水嶋かずあきの甘辛問答

神奈川県平塚から、水嶋かずあきが語ります。
隔靴掻痒の品定め

世相は移り変わる。
それによって、ちょっとしたマナー的な問題も持ち上がり、

賛否が分かれ、どうでもいいこともふくめ、それなりの意見の調整が行われる。
そして、新たな社会通念がそこから生まれる、と言うのが最近時に感じる様々な現象の一つです。


そもそもで言えば、携帯のマナーモードなんていうのもそのうちの一つでしょ。
人情が紙のように薄くなってゆく昨今では、個人の社会性の欠如はますます進んでゆくようです。

 

そんな中で、あるスーパーが、最近のある現象に悩んでいるのだとか。
それは、スーパーで肉や魚を買った客が、商品の容器をレジ横のごみ箱へポイと捨ててゆく。
つまり、家であのトレーを処理するのが面倒なので、(とくにごみ有料のところはなおさらでしょ)
買ったその場で、上面にかぶせてあるラップに上下をひっくり返し、
底の部分からラップをはがし、トレイを外す。
で、買った商品はラップに包んで持ち帰る、と言うやり方。
まあ、あったまいい!と思ったのです。

ごみは減るし、冷蔵庫の中はかさばらないですむでしょ。
ところが、これが問題なんだそうです。
まず、衛生的でない、という指摘。
匂い、小バエ、雑菌などが繁殖すると不安がるんですね。
他の客からも汚いと非難されることもあるとか。
そこで、トレーを捨てないよう、注意書きを出しているスーパーもあるようなんです。

でも、これってどうも西日本方面の傾向のようなんですが、いずれ全国的な傾向になるかもしれませんね。

 

何しろ、あのトレイのかさばり様ときたら、半端じゃないですもんね。
我が家は、平均年齢81歳の超高齢化家族なんです。
したがって、食材の買い出しと言ってもちょぼちょぼしたもの。
米なんか、2キロ買ってくれば、楽に半月は持つんです。
そんな状態なのに、ちょっとした大きめのレジ袋に、プラゴミ系のものを入れて処理しているんですが、
このプラゴミ専用のごみ入れ袋を取り換えても、あっという間に一杯になるんですね。
飲料用の空ボトルもいいとこ10日ぐらいで一杯。
確かにスーパーで買い物をすると、その大半が白いトレーに入れて、さらにラップで包んでいます。

私はこれは過剰包装ではないか、と考えています。

レジ有料化によってプラスティックごみを減らしましょう、とか言ってますが、
どこかちょっと偏った規制だと思うんですね。


この過剰包装はいくつかの問題を抱えています。
まずは、プラゴミの問題ですね。
一つは、すぐ捨ててしまう超短命の商品なのに、それなりのコストがかかるということです。

次が、商品の衛生面とか言ってますが、逆に、商品の鮮度が分かりにくくなっています。
買ってきて、包装を解いて、下の方が傷んでいて、半分使えない、なんてことはしばしばあります。
トレーに入れられて、ラップを掛けられてしまうと、
正に隔靴掻痒状態で、直接手に取って品定めができない。
つまり、商品の良しあしが確かめられないのです。
市内のあるスーパーで、里芋を買って、フィルムを破って中を見たら、
半分以上が傷んでいたので、残念ながら捨てました。
だって、10数個入っていて半分以上傷んでいるということは、
残りだって、そうそう健全な状態の食品ではないと言う事でしょ。
これだから、ラップ越しにいくら見ても分かりにくく、

時に一か八かの勝負、なんて事になるわけです。
里芋は、その次の時も全部捨てるような状態でした。
2連敗です。

 

肉などもトレーではなく、ラップで包み、トレーの上に置き、

それをレジでトレーだけ回収するというシステムにすればいいでしょ。

 

ともかく、プラゴミが世界的規模で問題に鳴ろうとしている現状の割には、
最もプラゴミを世に送り出している生鮮食品のスーパーの対応が

旧態然としているように思うのですね。

 

ま、とは言うものの、世帯当たりの人の数が減少している現在、
個分けの食材もそれなりに無駄を省くための知恵です。
50年前に、白菜が半株に切られて売られているのをみて、驚きました。
その後、キャベツも切られて売られ、大根も半分サイズになっていました。
 今では当たり前ですが、 小人数の家庭だと、丸々一個買っても使いきれない。
そこで切り分けるわけですが、そうすると、包装の仕方も工夫しなくてゃいけない。
と言った、事情もあるんですね。

 

世相の移り変わりではしばしば、旧来の概念が否定されますが、
こういう生活の最前線でも、そういう現象は出てくるもんなんですね。

| 水嶋かずあき | グルメ | 12:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ご祝儀相場とはいえちょっとおかしいんじゃない

ご祝儀相場というものがあります。
通常の価格よりいくらか色を付け、景気づけをしようというものです。
まあ、関係者としては景気づけをして、その先のいい流れを作りたいのでしょうが、
時に、度が過ぎるご祝儀相場があるでしょ。
よくあるのが、ある寿司屋がマグロのセリで、何百万とかの値を付ける。
それによると、赤身のまぐろ鮨一貫で、数千円になるという計算。
まあ、食べ物にこのような価格を付けるのは、基本的に間違えた行為だ、と思うんですね。

 

