水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
体たらく、と言う言葉の意味

働き方改革の採決の様子を見ても、
また、相変わらずのモリカケ問題と、それを巡る駆け引きなど見ていても、
国会が正常に機能している、と思う国民はごく少数だと思うんです。
何かがずれているからなんです。


少なくとも、物心ついてから、見てきた60年余り、
国の運営と言う観点でその主要な役割を果たしてきた国会の在り方として、
現在ほど混迷し、国民から不信を抱かれていることはなかったと思うのです。
逆に、程度の差こそあれ、国会が国民の信を得た瞬間はほとんどなかったでしょうね。
ま、それにしても、その体たらく。
その原因はいくつかあげられると思うんですが、
はっきり言って、議員の資質にあります。
もちろん優れた人材は数多くいますが、
一部、なんか勘違いしてしまった人が、舌禍事件を起こしたり、
不適切な行動を取ったりしてしまい、
それが全体に影響するという事があるんでしょうね。
あのアメフト危険タックルの日大の学生が、
日大というブランドだけで、就活に支障が出ている、なんていう事と同じで、
一部は全体に良きにつけ、悪しきにつけ影響を与えるわけです。


一部の、その勘違いとは、選挙民によって選出され、

多くの支持を得ている、というところから始まります。
50%を制すれば、原則当選できます。
複数名の場合は、ともかく20%だろうと、30%だろうと、一番多ければいい。
この時、100引く自分の得票率、という考えをもっとしっかり持つべきですね。

投票をしない人を含めて、支持してもらえない人の数を前提にすべきです。

でないと天狗になってしまうんです。
まして、当選すれば、周囲は、先生先生と丁寧な扱いをする。
いつの間にか自分はえらい、と勘違いする人も出てくるわけです。
そして、同時に、何のために選出されたのか、という本質を忘れてしまうんでしょうね。
ですから、これらの先生方は、家を出る前に、
わたしは、多くの国民による喜捨によって、生活している、と認識することが第一ですね。
つまり税金で今の立場を維持できている、という事です。

みなさんのおかげなんです。


私達が、不信を取り除けない一番の要因は、
その運営に透明性がないからです。

 

話は変わって私事です。
我がマンションは、この7月から大規模修繕工事をはじめます。
22階建ての建物に足場を組み、外壁や防水関係の修繕を行います。
この大規模修繕委員会の委員長を私が仰せつかっています。
この工事の総額は、億単位になりますので、
それでなくても慎重な運営が求められるのです。
そこで、私が目指したところは、透明な運営です。
先ず委員の公募から始まります。
そして、何をどのように修繕するのか、という工事概要を決定します。
これには、専門家を含め、多くの人の意見を戴きました。
そして、この工事の管理者を選定。
さらに工事会社等の選定をします。
ここがポイントなんですが、公募し、書類審査をし、条件を絞り込んで、
およそ10社から見積もりを取ったのです。
委員会で、先ず5社に絞りこんだのですが、
この時、の条件が、見積金額の安い順5社です。
期限までに見積もり書が私の手元に郵送されてきます。
私は、これを開封することなく、委員会の席上で初めて、開封しました。
もっとも公正な方法でしょ。
ともかく、この億単位の工事の原資は住人が拠出しているんです。
ですから、それに対する責任があります。
一番重要なことは、委員会への信頼ですので、その条件としては、
無駄なお金を使うことなく、最大の透明性を持たせて、運営することなんです。
そして、さらに3社に絞り、
最後の決定は、住民参加のもと3社のプレゼンを行い、
出席者の評価にとって、依頼先の会社を決定しました。
一点の曇りもない選出方法です。
私は100%透明に運営してきたと自負しています。


ま、ここから先、工事中に何かとトラブルが発生すると思いますが、
これまでの民主的で透明性の高い運営があったので、
大きなトラブルにはならないだろうと思っています。
それは、大規模修繕委員会そのものが、信頼を得ているから、と考えているからです、
民主的で透明な運営がなされる事が、組織運営の原則である、という事です。

 

まあ、規模も、内容も桁違いですが、
せめて、国会で、誰かが、もっと透明性を持たせて、
信頼を得られるようにしよう、といって、実施すれば、
今のような混乱はないでしょ。
総理、財務、その他の大臣連中の答弁も、各省のお役人たちの答弁も、
透明性ということをもっと意識し、実践すれば、こんな国会の体たらくはなかったはずです。

 

その根本には、国民に幸せになってもらいたい、
という願望がすべてのエネルギーの源になっているべきです。
この国の国民として生まれてきて、後悔はさせない、ぐらいの気概を持つべきでしょ。
個別の問題は、それなりの政党間の駆け引きがあるとは思いますが、
根底において、幸せ実現のための、希望の持てる国づくりのための、
使命感が無ければいけない。
行政府においては、幸せ実現のための施策を実践し、
立法府においては、希望を持つための方向性を示すことが、それぞれの役割です。

早くそんな当然の位置に帰ってきてほしいですね。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 07:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
繰り返される悪循環

例の結愛ちゃんの虐待死事件の余韻が、いまだ頭から離れず、
虐待死そのものについて、考えてみました。

 

今回の事件は、残された手紙の言葉が衝撃的だったので、
特別大きく扱われていますが、
虐待死は、実は、日本では、ある意味日常茶飯事の出来事なんです。
少なくとも、統計的に把握されている虐待死は、年間でおよそ50件以上。
一週間に1人という事です。


そんなに、と思うでしょうが、私達の虐待死の概念がずれているんですね。
年間50数名と言うデータのうち、およそ半数が0歳児なんです。
しかも、その8割が、出産日当日なんです。
つまり産み落とすとその場で命を奪ってしまうんですね。
これも虐待死なんだそうです。
ま、いたいけない大事な命が、親に奪われるという実態に違いはないのかもしれませんが、
私達の虐待死の概念とは、ニュアンスがちょっと違う気がします。
そんなことも影響していると思うんですが、
虐待死の主体は、実母が50%となります。
ちなみに、実父が25%。
これはどちらかが一方的な行為として行われた、という数字で、
両親ともどもを入れると、9割ぐらいが生みの親の手によるものです。
残りの大半は、再婚の相手、義父、義母という事になります。

