水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
朝日の当たる家

実は、2月24日に、あるライブの司会進行をすることになったのです。
そのステージの演目に、朝日のあたる家、が入っていて、
さて、今まで結構雑にアニマルズの歌を聞いてきたけど、
この歌は、いったい何を歌い上げようとしていたのだろう、
と疑問になったんですね。
さあ、そうなると、いろいろと調べ回るわけですが、
その結果、世間は、かなりいい加減な解釈をしている、という事が分かりました。

 

アニマルズの朝日のあたる家、と聞いて、
ああ、あの歌ね、と思える人は、もしかすると
私と同世代ぐらいの、限られた人かもしれませんが、
一応、現段階での中間報告です。

 

まずは、この歌の経緯に触れておきますと、
17世紀に、イギリスのフォークソングとして歌われていて、

アメリカにわたり、1960年ジョーン・バエズがレコーディングし、
1962年にボブ・ディランが、さらに1964年にアニマルズが、
シングルを発表し、爆発的なヒットとなります。

 

まずはそのアニマルズ版の英語と訳語を載せます。

HOUSE OF THE RISING SUN(旭日館)

There is a house in New Orleans
They call the Rising Sun
And it's been the ruin of many poor boys
And God I know I'm one

ニューオーリンズに館があった
「旭日館」という館があった
そこは多くの若く貧しい少年らの廃墟だった
神よ、ぼくもその一人だった

My mother was a tailor
She sewed my new bluejeans
My father was a gamblin man
Down in New Orleans

母は裁縫を仕事にしていて
ぼくに青いジーンズを縫ってくれた
父はギャンブル狂で
ニューオーリンズに入り浸っていた

Now the only thing a gambler needs
Is a suitcase and a trunk
And the only time that he's satisfied
Is when he's all drunk

さてギャンブラーがいる物といえば
スーツケースとトランクだけだった
そして彼が満足するときといえば
酔い潰れているときだけだった

Oh mother tell your children
Not to do what I have done
To spend ther life in sin and misery
In the house of the Rising Sun

母よ、子供に言い聞かせてくれ
ぼくがしでかしたことをするな、と
罪と惨めさの中で生涯を送るな、と
朝日の昇る館で

With one foot on the platform
And the other foot on the train
I'm going back to New Orleans
To wear that ball and chain

片足をホームに乗せて
もう片足を列車に乗せて
ぼくはニューオーリンズに戻ろうとしている
その重りと鎖を付けるために

さらに、第1節が繰り返されます。

 

で、ここで問題になるのは、
タイトルの訳です。
こじつけのように、旭日館、とか朝日楼とか言いますが、
どうも、これは朝日のあたる家、でいいと思うんです。

この曲の解釈の中で、3行目のthe ruinの解釈が、
大きな影響を与えます。
ジョンバエズが歌ったバージョンでは、
Its been the ruin of many a poor girl
となっていて、もともとは女性が主人公の歌なんですね。
したがって、ここの解釈が、娼館と解釈されていて、
この主人公は売春婦だった、という事になります。

その影響で、旭日館とかになりがちなんですね。
まあ、それはアニマルズ前の解釈です。
で、アニマルズは、これをboysに変えて、
主人公を男性にしました。
ここから、どうも混乱が始まったようです。

 

曲全体を眺めてみると、
この曲の基点なるのは、
どこかのまちの鉄道の駅におかれていて、
5節目で、列車の乗ろうとする場面がありますが、
この瞬間の歌なんですね。

ろくでもない境遇の中で、ぐれて、荒れた生活をしてきて、
挙句の果てに、犯罪に手を染めてしまう。
そして結局つかまり、New Orleansで、投獄されることになった、
そんな自分の暗い半生を、いささか後悔の念を持って
歌ったものです。

 

自分が育った家は、
割れた窓ガラスはそのまま、玄関にはごみがだらけで、
正に掃き溜めのような所で、(the ruinの解釈です)、
親父は、ばくち打ちの飲んだくれ、
兄弟もろくでなしが揃っているという家族。
絵に描いたようなみじめな人生を送り、気が付けば犯罪者になっていた、
と言うところでしょうか。

 

その暮らしていた家を、世間は嘲笑を込めて、
the Rising Sunと呼んでいたんですね。

この、光り輝く清廉な朝の光を浴びている家も、
実は暗い人生を送ってい住人がいる、
と言う光と闇の世界の対比を
曲のタイトルとして掲げたのではないか、
と言うのが私の解釈です。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
じじいが歩けば車に当たる

とても気になるデータ−が紹介されていました。

それは、横断歩道に人影を見かけた時に、
手前で、自動車運転者は、一時停止するか、どうか、と言うデータです。
調査をしたのは、JAF。
昨年の8〜9月に、全国各都道府県で、二カ所ずつ、合計94カ所で行われたそうです。
信号機のない横断歩道を通過した10251台が対象となりました。
その結果、歩行者が渡ろうとしている場面で一時停止したのは
なんと867台(8.5%)にすぎなかった、と言うのです。
つまり、基本的には横断歩道に立っていても、車は止まってくれない、
と言うのが現状なんですね。


で、盗人にも三分の理、と言いますので、
車を止めなかった人の言い訳を聞いてみると(複数回答)
まず、自分の車が停止したとしても対向車が停止しないから、停車する意味がない、ですって。
これは驚いた理屈ですね。

一分の理もないでしょ。
次に、後続の車がきておらず、自分の車が通り過ぎれば歩行者は渡れると思うから。
要は待ったとしても数秒の違いでしょ、というわけ。
う〜ん、これは二分ぐらいの理があるかな。
実はこの理由で、時々、私も一時停止をしないことがあります。
ちなみに、その時の走行状態にもよりますが、私はおそらく平均以上に止まる方だと思っています。
で、三つ目の理由は、横断歩道に歩行者がいても渡るかどうかわからないから、
ですって。
いや、渡るかどうかは、普通分かるでしょ。
それはそれなりの雰囲気を醸し出しているものです。