よく、ちょっとばかり気取った高級な飲食店、レストランで、
我々庶民には法外とも取れる価格の料理を出すところがあります。
たとえば、すしやで(銀座あたりの高級店)勘定をしてもらったら1人2万円ほどになったとか。
いや、うまかったね、とかの感想は、そりゃ当たり前でしょ。
2万円ですから。
庶民1人の一か月分の食費ぐらいのお金でしょ。
で、2万円の内訳をわけを聞いてゆくとネタにいいものを使っているとか。
いいネタは高い。
だから必然的に高くなる。
いいネタを出されて、さあうまいだろ、と言われれば、そりゃうまいでしょ。
で、いつも思うんですが、じゃあ、そのまぐろ一貫が2千円だったとします、
この食べ物に2000円を払う時に、

ネタに対して払っている比率が大きくて、腕に対して払っている比率は低いでしょ。

いいネタ前提での高級店は、腕で勝負の高級店より格が落ちると思っています。
ネタに金を払うより、腕に金を払うことが調理に対する意味がある、と。
超高級のステーキのお店なんかでもそうです。
腕より材料費にお金を払っているようなものです。

 

私は、料理の基本は、食べられないものを食べれるようにする作業のことだ、と考えています。
生米をそのまま食う人はいないでしょ。
それなりに炊飯します。
米の質もさることながら、炊き方次第で、旨い白飯が炊き上がる。
これって腕でしょ。

 

その昔、舟平の前身で一平と言う料亭がありました。
私は小学校に上がる年に紅谷町に引っ越してきて、その料亭の後方の住居部分で生活をしていました。
で、調理場には始終出入りしていたのです。
当時の板長の森脇さんと言う方が、小学生の私を捕まえて、時々料理談義をしてくれたのです。
その中で、料理っていうのは、食べれないものを食べれるようにすることなんだ、
と教えてくれたのですね。
切ったり煮込んだり、焼いたりするのは、食べれるようにするためなんですね。
食べやすいだけでなく、おいしくする。
口に入れた時に、至福の味わいが広がるようにと、料理をするわけです。

 

ある時期、水菓子といって、いわば洋食のコースのデザートのようなものです。
これに、時期のビワが出されたのです。
で、旬の時期は献立を固定しますから、半月程はビワが出されていました。
森脇さんはこのビワの種を取っておき、時期の終わり掛けに、ビワの種を甘煮に仕立てて出したんですね。
ホックリとなかなかおいしいものでした。
このことをとても印象的に覚えているのです。

 

ですから、私は、スーパーなどでおかずの材料を買いに行くと、
値引き商品を優先的に買います。
新鮮なものは正価で売っていますが、いくらか時間がたつと値引きすることがあります。
でも、値引きしてあるいささか鮮度が落ちたものでも、

腕でおいしいものはつくれる、という考えがあるんです。

 

ですから、腕のいい悪いはともかく、セレブ相手なのかどうかは分かりませんが、
法外とも思える値段の料理を出す、と言う神経そのものが理解できないんです。
まあ心底では、食材への冒涜じゃないか、と感じているんです。

 

で、なんと、鳥取市の鳥取港で、日本海の冬の味覚、ズワイガニの初競りが開かれて、
ズワイの最高級ブランド「五輝星」に認定されたカニが500万円で競り落とされたそうです。
いかにご祝儀相場とは言え、ちょっとやることがえげつなくないですか。
蟹一匹に500万円と言う神経がそもそもおかしい。

関係者も収入が多ければそれでいいのだ、ではなく、
もう少し食材の本来の在り方を考えるべきでしょ。

 

ちょっとこの浮ついたことのニュースを聞いて、

うれしい気持ちになった人なんていないと思うんですね。
いやはや、カニを馬鹿にしてませんか。

だって初セリが終わった翌日からは、いいとこ1万円台になるんでしょ。

| 水嶋かずあき | グルメ | 12:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
お客様は神様です

結構普通に「お客様は神様です」と言う言葉を聞きませんか。
特に、サービス業などでは、その神髄のごとく、お店の人間は、お客様に対して、
絶対不可侵のごとき領域に存在するものと言う概念になっているでしょ。
どんな要求も、はいはい、と受け入れる。


もちろん、お店のルールはルールであるんですけれどね。
例えば、生中一杯350円、というなら、お客は350円支払うわけでしょ。
お客様だから、そう、神様だから、と300円に値切ることはない。
つまり、神様も、生中350円というルールには従うわけです。
ところが、サービス業と言うのは、伝票に付けないサービス行為が山ほどあるわけですね。
最大のものが笑顔でしょうか。
にこっと笑うたびに、笑顔1なんて伝票にはつけません。
日本では、お水がやはり伝票に付けないでしょ。
おひや、とか、上り際のお茶など、伝票にはつかない。
そう言えば、国によって、水は伝票に付くところがあると聞きました。
その国の人が日本で食事をして、お水が無料と聞いて感心するのだそうです。
ま、ともかく、ほぼ、この国でのサービス業は、それなりにお客様を中心にサービスが行われます。
そしてその根底に、お客様は神様、と言う概念で、仕事の基礎を固めているんですね。

 

なんかあれば、だってお客様は神様ですから、といって、

お客様の、時に横暴な要求を受け入れるわけです。

 

そもそもこのお客様は神様ですというのは、かつて演歌界の大スターだった
三波晴夫さんが言ったことがもとになっています。
でも、私達が使っている言葉の内容と、ちょっとニュアンスが違うんですね。
三波さんは、こう言ってます。

『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払って、
まっさらな、澄み切った心にならなければ完璧な芸をお見せすることはできないと思っております。
ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。
また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。
ですからお客様は絶対者、神様なのです』と。