 

こういう悲惨な出来事が発生すると、
もっと罪を重くして再発を防げ、という論調が高まります。
私は、犯罪の量刑は、犯罪防止に影響すると思っているので、
刑を重くすることは賛成です。

ところが、この虐待死の刑は、実に微妙な解釈がとられていて、
普通は殺人罪にはなりません。
それは、親たちは、口をそろえて殺意はなかった、と言うんですね。
まあ、確かに、行き過ぎたけど、しつけの一環だった、とか、
いわば、親が子に下す懲罰と言うレベルで解釈されてしまうんです。


そして、このような解釈が前提になる法曹界の、いわば基準があって、
法格言と言うべきもののようなんですが、
「法は家庭に入らず」という事が言われているようなんです。
つまり、家庭内の問題については、法関与せず、
あくまで 家庭内の問題は家庭内にゆだね、公権力使用控えるべきである、という
伝統的な考え方があるのです。
例えば、親族間の窃盗は、親告罪で、訴えがないと取り調べすらしないのです。
ですから、虐待と言うのは、
この考え方に影響されていて、
法曹界としては、余り触りたくないんですね。


こんな背景もあって、殺人罪と言う適用がされないんです。
ですから、傷害致死と言ったところに落ち着くんですね。
まあ、よほど悪辣なら、懲役7年ぐらい。
普通には、環境的事情を考慮して、3年とか、5年ぐらいの懲役が精一杯なんです。
殺すつもりはなかった、という事ですから、殺人にはならないんですね。
殺意がないんだからと、日本の刑法も妙な視点で判断するんですね。

 

これらの事案が取りざたされるようになって、
データがとられるようになりましたが、
なかなか日本では、表面化しずらく、

統計の裏側に隠れてしまうケースも、さぞかしあるんだろうと思います。
その意味では、外国、特にヨーロッパなどでは、子どもの権利が強く守られていて、
時に、第三者による告発で子どもの権利を確保した、という例は山ほどあるようです。

日本でもここのところは見習うべきです。

隣の人が物音を聞いて不審に思った、などと言う社会全体での監視が必要でしょ。

 

よく、街なかとか、ショッピングモールの中で見かけるんですが、
まだ、3〜4歳の幼児が、母親から少し遅れてついてきて、
親が、もっと早く歩けとか、その他、もろもろの注意をしていることがあります。
この時、さすがに人目があるのか、手を挙げることはないにしても、
子どもに掛ける言葉の汚いこと。
きっとこの母親は、若いころやんちゃ系の仲間と徒党でも組んでいたんだろうな、と。
まさに、品格も何もあったもんでない。
子どもにしてみれば、精神的な罵倒ですよね。


私は親がああいう風に言葉を使うと、
きっと子供もそういう言葉の概念を持ってしまうのではないか、と思ってしまいます。

大きくなってから、母親の小言を、うるせーくそばばあ、なんて言われてしまうのは、

その種を、かつて母親が撒いていたからではないか、と思うんですね。
現実的なデータとして、
虐待をする親は、多かれ少なかれ自分が親から虐待に近いことを受けている、と言うデータがあります。
正に、輪廻ですね。

これを悪循環と言います。
どこかで絶たなければ、この循環は回り続けるんです。


ですから、これこそ、社会がやるっきゃないでしょ。
個人に任せたり、家庭にゆだねていては、

解決の糸口は、いつまでたっても見つからないのです。
子どもが幸せな環境で成長できるような国づくりがもっと力強く進められなくては、
日本は何時まで経っても、2流国家のままです。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
大学の学部

まあ、当たり前と言えば当たり前なんですが、
大学の学部も、時代とともに変遷をするものです。
私が在籍していたころの早稲田大学は、
政治経済学部、法学部、商学部、文学部、教育学部、それと理工学部
と言ったところでしたが、
最近は、文化構想学部、社会科学部、国際教養学部、基幹理工学部、創造理工学部、先進理工学部、
人間科学部、スポーツ科学部などがあるようです。
ま、詳しく調べていないのですが、一体、何を教えているんでしょうね。


これも学校にとっては、商品の一つです。
時流に沿って、品ぞろえを進めなくてはいけないわけですから、
それなりの企業的な観点での生き残りには、必死だと思うんです。
うちもボチボチこんな分野の学部が必要なんじゃないか、と。


まあ、基礎的で伝統的な学部に関しては、
従来の蓄積したノウハウがあるから、授業もそれなりに展開できると思うのですが、
新しい分野においては、それがおぼつかない場合もあるでしょ。
とは言え、学研的に先行していれば、
そんなもんだ、と授業は展開できるとは思うのですが。
ある意味、新参の学部は、底が浅く、十分な成果を発揮できないかもしれません。
しかし、これは社会のニーズでもあり、
教育という先行投資の場においては、先取り的なカリキュラムも必要なわけで、
社会のニーズを醸成するきっかけとしては、十分に意味があることです。

 

ちなみにわれらが平塚の東海大学では、
文学部、文化社会学部、政治経済学部、法学部、教養学部、体育学部
など、オーソドックスな学部があり、他には、
健康学部、理学部、情報理工学部、工学部、観光学部、情報通信学部のほか、
清水キャンパスでは、海洋学部、伊勢原キャンパスには医学部、健康科学部、
工学部、 医用生体工学科などがあります。
そして、熊本キャンパスでは、経営学部、基盤工学部、農学部
など、実に幅広いんですね。


まあ、これらの学び舎から、将来の日本を背負う人材が輩出されることを期待したいですね。

 

私が大学を受験した時、当然、大学が出している受験用のパンフを取り寄せ、
色々と調べたのですが、その時、わずかな文字からどんなことを学べるのか、
という事が分からなければいけないのでしょうが、
ざっと、学部の名称だけで、こんなもんだろうと勝手に想定して、
受験するわけです。
まあ、その点は結構学生もあいまいで、