渡らないとしても止まるのが基本でしょ。
明らかにこれはいいわけですね。
一分の理もなし。

 

で、まあ、これは運転者側の言い分です。
ですから、その言い分がどうであれ、
歩行者には関係ないことで、こんな理由で、事故にあったらたまらないでしょ。


これは別のデータですが、
死傷者の約6割が道路横断中の事故なんです。

年間で、2000人弱の方々が、横断歩道で亡くなられるのです。
ま、被害者側から見れば、横断歩道は、超危険ゾーンと言うわけです。

しかしですね、また別のデータでは、歩行者にも問題がある、と言うのです。
歩行者側に原因がある場合は、
歩行中死傷者は、4割以上が重傷以上(重傷または死亡)となっており、
一方、原因がなかった歩行者では、重傷以上の死傷者は約2割にとどまっているそうです。
つまり、横断歩道を渡るのに、
その前後のゾーンの離れた場所を渡ったとか、
急に飛び出したとか、ななめ横断をしたとか、
まあ、正常な渡り方をしなかった場合、
その危険度は高まり、
正常な横断をしている人の二倍の確率で、死傷してしまうんですね。
これは結構な確率でしょ。


つまり、歩行者としても、護身的な意味もあって、
ちゃんと横断歩道を渡りましょ、という事です。
いくらみんなで渡れば怖くない、と言っても、
赤信号で渡ると、一挙に危険率は上昇します。

 

以前中国の福建省に行った時のことです。
突然、国家の命で、あるところに道路を造ることになり、
AからBと言うそれぞれ主要な町を直線で結ぼう、というわけです。
で、多分、この道路の設計を担当したものは、
地図を広げ、AからBに向けて、一本の直線を引いたんですね。
いや、それぞれの地域の生活形態なんか無視してです。
で、その計画通り工事を進めたものですから、
ある集落は道路でその生活圏を分断されてしまったわけです。
今までその集落内で動いていた連中は、その道を渡らないと用が足せないわけです。
かといって、信号はないし、ご丁寧に横断歩道なんか作ってくれない。
で、住民は片側三車線の道を渡るのに、
まず、車の途切れたころを見計らって、中央まで進み出るんです。
そして、センターラインに立って、次に、反対側車線の車の途切れる瞬間を待って、
一気にわたるんですね。
私はこの道を通った時に、センターラインに沿って、人垣ができるような光景を見て、
むしろ、車に乗っている方が怖い、と思ったほどだったのです。
まあ、なんだかんだと、あの状態では、死人が出たでしょうね。


でも、きっとそれなりに鍛えられてゆくんだと思います。

さ、その意味で、鍛えるにも鍛えようない年よりは、
この横断歩道での死傷者になってしまうんですね。
死傷者の年齢別・世代別では、
65歳以上の高齢者が多く、負傷者の約3割、
死者の約半数となっています。
ちなみに、また、高齢者の死者の75%は、
道路横断中に事故に遭っています。

いや、おちおち歩いていられないですね。


犬も歩けば棒にあたるですが、
じじいが歩けば車にあたる、と言う世の中です。

| 水嶋かずあき | - | 11:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
カトリーヌ・ドヌーブさんの言い分

アメリカのグラミー賞のアワードに、出席した女優のほとんどが、
黒い衣装をまとい、ハリウッドにおけるセクハラ撲滅を訴えたというニュースを見ました。

この運動、Me Too、と言うそうです。

私もそうだったの、という意味でしょうか。

私は、個人の権利を主張する一種の運動として、いかにもアメリカらしいと思ったのですがく、
若干違和感を感じていました。


セクハラと言うのは、基本的には、一対一の出来事なわけでしょ。
つまり、ケースバイケースと言うことです。

それをみんなで撲滅、と言うのは、さまざまな事情を無視して、十把ひとからげのような気がしたからです。

 

すると、今度は、

「フランスの女優カトリーヌ・ドヌーブさん(74)や
女性作家ら100人が10日付ルモンド紙に連名で寄稿し、
男性嫌悪をあおる女権運動は認めない、と訴え、
セクハラ告発キャンペーンの行き過ぎに警鐘を鳴らした。」
と言うニュースを見ました。
で、まあどうでもいいのですが、あのカトリーヌ・ドヌーブです。
いや懐かしいですね。
ある時期、地球上のかなりの比率の男どものマドンナだったはずです。
シェルブールの雨傘と言う、かなりショッキングなミュージカルで主演し、
その後も昼顔など、数多くの映画に出演。
いくつかの映画祭では主演女優賞を取るなど、
正に女優の大御所と言った存在の人です。
さらにどうでもいいのですが、この記事で、彼女の年齢を見て、
なんと同級生じゃん、と。
ま、関係ないですけど。


で、彼女の言い分は、男の口説く権利を認める、と言ったことです。
今、ソーシャルメディアで広がるセクハラ被害の告発運動「MeToo」
の一連の動きを批判したもので、
「暴行は犯罪だが、しつこく言い寄ることは性犯罪ではない」としたうえで、
「膝を触ったり、軽くキスしようとしたりしただけで男性は制裁され、失職を迫られている」
と現状を嘆いたそうです。
セクハラ告発の行き過ぎは、女性をかえって、立場を貶めてしまうことになりかねない。
ま、要は、私たち女性は、と言いつつ、保護を必要とすることを主張している、と。


米国では昨年秋、ハリウッドの大物映画プロデューサー、ハーベイ・ワインスタイン氏が
女優やモデルにセクハラで告発されて、社会的な制裁を受けたことがきっかけのようです。
要は、確かに、犯罪的な要素があるんだったら、それはそれで問題ですが、
男と女の微妙なやり取りの一つと考えれば、