で、その後この言葉が独り歩きし、いつの間にか、
一段低くなってお客様に接する心構えとして、お客様=神様という位置づけなら、
グダグダした反論もあるまい、という感じで安易に使われてきたんですね。

 

しかし、解釈を曲げようと、実態で言えば、なかなか説得力のある言葉で、
サービス精神を身に付けようとするとき、お客様は神様と言う言葉は、とても効果があるんですね。

で、このことは、サービス業の基本的な概念として定着し、
いまでは、ほとんどのサービス業はこの精神にのっとって、
実に丁寧な接客するようになりました。


一方で、この傾向を定着させたものとして、マニュアルの存在があります。
まあ単純にこれに従って行動すれば、間違いは起きない、というものです。

しかし、マニュアルのよう行動は、一定のレベルアップにつながりましたが、
一方で、人間味に欠けるようなことも生じてきています。

 

あるファーストフードでのやり取りです。
その人会社で、突然、急ぎの仕事が入って、社員一同で、
バタバタと対応せざるを得なくなったんです。
で、支店長込みの6人の小さなオフィスだったんですが、
どう考えても、残業が、3〜4時間にはなりそう。
2時間ほどたった時、支店長が立ち上がり、みんな腹空いただろうと、
近くにあるファーストフードで、ハンバーガーだのフライドポテト、
それに飲み物など買ってくると言って、出かけて行ったんです。
で、お店のカウンター越しに注文が終わると対応した店員さんが、

きわめて丁寧な言葉で、
お客様、ただいまのご注文は、店内でお食べになりますか、

それとも、お持ち帰りになりますか、と言ったんですね。
支店長は、驚いて、あんた、常識で考えて、おれが一人でこれだけ食えないだろう、と言ったそうです。
全くマニュアル通りにしか頭が働かないんだから、とぼやいていました。

 

しかし、間違いなくマニュアルはサービスのレベルアップにつながっています。
それは、お客様は神様ですの精神が根底にあるからなんです。

最近、お店によってはお客様に対して受け身であった関係を、いささか転換し、
お店からの注文をお客様に付けることがあるようです。

SNSで話題になったことなんですが、
ある飲食店に貼られた貼り紙の内容が投稿されて、賛否の意見が出ているといるようなのです。

 

これは店に貼りだされた紙に、「すいません禁止」と言うお客への通告です。
確かに、私達が、たとえば居酒屋なんかに行った時、バタバタ接客に忙しく動き回っているウエイターなどに
追加の注文をしようとすると、何らかの声を掛けなくてはいけない。
おーい、と言うのもいくら客とは言え横柄でしょ。
で、定番のすいませーんとなるわけです。

 

私は、このすいませーんにいささか抵抗がありました。
だって、ほぼ新たな追加のために呼ぶわけですから、
お店にとっては売り上げが増えるありがたいことでしょ。
で、声を上げなければ、なかなかこちらに来てくれない。
でも、すいませーんと言うのは、謝りの言葉ですよね。
なんの落ち度もないのに、どうして謝らなくてはいけないのか、と。

そしたらこの記事です。
我が意を得たりと読んでみました。

 

で、すいません禁止の代わりに、なんと言わせようとしているのか、です。
詳しくは分からないのですが、要は、店員の名前を呼んでほしい、と言うんですね。
実はこれはそれなりにうっとうしいでしょ。
いま、ちらっと見えたあの人の名前はなんと言うのか、なんて誰も知らないでしょ。
それとも、着席すると、全店員がやってきて自己紹介でもするんでしょうか。
何より、名前が認識できたとして、山田という店員さんに、
やまだ、と呼び捨てにするんでしょうか。
やまださーん、とさん付けにするんでしょうか。

ま、どっちにしてもうっとうしい話でしょ。
こう言いうことを、客に要求するというのは、
お客様は神様ではないんですね。

 

| 水嶋かずあき | グルメ | 19:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
苦味が苦手

もともと動物の舌は、食料を口にしたとき、

体内に取り込んでいいのかどうかを判断する役割を持っています。
これはすべての種の動物が基本的に備えている機能で、
例えば、メダカが、水中に浮遊しているものを、いったん口に入れ、これはよくない、
つまり食料として足しにならない、と判断したら、吐き出します。
ハトなどを見ていてもそうです。
地べたに落ちているものを、一応口にしますが、食べたり吐き出したりしながら選別しています。
ですから、体に入れるという判断は、体づくりの足しになるからなんですね。

言い換えれば、体に害になるものを摂り込めば、時に命に関わることになりかねない。

そこで、OKと言うチェックをするために、それなりの安全検知器的な舌があります。


人類の生活向上とともに、

舌は、いつの間にか、うまいまずいを判断するものになってしまいましたが、
本来は、体にいいのか、よくないのかの選別の機能が原則的な役割であった、というわけです。

 

そこで、子どもと言うのは、まだ食経験が少ないですから、
特に、この舌の機能は鋭敏で、ちょっとした味の違いを明確にチェックできるようになっています。
構造的には、味蕾というものが舌にびっしりと埋め込まれています。
味蕾と言う味覚検知器が並んでいるのですが、
これが、あまいとか、塩辛いとか、ピリ辛いとか、酸っぱい、苦いとか、旨いとかの味覚を検知します。

話は変わりますが、舌の形の図があって、奥が苦い、その手前が酸っぱい。

さら胃のその先が塩辛いで、先端が甘いという味覚をそれぞれ検知する、と言う図を見たことがあるでしょ。

実はあれは間違いだったんですって。

5味は舌全体で感じるので、部位による違いはないそうです。

ま、これもある種の科学の進化ですね。

 