入ってみて、話が違うと感じる人もいて、途中退学する人もいるんですね。
確かに、何を教えてもらえるのか、は、見ると聞くとでは違う場合は、これ仕方ないですね。
要は、何を学ぼうとしているか、という姿勢次第なんですなら。

 

ネットのあるコラムを読んでいて、
へえ、そうかと再認識したことがありました。
それは例の日大のことです。
すでに情報としては知れ渡っていると思いますが、
日大には危機管理学科、という学科があるんだそうです。
で、今回の「危機」に関してそのノウハウがどれほど意味を持っていたか、
という事が、世間で揶揄されていますが、
もし本気になって危機管理のノウハウを、アカデミックに蓄積していたら、
あのようなばかばかしい対応と会見を繰り返すことはなかったでしょうね。
紺屋の白袴、医者の不養生と並んで、日大の危機管理、という言葉が、
使われそうですね。


で、さらに、例の加計学園、千葉の分校もそのうちなんですが、
ここにも危機管理学部があるんだそうです。
日本の数多くの大学の中で、危機管理学部があるのは、
日大と加計学園だけ、というのが面白いでしょ。
ま、関係者には失礼かもしれませんが、笑っちゃうでしょ。
危機管理としては、偽の報告書を出すなんてことが、どうして受け入れられるんでしょうね。


ま、そういう意味では、時代の流れを敏感につかみ取りながら、
世の中を先見と言う光で照らしだそうとする大学の志には共鳴しますが、
商品として並べるなら、
もう少し完成度を高める必要があるんじゃないですか。
スーパーの棚から買った食パンが、
翌朝カビが生えていたようなものでしょ。
しっかりせよ、と言いたくなるでしょ。

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
笑顔は子供の特権

最近つくづく感じることがあって、まあ、これも年なのかな、とも思うのですが、
子どもはどうしてあんなに笑顔が可愛いのか、という事なんです。
顔の表情が、笑顔になった時に、神々しくも変化するさまを見ていて、
これはきっとDNA的な動きであって、
正に、生きる力もなく、非力なために、保護され、かわいがられることが必要で、
本能として身についているものではないか、と感じるんですね。


それほど、子供の笑顔は素晴らしいものです。
笑顔を見た大人は、その素晴らしい表情に、思わず手を差し伸べる。
抱きしめたり頭をなでたり、心の中でその命の尊さをたたえたり、
励ましの言葉を与えます。
大人自身が子どもの笑顔に触れることで、
人としての大事なものをよみがえらせることもある。
そのくらい、幼児であれ、人間相互のコミュニケーションの原則を
笑顔が作り出してゆくんですね。
子どもの笑顔に接するたびに、子どもは宝だな、と実感します。

 

きっと、あの結愛ちゃんも、笑顔を作っていたに違いないんですね。
あの記事を一行読んだときに、その先のすべてが理解できたのです。
ネットに報じられていた記事の見出しは、
「もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします」と。
最初は、その一行以上読むことができませんでした。
心が締め付けられました。
その先は心落ち着いてから読もうと、数時間を置きました。
で、改めて読んでみましたが、涙なくして読むことができませんでした。
なんと悲惨と言う表現を超えた悲しい出来事でしょうか。
こんな悲劇を作り出した親が、人間が、いるなんて信じられないでしょ。
いや、悲しいことに人間てそうなのかもしれません。

 

私は、死刑廃止論者です。
法の下とは言え、二度目の殺人が行なわれるわけですから、
どう考えても正当な行為とは思えないのです。
でも、唯一この両親への極刑は例外としたい、と思いました。

 

命と言うのは幸せな時間を過ごすために生まれてきているはずです。
それは苦痛と、無念さの時間でしかなかった、
というのは、命の大原則からして、あってはならない事でしょ。

両親はしつけだった、とうそぶいているそうです。
しつけと言うのは、後ろ姿で導くことで、
そこには、愛以外のエネルギーが混じってはいけないんです。
しつけなどと言う概念をかけらも持っていない、
人間のクズみたいな存在に、しつけそのものができるわけないでしょ。

 

この出来事の悲劇の要因の一つに、
役所の対応があります。
きっと、前住所の役所から連絡があって、要注意だと。
で、新住所の役所から、一応出向いて行った。
すでにこのころは、見た目で虐待が悟られる可能性があったんでしょうね。
親は職員に会わせなかった。
つまりばれないような対処をしたわけです。
で、職員は、行ったけど会えなかった、と帰ってきたわけでしょ。
ちょっと待て、と。
それじゃガキの使いじゃないか。
行くことで事が済んでしまうのか。
会って観察することが仕事じゃないのか。
会えなかったからですます。
行ったからいいですます。
まるでガキの使いでしょ。
会って様子を見るために行ったんですから。
ここがちゃんとしていたら、この悲劇は防げたかもしれないでしょ。

 

ストーカーなどで警察の対応が不十分で悲劇を悲喜を引き起こしたことがしばしばありました。
幼児の虐待問題で役所の対応が甘く、悲劇を引き起こしたことは
今回が初めてではないでしょ。
国会でバカな議論を繰り返していないで、
こういうケースをカバーできるように、
法的に、これらの行為に、捜査権のような権限を与えればいいことでなないですか。

そもそも親権など主張できる資格もない親に対して、

もう少し権限を持って接することができる法的裏付けが必要でしょ。

こんな悲劇二度と繰り返したくないでしょ。

 

結愛ちゃん、
今度は天国で、安らかに安心して過ごせるように祈ってます。

そして、あなたが持っていた笑顔を取り戻してください。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
昔ゾウの鼻は短かった

今朝、一番で波に乗ってきました。
いや、サーフィンと言っても、ネットサーフィンです。
で、時々興味深い記事に出会うのですが、
今日の一番は、最古のゾウの先祖についてです。