目を三角にして訴えることもないのでは、と言ってるわけです。

で、確かにそうでしょ。


ま、Me Tooやドヌーブさんそれぞれの言い分はあるとして、
男が、確定的でない関係をより進めようとした時、
(まあ、男が女を射止めようとした時、という事です)
一体どのレベルまでがセクハラでセクハラでないのか、と言うラインがあいまいでしょ。
特に、妙なのは、映画女優やモデルと言うのは、
女性として非常に魅力的な人たちでしょ。
美人で、スタイルもよく、さらにセクシーとなれば、
正に、男が言い寄っても当然な条件を備えているわけです。
で、実は、本人たちも、成長する過程で、
自分の美しさやらスタイルの良さ、つまり、女としても魅力はまあまあある方だ、
と認識するんでしょ。
で、その肉体的利点を活用しようと、モデルや女優と言う職業を選択する。
そして自分の美しさに磨きをかける。
そこに目を付けた芸能関係者が、作品やら写真やらに出ないか、とオファーをかける。
多分、売れないころにそんな話があれば、やったー、と思うんでしょうね。
つまり、女としての魅力を認めてもらったことじゃないですか。


それは程度の差こそあれ、口説いてみたい、と思わせる要素が十分にあるからです。

ある日本の女優がこの件に関して言ってました。
口説かれるのは悪い気がしない、と。
ま、時にしつこかったり、行動的であったり、様々な口説き方があると思いますが、
それらをするな!と言うなら、
じゃあ、そんなきらびやかなモデルや女優と言う仕事以外で、
自分の女らしさをアピールすればいいじゃないか、となりませんか。


基本的に、今まで色々と言われてきたことですが、
セクハラっていうのは、する側とされる側の人間関係でしょ。
虫も好かない男から声を掛けられたら、このスケベ親父、となるし、
敬意や好意を抱いている相手から口説かれたら、うれしいんじゃないですか。
もちろんその先に進むかどうかは別にしてです。
私はそこそこに魅力的な女だ、と、もし自覚していて、
どこからも声がかからなければ、きっと淋しい思いをすると思うんです。


ただ、この問題に関しては、「性」と言うゴールがちらつくことでしょうね。
でも、世の中、男と女で構成されていますし、
神様が人間に与えた本能では、産めよ増やせよ、という事が条件ですから、
秩序の中では、嫌悪することもないと思うのです。

要は微妙なラインは状況次第で変わるという前提で、
まずは、魔女狩りのようなセクハラ撲滅みたいな部分は、
行き過ぎじゃないか、と思うんですね。


私はドヌーブさんに賛成です。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:11 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
韓国の言い分

この1月いっぱい、SCNの2チャンネルの市民クラブTVと言う番組枠で、
12月に外務省、大臣接見室で収録した河野外務大臣と私の新春トークが
放映されていますので、できればそれをご覧ください。

 

この中で、河野外相が、アセアンの会議に就任4日後に出席することになったそうです。
会議が終わって、出席者のレセプションが開かれた時、
各国の外相が談笑している輪の中に、なかなか入って行きづらく、
まるで、新学期に転校してきた生徒のように、
周りになじみ切れなかったことがあったそうです。
この時、韓国の康京和(カンギョンファ)外相も、就任したばかりで、
二人とも輪の外だったため、転校生つながりのように
ま、なかよくやりましょう、と言うやり取りがあった、と話していました。

 

とは言え、二国間の外交となると、やはり丁々発止になるようです。

日本政府は、韓国政府が慰安婦問題を巡る日韓合意に関して
新たな対応方針を発表したことに強く反発しているそうで、
韓国の康京和外相が、「自発的な真の謝罪」を求めたようです。
これには一切応じない方針で、日韓合意の着実な履行を引き続き求めていく、
という姿勢を崩さなかったとのことです。

繰り返されて表現されてきましたが、
日韓合意には、慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」が確認されています。

 

で、なにより不思議なのは、
韓国の求める自発的な真の謝罪という言葉の、より具体的な内容です。
地べたに頭を付けて土下座をすることなのか、
なみだをながしながら、悪かった、という事なのか、
一体何を持って自発的と解釈し、真の謝罪とみなすのか、という事でしょ。

私は、冷静に客観的に考え、今まで日本が繰り返し謝罪してきた
そのどこに自発性が感じられず、真の謝罪と受け止められなかったのか、
よく分からないのです。

外交ですから、やや抽象的なやり取りになるがちなことは、
一種の政治手法ですからやむを得ないと思うのですが、
もう少し、具体的な要求にならないと判断できないでしょ。
よくある、謝りゃいいという問題じゃねえ、みたいなことを言ってるわけでしょ。

実際は、受け止める側の姿勢がぐらついているんですね。
だから、じゃあどうすればいいのか、と言うのがあいまいになる。

ちなみに、日本が韓国、中国に関して、戦争謝罪と言うのは、
繰り返し行われてきているのです。
政権担当者だけではなく、1990年5月、今上天皇から、
「昭和天皇が『今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは
誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない』と述べられたことを思い起こします。
我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、
私は痛惜の念を禁じえません。」と、韓国大統領に対し発言されています。
これって、謝罪でしょ。

 

特に、慰安婦問題に関することだけでも、
1992年1月、 宮澤喜一首相。
「私は、総理として改めて貴国国民に対して反省とお詫びの気持ちを申し述べたいと思います。
いわゆる従軍慰安婦の問題が取り上げられていますが,私は、このようなことは
実に心の痛むことであり,誠に申し訳なく思っております。」
1993年8月、河野洋平内閣官房長官。
「いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。
政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、
心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。
1994年8月、村山富市首相
いわゆる従軍慰安婦問題は、女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、
私はこの機会に、改めて、心からの深い反省とお詫びの気持ちを申し上げたいと思います。
<中略>我が国のお詫びと反省の気持ちを表すことになると考えております。
さらに、1995年7月、村山富市首相。
いわゆる従軍慰安婦の問題は、
旧日本軍が関与して多くの女性の名誉と尊厳を深く傷つけたものであり、とうてい許されるものではありません。
私は、従軍慰安婦として心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対して、
深くおわびを申し上げたいと思います。
1996年6月、橋本龍太郎首相。
従軍慰安婦の問題について、私はこの問題ほど女性の名誉と尊厳を傷つけた問題はないと思います。
そして、心からおわびと反省の言葉を申し上げたいと思います。
2001年小泉純一郎首相。
いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。
私は、日本国の内閣総理大臣として改めて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、
心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。
2007年4月、安倍晋三首相。
従軍慰安婦の問題について昨日、議会においてもお話をした。
自分は、辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、人間として、また総理として心から同情するとともに、
そうした極めて苦しい状況におかれたことについて申し訳ないという気持ちでいっぱいである。