さて、舌は、その総合的な判断で、体に取り込む、つまり嚙んで飲み込むということをするわけですね。
ところが、この味蕾の数は大人になるほど減ってゆきます。
つまり、味に鈍感になってゆくんです。
ですから、年とともに衰えている味覚は、

味覚からの信号で、そういうもんだと、その時の味を味わっているわけで、
もし子供のころの味覚を維持できていれば、旨いの基準が変わってくる可能性があるんですね。
露骨な表現ですが、年よりは味来数が減ってきているので、味を濃くしないと納得しない、と言いますが、
生理的にそれは正解なんです。

ま、塩分少な目が本来ですが、旨いまずいに関してはそう言いうことなんです。

で、子供と大人の大きな違いは、
この味蕾の先鋭度の違いということになります。
子どもは敏感で大人は鈍感なんですね。

 

この違いが顕著に表れるのは、苦味なんです。
なぜ生物、特に植物の食材の中で苦味を成分として持ち込んだものがあるのか、と言うと、

食べられたくないからです。

ですから、食味として苦味は、ほぼ警戒すべき味覚なんです。
逆に甘味は、素直に受け入れますでしょ。
ですから、苦いものを、自然の状態で摂取しようとしたら、

舌から警戒警報が出るんですね。
で、その結果吐き出す。
つまり体には取り込まないんです。

 

私はいまだに、ビールをあまりおいしいとは思えない。
あの苦味が、苦手なんですね。

で、最近、ビールはビールでもノンアルと言うのが登場し、
多くの人が、特にくる間の運転をしなくてはいけない時、

ノンアルビールを飲むようになりました。
どうして苦みのある飲み物に固執するのか分からないんです。

アルコールを飲んで具合が悪ければ、他の飲み物の選択だってあるわけでしょ。

この期に及んでまで、ビールテイストかよ、と思うんですね。

これは私の感想ですが、苦味のある飲み物は、食味によい影響を与えるとは思えないんです。
でも、皆よくノンアルを飲むでしょ。
あの意味が分からない。

 

梅酒でもノンアルがありますね。
You wan’a 酔わない梅酒、とかいうCMがあるでしょ。

 

で、なんと、今度日本酒でもノンアルが出てきました。
月桂冠が、大吟醸をイメージしたノンアルコール日本酒テイスト飲料
「スペシャルフリー」を販売するそうです。

 

ビール、梅酒、日本酒と、ノンアルが幅を利かせてきましたが、
これって、アルコール依存の一種なんじゃないか、って勘ぐってます。
他に場にふさわしい飲み物はいくらでもあるじゃないか、と。

 

 

| 水嶋かずあき | グルメ | 12:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
第三次タピオカブーム

タピオカがブームだそうです。
紅谷町にも、タピオカ専門店が登場し、開店時には行列ができるほどでしたが、
夏休みで学生がまちに出てこないのか、最近は閑古鳥が鳴いているという様変わり。

ま、それにしても、何をいまさら、という感じのブームなんですが、
かつて何回かブームの波があったそうです。


その第1次は1990年代前半、ココナッツミルクに入ったタピオカでブーム。
いま、いろいろ抹茶とか出てきていますが、このココナツミルクと言うのが、

ま、おそらく王道の飲み方ですね。

 

私が初めてタピオカを食べた(飲んだではなく)のが、20代前半。
今から、かれこれ50年前。
中華料理のコースで、デザートとして出てきたものでした。
まあ、当時は(今もそうですが)中華料理のデザートと言えば杏仁豆腐が定番。
で、時にこのタピオカミルクが出てくることがあるんですね。
時に、杏仁豆腐だと、またか、みたいなところがあったんですが、
その意味で、タピオカはとても新鮮な感覚になったものです。
ですから、時に杏仁豆腐かタピオカミルクかと言う選択になると、

無条件でタピオカを選んでいました。
しかし、いったいあの丸いぶつぶつはなんだろう、と疑問に思っていましたが、

まあそこまで、これと言った追求はしていませんでした。
ちなみにこのころは小鉢に入っていて、スプーンですくって食べたものです。

 

第2次ブームは、2008年ごろにはじまった台湾ブームのころ。
白いミルクに入っている黒い粒粒をストローで吸い上げ、
ぐにょぐにょしたものを嚙んだり飲み込んだりして、食べる。
なんとなく、ミルクを口に入れる量と、タピオカの量とのバランスを取らないと、
最後に、無味なタピオカばかり吸いこむことになるし、

その逆だと、結局ミルクを飲むだけになる、という、
多少なり計画的な食べ方が必要ですね。

 

で、今が、第三次と言うこと。

 

そもそもこのタピオカは、キャッサバと言ういも類のでんぷん質を練って丸めたもの。
キャッサバは、里芋の親せきで、南方ではごく普通に栽培されています。
実は、このキャッサバは有毒植物で、その皮には毒性があって、ここは剥きとり、
残りの身の部分を、茹でたり、水にさらしたりして食用にします。

あの黒いのは、キャラメルなどで着色しているそうです。
もともとは白いものですね。
で、実は、このキャッサバ、ハワイなどでも主食に近い食べ方をされていて、
実においしいものだそうです。
で、ついつい食べ過ぎて太ってしまう。

 