ともかく、牙がどうのこうのとか、歯がどうのこうのとか、
まあ専門家の記述ですから、ちょっと付いてゆけないくらい、深々とした話なんですが、
まあ、大雑把にまとめれば、その昔、ゾウのご先祖様は、
それほど鼻が長いわけではなかった、と言うんです。
ま、そうでしょうね。


そのご先祖様は、
そもそもは、およそ6000万年前に地球上に登場したそうです。
ちょうど恐竜が絶滅したのが、6500万年前と言われていますから、
地球上を我が物顔に闊歩していた恐竜連中がいなくなったのを幸いに、
哺乳類が進化分化をすすめ、500万年ほどたった時に、
ゾウのご先祖の、ゴンフォテリウムが出てきますが、
今のゾウから見ると先ず鼻が短い。


そりゃそうです。
生物種の現在の形態を見て、特徴的な部分があったとすると、
それは進化の過程でそうなってきたのであって、

最初っからその特徴を備えていたわけではないのです。
したがって、ゾウのご先祖は、今から見ればはるかに短い鼻だったようです。
このゴンフォテリウムは、牙が4本。
つまり、上2本とした2本で、なんとなくの想像ですが、
猪に近い体つきだったんじゃないか、と思うんです。
牙が進化していたのは、地を掘り起こす道具として発達したのだろう、と。


当時の地球環境は、様々な気候変動の影響を受け、
地表を覆っていた木々が、いささか勢いを失い、
その代わりに草が生い茂っていたのだそうです。
つまり、森林から草原への変貌をしていて、
多くの動物たちは、森林での食事から草原への食事に切り替えざるを得なかった、
言い換えれば、草を食べるに有能な動物たちが生き延びて進化してきたわけです。
そんな中、このゾウのご先祖は、きっと草原の草だけでは、腹が満たされないという事で、
地を掘って、根やら球根の類を常食していたのではないか、と。
いやこれは私の想像です。


そうこうするうち、体がだんだん大きくなる。
さまざまな動物で、巨体と言えるような体を持っている種がいますが、
基本は、大きいことが、他の捕食動物から身を守る最良の手段なんですね。
つまり、大きければ、食べられにくい、と。
したがって、大きな体の個体が生き残り、そのDNAを受けた子孫も大きくなり、
やがて種全体が大きくなっていったんだろうと思うんです。
ゾウもきっとその一種でしょ。
ただ、この大きければ食べられない、というメカニズムは、
巨体を維持するためにたくさん食べなきゃいけない、という事を併せ持つために、
時に、ちょっとしたバランスが崩れると、絶滅に追いやられることになります。
要は、良かれと選択した道がすべて問題を解決してくれるわけではなく、
長所と短所は背中合わせになっているという事ですね。

 

ま、ともかく、ゾウのご先祖様は、6000万年かけて、鼻を長くしてきました。
今の、地面にスレそうなくらいの長さまで長くなってきたのです。
多分、少しでも長い方が、あの巨体の肉体的なメンテナンスや、
動作を補うという意味で、有利に生き延びてきたんでしょうね。
ざっくばらんに言えば、ちょっとでも長い鼻の方の個体が、
より多くのエサを摂取できて、生き延びる可能性が高かった、という事で、
そのDNAを代々受け継いで、鼻のより長い方が、有利、というDNAを継承してきたのです。
で、キリンなどでもそうですが、
どこか特性を武器に、生き延びる作戦がうまくいくと、それをどんどん進める。
ゾウが鼻が長くなってきたように、キリンの首も長くなってきました。

そして、すべての生物種がそうなんですが、
ある肉体的な特性を伸ばしたことによって繫栄すると、
その進化した部分は、元には戻りません。
例えばです。
ゾウの鼻がますます長くなって、
普段歩いていて、ときどき自分の鼻を踏んづけるようになったとしますね。
その度に痛い思いをする。
そこで、いくらなんでも長くしすぎたから、
今度は短くしようか、なんて考えないんです。
特性を伸ばすだけ延ばして、それが、自然環境に適合しなくなったとすると、
以前の快適な状況に戻すのではなく、不自由になった肉体的特徴を抱え込んだまま、
不的確な存在として、地上から消えざるを得なくなるんですね。


まあ、一時は株でもうけたけれど、そのうち大損してしまい、結果として身を滅ぼす、なんてことでしょうね。
実はいいことはそうは長く続かない。

ですから、ゾウの類も、一時やたらと種を増やし、
地球上のいたるところにいたらしいです。
たとえば日本はかつて、ゾウの天国だったとか。
ま、そのぐらい、一時期は進化の優等生だったようですが、
今はアフリカとアジアに、ほんのわずか棲息しているだけでしょ。

 

さて、では、人間は何を特化させて、今日の繁栄を得たのでしょうか。
そしてその特化したもので、滅びることはないのでしょうか。

私は、様々な生物たちの栄枯盛衰を見てきて、
人間だけは例外、というのはありえないと思います。
ただその幕引きは何時になるのか、ですね。

| 水嶋かずあき | 環境 | 09:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ツバメ初見日

ご存知、ツバメは春先になると、南の国から飛来してきます。
日本で、夏を過ごし、その間に子育てをし、秋も深まると、
南の国に帰ってゆきます。
で、まさに風物詩のような鳥ですが、花札にも登場します。

 

ところで、ツバメが登場する花札はその植物はなんだかご存知ですか。
白状すると、私は勘違いしていました。
鳥が登場するのは、6ヶ月分。
1月が松で鶴、2月が梅で鶯、4月が藤で、
色は茶色なんですが、これがつばめだと思っていたのです。
藤の咲くころにはつばめがすいすい飛んでいる、と思い込んでいたのです。
ところがこれは不如帰なんですね。
確かに茶色ですから、ツバメとは言い難い。
それに、目には青葉の時期は、山ホトトギスですから、まさにホトトギスで正解なんです。