 

ま、これはある意味慰安婦の方々に対する謝罪の一部です。
ほとんどと言っていいほど、歴代の首相はこの従軍慰安婦問題について触れていて、
謝罪の言葉を述べています。
まだ足りない、と言うのは、何が不足しているんでしょうか。

正直、極力両国の関係を公平に見ても、私には韓国が何を求めているのかよく分かりません。
ですから、先ずは、要求をするんだったら、真の謝罪、なんて抽象的な表現では、
どうも埒が明かないと思うんですね。


それと、合意の見直しとか破棄とか言ってます。
これは前政権が交わした約束だから、今の私達にとっては無効である、みたいな理屈でしょ。
だったら、この戦争犯罪は、80年も前に、私たちの曾じいちゃん、じいちゃんたちが
起こしたトラブルだから、今の私達には関係ない、という論理が成り立つでしょ。


どう考えても、あの国の言い分と言うのは、首尾一貫していないですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
要は人の判断なんだから

先日、テレビで、アスリートたちがひな壇に座って、
それぞれの競技の世界での内輪話を披歴していました。


案外、外から見るのと違って、
何か基準がヅレていると感じたり、結構ヒューマニティに溢れていたり、
また、滑稽なことも多く、最後まで飽きずにその番組を見たのです。

その中のコーナーとして、誤審についての話が出てきました。
今はビデオが駆使されて、試合中でも、あるルールに沿って要求をすると
テレビカメラでとらえた瞬間を検証し、
極力誤審を避けようとする制度が定着しつつあります。

 

基本的には人間の目と瞬間的な判断にゆだねられているのですが、
ここに作為が働けば、かなり微妙に勝敗に影響を与えることができるわけです。
ですから、審判の能力が劣る場合は、これは問題が発生しがちなんですね。

 

ちなみに相撲では行事が判定をしますが、
その周囲には、勝負審判員という立場の人たちがぐるりとまわりを取り囲んでいて、
行事だまりに二人、正面、東、西に各一人の計5人。

彼らは、微妙な判定には、物言いをつけられます。
で、実は、控えに座っている力士も物言いを言える立場にあり、
東西、控えには2人ずつ座っていますから、
なんだかんだと行事以外に9人もの目が光っているんです。
これって、あらゆるスポーツの中で、最高の監視体制だと思うんですね。
またさらに、ビデオ判定をしますので、
相撲に関しての勝敗の決定は世界中のスポーツで、
もっともすぐれたシステムで運用されているのです。

いや判定の話で、

組織の運営の話ではありません。

そう言えば、行司がばかなことをして、また突っつかれていますね。

そこで、話は変わってということなんですが、

こんな川柳を詠んでみました。

「最高位 力士はヨコで 行司タテ」

 

ま、ともかくです。

これは、相撲の勝敗は、物理的な要因で決定できます。
先に土俵の土がついたか、もしくは土俵を割ったかのどちらかですから、
とても明快です。
テニスやバドミントンなども、ラインのうちかどうかとかの判定が基本ですから、
なんだかんだと物理的な要因で判断できます。
でも、サッカーなど、多くの競技は、イエローカードなのか、ただのファールなのかは、
審判の見方ひとつで変わってしまいます。
よく、あれはPKだろう、という場面でも、笛が吹かれなかったりしますが、
得点に大きく影響する判断に、なんだかんだと主観が持ち込まれるので、
しばしばトラブルになります。


ボクシングなどもそうでしょ。
審判は審判なりにプロなわけで、そのプロにもかかわらず、三者三様の判定ってあるでしょ。
割れるということ自体がおかしいでしょ。
それは判断の仕方が未熟だからです。

 

時に誤審は大きな影響を与えます。
そして、裁判まで持ち込まれることすらあるのです。

でも、その裁判も実は人間の判断なんですね。


司法試験を通ったという事は、法文の内容を記憶しているという事と、
それぞれの対応基準をも理解しているという事が前提でしょ。
ある犯罪でも、量刑の幅があります。
懲役になったり、禁錮刑になったり、有罪と言えど執行猶予が付いたりと、
状況が勘案されるので、固定的な判決にはなりません。


したがって、犯罪によっては、まあこんなところか、と言った量刑の目安がつくようです。

それで、司法関係の人、裁判官、検察官、弁護士などの人たちは、
確かに人の判断で、量刑が決まったりするので、
個人的な見解を恐れているようです。
したがって、彼らにとって、法を照らし合わせる場合、
ほぼ、判例と言うものに頼ります。
かつて、何年何月のどこそこの高裁で、
このような判例があった、となると、それを参考に、時に基準にして、
法の解釈をしようとします。
もちろん、法で照らし合わせる事案と言うのは、
千差万別なので、細かな個別の条件を丁寧に洗い直し、整理したうえで、
判断しやすいようにして、最終的な決断をするのでしょうが、
いずれにしても、かつてどのように扱われたか、
という事からはなかなか脱却できないようです。


それは、人間としての判断には、どうしてもムラがあり、
それによる誤差を最小にしようとすると、
どうして、過去の判例に頼らざるを得なくなるのです。

人間の判断って、実は結構あいまいで、恣意性に富んだものなのです。

 

でもいずれ、この分野も、いつかAIに頼るようになるかもしれませんね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
北朝鮮への圧力の理由が不明確