以前ハワイに行った時に、失礼ながら、小錦風の太った方が多くて、びっくりしましたが、
聞くところによると、キャッサバの食べすぎなんだそうです。
実はキャッサバ、かなりカロリーが高く、ジャガイモのほぼ2倍。
よく売れれているタピオカミルクなどは、Mサイズ一杯で、およそ400キロカロリー。
ラーメン一杯とか、生ビール中ジョッキー3杯分のカロリーに当たるのだとか。
おいしいおいしいで、太らないように気を付けてください。

 

先日第三次ブームにあやかって、自作タピオカミルクを作りました。
一つは、乾燥の小粒のタピオカ。
何分か茹でて、水にさらし、冷やしたところで、ココナツミルク、砂糖、牛乳の混合したものに投入。
まあ、普通のタピオカミルクがいたって簡単にできます。
正直、デザートとしてはあっさりしすぎていたので、
二度目は、これに練乳を混ぜてみました。
タピオカの無味な風味を、コクのあるミルクで、うまい具合のハーモニーとなり、これは正解でした。
冷凍のタピオカも売っています。
これは熱湯で30秒ほどで戻して、簡単に使うことができます。

改めて、専門店とかで買うこともないほど手軽に作れます。
ただし、高カロリーなので、ほどほどにしないと、デブになりますよ。
あの小錦風の。

 

旨い旨いがデブの元。

| 水嶋かずあき | グルメ | 16:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
お通し不要論

ある記事からです。

テーマはお通し。

というか、お通し不要、もしくは拒否可能なシステムにせい、と言う意見についてです。


うちは居酒屋ですからお客様が着席し、飲み物のオーダーをいただくと、
原則お通しを付けて出します。

で、トラぶったことは無いですね。

ひとつは、めまぐるしく内容が変わる、と言うことと、

出来合い品をさらに盛り込むなんてことはしていないからです。

 

で、サイトでああだこうだと言ってるのは、
頼みもしないのにお通しの代金が伝票についてくるのは
理不尽だ、と言うんですね。
そして、なぜお通しと言うシステムがあるのか、
関西では突出しと言いますが、
これについてあれこれ書いてあるんです。
特に、外国からの観光客など、頼みもしないものが出てきて、
なおかつ料金に乗っているということに、疑問を持っているとか。
で、支払料金のほぼ一割がお通しの料金で、
これはいかがなものか、みたいな意見なんですね。
で、断ることができるので、そこはきちんとしたほうがいい、と。

なるほどですね。


で、順に言い訳とと主張を展開します。
まず、注文を受け、料理が出てくるまでに、カラ酒にならないよう、

という意味が最大の意義です。

ですから、最初のオーダーが出てくるまでのつなぎ的な要素は確かにあるのですが、

店によっては、我が店の最初の料理ですから、

最大の神経を注いで作ってます、と言う所もあります。
大体、居酒屋に行くと、先ずは飲み物の注文から始まるでしょ。
少なくとも、先ず料理の注文を取って、
では、と一息入れて飲み物なんて手順は経験したことがありません。
したがって、おしぼりだの小皿だのとともに、飲み物が出てきます。
さて、それから料理の注文となると、出来上がりまでのタイムラグがあるので、
ここをつながなくてはいけない。

そこで、今日のお通しみたいなものが出てくるわけです。

 

で、お通しに対する不満は、頼みもしないのに、と言う部分と、
もうひとつ、ここが重要なんですが、取ってつけたようなものが出てくることです。
それこそ出来合いの、ビニール袋を開封し、小皿に盛り分けるだけの小料理。
いわば心無いお通しです。
まあ、つなぎだから、この程度でいいだろう的なものですね。
これはよくない。
だって、お通しと言えどその店の料理なわけで、
雑に考えてはいけないはずです。


つまり、お通しに不満があるのは、お金の問題じゃないんですね。

私が、知り合いのお店に飲みに行く場合、
ほぼ100%お通しが出てきます。
なんとなくそういうもんだとも思っていますが。
で、料金に1割とは言え、それが気になったことはありません。
だって、料金て、飲み物、料理の総合計額でしょ。
生中だって、店によって値段が違いますし、やきとりだって、
一本いくらかなんて全部違うでしょ。
あるメーカーのあるカップヌードルが、1個100円なのか、120円なのか、とは意味が違うでしょ。
例えば、キリンの生中が、400円なのか、450円なのか、店によって違うでしょ。
でも、それを指摘はしないでしょ。


つまり、飲食店の料金体系は、きわめて個性的なんです。
トータルで、安かったか、まあまあなのか、ちょっと高いか、なんですね。

つまり、お店によってきわめて個性的な内容なので、お通しひとつを取り上げて
要不要の議論とか、値段をつけろとか、断れるシステムを明示しろと下の提案は、
野暮と言うものなんです。
要は気に食わなければ、その店に行かなければいいことです。
行ってみて知ったというなら、それは野暮な話です。
日本では、大昔から、お通しと言う食文化が根付いているからです。

お通しの料金に不満があるというのは、
その店に何らかの不満があったことに通じると思うんですね。

調理を運んでくれる姉さんが、ちょっと色っぽくて、好みのタイプ、

しかも、ものを運んでくれるたびに、結構人懐こい話題が交わされて、

いや良い子だね、また来るよ、とか言いながら、勘定の時にお通しなんか頼んでないよ、

なんてクレームはつけないでしょ。


トータルに店の雰囲気とか、接客のレベルとか、料理の味とか、
要は、満足すれば、お通しの料金など関係ないでしょ。
結論を言えば、あまりうまくもないお通しだったことと、

そのお店の何かが気に入らなかった、と言うことなんですね。

| 水嶋かずあき | グルメ | 15:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
おいしい鰻の食べ方