で、8月がすすきで、雁。
印象としては月と思っていますが、一応花札ですから、
植物が主人公です。
月の下に描いてある黒っぽい小山はすすきなんです。
で、ついでですが、12月が桐で鳳凰。
11月の札のことを雨と言い勝ちですが、これは柳で、ここにつばめが登場します。
何故かこのつばめ、色合いがちょっと違うんで、
他の鳥かと思っていました。
まあ、今更花札をすることもないかもしれませんが、
いい年していくつかの勘違いが修正できました。

 

話は横道にそれましたが、ツバメが少なくなったという話です。
日本には、たくさんの田畑があり、土がむき出しになったいたわけですから、
巣の材料はいくらでもあったわけです。
まして、自然は豊かで、緑におおわれていたのですから、
餌になる虫も多かったのです。
正に、子育てには絶好の条件だったのですが、
ここの環境が激変してきました。
それに応じて、ツバメの飛来数も減って、ここ4〜50年で、半減したと言われています。


という事で、どうですか、今年になってつばめを観ましたか?
つばめは、2月下旬には九州に上陸し、3月上旬には四国中国、
中旬に近畿、中部、3月の下旬には、関東にやってきます。
そして4月になると、東北、北海道と、まるで桜前線が北上するように、
日本を南から北に上がってゆきます。
その意味では、まさに春を告げる鳥なんですね。

 

日本人にとって、四季の移り変わりの中で、冬から春へ移るときが、
もっとも喜びと希望を持って迎えられる季節です。
桜は確かに美しいのですが、それは、春という希望の季節を連れてくるからです。
ですから、日本人にとって、ツバメはそれなりの吉祥の鳥だったのです。
ところがその愛でるべき鳥も、あまり見かけなくなりました。
基本的に、土の見える環境が少なくなったこと、虫が発生する環境が減ったこと、
そのほか、野生動物に卵やヒナが狙われやすくなったこと、
さらに、人が糞を嫌がって、巣を壊してしまうケースが増えてきたこと、などが挙げられています。

 

以前、家の近くのガソリンスタンドのガレージにつばめが巣を作ったことがありました。
こともあろうか、シャッターの内側に作ったんですね。
そのガレージは、仕事中はもちろんシャッターは空いているのですが、
夜には閉めます。
でも、夜にはつばめは飛び回らないので何てことないんですが、
困ったのが休日です。
休みはシャッターを閉めてしまいます。

たまたま、休日に、そのガソリンスタンドの前を通ると、
顔なじみのお兄さんが、ぽつねんとガレージの所に座っていました。
お店は休みなのに、何なんだろうと、声を掛けたら、
いや、つばめが巣を作っちゃってさ、シャッターを閉めっぱなしだと、
親が餌を鳥に行けないだろ。
だから、休みの時はこうして、交替でシャッターをあけに来るんだ、と。
で、結局ヒナが巣立ちするまで、休みのときは誰かがやってきて、
シャッターを開けていたんですね。
私は、このお兄ちゃんの横顔を見ながら、なんてやさしいやつなんだ、と思いました。

 

反対に、心無い人はいるもので、糞が汚いとかで、ヒナがいようと、卵が産み付けてあろうと、
巣をさっさと壊してしまうなんて、いかにもひどいでしょ。
巣のすぐ下に30センチ四方の板を置いておけば、
糞は直に落ちることはありません。
出来ればそのぐらいのことはしてあげるべきでしょ。

 

もともと、ツバメは弱い鳥ですから、カラスなど野生動物に絶えず狙われるのです。
ですから、野生動物があまり来ない人里で営巣するんですね。
いわば人間を頼って生きてきたんです。
その人間が、巣を壊すなんて、信義に反するでしょ。

 

つばめの数を増やすのは、このような環境になってしまった日本ですから、
難しいかもしれませんが、
せめて、初飛来した日、というか、その春に初めて見た日は何時だったか、
という日にちぐらいは、頭に入れておきたいですね。
そうすると、ツバメの姿を探すようになりますし、
併せて、私達の環境について、関心を持てるようになるかもしれません。

| 水嶋かずあき | 環境 | 18:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ますます暑い夏になりそう

大木の枝を切り落そうと、枝にまたがって、のこぎりを引いていた男が、
どうも足場が不安定だと、幹より離れたところに腰を下ろして、
改めてのこを引き始めたのです。
つまり、切り口を挟んで幹があり、その反対に自分がいるわけです。
大きな木だったので、しっかり足場を得て、枝を切り続けたのですが、
そのまま行けば、枝が切りおわった時に、男は地面にたたきつけられるわけです。

まあ、在りえない想定ですが、実は人類はこれに似たことをしているんです。

 

地球の温暖化に関しては、すでに40年前には、
多くの関連の学者が警告を発していました。
その頃から、地球温暖化については私は、関心があって、
どうして企業規模でこれに対応しようとするところが出てこないのか、
と不思議だったんです。
ま、今では、この問題を無視した企業活動は、超極悪企業とされてしまいますので
まあ、儲けが減らない程度に、地球温暖化への配慮を見せるようになりましたが、
なんたって、ものを生産することそのものが、
温暖化への一つのプロセスなんですから、
これは、まあ、無間地獄へ入り込んだようなものです。

 

で、その主犯と名指しされたCO2に関しては、
いまだ冤罪説も出てくるわけで、
何とも微妙な状況証拠しかないのですが、
その真犯人追求はともかくとして、
現実として、どうも温暖化は進んでいるらしい。


少なくとも、温暖化が進む過程の予測がいろいろ表現されていましたが、
そのうちの一つ、風が強まる、と。
これは、海水温が上昇するため、気圧の変化が起き易くなり、
気圧の等高線と言うのがありますが、
あれの密度が高くなるんだそうです。
例としては、台風の気圧等高線の気象図を見たことがあると思いますが、
台風の目の周囲に、同心円的な密度のある輪が書いてあるでしょ。
あれは等高線の密度が近いほど、風が強くなるんですね。
いわば山の等高線のようなもので、密度があれは急な斜面になるようなものです。
で、確かに、風邪の強い日が増えてきました。


