人)、4位香港(223万人)、5位アメリカ(137万人)。
トップ2の中国と韓国は初めて700万人台を突破しました。
また、タイを筆頭にしてアセアン諸国からの訪日客が300万人を超えました。
これらを客観的に整理すると、
1. 全体の5人のうち4人がアジアから訪れている。
まあ、近いですし、近い割には、見どころも多く、安定した社会情勢ですから、
訪問先としては、安心して選択できるんでしょうね。
2. 欧米からの観光客は10人に1人にすぎない
その反面、欧米が少ない。
これは逆に遠いからでしょ。
3. 半数以上は中国語圏の人たち
中国、香港、台湾で、中国語圏の人たちは半数を軽く超えるんです。
例えば、英語は、ほぼ世界共通言語ですから、英語による案内・指示は当然ですが、
もう一行使う言語は、と言うと、中国語ですよね。
トイレ、という表示も、中国語と英語とが表記されているべきです。
まあ、比率から言えば、ハングルでの表記も必要でしょうね。
ま、最低、ガイドブックなどでも、
英語、中国語、ハングルといった翻訳が必要だと思います。
もちろん、HPなどでもです。

 

日本全体では、観光に対する姿勢が改善されてきて、
国際的にみても、日本は観光に力を入れる国という評価が高まっているそうです。
世界経済フォーラム(WEF)が昨年4月に発表した観光競争力ランキングで、
日本はなんと世界第4位になったそうです。
これは136の国と地域の観光をめぐる環境や政策、インフラ、
自然および文化資源の4つの領域に関する評価から算出されるものですが、
日本の強みは「顧客への対応」「鉄道インフラ」「文化資源とビジネス旅行」などです。
つまり、おもてなしの精神が行き届いている、と評価されたわけです。

 

さてその目で、平塚を顧みれば、おもてなしの精神はどこにあるのか、
という状態でしょ。
ひらつか最大の観光事業である七夕祭りに、
英語、中国語、ハングル語の表記がある案内チラシなんて、
まだまだつくる気すらないんですから。

| 水嶋かずあき | 平塚のこと | 11:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
なぜ勉強しなくちゃいけないのか

先日テレビの番組のあるコーナーで、
なぜ勉強しなくてはいけないのか、
と子供に聞かれたらなんて答えるか、という事の議論をしていました。
そもそも子供は勉強が嫌いです。
いや、もちろん学ぶことが好きな子もいますが、大体は勉強嫌い。
机に向かって座り、本をあけて読み、理解をしたかどうかを
ノートに書き写し、時に、テストされます。
出来が悪ければ、お前は、この程度、という数字で評価され、
親は心配して、勉強しろ、と尻をたたく。
覚えようと思っても、覚えられない。
記憶力という能力と、集中力という能力がいくらかでもかけていると、
成績は、伸びない。
それは勉強をしないからだ、となる。
やる気も起きないし、やっても成果が見えないとなると、

だれだって、勉強したからと言って、それが何になるんだ、と疑問を思うでしょ。
そこで、冒頭の、なぜ勉強しなくちゃいけないのか、という質問になるんです。


では、勉強のできる子は、どうして勉強ができるのか、
というその要因が整理されていて、それらから、
そのために、どうしたら成績が上がるのか、という成果を実感できるための
具体的なプログラムでもあったら、
まずは、勉強することの成果が見えてきます。
この方法もわからず、むやみに、勉強しろ、というのは、
子供にしてみれば、問答無用、いいからやれ、みたいな、個性を無視された存在として、
妙な取り残され感と、一抹の寂寥感を味わうだけなんですね。


その昔、中学の頃、番長を張っていた男の子を板前修業をするという事で
預かることになりました。
中学生にしては中肉中背の体つきで、さほど大きくはないのですが、
きっと喧嘩早くって、強かったんでしょうね。
ま、でないと番長は張れませんが。
で、この子は、3年生の夏過ぎに、学校公認で、うちの店で、アルバイトをすることになって、
半年ほど接点があったんですが、いざ仕事をさせてみると、