今日は土用丑の日。
ま、なぜ土用なのか、(たまたま今日は土曜日ですが)とか、
ウナギのこの時期に食べるようになったいきさつとか、
色々とテレビのワイド枠で、恒例のように紹介されます。
柿本人麻呂の歌や、平賀源内の看板説など、いろいろと紹介されますので、
今日は、専門的にうな重の現状について書いてみます。

 

ま、どうせだから、年に一回ぐらいはうなぎを食べるか、という感じだと思うのですが、
どこで食べるかがすべての基本でしょ。
そこで、まず専門店。
大体、うなぎ屋専門店と言うのは、テーブルが5,6個の小さな店が多いですね。
大きくしても普段はそれほどの客が来ないので、
取り敢えず、持続可能な規模にします。
となると、小さいお店になってしまうんですね。
専門店がバカ儲けするとは考えられないのですが、
それでもうな重の上なら4000円ぐらい。
並みとか、うな丼で、3000円と言ったところ。
 

ちなみに、並みと上の違いですが、うなぎの質が変わると言うことはありません。
ただ単に、付けるウナギの量が変わるだけです。
さて、専門店ですから、当然、自家で、割いて、焼いて、蒸して、色付けをして出されます。
ウナギの一番おいしい食べ方は、生きたウナギを裂いてから、食卓に届くまでに、
ロスタイムゼロが、最もおいしいんです。
裂いてから焼くまでに時間がかかったとか、焼きあがってから食卓に上がるまでに時間がかかったとか、
要はどこのステップであれ、その間のロスがあればあるほど、味は落ちます。
ですから、専門店以外では、一味もふた味も落ちるんです。
だって、どこかの工場でベルトコンベアーに乗って焼かれて、出来上がるとそのまま冷凍庫に入れて、
凍ったところをサイズわけして、消費地に送る。
これが、販売店に送られるわけです。


牛丼チェーンがこぞってこの時期うな丼を売りますが、
当然冷凍品の解凍です。
魚屋の店頭も冷凍品の解凍です。
デパートの地下売り場のうな重なんて弁当も冷凍品の解凍です。
つまり、専門店以外は、どう考えてもロスタイムたっぷりなんですね。
専門店でも、この日に向けて、白焼きしたものを冷凍するか、
冷凍の白焼きを仕入れるかしているはずです。
でないと、あのお客様の行列を捌ける生産ができるわけない。


昨年のシラスウナギの相場は、1キログラム300万円でした。
シラスウナギの重量ですが、一匹2グラム、1キログラムにおよそ500匹います。
つまり、あの糸のような幼魚が一匹600円です。
ですから、これに餌代だとか、養殖する手間、設備の維持費など考えれば、
1匹あたりの値段が相当するということは想像できるでしょ。
ですから、最近は太化と言って、一匹の重量を大きくするということで、
相対的にコストを下げようという傾向が生まれています。
大体、うなぎはベストと言われているのが、

一匹生で(頭も骨も丸ごと)200gから250gのサイズと言われています。
これは、江戸の頃、うな重と言う食べ方が定着し、この重箱のサイズにぴったりとおさまるというので、
このサイズのものが重宝されたのです。
一方で、このサイズだと、骨もまだ細く、さほど気にならない。
あわせて、油の乗りも程よくなる、ということで、ごく普通に鰻と言えば、200gから250gが中心でした。

 

ところがシラスウナギがバカ高い。
そこで、もう少し大きくしてしまおうというのです。
確かに、大きくなればなるほど油は乗ってきますので、味としてはコクのあるものになります。
しかし、一方ではどうしても骨が気になる。
正に痛し痒しなんです。

 

さて、なんだかんんだ言ったって、土用丑の日なんだからやはりウナギを食べよう、

と言うことなら、おいしく食べる調理法をご紹介します。

家で食べましょう。
まず自家製のたれを作ります。
醤油1、味醂0.8、砂糖0.7、酒0.5ぐらいに比率。
これを弱火で10〜20%煮詰めます。
絶対に焦がさない事。
で、出来上がり
次に、冷凍解凍品のかば焼きを買ってきます。
大体、1200円から1400円ぐらい。
目方で言えば、生で300gレベルのもの。
付いているたれを水洗いし、落とします。
手のひらに抱えるように持ち、たわしかなんかでやさしくこすります。
で、これを皮を下にして、フライパンで沸騰したお湯の中に入れます。
時間は、2分前後。
フライ返しで、そおっと取り上げ、水気を切ります。
これにたれをぬりガスレンジの魚焼のところで、弱火で、2分ほど焼きます。
絶対に焦がさないように。
そもそもが味がついているわけですから、たれは一度塗れば大丈夫。
この時魚焼のトレーに、茶葉をぱらぱらと敷いておき、香り付けするとさらに結構ですね。

少なくとも手間をかけただけ、一味おいしくなります。
ま、専門店の「並み」に近付けるはずです。

せっかくの土用丑の日なんですから、
その辺のチェーン店で、取り敢えずうなぎを食べた、なんて気休めはやめましょう。

 

| 水嶋かずあき | グルメ | 05:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
日本の民度

嫌韓の人って、二種類あると思うのです。
それは根っからの嫌韓思想を持っている人。
まあ、一種の偏見でしょ。
人はとくに理由なく、主としては教育的な環境、成長の過程で、周囲にある考えを持った人がいると、
その影響を受ける、と言ったことがあります。

もう一つは、諸事情に対する受け入れ方によるもの、いわばその時の思いと言うことです。

 