ここのマンションは、風をもろに受けるので、
窓を閉め切っていても、風切音がうるさいくらいの時があります。
夜半に風でバルコニーの植木鉢が転がされないか、床に並べ直すことがしばしばあります。


で、言われてみると、妙に大雨が多くないですか。

これに関する警告が出されました。


IPCC評価報告書が、現在の最も多くの科学的知見を集約し、
さらに、国際的に広く認められた報告書とされていますが、
このたび、第4次のレポートが出されました。
これによると、地球温暖化による影響は、気象や自然環境への影響と、
社会や経済への影響とに大別されるのですが、
気象や自然環境への影響では、気温や海水温の上昇、海水面の変動、
異常気象や激しい気象の増加、気候の変化、生態系の変化、植生や地形の変化などが挙げられています。
世界の年平均気温の偏差の経年変化では、平均気温は上昇しており、
極端な高温や熱波の増加、極端な低温の減少、大雨の増加などのほか、
なんと、 一日の長さの変化、地球の自転速度の変化、まで引き起こしているそうです。


極地の氷河が解け、水が移動することによる変化によって

1日当たり1ミリ秒ほど遅くなる影響を及ぼすとか。

と言うことは、1000年で1秒です。

大したことないか。
温暖化は、ただ温まるだけではないんですね。
確かに、地球表面の海の水の量が増えれば、自転の速度が変わる、と言うのは、そうなのかもしれません。
ま、急に24時間が、25時間になるとかではないのですが、
それでも、今までとは違った状況に向かっているのは間違いないようです。
北半球における9月の海氷面積の変化については、北極海における海氷の減少、
2007年に特に顕著な減少が見られ、本来ならば数mの厚みの氷が見られる時期の北極点においても、
断片的な氷しか見られない状況などが観測されているそうです。
太陽光を反射する氷の減少によって温暖化がさらに加速することが懸念されているほか、
温暖化により、ツンドラにも変化が生じ、
永久凍土と言われていたのが、ちっとも永久でなくなり、
その氷が解け、中に閉じ込められていたメタンガスが放出されているのだそうです。
メタンガスは、炭酸ガスの数十倍の温室化効果があると言われているので、
温暖化は、極地の変化だけでもますます促進されてゆく、という事になっています。
当然のことながら、極圏の生物にも深刻な影響が見られ、
海氷に依存するホッキョクグマなどは生活基盤そのものの減少により、絶滅の危機に瀕しています。

これらの変化は、以前想定していたより、早いペースで進んでいることを示す観測結果が報告されています。


気温の変化は、日本において、異常高温や猛暑日、
ゲリラ豪雨の出現数が増加しています。
また大雨の発生頻度も増加しています。
よく、50年に一度のなんて表現が使われますが、
これからは、毎年、50年に一度がやってくる可能性があります。

 

今年の夏は一体どんな夏になるのでしょうか。
異常な変化を伴う、いやな夏になりそうですね。
まあ、これも人間の欲望のあまり、地球を暖めてきた報いなんですが、
今更、じたばたしたって仕方ないですかね。

| 水嶋かずあき | 環境 | 10:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
アイスコーヒー

よく行く喫茶店のオーナーと、道端でばったり出会って、
ちょっとばかり世間話をした時のことです。
話題がアイスコーヒーのことになって、
私が、今度お店に行った時に、おいしいアイスコーヒーの入れ方を
伝授してもらえるだろうか、と言ったら、
そのオーナーが、それはかみさんがやってる仕事なんで、私は十分に答えられない、
と言うんです。
正に、パパ・ママストアーの典型のようなお店で、
どちらかがカウンターに入り、
どちらかがホールに出て、お客様へのサービスをするんですね。
これと言った定位置があるわけではないんです。
ですから、喫茶店の仕事と言ったら、どちらも堪能なのか、と思い込んでいたんですね。
で、アイスコーヒーは、なぜかかみさんが手がけ始めたのか、
いつの間にか、アイスと言えば、かみさんがやる仕事になっていって、
ご亭主はその時ばかりは、サービス係になるんだそうです。
逆に、もう40年以上喫茶店を仕切ってきて、
アイスコーヒーを落とす技は、会得していなかった、という
単純な経緯とともに、アイスを入れる技は、そうは簡単ではないんだ、
という事を思い知ったんですね。


なんか特別なコツがあるとか、
湯の温度に影響され、その見極めが難しいとか、
ま、ともかくなんかあるんです。
そこで、私は、いくら親しいとはいえ、そのかみさんが要領よくコツを教えてくれるとしても、
これは一度聞いたぐらいでは再現できないんじゃないか、と思ったんですね。


20代の頃、たまたま友人が持ちかけてきて、喫茶店を一緒にやろう、
という話になったんです。
そのころ知り合いの喫茶店が移転し、それまでのお店が貸店舗で出ていたんですね。
で、ここを借りることになり、それなりに準備して、どうやら開店までたどり着いたのですが、
一番苦労したのが、コーヒーの淹れ方です。
だって、基本は素人ですから、誰かに教わらなくてはいけない。

そこで、あちらこちら聞きまわったんです。
で、その中から、いくつかの共通点を見つけ出し、
コーヒーを淹れる原則を整理したんです。
淹れる方法はネルドリップです。

 

ネルドリップとは、ネルと言われている生地、フランネルを円錐形に縫い合わせたものを
丸い枠の金具に吊るして、コーヒーの粉を入れて、
上から、湯をじわじわと落として、淹れる方法です。
多分、いわゆる喫茶店では比較的多くのお店が取り入れてる方法です。
湯の温度とか、蒸らしの時間とか、注ぐ湯量やら、いろいろのことを注意深くやらなくてはいけないんです。
もちろんその前に、どんな豆を使うのか、どの程度の焙煎にするのか、
またミルをどの程度の粗さで挽くのか、など、
湯で落とす前段階のことがいろいろとあるのですが、
きちっとメモしてその通りやれば、ほぼ何とかなるんですね。

 