どこが番長だったのか、という感じがするくらい、まじめでやさしい男だったんですね。
私は大変興味を持ってしげじげと仕事ぶりから、彼の人間観察をしたのです。


基本的にこういう連中は勉強嫌いです。
で、どうして勉強嫌いになってしまったのか、という事なんですが、
どうもそれなりのきっかけがあったらしい。
授業中の先生の説明で、よく理解できなかったところがあった。
教科によっては、単元を積み上げて進む流れのものがありますから、
どこかで引っかかると、その先へ進めなくなるのです。
例えば、日本史ですが、奈良平安期のことに興味を持てなくて、
そこのところの知識が抜けてしまったとします。
しかし、戦国の頃から、桃山・江戸と興味を持ったとしたら、
それはそれで頭に入るでしょ。
しかし、ABCのアルファベットで引っ掛かったら、
その先は行けないでしょ。
いわゆる、レッスン1が終わるとレッスン2に行けるという場合は、
レッスン1で引っかかれば、レッスン3とかレッスン4は理解できないわけです。
でも、全体で授業は進めなくちゃいけないので、
そういう子は置き去りにします。
すると、ますます授業の中身が理解できなくなる。
考えてみてください、授業の小一時間の間、
まるで理解できない外国語の映画を見ているようなものです。
理解できないことが展開されているんですから、
そこに疎外感を持つでしょ。
仕方なしに、落書きしたり、うとうとと眠ったり、窓の外をぼうっと眺めたりするわけです。
中には授業放棄をしたりするんですね。
これが、数年間化蓄積されてゆくと
自分の身の置き場を探しはじまます。
時に、学校の外でやんちゃな連中とつるむようになり、
力があれば、番長を張り、肩で風を切るようになるんです。


まあ、その子も、そんな筋書きのような中学生活を送っていたんです。
この状態で、勉強せよ、といったってどこ吹く風でしょ。
なぜ勉強が役に立つのか、なぜ必要なのか、を、当の大人が明確に伝えられない。
そのやんちゃだった少年は、実に勤勉に仕事をしました。
その理由は簡単です。


仕事を決めた面接のときに、
うちは、ボランティアで君のような子を預かるわけではない。
君には一人の社員として仕事をしてもらい、
それでうちはうちで経営として成り立たせてゆかなくてはいけない。
ここでは仕事をしてもらう。
職場は遊びじゃないんだ。
これでみんな食ってるんだから、と。
君が、うちで仕事をするという事は、君が必要だから依頼するんだ。
正直、必要ないと思えば、預かることはしない。
努力をすれば、君は、必ず、このなかで必要とされる人間になれる、
ここで過ごすという事は、
教科書はないけど、君が一人前になるための勉強することになる。
ここで勉強をしそこなうと、君は一人前になれない。
そのための一日一日だと思って、頑張ってくれ、と。

 

教科書が無くても、勉強はできると思うんです。
国語も、英語も、数学も、歴史も地理も、
教科書が必要ですが、
人間としてどう生きるか、という事も勉強で、
何も教科書には載ってないことの方がはるかに多い。
学校の勉強は、社会での人間教育の一環に過ぎません。
しかし、そこのところは、できれば、しっかりと学んでおいた方が、
次の社会での学び方が効果的になる。
なぜなら、人間が考え、理解し、記憶するという事は、
人間の生き方を学ぶことのレッスン1になっているからです。

 

どんな動物も、原則、本能90%で生きて行けます。
しかし、人間は、DNAに十分刻み込まれていない集団生活を送ってゆくのに、
本能だけではうまくゆかない。
だから、後天的な生き方を身に付けなくちゃいけないわけです。
これが教育の本質なんですね。
ルートや、サインコサインの数字を必要とする生活はほとんどありませんが、
でもそこで、脳に容量を造りだすことが、次に社会性を受け入れてゆく基礎になるんですね。
なぜ勉強するのか、という事は、私はそのように思っています。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:20 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
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