以前、岡山のある町に行った時のことです。
その地方では、まあまあの企業で、著名な人物、いわゆる創業家の直系のオーナーと、
会食をすることになりました。
その方は、生粋の岡山県人で、岡山県人の気風をまとっていた方でした。
で、その席上、いわゆる部落の人への差別的な偏見が話題に上ったのです。
彼は、自分の企業に部落出身の人が求職してきたら、断る、と断言したのです。
私は、本人の能力を考慮することなしに、断るんですか、と聞きただしたら、
私達(その地域に住む人と言う意味)は、そういう環境にあって、
部落の人間は受け入れられない、と身に染みて教育されてきた、と言うんです。
正直、関東の、そういう意識の無い私達には、どうしてそう思うのか全く理解できませんでした。
で、私はさらに彼に質問したのです。
あなたの娘さんが、もし結婚相手に部落の人を選んだらどうしますか、と。
言下に、許しません、と。
その類の人間と結婚するなら、知性や品性に欠け、見てくれも悪く、ぐうたらな性格であっても
部落以外の人間だったら、ゆるしますよ、と。
そこまで、体に染みついた嫌悪の感情として、人を見下すことができるんだ、と驚いたのです。


この時、そういう偏見を叩き込まれることなく成長できた環境を、ありがたく思ったのです。
そう言う偏見は、誰の罪と言うわけではありません。
地域、周囲の環境のある種のものの考え方が、強い影響を与えただけのことです。
人を差別するものの見方を持たず、公正に見る力を得ることができたとしたら、
それは幸せなことの一つです。

ですから、人に偏見を持つと言うことは、

ちょっとばかり、不運な環境であったということにすぎないのではないでしょうか。
それは成長とともに、あたかも正しい考え方、見方であると思い込む。
決して言動としては望ましくない事ではあるのですが、
私としての感覚は、早くそのマイナスの循環から抜け出して、
心爽やかな空気をいっしょに吸いませんか、という感覚なんですね。

 

で、最近とみに嫌韓的な情報があふれています。
例の輸出規制が始まってから、露骨にそれが出てきましたね。
まあ、こういうのって、どっちが先かなんて判断は、極めて不明瞭なものです。
あいつが先に手を出したから、殴り返した、と言うのか、
いやいや、もともと根の深いものがあって、
どっちが先かなんてことは実はただのいんねんに過ぎない。
とした、問題は争いごとをしていること自体にあるわけです。
どちらかが、人としての器量の大きさを表すなら、
問題は必ず収束に向かうものです。


心の広さ、寛容さ、大局観など、人の品格に近い概念の思いを精一杯発揮することです。

韓国から、この輸出規制の問題解決の糸口を探そうと、二人の担当者がやってきました。
いわゆるごく初歩的なステップです。
どういう役職の人がやってきて、何を目的としたかは知りませんが、
その会議場の風景をテレビで見た時、かなり雑な扱いをしている、という感じを受けました。

まあ、考えられないくらい雑な設営です。
嫌韓的な人は、ざまあ見ろ、と思うかもしれませんが、
私は違和感を感じました。


少なくとも実に品格の欠如した対応だと思うんです。

日本人の役人の感覚ってこんなもんかい、と恥ずかしくなりました。
どんな状況であれ、人として敬意を持つことと、相応の扱いは、正に日本の民度でもあるわけでしょ、
なんか勘違いしてませんかね。

 

これもまた、時流を読んだ選挙用の行動なのでしょうか。

| 水嶋かずあき | グルメ | 10:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
鳥さんへの感謝の言葉

死因は、くも膜下、と聞いています。
鳥海義晃さんが、亡くなりました。

ご存知、鳥保貴柳庵のご主人。

享年80歳。
20代から寿司職につき、沼津で修業をし、
平塚に戻ってくると、親父さんが手がけていた鳥保で仕事を始めます。
私が出会ったのは、とりさんが平塚青年会議所に入会をしてきたことがきっかけでした。
近所で商売をしていたのですが、それまで縁もなかったのです。
で、当時、青年会議所の例会と言うと商工会議所の2階で開催されていてのですが、
終わって、三々五々、皆帰り路を急ぐんですが、紅谷町に私も向う、鳥さんも向うということで、
同じ方向に歩いていたのです。
この時、数メートル離れた距離で歩いていて、言葉を交わすことはありませんでした。
まあ、なんとなくよく知らなかった、ということもあったのです。
で、梅屋さんの裏道、鳥保のお店がある道なんですが、
そこで、店への細い路地に入りながら、とりさんは振り返ることもなく、右腕をふりながら、
同業だしよ、これからもよろしくな、と言ったんですね。
もちろん相応の返事を返しました。
この、いかにもぶっきらぼうな最初の接触が、くっきりと記憶しているということは、
その後の濃密な関係と際立って対比されたからなんです。

 

以来、特に飲食業という同じ土俵でずいぶんとパートナーを組んで活動してきました。
このブログでもたびたび登場した伊藤雅易さんを師匠にした料理研究会の立ち上げです。
これは、それまで碌に板場の修業もしてこなかった私にとって、
とてつもなく新鮮で、実りの多い会合となりました。


1990年、相模湾アーバンリゾートフェスティバル、略称SURF90が開催されたんですね。
この時、今の弦斎公園で、伊藤師匠との包丁式が行われたのですが、
介添えに一番弟子を自負していた鳥さん、私は進行を解説する役で参加しました。
こういうことには、妙に張り切るところがとりさんにはあったんですね。

 