したがって、短期間ではありましたが、
諸先輩の教えを忠実に守り、何とか開店時には、おいしいコーヒーを淹れられるようになりました。
で、考えれば、今時は、コーヒーメーカーなる電化製品が、
かなり安い価格で売っていますから、
これをお持ちの家庭は多いと思うんです。
その昔だったら、家でコーヒーを淹れる、というのは、
インスタントを湯で溶かす、というのが定番だったでしょ。
それが、今や、ネルドリップの簡易不普及タイプとして、
薄茶色の濃し紙を容器にセットして、粉を入れ、
あとはスイッチを押すだけ。
ぼこぼことした音がすると、ほぼ終わりに近づき、ぽとぽとが切れるかどうかで、
入れたてのコーヒーが飲めます。


でも、正直、あの機械で入れたコーヒーは、

私がかつてネルドリップで落としていたコーヒーの風味とはほど遠くいものです。
まあ、インスタントよりましですが、納得できるほどの味ではないように思うのです、
最近、喫茶店以外のレストランのドリンクコーナーや、
コンビニなどでも、コーヒーが利用できますが、
まあ、言っちゃあなんですが、ネルドリップにかなうものではないですね。
家庭用のコーヒーメーカーとトントンのものしか落とせない。
機械で落とす限界ってあるんじゃないか、と思ってます。

 

正に、単なる思い込みかもしれませんが、
若かれし頃、喫茶店で飲んだコーヒーのこくは、

すっかり消え失せているんじゃないか、という気がするんです。
第一、あのころのコーヒーをブラックで飲む、という事はなかったですから。
ヘビィな生クリームをとろりと落として、それを口の中でかすかに混ぜるように飲む、
と言うのが、飲み方の技でしたね。

 

さて、夏ですから、アイスコーヒーだな、と思って、じゃあ、家でどうするのか、
と思い悩んでしたら、水出しアイスコーヒーのティバッグ入り、という商品を見つけました。
これを早速買って、併せて、1リッターの冷蔵庫用のプラスチック容器を買い、
これに水を入れ、バッグを入れる。
3時間ほどで、バッグを取り出すと、
すっかりアイスの水出しコーヒーが出来上がっているのです。
これは、少なくとも、喫茶店並みのアイスコーヒーの品質ですね。
インスタントコーヒーを氷水でかき回すのとでは月とすっぽん。

これはお勧めです。

 

おかげさまで、この夏、ちょっとばかりグレードの高いアイスコーヒが飲めそうです。

| 水嶋かずあき | グルメ | 15:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
司法取引

司法取引制度が、日本にも導入されました。


今まで、アメリカなどのドラマで、ごく普通に、捜査に協力すれば罪を軽くする、

という司法取引が行われている、と言うことは見聞きしてきましたが、
いよいよ日本でもか、と思ったら、これが、全然違うんですね。


大きな違いは、アメリカの場合、事件の犯罪そのものの捜査協力で、
いわば、素直に有罪を認めるなど、
犯罪捜査とか、裁判とかの手間を省くのに、活用されてきたわけです。
確かに、犯罪捜査や裁判など、ある意味余計なコストを社会は負担しているので、
これを軽減させようという事ですよね。


考えてみれば、ヘンな話でしょ。
だって、犯罪と言うマイナスの行動をして、
これをとがめられたら、すみませんでしたと素直に認めると、
いくらか罪が軽くなるんですから、
最初に引き起こしたマイナスの状態はなんだったのか、という事でしょ。
極端な話、殺人が行われて、テレビなどでよく出てくる第一級殺人が、
時に司法取引で、ランクが下げられたっとしたら、
殺された人は良い面の皮ですよね。


最近しばしばしば挙げられている被害者の救済、という面で、
司法取引で、罪が軽くなるというのは、
時にやり切れない事でしょ。
犯罪の現場で起きたマイナスは、何も修復されないのですから。

 

ともかくです、日本の場合はこれと大違いで、
主に、企業犯罪や組織犯罪などを想定していて、
なんかの拍子に捕まえた犯罪者が、小物だったとすると、
刑罰の軽減と言う餌で、大物の逮捕に資するための情報を引き出そうというのです。
まあ、組織内のちくりですね。
のうのうとしている黒幕とか、親分を放置しないぞ、というわけです。

 

構造としては、いささかニュアンスが異なりますが
例の日大の危険タックル問題に似ているでしょ。
ある出来事があって、これはまずいぞ、ということになる。
日大の場合、メディアとかマスコミが問題として取り上げ、
ある種の告発をしたわけです。
そこで、犯人は顔出しをしてまで、我が非を悔いたわけです。
結果、親分の諸行が露呈された。
世間は、親分が悪いんじゃないの、と、今度はそちらに攻撃の的を絞った。
ここで犯人は、ある種の減刑に近い状態を得る事ができそう、と言うことでしょ。
宮川君にその意図は微塵もなかったと思いますが、形の上では、
これは、問題の当事者と世間様が、社会正義の名において、司法取引のようなことをしたわけです。

 

私は、司法取引で、司法側の労力を軽減し、より効果的な巨悪を暴く、と言うのは、
十分にありの制度だと思うのですが、
でも、犯した罪は罪でしょ。
その罪は、確かに、非を認めたり、悔いたり、謝罪することで、
改悛していると判断すれば、それなりの犯罪の罪のレベルが軽くなることは、
いいことだとは思いうのですが、
それより、むしろ、非協力的とか、過剰な黙秘とか、操作への非協力的な態度は、「
マイナスにすればいいと思うのです。

 