ミサイルとロケットは基本的には同じものです。
しかし、ロケットと言うと、宇宙開発に使われ、
人工衛星などの打ち上げを担っています。
また、ミサイルと言うと、核弾頭を搭載し、敵に向かって発射され、
攻撃のための武器となります。

要はその用途により呼び方が変わるんですね。

 

で、これまで、人工衛星を打ち上げた国は、米・露・仏・日など9カ国で、
日本を除く国々は、そのロケット技術をミサイルに転用しています。

つまり、世界で唯一、ミサイルの技術を持ちながら、
核を搭載することなく、平和的にロケットとして開発をしているのは、
日本だけなんですね。

これって、平和国家として誇るべきことでしょ。

 

で、一方、世界で核を保有している国の数は27カ国。
アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、インド、パキスタン、アフガニスタン、
サウジアラビア、イエメン、UAEなど中東の国々はほぼ持っています。
それに、中国、韓国、台湾、北朝鮮など。

ロケットの技術もないのに、ミサイルを持っているのは、

核搭載のミサイルを買っているからです。

まあ、武器の輸入ですね。

つまり、アメリカ・ロシア・中国などは様々なサイズのミサイルを保有していている核大国ですが、
これは自前で作ったもの。

中東などの国は、まあ、小型のミサイルを持っている程度で、
簡単に言えば、スカッドなどを買って持っている、と言ったところです。
ですから、自前で核開発をし、自前でロケット開発をしたわけではないのですが、
一応、なんかあったらまずいから、ちょっとしたミサイルぐらいは保有しておこうか、
みたいな国があるので、27カ国と言うことになっているのです。

 

さて、相変わらず、北朝鮮が、核開発やらミサイル開発やら熱心に進めていますが、
これを圧力をかけて、中止させ、やがて廃棄させようと、
国際社会が躍起になっていますが、
なぜ、そこまでムキになっているのか、という事が、
漠然としていてよく分からないのです。
なぜなら、世界中では27カ国もの国が、ボタン一つで核戦争の幕を開ける可能性を持っているのです。
ちなみに、米露はそれぞれ2000発前後が配備済。
お隣中国では、非公式ながら、300発と言われています。
この中国が、ロケット開発をし、核開発をしてきた経緯で、

国際的に一致団結してそれを阻止しようとはしてこなかったでしょ。

27カ国が核を持つ過程で、北朝鮮だけが格別な扱いを受けているわけです。

ま、これは、北朝鮮に対する信用度の問題が大きいんですね。

 

つまり、北の開発を危惧するのは、
もうこれ以上核を作らせない、と言う国際的な世論が背景で、
すでに作って、一抜けた、と言ってるところはその対象外なんですね。
妙だと思いませんか。
核戦略に既得権があるなんてことが、おかしい。
冷静に考えれば、核の脅威と言うのは、持っていることが第一なわけです。
でも既に持っている。
中国、台湾、韓国、北朝鮮、ロシアと、日本を取り囲む国々はすっかり核武装しているわけです。

そこで、日本はアメリカの核の傘の下にいるわけです。
いや、だったら日本も自前に核を持とうか、というわけではありません。
みんな日本以上に心配性が揃っていて、なんかあった時に
対抗できるぞ、と言う抑止力を想定しているんですね。

 

これって、アメリカがしばしば銃で人を殺傷する事件が発生しているのに、
身を守るために銃を携帯する、という事に似ていると思いませんか。
実際、アメリカでの銃による犯罪のうち、わずか3%が正当防衛という事ですから、
実際は護身用と言う、いわば抑止力の役目を果たしていない。
極端な 見解ですが、全米ライフル協会会長のコメントは、
「銃を持つ自由の対価として銃で撃たれるのも仕方ない」とまで言っていて、
本来銃と言う武器を持つことの意味を否定していると言ってもいいかもしれません。
ミサイルもこれと同等とは思えませんが、
持つことの抑止力と言う点では、実はあまり意味がないのではないか、と思うんですね。


さ、そこで、北朝鮮が、とやかく言われるのは、その根底に、
核のボタンを管理する人間の問題があるのですね。
つまりあいつならやりかねない、と言う危惧です。
だって、中国の核保有が結構、スルーされてきた経緯と言うのは、
中国は、絶対に先制攻撃はしない、と、かなり明確に断言しているんです。

で、国際社会はこれを信用した。

ですから、北朝鮮が核保有国になるという事を危惧するのは、
不信が前提になっているわけです。

その点が大きいのではないか、と。
もっとも、あのカリアゲくんの性格を、伝えられる情報の範囲で推し量っても、

少なくとも信頼がおける冷静沈着さを持っていて、

穏かで、人類愛に満ちているとは思えないでしょ。

お兄さんを殺し、親戚のおじさんを殺し、

ちょっとでも刃向かった部下を殺し、恫喝を得意技とするなんて人物が、

ボタンを管理することになったら大変だ、と。

 

で、もし、あのカリアゲ君以外のそこそこの人格者が次なるリーダーに収まって、

国情も安定してきたら、

今ほど、圧力をかけるという声は収まってくると思うのです。

そして、北朝鮮も核保有国になるんですね。

 

ですから、国際社会も遠慮せず、あんたはダメ、あんたがトップである限り、

圧力を緩めることはありません、と、付帯的な条件を付ければいいじゃないですか。

それも明確に。

でないと、中国がよくって、北朝鮮がだめ、と言う矛盾が残ったままになるでしょ。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:21 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
正気を取り戻せ

今日は人日です。

中国では、その昔、一月、年が明けると、鳥から始まって、犬、牛、羊、馬など、

さまざまな動物のその年に運勢を占い、一通り終わって、

七日目に人間の運勢を占いました。

そこで、この日を人日と言っています。

さて、今年の人間どもの運勢はいかなるものなんでしょうか。

 