思い返してみると、何ともたくさんの調理関係者を紹介してくれました。
道場六三郎さんもそうですし、故人となった阿部狐柳先生もそうです。
そうして、彼は、日本料理探求のために、東京の調理師の組織に参画します。
何度か、とりさんの料理が、料理本のカラーページを飾りました。

特に、剥きものの技に秀でていて、大根を使ってバラの花を作ったりするなど、
その包丁さばきは秀逸なものを持っていました。

 

そして、まだ紅谷町に私の店があって事務所があったころのことです。
事務所にやってきて、小さなタッパーウエア―に入った南京豆の煮ものを差し出したのです。
1粒試食しました。
これがなかなかのもの。
褒めると、実はね、これは村井弦斉の食道楽に書いてあった通りに作ってみたんだ、と。
で、これがきっかけとなって、ゲンサイ豆を作り販売することになったり、

また、全般的に弦斎食道楽の再現料理を手掛けたりと、
いわゆる地域食文化の振興にかかわるようになったのです。

 

今、松風町と八重咲町の境を通っている弦斉通りですが、

これは、とりさんの提唱によるものなんですね。
地域のご婦人方を集めて料理教室を開催したり、
地方のタウン誌に連載で、料理に関する記事を書いたり、

食育に関する講演会を開いたりと、
ただの寿司屋ではありませんでした。

 

先月初め、紅谷町に引っ越してきたんですね。
近くだから、近所のカフェで、コーヒーでも飲みながら、じっくりと平塚食文化に関して、
語り合いたいものだ、と楽しみにしていた矢先の訃報です。


色々と多くのことを教えていただきました。

本当に、ありがとうございました。

心からご冥福を祈ります。

| 水嶋かずあき | グルメ | 09:35 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
七夕そうめん

中国から伝来し、日本に古くから伝わってきた生活行事に、
五節句と言うものがあります。
1月7日の人日、3月3日の桃の節句、5月5日の端午の節句、
7月7日の七夕の節供、9月9日の重陽の節句と、5つの節供です。


これはなぜか、明治6年、時の政府が、節供廃止令を出して、
それまで庶民の間で熱心に伝えられてきた伝統の行事に水を差したのです。
しかし、それまで習慣的に行ってきたわけで、
おいそれと、それで終わり、というわけにはいかなかったようです。
何より、お雛様を飾り、鯉のぼりを青空に泳がせてきたわけですから、
今考えると、何が根拠で廃止令を出したのか、その背景がよく分かりません。

 

ま、ともかく、そんなことで、若干これらの行事が、ひずんで伝えられてきた傾向があります。
その一つが、七夕の行事食である、そうめんがないがしろにされてしまいました。
3月は三色の菱餅に、あられ、白酒、5月はちまきに柏餅、とそれぞれの節供に付きものの行事食がありますが、
これで言うと七夕はそうめんなんですね。

歴史を紐解くと、その始まりは中国にあったようです。
よくある表現ですが、昔むかし、ある男の子が病で倒れ、亡くなってしまいます。
そしてそののち、その地方に流行病が広がり、これに困った人々が、
その男の子の好きだった「索餅」を供え、病が鎮まるのを願った、という言い伝えがありました。

 

この索餅は、一種の餅のようなもので、小麦粉と米粉を練り、今のうどんより少し太めのサイズに切ったもののようです。
このような言い伝えから、七夕には、索餅を食べる、と言う風習が日本にも伝わり、
およそ1100年前の927年、宮内の儀式・作法を集大成した延喜式にも記載されていて、
そうめんの原型とされる「索餅」が7月7日の七タの儀式に供えられたのだそうです。
この平安時代に始まったものですが、その後、索餅はそうめんに形を変えてきました。

 

では、なぜそうめんなのか、ということは
そもそもが尾ひれがついて伝えられるもので、諸説が登場します。

まあ根本は食べ物ですから、その時期に食べやすく栄養があるもの、と言うことになります。
旧暦では、7月7日の頃(今より一か月ほど後になる)は、正に猛暑の日々です。
食欲減退の時に、つるっと喉を通るそうめんは、うってつけの食べ物だったんでしょうね。

 

また、そうめんを天の川に見立てているという説があります。
確かに水に浮かんだそうめんは、ちょっとした川の流れのような風情があります。

 

また、そもそも「七夕」とは、日本の文字で表現すると、「棚機」と書きます。
棚はそのまま「たな」、機は機織り(はたおり)のはたです。
ですから本来七夕と言う文字では、しちせきと読むのが正解。
しかし、なぜか古来より日本に伝わる棚機と言う行事と重なり、文字は七夕、読みはたなばたと言うようになりました。
つまり、日本で進化した七夕の行事は、布を織ることの意味を強く持っていたのです。
したがって、布を織るには糸を並べるところから始まるわけで、
そうめんの細い麺から、機織り機に通す糸のイメージを重ねたのかもしれません。

まあ、いずれにしてもいささか忘れがちになっていた伝統食を、
出来れば復活させたい、と言いう思いがあります。

 

七夕は、恋愛成就の祭りでもあり、そもそもが技芸の上達を願う祭りでもあります。

出来れば、そうめんを食べながら、願い事をかなえよう、と言うのもなかなかいいでしょ。

 

この七夕のまちだからこそ、そうめんを食べる習慣を広めたい、と。

今年はまだまだわずかですが、飲食連合会のお店で、七夕は素麺、ということで、
そうめんを提供することにしています。

是非ともご利用ください。

 

| 水嶋かずあき | グルメ | 06:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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