例えばです。
強盗傷害の犯罪があって、犯人が捕まる。
取り調べて、否認から始まり、挙句の果てに冤罪だぐらいことで騒ぐ。
裁判の意結果、動かぬ証拠が出てきて、有罪となった。
状況から、懲役10年が妥当なのですが、
捜査に非協力的だったために、プラス年の刑が追加される、という制度です。
この時、犯人が逮捕直後から素直に犯罪を認め、
罪を悔いるなら、規定通り10年で済む、という事です。
取り調べの過程で、嘘をついたら、一つの嘘につき、3か月づつ量刑が増えるとか、
過剰な黙秘は、半年増えるとか、
まあ、何が妥当か分かりませんが、
いくら犯罪者と言えど、さらなる人間性の悪いものと、
まあまあ、まともなものとを同じレベルで判断するのはおかしいでしょ、
司法取引で刑を軽減するのと併せて、
結果として、有罪になる場合、取り調べに非協力的であったら、
罪は重くなるというのも、ある種の司法取引とみなせるんじゃないでしょうか。

 

人は量刑の大きさを絶えず念頭に置いているようです。

これもアメリカのテレビドラマですが、ある犯罪常習人が、仲間に銀行強盗を持ちかけます。

すると、話を聞いたその仲間は、割に合わない、と断るんです。

得られるものと、発生するかもしれないリスクを天秤にかけるんですね。

 

割りに合う、となれば、捜査への協力が進むと思うんです。

 

 

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
服忌令

24年前の6月1日。
私はその年の七夕飾りを作るべく、
豊田の谷地工務店さんの作業場で材木の切り出しをしていました。
正に、七夕飾り製作の第一日目でした。
作業中に、友達から電話がかかってきたと、事務所からの伝言で、

急ぎ足で、電話機の所に行き、受話器を取り上げたのです。
と、我が大親友の戸塚保君が、急死したという知らせです。
そりゃ並みのショックではありませんでした。
電話の様子では、自死らしいということまでは分かりましたが、

と頭の中は大混乱です。

いったい何があったんだ、と。

 

この年ですから、身の回りの友達も、何人か亡くなっています。
その中でも彼は、最も早く亡くなってしまったのです。
その後自分の人生の節目ごとに、
必ずと言っていいほど、たもっちゃんが生きていたら、と、
恨み言のような、仮定をしたものです。


自分の両親はともかく、友達関係で、葬儀委員長的な役割や、
友人代表での送辞など、案外と数多く勤めてきました。
振り返れば、多くの人との別れがありました。

私の携帯に登録されている電話番号で、
名前を見ても、どこの誰だか思い出せない人が10数名います。
まあ、在るとき、それなりの必要性があって、やり取りしたんだろうな、
とは思うのですが、それがいつ、どんな要件での関係なんだか、
まるで思い出せないのです。


時々、電話を掛けようとした相手の名前そのものを思い出せなくなって、
「あ」から順にスクロールしながら、一覧を読むのですが、
ところどころ、亡くなった友達の名前が出てきます。
その数、19名。
登録後にお亡くなりになってしまったんですね。
それなりのお付き合いがあったんですから、
亡くなったからと言って、登録を消去する気にはなれないんですね。
ともかく登録したままです。
ですから、ある人の番号を探そうと、スクロールしているときに、
そういう名前を見ると、昔の元気だったころのこと、
さまざまなやり取りの思い出が浮かんできます。
少なくとも、私の携帯では、友たちは亡くなっていないのです。

 

よく人の存在を、人は二度死ぬ、と言われます。
最初は、肉体として死んだとき。
二度目は、その人の思い出を持っている人がすべてなくなった時、
と言われています。
そう、周囲の特に密接に関係のあった人たちの心の中には、
何かにつけ、心の中でよみがえり、生き続けているんですね。

 

さてかく言う私、来年は後期高齢者ですから、まあ、標準的には、ぼちぼちお迎えが来る年です。
ですから、周辺の人たちがいなくなってしまうのは、当然と言えば当然のことです。
私は、ある意味、臆病なのかもしれませんが、
死の瞬間をどのように迎えるのだろうか、とよく考えます。
そして、自分の死を、周囲はどのように受け止めてくれるのだろうか、と。
まあ、しょうもない考えを巡らせるのですが、
その度に、じたばたしまい、と心に言い聞かせています。

 

世の中変化の連続と言えばそれまでですが、
最近のお葬式にも変化が表れていますね。
特に、家族葬とか言って、内輪でこじんまりと済ませることが増えてきました。
遺族としては、身内が亡くなり、精神的なダメージがあるのに、
葬儀で神経が細る思いは、つらいことでしょうし、
経済的にも負担になりますから、規模は小さく済ませるというのも選択肢の一つですよね。
そこで、家族葬が多くなってきているわけですが、
家族以外の友人にしてみれば、友の死を悼む場がないというのは、
さみしい思いをすることがあります。
今までは殆どが、風通の通夜・告別式を執り行ってきたわけですから、
じゃあ、家族葬の場合は、どうしたらいいんだ、と。
家にまで押しかけて線香を上げるというのも、迷惑がかかるかな、と思えますし、
新たな習慣に対する対応方法がまだ決まっていないように思うんですね。
どうしたらいいんでしょうか。

 

こう言う事って、時代とともに変わるんですが、
ちなみに、明治7年、ぶっきょうれい、と言う法令が発令されました。
漢字では、服忌令と書きます。
これは、それまでのさまざまな服喪に対する慣習を、
法令で統一しようという事になったのです。
その一部に、妻が死んだ夫は、忌中50日間、喪中13か月と定めました。
夫を失った妻は、忌中20日間、喪中90日間、という事でした。
忌中とは、基本的に自宅謹慎という事で、
喪中とは、祝ごとの席には出ない、などのことです。
ま、いずれにしても、こんなことを法令で定める、というのも、それなりの時代だったんですね。
もちろん、今はこの法令はありませんから、お好きにどうぞ、という事です。
ま、それにしても、身内、または友を失った人も心の痛みは、
法令なんかで決められるものではないでしょ。
よしんば決まられたとしても、
それは自分の心の中で、その亡くなった人が生きているかどうかなんですから。

| 水嶋かずあき | あれこれ | 09:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< June 2018 >>
+ SELECTED ENTRIES
+ RECENT COMMENTS
+ CATEGORIES
+ ARCHIVES
+ MOBILE
qrcode
+ LINKS
+ PROFILE