その人間ですが、どうもパッとしないようですね。

世界のあらゆるところで、人間たちが引き起こすさまざまな不協和音が、
年ごとに大きくなってきているような気がします。
経済的な格差、宗教の違い、破壊されつつある環境への無神経な対応、
対立に分断、ナショナリズムの高まり、などなど。
一言で言えば、正気を失ってきている、と思うんですね。
多くの人々もSNSを通じて手にする情報を、

正気を持って消化できなくなっているのではないか、と思うんです。

これに輪をかけ、多くのマスメディアそのものが正気を失っているので、

その影響は直接的に人間たちに響くんですね。

 

太平洋戦争が悲惨な結果をもたらし、

世界中で、6000万人の人々が命を落としました。
戦争の犠牲者、と表現すればそれまでですが、
彼らは、人に殺されたのです。
ある人は、爆風に飛ばされ、ある人は銃弾で直撃され、
その肉体を破壊され、命をつなげることができなくなったのです。
戦争と言うと、そこでの死は、半分やむを得ないような感覚がありますが、
国家が主導しようと、行われたことは殺人なわけで、
個人が行えば、時に死刑までの懲罰を受けることが、
やむを得ぬ死として、当然のように行われて、
その数、6000万人です。
この多くの犠牲とともに、世界は終戦を迎えて、我に返りました。
もう二度と戦争は起こすまいと。


日本の憲法は、焦土と化した日本の国の再生を誓うとともに、
この状況を呼び込んだ、戦争行為に二度と関わるまい、
という決意の表明だったはずです。
国連の創立趣旨書の内容と、日本国憲法の類似点が多くあります。
それは同根のように、不戦の誓いに根ざしているのです。
私は、この時の国際社会と日本の国が根底に抱えていた感情は、
正に正気であったろうと思うのです。
太平洋戦争に突入しようと言う国を覆っていたある種の空気感、
それは国に要人たちの感情とか、
一部の国民の感情とか、その精神状態について、
正気とは言わないと思うのです。
そして、終戦後、新たな国づくりに向けて立ち上がった時の空気感は、
まちがいなく正気を取り戻していた、と思うのです。

 

どこでどうずれこんだのか、今、地球を覆っている
さまざまな不協和音、軋みのような不快な音は、
いつごろから発生し始めてのでしょうか。
そして、間違いなく、それは大きくなってきています。

そもそもが、EUが設立された時は、戦争への反省がおおもとでしたから、
それは正気が行った沙汰だと思うのです。
しかし、イギリスが離脱し、各国で、移民をネタに、ナショナリズムが台頭してきた
という事は、決して正気の沙汰ではないでしょ。
なんとなくですが、アメリカのトランプをはじめ、世界中が正気を失いつつあるんですね。

 

日本もそうです。
73年前に正気を取り戻して、これだけの年月が過ぎれば、
また違った局面を迎える。
まあ、時の流れですから、ある程度は致し方ないとは思うのですが、

間違いなく、正気は崩れてきている、と思うのです。

状況に応じた憲法の在り方は検討する必要があると思いますが、
73年間日本人は曲がりななりにも、まあまあ幸せに過ごしてきたではないですか。
ですから、その経験を活かして、正気を失うことなく、
憲法の問題も考えてもらいたいものだと思います。


戦争を経験しなくては平和になれないなんて、愚の骨頂でしょ。

 

昨日、74才になりました。
後期高齢者へのカウントダウンです。
誕生日を迎え、この後何を喜びとして生きてゆくのか、
としみじみ考えたんですね。
だってこれって大事なことでしょ。

で、結論。


日々、一年一年、世界が平和に向かって前進しているという事を実感することかな、
と思いました。

これがなによりの望みです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:05 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
不安がる民族

日本人はそもそもが脳科学的に言っても不安を感じることが多い民族だそうです。
これは、最近テレビなどでコメンテーターとしてしばしば出演している
脳科学者の中野信子教授が説明しています。
セロトニンという物質が、脳が不安を感じる部位に働いて、
不安を感じるというメカニズムがあって、
このセロトニンの比率が日本人の場合多いのだそうです。
つまり、私たちは不安がる民族、という事でしょうか。

 

民族的な規模での不安と言うと、
中国の故事で、杞憂と言う言葉があります。
杞憂の「杞」は中国周代の国名。
「憂」は憂えること。
杞の国の人 が、天が落ちてきたり、大地が崩れたりしないかと、
あり得ないことを心配して、夜も眠れ ず食事も食べられなかったという
『列子(天瑞)』の故事から、
あれこれと無用な心配をすることを「杞憂」といいます。


これはありえないか、無用とかは、その時点では分からないわけです。
今の人は、科学的な情報をたっぷり持っていますから、
天が落ちてくるなんて考えもしませんが、
そのことが分からなければ、あながち、その無知ぶりを笑うことはできないでしょ。
自分の家に強盗が入るかどうか、は今の時点では分からないわけです。
ですから、その不安のもと、対応をする、と言うのが厳重な戸締りでしょ。
地震があるかもしれない、と言うのが、防災対策で、
水やらカンパンやら懐中電灯を用意しておくわけでしょ。
そしてどうも、この不安に対するレベルが、

多く、人の行動のかなりの部分を司っているのではないか、と思えるのです。


そうそう、このセロトニンは、男より女に多いそうで、
その意味では、女の方が心配症が多いそうです。
うちのかみさんが、この心配性で、
利点としては、起こりうる事態を予測し、きめの細かい対応をします。
床に置いてあるものを片づけて、子どもが引っ掛かって転ぶかもしれない、と言うわけです。
私は、レベルで言うと、最も楽天的な考えをするタイプで、
すべて大雑把、何とかなるのタイプです。
昨日の昼間、地震速報のアラームが鳴りました。
おそらくみなびっくりしたと思うのです。
たまたまテレビがついていて、画面を見ると、震源地が示されていました。
私は即座に、きっとこれは誤報だと思う、とかみさんに伝え、
バタバタするな、と注意したのです。
地図を見て、あの茨城県沖の位置で、

地震速報が基準としている震度5弱以上の地震は起こらない、と考えたからです。
結果誤報でしたが、大丈夫、と判断したことと、

バタバタしたこととどちらが正解か、よく分かりませんよね。


不安とは、当たろうと外れようと、要は、どっちが正しいとかじゃないんですね。
当たれば当たった時なりの対応がありますし、
外れたら外れたなりの対応がある。
いかに、その状況を克服するかの次善の策が速やかに取れるかどうかです。

ですから、心配性の考え方を肯定も否定もできないのですが、
それぞれに、それぞれのメリットデメリットがあります。
心配性の場合、セキュリティに対する金銭的・人的な労力がどうしてもかかります。

分かりやすいのが、国防に対する考えです。
心配性的な考えでは、軍備を増大させます。
四方八方守りを固め、そこにコストを掛けます。
しかし、もし、どこからも攻められなければ、これは無駄な投資をしたことになります。

 

史上最大の無駄な心配性のツケは、米ソの抑止力拡大作戦です。
相手の持つミサイルより、より多くのミサイルを持つことで、
抑止力を高め、それによって国防を固めるという考えをお互いが持ったわけです。
結局、この東西冷戦は終焉の時を迎え、
ソ連は、過剰に持ったミサイル・核爆弾の処理に、かなり経済的な負担を負いました。
しかし、これは、衝突がなかったからいいようなもの、という考えもあります。


つまり、誰も将来のことは断定できませんが、断定できないだけに、
その対策をするわけです。
でも、これって、杞憂かもしれないでしょ。


今年は憲法改定の年だそうです。
数年前から見ると、改定論者の比率が大きくなっているようです。
つまり、理屈はともかく、心配性人間が頭をもたげてきた、という事でしょうか。
なんだか不安なのは、日本人は心配性が多そうですから、
軍備を充実できるための選択をしそうですね。

 

それが心配です。
と、つまり私も心配性なのかな。

| 水嶋かずあき | - | 11:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ま、いじめですね、明らかに

昨年末のブログでもこの不安を書きましたが、

年が明けたというのに、まだ去年のトラブルを引きずっていて、
しかも、予想以上に過敏に取り上げているので、いささか辟易ですね。
テレビもテレビで、年明けのさまざまな日本の様子とか、世界の情勢を
緻密な情報として観たいのに、

もうどうでもいい大相撲の話題を取り上げています。


確かに、庶民の関心はまだまだそちらを向いているとは思いますが、
公平で、客観的な情報の中から、
健全な平衡感覚のための情報を届けるのも、メディアの仕事なんじゃないか、と思うんです。

 

ワイドでの各コメンテーターの意見を聞いていて、

あまりにも、一つの現象、一つの言葉に捉われすぎていないでしょうか。
こう言ったから、なんて発言の裏を憶測したって、あまり意味がないでしょ。
第一、日本相撲協会の理事選挙の一票をみんなが持っているわけじゃないですもんね。
これはどこかの一室で行われる組織運営上の問題なんですから、
そこの様子を壁に耳あり障子に目ありのように、覗うのもいかがか、と思いませんか。
ワイド番組などでは、ことさら、複雑に考察していますが、
単純に考えればいいわけでしょ。

 

高校生のやんちゃな集団がいて、
そのうちの一人が、ちょっとばかり番長に歯向かった。
いや大したことは、言ってみないし、やったわけでもない。
でも、番長と言うのは、自分のメンツがあって、
これが傷ついた、と思い込んだら、それ相応に締めなくては示しがつかない、
と考えるんですね。
そこで、口実をつけて、こいつを誘い出す。
一応、表面上は穏やかな言い回しで、一見助言めいた、友情にあふれた言葉を使うが、
一皮むけば難癖そのもの。
で、ちょっとした成り行きで、
この集団の二番手の番長代行が、
てめえ、ボスが言ってることが分からねえのか、と激昂する。
すぐさま、申し訳ない、私が悪うございました、
と謝っちまえばいいのに、ちょっとばかりタイミングを失してしまった。
すると、番長代行はさらに激昂し、相手を殴り始める。
普段は温厚なんだけど、一度怒り出すと手が付けられない。
仲間内は、こんなこと重々承知なわけで、
誰も、止めようとしない。
むしろ、ある種の集団リンチなんですから、
にやにやしながら見ている。
なかには内心、ざまあみろ、ぐらいの気持ちのものもいる。
しかし、番長代行があまりに激しいので、
周囲も心配になってくる。
頭から血を流し始めたので、これは止めなきゃ、となる。
番長も、そこまでと思っていなかったので、やめろや、と一声、
一応この場は、そこで納まったものの、
場の空気は冷え冷えとしていて、
これで示しはついたろう、と、集団リンチは終わる。

 

いまさらですが、番長は誰かはお分かりでしょ。

すべての展開は、思ったより過激になってしまったものの
番長がえがいたストーリー通りだったわけです。

もし、事の真相を明確にしたかったら、
その時同席していた、いわゆる素人さんの証言が一番はっきりしているんでしょ。
同席の関取衆は、ボスのグループの一員なんですから、
その証言はあいまいなはずです。
何より、暴行が始まって、止めに入らなかった、という事でその立場は明確でしょ。
貴の岩が、殴られながら、どうしてだれも止めてくれないのだろう、と思ったのは、
そういうシチュエーションだったからです。

ま、一言で言えばこの事件は、いじめです。


大相撲協会が再発防止、とかに努力するのは当然なんですが、
以前、死人まで出しながらの今回の出来事でしょ。
人間の本質的な部分で、潜在的に持っている、闘争的な本能が、
消しきれないんでしょうね。

だって、普通の社会では、協調を全体に、人間の生き方を仕込んでいるんですが、
ああ言う競争社会では、なにくそ、と敵愾心をあおりながら日々けいこを積むんでしょ。
それはスポーツなんですから、技を磨き力を付けるという事で、勝ちにこだわるわけですが、
心の中には、相手を打ちのめすことを目指しているわけです。
ある種の殺気に近い感情を持つことが時に厳しい勝負に出れるわけでしょ。
ボクサーが、パンチを出すたびに、ごめんね、なんて言ってたら、勝負にならないでしょ。
きっと相撲だって、あの仕切りを繰り返す時間の中で、闘争心を燃え上がらせるわけでしょ。
一歩間違えば、このやろう、の世界じゃないですか。
こう言うトレーニングをしているんですから、
それはその素地をたっぷりと持った人たちなわけです。


ですから、冷静になって、暴力追放みたいなことを言っても
日ごろから闘争心は植えつけているわけですから、
正直、その対策はかなり難しいと思います。


あの双葉山でさえ、われ未だ木鶏たりえず、と言ったくらいなんですから、
土俵の上の闘争心は、平常でもその片鱗を表してしまうんでしょうね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 10:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ケに戻る日

新年あけて、早4日目。
一体、三が日は何をしていたんだろう、と思うくらい、日時の流れはすごい速さで流れます。
さすがに、ここまで来ると、おせちの重箱は空になって、
と言うか、残り物は時に寄せ集めてタッパーに入れて冷蔵庫に。
でもおそらく、もう飽きていますから、しばらく食卓には復帰しない。
で、何日か経って、タッパーのふたを開け、匂いをかいで、
ああ、ダメになっちゃったよ、と仕方なし風に捨てる。
いや、タッパーに移し替えた時にその予感はあったんですけどね。


まあ、自分で作っておいて、食べきれない、と言うのも妙な話ですが、
やはり、重箱には、あれこれ盛り込みたいですから、
結構力入れて作るんですね。
しかもマイナスの条件があって、自分で作るという事は、
時に、味見をするでしょ。
したがってどんなものなのかは百も承知なわけです。
料理の楽しみの一つに、
どれどれ、とか言って最初に一口食べた時の感触、
と言うのが結構楽しみの一つなんですが、
これが分かっているから、それほど積極的に箸が進まない。
しかも、我が家の朝食は、我が夫婦とかみさんのお父さんの三人。
義父は今年94歳。
驚くほど少食で、しかも、若干の偏食のきらいがある。
食べず嫌いのものが結構あって、

かみさんから、おじいちゃんはこれは食べない、というものが多いので、

食事の支度をするときでも、時々、おじいちゃんはこれ食べれるのか、
と事前に質問するくらいなんです。
で、かみさんが、これまた食が細い。
ですから、ごく普通のおせちのお重も、元旦に3分の1ぐらい減ればいい方なんです。
でも、なんだかんだと、二日の夜には、おせちの重箱は、空になっているんですね。


で、4日あたりは、目先を変えたいな、と言うところになっています。

これはどこもそうだと思うんです。
で、さるところが「おせちに飽きたら食べたい料理について」
と言うアンケートをしたそうです。


それによりますと、
まず、「毎年おせちを食べる」と答えたのは60%、6割の人。
「食べることが多い」14%で、
おせちを食べると答えた人は、ほぼ4人に3人。
なんだかんだと日本人はお節を食べるんですね。

で、誰も飽きてしまうので、じゃあ、飽きたら何を食べたいのか、
と言うアンケートなわけです。


圧倒的な人気で1位に輝いたのは、カレーですって。
この比率は高いようです。
ま、正月で、のんびりしたスケジュールとは言え、
余りバタバタしたくないでしょ。
となると、カレーて言うのは、割と簡便に料理できますもんね。
ですから第一位はカレーと言うのは当然と言えば当然の選択です。

 

そういえば、15,6年ほど前に、私の友人と中国の福建省に行ったことがありました。
友人としては、福建省のさる企業から仕入れをしていて、
その打合せを兼ねていたのですが、
なんとなくついでのその旅に随行したのです。
清州と言うまちでしたが、そこには3泊4日滞在しました。
で、その4日間、朝昼晩と中華料理なわけです。
でも、中華は好きなんで、それはそれは毎食大いに堪能したんです。
そして、最終日、最後の一泊は香港にしてあったので、
福建省から移動し、夕方香港に入ったんですね。
で、その友と、香港のまちをぶらぶらしながら、
腹がへったんで何か食べよう、という事になり、
何にしようか、と話し合ったんです。
で、私は、いささか秘密っぽく、これから食べたいものを、
二人同時に言おう、という事になって、
それこそ、せーの、という感じで言い合ったんですね。
そしたら、カレーだったんですね。
二人が一致したんです。

さ、それからカレーのお店を探し回ったんですが、
結局、見つからず、カレーをあきらめて、回転すしの店に入ったことがありました。

 

で、改めて、このアンケートの答えは、
おせちに飽きたら何を食べると言う趣旨ですが、
要は、普段よく食べるもの、という事でしょ。
中華に飽きたからカレーを食べるではなく、
中華以外の普段よく食べるもの、と言うのが、望むところなんですね。

 

食文化、と言うのは、要は、いつも何を食べているか、という事が基本にあるんです。
お誕生日とか、何かの記念日に食べる特別なものと言うのは、

本来の食文化の基本ではないんですね。

したがって、このアンケートに第二位は、「ラーメン」
同率で、「鍋」だったそうです。
ちなみに4位は「焼肉」。
さらに「普段の食事」と続きます。

要するに、ハレとケの比較で、
ハレが二日も三日も続けば、ケに戻りたいのです。

 

よく、ちょっとした観光旅行に出て、バタバタとしたスケジュールをこなし、
荷物を抱えて家に戻ってきて、
一段落した時に、お茶でも飲みながら一息つくと、
やっぱり家が一番だね、と言いますが、
要は、人はなんだかんだ言って、ケを安定した時間の過ごし方、
として望んでいるんですね。

 

ま、引退生活って、その意味では、ケの連続ですから、
ありがたい環境と言えばありがたいことですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 11:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< January 2018 >>
+ SELECTED ENTRIES
+ RECENT COMMENTS
+ CATEGORIES
+ ARCHIVES
+ MOBILE
qrcode
+ LINKS
+ PROFILE